病者の値段
ぼくたちは、この何でも金の資本主義社会の中で、一体いくらの価値があるのだろう? 精神科病院に入院しているときの事件・事故などで損害賠償が認められた判例をみてみる。
人の目を気にすること
東京の予備校に行くために、18歳で初めて実家を離れたが、当時のぼくは世間知らずでコンプレックスの塊だった。
中高一貫の受験に熱心な男子校にいたぼくは、勉強のことしか知らなかった。高2のとき、一日中どんなにがんばってお勉強しても、東大に行く連中にはかなわなかったし、知識の世界の広大さに圧倒されて挫折し、自殺未遂をし、全然勉強をしなくなった。
それからは、当時はやっていた左翼思想の本を読んだりしていた。そんな状態で一浪して東京に出た。
施設を守ること
病者の支援を続けるには、施設を守ることが大事だ、と考えているワーカーも多いと思う。しかしこれは、病者の生活を考えてというよりも、本音のところでは自分の生活の糧を得るための職場を守りたい、という考えがまず基本にあるのではないだろうか。
たしかにぼくの親には金があって、坊ちゃん育ちで援助も期待できるから、貧困にあえいできた、ハングリーで何がなくてもまずは金、という人とは違うかもしれないが、ワーカーだってそんな人はそう多くないと思う。
しかし、倫理要綱にもあるように、「ワーカーとはまず病者のために」ということを基本にすえないといけないはずだ。それで「施設を守ることが病者のためになる」と素直に言えるワーカーを見ていて「幸せだなあ」と思う。
消えた年金の解決についてのスケッチ
年末のC型肝炎訴訟では、和解の政治決断をしていれば男になれたのに、絶好の機会を逃した政府。その後やっと議員立法での和解を決断したようだ。与党の予算案が発表されたが、「障害者自立支援法」も、限りなく応能負担に近づけるけれど、絶対「応益負担に戻す」とは言わない。言ってしまうと、応益負担を導入した責任を与党、厚労省が認めることになるから。
というわけで年末に書いているブログですが、皆様明けましておめでとうございます。