障害者虐待と成年後見-支援つき意思決定の重要性
先日、埼玉司法書士会主催の「障害者虐待防止法と成年後見業務」という研修会に講師として参加しました。わが国の成年後見制度は、障害者権利条約第12条との関係において、後見類型の廃止を含む抜本的な改善に向けた過渡期にあります。
わが国における意思決定支援の取り組みは、決定的に遅れています。2005年イギリス意思能力法との対比で見れば法制度の整備は遅れている上、拡張・代替コミュニケーション(AAC)を活用した日常的な生活支援の取り組みも実践的に未熟です。
さいたま市の条例づくりの渦中に身を置いていた時、自立支援協議会で意思決定支援の充実のためのAACの検討・開発を提案したことがあるのですが、当時、ほとんどの人にまともに受け止めて戴けなかったことを残念至極に思ってきました。
障害のある人の虐待の中には、上に示したような養護・介護の長期性によって醸成された共依存関係の下で、養護者と障害のある人が二者関係に閉塞してもたれあっているケースが散見されます。
ここでは、人生における重要な意思決定は無論のこと、日常生活上の意思決定さえ長期間にわたり剥奪され、第三者とのコミュニケーション上の困難が二次的に拡大されている状態が確認されます。つまり、障害特性による意思決定の困難だけではなく、虐待に由来する副次的な意思決定の困難が交錯しているのです。
それだけに、虐待対応の中での意思決定支援は、障害のある人の人権擁護の観点からいえば、はかりしれない重要性を持った課題であることが分かります。とりわけ、虐待の初動段階では、障害のある人が客体化されやすい傾向を否めませんから、意思決定支援をうんと大切にしながら、障害のある本人が生活と人生の主人公に据わるプロセスをつくらなければなりません。
ところが、これまでの成年後見制度の運用においては、ちょっと首をひねりたくなる現実が見受けられました。後見業務にあたる法律関係者の見解では、ご本人とのやりとりを重ねると「どうみても被補助人か被保佐人に該当する」と思えるのに、裁判所の決定はなぜか「被後見人」という場合があるのです。
司法書士会の皆さんの話の中では、「後見類型にしてしまえば、すべての法定代理権を後見人がもつ代行意思決定によって、むしろ安心できると考えている節があるのではないか」という声が聞かれました。これはまさに、現行の成年後見制度の表す問題点ではないでしょうか。これでは、障害のある人の成年後見制度への「囲い込み」という現実があると指摘されても致し方ないのではないのでしょうか。
後見人がつくと障害のある人の選挙権が剥奪される問題も加えて、わが国の成年後見制度は障害のある人の人権保障に無頓着な側面を引きずっていることは間違いありません。
しかし、実際の後見業務を担われる司法書士の皆さんの中には、「後見類型」の人であっても、やり取りをする中で本人の意思決定能力をぎりぎりまで見極めながら、支援付き意思決定に取り組んでいる方がすでにたくさんおられることを知りました。このような取り組みこそ多くの人を励まし、障害者権利条約の批准に向けた底力になっていくものと受けとめています。
研修会の中での私からのお願いを二つほど提起させていただきました。一つは、日常的な連携支援の一員としての司法書士であってほしいこと、もう一つは、成年後見業務を含む司法支援に必要なAACの検討・開発です。
前者は、経済的虐待が確認された後に登場する成年後見業務ではなく、障害のある人が成人に達する前後から成年後見制度活用の広報・周知・活用を広く進めていくことです。この点では、成年後見制度に関する公的支援の拡充が決定的に重要であることは言うまでもありません。
後者は、司法関係者と福祉的支援者の協働が必要不可欠です。今度こそ、さいたま市の自立支援協議会でも意思決定支援の充実に資する取り組みを進めたいと考えています。
コメント
記事のなかに、「障害のある人の虐待の中には、上に示したような養護・介護の長期性によって醸成された共依存関係の下で、養護者と障害のある人が二者関係に閉塞してもたれあっているケースが散見されます。」とありますが、以前講義していただいた内容にもあったように、「母と子」「養護者と障害のある人」のような依存しやすい関係であればあるほど虐待は起こりやすく、かつ表面化しにくいのかと思います。ヨコやナナメの関係性がほとんど、あるいはまったくなく、タテの関係性しかないので、実に苦しい関係であるのではないでしょうか。被虐待者はタテの関係に支配され、ヨコやナナメに逃げることができず、被害が大きくなってしまうのです。
