学童のキャンプで寝入った失態から
バードウィークのある5月。忙しそうに育雛する野鳥の姿は、街中のいたる所にあふれています。画像は、このところ都市部でカラスと並んで嫌われ者扱いされがちなムクドリの育雛シーンです。親鳥のメスとオスが交代で、平均して2分おきに餌を雛に運んでいます。まあ、大変。私は、この時節の野鳥の忙しさを見るたびに、自身の苦い思い出が込み上げてくるのです。
換気ダクトに作った巣をめがけて
学童保育の父母会長をしていた時のこと。新年度になって学童保育を利用しはじめた親子を歓迎するため、毎年4月末から5月にかけての日曜日に、父母会主催の新歓デイキャンプを実施していました。
餌を運んできたよ~
私はこのとき、デイキャンプを挟む仕事の日程が立て込み、いささか疲労困憊した状態にありました。キャンプ当日、お昼の弁当をみんなで食べた直後、私は新緑に包まれたすがすがしいそよ風に吹かれ、ブルーシートの上で2時間余りぐっすりと寝入ってしまったのです。完全に前後不覚でした。
やれやれ
キャンプの進行役でもある父母会長がいぎたなく眠りこけている様を前に、心優しき他の父母の皆さんは、私の眼が覚めるまで見守って下さり、行事の進行も滞りなく分担して下さいました。もちろん、私の失態は長く笑い種にされましたが…。
現代における子育てや介護のユニットは、小規模な核家族にあります。そして、子育てや介護の担い手は、サービス利用と将来における経済面での不安を乗りこえるために、働き続けようと努力します。こうして、通常の家事と子育て・介護の営みに働くことが加わると、当事者は究極の時間貧乏に追い込まれてしまうのです。
時間貧乏は過酷です。一つのことが終わっても、すぐさま別のことにとりかからなければなりません。「炊事をして洗濯にとりかかる」程度の追われ方ならまだしも、「離乳食をつくって子どもに食べさせて、洗濯機を回して、保育所に行く前に公園で遊ばせて、布団を干して、保育所に送って行って、職場に行って、授業して、ゼミをして、論文指導をして、調べ物をして、職場から飛んで帰って、帰り際にスーパーで買い物をして、保育所に飛び込んで、夕飯を作って食べさせて、お風呂に入れて、寝かしつけて…」となると、親の疲労の程度は半端なものではありません。
とくに、個人的な子育て経験から思い知らされた点があるのです。それは、子育てに用いる神経の使い方と仕事に使うそれは全くの別物で、「子育てから仕事に」と「仕事から子育てに」の両面で頭を切り替えることにかなり苦労した思い出が残っています。どうも、子育てと仕事に使う大脳の部位はまったく異なるような気がしました。だから、場面の切り替えに伴う苦労は一入(ひとしお)で、肉体疲労と神経疲労の著しい悪循環があると受けとめていました。
このようにして、働きながら子育てを営む渦中にいると、ただでさえ孤立しがちな子育ては、さまざまな困難について周囲に相談したり、協力を仰いだりするような暇さえ持てない時間貧乏から、ますます孤立するパターンにはまりこむリスクを抱えていくことが分かります。
そして、このような孤立を伴う現代の生活困難を「地域の支え合い」で乗り越えようとする議論が一部にみられます。お話としては美しいですが、私の経験からはっきり言わせてもらうと、何のリアリティも感じられません。
社会保障制度改革国民会議はこの4月の論点整理で、要支援と認定された「軽度の高齢者」は介護保険給付からはずし、ボランティアやNPOを活用した市町村事業への移行を検討するとしました。
5月25日付朝日新聞朝刊では、「抱えないで、介護の悩み」と題し、「孤立防ぐ『ケアラーズカフェ』」を取り上げて「聞き役」が「避難所」の役割を果たす記事を掲載しています。ここでは、高齢化率33%の北海道栗山町で、要介護認定を受けた人が約720人であるのに対し、カフェとつながる世帯は70世帯にとどまる現実も指摘しています。
「地域の支え合い」は大切な営みですし、「傾聴ボランティア」の果たす「避難所」やエンパワメントの役割がとても重要なことは言うまでもありません。常識に類するものです。しかし、これは決して孤立を防ぐ「切り札」ではないのです。
孤立した困難者が地域の支え合いの輪に交わるためには、時間にゆとりがあることと周囲の人たちと時間を共有できることの二つが最低限の必要十分条件であるからです。
そもそも時間にゆとりがない、地域住民の生活時間はすれ違うとなれば、困難を抱える孤立した当事者は、地域の支え合い活動からとても遠ざけられた位置にいることになります。
以前のように、生活困難を抱えた家族が地域の人たちや福祉サービスの給付に「負い目を感じて」孤立していくだけではなく、時間を共有すること自体が剥奪された地域の状態(「時間の貧困化」が極限に達したさま)に起因して、孤立の深刻化が進んでいることを無視することはできません。
すると、子育てや介護に高い困難を抱える人たちの孤立を防ぐ「切り札」は、時間貧乏から解放するために必要充分な支援サービスの支給を増やすことを、まずは構想すべきでしょう。
イギリスのヤングハズバンド女史は、住民同士の支え合いやボランティアについて、次のような主旨のことを指摘しています(『英国ソーシャルワーク史(上・下)』、1986年、誠信書房)
