社会的必需に応える職業と待遇の問題
多くの人たちの日々の必要に応える仕事。それは尊い営みであるし、必要を満たしてもらう側から言えば、何よりも有難味があります。でも、このような仕事の多くは、「有難味」にふさわしい報いを今日享受することができていないのではないでしょうか。
たとえば、介護・福祉・保育等の社会的サービスは、多くの人たちの日々の暮らしを成り立たせるために必要不可欠な営みです。でも、その営みを仕事として担う人たちの待遇は決して恵まれたものではありません。
介護・福祉領域における転職の特徴は、「職場を替わる」よりも「職業領域そのものを替える」ケースの多い点にあります。つまり、介護・福祉の仕事そのものに「見切り」をつけざるを得ない困難に直面してしまうのでしょう。このような傾向は、他の職業領域に転職する可能性が相対的に高い都市部において、地方部よりも深刻な事態にあると思います。
高齢化がますます進展するのだから必要不可欠な職業であることはむろん、介護技術を含む支援の専門性は専門教育と資格によって裏打ちされていることが望まれるようにさえなってきました。それでも、この職業領域の待遇は一向に改善されないまま、一部には「日本人が来ないなら、東南アジアの人たちでカバーしよう」とする動きさえみられるようになりました。
この動きは今のところあまり成功していませんが、問題の本筋を逸れた弥縫策のように思えてなりません。東南アジアの人たちが日本の介護の仕事にふさわしくないなどと主張するつもりは毛頭ありません。日本人が仕事として定着できないような待遇条件を放置したまま、「日本人が来ないなら、東南アジアの人たちで」という発想そのものに、看過し得ない問題があると考えるのです。
これと同じような構造的問題を、わが国の農業も抱えているのではないでしょうか。
先日、NHKの「キッチンは走る!」を観ていると(この番組いいですね、毎週楽しみにしています!!)、糸魚川で丸茄子の生産農家をされてきた方々が出てきました。番組の中で、次のように語っておられました。
「丸茄子の産地であることを認めてもらうだけで十数年かかりました」
「米作りは60回してきたけれども、1回1回条件も違うし、完成することのない奥行きがあります」
農業は「自然との共同作業」という性格を持ちますから、同じ作物を栽培するにも、気象条件が異なるだけで作業内容や気を使う点が変化します。しかも、「人生80年」と仮定しても、一人の農民が米作を重ねることのできるのは「60回」程度に過ぎないのです。
試作を含めて果てしない回数を重ねることのできる工業的な「ものづくり」とは、まったく性格を異にします。限られた栽培回数の中で、自然の制約を見極めながら、「おいしいお米」「おいしい茄子」を作ることのできるようになるには、やはり高い専門性がいるはずです。作物ごとの特徴の把握、作物への愛情、空模様や風を見極める気象判断、土づくり…。これらの営みのすべてはまことにいとおしい。
しかし、ほとんどの時代、農民ほど多くの困難に見舞われてきた職業人もいないのではないでしょうか。今日、都市近郊農業で野菜作りをするところでは、外国人労働者を「実習生」として安く使うことによって、やっと農業が成立しているケースさえ珍しくありません。
介護・福祉や農業は、多くの人たちが毎日の暮らしに必要不可欠なニーズに応える貴重な営みであるにも拘らず、その有難味にふさわしい待遇が保障されない傾向が強いというのは何故なのでしょうか。
もちろん、介護・福祉・農業の領域の中でも、これまでにない発想と工夫から、相対的に高い収入を得ている人たちもいるでしょう。それはそれで評価されてしかるべきだと思います。しかし、毎日の暮らしに必要な介護・福祉サービスを提供し、毎日の食事に必要なお米や野菜を当たり前に供給し続けることだけでも、十分に評価されてしかるべきです。
ケースごとのアセスメントから個別支援計画を策定するという営みの中でも、処遇困難ケースや虐待の絡むケースの場合は、まことに高度な専門性が求められます。このような日々の支援が当たり前に提供されるということに対しては、労働条件を含めて社会的に評価されるべきでしょう。
この20~30年の間、IT化と情報化の急速な進展があり、この時代の波に「うまく乗れた人」の中にはリッチな生活を存分に享受している人たちがいます。ソーシャル・ゲームやアプリの中には、必需にほど遠い代物もたくさんあるのに、それでいて厚い見返りを受けることのできた人たちもいました。