しかし裏を返せば、ヨコやナナメの関係性さえうまく築くことができれば、虐待被害の拡大は食い止められるのではないでしょうか。被虐待者が、安心して被害を打ち明けたりできるような関係が望まれます。知的障害者には難しいかもしれませんが、当事者の小さな変化などを見逃さないほどの手厚いケアがあれば大丈夫なのではないでしょうか。
先日の講義を聞いて、高校の時に、虐待などから子供を保護するためのシェルターを作ろうという目的で弁護士の方々と一つの劇を作ったことを思い出しました。
その劇を作っていく中でネグレクトなどの余り普段聞かないような言葉も覚えたし、なにより自分と歳もほとんど変わらないような子が親から無視されたり暴力を振るわれたりした話を虐待事件に携わった弁護士の方から聞き、ニュースでは遠い世界の話に感じていたことが急に身近に感じたことを覚えています。
また、保護した子供と施設の方々が信頼関係を結ぶにはとても努力が必要で時間がかかるという話も聞き、「虐待」という行為の重さを感じました。
私はこのブログを見るまではこのような制度が存在していることを知りませんでした。障害のある人は、重要な意思決定や日常生活上の意思決定さえ長期間にわたり剥奪され、第三者とのコミュニケーション上の困難が二次的に拡大されるということ、つまり、障害特性による意思決定の困難だけではなく、虐待に由来する副次的な意思決定の困難が交錯していると知り、果たしてこの制度は本当に障害者を支援できるような制度であるのかなと疑問に思いました。ここで重要となるのは、いかに本人の意思を尊重し、自らの人生を設計できるような制度にすることが、望ましいと思います。実際の後見業務を担われる司法書士の皆さんの中に、「後見類型」の人であっても、やり取りをする中で本人の意思決定能力をぎりぎりまで見極めながら、支援付き意思決定に取り組んでいる方がすでにたくさんおられることを知ったということが聞き、障害者支援がより良い形になっていると感じ、少し希望がみえました。
私は、この記事を読んで、養護者、介護者が何故虐待という道に走ってしまったのかと疑問に思いました。障害を持っている人にとって、養護者、介護者というのは、もし親族でない場合は、親族以外で頼ることのできる唯一の存在だといえると思います。障害の種類によって異なるとは思いますが、伝えたいことを伝えられない、若しくは伝えづらいということも多々あるのではないかと考えています。記事に、意志決定の権利といったような部分がありました。社会的な意味での意志か決定、例えば選挙に参加するなどは、何らかの補助が必要になってしまあうので仕方がないで済ませてしまうのは心苦しくても、認めざるを得ないこともあります。しかし、日常生活での意志決定までもが養護者、介護者に支配されてしまうのはいかがなものかと感じました。養護者、介護者が障害を持っている人に対して虐待をしてしまうというのは、明らかに上下関係が確立しているな、と感じるのは私だけでしょうか?それともそれは、言うまでもない事実であるのでしょうか。少なくとも、日常的に養護や介護をしているときにストレスやイライラを感じているのではないかと考えました。それが、慣れていくに従って、暴力へと変化していったのだと思います。裁判の場では、それが後見人といった扱いになるというのは、そういった関係性がいまいち理解されていないのではないだろうかと感じます。
この記事を読んで、虐待に至る原因の一つとしては、加害者の心と生活にゆとりがないことだと思います。加害者一人が全てを背負い込み、心の行き場がなくなり、最終的には弱い立場である、身障者、子供にぶつけられてしまっているのだと思います。逆に生活にゆとりがあれば、ケアセンターや第三者の協力が得られたりできるのではないでしようか。もっと日本が、障害者等を支援出来るような法律を設立するべきです。豊かな国とは、国民の心が豊かでないといけないと思います。
