この子たち
今週の月曜日、諫早で開催された長崎県障害者虐待防止研修会に講師として参加しました。長崎には島部が数多くあるため、宿泊を含む研修を余儀なくされる参加者もおられます。全体で370名程度の参加者は、研修への集中力を切らすことなく、熱心に参加されていました。
長崎県障害者虐待防止研修会
この研修会の参加者から、「施設長や職員が利用者や支援のあり方について、『この子たちのためには…』と表現する施設こそ、不適切な行為や虐待が発生しているのではないか」という指摘をいただきました。まさに的を射た指摘であると私も同感です。
障害のある人の虐待の中には、成年に達した障害のある人をいつまでも「子ども扱い」することが発生要因になっているものがあります。
拙編著『障害者虐待―その理解と防止のために』(中央法規出版)では、子ども期の親子関係が成年期以降にも延長されることによって、子どもに対する懲戒権があたかも継続しているかような錯誤が家族内部に生じている事例とその発生メカニズムについて明らかにしています。
20歳を過ぎた知的障害のあるわが子を前に、親御さんがかわいいと思い、心配を続け、悪意のかけらもないままに、「子ども扱い」を延長してしまうのは、親の心の運びとしては理解できる一面があります。
子どもたちが思春期に達すると、通常は、親とは独立した人格を目的意識的につくり上げようとします。思春期にふさわしい友人関係や恋愛をくぐる中で、家族とは異なる自分にとっての親密圏を形成・発展させていきます。
親の力や意向に抗うことも含め、乳幼児期から続いてきたこれまでの親子関係のあり方や、「子ども」という未自立な人間としての枠づけを、子どもの側から変革していく営みです。まさに自立へのダイナミズムが、顕著に表れる時代です。
ところが、障害のある子どもたちの中には、このような思春期の歩みが自然発生的にはとても弱く、乳幼児期から続いている親子関係を自ら振り切っていくような力強さを発揮することのない人たちも多くいるのです。ここで、子ども期の親子関係が延長してしまうのは自然な成り行きと言うこともできるでしょう。
そこで、子どものライフステージの進行とともに、障害のある人の若者文化と社会への参入を促進し、「大人同士の親子」へと関係性を組み替えていくための社会的な支援と条件を整備していくことが必要となるのです。それは、虐待や不適切な行為を予防すると同時に、障害のある人たちの自立した地域生活への展望を拓くことになります。
ところが、施設職員などの職業的支援者が「この子たち」と障害のある利用者を表現するところには、子ども期の親子関係の延長とは根本的に異なる問題があります。20歳を過ぎた成年が契約によるサービス利用をしているただ中においてさえ、未自立な人間としての「子ども」に枠づけるという点を取り上げるだけでも、私はまことに悪質な人権侵害があると考えます。
このような時代錯誤の知的障害のある人に関する人間観・処遇観が、場合によっては、障害者施設という組織に蔓延することがある背景には何があるのでしょうか。
一つは、子ども期の親子関係が成年期に継続してきた家族生活の延長で、施設の暮らしの枠組を組み立てる発想の安易さがあります。このような施設の長や職員は、利用者のことを「わが子のように」「家族の一員として」大切にしているのだから「ときには厳しくしつける」必要があると、自分たちには親権者と同様の懲戒権があるかのような、誤解も甚だしい主張をする向きが生まれるのです。
二つ目は、「この子たち」との決めつけによって、若者期から成年期にふさわしい生活文化と支援サービスの質を突き詰めて考慮しようとしない問題があります。支援の中で子ども扱いを継続することは、新たな支援サービスを創造する努力がスポイルされ、支援内容がルーティン化していくはずです。
つまり、通常の子どもは成年に向けて不断に変化・発展する存在ですが、成年に達した障害のある人の「子ども」扱いは延々と継続するため、サービスの質的発展の必要が課題として浮上することはありません。このような現場は、支援付意思決定を進めることは相当困難でしょう。
以上のような土壌のある施設の中で、前回のブログに記した「力で押し切る」支援の誤った成功体験が積み重なると、支援者の圧倒的な力の優位性の下で、不適切な行為が慢性化していくことは必定です。
