「当たり前」のグループホーム
この画像は、北海道新得町の社会福祉法人厚生協会が運営するグループホームの外観です。一見、どこにでもあるようなグループホームのようですが…。
厚生協会のグループホーム
この建物は、既存物件を転用するのではなく、グループホーム専用に設計・施工されたものです。この建物の図面を示すと次のようであり、各居室にバス・トイレが完備していることが分かります。これは凄い!! このような構造のグループホームを視察したのは、私にとってはじめてのことでした。
グループホームの図面
厚生協会のグループホームには、高齢者と障害者がともに利用する「共生型グループホーム」と障害のある人だけが利用する「障害者専用グループホーム」の二つのタイプがあります。いずれの場合も、働く取り組みを充実させてきた厚生協会のわかふじ寮などで働く障害のある人たちが入居者にいますから、仕事の実情に応じて、出勤・退勤時間の都合をはじめ様々な各人の都合があるでしょう。
「共生型」にしても「専用型にしても」、入居者の生活時間のすれ違いや交錯する使いづらさに悩まされることなく、それぞれの人が思うように整容や排泄等をすますことができる居室ユニットとすることは、必要不可欠な合理的配慮です。トイレやバスが共用であれば、「出勤に急いでいるのに、いつになったらトイレを使えるか?」「洗面できるのは○○さんと△△の次か~」なんて憂いが生じてしまいます。このように朝夕の基本的な生活ニーズに照らして不便さがあるのは、グループホームの造りとしては重大な欠陥でしょう。
共用スペースの使い勝手もとてもいい
このような合理的配慮は当然のことだと思えるのですが、わが国のグループホームの現実におけるスタンダードではありません。厚生協会のグループホームがこのような造りを当たり前とするのは、「老い」と「働く」という成年期における普遍的な課題を「ディーセント・ライフ」という観点から追求することによって必然的に帰着したところだと考えます。
このような「当たり前」を実現する「ひた向きさ」「もの凄さ」を私たちは深く理解しなければなりません。暮らしの上で「当たり前」のことを実現しているのだから、その営みも「当たり前」のことに過ぎないというような浅薄な考えの運びは、本当の意味で現場を知らない、木端役人的な発想です。
さまざまなところを視察してみると、不思議なことに気がつきます。質の高いサービスを実現しているフィールドは、そのサービス(とそれを実現するための努力)をごく自然で日常的なことと考えていますから、第三者が視察に訪れてもほとんど自慢話になることはありません。しかし逆に、「自分たちはすばらしい取り組みをしている」と内外に主張しているフィールドには、得てしてがっかりさせられることが多いという現実です。
さて、就労を柱としつつ地域での自立生活を実現するための社会資源の一つが、グループホームであることに異論のある人はないでしょう。ところが、そのような性格を持つグループホームは、朝の出勤間際のトイレや、残業で帰宅してからの入浴など、最低限度の必要を満たすための設備面を要件としないのです。これでは、制度設計自体が一般就労による自立生活を想定していないと批判されても致し方ないでしょう。
「グループホーム」という呼称にも問題があるのではないでしょうか。北欧に起源をもつ本来のグループホームと日本のそれは、「似て非なるもの」というより「似てもいないし全く違うもの」です。これらの別物を「グループホーム」という一つの用語で表現することは、詐欺のようにさえ思えてきます。
北欧のグループホームは、リビング・寝室・キッチン・バス・トイレがワンセットで、自治体職員のソーシャル・ワーカーが支援します。
一方、日本の「グループホーム」は、空いた一軒家か集合住宅を最低限度のリフォームで転用するものが多いため、リビング・キッチン・バス・トイレはすべて共用の上、寝室を兼ねた利用者それぞれの部屋の広さはバラバラ(Aさんは4畳半の板の間、Bさんは6畳の畳部屋というような按配)で、「普通のおばさん」が支援することからはじまりました。
日本でも、グループホーム専用に建てられた物件もありますが、バス・トイレをそれぞれの居室ユニットに完備しているケースはほとんどないというのが実態です。
今回の北海道の視察は、静内ペテカリの地域生活支援サービスの責任者をされている村田修さんと厚生協会やすらぎ荘施設長の高畑訓子さんに案内役をしていただきました。高畑さんは、養護老人ホームと特別養護老人ホームを案内していただく中で、「自分が年老いたら夫と入居したい」とおっしゃいます。とても素敵なお話だと思いました。
