暴力に対抗する「愛」と「知恵」
「厳罰は有効な刑事罰なのか」-このタイトルは(雑誌『世界』8月号、第833号、176-183頁、岩波書店、2012年)、森達也さんがノルウェー元法相から聞いた話を中心にまとめた記事です。ノルウェーでは、昨年の7月22日に連続テロが発生し、総計77名もの死者を出す大量殺人事件となりました。「ならばこの事件を、政府や国民はどうとらえたのだろう。世界一寛容と言われるノルウェーの刑事司法に、何らかの影響を及ぼしたのか」という問題意識から、事件当時に法務大臣を務めていたクヌート・ストールベルゲ氏に話を聞いたものです。
簡単に内容をご紹介しましょう(詳しくはぜひお読みください)。
◇テロ直後の対応
・事件当日の首相記者会見
「これほどの暴力であるからこそ、より人道的で民主主義的な回答を示さねばならない(That the answer to violence is even more democracy. Even more humanity)」
・事件翌日の首相記者会見
「相手をもっと思いやることが暴力に対する答えだということを示さなければならない」
◇「愛」と「知恵」で克服-市民の反応
・日本の通信社が「事件を契機に死刑復活を求める声がノルウェーでも高まっている」と配信した記事に対する、ストールベルゲ氏の話
「(事件)現場で直接話した遺族の反応は、予想とはまったく違いました。彼らの対応は『愛と知恵』によって、自分たちのこの鮮烈な体験を克服しようというものでした」
「もちろん事件後に、死刑を復活すべきと個人的に考えた人もいたとは思いますが、実際には、とても少数です」
「日ごろから犯罪対策にもっと力を入れろと主張する右派政党ですら、この事件に乗じて厳罰化をはかろうとする議論には載りませんでした」
「むしろ事件後に国民的な議論になったのは、犯人を死刑にすべきだとか、できるだけ長く刑務所に閉じ込めろなどの観点ではなく、裁判によって事件の構造を徹底的に解明することと、同じような事件が再び起きないようにすることについての考察でした」
・森達也さんの刑事司法政策の現状の取材に応じたノルウェー法務官僚の話
「ほとんどの犯罪には、三つの要因があります」「まず幼年期の愛情不足、次に成長時の教育の不足。そして現在の貧困。ならば犯罪者に対して社会が行うべき苦しみを与えることではなく、その不足を補うことなのです。苦しみを与えることではありません。これまで彼らは、十分に苦しんできたのですから」
◇「機能する刑事司法」を目指して
・テロは司法省でも起きたため、ストールベルゲ氏の同僚も大勢亡くなり、執務室にいたら氏自身も命を失っていたかも知れないが、「それでも被告は死刑になるべきではないと断言できますか」との森さんの問いかけに対して
「はっきりいわせてください。死刑について、私は明確に反対します」
「政治家も政党も、『機能する刑事司法』を重要視しています。『機能する』とは、犯罪をどう予防するか、ということです」
「もしも社会が死刑を最終的な解決方法などと考えるならば、同じような事件をどのように予防するかなどの観点について、考察や煩悶し続けることを放棄してしまうかもしれません。犯人を処刑すれば終わるわけですから。そこで終わってはいけないのです」
「裁判所の誤審や冤罪などが起きた場合に、死刑は絶対に取り返しがつかないという問題も大きいです」
◇死刑を支持する世論をどう見るか
・日本の国民の85.6%が死刑制度を支持する(2009年内閣府調査)という事実は、死刑存置国においても突出した数値であり、死刑廃止の流れにある世界の中で日本だけが、死刑を求める民意を増大させている点について
「ノルウェーの経験をお話すれば、刑事司法制度が機能しているか絶えず注意を払い、改めるべきところは改めるという意識があれば、悪いシステムは排除されるはずです」
・死刑も終身刑もないノルウェーは、「出所者に対して国家が仕事を斡旋し、提供する。つまり社会への適応を、最優先順位に考える」のに対し、日本はどうか。刑務作業報奨金は信じられないくらいに安く、出所後に「社会復帰したくてもできるはずがない」から、「最近でも、出所してすぐに『死刑になりたい』と二人を殺害する通り魔事件があった。要するにこの国の刑事司法制度は、本気で犯罪の少ない社会をつくろうとは考えていない」と森さん。
・森さんの日本の犯罪現状に関する補足
「人口比における殺人事件の割合は、アメリカのほぼ10分の1で、EU諸国の3分の1だ。犯罪の発生件数はこの10年で半減した。ところが大多数の国民は、その事実を知らない。治安は年々悪化していると思いこんでいる。だから死刑を手放せない」
◇「厳罰か、寛容か」ではなく
・日本のメディアは視聴率や部数を上げるために「加害者の残虐性や被害者遺族の絶望と怒りを強調」し、このような報道によって形成された「死刑は必要」との世論に政治家もポピュリズムによって迎合している事態に対して、ストールベルゲ氏。
「厳罰化によって犯罪が減ると考えているのなら、それはあまりに単純すぎます。でも寛容化が絶対に治安向上に役立つとの断言もできないはずです。重要なことは、犯罪を減らすために何をすべきかを注意深く考え、議論し続けることです」
「福祉政策の果たす役割も大きい。被害者遺族の救済と、加害者の更生や教育にも力を入れています」
・日本の世論調査で死刑を支持する人が多数であることに対して
「『死刑制度を支持しますか』という質問に、『その制度が必ずしも機能しなくても死刑を支持しますか』と加えれば、きっと回答はちがっているはずだと、私は思っています」
なかなかの読みごたえがありました。とくに、北欧の政治家のもつ政治哲学や政策手法の具体性には感じ入るものがありました。電力会社への「愛と悪知恵」に満ちたどこかの国の政治家とはできと重みが違い過ぎます。
「機能する刑事司法」を注意深く考えるという課題は、「機能する虐待防止」のあり方に共通するものだと考えます。つまり、虐待防止に資する「愛と知恵」がなければなりません。虐待を〈虐待者=加害者〉と〈被虐待者=被害者〉の関係に閉じ込めて、前者をバッシングするようなメディアの傾向は、今日でも克服されません。これでは、「虐待を減らすために何をすべきかを注意深く考え、議論し続けること」を国民的な議論の課題に据えることはできませんね。
さて、この号の『世界』は原発、生活保護、障害者制度改革等についての力のある言説が多いと感じました。なかでも、小説家の赤川次郎氏の特別寄稿「ニコンFの誇り」という短文に、私は深い感銘を受けました。
コメント
日本の法制度について、何度か考えたことがある。日本には終身刑がない。無期懲役は無期限なだけでいつかは刑務所を出られる。終身刑は刑務所を出ることができないからその差は大きい。だから死刑を望む。被害者遺族は犯人に対しての憎悪から、死刑を望む。しかし、被告が死刑になったところで遺族には何も残らない。それでも一番重い罰を与えることが遺族の望みとなっている。起きてしまった事件に関しては、遺族の悲しみを考えると死刑を望むのは当たり前なのかもしれない。大事なのはこれから起こり得る同じような事件にどう対応していくかだ。起こった犯罪への対処だけでは足りない。未然に防ぐことへの努力をすべきだ。記事を読んでそう思った。虐待に関してだってそうだし、犯罪が起こらないなら刑罰自体必要ない。私たちは、日本人として、もう少しそのことについて深く考えるべきなのかもしれない。
これだけの事件を犯した人間を死刑にしようとするのではなく、人道的、民主主義的に回答を示そうとするノルウェーの姿勢は私は見習うべきものだと思いました。ですが、死刑という厳罰があることで、犯罪が抑制できる面もあるとも思いました。この考えは先生も仰っているように、加害者をバッシングするようなメディアの傾向も影響していると思います。
すぐに死刑のような厳罰を無くすことは難しいと思いますが、大きく取り上げられる事件だけでなく、日常生活の中で起こることに対して何故それが起こったのか、どうすればそれが防げたのかと、考える人が少しずつ増えることで厳罰を無くすことは出来なくとも、それが必要となる事件が減るのではないかと思います。
ボクはこれまで現代の典型的な日本人のように死刑制度は当然あるべきものだと考えていました。ブログに書いてある雑誌「世界」に関する要約を読んでる途中も「そんなに甘いことを言ってないで死刑にすれば良いのに」と感じなくもありませんでした。しかし、クヌート•ストールベルゲ氏やノルウェー首相の発言を読み、少し「そういう対処の仕方も効果的だな」と思いました。死刑を廃止した方が国民性もノルウェーみたいに良くなり、社会(治安)も良い方向へと向かうのではないかと思いました。そしてもう一度読み、考えました。ストールベルゲ氏の考え方のようにはうまくいくはずがないのではないか。テロという残虐な行為を行った人に対して「愛と知恵」を持って対応したからといって更生するとは限らない。更生する人もいるのかもしれないがそんな可能性はごくごくわずかしかない。法律、つまり「人間が作った人間が守らなくてはならないルール」を大きく裏切ったのだから、身を以て償うのは当然である。1度、ルールを大きく破った人にもう一度チャンスをあげるほど世の中うまくはできていてはいけない。ノルウェーは死刑も終身刑もないというが、例えばある人に本当に、本当に殺したいほど憎い奴がいるとする。自分の国の制度がこのノルウェーの制度のようであるならば、「1人殺したとしても死刑になったり、一生刑務所の中で過ごすということもないのだろ」のような考えを起こし、犯行に至るということが多発するのではないか。ノルウェーの国民性は「愛と知恵」を持って接し、更生するということが根付いているからこそ成り立つもので、全世界でこの考え方を反映することは非常に困難であろう。というより、不可能である。
