命をつなぎ地域を支え続ける福島の支援者
今回の福島視察にご協力を戴いた皆さんです。左から順に、福島県社会福祉協議会人材研修課の今関稔子さん、社会福祉法人福島県福祉事業協会相談支援相馬事務所の四條拓哉さんと佐藤良さん、NPO法人JIN代表で相双郡障害保健福祉圏域の自立支援協議会会長を務める川村博さんです。ご多忙な中、まことに有難うございました。
ご協力いただいた福島の皆さん
災害発生から5カ月余りの間に、現地の障害者支援にあたる「NPO法人さぽーとセンターぴあ」と「JDF(日本障害フォーラム)被災地障害者支援センターふくしま」が実施した要援護者調査の報告書サマリーには、次のような一節があります(「障害者が安心して暮し・働ける南相馬市をめざして-緊急避難時における要援護者調査から-報告書」2011年8月29日)。
「東日本大震災は、大きすぎた、突然だった、予想の余地がなかった、そこへ『安全』と言われてきた原発事故が襲撃した。
市民は逃げ惑い、自らの命を守り、つないだ。多くの市民が犠牲になった。自然災害が発する度に『災害弱者』の言葉が飛び交い、その対応に反省とともに改善策が浮き彫りにされる。災害が発生した瞬間に障害のある人はすでに命の危険を伴う状態に置かれる度合いは高いといえる。実践的な緊急対応策が急務である。
承服しかねるのは、避難時、避難後の生活の実態があまりにも過酷で、無計画すぎるということだ。毎回の災害発生時に繰り返されているように映る。」
福島原発の事故発生からしばらくの間、屋内退避をしながらいつでも避難できるよう準備をしておくことを命じられた地域があります。福島第一原発から20~30キロ圏にあって、大量の放射性物質の放出に備えて指定された緊急時避難準備区域のことです。
ここでは、いつでもすぐに避難できる態勢にあることを政府が住民に指示しましたから、学校や保育所の閉鎖はむろんのこと、介護・福祉サービスの提供はすべてストップしました。支援事業者は、あらゆる介護・福祉サービスを実施してはならなくなったのです。
日々の介護・福祉サービスは、高齢者や障害者にとって必要不可欠なものであるにも拘らず、それが実施されないとなると容易ならざる事態が出来します。障害のある子どもとお母さんがずっと自宅内にこもり退避を続けていると、子どもの問題行動の拡大しない方が不思議です。要介護状態のお年寄りが居る老々世帯では、ホームヘルパーが来ないために食事・排泄から体位転換などへの対応ができなくなってしまいます。
このようにして、屋内退避を強いられた家族の中では、障害のある人に落ち着いた日常を保つことが難しくなります。その窮状を知り、家庭内部の不適切な関係性が煮詰まっていくことを避けるために、避難準備指示のさなかにもサービスの提供に踏み切った勇気ある障害者支援事業所もありました。まさに「命を削り、命をつなぐ」ためのサービスではなかったでしょうか。
冒頭でご紹介した相談支援センターの四條さんは、楢葉町の消防団員でもあったため、避難指示に従って住民の避難誘導に責任を負う立場にもありました。
支援センターを離れて消防団員の衣服をまとい、多くの地域住民と首都圏にまで避難した直後から、四條さんの携帯電話には、これまで日常的な相談と支援を実施してきた当事者とそのご家族からの悲痛な叫びが途切れなくかかってきたそうです。
同じ支援センターで就業支援を担当する佐藤さんも富山まで避難を余儀なくされていました。しかし、事業所の再開を急がなければ、障害のある人とそのご家族の窮状がますますひどくなることは明らかであるため、避難の混乱が収まらない中でも、3月29日には四條さんとともに職場に復帰されたそうです。
先日私が福島に視察に行った最中でさえ、福島第一原発の汚染水が地下貯蔵タンクから大量に漏れるというアクシデントがありました。現在でも原発を制御しきれず無様な動揺を続ける事態を前にして、福島の人たちの不安と怒りはとても治まるところではありません。これが原発事故の直後ともなれば、地元に戻ること自体に恐怖が襲ってきたでしょう。しかし、その究極の不安を押してでも、事業所の早期再開を決意した支援者がおられた事実は、私たちすべてが胸に刻むべきことだと思います。
