『揺らぐ』思いから、納得できる活き方を
「あまりごちゃごちゃとしたことをしなくても、もう俺は静かにしていたいんだよ!」
と息を荒げながら、必死に今の生活スタイルを続けたいと主張するEさん。若い頃に肺病を患い、大手術の末、片方の肺を切除しています。ですから、どうしても言動が激しくなると息が切れます。最近では高齢に加え他の病気も患い、寝たきりに近い状態で在宅生活を静かに妻と続けてきていました。
その妻も加齢に伴い足腰が弱くなり、洗濯物干しや居室掃除などもきつくなってきています。そこで最近は、ヘルパーを活用する生活をするようになりました。県内に息子夫婦がいるものの、日々のサポートを得ることは難しいです。しかしながら、二人暮らしのEさんご夫婦にとっては、何らかのサポートが必要な状況になっていました。
それでも、「誰にも世話をかけずに、夫婦二人でやっていく」という生き方を貫いてきたEさんは、いまだ受け入れがたい現実に対して、どうしていこうかと揺らいでいたのです。
もともとEさん夫婦は客商売をしていて、とてもきめ細やかに気配り・目配り・心配りをされる方で、近所でも世話好きの有名なご夫婦でした。当然、店も繁盛していたのです。
そんな人一倍気をつかうEさんは、逆に自分自身の身体的衰えが始まると、他人には迷惑をかけたくないという気持ちが強くなっていました。追い打ちをかけるように、認知症による混乱が見られるようになり「最近は頭がモヤモヤして、何が何だか分からなくなるんだよ」と訴えるようになってきました。それでもEさんは「今必死で何とかゆっくりでもやっていこうと考えてるんだよ。ここが勝負なんだよ」と話し、ヘルパー以外のサービスを受けることは頑なに断り続けています。そこには、『納得』のいく生き方を必死に模索している人の姿があります。
人は、生きてきたように老いて、生きてきたように最期を迎えます。そして、その様子から、かかわらせていただいている私たちも、命ある者が精一杯生きて活きることがどういうことなのかを考えさせられる場面が多々あり、揺らぎながら学ばせてもらっています。
介護保険制度の下、私たちはサービスをご利用者の生活に当てはめることに慣れてしまいがちです。それゆえEさんのように、「自分はこう生きたい」という思いの柱がしっかり立っていて、納得できないままサービスを利用することを望まない人の前では、どうしたらよいものかと揺らぐことになります。
でも私は、このような揺らぎを大切にしていきたいと考えています。思いが揺らぐのは、私たちが、自分や相手に起こった変化や問題と向き合えている、あるいは目を背けずに向き合おうとしているためだからです。
「どう生きていきたいか」という相手の思いを何より大切にかかわらせていただくのが、私たち専門職の役割です。そのことからぶれることなく、Eさんご夫婦、ご家族とともに、「よかった~」と心から『納得』できる瞬間を積み重ねていきたいと思います。
コメント
真岡市地域包括に勤務する細島です。過日、訪問看護研修会ではお世話になりました。その後、失敗したーと気づいたことを書きます。
控え室で、私は「義父を自宅で看取り、達成感のようなうれしい気分だった」と語ってしまいました。何年も経った今だから、美化して言えたのです。
父を亡くされて間もない永島さんに表現すべき言葉ではなかったなーと反省してました。限られた時間を、それぞれが精一杯より良い選択をしてともに生きているんですよね。
私は現在、認知症の義母と暮らし、安心して呆けられる地域づくりをみんなで頑張りたいと考えております。永島さんからの風を、真岡でも待ってます。モデル事業のコーディネーターはよしだ美知子先生にお世話になることになりました。よしだ先生からは「永島君はどうか」と紹介され、根岸さんからメール届いていたと思いますが……。
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