ここでは、支援者と障害のある人たちの間柄は、「自立した人間としての支援者」と「未自立な子どもとしての障害のある人」と完全な「タテ」の関係性で組み立てられています。支援者は、未成年の子に対するパターナリズムを正当化することによって、利用者の市民としての自由を剥奪することはしばしばとなり、意思決定や財産管理に関する本人の権利をうやむやにしながら代行意思決定を優先するリスクを肥大化させていきます。
家族という親密圏は、地域共同体とともにあって、本来、親子というタテの関係だけを基軸にするものではありません。多彩な人たちとの「ナナメ」の関係や「子ども組」「若者会」などの「ヨコ」の関係を含めて人が育まれる仕組みがあり、みんなが家族の一員であるかのような地域全体の慈しみあいが担保されてきたのです。
したがって、施設関係者が障害のある人を「わが子のように」「家族のように」大切にしていると言い張るのであれば、「親-子」「教師-児童生徒」のようなタテの関係だけでなく、「ナナメ」や「ヨコ」の関係性のゆたかさがどこに築かれているのかを具体的に明示すべきです。少なくとも、支援者と障害のある人の間に、どのような大人同士の対等平等な慈しみあいがあるのかが具体的に明らかにされて当然です。
このような点を明らかにすることなく、「この子たちには」「ときには厳しい態度で臨むのは当然だ」と言い張る施設関係者がもしいるとすれば、それは職業的支援者ではなく、ただの素人です。
諫早の鰻
さて、諫早と言えば鰻。当地の蒲焼は、江戸のそれとは異なり、表面はパリッ、中はフワッと仕上げ、蒲焼が冷めずにふんわりした状態を保つように、湯気で蒸す機能のある器に盛られて出てきます。これはもう、たまらなく旨い!!
コメント
ブログで書かれている、タテやヨコの関係性とは特に日本社会で顕著である。なぜならば、親はこどもの持ち物であり、いつまでも親の子供であるという考えが根強く存在している。それに対して、オーストラリアでは、子供が18歳を超えると親の扶養責任は無いうという考えが一般的である。オーストラリアはタテからヨコの関係性のシフトがはっきりしている。
日本はそこのシフトが曖昧になっているので、障害があり自立が難しい人は自分の保護下にある。という考えにつながるのでないか。
私も成人しているが自立の難しい障害のある人のことを正直に自らと対等のヨコの関係として見ることは難しいと思うが、そこから不合理な正当性を押し付けることだけはしたくないと思う。
障害のある人が親の元を離れ自立していくことは健常者と比べると難しいかもしれないが、ここで保護者である親がいつまでも子ども扱いするのはその子供のためにならないと思う。いつかは一人で自立していかなければならない時が必ず訪れるからである。実際に社会に出て働いている人もたくさんいることはメディアを通して知っているが、社会にうまく溶けこめている障害のある人というのは少なくとも親御さんからのサポートをただ受けていたのではなく、社会に出るための準備を用意してもらい、一人で行動する機会をあたえられていたと思われる。一社会人としてまず必要となるコミニュケーション力は近所の公民館などの家以外の人とかかわりをもつ機会がある場所で育ませてきたと思う。障害のある人は実際に家以外の大人に自分の考え、思いなどを伝える一方でその相手の話を聞くという機会が健常者と比べ少なくなってしまうと思う。上記のブログにも書かれていたことであるが、「この子たち」という表現は障害のある人を支援する施設の立場の人がいうべきことではないと思うし、支援という意味を完全にはき違えているとも思う。支援というのは障害のある人にあれこれと世話をすることではなく、障害のある人が自立していけるような環境を整え、自分自身で行動させていくことであること再認識するべきであると思う。
私は共同作業所に訪問したことがあるのだが、言語障害のある方の自己紹介を職員の方がしていた。時間をかければ本人が自分で紹介できるのだが、職員がさっさと紹介した上、うんと答えざるを得ない質問を投げかけたりしていた。障害のある方の意志を大切にしていないというよりは、自分の思うことが正しいと思っているようにみえた。障害のある方を大切にしているけれど、大切にしているから自分は障害のある方のことを良く理解していると思ってしまうのではないか。大切にすることと、子どものように捉えること、支配することは紙一重なのではないかと思う。
日本では従来タテの関係が重視されてきたように思える。また村社会というのも特徴だろう。時には大人ですら個と認められず、村全体の未自立な子として扱われている。
