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佐野卓志の「こころの病を生きるぼく」

ワーカーになるまで。なってから

 5年ほど前、精神科ソーシャルワーカー(PSW)の国家試験を受けようと思って、受験資格を調べた。現任者なら即受けられた。現任者とは、現場職員経験5年だけで、たとえ高卒でも国試を受けられる制度で、移行期間中だけに設けられたものであった。

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 ぼくは実質的にムゲンの指導員をしていたが、給料をもらわずにやっていたので現任者とは認められず、しかたなく通信の専門学校へ行くことにした。
 東京の専門学校に、ぼくとムゲンの歴史を書いた受験レポートを出したが、落ちた。後で「ぼくが統合失調症なので落ちたのではないか?」と学校に電話したら「的を外している文章だった」と言われた。東京の学校に落ちてから、その年の募集に間に合ったのが新潟の専門学校だけだった。受験レポートは東京の専門学校での失敗が活きて合格した。
 1年半に渡ってレポート提出した。たとえば「脳の働きについて書け」という課題の時には、ネットで検索してヒットしたものをつなぎ合わせて提出し、自分で書いたどのレポートより良い、90点をもらった。逆に、本を読んで、自分のカウンセリングに対する考えを書いたものは、60点の合格点がもらえなかった。
 病院実習や地域支援センターでの実習もあった。実習先のワーカーの責任者には、ぼくが統合失調症であることを明かして、楽をさせてもらった。病院実習など、ぼくには4年半の入院経験があるので、病棟で一日中暇つぶししただけの楽勝だった。
 新潟の本校で年に1回のスクーリングがあった。2週間ぶっ通しの丸一日授業はきつかった。やっぱり疲れがたまり、いつの間にか授業中爆睡してしまい、隣の人から「いびきがうるさい」と起こされてしまった。ずいぶん離れて座っていた人にも、後で聞いたら「よく聞こえていた」と言われた。抗精神病薬を強めにしていたのも一つの原因だ。
 本当に同じ目的をもったいろいろな学生と話をした。中には当事者が2人いた。後で連絡とったら、残念なことに2人とも不合格だったそうだ。先生を囲んで新潟の銘酒を飲んだりしたのは、良い思い出になった。
 自宅での受験勉強の問題集は、上下巻に分かれたけっこう分厚いものを2回繰り返しやった。他の参考書も買ったが、全然見なかった。試験の半年くらい前からは、ひたすら暗記だ。他の国家試験も似たり寄ったりだと思うが、暗記力で合否が別れてしまう国家試験というのも、どうなのだろう? 一日中A4の用紙に書いた暗記事項を繰り返し覚えた。
 何度も国試にチャレンジしながら、暗記力が足りないために合格できない作業所指導員など、かわいそうだった。二人三脚でムゲンをやってきたぼくの奥さんは現任者として認められ、一発勝負で試験を受けたが落ち、たいそう悔しがり、ぼくに「ワーカーの協会に入って活躍してくれ」と言っていた。

 2004年にワーカーの国試に合格して、愛媛県精神福祉士協会(P協会)に入会した。P協会には一人一役という原則があり、研修会、広報、地区例会のいずれかの担当にならないといけないので、広報の発行に関わることになった。印刷物を作るのは昔から好きで、面白くこなせた。生活保護や障害者の性についての特集に取り組んだ。
 新人研修にも参加したが、ベテラン女性ワーカーが雨の中、傘を差し掛けてくれたことがうれしかった。それからさまざまなワーカーと知り合うことになったが、多くの美人ワーカーともお知り合いになれてうれしかった。そして07年には地区例会の担当になり、準備の話し合いに加わっていた。
 広報の発行や地区例会のためにメーリングリストも立ち上げた。メーリングリストや地区例会の場では、当事者として参加しているという気負いもあり、積極的に意見を述べていった。
 ぼくはワーカーとして、年金や生活保護に関する細かい知識が乏しいのを痛感したけれど、知識は成り行きに任せることにした。それよりもやはり、無理の利かない当事者であることを思い知っていたから、慣れてくると、ぼくはあくまでも基本は当事者であり、付加価値みたいなものとしてワーカーの肩書きももっているというのがスタンスになった。NPO法人の理事長として、ワーカーとして、いろいろな会合に出席するようになったが、常に当事者として発言をしていった。
 しかしメーリングリストではぼくの意見が多く強いので、他のワーカーからの返事が来ることが滅多になくなった。会合でもぼくの意見にまともに相手してくれるワーカーは少なく、最近になって反対意見も出るようになり、それが大勢の実感であることがわかってきた。ぼくはこれまでの人生でも孤立していたけれど、ここでもやっぱり孤立していたということを、最近になって思い知ったのだ。
 それでぼくは、意見を言うのをあきらめた。そして、会合や地区例会にも出なくなり、松山の精神保健福祉業界から完全に引きこもってしまった。ぼくは別に、積極的に付き合いを断っているわけではないのだが、今も何となく引きこもりを続けている。

 最後に、ワーカーを目指す後輩の病者に言いたいのだが、ワーカーの資格を取ったところでメリットといえば、健常者であるワーカーの友人が増えることぐらいしかないということを知っていてほしい。
 付き合いの世界が広がることはいいことだし、福祉業界は病者の優しさが活かせ、心のふれあいのある仕事ができる。でも、病院ワーカーの仕事は給料こそいいだろうが、多少病者にはキツいかもしれない。
 ぼくはムゲンで相変わらず、買物やトイレ掃除を日常的にやっている。昨日までしてきたことが、資格をとったところで変化するわけではない。周りの人たちの見る目は多少変わるかもしれないが、別に資格がなくてもピアカウンセラーはやれる。
 ワーカー仲間にはなれても、決して健常者仲間にはなれない。ぼくも浮かれて思わず忘れそうになっていたことだが、これをはき違えると、発言の軸がぶれると思う。ワーカーの資格などは、ぼくにとっては別にとってもとらなくても「そんなの関係ね〜!」って今では思う。でも、とりたいと思っている病者を別に止めようとは思わない。がんばってほしい。


コメント


障害者の性について、関心あります。


投稿者: 無名 | 2008年03月14日 06:00

来週のブログは障害者の性について取り上げる予定です。


投稿者: 佐野 | 2008年03月14日 19:38

 同じ人間なのに、支援者と利用者に分けられてしまった印象です。支援者によっては資格を得る事で、人間性が変わり、弱い人を見下したり、揚げ足取りをする感じになった感じです。
 自分の支援センターがおかしいんでしょうかね…?


投稿者: ハイドラ | 2008年07月21日 00:48

※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。

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プロフィール
佐野 卓志
(さの たかし)
1954年生まれ。20歳(北里大学2回生)のとき、統合失調症を発症、中退。入院中、福岡工業大学入学・卒業。89年、小規模作業所ムゲンを設立。2004年、PSWとなる。現在、NPO法人ぴあ、ルーテル作業センタームゲン理事長。著書に『こころの病を生きる―統合失調症患者と精神科医師の往復書簡』(共著、中央法規)『統合失調症とわたしとクスリ』(共著、ぶどう社)。
ムゲン http://www7.ocn.ne.jp/~lutheran/
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