村田修さんと高畑訓子さん
このように老夫婦がともに入ることに希望をもてるグループホームや施設、一般就労する障害のある人が老親と共に地域生活を展望することのできるホームや施設など、すべての人たちの地域生活に必要不可欠な社会資源としてグループホームや施設が捉えられるようになることが、普遍主義的な介護・福祉サービスの姿だといえるでしょう。
消費増税を目前に控えているにもかかわらず、要介護度や障害程度区分によって施設利用に制約を設けて社会資源不足の現実にはお茶を濁しておくというのは、「安直で無責任な当たり前」ではないでしょうか。
コメント
コメント失礼します。介護施設や、介護が必要な方に向けて設計された住居というものは探してみると意外と多かったりします。が、その実体は結果的には対象となる方々にとって必ずしも理想的なものとは限りません。東日本大震災で被災者となった身体障害者の方々の現在を知る勉強をしたことが合ったのですが、最近ではそうした人々にも配慮されたバリアフリー設計の仮設住宅もそれなり存在します。しかし実際はスロープが狭くて車椅子の移動が不便だったり、玄関に段差があることで下半身不随の方にとって移動が困難であったり、浴室やトイレの設計が一般人向けで壁伝いでなければ歩きにくい方や手が不自由な方にとって非常に使いにくい形になってしまっている等、問題は山積みでした。身体の問題が人それぞれある中で理想的とされつつもやはり個別個別に対応した住居を一々用意することが非常に難しいかもしれません。しかしグループホームならば、そうした細かい問題が発生した再にスタッフが他所と比較してサポートがしやす伊のではないしょうか。また、この北海道のグループホームは先生の言うとおりスペースも多く、共有スペースの抱える順番の詰りの問題も解消でき、非常に快適なものになっていることに同意します。今後もこうした当たり前の配慮が実現できる快適なグループホームが増えるればいいなと思います
このブログを読むまでグループホームの間取りなどについて考えることはありませんでした。このブログを読んで、個室にお風呂とトイレがあることがいかに重要かがよく理解できました。入居している人それぞれがいろいろな事情を抱えているのは当然です。それなのにお風呂とトイレが共用であるということはおかしな話です。しかも、ほとんどの施設でお風呂トイレが共用であるという事実をもう少しまじめに考えるべきです。利用する人の立場に立って様々な配慮をすべきです。たくさんの人が「将来ここで暮らしたい」と思えるような施設が増えることを願っています。
各個室にお風呂もトイレも完備されていることは、自分の生活リズムやその日の予定に合わせて行動できることにもつながるので、利用者にとって快適な空間を実現するためには不可欠な配慮であると感じました。自分以外の人の生活を考え、空いた時間に自分が設備を利用するといった生活では、自由がきかないだけでなく、それによるストレスも感じてしまうと考えたからです。社会資源不足などを理由にして、「当たり前」であるはずの快適性が失われてしまうのはとても残念なことだと思います。共有スペースを通して人との関わりをもちつつ、自分がストレスを感じないような生活を営むことができる個人スペースの確保が、グループホームには必要だと思います。お年寄りの孤独死などの問題もある今、「将来はグループホームに入居したいな」と思えるような、快適で希望のあるグループホームを増やしていくことはとても大切だと考えました。
そもそもグループホームを作る際、元より存在していた一軒家などを利用する時点で間違っていると思った。当然各部屋の間取りは異なる上に、人数分のトイレや風呂場があるわけがない。障害者や高齢者のための施設であるのだから、バリアフリーであることはもちろん、不平等感や精神的な窮屈さを感じさせない施設を設計し、建設する必要がある。できることならば、設計・建設してから入居者を募るのではなく、個人のニーズを聞いてからそれに合わせた設計をするという順序でグループホームを作っていくことも視野に入れていくべきであると思う。消費税増税も間近であるのだから、早急に社会保障を充実させることが重要である。
