ひきこもりセキラララ
『ひきこもりセキラララ』(諸星ノア著、草思社)というひきこもりの自伝本を読んで思うところがあったので、書いてみたいと思う。
まず、正月は何枚年賀状が来るのかが心配だ、という「憂鬱な正月」の章から始まっている。ひきこもっていると、来る年賀状が年々減ってくる。友人から忘れ去られないように、こちらも必死になって書くが、ひきこもっていることを知られたくなくて、近況を詳しく書けないので、書くネタもない。自然に相手も遠ざかるという。
ぼくにも覚えがある。友人から忘れ去られないように、ぼくを覚えてくれていそうな同級生などに、必死で年賀状を書いたものだ。昔は病識もなかったし、入院は共通の話題にもならない。正月に何枚来るかで一喜一憂した覚えがある。
彼の父が世間体を重んじ、「常識」をどんどん押し付けてくる結果、家庭は安心できる場所にならなかった。「ゆっくり食べては社会のペースについてゆけない」「特撮やアニメを大人が見るのは常識がない」、生まれつき尿道が狭いので頻尿なのだが、「しょっちゅうおしっこに行くと人に笑われる」「気持ちをしっかり持たないから乗り物酔いをする」「お金を生まないお前は犬以下だ」。父の言葉の結果、今でも自己肯定感がもてない。家でもくつろげず、外と同じように緊張していたと書いてある。
ぼくも同じで、家庭は緊張している場所だった。母の虐待の結果として発達障害になり、こころの病につながった。こころの病は混乱が一人の脳内で起こっているが、ひきこもりというのは家庭、あるいは自分の部屋という状況依存的に発症しているようにもみえる。
運動不足ではからだの老化が早く進み、体力もなくなるだろう。二階に行くにも息切れがすると書いている。運動のために外をジョギングするにしても、背広じゃない者が昼間からうろうろしていたらどう思われるか。彼は、とりあえず近所の知り合いに会えば挨拶するようにはしたが、田舎は狭いので、会いそうになると回り道をしたりする。
精神障害者でも「昼間からうろうろしていると不審に思われるから、外出しづらい」と言う人もいる。ぼくも若い頃退職して、平日の昼間、トレーナーでジョギングしていて高校生からじろじろ見られたことがある。
彼はお小遣いも親からもらいにくいという。稼ぎはなくても、2万円程度はもらって、自分で好きなように使いたい。これは、親が見捨ててはいないという愛情表示にもなる。自助グループに行くにも金がかかり、集まって話をするだけでは物足りない。自助グループに出かけてもアニメファンは少なく、友達が見つけにくい。
精神障害者には最低限の福祉があって、年金や生活保護、それに作業所での出会いなどがあるけれど、ひきこもりの人にも同じことを考えるべきではないだろうか。
履歴書を書くだけで丸一日かかってしまう。職歴や志望動機に適当な嘘が書けない。転職した会社から前の会社に、彼の仕事ぶりを聞く電話もあったという。
ぼくも、演技や嘘をつくことができるようになったのは歳をとってからだから、難しいことだろうと思う。「適当にやっておけば、何とかなるものだ」と思えるのは、ある程度世間擦れしてこないと難しいだろう。
会社は、ひきこもった者がいきなり挑戦するにはハードルが高過ぎる。学校と仕事、あるいは職場をつなぐ「何か」が必要な気がする。報酬があり、対人関係能力が学べて、学校での価値観から仕事人(社会人)としての価値観に、穏やかに移行できる場が必要に思われる、と書いてある。
これってまさしくムゲンだし、多くの病者の就労支援の作業所がぴったりだ。病者の就労には、半日のみの試用とかあるし、会社に様子を見に来てくれるジョブコーチが付く場合もある。ムゲンは働く場であるが、同時に居場所であり、悩みも吐き出せる場所だ。こういった場所をどんどん利用してもらいたいと思っている。
しかし、ひきこもりの人はプライドが高い。「病者なんかと一緒にされたくない」という声も聞く。しかし「病気なんだ」といったん思ってはどうだろうか? 福祉的就労のために精神科に行き、無理矢理にでも病名を付けてもらってはどうだろうか? 後がないならば、プライドにこだわっているときじゃないだろう。今ある病者支援の場を積極的に利用してみてはどうだろう。
