自殺について(part1)
ぼくは高校生の時、下から数えたほうがよいような成績の順位だったのをずっとコンプレックスに思っていたので、高2のとき一念発起して、起きている間は学校の行き帰りでも参考書を読むほどお勉強に熱中した。その結果成績は上がったが、1年が過ぎた頃お勉強のし過ぎで燃え尽き、自殺を考えたことがある。病院の屋上に立った。友人にも来てもらった。いろいろな話をした後、友人は「もう止めない、飛んでみろ」と突き放すように言った。その時に「どうせつまらない人生だと思うが生きてみる」と、逆に生きのびることを選択した。
お勉強をし過ぎて、知識が増えれば増えるほど逆に自分の無知を思い知らされることになって、「知らないことだらけだ。自分は何も知らない」という絶望が自殺を考えた動機だった。逆に「知らないことだらけだということを知っている」ということが、ぎりぎりの所で踏みとどまらせたのだ。
今の子どもは小学校で「なぜお勉強をしなくてはいけないのか?」と先生に質問するそうである。お勉強というものは、やってみないと「自分は無知である」ということがわからない。幼い頃から欲望を満たす消費者として「損か得か」という価値観に見舞われ、現代の子どもたちは「商品の価値を知っている」という自立した全能感を持っているそうだ。そのため子どもたちは、教育の場でも「損か得か」という価値観で授業を判断し、「勉強もやってみなければ、知らないということがわからない」ということがわからない。
昔は、欲しいけれど手に入らないという葛藤を子ども時代から感じることができたのに、あらゆるモノの商品化によって即座に欲望が満たされ、葛藤することが少なくなった。いまどき、お小遣い欲しさに家の手伝いをする子どもなどいるのだろうか? 遠い価値あるもののためにがんばることはかっこ悪いことになった。
日本は年間3万人以上が自殺する世界に冠たる自殺大国だ。もう10年前からだから、30万人都市が一つ消えたことになる。バブルの頃、金を福祉に回そうかという話もあったが、福祉国家になると自殺者が急増する、というデマが流布されて立ち消えになったということもあった。
日本の若者にある自殺気分を「若者の早じまい感」と表現した人もいる。たぶん虐待とかいじめとか、わかりやすい理由での早じまい派は少数派で、とくに理由のない全体的雰囲気のようだ。
そういう早じまい派が挫折時に、「人生をリセットしてしまおう」という考えをもっても不思議ではない。虚無的に「どうせ」って思ってしまう。でも「どうせ」にはかすかな甘さがある。それが完全な絶望とは違うところだ。ただ、世間知らずで生きづらいことから脱出する選択肢が少なすぎて、そのトップに自殺が来てしまっている。「生きるのが嫌」と感じることと、肉体的に「死にたい」とは、まったく別だろうと思う。「死にたい」には良くも悪くも積極性がある。冷たくなって腐っていくことを積極的に望むのは、生き物の欲望とは異なっている。人はネコのようにあるがままには生きられず、「自分が死ぬということ」を考えてしまう。
主人公が「死にたい」という口癖をもつ「絶望先生」というアニメがある。絶望先生は自殺を実行して、「あー苦しかった、死ぬところだった。死んだらどうする!」と逆切れする。先生は、首をつって苦しくてグッと息がつまって、「虚無の本当の死」という場面に直面して我に帰る。ネット心中というのもあるが、一人じゃ怖いけれど、仲間がいれば実行できそうな気がするというものだ。しかし集まって実行しようという段になっても、死ぬ瞬間はたった一人だということは知っていて欲しい。誰でも死んで無になっていく孤独は怖いものだ。
ぼくは子どもの頃海で溺れかけたことがあり、死ぬ寸前の思いをしたことがあるが、今の若い人は自殺を実行するまで、死をリアルに体験したことがないのかもしれない。彼ら彼女らは事故死、病死できればどんなにいいだろうと夢想する。
ネットで自殺、自傷サイトの常連になると、周りが「そろそろ死ぬかもしれない」と、自殺を後押しするような空気になるのも恐ろしいと思う。
