障害を潔く「認めた」うえで、「諦めない」こと
最近、障害の診断を受けて、そのしきりに主張される人と会うことがあります。私は、障害をもっていること自体は、事実ではあるけれど、プラスでもマイナスでもないと思っています。もちろん、それを全面的に主張することも大切なのですが、それを理解して頂ける方をどれだけ増やすことができるのか? ということを考えていきたいと思うのです。
“普通”でありたいという願い
暑い日々が続いていますが、このお盆は、皆様、いかがお過ごしでいらっしゃいますでしょうか?
私は、このお盆は、中学、高校の頃の友人と数年ぶりに顔を合わせることになりました。7月7日のブログにも書かせて頂きましたが、8月1日に地元新潟県南魚沼市での講演が行われました。
実は、その前夜、中学3年生の頃の学級担任の先生とお話をしました。私は、高校2年生の時に不登校になって以来、ほとんど、地元の皆さんと関わりをもつことをしてきませんでした。その後、私が講演活動等を始めて、メディアに出ているのを見て、現状を知った方がほとんどです。逆に、現在の地元の教育事情がわからなかっただけに、恩師との会話はとても貴重な時間でした。
当事者が持つ力
いつの時代も、“当事者”は、最初に火を付ける役割を担います。
1995年、東京HIV訴訟原告で当時19歳の川田龍平氏(現参議院議員)が、実名を公表したことで、この問題が数多くのメディアで取り上げられ、世間にも大きく注目されました。その結果、1996年2月には当時の厚生大臣であった菅直人氏(現内閣総理大臣)が謝罪し、和解が成立したのは、今でも記憶に鮮明に残っていると思います。
心のユニバーサルデザイン
今回は、ディスレクシアという障害があると、具体的にどんな場所や事で、不自由さを感じているのか、どんな対処をしているのかを、日々の生活を振り返ってご説明させて頂きたいと思います。
ただ、これは私と今まで出会ったディスレクシアをもつ人の例で、全ての人達に該当するとは限りません。あくまで一例として参考になさってください。