この障害者らを子ども扱いするというのもそれらの意識の表れであるのではないか。とするならば、施設関係者が障害者を子ども扱いするのは、単なる一施設の関係者のみの問題ではなく、タテを重視し、個の意識の薄い日本社会の縮図と見て取れるのかもしれない。
大人と子供の境界線は何であるだろうかとこのブログを読んでみて改めて不思議に思いました。形式的には二十歳を過ぎてから大人であると定義することが一般的ですが、二十歳を過ぎても仕事を持ち、自立できるまでは親の支援を受けている人がほとんどであると思います。自分もその一人です。その支援は親からの一方的なものではなく、主体的に活動できるように見えないところで学費を払ってくれたり、生活費を仕送りしてくれたりするものであると思います。ここで書かれていたように障害がある人だからと言ってその人自身の主体性を奪うような対応することはその人のためにならないと思います。障害のある人でも大人同士の関係を見いだせるような環境づくりを社会全体で取り組むべきだと思います。
未成熟な子供たちと、障害を抱えた人たちを、単に「社会的弱者」として一方的に大きな枠組みで一括りにして考えてしまう風潮があるのは私も気持ち悪いと感じていました。大の大人である方々をあたかも幼児のように扱っているのは傍から見ていても違和感を覚えるもので、確かに「社会的弱者」として単に大きく括ってしまえば同じなのかもしれないが、そこには対象者の主体性はなく、ディスアドバンテージを背負いながらも前向きに生きている方々を侮辱する行為とすら言えるかもしれない。もう一度、福祉について考えてみる必要があると思いました。
確かに、障害を持った成人を一人の大人としてみることはとても難しいことなのではないかなと思います。その人の障害の度合いにもよると思いますが、やはり日本では障害を持った人をなんとなく下に見ている部分があります。また、障害を持っていても普通の人と同じようにできることがある人もたくさんいるのに、そこを考えずに障害を持っているだけで完全に別物扱いしている人も多いと思います。
障害のある人が大人になっても子どもの様に扱うことは、その人の人権をも適切に尊重しておらずとても良くないことです。何よりその人の将来のためになりません。しかもそのような行為を専門の施設の職員がしているとなると、それらの意識を早急に改めさせる必要があると思います。障害のある人が一人の社会人として活動するためには、その人の周りの人々が意識を改め、一人の成人として接していくことこそが、一番初めにすべきことなのではないでしょうか。
支援者と障害のある人たちの関係性がタテの関係になっている状況では、障害のある人にとって本当に必要な支援ができていないのではないかと思う。施設関係者と利用者がタテの関係だけでなく、ナナメやヨコの関係性をゆたかに築くためには、支援者側の意識を変えることが必要であると思った。障害のある人が成人していても、自立が難しく、施設関係者支援が不可欠である。今の日本のタテ社会の風潮からもそこに支援者の優位性が発生してしまい、障害のある人を「未自立な子どもとしての障害のある人」という風に見てしまうのだと思う。だから、このような考えを変えるような支援者側への指導も必要なのではないか。
私は昨年介護等体験で障害者支援施設に行った。そこで最初に言われたことは、利用者の方には大人として接してください、ということだった。初め、それは当たり前のことだと思った。しかし、利用者の方と接する中で自分の言葉が敬語ではありながらも、子どもと接するときと似たような感覚になってしまっていた。知的には低年齢でも、その方が長年生活してきたことを考えると非常に失礼なことだと気付いた。支援施設では障害のある方の自立を大切に考えていた。支援員というのは専門的知識の下、様々な視点から障害のある方の発達を支えていく立場であるべきだ。親が子を育てるのとは違う。もっと客観的に障害のある方それぞれに即した支援を提供していくことが求められると思う。
私の知り合いで軽度の知的障害ではないかとされている子がいる。まだ中学生で日常生活に問題はないのだが、やはり周りの子と比べると行動や思考に一回り遅れが見られたり、協調性のなさが見られる。「あの子は他の子よりだめだから」と甘い扱いを受けがちだと私は感じるのだが(決して私自身嫌な思いはしていないので問題はないのだが)、成人して社会に飛び込むときに、親があまりにも甘やかして子ども扱いをするというのはどうだろう、としばしば感じる。「障害者だから」という観念をなくして、周りの大人たちがこういった人達の自立を支えられるような環境がもっと整っていくといいな、と思う。