病院を通じて精神科ワーカーとかとのつながりができれば、働けなくても、親亡き後に生活保護をとる相談だってできる。生活保護でどれほど生活が安定するか。親子心中など考える前に、できることはあるだろう。でも、虚勢を張る時期から抜けなければ、難しいかもしれない。KHJひきこもり親の会会長の奥山雅久氏も、「ひきこもりは病気である」と言っている。精神科で何らかの精神病の診断がつけば、障害年金取得の道も開ける。
親亡き後、餓死や自殺やホームレスになる前に、自分が生活していける生活保障を考えないといけない。いっそ「『ひきこもり』という病名をつくってくれ」と政府に要求したらどうだろう。「ひきこもりが5年を超えると、出てくる率がガクンと下がる」と聞くから、例えば5年ひきこもっていたら「ひきこもり障害」と認定して、障害年金が下りるようにすれば、親亡き後も安心かもしれない。
一番欲しいものは恋人だ。しかし童貞であることがコンプレックスになっていて、女性からバカにされたこともある。カップルを見るたび、「セックスしているのだな」と思い、劣等感に押しつぶされる。今までチャンスはあったのだけれど、セックスすると相手に責任をとらないといけないように思い、気が重たくなっていた。風俗店は病気(STD)が怖い。Jポップも恋の唄ばかりだし、TVのドラマも若者の恋が多く、見られなくなった。それが一番の悩みだと書かれている。
ぼくは、フェミニストの田嶋陽子氏が「童貞で悩んでいる人は、知っている10人の女性に、『童貞を捨てるお手伝いをしてください』と頼み込めば、一人くらい相手してくれるものだ」とTVで言っていたのを見たが、たぶんそういう女性は結構いるだろうと思う。
しかし、プライドを捨てて女性の懐に飛び込むことは、とても勇気がいることだと思うし、女性の側もその勇気に免じてお相手をしてくれるものだと思う。ぼくだって若い時にこんな場面では、たぶん無理と思うだろうし、ひきこもりの若者が10人に電話して9人に断られ、傷つく体験に耐えらないだろう。自分を丸ごと女性に投げ出すことは、一番不得意とする分野かもしれないし、これができればすでにひきこもりではないだろう。
それに、ひきこもりの人に一番欠けていて、求めても得られないもの、それは「評価」だ。人からのプラスの評価は、前へ生きていく原動力になる。ひきこもることは、社会的に非難されることはあっても、褒められることがない。では一発逆転、彼女から絶対的評価を得ようとナンパ師になった人がいる。その話は今度書こう。
コメント
はじめまして。ケアマネライダーEBBYと申します。社会福祉士で、ニート・ひきこもり者支援のサポステの相談員を務めております。不登校・ひきこもりの支援に関わって10年余りになります。今年度、精神保健福祉士の通信課程を受講中です。
さて、ひきこもっている人々の支援に関しては、病・障害の側面に焦点を当てるよりも、健康な部分に焦点を当て、それを伸ばしていくことが必要ではないかと思っております。
対人関係に関しては、異性との交際の前に、同性との交友も大切だと思います。私どもは、同性・異性を問わず、自然な付き合いのできる環境、共通の体験を通して気がついたら仲良くなっているプログラムをを提供しております。
労働や社会的活動の準備となる取り組みとしては、調理実習や喫茶トレーニング、そしてスポーツ、音楽活動などにも取り組んでおります。サポステはまだ全国的に70数か所ですが、来年度は100か所くらいになる見込みです。
ひきこもり者を含めたニート、さらには困難を抱えた若者を支援する社会資源が少しでも充実していくといいですね。そうした資源の開発の中で、ひきこもり者の(精神)障害者・病者に対する「差別意識」も少しずつ緩和されていくのではないかと期待している次第です。
力強い現場からの意見ありがとうございます。
松山にもサポステがあります。就労だけでなく、カウンセリングや集団療法などもしているようです。
「障害の部分に焦点を当てるよりも」というのは、ひきこもり歴の浅い人にはいいと思います。しかし今や、高齢化して親亡き後を真剣に考えないといけない場合もあります。そういう時には、所得保障を考えないといけません。そういう意味で、「障害年金をなんとか支給できないものか」と考えるのです。
同性関係は友人作りの基礎ですね。おっしゃる通りだとおもいます。
「差別意識」の緩和には当事者の発言が一番いいのでは?とも思います。
10年やって来てしみじみ思うことなどあれば、聞かせてください。健闘を祈ります。
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