そして、2年余りが経ちました。警戒区域に指定された地域の人たちは、会津やいわきへの避難や仮設住宅への入居を強いられ、自主的な判断で福島県から遠く離れた地域に避難した人たちも大勢います。相双郡の住民の多くは離れ離れとなり、要援護層の当事者たちは新しい地域に移ってどこに相談すればいいかもわからないため、相談支援センターに赴くことはまずありません。
そこで、支援者の側のアウトリーチが中心となってしまいます。ここで、遠く離れ散り散りになった当事者を訪問しなければならない、抱えている困難の程度が高いとなると、時間と労力のかかる支援の実施を余儀なくされるのです。
たとえば、保健所によるある地域の3歳児健診では、疾患や障害がないにもかかわらず、15人の子どもたちの内14人に発達上の問題が確認されて経過観察となったそうです。言葉の遅れ、運動発達の遅れ、色の間違いなど問題は様々です。大地震と津波に原発事故が重なった地域で、過酷な避難行動・避難生活から仮設住宅への転居と振り回される生活状況の中で乳児期を過ごさざるを得なかった子どもたちへのしわ寄せは、まことに深刻な事態を生み出しています。
ところが、このような子どもたちへの療育支援は思うように実施できないのです。
相双郡では学校が再開しても、肝心の子どもたちが戻ってこないという現実に見舞われています。つまり、放射線被害を恐れる母親と子どもたちが遠くに避難し続けているのです。そして、福祉サービスの担い手の多くがこの世代の女性であるため、もっとも戦力となる20~40代の子育ての渦中にいる女性の支援者はなかなか地域に戻らないのです。
高齢者の介護サービスや障害福祉サービスも同様の事情から、事業所を再開してもマンパワーの不足する事態が続いています。限られた人数の支援者で、困難度の高い要援護者に対してアウトリーチを基本に支援を展開すれば、支援と支援者の限界に自ずと直面するようになるのは当然です。
四條さんは、「支援者支援が現在の課題です」とおっしゃいました。(続く)
コメント
此度の地震はなすすべがなく、政府の対応にも同情する余地があるような気がしていた。しかし、それにしても対応が遅すぎではないだろうか。「原発事故により良く対応することができた」という事実の隠ぺいに始まり、そうかと思えば、政府職員は選挙に右往左往し、当選、政権交代に血眼になっているようであった。一年半以上が経過した当時の選挙ではTPP参加ばかりが謳われ、復興に関しては大して触れていない。ニュースでは、感動的な場面ばかりを特集し、涙を誘うものばかりが画面に映る。一見関心を引き付け、人々の記憶に永劫に残るように尽力してるように映るが、以前に教授がおっしゃっていたように、情緒化されたものは、長くは記憶として定着していないものだ。金曜ロードショウのように、「あ、こんな映画があったりしたな」程度で終わってしまうだろう。そして、そんなメディアに操られるように、人々は感動し、視聴率アップの手助けをしているのみである。ここで問題になってくるのは、情報リテラシーを駆使しようとせず、感情によってのみ生きてる、国民ではないか。メディアに操られるままに生きていればこそ、政府が真に何をしようとしてるのかを見ようとはせず、表層で行われてることのみに着目し、その為に、あたかも何かをしているようなような状態で政府は安心してしまうのではないか。政府が動かなければ問題は早急に解決されないということを考慮すると、この問題は国民の在り方に帰着するのではないだろうか。
3月11日、私は福島から遠く離れた京都にいました。観光から帰ってテレビをつけた時、目の前に飛び込んできた光景が同じ日本で起きているのだということが信じられませんでした。津波に飲み込まれていく家々、避難しながらもこの光景を記録しようとする人たち、人々の落胆の声・・・。受け入れるにはあまりにも膨大な時間がかかりました。被災地の方々のその時の心情を考えると胸が痛みます。
しばらくして被災地復興の声を頻繁に耳にするようになってからは全国、更には全世界から様々な物資が被災地に寄せられるようになっていきました。物資のみならず、アーティストによる復興ライブなども行われました。多くの人が被災地の助けになろうと自分たちにできることをしていたように思います。
