肉体労働をしていた(part1)
再発した30歳の時に、ぼくはプログラマーをしていたが、その前には無農薬野菜の農家の手伝い、さらにその前は肉体労働を半年間やっていた。現在では日雇い派遣の定番のひとつである土木作業員だ。
実は発病前の18、19歳の頃にもやっていたのだが、現場の廃材の後片づけが中心で、建設の現場にかかわることはなかった。当時は高田馬場駅前に朝5時とかに集合して、手配師が示す現場に、その場で「5名まで!」などと言われてトラックに乗り込んだり、地下鉄の運賃をもらって、現場まで行ったりしていた。体力のなかった当時のぼくにはきつく、技術も身に付かないバイトだった。
発病退院後に建設現場での肉体労働のバイトをすることになったきっかけは、家にいても暇だったからだ。求人誌で探して行ってみた。今もやっているかどうかはわからないが、○○組(暴力団ではない、工務店だ!)で働くことになった。
親方がいて、手先の器用な職人と男っぽい作業員が中堅で、あと数人が下っ端だった。下っ端はユンボの運転とかはできず、単純作業をやっている年寄りがひとりと、あとはぼくを含め若者が数人だった。親方が現場に出てくることは少なく、職人が現場をとり仕切っていた。親方は、「おまえらは仕事をこなせばいいだけじゃけん、楽よ。わしは仕事を取って来ないといけんから大変じゃ」と、後になって仕事が減ってきてから愚痴をこぼしていた。
朝は6時起きで、ぼくの家の前まで毎日バンで迎えに来る。いつもの4、5人のメンバーだ。朝飯のパンを途中で買って、現場に着く。冬は一斗缶に木切れなどを放り込んでたき火をして、仕事開始まで雑談をして温まる。冬の外の仕事は、夏より楽だ。夏は日焼けをすると痛いので長袖を着て汗だくになるが、冬は厚着をすれば寒くない。
一番長かった現場はコミュニティセンターの新築工事で、何か月もかかりっきりだった。地盤がゆるい場所なので基礎をしっかり作ることができず、ちょうど海に船を浮かせるように、建物を載せる。
4階建ての壁に建物を貫いて、シースというアルミの管を多数通し、中に1本の直径が5mmくらいのピアノ線を数本結ってあるものを、10本以上シースに通して、両側からピアノ線の束を引っ張ってフタで固定する。100本以上のシースに、それぞれぎっしり入ったピアノ線が、基礎がしっかりしていない建物がばらけるのを防いでいる。おおもとのミシンの糸巻きを巨大にしたような、直径3m以上ある木のロールに巻いてあるピアノ線をよったものが、突然ばらけて暴れ、作業員が指を飛ばしたという。事故を起こしたどこかの下請けが現場から退いたので、うちの組が代わりに入った。
ぼくはアルミ製シースの出口にいて、モーターで押し込まれたピアノ線の頭が勢いよく出たら、即有線でストップをかける仕事だ。頭が飛ぶから、絶対にシースを覗き込むなと注意されていた。でも動かなくてもいいので楽だった。高い壁に長時間張り付くので命綱をかけていた。みんな面倒くさがって命綱をしなかったが、ぼくは怖いので命綱は必ずしていた。でも命綱をしないでホイホイ仕事する人は、見ていてかっこいいと思った。
ピアノ線を通し終わると機械で引っぱり鉄蓋で固定して、余分のピアノ線を切っていく。手持ちのグラインダーで切るのだが、気合いを入れて持っていないと、回転する刃の勢いに負けて指を切る。慎重にやっていたら、「切るのが遅過ぎる」とベテランに注意された。
この現場の監督は、某大手ゼネコン社員の大学出だ。若くて現場のことは何も知らず、ひたすら下請けの現場を仕切っているうちの組の職人に、「納期が迫っています。残業してください。お願いします」と繰り返している。そのうちに「自分も手伝います」と言って、手持ちのグラインダーを持ってきた。
グラインダーは金属を削るものだが、火花や回転部分の刃から手を守るために、ホームセンターなどで売っているものは刃にカバーが付いている。しかし、現場のものはもとよりカバーなどないもので、それを手で持って鉄筋の切断を始めたら、あっという間に手を切って、血だらけになった。それでもひるまず、ひたすらお願いを続けていた。
その現場監督とは一度飲みに行ったが、職人さんからは「裏切り者」といわれた。一生下請けで暮らす人と、現場責任者として地方を回ってから本社へと出世していく人との階級差というものを感じた。
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