しかし、虐待などの“大量”に人を殺したなどでない罪に関しては、ノルウェーのような、出所者を国がバックアップする制度があれば世の中少しは快方に向かうかもしれない。
ボクは、彼らの考えが間違っているとは思うが、やはり少し現実離れした考え方であるという印象を受けました。
こんにちは、講義を受けているものです。
私たちが日常的につかっている商品も、障害のある方にとっては危険なものになりえます。どうすれば障害者の日用品による事故を防げるかを考えてみると、人によって障害も異なりますしなかなか難しいです。特に、目の不自由な方は毒性のあるものをそうとは知らずに体内に入れてしまうような事故が最もおこりやすいかもしれません。目の不自由な方に対しては、危険なものはもちろんですが、すべての商品に点字を付けるなどしてなにかわかってもらうような工夫があるとよいと思います。
死刑について私は反対でした。被害者にとっては大切な人をなくした悲しみや怒りから、死刑になってもおかしくない、と考える人が多いと思う。しかし、死刑をしたところで、その悲しみや怒りはおさまらないし、犯罪者は死んでしまったらその先は何もない、それよりは死刑にせず、刑務所で自分がした事の大きさを実感するくらい苦しむべきだと考えていた。しかしこの記事をよんで、死刑も終身刑もないノルウェーの犯罪に対する考えはもっともだと思った。処刑をしてしまったら、それでその事件は終わりになってしまう、そこで終わりにするのではなく、どうしたら同じような事件がなくなるかを考えていくことが重要だと思う。日本のメディアは、事件が起きると被害者の悲しみや怒り、犯罪者がどういった判決をうけるか、によって注目を集めようとしていると思う。そのため、その事件が判決を下されて、解決すると、人々の記憶からも消えていく。私は、もっと、その事件から人々に同じ様な事件がおきないようにするようなメディアの情報発信も必要だとおもった。
ブログを読んでいろいろ考えることがありました。というのも私は死刑に基本的に反対なのですが凶悪・残虐な事件が起きると死刑にすればいいのにと思ってしまう時があります。日本でおきたオウム真理教関連の事件はノルウェーのような見方をすればまた変わったものに思えてきます。許されることではないですが社会復帰のチャンスを与えることや、根本を断つために被疑者に対する愛情を持つということが大事なのだと思いました。日本の社会は結果重視だと思います。原発も犯罪に対しても事物が起きてから考え行動しています。それも事態を収束させることに焦点をあわせ事態の未然の対策がなされていないと常々感じさせられます。「犯罪者は今まで苦しんできたのだから苦しみを与える必要はない」ということについては日本の社会からは考えられないと思いました。しかし復讐の念が定着しつつある世の中が改善されなくなればノルウェーのような"機能する"司法が日本・世界中に広まっていくのではないかと思います。そして誰に対しても"愛情"を持つことが未然に防ぐ鍵なのだと思いました。
ノルウェーでの連続テロ後に犯人は死刑ということではなく、裁判で事件の解明をし、再勃発を防ぐという考えには、納得できました。そして、犯人を死刑にしたところでは何も変わらず、それで事件が終わりになるのは間違いだと思いました。犯人にも理由はあるからといって許されないけど、死刑というわけでもなくとても重要な問題であるからしっかり考えていきたいと思いました。
ボクはこれまで現代の典型的な日本人のように死刑制度は当然あるべきものだと考えていました。ブログに書いてある雑誌「世界」に関する要約を読んでる途中も「そんなに甘いことを言っていないで死刑にすれば良いのに」と感じなくもありませんでした。しかし、クヌート・ストールベルゲ氏やノルウェー首相の発言を読み、少し「そういう対処の仕方も効果的だな」と思いました。死刑を廃止した方が国民性もノルウェーみたいに良くなり、社会(治安)も良い方向へと向かうのでないかと思いました。そしてもう一度読み、考えました。ストールベルゲ氏の考え方のようにはうまくいくはずがないのではないか。テロという残虐な行為を行った人に対して「愛と知恵」を持って対応したからといって更生するとは限らない。更生する人もいるのかもしれないがそんな可能性はごくごくわずかしかない。法律、つまり「人間が作った人間が守らなくてはならないルール」を大きく裏切ったのだから、身を以て償うのは当然である。1度、ルールを大きく破った人にもう一度チャンスをあげるほど世の中うまくできていてはいけない。ノルウェーは死刑も終身刑もないというが、例えばある人に本当に、本当に殺したいほど憎い奴がいるとする。自分の国の制度がノルウェーの制度のようであるならば、「1人殺したとしても死刑になったり、一生刑務所の中で過ごすということはないのだろ」のような考えを起こし、犯行に至るということが多発するのではないか。ノルウェーの国民性は「愛と知恵」を持って接し、更生するということが根付いているからこそ成り立つもので、全世界でこの考え方を反映することは非常に困難であろう。というより、不可能である。
しかし、虐待などの“大量”に人を殺したなどでない罪に関しては、ノルウェーのような、出所者を国がバックアップする制度があれば世の中少しは快方に向かうかもしれない。
ボクは、彼らの考え方が間違っているとは思わないが、やはり少し現実離れした考え方であるという印象を受けました。
私は死刑制度について賛成である。殺人を犯してしまったことに対する罪滅ぼしという面もあるかもしれないが、何より死刑執行までの期間に犯人には人の死や生きることについて考え、自分の犯した罪について考えるという罰が死刑だと、私は考える。もちろん、犯人や刑務所の中だけの自己完結に終わってしまい、犯罪の抑制にはつながらないだろう。そのためにも、私たち国民が全体で死刑制度について考え、議論し、人の生と死について考えるべきだと思う。
死刑制度を日本人がこれほどまでに支持してるのは、やはり日本の文化が影響していると思います。「死をもって償う。」とかよく時代劇とかでみますけど、切腹とかも日本独自ですよね。「死」を最大の償いという価値観は今も昔も変わってないんだと思います。ノルウェーの制度から「死」への日本人とは違う価値観をもっているのがわかるし、それから学ぶものもあります。日本人は安易に死刑を選んで楽な道を選んでいると思います。殺すことよりむしろ生かすほうが難しいなんて悲しいことだと思います。この考えは甘すぎるかもしれませんが、死刑制度を見つめ返す姿勢こそが今の時代に必要なことだと思いました。
この記事を読んで死刑制度についてとても考えさせられました。ノルウェーの、犯罪者を愛と知恵で救う考え方はかなり画期的だと思いました。犯罪をする人に幸せな人はいないと思います。今までの苦しみをケアして、更生のチャンスを与えたほうが、よりよい社会になると思いました。また、犯罪者ばかり責めるのでなく、社会構造を変えていくなどの努力をするべきだと思います。今の日本は生活が苦しい人への補助が足りないと思います。政府は無駄遣いをやめて、社会福祉にもっとお金をまわすべきだと思います。日本のように悪いやつにそれなりの罰を与えろという目に目を歯には歯を的な考え方だと、犯罪が連鎖して悲しみを繰り返すだけだと思いました。なので日本もノルウェーの考え方を参考にし、諸所ある課題を修正していくべきだと思います。
しかし、自分も被害者の立場になって考えてみると、もし大切な人を殺されたら怒りと深い悲しみで死刑だ、死刑でなくても一生牢屋に入れて罪を補えと考えてしまうと思います。犯罪構造を変えることも大切ですが、結論としては、実際に事件が起きたときに、被害者の気持ちをどうケアしていくかについて一番ウェイトを置くべきだと思いました。
今日本で考えられるべき問題は死刑が必要か否かではなく、罪を犯してしまった人の経験をもとに社会のしくみを見直すことだろう。日本では罪を犯した人のそれまでの経験や置かれていた状況などの様々な事情を考慮することなく、その事件についてマスメディアが誇張して取り上げるため、加害者=悪人というイメージが着いてしまう。これは、言い訳はみっともないことであるとする日本の風習とも関係するかもしれない。罪を犯したのならば、言い訳はせずけじめをつけるべきであるという考え方である。しかしこの考え方では、犯罪を減らすことにはつながらないだろう。死刑にするにしても、しないにしても、罪を犯した人の経験や状況をその後に生かすための制度の確立が重要なことであると考える。
この記事を読んで、日本が他国に比べて死刑制度を支持する人が多いことを改めて感じた。私はどちらかと言えば死刑制度には反対です。「死刑」とは、もともと残酷な罪を犯した者が受ける刑罰です。だから、死んでしまえばその人はもうそれ以上人を殺さずに済みます。しかし、私はそれで問題がすべて解決するとは思えないし、最良の方法でもないと思ってます。なぜなら、犯罪者の中には、最初から死にたくて罪を犯す人もいるからです。最近では、こうした犯罪者の自分勝手な理由で、罪のない一般市民が犠牲になるという事件を多く見かけます。そうした犯罪者にとって、「死刑」は望んだ死に方であり、決して「刑罰」ではありません。だから、「死刑」が最も重い刑罰だとは思いません。それよりも、日本は「死刑」が本当に有効な刑罰であるかを考え直すべきではないでしょうか。「罪を犯した者は死んで償うべきだ」という考えは、今では通用しなくなっているのではないかと私は思います。
今日!授業を受けているものです。