「近隣の支え合いやボランティア活動は、立場を越えて常に魅力的なものとして語られ、政策当局にとっても魅惑的なものであり続けた」
「しかし、このような魅力的な響きとは裏腹に、ボランティアが現実に果たす役割は常に限定的なものにとどまるのであった」と。
「ケアマネジメント」が資源と情報を動員してサービスを最適化することであるならば、生活困難の克服には、十分にアセスメントされた困難の質にふさわしい社会資源を動員したケアプラン以外に手立てを構想することはできないでしょう。
でも、それぞれの人の個別的な困難の質を十分吟味しないまま、ニーズとサービスを機械的・形式的につなげてしまう安易な風潮が、なぜか目に余るのではありませんか。
コメント
確かに、忙しすぎて周囲に支援を求められないというのも正しいと思います。しかし、隣人をあまり頼れない現実もその要因ではないでしょうか。
いまどきの子供たちは高校卒業後も地元志向で、高校時代の友人を大切にする一方、就職先や大学では人間関係をつくるのに苦心すると言われています。それは大人についても同様で、子が産まれ新居に引っ越してもそこで人間関係を作れないのではないでしょうか。
現代のコミュニティはよそ者にたいして極端に厳しく、そうした状況下で周囲に支援を求めることはできないと考えます。私たちのスタンス次第で子育ての負担ははるかに軽減できるのないでしょうか。
9人の子供を育てた私の両親もまた、先生と同じように時間貧乏であったのだと思います。仕事と子育ての両立で、どれほど疲れていようとも、人以上の悩みを抱えていようとも、周囲に頼ることをせず耐えていたように、子供の私の目には写っていました。度々引っ越しを重ねていた私たち家族に、心置きなく寄りかかれるようなご近所もなく、それこそ孤立した状態であったのだと思います。
先生のおっしゃるように、例え当時、ケアラーズカフェのような避難所があったとしても、ただでさえ時間に追われている中、両親がそちらに足を運ぶことはなかったでしょう。時間の確保から、サポートしていかない限り、援助を受けることのできる家庭が増えることはないと思います。
また、援助が必要なはずなのに援助を受けようとしない家族がいる要因として考えられることは、「家族内のことは家族内で解決する。」といった意識が構築化されていることだと思います。家族内と外部のボーダーラインが、周囲へ協力を求めるといった認識自体をなくしてしまっていると考えられます。周囲に協力する、周囲に頼るといった考え方を広めることも重要な支援策となるのではないでしょうか。
毎週、講義お疲れ様です。
このブログの中で、『「時間の貧困化」が極限に達したさま)に起因して、孤立の深刻化が進んでいる』と書かれていますが、それに対し『生活困難の克服には、十分にアセスメントされた困難の質にふさわしい社会資源を動員したケアプラン以外に手立てを構想することはできない』という先生の見解が示されています。しかし、これでは根本の解決にはならないでしょう。この文章を読む限り、「時間の貧困化が進む中で、どのように支援していくのかが課題である」というように読み取れますが、しかしながら、そもそも「時間の貧困化」をどう防ぐのかを考えなければ、子育てや介護の孤立化という現実を克服することはできないでしょう。
では、何故「時間の貧困化」が起こるのかを問えば、そこには「経済的な貧困化」というものが潜んでいるためだと自分は考えています。
お金がないから働かなければならない。沢山稼ぐために、裕福な人(或いは、貧困でない人)よりも多くの時間が失われる。こうして、仕事と子育てないし介護の両立には手一杯で、周りと関わる余裕さえなく、孤立を招いてしまう。
つまり、結論として、「孤立」を防ぐには「時間の貧困化」を防ぐ必要があり、そのために更に「経済的な貧困」を防ぐ必要があるということです。
「経済的な支援」というものが、最終的には「孤立」というものを防止する近道なのではないでしょうか。
「時間にゆとりがあることと周囲の人たちと時間を共有できることが最低条件」という考えに同意します。まさにそれが失われたからこそ孤立化がおこったのではないでしょうか。介護、育児が始まってから時間が無くなったという方ももちろんいらっしゃるでしょうが、大半の場合はその前から時間に追われる生活をしているように思われます。
時間貧乏から解放されるためにはどうしたらよいのでしょう。例えば給付金で、仕事で休暇をとっても生活が成り立つようにする(=子育てや介護にあてる時間を長くする)が手っ取り早い気がしますが、これだけでは無理でしょう。まず職場復帰は厳しいですし、そもそもそんなに財源があるものかどうか、私には想像ができません。今は誰もが必死に生活していますから、あまりにもそういったサービスに偏ってしまっては、周囲の反応は冷たいものになりそうです。
ニーズとサービスが違う。もったいないです。一軒一軒聞き込みをするくらいのつもりで、どういったサービスがあれば負担が軽くなったと感じられるのか調査をするというのはどうでしょうか。もちろん、ボランティアで。
