「特性」を「個性」とするために
先日、福祉関係の方々と食事の席をご一緒する機会がありました。その中には、新聞記者、ジャーナリスト、高齢者、障害者、ホームレス、自殺孤児の支援をしている人たち等、色々な立場の人がいらっしゃいました。
最近、「無知」というのは、恐ろしいものだと痛感していますが、こうして交流することで、少しだけかもしれませんが、自分の活動にはないものを得ることができます。教育関係者といえば、私だけだったと思います。こういう中にいると、反応がとても新鮮で、たくさんの気づきがあります。初めて、ディスレクシアのことを知ったという人のご質問というのは、正直で、指摘が鋭く、ユーモアがあって、今後につながりそうなことばかりでした。
例えば、1、「単純に目が悪いのではないか?」。2、「絵は認識できるのか?」。3、「今後、この活動をどのように展開していきたいのか?」。冗談半分ながらも4、「ラブレターは読めるのか?」などとご質問をいただきました。1は、脳の機能障害であるので視力には関係がなく、2は、あくまで私の場合ですが、線が歪んだり、にじんだりしてしまうので、線が多いと認識しにくく、3は、3年以内に全国の皆さんにまずは「ディスレクシア」という名前だけでも知って頂きたいということがあり、4は、単純に紙ベースだと認識しにくい、と答えました。この障害を知っている人とお話ししていると、こういう素朴な質問というのは出にくいのではないかと思うので、ありがたいです。
この場では、ほとんどの人たちがディスレクシアについて、知りませんでした。それは全然、悪いことではなく、啓発活動が足りないだけだと思います。そこで、どのように受け取ってもらえるかは別として、まずはお伝えしなければなりません。もちろん、無鉄砲に活動していればいいということでなく、福祉関係者の人たちだからこそ、理解していただきやすいと思うのです。
ホームレスの方のなかにも、読み書きが苦手な人がいます。これは、ディスレクシアのような先天的な障害ではなく、読み書きと離れている時間が長い、あるいは、高齢化して、視力の低下、手や目になんらかの障害をもっていて、治療や補助器具が不足しているからできないということもあるようです。しかし、文字の読み書きに対する困り感は、同じなのではないでしょうか。
こういう視点で考えていくと、発達障害と切り離しては、考えられなくなるのではないかと思います。大切なことは、「安易にラベルを貼らず、相手をよく見ること」という共通のことだと思うのです。だから、一緒に考えていけることはたくさんあると思います。
賛否両論あるかと思いますが、「障害」=「個性」という主張があります。しかし、私は文字の読み書きができないというのは、不便でしかたありません。そうではなくて、自分の一つの「特性」として、ディスレクシアがあり、それをもって生まれたがゆえに、人と違ったことを見つけたり、生み出したりすることが、個の性質である「個性」として出来上がってくるのではないかと思うのです。この「個性」は、簡単に出来上がるものではなく、時間のかかることかもしれません。それを育み、見守ってくれる存在を子どもたちは熱望しています。
今月前半に名古屋で特別支援教育の関係者が集まるLD学会が開催されました。私も出席したシンポジウムでご一緒させていただいた北海道大学の先生は、
「支援者側に求められることは、(異質な)他者を排除せず、認めあう、赦しあうためには、他者の意識について推量する想像力を豊かに育む必要がある(すると異質性は減少する)」
ということを、おっしゃっていました。発達障害に限らずどのような子どもと接する場合にも言えることだと思います。
支援者がその子どもの支配者にならないように、広い視点、柔軟な対応こそが、色々な状況にある子どもたちを救うのではないかと思います。
コメント
いま「自閉症だったわたしへ」(ドナウィリアムズ著)という本を読んでいます。自閉症キャンプの支援者が、わあわあ泣く自閉症の女の子にどなってお人形を押し付けて、ますます女の子は泣き叫ぶちうところがあって、支援者が支配しようとしている記述がありました。
著者は人は人形によって癒されるという固定観念だと切り捨てていました。今でもそういう支援者はいるのでしょうか。
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