“普通”でありたいという願い
暑い日々が続いていますが、このお盆は、皆様、いかがお過ごしでいらっしゃいますでしょうか?
私は、このお盆は、中学、高校の頃の友人と数年ぶりに顔を合わせることになりました。7月7日のブログにも書かせて頂きましたが、8月1日に地元新潟県南魚沼市での講演が行われました。
実は、その前夜、中学3年生の頃の学級担任の先生とお話をしました。私は、高校2年生の時に不登校になって以来、ほとんど、地元の皆さんと関わりをもつことをしてきませんでした。その後、私が講演活動等を始めて、メディアに出ているのを見て、現状を知った方がほとんどです。逆に、現在の地元の教育事情がわからなかっただけに、恩師との会話はとても貴重な時間でした。
そして、8月1日には、私と関わったことがある先生、親戚、先輩、友人、近所の皆さん、その他大勢の教育関係者や学齢期の子どもをもつ親御さんが来て下さいました。知り合いの方を前に、一斉に自身の障害をカミングアウトした瞬間でした。「僕は、字が読めない」(小菅宏・著、集英社)には、その“空白の時期”について触れていますが、直接、その当時のこと、障害のことを語るのは、ほぼ初めての方が多く、講演に来て下さった方々は、皆、涙を流されていました。きっと、親族や知人に同じように悩み、苦しんでいる人たちと関わっているからかもしれません。
当時、地元の皆さんと関わりをもてなかったのは、ディスレクシアのせいではありません。不登校になり、学校から逃げてきたというコンプレックスの固まりだったからです。発達障害をもつ子どもの中には、「自分は馬鹿だから、勉強ができない」、「自分なんか、世の中に必要ないんだ」と、平気で言う子がいます。私もその中の一人でした。文字の読み書きなんて、誰でもできます。それがまともにできないなんて“普通”じゃないと、自分を責め続けてきました。「当たり前のことが当たり前にできたら、どれだけ楽なんだろうか」と、何度も思いましたし、「治れ!」と強く念じました。
そして、当日集まってくださった方々の中には、私が過去に迷惑をかけてきた方もおられます。また、学生の頃の友人と会うというのは、喜びと同時に悔しさも込み上げてきます。みんなと久々に会える感動と、一緒に卒業できなかった後悔が混ざり合います。
しかし、過去を変えることはできませんが、未来は変えられる。自分らしさをつくるのは、過去の傷じゃなくて、未来への希望なんだって思うのです。諦めでもなく、自惚れでもなく、「“普通”ではない」、つまり、他の人とは違う部分があるという事実を自分も周囲の人も受け入れた上で、打開策や解決策を見つけていくことが大切なんだと思います。
今回の講演がそうしたきっかけになることを願っています。
壊れているもの、壊れていくもの、沢山あります。でも、同時に新しく生まれてくるものも忘れずに皆さんと共にこの街で暮らしていきたいと思います。
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