9人の子供を育てた私の両親もまた、先生と同じように時間貧乏であったのだと思います。仕事と子育ての両立で、どれほど疲れていようとも、人以上の悩みを抱えていようとも、周囲に頼ることをせず耐えていたように、子供の私の目には写っていました。度々引っ越しを重ねていた私たち家族に、心置きなく寄りかかれるようなご近所もなく、それこそ孤立した状態であったのだと思います。
先生のおっしゃるように、例え当時、避難所の役割を担う、ケアラーズカフェなどがあったとしても、ただでさえ時間に追われている中、両親がそちらに足を運ぶことはなかったでしょう。時間の確保から、サポートしていかない限り、援助を受けることのできる家庭が増えることはないと思います。
また、援助が必要なはずなのに援助を受けようとしない家族がいる要因として考えられることは、「家族内のことは家族内で解決する。」といった意識が定着していることだと思います。家族内と外部のボーダーラインが、周囲へ協力を求めるといった認識自体をなくしてしまっていると考えられます。周囲に協力する、周囲に頼るといった考え方を広めることも重要な支援策となるのではないでしょうか。
現在の社会保障制度は、例えば介護であれば介護保険制度のように金銭面での援助が多く、お金で解決しようとする国の考え方がうかかがえます。
でも介護にしろ福祉にしろ、本当に必要なのはお金より時間のはずです。今回お書きになられている『時間貧乏』を解決することこそが福祉における問題を根本的に解消していくための1つの手段だと私は考えます。
1つ提案として考えたのは『就労時間を短くすること』です。育児・介護休業法のように就労者が一定期間休めるようにするのではなく、1日ごとの就労時間を例えば6時間までといったように短くすることです。休業できずに多忙であれば地域から孤立しますし、一定期間休業すれば仕事場での人間関係から孤立してしまうかもしれません。
しかし、1日の就労時間を短くすることで、仕事を続けながら在宅中にやらなければならないこともできますから、仕事場での人間関係も地域での人間関係も保ちやすくなり、心理的にも余裕がもてるようになるはずです。また、被介護者や子供も他人ではなく身内の人に世話をしてもらえるというメリットが生まれます。
そして、減った就労時間分の給料あるいは会社の利益に対して国が補償していくというスタイルが望ましいのではないでしょうか。
率直に申し上げますと、すごく納得させられました。なるほど、育てる身にとって一番厳しいものは「時間的な貧乏」なのですね。ただの家事と仕事だけならまだしも、そこに子育ての時間が加わるとものすごく負担が増えることと思います。宗澤先生もブログでおっしゃっているように、仮に育児をしていて、仕事の脳味噌と子育ての脳味噌を瞬時に切り替えることは大変困難ですごく疲れることだと思いました。そして肉体的な疲労と精神的な疲労が重なり悪循環に陥ってしまうのですね。自分はそのような悪循環を上手く克服できない場合にもしかしたら虐待という行動が生まれてしまうのではないか、と思いました。そしてだとしたら育児の面でも支援の制度を充実させることが間接的に虐待防止にも繋がるのではないかとおもいました。
そもそも時間にゆとりがあり、周囲の人たちと時間を共有できなければ、孤立した子育てや介護の担い手は誰かに相談することさえできない、という考えにとても納得しました。
この現状を打破するためには、まず子育てや介護の担い手の負担を減らす支援や制度を導入し、彼らの自由な時間を作ることが重要であると思います。時間的余裕ができれば、地域の支えあい活動に参加することも、もちろん最も身近にいる家族にも相談することができます。私の経験からしても、誰かに相談するというのは自分の不安や不満を解消する一番よい方法です。
よって、子育てや介護の担い手の”時間貧乏”状態を改善する具体的政策(例えば、育児休暇中に手厚い経済支援を行って育児休暇をとりやすくするなど)をまず第一に作り出すべきであると考えます。
母に「子育てってどのくらいたいへんだったの?」と聞いたことがあります。簡潔に「そりゃもう。」といわれました。ですが母が言うには「保育園に通わせられるようになってからはママ友みたいなつながりができて、子育ての情報を共有できた」だそうです。孤立化した子育ての実態を解消するためにも保育園や幼稚園といった施設の整備が必要だとおもいました。
このブログを読んで、私を育ててくれたあいだ、母親は時間貧乏人であったのかを考えさせられました。実家が会社を経営していることもあり、父は家事をすることがなく、いつも母がすべての家事をこなしていたためです。母は専業主婦ですが、このように外で仕事をしていなくても子育てを相談する時間は無かったようです。先生のおっしゃることは分かりますが、専業主婦でも時間貧乏に陥り、子育てなどで孤立してしまうこともあることを分かって欲しいと思います。
