ワーカーの人たちに感じること
ぼくはワーカーの地区例会で事例検討をやるのに、生理的な嫌悪感をもってしまう。
主催者に説明を求めると、「みんなで事例を共有して知恵を出し合い、現場に戻って当事者にそれを返す」と、もっともらしい返事が返ってくる。ぼくには、本人には了解を取っているとはいえ、人のプライバシーを20〜30人もの他人が集まってああだこうだと話し合うのには耐えられない。もしそれがぼくだったら、絶対嫌だ。第一、1時間や2時間の又聞きの話で、当事者と心の交流もなく、その人の生きづらさを理解することなどどだい無理であろう。
あと、ワーカーの人たちが差別の問題に疎いことを実感させられることもある。最近では「『ピンピンコロリ』(高齢者はピンピン生きて誰の世話になることもなくコロリと死ぬという健常者の理想)って障害者差別だよね」と、あるワーカーに話しかけると「ぼくもそうありたいです」と返され、絶望的な気分になった。たとえば、池田小事件のときには、ぼくの掲示板にも病者差別攻撃の書き込みの嵐があった。松山の当事者会の一人は、世界が自分たちを攻撃するという妄想が増悪して、当事者会にいられなくなった。このような被差別経験をワーカーと共有することはまずできない。
差別を指摘すると、彼ら彼女らは一様に「お勉強になりました」と言う。「差別問題にぶちあたることは、運悪く地雷を踏むようなことだから、言葉遣いには気をつけます」という彼ら彼女らは、優等生が多いように思う。
彼ら彼女らが差別をわかるには、自身が学校時代にいじめに遭っていたとか、職場で差別的扱いを受けたとか、そういう経験を通してしか共感できないと思う。当事者の一生病者という諦め、そして同胞の被差別に共感するという心情は、最初から援助者という立ち位置にいる限り、他人事だろうと思う。
実際、ぼくが希代の悪法と思っている障害者自立支援法に反対したのは、当事者ばかりで、ワーカーの人たちに呼びかけても、一人だって進んで反対運動の署名をしてくれた人はいない。ワーカーにとっては当然他人事であるし、また賢いから、勝てない闘いはしない。まあ、当事者のための勝てる闘いだって、ワーカーは闘う理由がわからないかもしれない。
ワーカーの研修会などで勉強する内容は、当事者の言葉を理解する技術を磨くことであり、それはどうでもいいことのようにぼくには思える。そうではなくて、当事者の言葉を自分の心で学んで気づいてほしいと思う。
と書いて、自分がもし病気の苦労を知らない健常者だったならできないだろうことを、ワーカーに要求しているような気もする。
コメント
そうそう、ワーカーにとって、自立支援法なんて他人事なんでしょうね。
自立支援法のゴタゴタの際、地域生活支援センターの職員室は、なぜか爆笑の嵐でしたから。
つくずく、ワーカーにとって他人事と考えてること多いと思います。
あまりに不愉快だったので、市役所を通して苦情を言いました。
もちろん、匿名でしましたが。
仕事時間中だけワーカーという役割分担された、タダの人なのでしょう。
>1時間や…又聞きの話しで…当事者の言葉を…
学んで…気付いて欲しいと思う
この間学会に行ったのですが、発症して、薬を飲んで、私達専門家のサポートを受けて就労して…という事例が多くて、うんざりでした。
当然当事者の参加は少なかったけど来てたわけで、例えば“なぜこの会場まで調子を崩さず交通機関を使って来れることが出来たのか?”“どうやって普段病気と折り合いをつけてるのか?”専門家は当事者の声をよく聞いてほしいと思いました。
だって、多くの当事者はこの手の学会と無縁だし、まだまだ敷居が高いのだから。
Anonymousさんは当事者なのですね。
たしかに専門家用語みたいなのが分かってないとついて行けないように思います。それに、みんな頭いい優等生のイメージの人が多いように思います。
松山の会合にはぼく以外の当事者の出席はないですね。敷居は高いと思います。
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