弟
ぼくの弟は、「死」を連想させるものが苦手だ。事故のニュース、ICUの入院患者へのお見舞い。以前は車の助手席に乗っていて、「今、誰かを轢かなかったか?」と、何度も戻って確認せずにはいられなかった。
10年くらい前には病気がひどく、石鹸をたっぷりと付けて何十回も手を洗っていた。手が荒れて真っ黒になっており、とても痛そうだった。22歳から5年間くらい外出できず、ひきこもっていたが、「エイズがうつらない」ことが納得できてから、外に出ることができるようになった。主治医が車を運転して、方々連れて行ったことも後押しした。
ぼくは長くインポテンツだった。女性と関係ができそうになっても、立たないことでもう一歩が踏み出せなかった。風俗店にも2〜3回行ったが、立たなくてお話だけして帰ってきていた。二次元の写真やビデオでは自慰行為ができるのに、圧倒的な女性の肉体を前にすると萎えた。母親の虐待の後遺症だとはわかっていた。初めて女性とうまくいったのは、ひたすら受け身になったからで、やっと現実の女性の前で立った。
弟は、性を明け透けに語る女性を前に、「教えてください」とお願いしていたこともあった。弟に彼女が長くできたことがなかったし、やはり母の虐待の後遺症だと思った。弟もぼくの経験を話すと「よく似ている」と言っていた。育ちの良さに原因する「詰めの甘さ」も災いしたと思う。ぼくも若い時、女性に対して本当に詰めが甘く、いつまでもいいお友達だった。9歳下の弟を見ていて、若い時のぼくとよく似ていると思う。そのほかにもお人好しなところとか、マイペースなところとか。
虐待の程度でいえば、長男であるぼくと長女である妹がもろに被って、身体的な暴力を受けていたのに対し、弟は反抗もそれなりにしていたので、母の勢いも削がれ、歳の離れていた弟は身体的な暴力ではなく、主に言葉の暴力にとどまったようだ。長じてぼくは統合失調症へと進み、自我の強かった妹はアダルトチルドレンになり、弟は強迫になった。
入院も何回か繰り返している。ぼくが九大病院を退院すると、入れ替わりに入院してきたりして、病棟でも有名な兄弟だった。その時から弟の主治医は変わっていない。退院してからずっと今も続けて、2か月に一度、福岡に診察に行って、一泊して帰ってくる。主治医もずっとコントミンの処方を変えてない。SSRI(新世代の抗うつ薬)を試したりしないのが、実に頑固だ。弟は「長い時間をかけて治っていくことが、いい感じで治る」と、処方にいたって満足している。
ムゲンが17年前に今の場所に移転してきてからずっと、弟はムゲンで仕事をしている。波津子に仕事で厳しく鍛えられ続けてきたから、職員待遇ではないが、準職員といったところだ。仕事ぶりも、強迫によくある完璧主義だ。
アパートで完璧に用便を住まし、12時過ぎてから出勤してくる。アパートを出る4〜5時間前に起きてトイレに何回もこもる。数えて30塊を出しきると一日調子がよく、用便が完璧でないと一日中調子が悪いそうだ。バザーなどが午前中にある時には、5時とかに起きて用便する。まだ暗く、新聞も来ていないそうだ。「排便を促すために甘いコーヒーや牛乳をよく飲んでいたから、メタボになった」と言っている。週単位では、「週始めの月火は調子悪く、金土になると調子いい」と言う。
ぼくとジョークをかましながら、女性軍としゃべりながら、もくもくと与えられた仕事をこなしていく。しかし重要な判断になると、一人ではまだ自信がなく、ぼくや波津子に聞いてくる。
波津子に鍛えられても、パソコン音痴だけは治らず、電卓でできる範囲での事務をこなしている。ぼくも事務はイヤなので、重要な事務は波津子が一人でこなしている。
ソフトボールやソフトバレーの他流試合は、全部弟の仕事だ。場所押さえからメンバー集めまで、一人で結構楽そうにこなしている。
ぼくはもう引退まで後何年、と思っているから、引退後はムゲンの最重要人物になることは間違いない。
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