働きながら子育てすることの難しさにあらためて気づかされました。「さまざまな困難について周囲に相談したり、協力を仰いだりするような暇さえ持てない時間貧乏から、ますます孤立するパターンにはまりこむリスクを抱えていく」とありますが、企業などにそういった相談をうけるカウンセラーなどを雇うのも一つの手である、と私は思います。また、地域のつながりというのは働きながら子育てする家庭の多い都市部では難しいのではないかと思います。なのでそういった家庭が相談できる場所をつくることも今やるべきことだと思います。
働きながら子育てすることの難しさにあらためて気づかされました。「さまざまな困難について周囲に相談したり、協力を仰いだりするような暇さえ持てない時間貧乏から、ますます孤立するパターンにはまりこむリスクを抱えていく」とありますが、企業などにそういった相談をうけるカウンセラーなどを雇うのも一つの手である、と私は思います。また、地域のつながりというのは働きながら子育てする家庭の多い都市部では難しいのではないかと思います。なのでそういった家庭が相談できる場所をつくることも今やるべきことだと思います。
孤立した困難者が地域の支えあいの輪に交わるためには、時間にゆとりがあることと周囲の人たちと時間を共有できることの二つが最低限の必要十分条件という意見にはとても納得しました。
私の両親は共働きでしたが休みもあり、また祖母が家事を手伝ってくれていたので両親はある程度時間に余裕があったように感じます。その時間を利用して、読書やスポーツなど趣味に費やし、リフレッシュしていました。また、私の実家は地域との関わりを持つ行事が伝統として残っています。都会にはそのような行事が減っているように私は感じます。特に現代の若者は自分から積極的に周りと関わりを持とうとする気持ちが足りないのでそうゆう交流の機会を設けてあげることはとても大切だと思いました。
育児で起こる孤立に対する支援が十分でないというよりは、うまく機能していないという印象を受けました。そのうまく機能していない要因が時間貧乏であり、この問題を解消するにはまったく別の視点からアプローチしなければならないと思いました。経済面の支援を増やし時間のゆとりを確保するなどして、相談所をつくるのはもちろんですが、まずは相談できる時間をつくることが第一にすべきことだと感じました。
時間貧乏。これはお金がない貧乏より大変なのではないのかなと思いました。仕事と子育ての両立は、経験しなくても想像を絶するものなのだろうと思います。支援サービスはこれを解消するための切り札と書いてありますが、これはその通りだと思いました。
ですが、そのようなサービスが普及してきたとしても時間貧乏の方々が利用するかというとそこは疑問が残ると思います。お金がある人は利用できますが、お金の少ない人は利用できないという点や、支援サービスが日本に広く浸透していかない可能性もあるので、何かしらの対応を取らなくてはならないだろうと思います。
わたしの両親も時間貧乏であると、先生の文章を読んで思いました。家族を養うために働き、時間的な余裕はあまりなかったと思います。これは経済的な面で仕方ないことですが、時間貧乏を解決するためには経済的に豊かになることが必要だとわたしは考えます。済的な余裕があれば時間貧乏になって働き、疲れることもなく、時間に余裕ができ、その分育児や介護に手が回ると思います。経済的な支えが一番必要であると思います。
また、「ボランティアが現実に果たす役割は常に限定的なものにとどまる」という先生の考えに納得した反面、少しずつでも助かる人が増え、それが拡大していくためには限定的なものでも行っていくべきだとわたしは思います。助かる人がひとりでもいるならば、限定的でもやる価値はあると思いました。
子育てや介護等に関して時間的な貧乏が子育てする側や介護する側の首を絞めているという先生の意見には、なるほど、と思いました。やるべきことはたくさんあるのに時間がないと思うと焦って誰しもイライラするものですよね。子育てのことに関して一例ですが、私の両親は比較的自分たちの時間を持てており、町のご近所さんとも上手に付き合えていたのではないかと思います。私が小学校に上がるころには母は仕事に戻り、帰宅の際は親から預かったカギで勝手に家に入っていたことを覚えています。良い意味で両親は私を好き勝手にさせてくれていました。幼稚園のころはサッカー、小学校から水泳を始め、次いで地域の野球チームに所属していた私ですが、あまり家にいなかったこともあって母も仕事に戻りやすかったのではと思います。地域の野球チームにいたことは後になって父が言っていたことなのですが、住んでいる街に知り合いも、父親友達もできて自分もいい思いができていたとのことでした。私も自分の街の中で遊ぶ分には何の不安も持っていませんでした。
私は親の立場になったことはありませんが、親からするとわが子を自分の手の届かないところに放ってしまうことはいささか怖いことかもしれません。ですがそこからもう一歩踏み出して子供をなるべく多くの集団や組織の中に飛び込ませてみてもよいのではないでしょうか。自分の経験からそれは孤立をなくし、有意義な時間を生み、世話をする側にもされる側にも良い効果をもたらすものと思います。