成年後見業務があることは数年前に養護者が被養護者の財産を横領したというニュースを見て知っていました。それ以来、私は成年後見業務の制度に否定的な立場でした。この記事を読んで、このようなこと以外にも養護者と被養護者間で関係が閉塞的になってしまうことにより第三者とのコミュニケーションが二次的に困難になるという弊害があることを知りました。記事に書いてある通り、日本でのこの制度は未熟であり、障害者権利条約も未批准であるためこのまま続けていいのか、発達させることはできるのかと疑問に思いました。しかし、『「後見類型」の人であっても、やり取りをする中で本人の意思決定能力をぎりぎりまで見極めながら、支援付き意思決定に取り組んでいる方がすでにたくさんおられる』そうなので、国をあげてそういった人材を育成して聞くことが重要だと思います。
この記事を読んで、障害のある人の意思決定の大切さと難しさについて考えさせられました。
私たちは普段意思決定ということを意識的に行っていなくても、普通にコミュニケーションを行っていれば簡単なことは自然と意思決定することができます。しかし、障害のある人にとっての意思決定は困難を伴う場合もある。だから私たちは、意思決定を行ってもらう時、障害のある人に行ってもらうより、その養護者に行ってもらう方がスムーズで簡単だと考えてしまいがちだと思うのです。そう思う人が多ければ多いほど、また養護者にとってその経験があるほど、障害のある人の意思決定の機会が減ってしまうと思います。その背景には、障害のある人であっても私たちと同じ人権があり、意思決定がとても大切なことだと忘れがちだからだと思います。
この記事の中で、障害のある人の意思決定能力をぎりぎりまで見極めながら、支援付き意思決定に取り組んでいる方がいるということを知り、こういうことがもっと広がってほしいと思いました。
私たちは、もっと人権というものを意識し、障害がある人であっても協力などをして、しっかりと一人一人の意思というものを大事にしていくべきだと思います。
上記の養護・介護の長期性と共依存の説明図に「第三者の支援の不介入」がありましたが、私はこれこそ第一の二者の閉鎖的な共依存関係を生み出している要因なのではないかと思いました。
と、いうのも以下の例を私は地元が大変高齢社会のために地元の介護の状況や介護者の声を耳にしたことがあるのですが、年配の方の介護が大変で介護者が精神的にもつらい状況にあっても、周囲で支援できる人が面倒事に巻き込まれたくない、深く介護に従事したくがないために手を差し伸べることが可能でもそっぽを向いてしまっているようなケースがあったそうです。
この例は養護者と障碍者の関係にも当てはまる場合があるように思います。このように第三者の態度によって後から支援したくても介入できないようになってしまうなんて非常に悲しいことだと思います。一人だけが養護を担わなくても済むように、二者の共依存関係が確立される前に、日常的な生活支援ができるよう、策を講じなければならないと感じました。
以前、講義で話されたように障害者が主権を持ち意思決定を行われなければならないのに日本の現行の制度では障害者自身が意思決定を行えるようになっていないのだとこのブログを拝見して感じました。
それは障害者と養護者・介護者の間の関係が閉塞的で第3者の介入を強く拒むものであり現行の成年後見制度で障害者の意思の代理決定を行うという形に収まってしまっていると感じたためです。障害者と養護者・介護者が共依存の関係にあるため拡張・代替コミュニケーション(AAC)の導入に踏み切ろうという考えが日本では一般的にならないが、AACを導入し、両者の間にある意味のゆとりをもった関係が築けるようになれば、閉塞してもたれあってしまう両者の関係という現状を他者が介入していくこととなり、養護者・介護者の負担を減らすのみだけではなく、中立な視点で障害者の人格や意思を尊重するということができるようになると思います。
このブログ記事を読んで、障害のある人との関わり方について深く考えさせられました。というのも、私の兄が重い知的障害を抱えているからです。兄の行動は、周囲からは奇異の目で見られ、理解不能の部分が多いです。その兄との実生活を通して考えると、宗澤先生の主張は制度論としては鋭い問題意識だと納得させられるのですが、一方で抽象度が高すぎて自分の体験を絡めると、どうしても割り切れない部分が残ります。
先生の提言の中にポイントとなる「共依存」の表現がありましたが、兄の様な知的障害の分野にはストレートに応用はできないと思います。重い知的障害者であっても本人の意思があるのは自明ですが、親に全面的に依存して生きることが、今の自分が生きる上で「楽」であることを経験則として手に入れたように思える時もあります。
