専門職ということ
ぼくは、病者としてのアイデンティティを支えに生きてきた。病者として本を出して、社会的評価を受けた。ワーカー協会の人からも、ぼくの存在は必要だと言われたが、うるさく当事者の権利主張をするので、本当は煙たがられているのだと最近悟った。そして今、必要とされてブログを書いている。これらは、狭い作業所ムゲンの中から飛び出し、世間的評価を受けることによって、ものすごいぼくの自信につながった。
結果、ぼくは病者というより「普通のオヤジ」になった。自分を専門職と思ってきたことは一度もなかった。専門職にふさわしくあらねばと、コンプレックスになった時期はあったけれど。でもぼくは、場面と役割によって考えて発言をする、などという器用な真似はできない。どこの会合に出ても本音でしゃべってしまう。
若いワーカーの人たちはひたすら研修などを繰り返し、専門家による専門家教育、スーパーバイズなどを通じて、技術の研鑽をしているかのように見える。しかしぼくには、まったくムダなことをしているように思える。いくら横文字の難しい言葉が操れるようになっても、日常のかかわりには関係ないだろう。でもそんなの関係ね〜!
ベテランで専門知識も深いかのように見えるワーカーにあって、若いワーカーにないものは、世間擦れした普通のおばさん的感覚ではないか。人間的余裕といってもいい存在感である。作業所の指導員のおばさんたちのすごいところは、専門知識を詰め込んでいない分、こころで自分の体験から病者をわかろうとすることだろう。ぼくがある程度評価しているワーカーを思い浮かべると、みんなずいぶんおばさん的だ。
若いワーカーは余裕がないので、援助されるほうもけっこうしんどいかもしれない。ワーカーに熱意があれば、病者は依存してしまうかもしれない。病者から学ぶべきことは、病者にこころを開き、生きづらさに対する嗅覚を磨き、どういうことで共感できるかなのかもしれない。たとえば、所属がないと呼んでもらえない忘年会、恋人と過ごすのが当たり前の風潮のクリスマス、家族と過ごすのが当たり前の年末年始、これら魔のようなイベントが次々と続く年末年始の寂しさがわかってもらえるだろうか?
しかし、病者だって基本的に普通の若者やおじさん、おばさんなのだ。クライエントから距離をとるとかとらないとか、立ち位置(場面によって立ち位置を器用にくるくると変えられるのはきっと、中身のなさの表明に違いないと思うのだが)がどうとかこうとかなどと、普通の付き合いではありえないことを考える前に、世間のおじさんやおばさんの付き合いとまったく同じように付き合えばいいと思う。おばさんの太くたくましいお尻には、人生の年輪を感じさせるセクシーな風格がある。
ワーカーが普通のおじさん、おばさんになるためには、ひたすら社会で揉まれることだ。特にサービス業的な体験は必要かもしれない。水商売、ホスト、ホステス経験などをワーカーの研修に取り入れたらいいと本気で思う。近所のおばさんたちは、家事、子育て、家計管理などをこなし、庶民としてパワフルだ。専門家研修を受けたワーカーより、いい相談ができるに違いないと思う。
ワーカーのなかにもこころの病を発病して、一皮むける人たちもいる。お勉強を通じて専門家になろうとすることに挫折して普通人化するからかもしれない。
しかし普通のワーカーからは「疲れるからそんな面倒くさいこといわんといてくれ」と呟く声が聞こえてきそうだ。
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