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佐野卓志の「こころの病を生きるぼく」

ぼくのPTSD

 ぼくは幼少時、親の言うことをまったく聞かない子どもだった。母はよく怒って、ぼくと妹を長時間家から閉め出したり、押し入れに閉じ込めてつっかえ棒をしたり、柱に紐で縛り付けて物差しで叩いたりした。妹とアクション映画のシーンのごとく、柱に背中合わせに縛られて叩かれた。ぼくと妹は泣きわめくしかなかった。
 ぼくたちが悪いことをすると「しつけ」が始まり、頻繁にお灸をすえられた。治療ならば爪のあかほどのお灸の量だと思うけれど、最大1立方センチメートルくらいのもので、恐怖だった。皮膚が黒く焦げた。「しつけ」の時には、家にはぼくと妹、そして母だけしかいなかった。母が突然怒ることが怖かったので、ぼくは母親の顔色をよくうかがって怯えていた。

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 母は父に対してもささいなことで責めたが、父はよく我慢していたものだ。ぼくは母の剣幕を見て「お父さんを怒らないで」と言ったこともある。父が反撃したのを見たことがない。
 母は自分の怒り方が足りないと思うと、「お父さんに叱ってもらいます」とぼくに言ったが、父はやさしく、怒っても拍子抜けしたものだ。あまりに怒った時には、母は精神のバランスを崩し、布団を敷いて寝込んでいた。ぼくのせいだと思い、母の寝ている部屋がとても怖かった。
 そのころのぼくは、ぼーっとしていて落ち着きのない子どもだった。今思えば、感情のスイッチを切っていたのだろう。ぼくは親に虐待され続けて、自分は悪い子だと思い込んだので、徹底的に良い子になろうとした。

 小学生の時、ぼくは優等生で幸福だった。しかし、優等生であり続けるために、いい格好をしようと、よく友人や先生に嘘をついた。誰にも本音が話せなかった。母もそんな優等生ぶりをもっと上げようと、自分が作ったり書いたりしたものをぼくのものとして提出させた。この、嘘をついてでも人からよく見られようとする母の教育は、大きくなってもぼくの性格に染み付いていた。母は世間体をものすごく気にしていて、「人さまに笑われる」というのが口癖だった。
 中学生になると、性の奔出が始まった。ヌード写真を集めたり、エッチな絵を描いたりしていた。母はそれらを見つけると、こっぴどく叱った。
 ヌード写真を集めたりするのは高校まで続いたが、ぼくも次第に反抗して、見つかるように置いておくことを繰り返していたら、やがて母も諦めて捨てなくなった。女の子から来たちょっとしたお礼の手紙を、「大学受験前の今は、こんなことしている時じゃないでしょ」と言って目の前で破り捨てた時には、ぼくは泣いて抗議した。
 母はぼくを恋人だと思っていたようだ。ぼくも、若くてきれいな母が大好きなマザコンだった。記憶はないのだが、母の白い太もものイメージが強く焼き付いている。小学校の優等生ぶりとは打って変わって、県内一といわれる受験校の中学に入学してから高校2年までは、成績は学年で250人中、下から数えて10~30番くらいを行ったり来たりしていた。

 家はくつろげる場所ではなかった。いつも母親の存在を意識して顔色をうかがっていた。それが原因で、大きくなっても人の顔色を見る癖がついてしまった。しかしそのわりには、場の空気が読めない青年だった。学校と家の行き帰りしか知らなかったぼくが、高校2年生の頃から友人の家に行ったり、バイトしたりしてみると、他人は皆優しく、「世の中って何て甘いんだ!」とびっくりしたものだ。

 大学受験に失敗して浪人するため、東京で一人暮らしすることになった。母は賄い付きの下宿を選んでくれた。いざ一人暮らしを始めると、他人と何をしゃべったらよいのかわからなかった。友達ができず、孤独だった。誰かと知り合いになると、何もしゃべらず、ずっと彼の部屋でいつまでもじっとしていた。それで「お前はホモか!」と言われ、泣いて帰ったこともある。普通の人には「孤独を感じず一人でいることができる」能力が育つそうだが、ぼくはいつも寂しかった。だから、いろいろな人にべたべたと寄って行って、相手をしてくれるわずかな友達にしがみついた。
 でも、ホームシックにはならなかった。実家には何の未練も感じなかった。ホームシックは健全な人がなるような気がする。ぼくは、知らない人と浅く交流することを繰り返した。そして自分の安心できる居場所がまったくできず、捨て鉢な気持ちが強かった。虐待のために精神年齢が低いままだったぼくには、一人暮らしはまるでネグレクトにあっているようだった。寂しさに耐えることはプライドを育てたが、それだけだった。
 その頃ぼくは、十二指腸潰瘍で倒れて、父が東京の下宿に来て泊まった。その時に父は女性の話を聞きたがったが、ぼくには話す体験などなかったので、話をそらした。しかし、その時の父の、真面目で柔らかい青年のような表情を忘れられない。

