ページの先頭です。

ホーム >> 福祉専門職サポーターズ >> プロフェッショナルブログ
宗澤忠雄の「福祉の世界に夢うつつ」

オリンピック憲章の真偽

 ロンドン・オリンピックが晴れやかに開催されています。イギリス軍が最新の装備でテロへの警戒にあたる中での競技大会だという点は気になりますが、脊柱側弯症をもつウサイン・ボルト選手や義足ランナーのピストリウス選手の活躍には心躍るものを感じます。

続きを読む

 柔道の試合をライヴで観ていると、日本人選手にメダル獲得への期待を込めたアナウンスに溢れています。しかし、柔道にいささかでも心得のある人なら、世界各国には立技・寝技にすばらしい切れ味をもつ選手がたくさんいることに気づかされるはずです。そこで、オリピック本来の精神に立てば、各国選手に対する声援や賞賛に溢れた実況中継をしてもいいのではないかと訝しい気持ちに襲われるのです。

 柔道は日本で産声を上げましたが、もはや国際的な競技種目として一人前になったスポーツです。イングランドのパブリックスクールを出自とするサッカーで日本チームが強くなってきたように、柔道も世界の選手たちが努力を重ねて強くなってくるのは当然です。柔道のことをいつまでも「日本のお家芸」と称するのは、もはやアナクロではないでしょうか。日本男子柔道は初の金メダルなしとなりましたが、そのことを残念に思いつつも、それだけ柔道が真に国際的な競技種目なったことを誇りにしたいと考えるのです。

 1964年の東京オリンピックの記憶が残る私の子ども時代には、近代オリンピックの生みの親であるクーベルタンの「参加することに意義がある」という名言にこそオリンピック精神があると学ばされました。当時の小学校の教科書は、これを明記していました。しかし、「商業五輪」の悪名高いロスアンゼルスオリンピック(1984)以降、巨大な五輪ビジネスとナショナリズムへの強い傾きは、いささか目に余るようになってきました。

 クーベルタンの名言の真意は、次のとおりです。

 1908年第4回ロンドン大会で、イギリスとアメリカのもつれた国民感情を背景(おそらく第一次世界大戦前夜の帝国主義間の利害対立に由来するものでしょう)に、競技場では両国の選手がむき出しのけんかを続けていたそうです。
 この現実を前に、アメリカからやってきていた聖公会ペンシルベニア大主教タルボットが「この五輪で重要なことは、勝利することよりむしろ参加することにあろう」と説教したことをクーベルタンが引用し、「人生において重要なことは、成功することでなく、努力することである。根本的なことは征服したかどうかにあるのではなく、よく戦ったかどうかである。このような教えを広めることによって、いっそう強固な、いっそう激しい、しかもより慎重にして、より寛大な人間性を作り上げることができる」と演説しました(読売新聞電子版参照、http://www.yomiuri.co.jp/athe2004/kouza/02.htm)。

 それでは、このクーベルタンの思想は、現在のオリンピック憲章にどのように継承されているのでしょうか? さっそく調べてみました。(http://www.joc.or.jp/olympism/charter/pdf/olympiccharter2011.pdf

 すると確かに、オリンピック憲章は、「オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」(「第1章オリンピックムーブメントとその活動」の「6オリンピック競技大会」)と高らかに明言しています。
 それでも現実は、金銀銅メダルの獲得数を国別に競っているのですから(マスコミが勝手につくりあげているのかもしれませんが)、わけが分かりませんね。

 そのほか「広告、デモンストレーション、宣伝」についても、現在のオリンピック憲章は「規則50付属細則」において、競技中のスポーツウェアや用具のメーカーの表示を「広告目的で著しく目立たない」よう細かく定めています。

 たとえば、メーカー識別表示が認められない面積の大きさの基準について、用具は「60平方センチ以上」、頭部着用物(帽子、ヘルメット等)は「6平方センチ以上」、衣類は「20平方センチ以上」と、それぞれ認められないとしています。

 しかし、ロス五輪の際には、聖火ランナーを市民から募り、その市民からは「参加費」まで徴収する案があったそうです。ところが、聖火の扱いはギリシャ・オリンピック委員会の専権事項だったために、ギリシャ委員会が「聖火を商業主義で汚すことは許さない」と反対して実現しなかったというエピソードが残っています。

 そのギリシャが今や、国際金融資本の餌食にされてギリシャ危機に喘いでいるのは皮肉なことです。現在の商業五輪は、ロス五輪以降に本格的な展開をみせるグローバリズムの本性が、いかに狡猾で品のないものかを象徴するかのように思えてなりません。

