「障害」を超えて笑い合う
先日、某テレビ局の制作サイドの方とお話をさせていただき、今後、ディスレクシアのことを取り上げていただける可能性があるかどうかをお話ししました。
残念ながら、見た目に分かりづらい障害であり、当事者が見つかりにくいということもあって、取り上げにくいということを言われました。もちろん、安易にメディアに取り上げられればよいというものではないでしょうが、影響力は絶大だと思います。しかし、地道に新聞、雑誌などで、取り上げられる回数が増えてくれば、実現できそうな気もします。
その話の中で、啓発活動とは関係ない話題になり、今、その方が担当している番組に人気上昇中のお笑い芸人が出ていて、そのボケ担当の人が、偶然にも私の地元、新潟県越後湯沢の隣町出身で、最近取材に訪れたそうなのです。私の地元近辺は、交通が不便で、東京のように色々なお店があるわけではありません。でも、そのテレビ局の方は、「すごく、親切な人が多かった」と言ってくれました。その背景には、おそらく、「便利ではない」つまり、「障害がある」からこそ、その障害を補おうと、みんなで協力して暮らしているからだと思います。もちろん、便利な方がいいのですが、不便だからこそ、生まれてくるものにも目を向けるべきなのだろうな、と思いました。
さて、皆さんは、ホーキング青山さんというお笑い芸人をご存知でしょうか?先天性多発性関節拘縮症のため、生まれたときから両手両足を使えない方です。この方は、自著にて、『もういい加減、障害者を「障害者だから…」って皆おんなじように見るのは明らかにおかしいってことが分かるだろう。』と綴っています。障害者であるとかないとか関係なく、「笑う」ということは、生きていく上で必要不可欠です。しかし、どこかで、障害をもっている人に対してや、障害をもっている本人というのは、「笑っちゃいけない」という共通の意識が生まれてしまいがちなのではないでしょうか。しかし、自分とは違った行動、言動をしている人に対して、心から笑ってしまうのではあれば、それはそれでいいのではないかと私は思います。このホーキング青山さんも、その障害を一つの個性に変えて、笑いを取っています。
もちろん、差別的な見方で、相手を卑下して笑うのはおかしいとは思います。私の周りに、何気ない会話の中で「お前、死ねよ」とか「お前、バカか」という言葉を使う人がいます。本人は笑いになると思っているのでしょうが、これはただの勘違いだと思います。この言葉を言われて、笑顔になる人というのは、一部を除いて、いないのではないでしょうか。ここで大切なことは、人間同士で付き合う場合には「笑い合う」ということが、互いに良好な関係を築くことになるのだと思います。
「障害者として」を「人間として」と置き換えたときに、“人間”として、心から笑いたい時は笑えばいいし、泣きたいときは、泣けばいい。「発達障害」という自分のたくさんの個性の中の一つの部分が、人と人とを遮る「障害」になってはいけないのだと思うのです。
障害者としてじゃなくて、一人のかけがえのない人間として、心から笑われたり、笑ったりする瞬間が増えることで、希望も増えて、それが未来を切り開いていける力になるんじゃないのかなって思います。
先週末、新潟県の小学校で講演をしてきました。とても、学校全体の雰囲気が明るく、笑いが絶えないのが印象的でしたが、その雰囲気の発信源は、学校長を始めとした、先生や保護者たち、大人だということをすぐに確信しました。川というのは、川上が濁っていると、川下も濁った水が流れてしまいます。しかし、川上が濁らなければ、川下も濁らない。大人と子どもの関係も自然と同じだと思うので、子どもの雰囲気を明るくするには、大人が明るくなるのが、子どもが笑顔になる最適な方法なのではないだろうか、と思ったのでした。
コメント
笑いの力、ですね。
たとえば幼い子どもが歩くのに失敗して転んで泣き出した時に、それを見て思わず笑いを誘われる…誰もが経験していると思います。
この笑いは「ああ、昔の私と同じだ。今はうまく歩けなくて、もどかしいよね。でもきっと上手に歩けるよ。頑張ってね」という共感から生まれていると思うのです。
人間が生きる時は、うまくいかない時がある。自分と違う他の人と付き合う時に、行き違いがあるのも当たり前のはずです。それを嘆いたり怒ったりするより、「そういうことって、あるよね」と笑ってしまえたら、お互いに心が軽くなるでしょう。
そのためにも互いの未熟さ・愚かさを意識して、失敗や誤解を許そうとする意識が大切ではないかな、と考えます。
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