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佐野卓志の「こころの病を生きるぼく」

自立について

 新聞などで、「就労を通じて障害者の自立を」などの文字が躍る。「障害者の自立」には誰も逆らえない至高の響きがある。しかしこれは、「自立」と「経済的自活」を明らかに混同している。別に親の金で暮らしていても「自立」は可能だ。差し迫った要求ではあるけれど、生活費をどこから引っ張ってくるかは、「自立」とは関係ないだろう。犯罪的な金でさえなければいい。若いワーキングプアは、親の仕送りなしには暮らせないという現実もある。

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 「自立」とは、一人で生きていけることであろう。しかし、一人で生きていきつつ、しかも周りの人に「自在に」迷惑をかけることができることだろうと思う。「自在に」迷惑をかけるとは、ネットワークを築いていなければ不可能である。この人にはこのくらいまで迷惑かけることが可能だとわかっていなければならない。もちろん「迷惑」と「ハラスメント」は全然別であることはいうまでもない。
 そういう他人のネットワークを持っていないと、「自立した」地域生活を送ることはできない。病者であれば、作業所や地域支援センターなどの地域資源につながっていくのが早道だろう。夜に調子が悪いとき、迷惑を受け止めてくれる友人や公的な相談先などは必須だろう。公的な夜の相談事業をやっている地域生活支援センターでは、24時間職員が交代で携帯を持っているのだが、職員の寝ている時間帯には、めったに電話相談は来ないようである。やはり当事者も気を使っている。

 誰だって迷惑をかけなければ生きていけないわけだから、そのネットワークを築いていくうえで、病者であろうと、逆に他人の迷惑を積極的に引き受けていかなければ、人間関係はできてはいかないこともわかってくるだろう。そういうお互い様を何度も経験していく過程を経て、人は段々と生活者として成長していくのかもしれない。そんな過程に必要なのは、最初は知らない人の集まる場所に入っていく勇気かもしれない。
 そして「立派である」「しっかり者だ」などと、自分で言うのは恥ずかしいことのように、「自立している」ということも、自分で言うのはちょっとおかしく、他人の評価に寄っている言葉かもしれない。「自立、自立」と本人が言っている間は多分自立していない。自立という言葉を本人が意識しなくなった時に、すでに自立しているのだと思う。

 今の日本社会では、昔は譲り合って使った電話やテレビは個人の物になり、「自己責任」()がスローガンと化して、迷惑をかけたりかけられることを怖れ、過度な競争原理が助け合うことを忘れさせている。
 多数の若者がネットカフェや24時間営業のファストフード店で寝て、孤立して生きている現実がある。せめてふとんで寝かせてあげたいものだが、弱者にとっては、迷惑をかけることのできるネットワークが消えてしまったことが問題で、国家が「国家主義」などで彼ら彼女らをすくいあげ組織化する前に、自立した相互扶助のネットワーク作りができたらと思う。
 加えて、精神障害者は不幸な育ちの人が結構多いように感じる。小さい頃に安心感の中で愛情を十分に受けて育たなかったから、人格の芯の部分が十分に安定していなく、どんどん社会に出ていく力が出てこないで、大人になって逆に親にしがみついたりもする。このような理由で精神的自立ができない場合もあると思う。これは親の未熟とセットになっている場合もある。共依存というやつだ。

 ぼくの「自立」のイメージは、ひっそりとした社会の片隅の居場所に自分を埋め込むこと、極端にいえばひきこもることだと思っている。子どもの時に親元でひきこもっていたのが、大きくなって世間で見つけた居場所にひきこもることが自立の完成形だと思う。
 世間の「自立」のイメージは、「広い社会に羽ばたく」というようなイメージだが、そんなものぼくが考える「自立」にとって、「まあそう思う時期だってあるかもしれない」くらいのものだ。「生活保護をもらいながら作業所に通い、それで一生を終わっても別にかまわない」と本人が思えれば、それで十分「自立」している。偉そうなこと言っていても、身体障害者でもないのに、ズボンや靴下も奥さんに手伝ってもらわないと自分ではけないオヤジは自立していないと思うが。

 社会の期待する「シャバでバリバリやる」というイメージから自由になった時に、「自分はまだまだ再チャレンジできる」などという甘い期待を諦めた時に、自分の限界を認めた時に、本当に「自立」できるのだと思う。世間でいわれる「自立」を諦めて、小さく生きる。日々こつこつと生きられれば、小さなことに喜びを見いだすことのできる、凡人としての幸せが待っている。

 日本では小泉首相がやった新自由主義改革を、英国では80年代にサッチャー首相がやって、すべてを個人責任にして、自分さえ良ければいいという個人主義が社会に広がった結果、社会全体からこころの問題が忘れられ、過剰な消費主義にとりつかれてしまったそうである。


コメント


 社会福祉士の受験資格を得るために行った京都のある通信制大学のスクーリングの授業で、講師が社会学者の山田昌弘の著作について感想として言っていたことを思い出します。
 「僕は、山田君から本を贈呈されたりするけど、山田君と考え方が違うんだ。僕は、もう少し家族に依存した生き方があると思うんだ」と。
 社会福祉士試験に合格してから、放課後児童クラブで働いているのですが、子育てをしている夫婦でも、自分たちの両親に頼れる人と頼れない人では、児童のお迎えの時間がだいぶ違ってきます。講師の言葉を仕事で実感しています。


投稿者: 祖父江元宏 | 2008年10月02日 22:19

 『希望格差社会』を書いた山田昌弘氏ですね。どうもぼくは売れた本には目がいかなくて、氏の本は読んでいません。
 金銭的や心情的や体力的に「家族に依存」できる人はどんどん依存したらいいです。3世代同居もいいと思います。でも僕には「虐待」という過去があるし、みんなそれぞれだから、ヘルパーや施設がうまくいくという人も多いです。
 自立ということでいえば、一旦家族の元を離れないと難しいという印象ですかね。
 社会福祉士ならば、小澤勲著『ケアってなんだろう』という本が面白かったです。基本認知症の話ですが,「技術としてのやさしさ」ということを言っています。興味があればどうぞ。


投稿者: 佐野 | 2008年10月03日 19:27

※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。

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プロフィール
佐野 卓志
(さの たかし)
1954年生まれ。20歳(北里大学2回生)のとき、統合失調症を発症、中退。入院中、福岡工業大学入学・卒業。89年、小規模作業所ムゲンを設立。2004年、PSWとなる。現在、NPO法人ぴあ、ルーテル作業センタームゲン理事長。著書に『こころの病を生きる―統合失調症患者と精神科医師の往復書簡』(共著、中央法規)『統合失調症とわたしとクスリ』(共著、ぶどう社)。
ムゲン http://www7.ocn.ne.jp/~lutheran/
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