周囲の人との時間がないために子育てや介護が孤立化してしまうということに、大変共感しました。確かに時間がなければ他の人と問題を共有することができないし、自身の中に溜め込んでしまいがちになると思います。私は子育てについてもっと考えていきたいと思います。私は子育ての孤立化には時間的な要因とは別の要因があると考えます。その要因として、地域のコミュニティに参加しなくなったことがあると考えます。私はこの原因には二つの事柄が関係していると考えます。一つは通信機器が発達したことによって、身近な人と絶対的に交流を図る必要がなくなったことです。二つ目に女性も仕事に就くことが当たり前となったことにより、今までは地域、及び、子育て仲間のコミュニティしかなかったのに対して、職場というそれよりも強く、そして、生活に直結するコミュニティの出現です。地域などのコミュニティは本来の性質的に助け合いが含まれており、その中では子育ても地域で共有することができます。しかし、職場というコミュニティの中には子育ては考えられていません。そのために仕事と子育てを両立させることが難しく、子育てが孤立化するのだと思います。
しかし、子育てというのは人と人との関係です。従って、実際に接することができる関係の中でしか行うことができないのは明白です。そのため、地域のコミュニティの側から子育てを支援し、関係の維持を図ることや、職場というコミュニティの中に上手く子育てを組み入れることが必要になってくると考えます。
「時間がなくて周囲に助けを求められない」は確かにあると思う。しかしそれは一要因であり、他の要因として近所の人との関係の希薄や国家や地方自治体の支援の不足、縮小されていく家族も挙げられる。祖父母に子どもを見てもらうことや女性が働かず家で家事、育児をこなすという家族形態の時代から、今や共働き、シングルマザーやシングルファザーが増え、縮小された家族形態に変化した現在にそれを求めることは出来ないだろう。現在では育児・介護休業法などの支援策を国の措置としてとっているが、それにおいても子どもを持つ親に充分な支援が出来ているとは思えない。今後必要なのはそうした核家族化した家族に適応した支援策の作成と実行、そして企業のそうした社会のありようへの理解であろう。
私の家では三人兄弟で両親が共働きであったのですが、幸い祖父が私たち兄弟の面倒を本当によく見てくれたので、両親は本当に助かっているといつも言っています。しかし、そういった比較的助けがある環境においても、両親は本当に忙しそうで、いつも時間がないと、言っていました。誰の助けも得られないとしたら、私たちの家族はどうなっていたかわかりません。支援サービスをもっと大々的に普及させるべきです。孤立の大きな原因を私は未だ多くの人に根強く残っている「子育てはその家の問題」という認識だと思います。助けを借りて当たり前と言った認識を広め、そしてその助けてくれる拠り所となる支援サービスをもっと増やすべきです。
先生の記事、すごく納得しました。
私去年、歳の離れたいとこを一日一人で預かったことがあって、その時の苦労を鮮明に思い出しました。先生が書かれているように、やらなければいけないことに追われて大変なのに、子供が泣いたりして時間貧乏になってました。私の場合は一日でしたが、これを日々味わっている世の中のお母さんお父さんはほんとにすごいと思いました。
子育ての大変さに追われてる親は、なかなか他人を頼れなくて孤立しがちと書いていましたが、ほんとにその通りだと思いました。最近ニュースでも子育ての大変さに耐えきれず、精神的に疲れて、自ら子供を殺めてしまうという事件を耳にします。このような悲惨な事件を起こさないためにも、政府や自治体の支援が不可欠です。
私もこれから子育てをする側になるので、すこし荷が重いですが、精神的に孤立しないように子どもを育てられたらなと思います。
確かに現代は時間貧乏になっていることを感じさせられます。以前の家族構成は、祖父母、両親、子どもの三世代家族でありましたが、現在は両親、子どもの核家族になってしまったことが、時間貧乏に拍車をかけていると思います。また、核家族になったことで、(人間には両腕があるという差別的な見方になってしまうかもしれませんが)祖父母を含め8本あった子育ての手が、両親の4本だけになってしまい、その手にのしかかる子育ての負担はとても大きいものになってしまったように感じられます。また、私自身の経験としては、両親が共働きで学校終わりに家に帰ると誰もいないということがしょっちゅうでしたが、夜ご飯は必ず母親と食べていました。母親なりに子どもとのコミュニケーションを大切にしてくれていたのかなと今になって思います。
また、必要十分な支援サービスの構想についてですが、それについても賛成です。一時期話題になった子ども手当というものがありますが、あれは金を渡すだけで、少子化の根本的な解決にはなっておらず、出産後も親の時間的な負担を減らすことになっていないと思います。だからこそ、今一度社会的なサービスを見直す時期に来ているのではないかと思います。
子育てと仕事の両立の難しさと聞くと、真っ先に私の母親の姿が思い浮かびます。私か小さい頃風邪をひいたときに仕事の合間を縫って看病しに来てくれた事が何度もありました。今思うと、当時の母はまさに「時間貧乏」だったように思います。
