だれもが主人公!
ここ最近の映画やドラマなどを観ていて、あることに気づきました。子ども向けの作品だと、今も昔も問わず、救世主などのヒーローものでは、主人公は必ず一人。そして脇役がいます。
ところが、子ども向け番組にも時勢の変化が見られ、脇役であったキャラクターが主人公と並ぶ存在になっています。大人向けの番組でも、主人公としてのキャラクターが存在するのですが、主人公と並ぶようにさまざまなキャラクターが見られるようになってきました。
昔から「名脇役が存在するから、主人公が栄える」といわれることもありますが、最近では、誰が主人公になってもよいと思える内容が多く見られます。皆さんはどう思いますか。
映画やドラマなどは、時代の様子を現わす一つの象徴でしょう。少し前に団塊層の人たちの間で話題となった『ALWAYS 三丁目の夕日』も、今のこの時代だからこそ考えさせられる映画でしょう。
この映画でも見られるのは、「誰もが主人公」ということです。このことから気づかされることは、私たち一人ひとりが主人公ということです。誰も自分自身の代わりに生きていくことはできません。有限無情に流れていく時間の中で、私たちは自分らしく生活(いき)ていきたいと考え、模索し、今という時間を重ねて未来を築いていくのです。
そこで、改めて私たち自身の仕事を見直してみると、次のように考えられます。たとえば「高齢者の尊厳」と掲げたとして、私たち専門職は、サービス利用者の高齢者のためだけを考えればよいというのでしょうか。
日々必死になり、身を粉にして働いている専門職が多くいます。専門職としての役割を一生懸命果たしていく姿は、とても立派なことだと思います。私もいろいろな場面でお会いする専門職たちに、思わず頭が下がる時が度々あります。
そしてそのときに思うことがあります。それは、「皆さん自身も大切にしてくださいね。専門職という資格をもっている人はいますが、皆さん一人ひとりの代わりは誰もいないからね」ということです。
つまり、専門職として働いている皆さん自身も、大切な“主人公”なのです。サービスの利用者も主人公、私たちも主人公という意味では、「相互が主人公」でしょう。
ただ、主人公だからと皆さんが勝手なことをしていては、世の中がめちゃくちゃになってしまいます。そこに必要なことが、お互いを「察する」(必察)ことだと考えます。そして、察し合うためには、お互いの存在に感謝しあえるよう、私たち一人ひとりが成熟していくことが必要でしょう。
そのため私たちは、日々の生活の中でいろいろと考え、悩み、察しあえる関係性の中で人と人とが協働し支え合いながら、生活(いき)て、「良かった!」と思えるときめく瞬間に出会えると思うのです。
コメント
はじめまして、こんにちわ。先日は勉強会に参加させていただきありがとうございました。
私は以前からパッチ・アダムス氏の考え方や行動に深く感銘を受け、それ以来、自分の看護観は『そっとよりそうような看護をしたい』というものに変わっていきました。
永島さんの本を読みますと、利用者さんの誰もが、医者や看護師やカウンセラーなどのさまざまな役割を、その時、その時果たしているのではないかと思います。それはまさに、みんなが主役の人生なのだなと思います。
困っている人の手をそっと握る、痛みのある手をさすってあげる、もうそれだけで、看護や介護を利用者さん同士でしているのではないかと思うのです。だからこそ、私たちが陥りやすい間違いである『やってあげている』という自分勝手なエゴは手放していきたいとおもいます。
私はいつも、永島さんの本のなかの詩を読むと、涙が出てしまうのです。きっとそれはみんなが思っていることだからでしょうか?人間が人間として生活るからこそ生まれてくる言葉だからでしょうか?そうすると、心がきゅっと音を立てて、あたたかくなります。
私も素晴らしい仲間たちとこれからもがんばっていきます。
永島さんも、お体をどうかご自愛ください。そしてこれからも素晴らしい方たちとの出会いがありますように。
長々と書いてしまいましたが、読んでいただきありがとうございました。
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