自殺に直面した人に、「君はまだ、人生はやってみないとわからない、ということをわかっていない。今は少しでも長く生きてきた人の言うことにちょっと耳を傾けてはみては?」と問うてみてはどうだろうか。人生のどの局面でも「何も知らない」ことは、謙虚に「生きていく」姿勢をもたらせるだろうと思う。しかし「知らないことを知る」ことが、自傷やオーバードーズの自殺気分がその人の存在証明にまでなってしまっているという「たこつぼ」状態の人を、果たして説得できるかどうか疑問だ。
リストカットや摂食障害などの人は、「自分のようなことをするのは異常だ。ほかに自分のような人などいない」と思い、自殺を考え孤独に暮らしている人も多い。孤独なはずなのに、寂しさを感じていない人も多い。
それと自殺したいと考える人はもちろん真面目だけれど、死にたくなったからといってその思いに、真面目に答える必要はないということだ。勇気出して無理して死ぬことなどない、自殺など放っておけばいい。こういう一見不真面目な対応は、実は人生のここかしこでしなければならない生活の知恵だ。
少し古いけれど、ムーディ勝山という芸人が「右から〜右から〜何かがやってくる〜。それを〜ぼくは〜左へ受け流す〜♪」という歌を流行らせたが、真面目な人こそ、その可笑しさに笑えるだろう。真面目な人ほど「どんなことからも逃げてはいけない」と思いがちだろう。迫り来る現実から逃げて左に受け流すことは重要な一つの生き方だ。この自分の気持ちに振り回されないで逃げるという対応は、「気持ちの相対化」かもしれない。しかし自分が自殺に取り付かれた時には、真面目な人ほど相対化などなかなか思い浮かばないし、そんな余裕などないだろう。
「死にたい」という決意を人にしゃべると、思いとどまる可能性も高い。一人じゃないと気づくのかもしれない。しかし拒絶されたり、お説教されたり、全否定されたりすることを思うと、なかなか言えない一言だろう。
運良く「自殺を左へと受け流す」ことができれば、たぶんその後「寂しさ」が残るだろう。でもこの寂しさはみんな感じる健康な感情で、味わう必要がある。醒めていく現実感だ。死を目前にした「虚無の寂しさ」とは違う。
若い人のことを多く書いてきたけれど、自殺で圧倒的に多いのは、ばりばり仕事している中高年のほうだ。過労死に代表されるように仕事のし過ぎで、うつ病にかかり自殺衝動にかられてしまう。「自殺した人の80%くらいはうつ病だっただろう」と言う専門家もいる。「死にたい」と一言も漏らさず決行した夫の、妻や子どもの悲しみとこころの傷は半端ではない。
死ぬまで働かせる労働現場は過酷だ。日本でも「名ばかり管理職」の過労死が問題になり、非正規労働者を中心とした新しい労働組合の活動が活発で、国の非正規労働規制への足がかりへとなっている。韓国では日本の非正規雇用率30%を越えて、世界一の50%で、この10年で自殺者数が2倍以上となったそうだ。非正規労働者の抗議の焼身自殺事件も起こっている。小泉首相がアメリカの圧力で日本に導入したグローバリズムの嵐は、今後さらに過酷になることが予想される。
ぼくは親子心中も考えたことがある。息子が産まれてすぐに、援助金ももらえないムゲンの経営と、車いすの娘と、赤ん坊の世話で、波津子が産後うつになって寝込んでしまった。ぼく一人の肩にかかりどうしようもなく、親子心中を考えた。しかし波津子のお姉さんが駆けつけてくれ、1か月近く、波津子が起きられるようになるまで、さまざまな世話をしてくれた。それで危機は去った。本当に取り返しのつかないことをするところだった。息子も娘も波津子もぼくとは全然別人格で、別の人生を歩む権利があることが追いつめられていた当時はわからなかった。
しかしぼく一人で自殺しても、波津子には悲しみとトラウマ、子どもには自殺遺児としての苦しみを一生背負わせるところだった。本当に決断しなかったことで今の平穏な家庭生活がある。人生どこでどう転ぶかわからない。
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