有効なサービス利用をしていただくために
先日、韓国にて認知症ケアの地域実践報告をしてきたことを書きました。
その中で、韓国も今年7月から介護保険制度が始まり、これまで福祉サービスを提供してきた事業者にとって大きな転換期になることを紹介しました。
そこで改めて、今の日本の介護保険関係者の様子をみると、慣れが出てきたことによるさまざまなサービス模様があると思います。
介護保険開始当初は、ケアマネジャーを始めこれまで措置で運営をしてきたサービス提供事業者は、雲をつかむような状況で、これまで利用していた本人や家族に、利用料一割負担の説明から契約の手続きを進めてきました。当時私は、在宅介護支援センターに勤務していましたが、当時を振り返ると、一人暮らしで慎ましやかに老後を生活していた佐藤太郎さん(仮称)を想い出します。
佐藤さんは奥さんと50代で死別した後、ずっと一人暮らしをされてきました。当時は大学生と高校生の子どもがいて、2人の子どもを立派に育て上げることに日々精一杯努めていたということです。その後、子どもたちは独立し、佐藤さんは静かに栃木県での生活をされていました。
ある寒い朝、これまで医者いらずの佐藤さんの体調に変化が…。手に力が入らず、朝食の支度ができません。次第に呂律が回らなくなってきます。奥さんを脳梗塞で亡くした佐藤さんは「もしや」という思いが脳裏をかすめました。
すぐに近所の昔からの友人・やまちゃんに電話で連絡。いつも使っている電話もボタンが押せなくなっており、やっと六桁のボタンを押したという記憶があるだけで、気づいたときには病院のベッドの上。そばには2人の子どもとやまちゃんの顔がありました。
それから必死なリハビリが始まり、入院当初みられた右側の中度麻痺に改善がみられ、以前のようにはいきませんが、日常生活を送れるように回復していきました。
退院後は「心と身体のリフレッシュに」という子どもたちのすすめで、デイサービスに通うようになりました。最初は「そんな集まりは恥ずかしくて参加できない」といっていたものの、息子さんたちと一緒にデイサービスを見学に行き、その様子を見て納得され、通い出しました。
本人曰く、「養老院に行くには早いと思っていたんだよ」と勘違いをされていたようです。「俺はマツ(亡き妻)とやっと建てた小さな家で暮らすために、必死にリハビリをしたんだよ。やっぱり、仏壇に水をやるのは俺しかいないしなぁ」という思いが強かったのでしょう。
その佐藤さんに、介護保険が始まる説明にうかがったときです。
「永島さんよ、おれ考えたんだけど、もうデイサービス行くのはよすよ。だから、介護保険料を払わない。俺にはもういらないべぇ。元気になったしなぁ」
と藪から棒に話されました。
「それに、年金から保険料を引かれるっていうから、おれは年金が入る月はすぐに下ろしてきちゃうよ」
いい考えだろうと自信満々に話をしている佐藤さんの姿は、80歳を過ぎても自身の意思で懸命に生きる貫禄さえ感じました。そこに永島は水を差すように、
「佐藤さん、さすがすげぇ~こと考えましたね。ただ、今度年金が振り込まれる時、通帳をよ~く見てみてください。少し金額が減っているかもしれません」
「なんでぇ?」という表情の佐藤さん。察しの良い佐藤さんは、すぐにその意味が分かったようです。
それから数日後、改めて佐藤さんを訪問したとき「永島さんよ、やっぱりこれまで世話になった人たちと離れるのも悪いからさぁ。このままデイサービスに行けるようにしたいんだよ。またよろしくなぁ」との反応。
子どもたちと話し合い、生活費の計算もされ、最期にはやっぱり生きているうちに楽しい思い出を創ること。そして亡き奥さんに土産話でもできればという話になったことを、後日息子さんから聞きました。
これからも佐藤さんの生活は続きます。けれども、佐藤さんにとってどう生きて、最期にどう逝きたいかを整理できる人・時間・場所がある限り、佐藤さんの個性は輝き続けると思います。私たち専門職は、そのためのお手伝いをさせてもらいながら、さりげなく寄り添わせていただく役割があると思います。そう、決して主体はサービス提供者ではないのです。
介護保険が8年目にはいり、私たちはいつしか当初目指した様子を忘れてしまっているのではないかと思います。「パーソンセンタード」があるように、そこに寄り添い一緒にかかわる姿勢を忘れたくないものです。「忙しい」とは、心が亡くなると書きますからね。
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