それでは、「IT長者」の人たちの努力と、介護・福祉領域の担い手の努力に特別の落差があったというのでしょうか。日々の社会的必需に応え続ける職業人の営みは、空気や水のように「あって当たり前」のように受け止められてしまうのかも知れません。介護・福祉の担い手の営みが安心して継続できないのだとすれば、それは社会の存続そのものが危機であるという証拠です。このかけがえのない仕事の待遇改善は、社会全体で真剣に考えるべきでしょう。
コメント
記事を拝読しました。
福祉の分野に就労する方々は、その多くが誰かを支えたい、助けになりたいという思いをどこかで持たれているのではと思います。それ故に「献身」が尊いのだとするような意識が、働き手同士の間や利用者の方だけでなく、社会的にも存在しているのではないでしょうか。正当な対価を要求することが罪悪であるかのようにされ、また日々の生活で手一杯になってしまえば、改善のため動く事も困難になってしまいます。
今後の日本では働き手が減少する一方で、福祉サービスを受ける高齢者は増加していきます。若い世代にとっても、親や祖父母のことを考えれば他人事ではいられません。就労者の使命感や献身に甘えず、今後も福祉サービスが仕事として成り立って行くよう、改善を図ることが必要だと考えます。
今日の日本の介護関係の問題は山積みだが、私が中でも一番問題に感じるのは、介護職へのイメージだ。
「今どんな仕事してるの?」と質問することが、高校を卒業してから増えた。答えに「介護やってるの。」と返ってくると、『えらいな。』『大分生活に困っているみたいだしな…。』なんて考えが頭を過ることを私は否定できない。また、介護がどれだけ必要とされているか理解していても、自ら進んでやる気は正直、ない。恥ずかしいことかもしれないが、私のような人は多いのではないだろうか。
人を介護から遠ざける最大の理由は低賃金であろう。しかし低賃金の職業は他にもたくさんあるはずだ。なのに、人は介護に足を踏み入れるのを躊躇う。なぜか。私は、報道に一つの原因があると考える。近年の新聞やテレビでの介護の扱われ方は、マイナス面にばかり焦点が置かれている。新聞の見出しは暗い言葉で成され、テレビでは深刻そうな又は悲しい音楽の中で介護をとりあげる。このような報道を受けると、介護は大変なのに割に合わない、という印象を、見る側はどうしても受けてしまう。
このままこの風潮が続けば、ますます介護に人が寄り付かなくなってしまう。前述した『えらいな』という気持ちはこの印象からきているのだろう。大変なのに割に合わない仕事してえらいな、こんな気持ちは真の尊敬の気持ちではなく、ただの見下しに他ならない。
この国で生きている以上、介護の現状を知ることは大切だ。しかしこれからは、介護の現状だけでなくやりがいなどのプラスの面にも目を向けた発信をして、介護という職業の本当の気高さや“かっこよさ”を伝える必要があるだろう。小学校の卒業文集でたくさんの子供が「将来は介護ヘルパーになりたい。」と書く。そんな未来を描くためには。
少子高齢化が進み、一人で暮らすお年寄りも多い現代の日本において、介護・福祉職の需要は高まるばかりであると思われます。しかし、正直に言いますと、私の中で、介護・福祉という職に対してはマイナスのイメージしかありません。それは、私が介護・福祉の仕事の素晴らしさといった面を知る機会が無く、逆に大変な面ばかりを見てきたからかもしれません。
「人の世話をする」ということは、簡単に出来ることではありません。数年前、認知症気味の曽おじいちゃんを世話する祖母の姿を見ていましたが、夜もまともに寝る時間もなく食事や排尿といった世話をしており、とても辛そうでした。
家族であっても介護をするのは大変であるのに、食事や習慣も異なる人の介護をするのはもっともっと大変だと思います。実際に、私の母は一時期ホームヘルパーの仕事をしていましたが、1年ほどで辞めてしまいました。体力、精神的にもきつい仕事であるのに、待遇があまり良くなかったことが理由だったと記憶しています。
介護・福祉職は必要不可欠な仕事であるのに、何故待遇を良くしないのか、不思議でなりません。ニュースなどではよくこの介護・福祉の問題が取り上げれていますが、マイナスなイメージを人々に伝えているだけのような気がするし、このままでは、介護・福祉の仕事をしたい!という意欲を人々の間に広めることは出来ないと思います。
東南アジアの人に介護・福祉職をさせようとしたところで、待遇が良くなければ、良い仕事をさせる事は出来ないだろうし、利用者にとっても不安を感じさせるだけだと思います。
このままではどんどん問題が積み重なっていくばかりです。いつかは年をとり、自分も介護を必要とする身になったら、と考えると、今の世の中を恐ろしく感じます。
介護・福祉という職のプラスのイメージを広め、誰もが快適に暮らせる社会を作ることが出来るよう、私達若い世代が考え行動していかなければならないと思いました。