先生もおっしゃっているように、地域の支え合いは魅力的な対策に思われがちですが、私もあまり効果的ではないと思います。そもそも時間貧乏の人は地域の支え合いに触れる時間がないとの指摘ですが、その通りだと思います。
また、時間のゆとりが無くなれば、それに比例して心のゆとりも無くなってしまいます。ストレスがたまり、自分が体調を崩してしまえば子育てどころではありません。ところで、近年ネットの普及によりSNSが流行り出しましたが、これを子育てのストレス解消に役立てるというのはどうでしょうか。SNSであればどこでも短時間で利用する事が可能です。時間のゆとりは無くても、心のゆとりは保つ事ができるかもしれません。
時間の貧困については私も日々かんじております。
もちろん、人それぞれ程度の差があり、私の貧困は世間一般のそれに比べ、軽度であり工面の仕方によって解消できるものかもしれません。
しかしながら時間の貧困というものは、誰しもがかんじていることだと思います。
そんな貧困ですが、やはり人に頼って済む問題なのか頼れる問題なのかという疑問もありますので、いくらそれぞれの人の個別的な困難にあわせたサービスにしようともあまり効果は見込めないと思います。
また、手間や費用のことも考えると現状で済ますというのは極論ですが、ある程度の完成系ではあると思っています。
新たなサービスというものを考えなければいけないと思います。
私の家は母が専業主婦であり、あまり時間貧乏という印象は受けなかったものの、子育て、家事により、それなりに忙しい生活を送っているように思えました。なので、働きながら、子育て、家事をおこなうというのは、非常に大変なとこであると思います。
現代は女性の社会進出が多くなり、共働きの家庭が増えていく中で、このような問題も深刻になっていき、育児放棄や虐待に繋がっているのではないかと考えます。
子育ての担い手の時間貧乏を解消するためにも今一度、新たな支援サービスを考えなくてはならないと思います。
私の地元は電車が1~2時間に1本しか来ないようなところだったので、初めて埼玉に来た時にたった10分も待てば電車が来るにもかかわらず走って電車に滑り込んでいく都会の方々がとても不思議でした。今ではそんな生活にも慣れてしまい、本当にゆとりがないと感じます。このような生活の中では確かに周囲の方と共有する時間などというものは設けられないと感じます。都会は田舎に比べて近所との付き合いも少ないし冷たいとはよく聞きますが、時間貧乏である限りその通りだと思いました。
私自身の家も今思うと時間貧乏な環境でした。共働きで帰りが遅く家事が大変なんてこともしばしばありました。一人暮らしを始めて両親の偉大さを改めて思い知りました。私が住んでいた地域では家族同士のつながりが多くあり、支えあいながら生活できていたのではないかと思います。しかし言うまでもないことですが、このような関係がどこでも成り立つわけではありません。そういった意味でやはり、支えあいといった面からだけではなく、それぞれの生活の状況を熟考したうえでのサービスの提供が大切になってくると感じました。
日本は特に時間に追われている気がします。“時間は作るものだ”と言われることもありますが、時間を作ってまで時間が必要な状況ってなんなんだろう、と思います。日本人はとてもせかせかしていて、いつも忙しい印象を受けます。私が今年の3月にパキスタンに行ってきた時、パキスタンの人たちはとてもゆっくりとしていて、移動中のバスから外を見ていると、椅子に座ってこっちをじっと見ている人がたくさんいました。パキスタンにいる時は課題に追われることも、バイトに追われることもなく、有意義な時間を過ごすことができました。と同時に、時間があることで深く考えることができ、時間にゆとりがあることが大切だと感じました。時間に追われることが日本の自殺をする人を増やしてしまっている原因のようにも感じます。いくらサービスなどを提供してもサービスを受けたい人たちに時間のゆとりがなかったら意味がありません。時間にゆとりを持つためにも、単位を個人個人に分断していくのではなく、家族などのように少しでも単位が大きくある状態であることが必要なのではないかと思いました。また、時間を共有するだけでなく、気持ちを共有することも必要なのではないかと思いました。
孤立ってとても寂しくてとても辛いと思います。自分が孤立、孤独を感じてしまうとどこか頭が働かなくなり無気力になったり。災害等で被災されたとこに救援物資を配布するといったものは機械的でっても非常に効果的なものだと思われます。しかしこういった支援ではケースバイケースですから断定的な支援では行き届かない部分が必ずあると思います。さらに僕が思うのはこういった支援に孤立、孤独を感じた人、集団が支援を申し出るのに幾分戸惑いがあるのではないかと考えます。申し出にあたって閉鎖された精神状態で行動も消極的な中、躊躇すると思います。さらに支援、ボランティアへの救済を求めづらさという一種のオーラ的なものもあるのではないでしょうか。