 実際、商業五輪の現実には、眉をひそめたくなる実態があります。巨額の放映権料をはじめ、多様なビジネス・チャンスとしてのオリンピックの問題点は枚挙に暇はありません。ロスアンゼルス・オリンピック以来、オリンピックの公式スポンサーは1業種につき1社と限定することによって協賛金を吊り上げてきました。

 今回のロンドン五輪のスポーツ用品業種の公式スポンサーはadidasであるため、Nikeはこれに対抗する宣伝戦略を展開し、ロンドン地下鉄構内をすべて借り切ってNikeの宣伝で埋め尽くすことまでしています。この対抗戦略によって、ロンドン市民には、ロンドン五輪の公式スポンサーをNikeと誤解する向きが現れているそうです。

 このようにみてくると、近代オリンピックの生みの親であるクーベルタンの名言は、20世紀初頭における特定の歴史的な状況の中では意味をもったものの、現代では「絵空事」に近いものというのは言い過ぎでしょうか。
 私は、スポーツをすることも見ることにも高い関心がありますし、それは人間と社会にとってかけがえのない文化の一つであると考えます。それでも、フランス上流階級に属したクーベルタン男爵は、人間性・文化・平和の向上とスポーツとの関連づけに、あまりにも過大な期待をしていると思えてならないのです。

 日本の選手の中に、試合や演技を「楽しんでやりました」「笑顔を絶やさずにできました」と発言する傾向が強くなったことや、メダルが期待されながらメダルに届かなかった選手が押しつぶされそうに悔やんでいる様子をみると、精神保健上の不適切さを感じざるを得ず、私はとても複雑な心境に陥るのです。「笑顔を絶やさない」に至っては、まるでキャビン・アテンダントにみる「笑顔の強迫性」まで指摘できます。

 一流のアスリートとしての努力と研鑽を積みながら、オリピックを渦巻く商業主義(商業主義はネガティヴな画を排除するため、笑顔をサービス提供者に強制します。いわゆる「スマイル\0」!)とナショナリズムの下で、強度のストレスに圧迫されているのではないでしょうか。監督やコーチにしても、オリンピックに向けた選手強化の補助金獲得が至上命題になりがちですから、結局はメダルの獲得だけに選手を追い込んでしまう弊害が生じていると考えます。

 オリンピック憲章の謳う「個人としての選手間の競技」は絵空事だとしても、せめてオリンピックの五輪のシンボルにあるように、メダル獲得数の表示を国別から大陸別に変えるくらいの工夫はして欲しいと考えます。


コメント


オリンピック出場選手は勿論自分の自信や誇りを掲げて、日本を代表して出場できるという輝かしい一面がありながら、メダルを獲得できなかったときには、変にメディアに取り上げられたり、失敗を棚に上げ罵声を浴びせられたりと相当なプレッシャーや責任を負わせられるという一面もあると思います。

新聞にも獲得メダル数が国ごとにランキングされていたりと、結局は選手が健闘したその競技や
内容などではなく、国家間のメダルの獲得数が重要なのでしょうか。

その点に関しては自分も疑問に思います。
メダルを取るために不正行為などをはたらき
今までの努力や国民の期待を無駄にしてしまう
のは、そこに注目が集まるからというのも
あるのではないでしょうか。


投稿者: G-2 | 2012年12月24日 18:07

出場する選手それぞれに目標があり、自己記録の更新という人もいれば、金メダルという人もいることでしょう。期待されている人は期待されるだけの実績や実力、可能性を持っているのであって、そのプレッシャーに打ち勝った者は祝福を受け、屈したも者は自分の弱さを認め次のステップへと歩き出す、そういう舞台がオリンピックであり、だからこそ皆が目標にするのでしょう。いずれにせよ、己の目標達成のために、自分の持っている力を思う存分発揮し、悔いのないように戦って欲しいです。