少子高齢化が進み、一人で暮らすお年寄りも多い現代の日本において、介護・福祉職の需要は高まるばかりであると思われます。しかし、正直に言いますと、私の中で、介護・福祉という職に対してはマイナスのイメージしかありません。それは、私が介護・福祉の仕事の素晴らしさといった面を知る機会が無く、逆に大変な面ばかりを見てきたからかもしれません。
「人の世話をする」ということは、簡単に出来ることではありません。数年前、認知症気味の曽おじいちゃんを世話する祖母の姿を見ていましたが、夜もまともに寝る時間もなく食事や排尿といった世話をしており、とても辛そうでした。
家族であっても介護をするのは大変であるのに、食事や習慣も異なる人の介護をするのはもっともっと大変だと思います。実際に、私の母は一時期ホームヘルパーの仕事をしていましたが、1年ほどで辞めてしまいました。体力、精神的にもきつい仕事であるのに、待遇があまり良くなかったことが理由だったと記憶しています。
介護・福祉職は必要不可欠な仕事であるのに、何故待遇を良くしないのか、不思議でなりません。ニュースなどではよくこの介護・福祉の問題が取り上げれていますが、マイナスなイメージを人々に伝えているだけのような気がするし、このままでは、介護・福祉の仕事をしたい!という意欲を人々の間に広めることは出来ないと思います。
東南アジアの人に介護・福祉職をさせようとしたところで、待遇が良くなければ、良い仕事をさせる事は出来ないだろうし、利用者にとっても不安を感じさせるだけだと思います。
このままではどんどん問題が積み重なっていくばかりです。いつかは年をとり、自分も介護を必要とする身になったら、と考えると、今の世の中を恐ろしく感じます。
介護・福祉という職のプラスのイメージを広め、誰もが快適に暮らせる社会を作ることが出来るよう、私達若い世代が考え行動していかなければならないと思いました。
人は当たり前に存在する物事より新しい何かの方に興味や関心が向く傾向があり、だからIT企業など新しいものを生み出す分野に注目が集まり、福祉や介護、この記事にあったように農業など当たり前のように存在するものには注目が集まらず軽視されてしまっているのではないかと思います。だから国が支援して労働条件の改善を試みるか何かうまい政策を打ち出し人々の興味・関心を集めない限りこの問題は解決できない解決できないと思います。そしてこの分野への就職がしやすいようなサポートをしていくことが大事になってくると私は考えます。
介護や保育の仕事をする人が、その大変さに相応しい報酬をもらえていないことは、現在、誰もが知っている、大きな問題である。しかしそれでもなかなか改善されない。保育士を志すある友人は、大学で実習等を含む専門的な勉強をする一方、近くの保育室でアルバイトもしている。しかし、有資格と無資格に賃金の差がほとんどないことを嘆いていた。また、今保育士よりも志望者が少ないのが介護の仕事だ。仕事の大変さは比較できないとはいっても、体力的にも精神的にも毎日すり減らされる仕事だと思う。さらに報酬は少ない。しかし、私の別の友人は、今年介護専門学校を卒業し、春から介護福祉士として働き始める。もちろん、行政は今の状況を大きく変える必要がある。そして私たちは、現在そのような状況でも介護や保育の現場に立とうと意気込む人々の姿勢から学ぶべきことがあるのではないかと思った。
人は当たり前に存在する物事より新しい何かの方に興味や関心が向く傾向があり、だからIT企業など新しいものを生み出す分野に注目が集まり、福祉や介護、この記事にあったように農業など当たり前のように存在するものには注目が集まらず軽視されてしまっているのではないかと思います。だから国が支援して労働条件の改善を試みるか何かうまい政策を打ち出し人々の興味・関心を集めない限りこの問題は解決できない解決できないと思います。そしてこの分野への就職がしやすいようなサポートをしていくことが大事になってくると私は考えます。
人は当たり前に存在する物事より新しい何かの方に興味や関心が向く傾向があり、だからIT企業など新しいものを生み出す分野に注目が集まり、福祉や介護、この記事にあったように農業など当たり前のように存在するものには注目が集まらず軽視されてしまっているのではないかと思います。だから国が支援して労働条件の改善を試みるか何かうまい政策を打ち出し人々の興味・関心を集めない限りこの問題は解決できないと思います。そしてこの分野への就職がしやすいようなサポートをしていくことが大事になってくると私は考えます。
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