共生と分断のせめぎあう福島
東日本大震災から2年余りが経過しました。震災と原発事故の直後から一年ほどの間に流された夥しい量の現地情報がありました。それでは、福島の現在はどうなのか。それを知りたい気持ちに駆られた私は、先週現地に赴いてきました。これから数回に分け、このブログを通してその報告をしたいと考えます。
なお、画像はすべて現在の南相馬市小高区のものです。
土台ごと津波に破壊された住宅
福島市に到着して福島駅周辺を歩いてみると、震災以前と変わりない活気を取り戻した街の様子に安堵を憶えます。
一方、この4月1日に避難指示解除準備区域に入った南相馬市小高区に入ると、津波と地震に襲われた生々しい被害の様子を今日でも目の当たりにします。この辺りは福島第一原発に近いとはいえ、放射線量は福島市や郡山市とさほど変わりません。
津波で流された小型漁船
福島に赴く直前、私は福島県が発表している放射能測定マップに一通り眼を通しました(http://fukushima-radioactivity.jp/)。このマップよると、福島市の中心部でも時間当たり線量が1マイクロシーベルト近くになるところがあるかと思えば、南相馬市小高区でもほとんどの観測ポイントで0.5マイクロシーベルトを下回っていることが分かります。
被災した当時のままの家
私は現地に線量計を持参し試しに測ってみることにしました。すると、福島駅周辺の街路樹の植え込みで0.99マイクロシーベルトのところがあったのに対し、視察させていただいた南相馬市の原町区の支援事業所前で0.33、小高区で0.61と出ました。ちなみに、川越市の自宅周囲では0.07でした(私の持つ線量計の精度は低く、±20%の誤差があるため、これらの数値は目安に過ぎません)。
トラックの荷台
転がしたような重機
現地の人たちの多くは、復興の進まない現実に憤りを憶えています。線量が低い地域であるにも拘らず、画像にあるような津波被害の惨状がそのまま放置されている光景を目の当たりにすると、現地の人たちが「復興は一向に進んでいない」と感じるのも無理はありません。画像の現状でも瓦礫の整理は進んだとのことでしたが、それでも「遅々とした復興の歩み」であるとの印象を拭い去ることはできません。
放置されたままの車-環境省の張り紙が
福島市から南相馬市に車で向かう途中、避難指示の解除されていない飯舘村を通過しました。もちろん、ここでは誰一人暮らしてはいません。飯舘村を通る際に車中から眼にした光景は、お墓の多くにみずみずしい仏花が供えられていたこと(住めないけれども住民が墓参りだけには来ているのでしょう)と、参院選を控えた政治家の真新しいポスターが道路沿いのあちこちに張り出されていたことです。そして、南相馬市小高区に到着すると、津波に流されたままの車のボディに、持主からの連絡を乞う環境省の張り紙があります。
何だかとても虚しい気持ちに襲われました。
沿岸部では水が引かない
瓦礫の山
地域と住民の分断は深刻です。
福島県の大きな地域の括りは、浜通り、中通り、会津の三つです。浜通りは、海岸に沿って南北に通じている国道6号線とJR常磐線の交通によってつながりあう地域でしたが、そのど真ん中に重大事故を発生させた福島第一原発があるため、ビジネスか教育・福祉・医療かを問わず、あらゆる人のつながりが断たれてしまったのです。
その上、原発事故に伴う避難指示の指定に始まる地域の線引きは、住民同士の間柄を分け隔てる弊害を生み出しました(この指定の経緯と現状については、次を参照のこと。http://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/pdf/130307/20130307_07.pdf)。
ゴーストタウンのような小高区
この地域指定は現在、〈避難指示区域見直し未了(避難指示の継続している地域)〉、〈帰還困難区域〉、〈居住制限区域(4年以内の帰還を見通すことのできる地域)〉、〈避難指示解除準備区域(早期の帰還が見込まれる地域)〉の4つに分けられています。