グループホームに対して持っていたイメージは、家族ではないかと人たちとお互い気を遣いあって過ごす、というものでした。「住む」ということは、衣食住を同じ空間で共にすることになりますが、やはり家族と共にするのとは気遣いの度合いが全く違ってくるでしょう。しかし、この記事で紹介されているグループホームはそのような問題を解決しており、個人個人が住みやすい物件だと思いました。グループホームだけではなくユニバーサルデザインを謳う施設などでも、この新得市の例のように実際に使用する人の目線で設計されていけば、誰にとっても過ごしやすい空間ができていくのではないかと考えられました。
私は、住むところにはお風呂とトイレが完備されているというのは当たり前のことだと思っていたし、グループホームに完備されていないということがスタンダードであったことは考えもしませんでした。そんな当たり前だと思っていたことが当たり前に完備されていることはとても大事だし、そこで暮らす人もトラブルを抱える心配も少なく快適に過ごせると思いました。グループホームと一概に言っても、日本グループホームはキッチンやお風呂やトイレなど共用のものが多いことをこの記事で知り、私たちが当たり前と思う暮らしが、快適にできないのだろうなと思いました。なので、この厚生協会のグループホームはとても良いと思い、これからこのようなグループホームがどんどん増えればいいと感じました。
グループホームについて関心を持ったことがなかったため、今まではグループホームはルームシェアのように一軒家を共同で使うことだと考えていましたが、誤った考えを持っていたんだと思い知らされました。生活する上でトイレやお風呂を共用にすることはどうしても生活時間の交錯によって当然ストレスを感じることがあると思います。社会資源の不足問題もある厳しい介護現場において、そうしたストレスの緩和を当然のように解消し、質の高いサービスを提供できる環境というのは決して簡単には作れないものだと思います。施設を運営する人や実際にそこで働く人たちの不断の努力がこのような素晴らしい環境が整備できるのではないでしょうか。孤独死が増えている中、グループホームの重要性も増してきています。各地域に「当たり前」のグループホームが建設されていけば、地元を離れたくない独り身の高齢者でも安心して生活を送ることができるでしょう。そのためにも行政に介護現場のことをうやむやにさせず、法改正、制度改正に力を入れるよう働きかけることが重要だと感じます。
ブログを読むまで、グループホームは不自由なところや他者との共有が多く、あまりいい印象がありませんでした。正直、「自分だったら入りたくないなぁ。」と思っていました。けれど今回の記事にあるような様々な工夫と配慮された空間に設計されているグループホームは素敵だと思ったし、「こういうグループホームになら入りたいなぁ」と思いました。しかし、日本にはまだまだこういったグループホームが少なく、快適で豊かな生活が送れなかったりするので、北海道新得町のようなグループホームをお手本に改善されていってほしいと思いました。
グループホームにおける虐待や高齢者同士のトラブルなど、主な問題の原因は、賃金不足・重労働による職員のストレスや、ケアが行き届かないことによるものだと考えていた。しかし、このブログを読み、グループホームの造りから起因する可能性があることを初めて知った。入浴や排便という基本的生活が、自分の生活リズムでできない実情も初めて知った。というより、私自身そこまで深く考えることがなかった。ブログで述べられた、「当たり前」を実現する「ひた向きさ」「もの凄さ」を私たちは深く理解しなければなりません、という言葉に深く共感した。誰もが快適な生活を、「当たり前」の様に過ごせるようになっていって欲しい。
私は今所属している団体の関係上グループホームなどの福祉施設を訪れることが多いのですが、指摘されてみるとそのような設備が完備された施設は確かに見たことがありません。『このような「当たり前」を実現する「ひた向きさ」「もの凄さ」を私たちは深く理解しなければなりません。』という先生の意見はまったくその通りだと思います。自分が入居した際にどう感じるか。どうあるべきか。そう考えると従来のグループホームでは確かに不便です。将来入居したくなるようなグループホーム。この発想が施設の性質上当然のようで、意外と考えられていないのが現状でしょう。かくいう私も「新しい」と思ってしまいました。そういう意味でこの北海道の施設は素晴らしい施設であると思います。今後このような施設を増やしていくことが「当たり前」ながら重要な課題であると感じました。
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