近所のスーパーのレジで、車椅子に乗っている障害のある方と施設職員とみられる方が買い物をしている場面に遭遇したことがある。財布を膝の上に用意し、商品を買おうとしているのは障害のある方であるように見えたが、お金を払う際に、スーパーの店員は職員に「お金どうしますか?」と訪ねていた。職員は当たり前のように障害のある方の財布を店員に渡し、「(料金分)取っちゃって下さい」と言っていた。その間、障害のある方は何も言わず、店員も躊躇うことなく財布からお金を取っていた。この場面を思い出しながら考えたのは、支援のあり方を誤解しているのは支援者だけでなく、私たちのような周りの人間も同じだということだ。スーパーの店員のように、私たちも無意識に障害のある方の意思を無視するような支援の仕方に加担する行動を取ってしまっているかもしれない。障害のある方の意思決定を妨げるような支援の仕方はおかしい、という認識は職員などの支援者だけでなく、社会全体で持たなければならない。そうでなければ、障害のある方と支援者のタテの関係は完全には無くならないのではないかと感じた。
障害を持つ方々が精神的・経済的に自立した生活を送るのは非常に難しいことであるが、だからといっていつまでも親が「大人と子供の関係」に基づいて子供に接することは本人のためにならない。親や社会が障害者たちに提供するべきは、生活のための物資や金銭のみではなく、少しでも自立に近づくようにする支援、つまり社会活動に参加したり生活の仕方を学んだりする機会などである。障害者を全面的に保護下に置き過度の干渉をするのではなく、対等な関係において本人の意思を尊重し行動させることが必要であるといえる。
障害のある人の自立を促すべきである施設そのものが、彼らを「こども」として認識し、親と同様にタテの関係で接する。これでは彼らは「こども」のまま、自立していくことが困難だ。自立した「おとな」と呼ばれる人たちが、全てに対して未発達な「こども」に対して、こうすれば正しい、あれをすれば良くなる、など一種のパターナリズムが、「こども」を「こども」のまま延長させ、成長を促すことができないのだと思う。こどもが自立をするということは、親や年配者から言われるものを受動的に吸収するだけでなく、友達や恋人を通して育まれるヨコの関係が重要になってくるのではないかと思う。
障害者に対して「あの人は不幸である」という事を考えてしまうと そのように考えるのは良くないと思う.人間は生まれながらにして平等であるといわれる.それは人間の物理的な平等を指した言葉ではなく、人間の権利的な平等や、機会の均等を指した言葉だと思います。人間はみな同じ姿かたちでもありませんし、地位も違えば金銭的な状況も違います。むしろ、違って当然です。実際生まれつき目の不自由な方がおられたとして、その方が社会の他の人たちと同じように行動できるような配慮がなされるべきですがそれは目の不自由な分を社会が補償しているわけではありません。仮に障害者認定にそういった意味合いをもたせるならば、補償額は算定不可能ですし、少なくとも障害者認定で支給される額では到底足りないのではと思います。
虐待をなくすためには、制度を整えたり、周りの大人たちが見てあげたりすることが大切だと思っていました。だが、それは全くの間違いであり、支援の在り方を見直す姿勢が必要だと感じました。
日本では、社会的に強い立場にいる人が、弱い立場の人たちに対して何かをしてあげることが「よいこと」として判断されているように思います。例えば、親の子供に対するしつけです。
支援する側が決して上の立場にいるのではなく、相手と一個人として接する態度が大切だと思います。
ブログ内に書かれた知的障害のある人に関する人間観・処遇観が障害者施設に蔓延してしまう理由として「家族生活の延長で、施設の暮らしの枠組を組み立てる発想の安易さ」と「若者期から成年期にふさわしい生活文化と支援サービスの質を突き詰めて考慮しようとしない問題」と書いてあったがこれは人間の思考の特徴が原因になっているのではないかと考える。人は特に忙しくゆっくり物事を考える時間がないときに安易な発想や思考による選択をしがちになってしまうことがあるという特徴である。これにより上のような問題が発生してしまうのではと私は思う。そして職員に仕事後にその日の行動の選択がふさわしいものだったか振り返ることがこの問題の解決方法の一つになるのではないかと私は考える。
ブログを読ませて頂いて、子供と保護者関係について改めて考えさせられました。