この区分は自宅に帰還できるかどうかの区分にとどまらず、東電賠償の多寡にもつながっています。すると、仮設住宅における帰還困難区域と避難指示解除準備区域の住民同士の会話は、「あなたは家に帰れていいわね」「あなたこそ多くもらえていいわね(被害はほとんどかわらないのに)」となってしまうこともあるそうな。
警戒区域だった地域のゴミは外に運び出せない
原発事故による被害は、住民に一切の責任がありません。それなのに被災からの立ち直りを住民それぞれにふさわしく見通すことのできない現実が、このような悲しい軋轢を生んでいるのです。
最後に、福島市で子育てを続けているあるお母さんの言葉を紹介しておきましょう。
このお母さんに、「東京の市場で福島産の野菜が売れないことをどう思いますか?」とおそるおそる訊ねてみました。
すると「それは当然でしょう。私だって食べたくありませんから」と返ってきました。
「原発で事故が起きたとき、自分が子どもを産んだことをまず後悔しました。わが子を放射線被害に遭わせるなんてことだけはしたくありません。」
「子育てのさなかにいるお母さんは、事情さえ許せば、みんな遠くに避難したいと考えているし、実際、福島に仕事を持つ父親を地元に残して、母子だけは遠くに避難している人も大勢います。」
「私は福島に仕事があって、ここでしか暮らしの見通しが立たないから致し方なく福島に住み続けているのです。遠くに避難しても収入に不足のない仕事の保障があるならまだしも、私には子どもを連れて遠くに転居する選択肢がなかっただけです。」
「ここに居れば、低い線量とはいえ外部被爆は免れません。それに加えて、口に入れるものから子どもに内部被爆させることだけは絶対に避けたい。だから、飲水に調理に使う水のすべてはペットボトルの水にしているし、学校給食に出される福島県産の牛乳も飲ませないようにしています」
「水道水、牛乳に野菜などは、行政が検査して安全だと言っていることは分かっています。でも、自分や子どもが口に入れる特定の水や野菜が、検査対象と同じ線量であるとの信頼までは持てないのです。」
「だって、行政や研究者は原発そのものを『安全』だと言い続けてきたわけでしょう。事故が起きつつある最中でさえ、『メルトダウンは起きない』『水素爆発には至らない』と発言していた有識者や閣僚までいました。そんな行政や研究者の言うことを今さら信用しろといわれてもねえ。」
ごもっともです。原発の重大事故によって露呈した行政と政治家、そしてまた科学と研究者への徹底した不信、拠り所を失ってバラバラになりがちな住民同士の間柄。私にはこれらのすべてが、現在の日本の縮図であるように思えてならないのです。
次回は、このような分断の現実に立ち向かい、共生のための地域の再建に取り組む支援者の皆さんのお話を報告します。
コメント
震災からもう2年以上経過した今でもまだ復興が進んでいないのだなと感じた。地震・津波に襲われたまま、時を止めてしまったかのような自分たちの家を、どのような気持ちで人々は見ているのかと思うと苦しいものがある。特に原発事故の影響で復興が微塵も進まない福島の惨状はこうして伝えていかなければいけないものであると思う。かといって「線量は低いのですからどうぞ地元にお戻りください」という何の配慮もない声掛けなどは絶対にあってはならないものである。電気・水道・道路などのライフライン・公共機関がまともに回復していない、安全が不透明な地域に、何よりも大切なお子さんを連れて戻ろうという考えを持つことがどれだけ大変なことかを、データなどとにらみ合う前に考えなければならないと私は思う。
私の祖母が福島県須賀川市に住んでおります。建物は多くが半壊。放射線量も高めです。もともと過疎化していて地域で、震災を機に引っ越す方もいらっしゃいましたが、祖母は残っています。理由を尋ねたら「ここには私を支えてくれる人たちがまだいる。どんなに大変でも、長年近所に住んできた人がいれば乗り切れるからだ」と言っていました。どんな不安があっても、周りの人との繋がりは一生物になっているのだと学びました。震災から2年半ほどになり、報道も少なくなっていますが、私もその繋がりに入ってサポートしたいです。