投稿者: pijn | 2013年01月14日 19:24

多くの社会主義国家が倒れ、世界中に資本主義が蔓延している今日、オリンピックという世界的なイベントが商業に利用されるのは仕方のないことだと思います。選手紹介の際には所属企業等も紹介されるため、オリンピックに出場するような選手を社員雇用という形で支援していれば、企業のイメージアップや宣伝に繋がるのは明白です。ただ、結果が出ない選手に対する支援が打ち切られると、経済的な問題から、その選手は最悪の場合は引退も考えられるため、選手自身も商業主義とは切っても切れない関係にあるのでしょう。
そもそも、オリンピック憲章そのものが、今の時代に合ってないと感じられます。真実か嘘かは分かりませんが、オリンピック委員会のメンバーの中にすら、開催国決定の際に有利に立とうと画策する者から裏金を受け取っている、という疑惑が、マスコミにより報じられるほどです。
商業主義だとは分かっているが、世界的なイベントであるオリンピックくらいは、その事実から目をそらしたい。今のオリンピック憲章は、そう思う人の心の拠り所という役割でしかないように思われます。


投稿者: そんどんよる | 2013年01月17日 19:17

一国の代表として出場している以上、また、順位がつく以上、結果を出せば称賛されるのは当たり前だと思します。オリンピックに出場するほどの選手は、期待や思いを背負っているのは当たり前です。当然、それはプレッシャーになりますが、それに打ち勝ってこそのプロだと思います。競技の内容というのは、選手自身や玄人などにしか感じることはできません。しかし、結果というのは、単純に誰でも感じることはできます。そういった意味でも、ある程度選手が結果を求められるのは仕方ないと思います。また、それは、期待の裏返しでもあると思います。


投稿者: レティス | 2013年01月20日 13:00

私はスポーツを長い間してきたため、勝負に勝つことがいかに難しいかということ、また、期待が大きいほど結果を出すことが難しくなることを知っています。スポーツとは本来スポーツを行う人が自分の人生を豊かにするものだと考えられます。しかし、オリンピックのような国際大会の代表ともなると、国民の代表という肩書から、代表として国民から敬われるような人間にならなければならないような風潮があり、選手の人格を人為的に作り上げているような印象も若干受けます。今後は、スポーツの原点に立ち返って、選手の人間性を尊重するオリンピックへとシフトする必要があると考えます。


投稿者: ナスとトマト | 2013年01月21日 13:17

バドミントン競技での先を見据えてわざと負けてしまった問題は記憶に新しいものですが、私はこれを見たときに、勝つことが全てなのか、一つでも順位を上げることが全てなのかと疑問に思いました。競技である以上上を目指すのは当然だと思います。しかしテレビで観戦していた立場としては、悔いの残らないよう自分が今できる精一杯の力を一生懸命出そうとしている人に勇気をもらっていたように思えます。オリンピック問題の考え方は人それぞれだと思いますが、どの選手も悔いの残らないように戦ってほしいと考えました。


投稿者: blood orange | 2013年01月22日 12:54

オリンピックに期待される経済効果は著しく、自国開催やスポンサー、放映権の問題などがあるが、それらの経済的問題と競技としてのオリンピックがしっかり区別されているかが大切だと思う。選手は クーベルタンの思想のもとスポーツマンシップにのっとり競技することが大切であり、それらをサポートする形でスポンサーがつき、それらを応援する形で放映権を得、それらを盛り上げた結果経済効果が得られるというのならば私は何の問題もないと思うのである。


投稿者: Br | 2013年01月23日 01:27

私はスポーツ経験者であるため、勝負において勝つことがいかに難しいか、また、期待が大きいほど勝負に勝つことが難しくなることを知っている。本来スポーツは、スポーツを行う人が人生をより豊かなものにするためにあるものであると考えられるが、今日のオリンピックなどを見ると、代表選手は皆に敬われる理想の姿になるべきであることを当然とし、代表選手の人格を無理やり操作している印象をやや受けてしまう。今後はスポーツを行う人の個性を尊重したオリンピックに変わっていくことを期待したい。


投稿者: ナスとトマト | 2013年01月23日 14:19

オリンピックというものは、スポーツマンにとって最高の舞台であり、目標です。この舞台に立ちたい、その一心で厳しいトレーニングを積み、努力してきたわけですから、オリンピックに参加する、そのことだけで充分に素晴らしいことだと思います。
マスコミ等によりメダルというものがクローズアップされてしまうのは仕方のないことですが、選手たちにはそのプレッシャーをはねのけて最高のプレーを見せてほしいです。そうしたプレーこそ、見ている人の心を打つのだと思います。


投稿者: SC504 | 2013年01月25日 08:59

確かに自分もオリンピックの楽しみとして日本の選手がメダルを取るというのがありました。それは彼らが日本の代表選手として或り,まるで自分のことであるように考えるからです。そのため金メダルを取れると嬉しいし逆にメダルを取れないと悔しい気持ちになります。ある程度の選手に対する感情輸入はしょうがないと思います。しかし過度に行いすぎると選手のスポーツ生命に影響を与えてしまうので少しは慎むべきだとは思いますけど。