前述の記事を読んで、特に考えさせられたのは死刑のことだった。大いに迷うところだが、結局反対。確かに70人程度の人殺しを起こした者にこれ以上生きていられる権利なんてあるもんかと言っている人々の気持ちは分からないことがない。特に被害者側の痛みはね。身内の一人が殺され、ましてそれが子供であったりした場合、恨みを晴らさずにはおかない、なんとかできないものか。法律でできないなら、いっそこの手で殺してやろう。そう思うのが人間の情けというものではないでしょうかという風に僕が思う。感情的には確かに納得する意見である。しかし、裁判が人間の判断に基づいて行われる以上、全く問題が生じないとは言い切れないと私は思う。私たち人間は、悪に復讐したいっていう気持ちが誰にでもある。しかし人間はそういう流れで生きている以上、復讐の連鎖が止まらないのではないだろうか。あいつ(犯人)が人殺しまで陥ったならば、私たちも人殺しのようにあいつを殺せば、まるで犯人と全く同じ役目を果たすのではないのだろうか。犠牲者の家族の誰かが殺したとしても、私はそれが自己満足のためのことでしか考えられない。けっしてそれが正義だ言えないと僕が思う。だから刑事なんてけっして正義ではあるまいと思う。だから反対。
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日本における死刑、無期懲役制度への依存性は報道の問題や時代背景など様々なものが関係していると思います。死刑にすることで、犯罪への見せしめにし、遺族の悲しみを少しでも和らげようという気持ちも十分に理解できます。しかし、先日の通り魔事件のように「死刑になりたい」人が出てきてしまうということは死刑制度は必ずしも厳罰というだけではなく、現実からの逃げ道として用意されたものと捉えられてしまったのではないでしょうか。
そう考えると、今回のノルウェーのお話はとても感銘を受けるものでした。「罪を憎んで人を憎まず」と言いますが、日本ではノルウェーのように出所してからの支援が整っているとは思えません。罪も人も憎めと言われている気がします。特に先日の事件のようなことが二度と起きないためには、難しいことだとは思いますが、最終的に死刑制度を廃止することが予防になるのではないでしょうか。
私は死刑制度に賛成でした。それは死刑制度を廃止することは、殺人事件の重みが軽くなり、日本の治安にも悪影響だと単純に思ったからである。しかし、これはあくまで犯罪を犯した人のことをきちんと考えられていない上に、根本的な犯罪防止ではないことにこの記事で気づいた。
それでも、いきなり死刑制度を廃止することは今の日本には難しい。そのため、今できる具体的なこととしてノルウェーのように裁判によって事件の徹底的に解明すること、また再発防止の考察をすることだと強く思う。
「死」をもって贖罪とするのか、「生」をもって贖罪とするのか、そもそも贖罪という言葉自体が現代社会において機能しうるものなのか、疑問がたくさん浮かびました。昔はきっと、死刑という言葉だけで、死に値する程重い罪であることを誰もが理解できましたし、死刑を望むから罪を犯すという考えが起こらなかったのだと思います。生きていくのが大変な現代だからこそ、生きることで罪を償うことができるようになるのではないでしょうか。出所者への風当たりの厳しさからも、そのように感じます。しかしだからといって、生きていけないから再び罪を犯すようなことがあってはいけません。犯罪を犯してしまったことへの対応の厳しさと、社会に復帰していくための支援のバランスを上手くとっていくことは難しく感じました。
この記事を読み、初めて真剣に死刑制度について考えさせられました。死刑制度撤廃か存続かなどのような議論も交わされているようですが、犯罪が行われたという事実のみに注目してそれに対する処罰を考えるだけでなくその犯罪を犯した者の裏に潜む背景(たとえば家庭環境や教育の環境など・・・)について考え、改善していくことに力を注ぐことの方がよっぽど建設的です。
私はどちらかといえば死刑に賛成しています。別の講義で死刑について議論をしたのですが、そこでも結果は圧倒的に「死刑は必要」で、残虐な犯罪者に対しては死刑を執行すべきである、という結論に至りました。実際に私も賛成として意見を述べました。
しかし、この記事を読んで必ずしも死刑は必要ではないのかなとも思いました。ノルウェーでは出所後の保証を手厚くし、社会復帰させることを国で斡旋している。日本ではそのような保証がないのも事実です。ですがやはり私は死刑に賛成です。このような死刑反対の意見もわかるのですが、犯罪者に国が仕事を斡旋したり、保証したりするために使う費用もすべて税金からまかなっているはずで、私的にはこの点において納得できません。そもそも日本では、死刑が宣告された人もそのまま何年も牢屋の中で生き続けている。これ自体我々の税金の無駄である。
結論、私は死刑に賛成で、死刑を宣告したなら執行までの期間を短くすることが必要だと考える。
私個人の意見としては、被害者遺族のやり場のない気持ちを考えたときに、死刑制度は存続せざるを得ないと考える。死刑制度は犯罪防止機能以前に被害者遺族の権利を保証するものでなければならないからだ。しかし、死刑制度が確立されているからといって、残虐性、被害者人数など安易な判断基準で加害者を裁いてはいけないと思う。加害者の心理をよく考察した上での判断が必要なのである。死刑制度は存続すべきだが、犯罪を安易に解決するための手段にしてはいけない。
私は死刑制度に賛成です。よく言われるように刑務所で罪を償えば許してくれる、なんてきれいごとだと思います。そんなことで被害者遺族の悲しみは消えませんし、危険な人物を塀の外に出すのは再犯の恐れもあると思います。それは日本における再犯率の高さから明らかです。やはり、殺人等の重犯罪に関しては、犯罪者の死をもってのみ被害者遺族に償えるのだと私は考えます。
こんにちは。講義を受講しているものです。
私は普段そういった駅で流れるメロディや繁華街で聞くメロディをあまり気にしていませんでした。ですが騒音などと認識をしたことはありません。
私は駅のメロディや繁華街で聞くメロディはその地域の特色などを表している(人によって感じ方は違うと思いますが)と思っているからです。なので、その曲を聞けばその地域を思い出すといったように宣伝効果もあり、私は素敵なことであると思います。
こんにちは。講義を受講しているものです。
私は今回のブログを読んで、ノルウェーの国民性にとても驚きました。凶悪な犯罪を犯した者に死刑を求刑することよりも、また今度同じようなことが起きないように原因究明や対処方法を追及するという点は頭ではわかってはいても感情的になってしまいなかなか考えられることではないと思ったからです。また、その後のアフターケアにしても再発防止の対策が取られている点にも驚きました。なにより、国民全体で共通の理念みたいなものを共有できている感じがしてうらやましくもありました。
日本では記事の中でも書かれている通り、死刑制度賛成派が8割以上を占めていますが、私は以前から死刑制度には疑問を抱いていました。この記事を読んで、反対する明確な理由を見つけられたような気がします。
刑事司法に関しても虐待防止に関しても、日本人はどうもメディアから与えられる偏った知識のみしか知らず、そのことにより視野の狭い考え方に陥っている場合が多いと思います。愛と知恵で対処するというように、現在世論の中心となっている考え方以外にも様々な考え方があるということを、メディアでもどんどん報じていくべきだと思うし、国民一人一人が自ら関心を寄せて知っていくべきだと思います。
死刑制度について賛成か反対か、小学校か中学校で議論させられたことがあります。そのときも今も、犯罪の抑止力くらいにしか考えておらず、死刑制度のあり方と虐待の防止を関連付けて考えるという思考は全くありませんでした。たしかに日本国民には殺人事件など重大な事件が起こされたとき、その容疑者の生い立ちなどはたしかに報道されるけれどもその原因が何か、現在のどの制度に問題があるのかまで考察することは少ないように感じます。「死刑制度は思考を停止させる」ということは確かにあるかもしれません。一方で、日本の殺人の少なさが本文で述べられていましたが、それは死刑制度があることが原因でないとはいいきれないとも感じました。こう考えててしまう日本人は多いと思います。しかし、この記事のような世界の犯罪への考え方を知ることで考え方が変わっていく人も多いと思いました。死刑制度が今の日本の犯罪抑止力となっているのか、その後の同じような事件の防止になっているのか、この二点を議論することが今の日本には必要なのではないかと感じました。
この記事を読み、初めて真剣に死刑制度について考えさせられました。死刑制度撤廃か存続かなどのような議論も交わされているようですが、犯罪が行われたという事実のみに注目してそれに対する処罰を考えるだけでなくその犯罪を犯した者の裏に潜む背景(たとえば家庭環境や教育の環境など・・・)について考え、改善していくことに力を注ぐことの方がよっぽど建設的です。
死刑の執行については賛成でした。被害者の立場になると,加害者をとても許せるものではないと思ってしまう。特に,死刑になりたかったからといった身勝手な動機であったりすると犯人の死刑を求めてしまう。
しかし、記事の中で「事件後議論になったのは刑罰の重さではく,事実の究明である。」「ほとんどの犯罪には要因がある」といったところに考え方が違うと感じた。
日本人の考え方では,まず最初に責任というのが出てくるような気がする。責任をとっただけでは問題の根本は解決されないので,問題の本質や原因を深く探ることが重要であると記事を読んで思った。
