気付き始めた「障害者同士での“障害者差別”」
「障害」というと、「身体障害」、「視覚障害」、「聴覚障害」、「精神障害」、「発達障害」などが挙げられます。ちなみに「知的障害」も私のような「学習障害」も同じ「発達障害」の仲間です。個人的な意見として、同じ発達障害の仲間であれば、支援の仕方は違えど、一緒に啓発活動をしていくべきだと考え、「PandA-J」(注1)に私のインタビュー記事を野沢和弘氏(PandA-J編集長/毎日新聞論説委員)のご協力の下、掲載して頂きました。
しかし、今では和らいできましたが、ちょうど2年前に掲載された際には、様々な人達から、バッシングがあったのを覚えています。その理由は、「知的障害と学習障害は違うのだから、一緒に扱ってしまうと、誤解が生まれてしまう」ということでした。確かに、支援の仕方は違うのですから、当然といえば、当然かもしれません。ただし、私にはどうしても、聞き逃すことができない言葉がありました。それは、「わかりやすい障害(知的障害)の方が楽で、わかりづらい障害(学習障害)の方が苦しむ」という人がいたことです。私は、どちらも苦しいと思います。わかりづらいという事は、気づかれにくいのですから、周囲の無理解によって、苦しむこともあるでしょう。しかし、わかりやすい障害だからといって、本当に理解されているとは限らないかもしれません。
そこで、私が思ったのは、「障害者同士での“障害者差別”」が巻き起こっているのではないかということです。もちろん、それぞれに主義主張があって、当然だと思います。そして、守るべきものがあるのも、とても素晴らしいことです。ただ、まだ、「障害の種類が違う」というのはいいかもしれませんが、「あの人達とは違う」といったような言い方は、私はしてほしくありません。
先日、薬物依存症のリハビリ施設「ダルク」(注2)を訪問してきました。その施設の人たちは、学校や家庭において、私と同じように苦しんだ経験があったとおっしゃっていました。もちろん、薬物使用を許すわけではありません。ただし、私は、どんな障害や病気であっても、同じ人間として扱ってほしいとは思います。もちろん、全てを理解し合うことは難しいかもしれません。
周囲の無理解によって、居場所を失い、苦しくなり、心が折れてしまうのは、みんな、同じなのではないでしょうか? もちろん、「自己責任」という言葉で、片づけることもできます。ただ、「自己」にも限界があり、「支援者」「周囲の理解」「励まし合える仲間」がいて、その人はスタートラインに立ち、自分らしく前へ進むことが出来るのだと思います。
自分のもっている「障害」だけでも、苦しい部分がたくさんあるのに、さらに人間同士で「壁」を作り、わかり合えないのは、なんだか寂しい気がします。「みんなちがってみんないい」「共生社会の実現」を目指すのであれば、まずは、障害者同士、わかり合える部分がたくさんある分、手を取り合って、生きていけたらいいなって、思っています。
注1:「PandA-J」(ぱんだ-J)とは、知的障害のある人の成年後見や権利擁護について、「だれでもわかる、すぐに役立つ、読んで楽しい」をコンセプトにしている雑誌です。
詳細は、「PandA-J」編集部(ホームページ(http://www.panda-j.com/) TEL/FAX 042-344-1889 〒187-8570 東京都小平市小川町1-830 白梅学園大学 堀江まゆみ研究室 まで
注2:「ダルク(DARC)」 とは、「ドラッグ(DRUG=薬物)のD、アディクション(ADDICTION=嗜癖、病的依存)のA、リハビリテーション(Rihabilitation=回復)のR、センター(CENTER=施設、建物)のCを組み合わせた造語で、覚醒剤、有機溶剤(シンナー等)、市販薬、その他の薬物から開放されるためのプログラムを持つ民間の薬物依存症リハビリ施設です。」(全国ダルクHPはこちらを参照)
コメント
ぼくも障害者ですが、差別は同じ障害者同士のほうが、厳しいものがあると感じています。健常者は何も知りませんけれど、障害者は相手の痛いところを確実に突くことができます。あるいは本人をよく知っている家族とか。残念ながらそれが現実だと思います。
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