ページの先頭です。

ホーム >> 福祉専門職サポーターズ >> プロフェッショナルブログ
佐野卓志の「こころの病を生きるぼく」

虐待の果実

 虐待されて育つと、普通は受け入れられない人間までも無防備に受け入れる包容力をもつ。ぼくは獄中者と文通していたこともあり、脅されたこともある。そういう「ともに生きる」実践という意味では、「虐待されてよかった」のかもしれない。しかし「よかった」と言い切ってしまうと、まだこころの傷の存在に気づく。実際、被虐待児が大きくなると、精神病、性倒錯、犯罪者などになる可能性も高く、極めて個性的だ。でも「よかった」と言うことで、今までの肩の荷が降ろせるような気がする。

続きを読む

 「統合失調症になってよかった」と言うと、発病から晩年寛解までに起きた、本当にさまざまなことが肯定できる。「虐待されてよかった」と言うと、さらに広く、自分が生まれてから今までの自分の人生すべてを肯定できるような気がする。
 すると、全身に自信がみなぎってくる。ぼくはずいぶん長い間、自信とは無縁だった。母の顔色ばかりうかがって育ったせいだ。コンプレックスの固まりだった。母から離れた大人になってから、コンプレックスをバネに好きなことを夢中でやった。小さい時には我慢の連続だった。結果、感動すら感じられないぼーっとした子どもになってしまった。
 しかし、何かを得るためには何かを対価として支払わなければならない、という等価交換の原理を噛みしめている。うらやましく思っているものを手に入れることはできる。しかしそれと同等の、今現在自然にもっている美点を対価として支払わないといけない。醒めて冷たく人間が理解できるようになったら、誰にでも優しくできるという美点を失う。

 虐待でいえば、グリーフ(悲しみ)ワークをはじめ、我慢せず虐待相手に対する正当な怒りの表出が必要だ。虐待的人間関係の中でコントロールできない怒りの表出などのトンネルから抜けた後に、自分自身で意識して理解し、味わうことが必要だった。虐待を受けた人の多くはうつ病になり、トラウマのうずきから自殺してしまうことも多い。社会的労働をしていなくても、世の中の生存競争より、もっと深いところで自己と闘っている、ただ生き延びるだけの命の労働をしている人もいる。
 ぼくの人生で何度も立ち現れてくる、権力的な人間に対する抹殺したいほどの怒りは、虐待の後遺症が続いているからに違いない。母は、子どものぼくをどうにでもできる絶対権力そのものだった。それも愛と思いやりにくるまれた、真綿で首を絞めるような虐待が大部分だった。

 底辺の苦しみを味合い醒めきってしまうと、人間の生死に意味はないという悟りに至る。生死に意味がないことに気づいてしまうという対価を支払って、ぼくは通常の成長のように人生の階段を上に登るのではなく、より低いところから世間を見渡すという位置に立った。その結果、冷静に本質を見ることができるようになったと思う。損することが普通だと思っていれば、得した時に幸せを感じる。そのためには何の事件も起こらず、面白いことも滅多にない日常が何より大切だ。トラウマをもった人にこそ、平凡な日常が必要である。
 しかし「意味」がなくては人は生きられないので、残された人生を、ぼくは必要とする人のために生きようと思った。生きる意味の再構築とは、ぼくにとって、右から手を引っ張る人がいれば右に行って何かをし、左にやはり手を引く人がいれば左に行くという行動をすることだ。そこには現実的に努力して何かを成し遂げるなどという、能動的な「自分がどう生きるべきか」を問う姿勢はまったくない。「生きることが私たちから何を期待しているか」(ヴィクトール・E・フランクルの言葉)を受動的に生きることだ。そこまでくれば、人生には生きる意味が自然に湧き始め、死ぬまで枯れることはない。ただ欲望のおもむくままに生きることができる。結果、こうなる以外、ぼくの愛すべき人生はなかった。


コメント


 佐野さん、久しぶりに読ませていただきました。素晴らしい人生訓をいただいた感がします。
 虐待やいじめや極限の貧しさを経験した場合であっても、自然に克服できるという深い意味が伝わりました。
 一般のサラリーマンにしても、迷いの中で生きているだけ、その場をしのいでいるだけが多いのではないでしょうか。
 心に暗闇を抱えて、表面に出すことはなくとも、生涯、その苦悩にさいなまれ、自己矛盾に弁解と愚痴で一時解消して、ただ生きる。
 でも、そこには常に自己との抵抗を抱いて生きているんだと思いますが、佐野さんは、その抵抗が無くなった人だと思えてなりません。
 底辺から眺めるとおっしゃっていますが、そうでしょうか?
こうなる以外、ぼくの愛すべき人生はなかった、とおっしゃっていますが、そうですか?
 私には、卓越した感性と知性と深い自己洞察力に恵まれた人であり、自分にとことん厳しく追求した結果、全てを乗り越えられ達観された方に思えます。いつも変わらない柔らかい安定した魅力こそ、日本人の文化や気質を備えた誉れある人「個性豊かな佐野さん」の誕生ではないでしょうか。
 眩しくて羨ましいです。


投稿者: カンカン | 2008年07月16日 03:09

 そう褒めなくても。でも、言いたいことが伝わったようでうれしいです。底辺であっても、どこにあっても、醒めた目で現実を観察するということです。
 昔若い頃、物事の本質を見たいと思っていました。結局この歳で「醒めた目」を持つようになった訳です。ぼくの人生で一番重いものは、母の存在です。マザコンというのでしょう。マザコンで虐待を受けたということから逃げなかったから、親子関係は崩壊しても、大切なものはしっかりとつかんだように思います。


投稿者: 佐野 | 2008年07月16日 18:41

※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。

コメントを投稿する




ページトップへ
プロフィール
佐野 卓志
(さの たかし)
1954年生まれ。20歳(北里大学2回生)のとき、統合失調症を発症、中退。入院中、福岡工業大学入学・卒業。89年、小規模作業所ムゲンを設立。2004年、PSWとなる。現在、NPO法人ぴあ、ルーテル作業センタームゲン理事長。著書に『こころの病を生きる―統合失調症患者と精神科医師の往復書簡』(共著、中央法規)『統合失調症とわたしとクスリ』(共著、ぶどう社)。
ムゲン http://www7.ocn.ne.jp/~lutheran/
sanobook.jpg
メニュー
バックナンバー
その他のブログ

文字の拡大
災害情報
おすすめコンテンツ
福祉資格受験サポーターズ 3福祉士・ケアマネジャー 受験対策講座・今日の一問一答 実施中
福祉専門職サポーターズ 和田行男の「婆さんとともに」
家庭介護サポーターズ 野田明宏の「俺流オトコの介護」
アクティブシニアサポーターズ 立川談慶の「談論慶発」
アクティブシニアサポーターズ 金哲彦の「50代からのジョギング入門」
誰でもできるらくらく相続シミュレーション
e-books