このように我が家の「障害者家族」体験からすると、共依存の良し悪しは程度問題に思え、障害の対象や分野、その軽重などによっても異なるのでは、と私は考えるのです。どこか「いい加減」で家族内に社会に向けて風穴が開いており、精神面で落ち着いた生活が送れていれば、障害者本人も家族も「適度なもたれあい」が生きる張り合いとなります。
小さな起伏はどの家庭にもあるように、世間体に縛られずに比較的平穏に日常を送れるなら、その限りにおいて共依存関係は否定的に捉える必要はないと考えます。ただ、そうした余裕ある泣き笑いの家族環境が失われ、社会的な支えや介護が求められる段階になると、先生が指摘される問題意識が重要になることは確かです。
また、先生ご指摘のように障害のある人の虐待が長期的な養護・介護から生まれる共依存関係の下で起きている、というのは論としては非常に納得できました。これも兄と暮らしてきて感じていることですが、障害のある人がまるでうちの中に押し込められるようにして身内の方が養護・介護したり、地域社会の理解が得られず、外出する事も出来ないという事が少なからずあります。特に、周囲からの理解が得られない、周囲との関係性が絶たれている、という点が大きいように思われます。
虐待は許されるものではないですが、この問題は虐待する側の養護者だけの責任だけではない、と私は考えます。第三者の支援が行き届いていない事にも問題があると思います。恥ずかしながら、障害のある人の成年後見制度について私は詳しく知りませんでした。しかし、私と同じように障害のある人と暮らしながらも様々な支援制度について知らない人々はいるのであり、そういう状況も虐待の要因に挙げられるのではないでしょうか。とにかく問題の根源は養護者が一人で抱え込んでしまう、ということにあると私は思うので、第三者との関わりをもっと広げる支援をしてほしいです。
しかし、私も兄と接する中で、兄との意思疎通が難しいことを言い訳にして、兄の意思決定をおざなりにしてきたことがあったことを反省しています。障害のあるなしに関係なく、意思決定は基本的な権利であるはずなのに、障害のある人だから権利がはく奪されていいはずがありません。けれども、養護・介護の日々でそういうことがおざなりになってしまう養護者は少なくないと思います。第三者が意思決定支援することの重要性を思い知らされました。ただし、知的障害のある人の場合はどうするのか、深く検討していかなければならないと思いました。
また、障害のある人への支援がもっと広く人々に行き渡るように、広報活動を積極的に行うことが重要だと思われました。また、身近に障害のある人との関わりがない人でも、自分には関係ないと思わずに、障害のある人を温かく見守られるような地域社会を構築する必要があると思います。
虐待というと私はまず児童虐待を思い浮かべてしまうのですが、世間一般的にみても児童虐待を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。ただでさえ虐待に向ける世間の目は無関係であるのに障害者虐待の情報発信は日々生活していても受信することは少ないです。これは虐待に関して共通することですが、加害者には心のゆとりや相談する機会が少ないことがひとつの原因だと思いました。また障害者の選挙権剥奪の問題について、障害者の意思決定は信頼できるものでなく反映できないということなのでしょうか。私が実習で特別支援学校に行った際感じたこととして、軽度の生徒が多かったのも原因ですが、ひとりひとりの意志がしっかりしていて決して疑わしいものではありませんでした。もっと広い視点で障害者の人権について考えるとともに、障害者をひとくくりでまとめないこと、人間はいろんな性格を持っていて障害も性格のひとつなんだと考えられる社会になっていくことを望みます。
障がい者の支援付き意思決定を重要視することは非常に重要なことのように思います。記事の中にもあるように、現存の成年後見制度には、障がい者の活動の範囲を狭めてしまう可能性があることや、虐待につながりうることになりかねないという問題があります。さらに、虐待をする意思がある、ないに関わらず、被後見人が第三者との関わりを絶つことは障がい者の人権をはく奪することに繋がる恐れがあると思います。被後見人と被保佐人・被補助人との境界線を付けることは非常に難しいことのように感じますが、見極めを慎重にすることが、問題を少しでも少なくすることに繋がると思います。