投稿者: kanto | 2013年07月16日 16:25

オリンピックは開催するためにも多くの資金が必要となり、また莫大な経済効果をもたらすため、商業化は仕方ないと思います。そもそも多くの選手はプロとしてスポンサーと組まずには生活できないし、スポーツのみにその人が集中できるのは商業化されているためだと思います。また商業化の観点から言えばサッカーワールドカップなどの方がひどく、オリンピックは比較的良い方ではないでしょうか。
オリンピック憲章に個人としての選手間の競争と書かれていても、現実問題として表彰式では個人競技でも勝利者の国旗が掲げられています。また多くの人が自国に程度に差はあれ帰属意識を持つため、そこに意識が向くのは仕方なく思います。しかし強い選手(例えばボルト、イシンバエワなど)に対しては日本人でも大きな注目をもち、またテレビでも見るでしょう。その点では他国の選手に対する賞賛は実現されていると思います。メダルの獲得数の国別表示にしても大陸表示にしたところで需要は大変小さく結局埋もれてしまうのではないでしょうか。


投稿者: からあげくん | 2013年07月19日 14:05

スポーツにはお金がかかります。選手はスポンサーがいなければ競技を続けることが難しいのが現状ですし、またトレーニング方法へのテクノロジーの介入などからも見てとれるように、もはやスポーツは商業や科学から切り離せるものではないのです。高みを目指すのであれば、そのような側面ともうまく付き合っていかねばなりません。
一方で今も昔も変わらないのは努力を続ける選手たちの姿です。オリンピックが今日まで続いてきた理由は、何よりも人々がその姿に感動させられてきたからではないでしょうか。
選手たちには、メダル獲得や国の代表という重圧に押しつぶされることなく、自らが大切にしてきたもののために大舞台で輝いてほしいと切に願います。多くの人々は商業的価値なんかでなく、そんな彼らの姿を望んでいるのですから。


投稿者: にょっき | 2013年07月25日 11:52

 オリンピックで自国の選手を応援することは当たり前なのか。なぜ私たちは自分に関係のあることばかりに関心を払うのか。当たり前と思っていることにはメディアの影響はないのか。
 私は選手インタビューで日の丸を背負って頑張りたいなどと答える姿や上位入賞した選手が日の丸を背中に纏って喜ぶ姿には疑問を感じる。なぜ戦争時に使われた日の丸を堂々と纏うことが喜ばしく受け取られているのか。それぞれの日の丸に対する考え方の違いも大きいが、メディアが当たり前のこととして発信することの影響も少なからずあると思う。
 オリンピックの国別メダル数予想が騒がれるなど、応援という良い行為だからと当たり前のこととして受け取っているが、吟味する必要があると思った。


投稿者: うに | 2014年01月03日 18:34

スポーツをやっている人なら誰もが憧れる、華やかな舞台というイメージがあるオリンピック。企業のイメージアップや国家間競争にオリンピックが利用されていることには疑問を感じた。しかし、選手にはスポンサーがつかないと競技を続けることが難しく、商業主義とは切り離せない関係にあることは認めざるを得ないので、そういう商業的な面とどのようなバランスで付き合っていくかが重要だと思う。2020年には東京オリンピックが開催されることが決まり、国民の期待も高まっている。メダルの数云々より、選手それぞれが最高のプレーをできることに期待したい。


投稿者: マスカット | 2014年01月22日 10:23

※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。

コメントを投稿する




ページトップへ
プロフィール
宗澤忠雄
(むねさわ ただお)
大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

【宗澤忠雄さんご執筆の書籍が刊行されました】
タイトル:『障害者虐待 その理解と防止のために』
編著者:宗澤忠雄
定価:¥3,150(税込)
発行:中央法規
ご注文はe-booksから
障害者虐待 その理解と防止のために
メニュー
バックナンバー
その他のブログ

文字の拡大
災害情報
おすすめコンテンツ
福祉資格受験サポーターズ 3福祉士・ケアマネジャー 受験対策講座・今日の一問一答 実施中
福祉専門職サポーターズ 和田行男の「婆さんとともに」
家庭介護サポーターズ 野田明宏の「俺流オトコの介護」
アクティブシニアサポーターズ 立川談慶の「談論慶発」
アクティブシニアサポーターズ 金哲彦の「50代からのジョギング入門」
誰でもできるらくらく相続シミュレーション
e-books