私は今まで死刑は必要なものであると考えていた。悪いことをしたものは、罰を受けなければならないとただ漠然と考えていただけであった。しかし、それよりも大切なのは犯罪が起きた後のケア、起きる前の対策である。どうしたら同じことが起きないのか、なぜ犯罪を犯したのか、それらを一つの事件から学ばなくてはならないのだ。死刑になればそれで終わりである。罪を犯す者も一人の人間であり、罪を犯してしまうような環境で生きなければならなかったいわば被害者でもあるのだ。被害者から加害者にならないように必要なのは、死刑ではなく、社会制度であったり、環境であったりする。同じことを繰り返すということをなくすため、平和な社会をつくるためには、罰を与えておびえさせるのではなく、一人ひとりが幸せに生きていける社会、即ち人権を尊重した社会づくりこそが必要なのである。
こんにちは。講義を受けているものです。
私は、今まで犯罪を犯したら重い刑罰が待っているのは当然であり、それによって刑罰を恐れて犯罪が減るのだと考えており、死刑制度には比較的賛成でした。
しかしこの記事を読んで、国民が死刑制度に賛成している日本は特殊であることを知り、また刑罰を重くすることだけがいいのではないということを知りました。
被害者だけでなく加害者のケアにも愛と知恵をもって考えていくのも大切なのだなと思いました。
ストールベルゲ氏やノルウェーの首相が言うことはもっともで、とった対応というのは素晴らしいものだと思います。
しかし自分自身メディアの報道に振り回されているのかもしれませんが、「死刑は不要」とは言い切れないところがあります。
以前「ザカリーに捧ぐ」というドキュメンタリー映画を見ました。そこでは「被害者よりも加害者の人権が重視される」というカナダの司法制度を問題提起したもので、それによってラストはとてつもない悲劇が起こるのです。
ノルウェーの法務官僚が言う「犯罪者はこれまで十分に苦しんできたため、これ以上苦しみを与えるべきではない」とありますが、それだけで寛容な対応を許されるべきとは思いません。
被害者を失った、遺族たちの苦しみを踏まえて、遺族の方々を納得させられるような対応をとっていくべきものと考えます。
自分は、確かに「死刑や終身刑は犯罪を減らす」ことに直結するとは思いません。
しかし死刑制度があることで、被害者遺族が少しでも救われることになるのではないかと思います。
死刑制度は治安維持のための側面はもちろんありますが、「悪いことをすれば罰されるべき」といった誰もが持っている共通認識の上で、被害者遺族含め、国民全体を納得させるためにあるのではないかと考えます。
私は、死刑制度に反対です。その理由を述べたいと思います。罪を犯した者には理由があるはずです。その理由を明確にし、共有することで、今後の犯罪を防ぐことができるかもしれないと、私は考えます。罪を犯してしまう心理。その心理を生み出してしまう環境。これは世界中いつどこに存在してもおかしくないのです。それを未然に発生させないためにも、罪を犯した者から得られるものは、重要であると思うのです。平和な未来を築くためにも、私は死刑制度に反対します。
中世の刑罰には死刑は当たり前のように存在した。それは、中世では刑罰とは罪を犯した人間を懲らしめるためである。しかし現在は刑罰に対する考えが変わっている。現在は刑務所で過ごすことで罪を犯した人間を更生させ、社会復帰させるというものになっている。もちろん日本でも同じである。死刑判決を受けた人間は、更生させてもらえない。これは現代の考えとずれているのではないだろうか。どんなに重い罪を犯しても死刑になればそれで責任を逃れてしまう。それだけでは甘いのではないだろうか。もし、死刑を撤廃するならば、記事にある通り出所した人間が生きていける環境をつくる必要がある。そして、自分の罪と見つめあい、罪を背負って生きていくほうが犯罪撲滅につながると思う。
私は死刑制度について考えたことはありますが、とても難しい問題だと思います。私は死刑についてはどちからといえば反対でした。罪を犯した者が死んだからといってその先何かが変わるのかと疑問に思うからです。しかし、被害者のことを考えるとそれは安易な考えなのではと思ってしまいます。
今回の記事を読んで、反対する明確な理由が見つかったような気がします。やはり、罪を犯した者を処刑して終わりにするのではなく、そこから何故そのような事件が起こったのか考え、再び同じような事件が起こらないように防ぐ姿勢が必要なのではと感じました。
世の中には色々な犯罪が起こっていますが、それらについて議論し、考えることで防止できる犯罪もあるのではないかと思います。
私たちはメディアに大きく影響されやすい。メディアでもっと厳罰な処分を与えるべきと大きく報道されれば、犯罪を減らし安全で平和な社会にするためにはより厳罰な処分が必要であると考えるようになる。メディアに報道はすべて正しいということは当たり前にありえないが、疑うことなくその情報を信じ込んでしまう人が多い。より重い処罰や死刑を下すことが本当に社会を良くするものなのかどうか一人ひとりがしっかりと自分自身で考えてみるべきだと思う。
私たちはメディアに大きく影響されやすい。メディアでもっと厳罰な処分を与えるべきと大きく報道されれば、犯罪を減らし安全で平和な社会にするためにはより厳罰な処分が必要であると考えるようになる。メディアに報道はすべて正しいということは当たり前にありえないが、疑うことなくその情報を信じ込んでしまう人が多い。より重い処罰や死刑を下すことが本当に社会を良くするものなのかどうか一人ひとりがしっかりと自分自身で考えてみるべきだと思う。
私は記事を読んで、犯罪の少ない社会を作る上で刑事司法、また社会が果たすべき役割について以下のように考えた。多くの人が議論している「死刑」について、私は犯罪の少ない社会を作る上で死刑制度の有無はさほど重要なファクターだとは思わない。その理由としては、死刑制度の有る無しに関わらず、事件に関しての議論・考察は慎重に行われるだろうし、同様の事件の予防についても十分に考えられていると思うからである。死刑の有無よりも重要なことは刑事司法がどのような役割を果たすかという事であると思う。記事を読んで、刑事司法は事件を正確に把握・解明すること共に、その後の同様の犯罪の予防や、被告の社会復帰についてまでも責任を持っていかなければならないのだと思った。このような責任を果たす上で「愛」や「知恵」を持って考えていくという姿勢は一つの指針であると思う。しかし私は、先のように思うと共に、本当に「愛」や「知恵」を持って臨むべきは刑事司法ではなく、教育や地域社会なのではないかと思う。犯罪のない社会(よりよい社会)を作っていく上で一番理想は、どのように再犯を防ぐのかではなく、犯罪の発生そのものを無くすという事だと思う。教育や社会はこの役割を果たす上で大きな責任を持っていると思う。
わたしはどちらかといえば、死刑賛成者であると思っていたし、この記事を読んでも、それは変わらなかった。ただ、記事の中で、事件の構造解明と、事件を未然に防ぐことに重点が置かれるべきである、という主張は、わたしもその通りであると考えるし、また新鮮に感じられた。今まで見たり聞いたりしてきた死刑反対者の主張は、人が、死刑という制度を通して、人の命を奪ってはいけない、という、加害者の命を拠り所とするものばかりだったからだ。しかし、被害者の命を奪っているので、このような主張には限界がある。また、死刑賛成だからといって、必ずしも死刑の執行が最終目的となるわけではないと考える。特に、被害者家族にとっては、何らかの区切りにはなったとしても、苦しみや戦いは続く。罪を犯してしまった者には、記事中に書かれているような、愛情不足、教育不足、貧困といった問題があったために犯罪に至ってしまったという構造が見えることもあるだろうが、だからと言って、罪を犯してよいわけはない。再び、事件や犯罪が起きてしまう前に対処するために参考とするに留まるべきであると考える。
私は大多数の日本国民と同様に、どちらかといえば死刑制度には賛成の立場の人間です。やはり愛する家族、友人、恋人を殺されてしまったら…そうなった場合、遺族が殺人犯を自ら「殺してしまいたい!」と憎むのは仕方のないことだし、同じ苦しみを味わわせたいと思うのも当然のことだと思います。しかし、ただ殺人犯を死刑にして全てを終了とするのは絶対にしてはいけないことです。例えばいざ殺人犯を死刑にしました。これで遺族の憎しみが全て消えますか?殺された人は戻ってきますか?死刑になるような重罪人はいなくなりますか?…やはり憎しみが全て洗われるとは思いません。死んだ人は帰ってこないし、犯罪は起こり続けます。死刑はとりあえず体裁を整えるだけの手段であってはいけないのです。何故そのような犯罪が起こってしまうのか、もうこの重犯罪者がこんなことを繰り返さないために何をすべきなのか、本当に殺して終わりにしてしまっていいのか…。死刑を存在させ続けるならば、「次」を起こさないためにどうすればよいか?という問いの中の選択肢の一つとしての位置づけが必要なのではないでしょうか。
私はこの記事を読むまで重大な犯罪を起こした者に対して死刑などの重い刑罰を与えることは、当然のことだと考えていました。しかしこの記事を読み、死刑、終身刑を採用していないノルウェーとそれらを採用している日本とを比較してその考えが変わりました。犯罪を起こすと重い罪が与えられるような制度が必ずしも犯罪を予防することにはならないということがわかったからです。また、ノルウェーの出所後の加害者への仕事の斡旋などの政策についても日本は見習うべきだと思いました。起こってしまった犯罪に対してのみ対応するのではなく、犯罪の予防、加害者の更生などに対しても柔軟に対応する必要があると考えます。