私は2年ちょっとたった今でもまだ放射線についての知識が欠けていると思います。私たちの生活は現在も放射線に支えられています。それは医療現場でのX線や癌の放射線療法、今は数値が少し変わっているかもしれませんが世界の発電量の約6%が原子力(2011.4現在 Newton2011.6月号より)ということ。しかし、放射線に関する話を信頼出来なくなったのは国の機関が必要十分な説明責任を果たさず、情報が錯綜したことに原因があること。これは2年たった今でも根強く残っているように感じます。また、福島の第一原発事故は原発史上「最悪」の人災であることは紛れもない事実です。でも2年という期間で情報の整理が少しずつ行われてきています。頭ごなしに批判をする前に双方の話に耳を傾け、意見を理解した上で批判をするべきだと思います。風評に関しても、知らないものに対する不安が風評というものに流されている気がしてなりません。放射線に対する知識を身につけた上で判断し行動するべきだと思いました。
私も去年の夏に被災地をみた時、憤りとまではいかないが、なにか悲しい気持ちになった。
私の母方の実家はいわき市の海岸近くにあり、津波の被害を受けた海岸までは車で五分ほどだ。そこは幼い頃何度も訪れた海水浴場で、思い出もたくさんある場所だった。ただ、そこには真夏にもかかわらず、遊泳禁止と書かれた看板と、屋根や居住部分のない、土台だけ家々が寂しく立っているだけだった。ニュースなどで津波のVTRを見ても、そこは見知らぬ場所で、第三者の視点でしか見ることができなかったが、思い出の詰まった海岸の悲惨な姿を見た時は、父と二人で涙を流してしまった。
私は山形県民なので、東北とはいえそこまで被害のなった県です。しかし、母方の実家が仙台ということで、震災の悲惨さは自分の中ではわかっている方だと思っていました。私の中では、宮城はだいぶ復興が進んでいるとした認識がありませんでした。
福島は原発のことしか考えてませんでした。放射線量が少ないにもかかわらず、復興が進んでいない、、、政府、東電は原発事故を起こしてしまったにもかかわらず、その原発を利用して、復興を進めていないのではないのか?とさえ考えられるような現実だと私は思いました。私たちはテレビなどのメディアを通して情報を手に入れています。テレビなどでは、復興の成果を放送してくれるのもとても大切だと思いますが、まだあまり見えていない被災地の情報を提供してもらいたいし、私たちもこの現実を忘れずに生活しなければならないと思う。
東日本大震災から2年4か月が経ちました。まだまだ復興は進んでいないのが現状だと思います。特に、福島原子力発電所の周辺は震災時から時が止まったかのように、壊れたままの家が、流されてきた船が、がれきの山、が片づけられずに残っているのが、先生の写真からもよくわかります。こんなにも復興に時間がかかるのだと、改めて思い知らされました。
原発事故の終息は先が見えません。そして、私は、今、原発がどのような状態にあるのか知りません。自分から情報を得ようとしていないせいもあるかもしれません。しかし、もっと、東京電力並びに政府は、原発の今の状況と、今後どう廃炉に向けていくのかを公開するべきだと思います。報道があまりされなくなった今、私は原発のことを忘れがちです。これはとても由々しきことです。福島を、日本を危険にさらしている原発のことを忘れずに、今後見守っていきたいし、私に支援できることがあったら、支援していきたいです。
私は震災の影響を全く受けず、震災の後もそれまでと何ら変わることない生活を送っていました。しかし、震災から二年以上経過して未だに進まない復興を見て、危機感を覚えました。地元に戻りたくても戻れない辛さ。法案だけを通し現状を一刻も早く改善しようとしてない行政。今も震災や原発事故の影響で苦しんでいる人がいるという認識が日本の中で薄れているような気がします。もう一度原点に立ち返り、二年前から被災地はほとんど変わっていないことを国民に強く訴え、被災者が一日でも早く地元に帰られるように日本全体が復興に取り組まなければならないと思いました。なるべく早く私自身も被災地を訪れ、復興の遅れを実際に感じようと思います。
