「体力の続く限り」ディーセント・ライフを目指す
先週、高知県知的障害者福祉協会の主催する「平成24年度第1回施設長・幹部職員研修会」に講師として参加しました。主催者の私に対するご要望は、テーマを「ディーセント・ライフを目指して~虐待防止法を契機に~」として、「体力の続く限り話して欲しい」ときました。私はこの要望に粋を感じ、「♪よさこい、よさこい」と土佐に行ったのです。
池内裕青会長の見識ある冒頭のご挨拶でした
ご提示いただいたテーマは、障害者虐待防止法の施行をめぐる私の課題意識にどんぴしゃり。虐待防止法に対して防衛・防御的な姿勢を持つのではなく、人権擁護を進める見地から積極的にディーセント・ライフの実現を目指すところに、虐待防止の取り組みの核心があります。主催者には、虐待防止法の施行に臨む支援事業者団体としての高い見識をうかがうことができます。
前半は虐待防止の取り組みのアウトラインを、後半は福祉領域の支援現場を念頭に虐待防止とディーセント・ライフの考え方について、それぞれお話させていただきました。合計4時間はお話したでしょうか。私はいささかたりとも息を上げることなく話し、また研修会に参加された皆さんも集中力を切らすことなく聞き入っていただけたようです。講演後の懇親会では、山のような質問と感想を頂戴し、やりがいの実感できる研修会に参加できたことを私はとても嬉しく感じました。
会場の皆さん
もちろん、障害のある人のディーセント・ライフをにわかには展望しづらいフィールドの現実が存在すると思います。しかし、たとえさまざまな紆余曲折を余儀なくされるとしても、家族や地域社会とともに、それぞれの支援現場が共通目標に据えるディーセント・ライフの実現を目指して、虐待防止の取り組みを前進させることを回避することはできません。
研修の冒頭に『障害者虐待』のおすすめが-多謝
私の講演内容について、虐待防止のアウトラインは『障害者虐待―その理解と防止のために』(中央法規出版)に譲るとして、ディーセント・ライフの考え方ははじめてお話するものです。後半のテーマは、実は、5年後をめどに一冊の単行本として世に問いたいと考えつつ温めているものであるため、当日の話は「さわり」だけとなりましたが、この部分のテーマはぜひとも皆さんとともに今後考察を深めていきたいと望んでいるところです。
さて、すべての人間について、「できる」「できない」の尺度による評価を行うと、一番「できる」人を頂点とするヒエラルヒーが出来上がり、それぞれの人の位置は順位や偏差値であらわされます。大学受験や公務員試験の学力テストの結果は、このようなものの典型です。もちろん、時代によって評価基準は異なりますし、評価領域の区切り方によってさまざまな評価結果が出てくることはいうまでもありません。
たとえば、手術の医療技術的基準から医師を評価する場合、外科医や整形外科医を対象にするのであれば理解できますが、このような基準によって精神科医をいくら評価してもほとんど無意味でしょう。そこで、「できる」ところに目をつけて支援方針を立てようとする「ストレングス・アプローチ」は、それぞれの人にふさわしい支援を実現するものという考え方があります。
体力の続く限り…
このストレングス・アプローチは、評価基準を多元化することによって、一元的な尺度から支援の方針を定めない点では有効なアプローチであると考えます。ところが、これは事の一面に過ぎません。ある特定の人について「できる」点を認めたとしても、異なる人を前にして同質の「できる」点が確認されるとすれば、たとえば一般就労を課題とする支援の中では、両者の「できる程度」が比較され、採用・不採用の現実が立ち現れます。
つまり、全体秩序を構成する支配的原理としての「できる」「できない」の評価基準の本態を問うことなく、個人の評価尺度の多元化を進めたとしても、それが適用しやすい範囲は、高齢者の介護支援の領域(限られた暮らしの範囲)にとどまるのものではないでしょうか。
そこで、私が注目するのは鶴見俊輔さんの「全体」と「まるごと」に関する次のような指摘です(鶴見俊輔著『教育再定義の試み』、37-38頁、2010年、岩波現代文庫)。
「まるごと(whole)と全体(total)とを区別して考えたい。
明治のはじめには、手ばやくつよい国家をつくるために、集団として型にはめこむ教育が、小学校だけでなく、中学校、高等学校、大学に必要となった。この場合、教師は集団として養成され、教師用の教科書(マニュアル)をもって、おなじ教科書(これは生徒用)を使って集団としての生徒に対する。授業は規格化され、採点もおなじ規準によってなされる。生徒は、おちこぼれるものを別として均質化される。(…中略…)集団としての生徒の数学における、あるいは英語における達成度は、規格によってはかることができるようになり、ここにひとりの生徒がいると、その生徒の位置は、達成度によって同年齢のものの中のこのくらいのもの確定することができる。それは全体(total)の中での位置づけである。」
「まるごとというのは、その人の手も足も、いやその指のひとつひとつ、においをかぎとる力とか、天気をよみとる力とか、皮膚であつさ、さむさ、しめりぐあいをとらえる力とか、からだの各部分と五感に、そしてそのひと特有の記憶のつみかさなりがともにはたらいて、状況ととりくむことを指す。」
「均質集団としての『全体』から区別される『まるごと』を宮本常一のつたえる村の生活のひとこまして見ることができる。ある日子どもがひとり見えなくなった。そのとき村の人たちはあつまって分担を決めることなく、ばらばらに自分の得手の方向に散って子どもをさがした。やがてひとりが近くの山のお寺まで行って子どもをつれてきた。その子がときどき山のお寺に行って自分ひとりの時間をすごすくせのあることを知っていたのだそうだ、そのさわぎのなかで、まったく働かなかったのは、その村によそものとして移ってきていた知識人だったという、彼には、自分の得手の領域がなかった、村の歴史のひとこまでは、村という集団が全体ではなく、まるごととして働いた。」
このような「全体」と「まるごと」の区別を議論の出発点に据えると、次のようになるでしょう。
「全体」は、集団秩序を構成する支配的な尺度である「できる」「できない」から各人を序列化するため、たとえば知的障害のある人のように精神発達遅滞が知的機能の全般に及ぶような場合、たとえ「できる」点に目をとめて支援を考慮したとしても、ヒエラルヒーを形づくる「全体」の中での下位性を免れることはできません。
しかし、すべての人それぞれの「得手」「不得手」を活かすことによって働く「まるごと」の中では、場面や課題に応じて誰もが「得手」を発揮するだけであり、ここに序列は生まれません。家族や障害のある人の施設・グループホーム・ケアホーム等の親密圏は、このような「まるごと」としての営みでなければ、ディーセント・ライフを考慮することはできません。
だって、一流大学を出てパワーエリートとして勤める男性が、夫として、父親として「できる」なんてことは、考え方としても、実態からいっても筋違いでしょう。身近な他者が相互に慈しみあえる間柄は、常に「得手」「不得手」を持つ者同士としてのかけがけのなさが溢れているはずです。
働く世界についても「全体」ではなく「まるごと」を構想することができます。それはジーン・レイヴ著『状況に埋め込まれた学習』(産業図書、1993年)における職人の世界からの考察が示唆的です。この点は、また考察のまとまった時点で、改めてみなさんと考えたいと思います。
コメント
「体力の続く限り」ディーセント・ライフを目指すのブログ、拝読させて頂きました。研修会でも貴重な講演を聞くことができて、とても勉強になりました。当日は突然写真係を任され、あたふたしてしまいましたが、ブログに採用されているのを見て感激しました。
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