私は死刑には現時点では賛成である。日本での死刑は縊首によって行われる。これは、受刑者が乗っている台の床板が外れ、受刑者が落下することによる衝撃で、延髄や頚骨に損傷が起き、意識を失い、即死するというものである。このような重い刑が実際にあることは罪を犯す人間への最後の砦になっているのではないだろうか。確かに死刑がすべての犯罪の抑止力になっているかというとそれは違うだろう。逆に死刑になるために人を殺めるような事件が起こっている。しかしこれは稀なケースなのである。多くの人間は死にたくない。いざ死にそうになれば生に必死にしがみつく。だれかを殺したい、と思うことがあっても自分が死んでしまっては元も子もない。そんな考えから殺人をしない選択をする人は少なくはないはずだ。人間の生存本能に訴える死刑という刑罰は効力を発揮している。しかし、メソポタミアの時代では目には目を歯には歯をという言葉からあるようにとても厳しい罰が罪に対して与えられていたにもかかわらずこの時代にも罪があったように厳しい罰のみでは人の罪を完全に抑えることはできない。ならばどうすればいいのか。社会環境が目まぐるしく変わっていくこの時代に完璧にフィットする制度を作ることは難しい。しかし、制度が未来にフィットすることが不可能でも、人は時代に対応していくことができる。だからこそ私たちが柔軟で、新しい考えをもってこの変化に対応し、どのような制度が私達にとって最も有益なのかを探っていき続けることが重要だと私は考える。
私は、この記事の中で、特に「犯罪人の刑罰をどうするか、よりも、なぜその犯罪が起きたのか、犯罪の背景を考える事が重要である」という考えに、大いに共感する。多くの人の命を奪った犯罪人であるから、報復的に死刑や長期刑を科す、というのならば、それは感情論であり、犯罪人と同じレベルの考え方であると思う。犯罪は、何らかの原因がなければ決して起こりえない。本当に重要なのは、なぜその犯罪が起きたのか、その原因、原理をしっかりと考える事であると思う。そして、対処すべきは犯罪人ではなく、その原因なのである。犯罪の原因をしっかりと解明することが出来れば、以後同様の事例が出てきた場合において、犯罪を未然に防いだり、新たな犯罪人となる人を生まなくて済むかも知れないのである。よって、私は、このような犯罪を犯した人に対しては、死刑にして人生を終わりにするのではなく、自らの罪を客観化出来るまで、徹底的に向き合ってもらう必要があると感じる。
また、事件に関して、当事者でない一般の国民が知る機会というのは、マスコミを通じてである場合が大部分であるだろう。よって、その時に、単に憎悪すべき犯罪者を強調するのではなく、どうしてこのような衝撃的な犯罪が生み出されたのか、その背景を報道してほしいと思う。
私も、死刑制度が日本にあり、それが当然であるかのように感じていました。そして、死刑宣告はどの刑罰よりも重いもので、有効な刑事罰であると思っていました。しかし、ストールベルゲ氏の「死刑を最終的な解決方法などと考えるならば、同じような事件をどのように予防するかなどの観点について、考察や煩悶し続けることを放棄してしまうかもしれない。」ということを知り、確かにその事件を死刑によって終わらせることは簡単に出来てしまいますが、そこから何かしら予防なり対策していかなくてはならないと感じました。それには、犯人の協力も必要であり、その事件に犯人が向き合っていくことも罪の一つの償いになると思いました。
事件を起こした犯人を死刑にするかしないかの問題を取り扱うのではなく,なぜそうなってしまったのかという根本的解決をするノルウェーの姿勢はとても感心させられました.
現在大津の中学生のいじめによる自殺が問題になっていて,「加害者を少年法で罰しろ」などと言われていますが,「なぜいじめが起きてしまったのか」「先生や学校の対応をどのようにしていくべきか」などを議論し根本を解決することがこの事件の本当の解決になるのではないかと思いました.
こんにちは、授業を受けているものです。
わたしはどちらかといえば死刑制度に反対です。加害者を殺したところで、責任がなくなるわけではないし、むしろその加害者を殺すことで事件の起きた社会背景の問題自体がなかったことになってしまうのではないか、と。
しかし反対に、死刑は極刑としての役割を持ってもいると思います。最も重い刑が無期懲役となれば、非道な犯罪を犯しておきながら加害者は最低でも刑務所で三食食べれて、医療も受けられる状態で死ぬまで生活し、あるいは社会復帰もあるかもしれないのです。被害者側から見れば耐えられないことでしょう。
社会的にはないほうがいい、しかしフォーカスを変えれば道理が通らなくなってしまう。それが私の死刑廃止についての認識です。
「愛」と「知恵」を持って事件を克服するというノルウェー市民の姿勢は、互いの信頼により成り立っているものだと思います。これは理想的な例であると思いますが、一方で全く想像のつかない理由で起きた犯行には太刀打ちできなくなってしまうのではないでしょうか。これでは、「正直者が馬鹿を見る」になってしまいます。このノルウェーの例をそのまま日本に持ち込むことはできないでしょう。国によって市民感覚にはズレがあります。現状では誰もがノルウェーの人々のように犯罪に対し愛を向けられる状態にはありません。日本なりの、犯罪に対する姿勢というものを作り上げていく必要があると思います。
死刑にはずっと賛成でした。それが被害者の家族が一番望んでいる事のように思えていたからです。しかしこの記事を読んで死刑は単なる報復ではないか、そして死刑制度は犯罪予防と機能しているのか、と疑問に思うようになりました。TVなどで報道されているのは起こった事件がどういうものかという事だけで加害者の犯罪に至るまでの背景はそこまで語られていないという印象を持ちます。人が人を殺したという事実だけが広がるから日本人の85.6%が死刑制度を支持するという事態が生まれるのではないでしょうか。メディアの報道傾向が国民の死刑についての考え方に影響している部分があると思います。
日本人がこれほどまでに死刑制度に賛成していることに驚いた。私自身死刑にはあまりネガティブな考えを持っていないし、無期懲役制度には賛成である。これは国民性とマスメディアによるものだと思う。日本は腹切りという独自の文化を持っていた。しかもTVの時代劇でもよく見かける。これにより「死をもって償う」ことに忌避感を持たなくなっているのではないかと思う。さらにメディアは被害者感情ばかり支持する。遺族が「〇〇を返して」と涙を流し、「この手で殺してやりたい」と憤る様を嬉々として報道する。「加害者が反省している」とは言わずに、「加害者は反省の色を見せない」とは声高々に言う。このせいで国民は死刑、無期懲役制度の必要性を感じる。
「司法制度を機能する」ためには、まず「メディアが機能する」必要があると思う。
僕は死刑制度に賛成です。今回のノルウェーの例を参考にしてもそう思います。日本で長年生活しているからかもしれませんが、やはり被害者側からしてみれば自分の身近な親類が理不尽に殺害され、犯人が悠々と生きているとなれば悲しみを抑えきないと思います。もちろんノルウェーみたいに事件の原因を探り再び悲しい事件を阻止する策もいいと思います。ですが死刑という重い罰を設定することによって、事件の重さというもの国民に理解してもらい犯罪を未然に防ぐこともできると思います。このような理由で僕は死刑制度はあっていいと思います。
-記事をよんで、思った事について-
死刑はどのぐらい犯罪予防の効果があるのか。最近刑法学の発達の中で、死刑制度の実際の犯罪予防の効果の関連性はあまり明らかではないという研究結果もあったが、これは別のことにして、個人的に考えてみても犯罪のときに自分の犯罪に対する刑罰を考えて、犯行を諦めるという理性的な判断ができる犯罪者がいられるとは思えない。すでに彼らは常識や通年に離れた人である。このように犯罪予防の効果のあるなしに関わらず、死刑に賛成するほかの理由のひとつは死刑だけが彼らの犯罪に値する刑罰ということだ。しかし、死刑制度は古来からの最極刑の罰として、犯罪者に対する反省、教化の手段というより、応報性の刻手段に近い。死刑を通して、因果応報的に犯人に痛みや辛さを与えるのではなく、どんなに凶悪犯だとしても、罪を悔いて、反省する時間を与えるのが社会的な配慮であり、その犯罪が起因した社会的構造の問題に取り組んで、見直使用とするのが成熟なもでるではないのか。これはノルウェーから学ぶべきだと思った。さらに、報道機関の刺激的な記事で犯罪について国民に感情的に訴えることではなく、犯罪の原因、社会の欠陥等を明らかにして、私たちが所属している社会を振りかえてみるきっかけに作るという役割をすることも必要だと思う。今の怒りや悲しみより前向きで未来の社会の改善を考えるノルウェーの人々の考え方が必要な時点だ。
死刑とは何のための制度なのでしょうと私はしばしば考えます。受刑者にとってはそこで何もかも終わってしまい反省の機会だとかは一切奪い去られるものです。遺族等被害者にとってはたしかに憎悪の感情もあるのでしょうが、加害者が死んだところで失ったものは何1つ帰っては来ません。なんとも非生産的なものだと思います。罰を与えるにしても死よりも辛いものなんていくらでもあるのではないでしょうか。もっと犯罪抑制のためになる方法があるはずだしそれを考えるべきだと思います。また、今の日本の制度・慣習からすると1度罪を犯してしまった者が社会復帰するということが夢物語なのではないかと思えています。犯罪行為が悪いことであるのは間違いありませんが、1度間違えたら2度と復帰の機会すら与えられないというのはおかしい話だと思います。まして先生もおっしゃっている通り罪を犯した人にもそうなってしまった理由だとかがどこかにあるかもしれないということを考えもしていない(しないようにマスコミがあおっているのもありますが)のは犯罪者を同じ人間としてみていないのではないかと思いました。