東日本大震災から二年あまりが過ぎ、日本の人びとの中には時間が進むにつれて福島などの被災地への関心を失ってきている人びともいると思う。着実に復興に近づいている、そう思う人びとも多いと埼玉に住んでいて感じている。しかし、ブログを読んでそのような考えはまったくの紛い物であることがわかった。今もなお復興は進んでいないということを、写真をみて痛いほど感じさせられる。福島は被災当時と何も変わっていないことも気づかされた。埼玉から映像をみたり、考えたりすることでは、本質を知ることは出来ないのだとこのブログで痛感した。政府の人間もそうだが、我々も現地へ行って五感を使い、被災地の現状を知らねばならない。
早いものであの忌まわしき東日本大震災から2年半近くの月日が流れました。僕の父方の祖母が宮城県女川町に住んでいましたが、津波により家を流され、現在は千葉の親戚の家に住んでいます。
祖母はもう年齢的にも女川に戻ることは諦めていますが、僕は大好きなあの女川に戻りたいと強く思っていますし、そのときは祖母も一緒に連れていってあげたいと思っています。しかしまだ今は復興が進んでおらず、行くことはできてもゆっくり過ごしたりできる状況にはありません。一日も早い復興を願っています。またそのために自分には何ができるかを考え、知ることが大事だと思います。
東日本大震災から2年以上が経過した。原発事故による放射線被害も、月日が経つにつれてメディアで見かけることが少なくなった。しかし、現実には復興はまだまだ進まず、放射線被害に苦しめられている被災者が大勢いる。そのことを私たちが忘れてしまっていいのだろうか。私は運良くも震災によって大きな被害を受けることはなかったが、だからと言って今回の震災に無関係なわけではない。被害を免れた私たちにも被災地の現状を知り、後世に伝えていく義務がある。被害の様子や復興の道筋が後世へと伝えられれば、それは教訓となり将来役立つこともあるだろう。ボランティア活動などを通して被災地復興の手助けをするのももちろん大事なことである。それと同じほどに、震災の悲惨さを伝え、この被害が忘れられないようにしていくことも必要なのではないだろうか。
TVで福島の現状を何度か見たことはあったが、今回このブログを読んで改めて復興の現状や問題が分かった。線量が低いにもかかわらず復興があそこまで進んでいない地域があることには、驚きだった。自分の地元は震災の被害はさほど無かったが、もし、自分の地元が原発のせいで人と人のつながりが切れたりゴーストタウンになってしまうと考えたら、寂しいし怒りが湧いてくる。政府は、一刻も早く復興できるように尽力すべきだし、自分も募金などを通して復興に協力できることがあるなら、積極的に行っていきたいと思う。
東日本大震災発生してから約2年半が経ちました。あの日起きた大津波が多くの人を犠牲にし、大きな爪痕を残した。また原発事故により、2年半たった今でも復興することができない地域が多く存在しています。私は実際に被災地に足を運び、今被災地はどうなっているのか目にしてきました。津波の被害を被った地域はいまだに放置され続けています。また原発事故により、広範囲に放射能が飛び、それを避けるために福島から他県へ引っ越す人が多くみられました。そのことにより町がゴーストタウン化したり、町全体が機能しなくなったりした。私はいち早く日本全体でこの状況を解決するべきであると思います。
わたしは福島県出身で、震災時は福島にいました。震災直後に福島第一原発で事故が発生し福島県内の放射線量が増加したというニュースが流れたとき、私は両親に「お前だけでも県外の親戚の家に避難してくれ」と深刻な顔で言われたことをよく覚えています。
人が県外にたくさん避難した影響で震災以降福島県の人口はとても減少しています。避難した人の中には福島に戻りたいと思っている人も多くいると思います。しかし、放射線の心配や震災の影響で戻りたくても戻れないのだと思います。震災前の福島に戻ることは時間がかかるかもしれませんが、福島が以前の姿に戻り、避難した人だけでなく多くの人が福島に行きたい、住みたいと思ってもらえるよう、一日も早い復興を願います。
私は宮城県出身で、東日本大震災の時は帰省していたためその恐ろしさを現地で体験しました。
