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佐野卓志の「こころの病を生きるぼく」

ぼくの「立ち位置」

 PSW協会に入って初めて接した言葉に、「立ち位置」というものがある。発言するにあたって「母の立場」「子の立場」「ワーカーの立場」「女の立場」「職員の立場」とか、ワーカーはいろいろな立場を自由に使い分けているのだ。
 驚きだった。ぼくは24時間病者でしかないのだから。逃れようとしても逃れられない「立ち位置」である。ぼくは父親であり、PTAにも入っていたこともあるけれど、父親という「立ち位置」を意識して発言したことはなかったかもしれない。

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 恐らく、「立ち位置」を職業にしている人は役者だろう。作品によってさまざまな「立ち位置」に立つことが要求される。一つの作品中でもいろいろな「立ち位置」を要求される。しかもどの「立ち位置」も本物ではない。自分の想像力で作った、偽の「立ち位置」である。本当の自分はどこにもないかのようだ。
 「女優の言葉は信じられない。嘘を巧みにつけるからだ」という言葉を聞いたことがある。「立ち位置」をちょっとずらすだけで、反対のことが自由に言える。誰にも悟られずに巧みに嘘をつくというのは、考えれば不幸なことだ。人は、しゃべった言葉によって人から理解される。演技がうまくなればなるほど、誰にも心の底を理解されないから、孤独だ。

 ぼくはワーカーに、「差別問題」について提起したことがある。ワーカーたちの多くは、ぼくの怒りにまったく理解を示そうとしなかった。何の議論にもならずに、反対にぼくが、「どういう立場で発言しているのか?」「立ち位置をはっきりさせるほどに成長する必要がある」とまで攻撃された。ぼくは深く孤独を噛みしめた。
 「立ち位置」を自由に変えられることができれば、攻撃から逃げるために別の「立ち位置」に立てばいい。だから、ダメージを受けて深く傷つく必要はない。「○○の立場としてこう思います」という発言は、本音を隠し自分を守るために用いられることも多いと思う。ここにもワーカーが差別問題に無関心な原因があった。
 いろいろな肩書きをもって「立ち位置」を自由に変えると、社会システムの中をうまく立ち回れることにも気づいた。ぼくはバイトで、あるいはボランティアでずっと在野にいたし、組織というものに属してこなかった。だから「立ち位置」は考えたことがなかった。今も社会システムの隅っこにいながら、積極的にシステムの一員として生きていきたいとは全然思っていない。少数者として、多数派にまつわることなく存在したい。
 社会システムにからめとられると窮屈だ。システムの内部に「自由」はないと思っている。ムゲンであっても、国家の法律システムから「自由」でないのはもちろんだが。
 ワーカーモードにある時には「病者のために何かをする」ということが至高の価値となり、ワーカーたちは、病者のために何もしないぼくを責める。ぼくもワーカーの試験に合格した頃は、「ワーカーとしての立ち位置」を獲得しないといけないのでは? と悩んだこともある。でもすぐに諦めた。ぼくは病者のためになど何もしない。病者とともに何かをするだけだ。
 「病者のために何かをする」という目線は、常に病者より上にある。これだけで差別的ではないだろうか。しかもワーカーたちは、「病者のために何かをすることはいいことだ」と単純に考えているようなのだ。びっくりした。

 「ある立ち位置」から発言すれば、発言の責任は限定的にしか及ばない。自分の傷つきは限定的である。ところがぼくは、24時間病者であり、最近はより広く24時間「弱者」でもあるという立場で発言しており、ぼくの発言の責任は、極端にいえばぼくの全存在を賭けたものになる。当然、ダメージは甚大だ。でも逆に、差別の問題とか病気の問題とか、ぼくの被虐待経験、被差別体験や病気の体験を通して、弱者、病者仲間の苦しみを理解することが可能だと思っている。これがいわば、ぼくの「立ち位置」だ。
 ぼくには、「立ち位置」をころころ変えるスマートな人たちにはない慰めがある。社会システムにからめとられていない病者仲間がいることだ。就労支援とは、システムの中で「立ち位置」を自由に変えられる社会人になっていくことを最終的に目指している。これを世間では「社会復帰」と呼んでいる。余計なお世話である。

 思えば、登校拒否や引きこもり、フリーターの増加だって、自ら望むことなく、そうなるしかなかった社会復帰の拒否かもしれない。引きこもりの人の中には「病名がほしい」という人もいる。せめて病名があれば、自分は「こころの病だ」と自分自身を納得させることができるアイデンティティになる。これも、社会での所属のなさ、「立ち位置」のなさからくる不安だろう。
 フリーターについては、正社員に「昇格」して社会システムの一員になることでは、本質的な問題解決にはならない。フリーターの増加は、資本の要請で積極的に押し進められてきたことだし、解決はフリーターという「立ち位置」のままでの待遇改善が必要である。そんな闘いが、フリーター労組などの勃興で各地で行われている。
 もちろん、自分たちが世界の中でどういう「立ち位置」にいるのかも振り返るべきだろう。グローバル経済の中で、貧しい国から収奪しているという現実にも。それでスーパーや100円ショップで安い買物ができている。
 しかし、社会システムの外で、後ろ指を指されてまで「自由を満喫」するほど強い人は少数である。大抵の病者は、生活保護などによる自由を放棄して、社会システムに逃げ込みたいと思っている。それもまあ仕方がないことだ。
 ぼくがムゲンの施設化を憂い、患者会であり続けたいと思っているのは、施設では自由を失い、システム化されるからだ。ムゲンはシステムの外にあって、日本の資本主義の競争社会に適応できない人たちの居場所であるのが理想である。


コメント


 ボクも立ち位置に困ってます。健常者のように生きていくべきか、いち障害者として生きていくべきか? 若いので迷うし、周囲の目もあります。
 正直言って、健常者の如く生きていく事はシンドイことなんだけど、障害者として、いきていくのもなんか嫌な気分です…。
 なんか、日々収穫がないと生きている実感がしません。
 刺激に慣れすぎてます…。
若いからね。


投稿者: 無名 | 2008年04月13日 22:32

 健常者という立ち位置はあまりにも漠然としていて、立脚点としては却って難しいのでは?
 大衆としてなんて、雲散霧消してしまいそうな立ち位置です。個性が欲しいのではありませんか? だったら、自分が少数者であることを立ち位置にしたほうがいいです。
 長い人生、同じ立ち位置で日々暮らしていて、血肉化されて本物になるように思います。


投稿者: 佐野 | 2008年04月14日 16:03

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プロフィール
佐野 卓志
(さの たかし)
1954年生まれ。20歳(北里大学2回生)のとき、統合失調症を発症、中退。入院中、福岡工業大学入学・卒業。89年、小規模作業所ムゲンを設立。2004年、PSWとなる。現在、NPO法人ぴあ、ルーテル作業センタームゲン理事長。著書に『こころの病を生きる―統合失調症患者と精神科医師の往復書簡』(共著、中央法規)『統合失調症とわたしとクスリ』(共著、ぶどう社)。
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