人殺しを人殺し(死刑)で解決する。私が生まれてから今までの日本では当たり前のことであり、疑問を抱いたこともなかった。実際誰かに家族や友達を殺されたことを考えると、とてもその犯人の出所後を考えてあげようなどという気持ちにはなれない。しかし、確かにただ死刑を以て解決して、済まされるのは一時的な感情だけだ。私は死刑について反対はしないが、これからも行っていくのであれば、森氏のいうように、出所後の犯罪者の手助けをもっと行うべきだし、またそれとは裏腹に、遺族の怒りのやり場についてももっと考慮しないといけない。そうしないといつまでたっても死刑の正当性しか見えない。(つまり弱者の視点。)また、逆の立場…つまりもし家族や友達が、もちろん自分も、誰かを殺した時に死刑となったら死刑に反対するのだろうか。加害者側の支援についても見直していくべきだろう。
私は死刑制度について述べようと思う。以前授業で模擬裁判を行ったが、そこで死刑か無期懲役かで意見が分かれた。その際に無期懲役は終身刑とは違い、刑期が決まっていないだけで出所する事が可能性があるという意見が出た。このことから私は凶悪犯を再び社会に解き放たないためにも、死刑制度を今のまま残すか死刑制度を廃止し死ぬまで刑務所にいる終身刑や懲役100年といった事実上終身刑となる刑期を可能にすることを定める必要があると考える。
私は今まで、殺人など重大な罪を犯した者は死刑になりその罪を償うべきだと考えてきました。それで被害者遺族も救われるのだと信じていました。しかし、この記事を読んでいるとこれだけが解決策ではないように感じました。なにより犯人を死刑にしたからと言って被害者が返ってくるわけではなく、本当に遺族の心は救われるのだろうかとじっくり考えさせられました。確かに冒頭の首相の言葉に「人道的で民主主義的な回答」や「相手を思いやることが暴力に対する答え」という言が出てくるが、これはキリスト教の教義(隣人愛や汝右のほほをうたれたら、左のほほをだせなど)が浸透しているから出てくる考えなのかもしれない。しかし、日本においては死刑を続けているにもかかわらず殺人事件などは毎年何件も発生している。そろそろ死刑や刑罰の内容について考え方を改める時期が来ているのかもしれないと感じる。
自分は、明確に死刑に賛成だとは言い切れませんが、反対ではないです。もし、自分の大切な人が殺されたとしたら、必ず一度は犯人が死刑になればよいと考えると思います。しかし、冷静に考えてみれば、死刑とは公的に殺人を犯すことであり、やっていることは犯人と同じだと考えることもできます。そう考えると、ノルウェー首相の「これほどの暴力であるからこそ、より人道的で民主主義的な回答を示さねばならない」という言葉やその意味について、しっかりと考えていかないといけないと感じました。
ノルウェーの連続テロ事件を見た後、95年の地下鉄サリン事件を思い出した。これらの事件で、被害者遺族たちは、犯人たちに対する恨みを抱いているから、死刑を望む理由だと考える。しかし、例えば思い通りで犯人たちが死刑になっても、ただの「死刑」に過ぎない。私の考えは、死刑をはかろうとするよりも無期懲役の方がよいだと思う。犯罪の情状によって、100から500年の刑期を決定することができる。残る人生が刑務所に反省し続ける。今回ノルウェーのテロ事件を見て、日本も真剣に考えないといけないと思う
死刑制度に対して私自身は、社会の必要悪ではないかと考えていた。人を殺すという点で見れば、死刑も明らかな殺人である。しかし、凶悪な犯罪者に対しては、そのような厳格な罰も必要であると感じている。私自身、こんな人間は死んでしまえばいいのにと思うことも全くないわけではない。
しかし、最も大事なことは、罪に対して厳しく対応することではなく、いかにそのようなことが起きないようにするかということである。この文章にもあるように、ある罪に対して、罰を下して終わるのではなく、それに対してこれからどうしていくのかということを考えなければならない。死刑は一見問題の終了に見えるが、単に問題の解決を放棄しているとも考えられる。
死刑が本当に必要ないのかということは、自分自身疑問があるが、それでもそういった制度がなくなるほうがいいのは確かである。そのような社会を形成していくことが、一番の課題であると感じた。
死刑制度についてですが、自分は反対です。被害者側のことを考えれば死刑は仕方のないという意見も確かにあります。しかし、加害者を死刑にしても死亡した人は戻ることはなく、また遺族の気持ちも落ち着くことはないと思います。それどころか、遺族の中には人を死に追いやったと感じる人もいれば、落ち着かない気持ちを誰に当たればいいのか(加害者が生きていれば良くも悪くも当たることができる)といった新たな問題が発生すると考えるからです。また、加害者側からすれば更生の可能性が皆無になる。なのでノルウェーのようにいかにして更生させて社会に返すか力を入れるべきだ。
講義を受けている者です。
私は死刑制度に反対です。死んでも罪を償う事にはならないと思いますし最近では死刑になるために犯罪を犯す人もいるほどです。被害者の方にしてみればその犯罪者が生きているだけで耐えられないかもしれませんがその犯罪者が死んだら世間ではその事件は終わり、忘れ去られてしまうと思います。 なので私は死刑ではなくその犯罪者の残りの人生の全てを罪滅ぼしにする事が大事だと思います。
事件の加害者に対するノルウェーの国全体の考え方に非常に驚いた。ノルウェーでは国民一人ひとりがしっかりと考えを持っているからだと思う。
私は死刑が必要ないとは思わないが、死刑にするならば何度も議論する必要があると思う。罪を犯さなければならないほどに追い込んでしまう状況をつくったのが社会ならば、加害者も被害者でありしっかりと社会が更生の手伝いをしなければいけないと思う。
罪に対する罰を重くすると犯罪は減ると思いますが加害者にも犯罪にいたる一連の原因があり、それは加害者のみの責任とは言えません。ノルウェー法務官僚の話の三つの要因の中で日本のメディアでは貧困のみが注目されているように感じますが教育の重要性を再確認すべきで、子供は各家庭だけでなく地域全体に支えられ、見守られて育つべきです。それをなくしては真の豊かな社会は成り立たないと思います。
私はもともと死刑制度には疑問を感じていました。それは死刑という罰がはたして犯罪の抑止効果になるのかがわからなかったからです。最近では「死刑になりたかった」という理由で人を殺してしまう人も中にはいます。このような人にはストールベルゲ氏の発言にもありましたが、犯罪者をいかに社会復帰させて、再犯を防止するかがとても重要だと思います。日本には仮釈放という制度がありますが、親族や民間の更生施設が引き受けてくれなかった場合、仮釈放できなかったのです。しかし現在全国に2か所国が設置した、自立更生促進センターという施設があります。ここでは再犯をしないように、教育を受けたりや社会経験を積んだりします。でも、まだ入所できる数も低く十分とは言えません。私はこうした施設を増やし、犯罪者の更生に重点を置くことが大事だと考えます。
自分は死刑には賛成でした。死刑になるということはそれ相応のことをしでかしたということであり、罪を犯したのであればどんな理由があったにせよそれ相応の罰を受けてしかるべきと自分は考えていた。しかし、記事中のノルウェー法務官僚の話にあるように幼年期の愛情不足や、成長時の教育の不足、そして現在の貧困が犯罪の主な要因であるとするならば、その要因をその不足を生み出したのが社会であるならその不足を埋めるのも社会であるべきである。また、日ごろから犯罪を減らすためにも資本主義の競争の世界では難しいかもしれないがもっと人は自分に余裕を持ち、他人をいつくしみ気遣うべきである。
そもそも、人間は善悪も優劣もない状態で生まれてくると私は考えています。その後、善人になるか、悪人になるかは彼の受けた教育、彼の育った環境などによって左右されると思います。つまり、私は犯罪は個人が起こすものではなく彼の身の回りの要因によって引き起こされるもっと社会的な現象だと考えています。
よって、犯罪防止に最も適当なのは刑罰の強化などではなく、もっと教育的な何かだと思います。
この文章を読み、衝撃を受けると共に、自分は典型的な日本人の考え方をしているんだなと初めて実感しました。もし、私が被害者の遺族になったら、加害者には最も重い刑をうけて欲しいと考えると思います。それは、悲しみや憎しみ、恐怖からです。このような考えを乗り越えて、ノルウェーの国民のような意識を持つことは、私にはまだ難しいように思いますが、加害者を死刑にすることが国の第一の安全に繋がるとは限らないのだという事は、忘れずにいたいと思いました。
まず、日本国民の80%以上の人々が死刑制度を支持していることに驚きました。かく言う自分も死刑制度には賛成です。しかしながら、今回の記事を読ませていただき、少し考え方が変わりました。確かに死刑制度による危機感により犯罪率は少しながら少なくなると思います。しかし、ノルウェーではそうは考えず、もっと根本的なことから解決し、今後に生かしていこうという考え方に感動しました。
また死刑になる場合、ほとんどが殺人事件であり、死刑判決を受けることは人の命が尊いことを示していると自分は思います。しかしながら、その尊い命を死刑制度は殺しているという矛盾もあり、とても難しい問題となっているのだと思います。
すごく考えさせられる文章でした。私はこれまで死刑は止むを得ないことだとばかり考えていました。正直自分の身近な人が殺害されたということがあれば、私も加害者を死刑にして欲しいと願うかもしれません。しかしそれでは、この問題の根本的な問題を解決できていない。死刑をすることで、おしまいにするのではなく、その事件に至るまでの経緯で問題があった点を改善していくことが、悲惨な事件を減らすことに繋がってくるものだとノルウエーの実践から学びました。