しかし、今もなお被災地の人たちはあのころと同じ生活はできていません。それどころか、被災地でのストレスから体調を崩すひとも多いようです。物資やサービスでなおせる傷は数知れないのです。一番必要なことは被災地の人たちの意見に耳を傾けること。そうして挙げられる意見を一番に優先すべきだと思います。
そのためには、私たちはいつまでも3月11日の記憶をしっかりと心にとどめておかねばなりません。産業の発展のために様々な政策を講じるよりも、同じ国に住む人間の安定した生活を取り戻すことの方が先決すべきことなのではないでしょうか。
3月11日,津波から人々が高台へ逃げていた映像には,たくさんのお年寄りも映っていました。津波から逃れるには,高い場所に避難するしかありません。若い人ほど体力のない高齢者,介護が必要な人々など,高い所へ避難するのは困難な人々がたくさんいます。これからは,津波の被害が予想される沿岸部は,どんな人々でも避難できる避難経路や避難方法を考えていく必要があると思います。
先の東日本大震災では、自分を含め非常に多くの方々が心に消えることのない深い傷を負いました。特に福島県では震災に加えて、原発問題などの二次災害も起こり、深刻な状況に置かれました。
私の祖父祖母は宮城県七ヶ浜町に住んでいて、不幸ながら津波によって二人とも命を落としました。遺体が海に流されることなく、残っていたことがせめてもの救いでした。どうして人間の命はこんなにも儚いものなのかと考えるようになり、不意に泣きたくなる時もありました。
私は月日が流れていくにつれて、多くの人がこの震災の恐ろしさと苦しみを忘れていくのではないかと内心不安です。明日震災が起こってもおかしくはなく、常に震災の危機感を少しでも持つことが非常に大事だと強く思います。
東日本大震災が起こって2年強がすぎましたが、テレビを眺めているとめっきり震災の話題が減ったなあ、と感じる今日このごろです。当時は高校生だった私も、この大震災の状況を見て衝撃を受けたのを覚えています。
さて先日、社会福祉施設へ行き、たくさんのことを経験しました。そこの職員の方が話してくださった中には震災についての話題もありました。震災以前は2階を主な活動場所にしていたそうですが、あのような大地震が起こってからはエレベーターに閉じ込められてしまうなどといった被害を防ぐために、利用者の活動場所は1階に変わったことを教えてくださいました。
今必要なのはあの震災の経験を次に生かすことです。とりわけ、介護施設等は万全な体勢で臨む必要があることを私たちは考えなければなりません。
東日本大震災がおこって2年以上の月日がたったが、未だに福島原発事故の解決への糸口は見つかっていない。そして福島の住民は今なお放射能におびえ暮らしている。私はこのブログを読み、一番感じたことは政府の無責任さである。緊急時避難準備区域を指定するにあたって、なぜ政府は滞る介護、福祉サービスに代わる対策を何うたなかったのであろうか。介護、福祉は高齢者、障碍者にとっては必要不可欠なものである。もし、支援センターの人々がもどってこなかったら大変な事態におちいっていたはずである。もっと政府は被害者の側に立ち、一刻も早くこの問題が解決されることを望む。
震災から2年4か月以上が経過しました。復興が進んでいるとは思いますが、正直まだまだな部分が多いように思います。また、震災当時、高齢者や障碍者など要介護状態の方々へ向けられる視線も明らかに少なかったと思います。避難を強いられた子供たちが正常に発達できないなど新たな問題も浮き彫りになっています。原発をなくす、なくさないなどの問題も大切ですが、国には、障がい者や子供の問題にももっと目を向けてほしいように感じます。
東日本大震災から2年以上たっていますが、未だに仮設住宅に住まなきゃいけない人たちはたくさんいます。その人の家族の中にはお年寄りで歩くのがつらい方、小さい子供がいて普通の子のように遊べない人がたくさんいます。仮設住宅に住むことによってその人達がどれだけ良くない影響を受けたかは、私たちには想像もできないと思います。復興を支援することの中でも、町自体を復興させるのも大事かもしれないけど、人々の生活を少しでも過ごしやすいようにさせることが復興で最も大事なことだと思います。
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