神様について
キリストが宗教的活動を行ったのは、処刑直前の数年間だといわれている。それまでは石工をしていた。最後の数年間に統合失調症の急性期を迎えたとすれば、合点がいく。天理教の中山みきも、神懸かりの激しい時期と、自分の言葉で伝える時期があったらしいが、急性期と寛解期かもしれない。そして神懸かりの前に、神の理想と主婦としての二重の結婚生活の中で、激しい葛藤の時期があったらしく、発病を準備したのかもしれない。その時期には、彼女の家族みんなにからだの激痛があり、これは前触れとしての心身症のような状態だったのかもしれない。
キリストの荒れ野の試練のくだりなんか、ぼくの急性期に見た妄想とよく似ている。ぼくの場合は悪魔が勝利するのだが。
中山みきもキリストも、自我のとても強い人ではなかったのか。そして、病前人格も素晴らしいものであったに違いない。自我の弱い大部分の人が発病すると、病気に飲み込まれ、病気に翻弄されてしまう。キリストが布教したのは十字架にかけられる34歳前であるし、中山みきが神懸かりになったのは41歳。どちらも自我が十分に確立されていた年齢だ。自我が強い人が発病すると、格調の高い、宗教的な妄想になるといわれている。そして、キリストも中山みきも自我をなくし(あるいは、自我が限りなく膨張し)、苦しむ弱い人たちのために命がけで奉仕した。
統合失調症の人は、接するものの心のバリアを取り除く、他人と比較することの無意味さに気づかせてくれる、あるいは、あるがままに接することに気づかせてくれるなどの特徴によってPTSDの患者さんを癒すことが、臨床的にいわれている。苦しみながら死に逝く者を安らかに癒してくれる教祖を連想させる。
あちらの世界に行き来する人たちには、ほかにも日本には沖縄のユタ、東北のイタコ、北海道のアイヌのフチなどがいる。いずれも、相手の出している目に見えない信号のうち、特に強いものを読み取って相手に返すらしい。もちろん、霊能力者であることのデメリットもある。慢性的片頭痛、人間不信、不安神経症、金縛りなどなど。
しかし、カウンセリングをする者は、受ける者より大きな自我をもっている必要があるというけれど、キリストも中山みきも、現代であってもとても診ることのできる精神科の医者などいないであろうほどの大きな自我をもっていたから、激しい弾圧にも抗することができたのだろうと思う。人類を救う病者がいることを、同じ病者として誇りに思う。
神というものは「いる」という人格的なものではなく、「在る」という全知全能の存在かもしれない。その一端すら、人にはうかがい知れないものだと思う。例えば、ビッグバンの無限大の密度の宇宙の始まりを創っておいて(聖書の創世記)、人間などは偶然にもてあそばれるように放ったらかされている、そんな気がする。
神様は無慈悲だ。これでもかと人に不幸を与える。川に放置され腐った嬰児の死体が発見されたと、ニュースでやっていた。この赤ん坊に救いはあったのだろうか? 「神はその人が耐えられるだけの試練を与える」という言葉は嘘だ。試練に耐えられずに死んでしまった無数の者には、救いはあるのだろうか? 天国があるなんて信じられない。死ねば、生まれる前と同じ恐ろしい「無」があるだけだ。恐ろしいことだ。「人間は生まれつき罪深い」のか? 生まれたばかりの赤ちゃんに罪があるとは思えない。
キリストは救い主だが、キリストの愛は、放置された嬰児を、実父に犯された娘を、兵士にレイプされた女性たちを、なぜ守らなかったのだろうか? 神の沈黙は古くからいわれていて、今も新しい。
悪魔というものがいる。本当に悪いのは悪魔であって、人は魂を売った被害者だ。ここには、人間は悪くないという救いがある。
神は「汝の敵を許す」ようにいわれると思われている。しかし親の虐待や理不尽な殺人に対する偽りの許しを被害者に強制するならば、間違っている。長い長い怒りの時期を過ごし、何度もこころの中で殺し尽くした後、最後に許すかもしれないが、被害者が怒りを封じ込めたままで許そうとしても、精神的な病気などになるだけだ。
イエスは民衆によって十字架にかけられた時に「私はあなたたちを許します」とは言っていない。「父よ。彼らをお許しください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです」と祈った。許すのは基本的に被害者の役目ではない。
キリスト教は、神の前では人は平等だから、ヨーロッパやアメリカで人権意識が育った。日本では、キリスト教者は100人に1人といわれているから、輸入された人権意識というものは芯からは根づかないといわれている。しかし日本には、親鸞の説いた「悪人なおもて往生を遂ぐ」という平等の考え方もある。また、自然から生まれ自然に還るという考え方もある。人権は自然権だととらえれば、人権もまた日本の伝統的な考えに根を張ることができる。
日本人は、もともと自然とともに八百万の神とともに貧しく生きてきたのに、豊かになり過ぎて「人間だって動物の一種に過ぎない」ことを忘れてはいないだろうか? 「人間らしく」という圧力が、ひきこもりやリストカットしたりするメンヘル系の若者へ重くのしかかっているような気がする。最近は貧しさに逆戻りして、明日の米に困る若者も増えているようだが。
屋久島に行った時に最後に訪れた、太い祠のような「千年杉」の下で、ぼくは心地よくてずっと動けなかった。何か神々しい、自然を超えたものを感じていた。誰でもじっと夕日に見入ったり、自然を超えたものの存在に触れる瞬間を経験したことがあったのではないだろうか。神がその存在を示したのかもしれない。
小さな女の子が飼っていた、瀕死のネコのミーコを前にして、「どうぞミーコの命を助けてください!」と一心に祈る願いが「神」へと届いていることは確実だ。
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