形式的な死に慣れていたので、ノルウェーの国全体の考え方は私にとって新鮮なものでした。人を殺したら死刑という単純な思考回路ではありますが、それによって犯罪が抑制されているのも事実であると思っています。ですが以前受刑者のドキュメンタリー番組ですごく印象的な言葉がありました。「死んだらそれでおしまいだから楽だよな」衝撃的でした。もしかしたらこの言葉通り生きて罪を噛み締めながら償うほうのが場合によってはきついのかもしれませんね。
自分は死刑制度について反対です。犯罪を犯したならば、罰を受けることは当然だと思うが、人は死んでしまったら、罪を償えきれないと思う。やはりその人を更生させて、社会または遺族に貢献できるような人間を育てていくようにしていくことが大切だと思う。犯罪者を「愛と知恵」で救っていくことはとても良いと感じた。
死刑という罰はとても重いものであると思う。この重さによって人は罪を犯すことをためらい、やめるのだろう。そしてそれが死刑制度の利点であると思う。しかし、ストールベルゲ氏の「死刑を最終的な解決方法などと考えるならば、同じような事件をどのように予防するかなどの観点について、考察や煩悶し続けることを放棄してしまうかもしれない。」という意見を知り、予防や対策について考える姿勢の大切さを感じた。
私は、この記事を見て、今まで私の持っていた考え方が未熟だったのだなと感じさせられました。私は、罪を犯した人は、その人が悪いのだから罪を償うべきだと思っていました。しかし、死刑制度には反対です。死刑をしてしまえば、犯人が罪から逃れられる気がするからです。だから、私は、一番重い罰は無期懲役にするべきだと思っていました。罰を重くすることで犯罪が減ると思っていました。しかし、この記事を見て、罪を犯した人を裁くことによって犯罪を抑制するのではなく、犯罪をなるべく起こさないでいいような環境をつくることが大切なことだと感じました。日本の国民の85.6%が死刑制度を支持する(2009年内閣府調査)という事実は、日本国民の犯罪に対する意識の低さを表していると思います。罪を犯した人の背景を知り、社会の環境が悪かったのではないか、環境が良ければ抑制できたのではないか、を考えることが重要なことだと感じました。そして、出所後に、しっかり仕事につかせ、社会復帰させることが本当の意味で罪を償うということではないかと感じました。
わたしは死刑制度には昔から反対です。
いかなる理由があろうと他人のいのちを奪っていいことはありません。
罪を償うなら死ぬのではなく、更生して罪を背負って生きなければならないと思います。
この記事を読んで、たしかに日本は出所した後に社会復帰する環境が整っているとは言えません。
だから、犯罪が減るような社会づくりをするために制度などを改善していかなければならないと思いました。
私自身この記事に出会うまで、死刑制度は廃止されるべきではないと思っていました。しかし、死刑制度を廃止するか否かの論議を交わす時間があるのなら、いかにして同じような犯罪を減らすのか、どのようなプログラムによって加害者を公正し社会の一員として復帰させるのかを考える方がよっぽど重要だと気がつきました。犯罪者を死刑にすることは手っ取り早く犯罪を減らす手立てのように思えてしまいますが、とても後ろ向きな考え方です。メディアによって構築された私たちの考え方は簡単に変えられるものではありませんが自分の目で現実を見て物事を考えなければいけないと思いました。
よく、テレビ放送されている日本の裁判のニュースでは、終身刑という言葉は耳にすることはありません。実際によく耳にするのは「無期懲役」という言葉です。どのように違うのか調べてみると、無期懲役とは期間が定まっていないだけで、仮釈放が認められる場合がある。終身刑とは相対的終身刑と絶対的終身刑がある。前者は無期懲役とほぼ同じ意味だが、後者はよく知る通り、死ぬまで、仮釈放もみとめられず、刑務所生活だそうだ。そして、日本では終身刑は取り入れていない。
前々から思っていたことだが、日本で人を殺すなどの犯罪があったとしても、死刑になることはあまりなく、無期懲役が多い気がする。そうして、仮釈放中や出所などして、死刑になりたいからまた人を殺すなどの事例があったそうだ。計画的な殺人などなら死刑にもなりうるが、果たしてそれでいいのか?そう感じていた。人を殺したら死刑になるのが当然思う人もいるだろうし、被害者の遺族からしたら、死刑を求刑するのが至極当然だろう。けれども、死ぬときは一瞬。そんな楽?に償わせてしまってよいのか?終身刑ならば死ぬまで刑務所だ。それほど大きな罪を犯した人間ならば、一生をかけて刑務所から出られないという中で、罪を償っていくべきだと思う。
だからといって、死刑を廃止する必要はないが、終身刑(絶対的終身刑)は取り入れるべきだと思う。
日本において死刑制度を廃止する議論をすると反対派の人間は人道的な面や、更生・冤罪の可能性を指摘することが多い。現行の法律では死刑の次に重い刑罰は無期懲役であるがこの両者の刑の重さには大きな開きがある。死刑制度を本格的に撤廃するのなら最低でも終身刑を導入し死刑と無期懲役の開きを是正してやる必要があると感じる。また冤罪と死刑制度の関係についてだが、私はこの2つの問題を同列に語るのには違和感がある。なぜなら冤罪とは司法制度の欠陥であり、死刑制度の欠陥ではないからだ。それなのに冤罪の可能性があるからといって死刑制度そのものが批判されるのは間違っているのではないか。最後に人道的な面だが、遺族が犯人に更生してほしいと考えているならその意思は優先されるべきだが、社会的に看過できない犯罪が起きて遺族が極刑を望むなら当事者でない人間がそれに口を出すのはおかしいと感じる。死刑制度を議論する際に犯罪者の人権ばかり論点になりがちだが、一番尊重されるべきは被害者・遺族の人権なのではないだろうか。
「愛」と「知恵」で克服。とても素敵な言葉だと思いました。犯罪の三つの要素が幼年期の愛情不足、成長時の教育の不足、そして現在の貧困にあるならば、それは社会の責任だと思います。
その犯罪を生み出してしまった社会の現実を受け止め、愛と知恵で解決しようと考えられるノルウェー社会と、犯人個人の問題として犯罪をとらえ、死刑で解決しようとする日本社会。天と地の差というか、自分が生きる国ながら恥ずかしくなります。確かに、政治の問題、メディアの問題があるかもしれません。でも、まずはこのブログを読んだ自分自身がこれからどうしていくかということだと思います。日本には、まだまだ原発、生活保護、少子化、虐待等いくらでも問題があるでしょう。それらを他人事ととらえずに、自分が生きる社会の問題としてきちんと考えて、発言すること。そして、そういった意識の人を一人でも増やしていくこと。これらが問題解決の第一歩だと感じました。
わたし自身、刑罰について考えることがたまにあります。死刑制度について取り上げるテレビ番組を見かけることもよくあります。そのときわたしは決まって死刑制度賛成という立場をとっていました。やはり重大な罪を犯したからには死という形をもって償うべきだと思うからです。
ですが、この文章をよんで、少し考え方に影響がでました。重大な犯罪を犯す人の大半は幼少期の愛情や成長期の教育の不足、貧困が原因となっている、という話を読み、それは個人の責任だけとは言い切りにくいことで、そんな犯罪者を死刑という裁き方だけで終わらせてしまっては犯罪の減少ひいては撲滅に結びつくことはないのだろうなと考えました。
死刑をもって罪を裁く。これは極めて単純なことですが、やはりもう一度よく考えてみる必要があるんだと思います。
今まで自分は、死刑という厳罰化が犯罪の抑止力に直結しているとただ単純に思っていました。しかし、宗澤先生の記事を見て、考えさせられたのは、死刑をして済ませれば、それでよいのかということです。死刑をしてしまうと、それで受刑者の犯した罪はその受刑者の記憶から消えてしまい、何も残るものはありません。それより、終身という手段で、精神的に苦痛を与え、受刑者により深く、自分の非の深さを考えさせることが、大切でありかつ、最も辛いことであるので、抑止力につながると思います。
私は死刑制度に反対です。死刑にしても凶悪な事件を起こした事実も、遺族の悲しみも消えません。死刑という極刑は、抑止力になることもあると思いますが、最近ニュースで報道されている犯罪者の中には、「死刑になりたくて罪を犯した」との異常な供述をする者もいます。そのような者にとって、死刑はすでに刑罰ではなく、むしろ望んで受けることになってしまうので、意味がなくなってしまいます。それなら、日本も海外のように終身刑制度を採用して、刑務所で罪を償いながら一生罪を背負って生きてほしいと思います。記事にも記述があった通り、どうして事件が起きてしまったか、今後どうしていくべきか、被害者遺族へのケアなどについてより深く考えて行くべきだと思います。
ブログ拝見しました。
「むしろ事件後に国民的な議論になったのは、犯人を死刑にすべきだとか、できるだけ長く刑務所に閉じ込めろなどの観点ではなく、裁判によって事件の構造を徹底的に解明することと、同じような事件が再び起きないようにすることについての考察でした」
という一文にとても考えさせられました。確かに、人の命を奪ったのなら自分の命で償わなければならないという考え方もわかります。しかし、その死刑囚が命で償っても社会の構造は変わりません。同じような事件が繰り返し起きてしまうかもしれないし、実際に起きていると思います。
しかし、殺された遺族からしたら「犯罪者は今までに苦しんだ過去があります。罰する必要はありません。」と言われても決して納得のいくものではないと思います。もし私の大事な人が殺されたらそこまで寛容に、愛にあふれた判断は、私にはできないと思いました。