水道、ガス、電気は止まり、どこの店にも物が無く食べ物を買うこともできず、ガソリンがないため迂闊に車移動ができない等、普段では絶対にあり得ないような現実を目の当たりにしました。
海沿いの友達の家は津波で流されたと聞きました。
今でも生活に支障が出ている人、震災のショックを抱えている人は多いと思います。
あの非現実を実際に体験した身としては復興支援にもっと力を入れるべきではないかと思います。
そして東日本大震災のことは東北の人々だけではなく、誰もが忘れてはならない、他人事だと思ってはいけない出来事であると私は思います。
私は福島県南相馬市出身です。自宅は津波の被害にはあわず、地震の後も家に帰宅することはできました。原発の建屋が爆発したことで、親類の総意で福島市に避難をしました。避難をしてから1週間後、母や祖父が何度か自宅に戻って、線量とインフラの確認をして、南相馬市に戻りました。震災から1週間ではほとんど詳しいことはわかっていません。それでも小学生のいとこたちも「帰りたい」と、危ないということは伝えているのに言っていました。故郷を変えることは大事だと思います。しかし、どんなに人がいなくなっていたとしても「帰りたい」という気持ちはどの年代の人も持っていると思います。しかし、そのことでもらえる賠償の量や戻ることが可能かどうかということで、嫌味を言うような人たちは好ましくないです。自分が戻れないからと他人に八つ当たりのようなことをするのではなく、同じ地域の人間として互いに思いやりをもって接してほしいと思います。
東日本大震災が発生したのは2011年3月であり、その頃私は高校を卒業し、地元である長野に住んでいました。
地震が発生した時、私は友人宅で遊んでおり、私の住む地域の震度は4程度であったと感じ、事の重大さに即座に気付くことができませんでした。
その後テレビをつけて見てみると、どの局も東北地方の災害についての中継ばかりで、その時映った陸地に押し寄せる津波の映像が今でも非常に印象に残っております。
あれから2年以上が経過し、マスコミや新聞でも復興のメドが立ち始めているという話を耳にする機会も増えて来たと思っていました。
しかし今回のこの記事の現地の写真を見て分かるように、復興という言葉があまりにも遠く聞こえます。
それでも確かにがれきの撤去や壊れた建物の解体などの復興作業は少しずつではあるが進んでいる。しかしその裏側では地域ごとに様々な課題が表面化し始め、被災地をひとくくりにできない現状があり、完全な復興にはまだほど遠いと私は思います。
私が特に注目したいのが拡大する復興格差である。被災7県58市町村に配分された2011年度予算の執行状況を見てみると、自治体間で大きくばらついており、その格差は最大で15倍を超えるものもある。また先生もおっしゃられているように、行政の区分により、自宅に帰れるかという問題や、助成金の額も異なるという問題のために住民らに軋轢が生じてしまう。また行政側にもマンパワーが不足しているという問題もある。
最近テレビなどで報道されることも少なくなっているが、復興はまだ全く終わっていないし、絶対にこの震災を風化させてはならない。そのためにも私達自身がボランティアなどでなくても実際に現地にいくべきであると思います。
私はずっと小学生の頃から吹奏楽をしているのですが、中学生の時にでた大会で私達の前に演奏した学校が偶然にも南相馬市、それも小高地区の学校でした。もちろんそのときは震災の約5年前でそのような大災害が起こるとも思っていませんでしたが、まさかこのような形で小高の名前を聞くことになるとは思いませんでした。小高の学校は当時、吹奏楽部が全国大会常連で演奏もとても素晴らしく、観客の拍手もひときわ大きかったと記憶しています。私自身もテレビで南相馬の小高の様子を拝見することがありましたが、人はまったくいない上に震災が起きてから何も手を付けられていない惨状。直接小高の地区の人たちと交流があったわけでは無いですが、少しだけ近いような気がして心の痛みが大きい気がしました。