障害を持たない子供にとって、反抗期や思春期を経て親との適正な距離をつかんでいくものですが、一人っ子の増えている現代では親離れできない子供や、子供離れできない親も増えている気がします。
そういった社会の中で特に障害を持つ子供のいる家庭で、親子の接し方というのは深刻な問題です。
こういった問題を解決するためにはブログ中でおっしゃられているように、子供と保護者の両方が、家庭以外のコミュニティーの中で生活し、その重要性や楽しさを知ることが効果的だと思います。
一人っ子や核家族、独身者が増えている現代であるからこそ、縦、横、ナナメのつながりを持てるコミュニティーを増やしていくべきだと考えました。
障害のある方に限らず、親が子どもを成人しても「この子」として見てしまうことは、ある程度仕方のないことであるし、各家庭の問題として解決できる範囲で解決すべきであるようにも思えた。しかしそういった過程を支援する施設関係者には「この子」という意識はあってはならない。親以外の、ヨコの関係にある人びとには障害を個性ととらえ、障害のある方を個性のある一人の人間と考え、尊重し、対等な大人として接することが求められると思う。
障害をもつ人が自立し社会に出ていくということはとても大変なことであり、親としてはやはり不安が大きいと思います。そのため、この子のために…というような思いを抱くことは親としては誰でもあると思います。しかし、だからといっていつまでも子ども扱いをし続けていき、親と子の「タテ」の関係が重視されていってしまうのは、子どものためには自立心を養うことができなくなるなど、よくないことが多くあると思います。
そのため、障害のある子どもが自立していくためにも、地域社会の人たちとの「ナナメ」の関係や「ヨコ」の関係が築きやすくなるような環境が整っていけば良いと思いました。
障害のある人たちを特別扱いすることがそもそも不適切であるという意見は、私にとってもこれまで考えてこなかったものであり、深く共感させられました。施設の人たちの苦しみを理解し、少しでも彼らを幸せにしてあげたいという思いから障害者施設の職員になることに間違いはないでしょうが、それはあくまで支援であり、支配とは違うのです。施設における支配、すなわちタテの関係性のみ存在する状況が是正されない限り、施設の問題は一向に解決に向かいません。
私たちがまだ学生だから、未成年だからと言われることに不満を感じる(個人差はあるだろうが)ことと同様に、施設の人たちが不満を感じることがあると思います。平等を唱える国であるのだから、ヨコやナナメといった関係性もしっかりと築かなければいけないと思います。
障害のある人を子供扱いしている人には、その人との対話が足りていないと思います。どの段階で、大人扱いするかを見極めるのはとても難しいと思いますが、相手のことをしっかりわかるためにもコミュニケーションが不可欠だと思います。
その一方で、支援者は「親」という立場に立つだけではなく、「友人」、「他人」という様々な立場に立って支援することで、社会を教え、社会的自立を促すべきである。
子ども期の親子関係が成人以降も延長されるというのは障害のある方が自立できないことにもつながります。また、子供扱いをすることが「力で押し切る」支援を助長し、悪習となっていくのは現在のままでは避けがたいように思えます。やはり福祉関連施設の組織の改革、またそれに従事する人々の意識改革が必要でしょうし、直接関係はなくとも、一般の人々もこのような事柄について興味関心を持ち、意見交換するようなことも大切なのかと思います。長い目で見ると義務教育でこのような事柄をもっと教えるべきなのでは、とも思います。
親が我が子に対して「子ども扱い」をいつまでもし続けることに、理解がないわけではない。自分の子供にいつまでも世話を焼きたいというのが親心なのだろう。実際自分の親もそうだ。これが、障がい者の親ならなおさら我が子に対してそう思うだろう。しかし、いつまでもこのような関係でいることは、我が子の自立を妨害することに繋がると思う。確かに、社会ではたくさんの困難にあうだろうし、親自身もそれを理解しているのだろう。しかし、それは我が子の主体性を奪うことに繋がる。大切なの親が我が子の主体的な行動を後押しし、社会全体がそれを受け入れる環境を整えることだと思う。