 ぼくはやがて現実との接点をなくしていき、離人症のような体験をする。ぼくと周りは透明な膜で仕切られていたり、ぼく一人が落とし穴に落ちて、その上をみんなが通っていく、という体験である。この、人に対する信頼感のなさと自分に対する自信のなさから「人が怖い」と思うようになり、消えてしまいたい、人の視線にさらされたくないという気持ちになった。当時の写真が1枚だけ残っているが、まるで幽霊のような顔で写っている。よく一人で喫茶店に行ったが、一番隅の誰からも見られないところにしか座れなかった。次第に被害妄想的あるいは加害妄想的になっていって、大学2年目の時に統合失調症の激しい急性期を迎える。
 ずっとぼくは、「女性から愛される価値がない」と思っていたし、小学校以来女性にもてた記憶もなかったし、追いかけて付き合ってもらっても、女性に自分の性的欲望を言えなかった。男にならねば、と焦っていた。これは25歳の時、受け身で童貞を捨てるまで続いた。
 統合失調症の人は無防備だ。イヤと言えないのだ。虐待の後遺症で、自己を守る方法を学べなかった結果かもしれない。
 これらが、ぼくが統合失調症の発症原因の一つに虐待を加えたい理由である。もちろん統合失調症は症候群であるから、幸せに育った人が統合失調症になる場合だってあるだろう。
 そのあとも、何度もトラウマを受けるたびに単純性PTSD()の症状が出た。ネットの電気ショック論争で深く傷ついたり、電話で「バカアホ分裂病!」と差別を受け、1年以上電話に出られなかったこともある。
 以前のブログで、ぼくはワーカーの集まりから引きこもりを続けていると書いたことがあったが、これは、ワーカーの集まりの場で、あるワーカーから強く糾弾を受けたことが直接の原因だ。「お前は気に入らないことがあると、ネットのいろいろなところに私の悪口を書きまくるのか!」と言われ、深い孤独に落ち込みながら黙って聞いていた。それ以来、ワーカーの集まりに出られないというPTSDの回避性症状が出ていて、今も続いている。
 そのワーカーは、ぼく(病者)が自分よりも発達段階が遅れていると考えているようだった。そのとおりかもしれない。でも根深い優越感は、多くのワーカーの中に共通にあるに違いない。病者に普段接していると、ワーカーは自分が努力して獲得したものを、つい病者に自慢したくなることもある。発達段階なんて人それぞれだし、それが個性だ。最近は自分の引き際を考えているので、ぼくがこれ以上成長することもないだろう。

 生きていれば誰だって、こころの傷をいくつも受けるだろう。特に数多くの病者は、複雑性PTSD()が原因でこころの保護膜が薄く守りが弱く、感情的になりやすい場合も多い。もちろんこれは、裏返せば優しいということなのだが、こころの傷がトラウマになりやすい。
 犯罪被害者や犯罪加害者とも似ていると思うのだけれど、病者はトラウマを与えた本人や世間全体に対して復讐心に燃えて、怒りまくる長い時期がある。犯罪被害者が加害者に怒って極刑を望むように。
 しかしぼくは、母や世間に随分反抗し、母にタバコの火を押し付けるなどをしたり、何度殺意をもったかわからないけれど、紙一重の偶然で殺人はしなかった。奥さんなどから愛される体験に、ずいぶんと癒された。殺人を犯すことなく、何十年も監獄に入ることもなく過ごせている。母のことも今では許せて、普通の他人のおばあちゃんとして付き合えているというか、無視している。本当にラッキーだった。

:1回の強いトラウマによってPTSDになったものを単純性PTSDといい、主に大人に起こる。慢性的にトラウマを受けPTSDになったものを複雑性PTSDといい、主に子どもの時の虐待などが当てはまる。DSM-Ⅳでも複雑性PTSDは取り上げられておらず、まだ精神科医の間でも評価は定まっていない。


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プロフィール
佐野 卓志
(さの たかし)
1954年生まれ。20歳(北里大学2回生)のとき、統合失調症を発症、中退。入院中、福岡工業大学入学・卒業。89年、小規模作業所ムゲンを設立。2004年、PSWとなる。現在、NPO法人ぴあ、ルーテル作業センタームゲン理事長。著書に『こころの病を生きる―統合失調症患者と精神科医師の往復書簡』(共著、中央法規)『統合失調症とわたしとクスリ』(共著、ぶどう社)。
ムゲン http://www7.ocn.ne.jp/~lutheran/
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