この記事を読んで障害者の介護者と障害者の方が長期にわたる閉鎖された二者関係から、虐待へと変わり、障害者の方の重要な意思決定が長期的に剥奪されていると考えられる。私は障害者の方が意思決定が難しい状況であったとしても一人の人間として意見を尊重するべきであると考えている。記事に書いてあるような虐待をなくすためにも成年後見制度に関する公的支援の充実やAACの検討・開発を行っていくべきであると考えている。
まず、恥ずかしながら私は、成年後見制度というものを初めてしりました。しかし、その制度を利用した虐待があることも初めてしりました。成年後見制度のもとでは、障害者の意思決定権が限りなく奪われ、選挙権も奪われると知って、この制度自体の存在を疑いもしたぐらいです。しかし、やはりひとつの制度である以上、それがないと障害者の方々も生活できないのが現状でしょう。なので、やはり、その制度を障害者の方々に有効に働く世の中になることを深く熱望します。
私は障害のある人と養護者(または介護者)が二者関係にあることについて意見を述べていこうと思います。二者関係にあることにより、図が示すように障害のある人は養護者に対し依存を高めることになり、そこで養護者が自身の中に養護する上での不安要素を溜め込み、抱えきれなくなると障害者虐待などにつながるということでした。このような状況を打開するために政府などの第三者の介入が必要不可欠になります。また第三者は公的機関に限らず民間組織も積極的に介入するべきではないでしょうか。それに加え、養護者間のコミュニティをもっと積極的につくり運用すれば、そのコミュニティ内で情報共有や意見交換などができ、養護者は孤独感・閉塞感を感じずに済むのではないのでしょうか。
この世に確かにいろんな不公平なことがあって、神様が私たちにくれたのは同じではない。障害者たちの資料をネット上でたくさん読んで後は、なんとか気持ちが良くなくなった。自分が普通の人間でいってホントに良かった。人はみんなそれぞれで、この社会をできて、私が人が生まれたら、必ず意義があると思う、いくらどんな人間でも、その人の人間である意義がある。命や価値ならば、みんな同じだ。このブログを見て、考えることがある。その障害者たちが成年になるとどうするずっと考えている。未成年の時は自分の思想がまだできていない、成年になると、自分の思想をできて、自分の価値を追いつけて、うまくいかなければ、その人が崩れるだろう。だから、障害者の人たちの成年後、社会からの関心がもっと必要だと思う。
私は今ちょうど介護等体験で社会福祉施設で1週間の体験をさせていただいています。その施設には重度の認知症の方もいらっしゃり、何をするにしてもヘルパーさんがやってあげています。このような方はだれが利用料を払っているのか等、体験をしながら考えていました。しかしこの記事を読んで、こんな時のための後見制度なのだと知りました。とても素晴らしい制度だとは思いますが、それが有効的に活用されていないのはとてももったいないし、何より障害者の方の人権を無視しているのが許せないです。障害者の方とその養護者・介護者の間に第三者が介入するのは非常に難しいことかもしれませんが、障害者虐待を防ぐためには二者間で閉塞してもたれあっている関係を打開するしかないと思います。そのためにも、法律等で虐待の疑いがかかったらすぐに、強制的に被虐待者の保護と虐待者との解離をできるように定めるべきだと思います。
② この記事を読んで、記事の中の「養護者と障害のある人」の共依存の関係が「二者関係に閉塞している」ケースが散見されることについて、このようなお互いがお互いを必要としている共依存の関係において、それが二者関係にとどまってしまうと、虐待は起こりやすくなるという意見に非常に同意します。そして、この二者の関係における法的制度は、この記事の通り障がいをもつ者は成年後見制度において「被後見人」となる場合があり、そうなってしまうことで障害のある人はその人の意思決定が保障されない、すなわち人権保障がされなくなってしまうという現実が実際にあり、私はこれでは障害のある人やその家族が生きづらい社会が生まれ、そうなることでまた虐待が起こるという悪循環が形成されるのではないかと考えました。しかし、「後見類型」の人であっても、やりとりをする中で本人の意思決定能力をぎりぎりまで見極めながら、支援付き意思決定に取り組んでいる人がすでにたくさんいるということは、この問題に対する希望であるといえます。さらにこれから障がいのある人が生きやすくなる様々な制度が、法の観点からの保障が充実していけば、と思います。