障害を持っている方に対して虐待をするのはもってのほかであると言う人が多い。しかし、わたしが感じるのは障害をもっているひとへの虐待を特別扱いしてはいないかことである。なぜ、障害を持つ人への虐待は「もってのほか」なのか。例えば。人を叩いた時に、この人が障害を持っているひとなのか、障害を持っていないひとかで大きく印象が変わる。障害を持っている人に対してなら「かわいそう」持っていない人なら「そのくらいなら」。そういう感情を持つ人が、この日本の社会には多いのではないだろうか。それは、障害を持つこと自体がかわいそうという観念がこの社会にはあるからだろう。障害者はかわいそう、なぜそのような感情を抱くのだろうか。それは、障害者を特別扱いして普通とは違う枠組みに位置付けるこの社会制度のせいではないだろうか。障害を持つことは特別なのか、普通ではないのか。きれいごとは言わないで、もう一度この社会制度を問い直す必要があるのではないでしょうか。
「障害のある人をいつまでも子ども扱いしてしまう」文面だけ見れば、この問題は意識次第で変えられるように見えるが、障害者の親の立場から考えればとても難しいことだなと思った。それなりのお世話を続けている親にとっては、ある程度の距離をとって大人として接するのは難しいことなのかもしれない。サービスに関しても、「タテ」的なつながりでは、する側とされる側の距離は遠く、なにが欠けているのかを見えづらくしているのだろう。「ヨコ」のつながりを広め、サービスをする側もいろいろな立場から考え、接していくことが大切だ。
障がいを持っておられる方は持っていない方に対して自立するという事が難しいと考えます。それは,障がい者自体が,「社会で生きていくうえで必要な何かしらの能力が一般の人に比べて欠けている者」と定義されているからである。したがって,障がい者は誰かの手助けがなければ社会生活が困難になることが多かれ少なかれ存在する。この手助けは,あたかも未成年の子供を大人に導くために必要な手助けと同等に並べられ,障がい者=子供とされるケースが存在するのではないだろうか。
また,障がい者は一般の人に比べて,より小さいコミュニティーの中で生活することが多いと感じる。つまり,障がいを持っている方はいつも決まった人たちとだけ関係を築き,その輪を広げようとすることをあまり積極的に行わない。これは,障がい者施設という,障がい者,親,職員という決まった人しか出入りをしない場所(コミュニティー)を作っていることから明らかである。この施設は社会からは離れた,一つの小さな世界であると考えられ,このコミュニティー内では障がい者は手助けされる立場にあり,先ほど述べたような障がい者の子ども扱いが当たり前の事のように行われているのではないだろうか。
職員が、利用者を子ども扱いする施設で虐待が発生しているという問題について、まずなぜ利用者を子ども扱いする職員が多いのかというところに疑問を感じます。利用者を家族のようにと思い支援をすることは、利用者と心を通わせる点においては必要なことかもしれませんが、子ども扱いをするということは職員が利用者のことをタテの関係、すなわち自分(職員)が利用者より上の立場であると思っているということを表しているのではないかと思います。そして、職員が利用者に対して「〜してあげている」という意識があるために、利用者を子ども扱いしそれが虐待に繋がるのではないでしょうか。
「〜してあげている」という考えより、「支援をしている」という意識を持てば、タテの関係だけでなく、ブログで書かれているようにナナメの関係やヨコの関係から利用者と関わることが増えるのではないかと思います。
いつまでも子ども扱いしないこと、基本の教育においても同じことが言えますが、障害がある子を持つ親にとってはそれができない人が多いことを知り、自分の体験もふまえ納得する部分がありました。
以前、障害を持つ方が働く施設を訪問させていただいたとき、利用者のなかに自分と同じくらいの年代の方も働いていましたが、職員の方は利用者の方を一社会人として対等に接しており、それが自分のなかでははじめ少し驚いたことでした。それは、自分のなかに障害を持つ方と接するなかで、「支援してあげる」という意識が少なからずあったからだと思います。いつまでも子ども扱いしてしまう気持ちも、これに似たものがあるのだと思います。しかし、そのような気持ちで行動しても、障害を持つの方のためにはならないということを学びました。支援の意味をはき違えてしまうと、障害を持つ方の自立への道は閉ざされてしまいます。支援とは何か、その人のためになる支援の仕方とはどんなものか、改めて考えていくことが大切だと思いました。
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