震災から約二年。私は長野出身なので大きな被害は受けませんでしたが当時のことは今でも鮮明に覚えています。しかし、今、私も含め被害を受けなかった世間一般においては震災の風化は始まっているのが実情だと思います。私が個人的に気になっているのはやはり原子力発電所のことです。目に見えない恐怖に対して一般市民はなす術がない状況なので、東電の対応のずさんさや遅さは本当に呆れてしまいます。原子力の恐ろしさは、唯一の被爆国である日本が一番わかっていなくてはいけないのに、東電や政府の対応からはそれは伝わってきません。わたしは震災により原発の危うさが露呈したにも関わらず原発を推進するというのはまったく賛成できません。具体的で現実的な対策を私自身は提示できないのは情けないですが、政府や東電にはぜひ賢明な判断をしてほしいと思います。
長野県栄村という村を知っていますか。この栄村では、東日本大震災が起こった翌日の3月12日、震度6強の強い地震が起こりました。これは、「もう一つの被災地」「忘れられた震災」と呼ばれています。この時メディアは、被害の甚大さから、当然のことながら東北地方の状況を取り上げ、栄村のことはあまり報道していませんでした。
栄村は、東北地方の膨大な情報に埋もれ、その存在が忘れ去られていたと思います。栄村は東北地方と同じように、停電・断水、大切な物資を運ぶ国道の閉鎖、線路も崩れ落ちかかるなど、苦しい状況だったのに。
こういった状況を受け止め、私はもっと栄村のことを皆さんに知ってほしいと強く思いました。自分が苦しい状況にいることを誰にも知られないことの虚しさ・悲しさは、はかり知れません。状況を知らなければ、助けに行くこともできない。助けを求めることもできない。栄村の人たちはきっと辛い思いをしていたと思います。
現在ではいくつかのメディアが栄村のことをとりあげ、支援も広がっています。私たちがまずやらなければいけないことは、「知る」ことではないでしょうか。「知る」ことができれば、考えることができる。考えることができれば、行動することができる。まずは、私たちが正しい情報を広く「知る」こと。これこそが、復興への第一歩だと思います。
あの震災からもう2年も経ってしまったんだなと思うのと同時に、まだまだ復興が進んでいないこと、放射線の被害が大きいことに驚きました。私は大学で化学を勉強しているのですが、講義で放射線が人体に与える影響を学んだのですが、放射線を浴びると遺伝子が破壊され、また細胞の複製を阻害してしまいます。その影響は甚大でそこから癌に発展したりしてしまいます。放射線の被害をこれ以上増やさないためにも、早急な対処が必要だと感じました。
震災から2年経過した現状を写真としてリアルに見れた事はとても貴重な事のように思いました。正直に、僕の思った事としてはまだまだ復興は進んでいないのだなと思いました。また、特に原発に関してです。世界で一番安全だと言われ続けた原発。それを裏切るようにしておこった震災。原発は人を差別しません。原発をすぐに止める訳にもいかないのは分かりますが、早急な対応が必要だと感じました。
東日本大震災から2年以上が経つこと、そして未だに進まぬ復興、癒えることの無い被災者の心の傷、それらを改めて実感した。
私は祖母が福島県いわき市に住んでおり、海辺の市であるため津波被害が大きく、その日は安否が確認できるまで不安で不安でどうしようもなかったのを今でも鮮明に覚えている。津波の様子をテレビで見る度に最悪の状態が頭をよぎり、涙が止まらなかった。幸い、津波の被害地から離れていたため、祖母も家も無事ではあったが、大好きだった私の故郷の様子はがらりと姿を変えてしまった。
テレビで被災地の様子を見るのと、現地に赴いて自分の眼で被害の様子を目の当たりにするのとでは大きく違う。当時の私は、何かしたいのに何もできない苦しみに悩まされた。あれから2年以上経つ今も被災地には震災の爪痕が大きく残り、原発事故による放射能被害に苦しむ地域があり、そしてそこで懸命に生きている人がいることを忘れてはならない。共に生きているという気持ちをもち、知ること、触れ合うこと、考えること。あれから2年以上たった今の私ができることを今もう一度考えてみようと思った。
※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。