記事の中の「意思決定支援をうんと大切にしながら障害のある本人が生活と人生の主人公と据わるプロセスをつくらなければいけません」という部分に共感しました。ただ、幼い頃から育ててくれた親族、養護者に依存することは当然であり、私たちもある程度の時期までは見られる傾向であると思います。そこから障害のある人をどう社会に自立させるのかと聞かれるとうーんと唸ってしまいますが、今の社会まだまだ障害者への雇用などに関しては薄い部分があると思います。そこはなんとかしていかなければならないのは間違いないですね。
なぜ虐待が起こってしまうのか考えさせられました。
もちろん、虐待してやろうと最初から思っている養護者はまずいないはずです。しかし養護者も人間である以上、いくら身内であったとしても養護が大変な負担に感じたり、どうして自分ばかりこんな苦労をしなければならないのか、と思い詰めることもあると思います。そのような不満などが、依存しあう二者の閉じられた関係のなかではなおさらふとしたことで「虐待」につながってしまうのではないかと感じるのです。養護者、被養護者ともにいつでも悩みを相談し力になってもらえるような存在、環境が必要なのだと感じます。
今回の記事を読んで、虐待に至るには養護者・介護者の長期的な1-1の共依存関係があり、第三者が入る余地がないということがあり、そのような状況では障害のある人の意思決定はなされないということがあるということを知りました。そのような状況下では養護者・介護者は責任感・使命感のもとで、また、周囲への配慮から「全て自分が」という心理が生まれて、ますます深みに陥ってしまうのだと思います。私も含めて障害者支援というと直接障害のある人本人への支援という意識を持っている人も多いのではないかと思います。養護者・介護者への負担を軽くすべく、第三者が入っていけるような制度・体系づくりとその周知が急務であり、養護者・介護者への直接のケアも必要ではないかと思いましたし、第三者としての私たちに対して、そのような養護者・介護者への理解をもっと広まっていけるような周知運動もまた必須ではないかと思いました。
上記の養護、介護の長期性と共依存の関係をみて、なるほどと思いました。昨年の夏頃、同居していた叔母家族と祖母がほぼ絶縁状態に陥りました。長年の祖母への介護疲れと、面倒を看なければならないという強迫観念で叔母は追い詰められ、一方で、自分のことは自分でしたい、自分は叔母家族から排除されようとしていると祖母は感じていたそうです。私は祖母が食事を一緒に取っていなかったと聞き、背筋が寒くなりました。私は今まで何を見ていたんだろうと。母や親戚の介入によって、祖母と叔母は別居状態になりました。現在では、大分落ち着いたのか、祖母の容体も良くなり、二人の仲も修復されつつあります。 私は、今まで表面化されなかっただけで、いずれはこのように軋轢が生じるのは時間の問題であったと思います。原因は、第三者の介入、つまり私たちの関わりが浅かったことにあり、また祖母の意思の尊重ができていたかも疑問です。叔母と祖母の二人の閉塞的な関係への関心が足りなかったことに尽きます。このこと繰り返さないため、また社会全体に広めていくためにも、常に注意を払いつつ、積極的なコミュニケーションをとることが必要不可欠です。そして、固定観念を捨て、広い視野を持って私自身が取り組んでしていきたいと思います。
虐待という問題について考えるとき、今までは介護の大変さや余裕のなさ、支援の少なさの視点からしかかんがえたことがありませんでした。今回はじめて共依存の視点から考える機会をいただきましたが、この視点からであれば虐待をしてしまっている側、されている側の両方の立場にたって考えることができるのではないかと感じました。共依存の考え方がもっと広まれば、虐待に対する世間の考えも少しずつ良い意味でかわっていくのではないかと思います。
いままで虐待といえば子どもと親の関係で起きることだと思っていました。このブログの記事を読むまでこのような制度や出来事があるなんて考えもしませんでした。しかし、この制度は障害のある人と養護者(介護者)をお互いに依存させ、第三者の介入を拒否させています。そのため、子どもと親のような深い関係になってしまい、虐待が起きてしまったのではないかと考えます。これを防ぐためには制度を改めて考え直し、また、社会全体で障害のある人がもっと住みやすい世界にすべきだと思います。