裁判員制度は、市民の情に任せて「死刑」までもっていくための制度だと聞いたことがあります。この情報が正しいのかわかりませんが、この記事を読んだ今、ただ「被害者がかわいそうだ!死刑にすべきだ!」と単純に考えることはやめようと思いました。もしも、すべての人が「愛」と「知恵」の考え方ができたらそのときは犯罪なんてなくなるのではないだろうかと思います。
とても考えさせられる記事でした。ありがとうございました。
ブログ拝見しました。
「むしろ事件後に国民的な議論になったのは、犯人を死刑にすべきだとか、できるだけ長く刑務所に閉じ込めろなどの観点ではなく、裁判によって事件の構造を徹底的に解明することと、同じような事件が再び起きないようにすることについての考察でした」
という一文にとても考えさせられました。確かに、人の命を奪ったのなら自分の命で償わなければならないという考え方もわかります。しかし、その死刑囚が命で償っても社会の構造は変わりません。同じような事件が繰り返し起きてしまうかもしれないし、実際に起きていると思います。
しかし、殺された遺族からしたら「犯罪者は今までに苦しんだ過去があります。罰する必要はありません。」と言われても決して納得のいくものではないと思います。もし私の大事な人が殺されたらそこまで寛容に、愛にあふれた判断は、私にはできないと思いました。
裁判員制度は、市民の情に任せて「死刑」までもっていくための制度だと聞いたことがあります。この情報が正しいのかわかりませんが、この記事を読んだ今、ただ「被害者がかわいそうだ!死刑にすべきだ!」と単純に考えることはやめようと思いました。もしも、すべての人が「愛」と「知恵」の考え方ができたらそのときは犯罪なんてなくなるのではないだろうかと思います。
とても考えさせられる記事でした。ありがとうございました。
死刑制度について僕は肯定的な考えを持っています。では、もし死刑制度がないとしたら、
人を殺害したことのある人が再び僕らの生活環境のなかに溶け込んでいくことを意味しま
す。僕はこのことにとても恐怖を感じます。確かに「もう一度やり直すチャンスを与える
ことが必要だ」との主張もわかりますが、残された遺族側の気持ちを考えたらどうでしょ
うか。そう考えるとやはり極刑として死刑はあるべきです。死刑がないことは逆に「どん
なに人を殺しても死ぬことはない」という風に捉える犯罪者もいるのではないのでしょうか。
私は死刑制度は基本的には反対でしたが、自分の親しいひとや家族が殺された時には、犯人に死刑になってほしいと考えてしまうと思います。ですが、犯人が死刑になっても亡くなった人は帰ってこないし、犯罪者がただ「死ぬ」という結果だけが残ると考えました。それよりも自分の犯した罪の重さを自覚し、殺した人の家族などにたいして償いをして、社会に復帰して貢献してほしいと思います。そのためには今の日本の制度ではいけないと思います。日本は犯罪者の社会復帰を支援するような制度などはなく、社会全体にも犯罪者を受け入れないような風潮があると思います。これを変えていくべきだと私は考えました。
死刑制度というものに対して疑問があります。死刑があるがために犯罪が減っているとは必ずしも言えないでしょうし、これだけではなんの抑止力にもなっていないという点です。殺人を犯した、だから死刑。このことだけで人々の罪に対する考えは変わるのでしょうか。罪を犯す人は必ずそれだけの衝動を引き起こす理由が存在しているはずだから、厳罰を科す以外にも、日頃の犯罪を抑止する方法は考えられないのか、と思います。極刑を恐れるようなら犯罪は行わないと思いますし、厳罰という法の力だけに頼っていることがまず間違いなのではないかと考えます。死刑になるために罪を犯す人までいることは、この社会が生きにくい、あるいはつまらないといったことにつながるため、刑罰や企業、社会システムを変革したり、経済再生の方法を確立したりと、そういった人たちのためにも魅力ある国造りをしていくことの方が大事なのではないでしょうか。また、幼少期の愛情不足、成長時の教育不足、現在の貧困が犯罪の要因であるという文章を読み、周りで接する人々、親であったり、同じクラスの友達であったり、先生であったり、も犯罪の原因になるのだと感じ、それこそ「愛と知恵」を持って人と接することで、犯罪の芽を摘み取っていくことが大事だと考えます。このことは先生が書かれているように、虐待やいじめをなくしていくことと共通した部分があると思いますし、死刑制度を見直すことは、そういったことを含めても大切で必要なことだと考えます。
私は死刑制度に反対です。日本の死刑制度には犯罪を抑止する機能はなく(死刑になりたいから殺人を犯した事件も日本で起こっている為)、被害者遺族や国民のどうしようもない感情を発散する為のものだと思っています。刑事罰とは犯人に犯した罪について向き合い考える時間を与えるものだと思います。なぜ人が罪を犯すか、どうすれば予防できるのかを考える事が最も大切だと私も思います。犯人に罪に向き合ってもらいどうしてその罪を犯したかを伝えてもらうのは新たな犯罪の予防に役立つと思います。
私は死刑制度に反対です。日本の死刑制度には犯罪を抑止する機能はなく(死刑になりたいから殺人を犯した事件も日本で起こっている為)、被害者遺族や国民のどうしようもない感情を発散する為のものだと思っています。刑事罰とは犯人に犯した罪について向き合い考える時間を与えるものだと思います。なぜ人が罪を犯すか、どうすれば予防できるのかを考える事が最も大切だと私も思います。犯人に罪に向き合ってもらいどうしてその罪を犯したかを伝えてもらうのは新たな犯罪の予防に役立つと思います。
私は死刑制度に反対です。日本の死刑制度には犯罪を抑止する機能はなく(死刑になりたいから殺人を犯した事件も日本で起こっている為)、被害者遺族や国民のどうしようもない感情を発散する為のものだと思っています。刑事罰とは犯人に犯した罪について向き合い考える時間を与えるものだと思います。なぜ人が罪を犯すか、どうすれば予防できるのかを考える事が最も大切だと私も思います。犯人に罪に向き合ってもらいどうしてその罪を犯したかを伝えてもらうのは新たな犯罪の予防に役立つと思います。
私は以前から死刑制度は必要なものであると考えていました。しかしこの文章を読んで死刑制度が必ずしも被害者、そして加害者のためにならないという現実を知りました。確かに重い犯罪をおかしたら死刑という構図ができてしまえば、罪についての考察がなされなくなってしまうような気がします。犯罪者の特徴として幼児期の愛情不足、そして発達期の教育不足などがあるそうですがその点に関していえば、ある意味本人も被害者のひとりであるのではないかと思います。もちろん犯罪をおかしてしまう本人が1番悪いのは大前提ですが、そのような環境で育ってしまった人を救っていくのが社会の役割なのではないでしょうか。
またこれを虐待の話に置き換えても、一概に虐待者ばかりを責める報道などは控えて、その人の心の欠けている部分を補填していくことができれば、また社会は変わっていけるのではないかと思います。
私は、死刑制度について考えたことがあります。まず、死刑には犯罪の抑止力があるのか否かということです。日本では死刑は犯罪抑止力があると信じられていますが、実際死刑を廃止した先進諸国の廃止前後の犯罪の立件件数には変わりがありません。つまり、死刑による犯罪抑止効果は薄いのではないか。
次に、近年、犯罪の被害者がすぐに死刑にしてほしいということについて、私は問題であると考えている。確かに、被害者は生還することはないし、遺族は加害者を恨みたくなるだろう。しかし、加害者が死んだことでその悲しみはなくなることがあろうか。加害者には命がある限り、生きる権利がある。加害者に死刑になってほしい、と、マスメディアの前で言うことは、すなわち、加害者に死ねと言ってるのと何ら変わりはない。目には目をとはいうが、これは、司法という場を借りた殺人と言っても過言ではないと考えている。
深い悲しみを経験した遺族は、なぜ、矛先が復讐へと向かってしまうのだろうか。私は経験したことはないので分からないが、加害者には生きて、自分が犯した罪を悔い改め、背負いながら生きていく必要があると考えている。しかしながら、そのサポートができていないのが現状の日本である。犯罪者が社会進出できないことによりまた新たな犯罪が生まれるのが現状である。更生後、再び犯罪を犯すことがないように、国のほうから仕事を与えるなど、新たなサポート体制が必要ではないか。
「死刑」については何度か考えたことがあります。死刑制度がなぜ存在するのか?私は疑問に思います。遺族の方は死刑を望むことが多い気がします。しかし、死刑にしたところで、それは罪を償ったと言えるのでしょうか。私は奪った命の分まで刑務所で苦しんで生きてもらう方がいいのではないかと思います。死んだら償うことはできないし、罪を犯したその人が楽になるだけではないかと考えます。結局のところ死刑は社会からはみ出てしまった人を殺す体のいい刑罰だと思います。たとえ死刑という厳罰があることで秩序が保たれていたとしても、死刑制度はよくないと思います。それよりも犯罪を起こした人が二度と犯罪に手を染めなくなるような社会にしていくべきだと私は考えます。
自分は死刑賛成派でした。しかし、この記事を読んで自分の考え方が大きく変わりました。残虐な行為に対して同じく暴力的な行動で解決しようとするのではなく、愛や慈しみをもって解決することを望む。これは大変素晴らしいことだなと痛感しました。実際問題、遺族らは犯罪者の罪を重くしよう、願わくば死刑にまでしてくれたらこちらの無念が晴れる、と考える人が大多数だと思います。しかし、これでは同じ過ちの繰り返しだけなのだなと、考えが変わりました。このようなことが現実にありえるようになったら、日本という国は世界で本当に優れている国になりえるのでしょう。
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