確かに子育て・介護はとてつもなく大変だとよく聞きます。仕事や家事などの両立は確かに大変だと思います。
男女平等社会になり、女性も積極的に社会に出て活躍する時代となりました。しかしながら、社会はまだまだ男女共働きの家庭をうまく支えていけるだけの保障制度が成り立っていません。子育てに介護に家事に…パンクしてしまいます。
以前までは女性が家にいて家事・子育てをし、また近所同士で助け合っていました。しかしながら今は近所と付き合っている時間もあまりありません。なので社会全体で支える保障制度が必要だと思います。こうすることで初めてゆとりができ、子供の数も増えるのではないでしょうか。
私も先生の意見に賛成です。共働きの家庭によくみられるのが両親共に時間がなく、子どもと十分に関われていないということです。家庭の経済的な問題もあると思いますが、子どもが幼い時は特に共に過ごす時間が必要だと感じます。昔は地域とのつながりが深く子どもをみるのは親だけでなく、近所の大人の人も見てくれていたので今の親よりは不安が少なかったと思います。地域のつながりは家庭だけでなく、学校とも関係してきます。地域のつながりが深いと学校との連携もとりやすくなるからです。学校との連携が取れると学校も地域も子どもにとってより良い環境になると考えます。時間貧乏はその人にとっても苦しい状況になりますが、子どもたちにとってもいい状況ではありません。
コメント失礼します。
私の家は両親共働きで、私がもっと小さいときは本当に忙しそうにしているのが印象的でした。朝は家事をし、夜は働きに行き、深夜に帰宅する母親の姿を昔からよくみているのでわかります。辛いときは、おばあちゃんやおじいちゃんに助けてもらいながら、こんなに頑張ってここまで育ててくれて、本当に感謝の言葉が尽きません。
時間貧乏は、本当に辛いものです。追われれば追われるほど、どんどん世界から孤立していくような気分になります。ですが、そんな時に支援サービスが助けてくれたら、もっと楽になれると私も思いました。時間も心も充実した生活を送りたいものです。
わたしは、現代社会での孤立化問題は、消費社会の中で生まれた個人主義的な考え方に起因しているのではないかと考えています。自分や周りの人間さえよければいい、他人に関心がない、という風潮が広がっていると思われます。そういった考え方は、政治への無関心や、公共機関での不親切、マナー違反などにもあらわれていると考えます。そういった考え方、態度が、子育てを行う親への地域の人間からの支援や心遣いの減少にもつながり、子育てをしづらい世の中になっていると思います。それらの事柄は、少なからず、少子化という社会問題にも影響しているのではないかと考えます。子育てというものの大変さを理解し、支援とまではいかずとも、社会全体で子どもを見守ることのできる社会に変容していく必要があると考えます。
子育てや家事と仕事、忙しくて気持ちの余裕がなくなる様子は子育てを経験したことのない私にも想像はつきます。また、現代の家族が地位との交流や他社との助け合いに積極的ではないことも理解はできま。しかし、家庭のまわりとの孤立は子供の友好関係における孤立にもつながると思います。逆に、親同氏が友好関係を持つ場合、自然と子供同士も仲良くなり、友達を作ることができます。実際に私の家は共働きで忙しく、近所の幼稚園が同じだった子の家にお世話になっていました。また、親戚の家が近くだったことから、お互いの家に行ったり来たりしていました。そのお蔭で、両親が忙しく家にいなくてもさびしい思いはしませんでしたし、その時お世話になった家族とは二十歳を過ぎた今でも仲良くしています。もし、両親が周りとの関係を気づくことを拒み、孤立していたとしたら、幼い私はさびしい思いをしていたと思います。忙しく、時間的にも気持ち的にも余裕がないとしても、子供の幼稚園や学校、自分の会社、または家族など生活の中で自然と作られるコミュニティの中で協力し合える環境を作ることはできるのではないでしょうか。それによって自分にゆとりができるだけでなく、子供にも寂しい思いをさせないことにつながると思います。
私の両親は、共働きです。私は中学校から卒業するまで、毎日昼間に近い町に住んでいる祖母に面倒されて、夜には私と両親は祖父祖母と一緒に夜ご飯を食べた後、家に帰ります。夫婦共働きすることは、中国では当たり前だと思われています。一人の給料は家族生活を支えられないのは原因の一つですが、このような生活方式はいいと思います。家族成員は一緒に夜ご飯をする時間をとても大事にして、仲良いです。祖父祖母も寂しくないで、何があったら、すぐ連絡できます。私も小さい時から、家事を手伝えられるようになりました。父と母に怒られても、祖父祖母がいるから助かりました。殴られたこともないです。私は子どもができたら、父と母に頼むつもりです。