この記事を読んで、第3者の介入がなくなってしまう「障害のある人」と「介護者」の間に生まれる共依存関係について詳しく知ることができました。私の母はホームヘルパーの仕事をしており、度々介護についての実態を聞くことがありますが、確かに障害のある人は、普段介護されている人に対する依存が強くなり、第3者の介入に対して強い抵抗を感じるということは、母の話を聞いて感じています。しかし、共依存による介護者への負担や、障害のある人の意思決定が支援されなければいけないということを考慮すると、第3者の介入がどうしても必要になると思います。極端な後見人制度の強化によって、障害のある人の意思決定権が失われるということは、基本的人権の観点から合ってはならないことだと思うけれども、公的支援によって、障害のある人それぞれに合った程度の後見人制度の適用が行われていくべきだと思います。この件に限らず、しっかりとした公的支援によって、この国の福祉がより信頼できるものになっていってほしいなと思います。
この記事を読んで、障害のある人の虐待では、障害のある人と、養護者・介護者の二者の関係で閉じられているところで起こりやすいということが分かりました。なので、障害のある人が意思決定を自由に行うことができ、虐待の有無を伝えられる場はもちろんのこと、以前に授業で虐待に関する映像を見て、虐待をしてしまう側も苦悩があり、虐待が生じてしまうのではと思われたので、養護者・介護者のストレスのはけ口となるとうな場の設置も必要なのではと感じました。
障がいのある人とそれを支援する人、この関係が深くなるあまりに第三者の介入を拒否するようになってしまうということに関しては納得がいく。障がいのある人もその時々によって頼る人を換えるよりも、自分のことを一番理解してくれる人に意思決定の支援をしてもらいたいと考えるだろう。またその頼られることを支援者がいきがいと考えると、本文の図中にあるような閉塞した二者関係となってしまう。その関係が深まるあまりに虐待といった逃げ道を支援者が見出してしまうのかなと考える。そういった閉塞した関係になる前に、支援者を支援する人、第三者の必要性を強く感じる。また虐待という問題が発生しないようにするためにも社会がサポートする体制の充実も必要なものであると考える。
障害を持つ人の意思決定の基準というのは本当に難しいと思う。どこまでがその人にとっては可能で、どこからが可能でないのかを法律と伴って区別をしないといけないが、かといって可能な事柄まで不可能ということにしてはいけないと思う。人間の尊厳を無視した行為だ。私たちは均一的ではなく個々に応じた平等を与えられなければならない。
障がいのある人が養護者・介護者に対して依存してしまうということは仕方のないという一面を持つと思います。しかし養護者・介護者が共依存症になってしまうということにまず驚きました。その二者だけでの閉じられた社会を崩すことがまず必要であり、そうすることによって障がい者の意思決定も自由度が増すのではないでしょうか。
「共依存」がこの記事のキーワードのひとつとなっていると感じました。
障害者であろうとなかろうと、意思決定の権利は尊重されるべきと考えています。が、日常生活で助けを必要としている方々への支援も、同時に必要とされていると感じます。権利が尊重されると支援が手薄になるとまでは言えませんが、やはりこの二者はある点においては対立しているのではないでしょうか。
そこで共依存という言葉を、権利を剥奪されるがほぼ完全な保護を受けている状態であるとすれば、ある意味で持続的に「意思決定をしないでよい自由」と「安定」を得ている気がします。
授業の中でも感じたが、虐待の解決、特に介護者と介護を必要とする人ような、共依存の関係にある場合の虐待の解決は難しいんだなと思った。
共依存している状態では第三者の介入が難しくなるというのは、ごく自然なことではあるが、二者関係のなかにとじこもってしまい、そのなかで虐待が起きるというのは、想像するだけで恐ろしいことだと思った。
第三者の存在が虐待の減少、防止につながると考えられるので、二人間の閉塞した関係に陥らないようにも、社会のサポートが必要になるのではないかと思った。
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