私の両親は、共働きです。私は中学校から卒業するまで、毎日昼間に近い町に住んでいる祖母に面倒されて、夜には私と両親は祖父祖母と一緒に夜ご飯を食べた後、家に帰ります。夫婦共働きすることは、中国では当たり前だと思われています。一人の給料は家族生活を支えられないのは原因の一つですが、このような生活方式はいいと思います。家族成員は一緒に夜ご飯をする時間をとても大事にして、仲良いです。祖父祖母も寂しくないで、何があったら、すぐ連絡できます。私も小さい時から、家事を手伝えられるようになりました。父と母に怒られても、祖父祖母がいるから助かりました。殴られたこともないです。私は子どもができたら、父と母に頼むつもりです。
私の両親もまた、時間貧乏てあったと思います。父は夜11時以降に帰ってくるのが当たり前、母も出来る限りパートの仕事をし、家にいる時間がまちまちでした。そのような生活の中、子供を育てるのに大きな助けとなっていたのは、祖父、祖母の存在でしょう。
この点で先生とは違う状況なのかもしれません。少なくとも孤立は無かったように思います。この状況は地域の結びつきがもたらす最高の結果と類似していると思います。地域の結びつきを強化するのは先生がおっしゃる通り難しいと思いますが、時間貧乏である両親を地域の住民側からのアプローチによって、救ってあげることが必要だと思います。
私も、両親が共働きで学童で育ちました。
そして、今、NPO法人の学童保育でアルバイトをしています。
私が通っていた頃の学童と今アルバイトをしている学童の1番の違いは、親が迎えに来るというルールです。
私が通っていた学童は決まった時間になると同じ方向のグループで子どもたちだけで帰りました。
今働いている学童は、原則親が迎えに来ることをルールとしています。
これは世の中の現状が変わったことも大きな理由であると思うのですが(名札をつけて登校できなかったり、集団登校・下校が必然となりつつあったりすることも然り)、共働きという忙しい環境の中で「迎えに行く」という活動が親に増えたことは、親の負担になるであろうと思います。しかし、親子の関係をよくするためには良い方法であるかもしれない。学童に任せきりになるようなことはなくなるでしょう。
そのため、学童は子どもの預かり時間を比較的遅くしたり、土曜日も開放するなどの協力体制をとっている。地域協力、というのはこのようなところからも垣間見られるのではないかと気づきました。
先生の記事を読んで、今中国で問題化している'留守児童'問題を思い出した。両親共に農村を出て、都市で働き、その子供を老人に預かって育てる。これは現在中国の広い農村でよくあるパタンだ。時間貧乏と言うところが、完全にゼロの場合もある。自ら養育すべき子供を介護すべき老人に預かるのはとてもおかしいと思う。そのうち、不登校や児童傷害事件のニュースも時々見れる。確かにお金がないと困るが、お金だけ子供にあげるより、愛を与えることはよぼど重要だと思う。もちろん、これは親の問題だけじゃない。政府も困難がある家庭に救助すべきだ。子供の成長は国の未来に関わるからだ。
私が小学生のころ母が亡くなってからは父が家事を引き受けてくれました。今思えば父は飲み会にもいかず、外での趣味も持たず、ずっと家にいました。それが父の性格なのかと思っていましたが、娘を見てやらなければという義務感もあったのかもしれません。社会の支えがあれば、やりたいことができたのかもしれません。そろそろわたしたち娘も大きくなってきたので、父にも外で楽しく遊んでもらえたらうれしいです。
確かにそもそも時間が作れない、作れても周りの人とうまく時間が合わなければ「地域の支えあい」なる夢物語に参加したくとも参加もできないでしょうし、下手をすれば「なんでアイツは自分たちの活動に参加しないんだ」などと思われてしまいそうです。どうも自分の視点からしか物事を考えることができない人が安易に物事を進めようとしているのかと思います。
多様化する現代の生活スタイルに対応するには、個々のニーズに合わせて柔軟に形を変えられるような支援サービスが必要不可欠だと思います。(せっかく増税するならこういうことにきっちりお金を使ってほしいものです。)
社会進出を果たしながらも、結婚し子供を産んで子育てを会社勤めと並行しながらもやりくりする、ここに時間的な余裕を生み出すことは非常に困難極まりない子とだと思います。「会社勤めの女性は結婚したら寿退社して主婦に専念する」、という私のイメージは近年なくなってきているのかなあ、というのが率直な気持ちです。それこそ、現代の会社がまだ私のような考えを持っているのだとしたら、「時間貧乏」に陥ってしまった人を救済する体制を整えるのは時間がかかるでしょう。
「時間的な貧乏」は、女性が専業主婦としていつも家にいた時代と比べ、現代は女性の社会進出が当たり前となっているという、前向きな傾向から生じる問題でもあると思います。
「時間的な貧乏」が理由で、社会進出か子育てのどちらか一方を諦めざるを得ない世の中になって欲しくはないですが、記事中にもあるような、ご近所付き合いの希薄化、万人に合ったサービスや制度が確立していないことから、なかなか難しい問題だと思いました。
仕事と子育てを両立しようとする親の、一人一人に合ったサポートサービス、制度の充実を期待したいです。
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