分からない-不安が高まる-ポピュリズムが跋扈する
この間、私の理解に苦しむことが世の中でさまざまに起きています。たとえば、スーパーでウナギの蒲焼を買ってくるよりも吉野家かすき屋でうな丼を食べた方が安いことや、昨今の政治がほとんどジョージ・オーウェルの『アニマル・ファーム』みたいになっていることです。ただ、オーウェルがスターリンを批判した時代と異なり、複雑化した現代社会の現象を的確に理解するのは、なかなか難しい。テレビや新聞の報道はまったく表面的で不十分なうえに、インターネット上の情報もあてにならないものが溢れかえっています。
さまざまな疑問に駆られた時は、書物を繰って考えてみるのが一番です(と私は考えてきました)。
虐待の原稿を書き終えて、心に一抹のゆとりが生まれた私は、「小人閑居して不善をなす」ではなく、「小人入浴して読書をなす」となります。中古カメラ屋と並んで、書店は私の鬼門です。大きな書店にひとたび足を入れると、そこかしこの書棚から「ねえお兄さん、私を手に取ってごらんよ」と声をかけられたような錯覚に陥るほどです。
近頃の疑問に応えてくれそうな書物を読んでみて、皆さんにおすすめのものを4冊ほどご紹介しましょう。
◇斎藤貴男著『消費税増税で日本崩壊』(2010年、ベスト新書)
この本は、消費税率が上がることによって「家計の負担がどれだけ上がるか」という稚拙な論点ではなく、消費税という仕組みそのものがいかに社会システムを蝕み、勤労者の暮らしを破壊していくのかを明らかにしています。
たとえば、日本の国税収入全体における消費税の割合は、すでにスウェーデンと同じ22.1%に達しており、国民はすでに高い税負担をしていることを明らかにしています。つまり、消費税率はヨーロッパ―に比べて見かけ上は低くとも、税負担はすでにスウェーデンに並みに高いのです。
また、派遣社員を使えば使うほど企業の税負担が下がる仕組みについても詳述されています。つまり、消費税率を上げれば、ますます非正規雇用が拡大するという仕組みです。
「持続可能な社会保障制度」とか「次世代につけを残さないために」などのように、「消費税率の引き上げは止むなし」の見地から流される「大本営発表」のような情報が、いかに一面的でご都合主義によるものかが理解できます。
◇中嶋聡著『「新型うつ病」のデタラメ』(2012年、新潮新書)
現在、マスコミが盛んに取り上げる「新型うつ病」。この疾患について、私の友人である精神科医も以前から異論を唱えており、一度まとまった議論を知りたいと考えていたところでした。症状性の「抑うつ」と疾患単位としての「うつ病」が不鮮明に思えて仕方がなかったからです。
本の帯には、「『彼女にふられたので、休職したい』…!? それが“うつ病”のわけないだろう!」とあり、「新型うつ病」が生まれた要因と社会的弊害が説得力を持って論述されています。
かつて「アダルト・チルドレン」に関する議論についても指摘されたことですが、新しい症状を疾患単位として組み入れることによって治療薬が保険適用されることを当て込んで、製薬会社の激しいプロモーションの暗躍があったことも明らかにしています。読後の私の見解は、「新型うつ病はデタラメ」に納得ですね。
◇町田徹著『東電国有化の罠』(2012年、ちくま新書)
この本については、表紙裏にある要約を紹介しておきましょう。
「福祉第一原発事故を起こし、経営破綻寸前だった東京電力。事故の直後の銀行の緊急融資に始まり、政府の支援公約、原子力損害賠償支援機構の設置、公的資金の注入と手厚い保護を受けて生き延びている。しかし、その裏では、財務省、経済産業省、銀行、官僚がそれぞれの組織の論理を押し通すために、権謀術数を繰り広げていた。なぜ東電は国有化されようとしているのか。すべての負担を国民に押し付ける政策はどのようにして決められたのか。その果てに、日本を待ち受けている悲劇とは。いままで誰も語ることができなかった真実に迫る。」
この本の私の読後感は、わが国が太平洋戦争に突入した時代を彷彿とさせる失望と怒りが込み上げてきました。つまり、福島第一原発事故に由来する重大な問題に対して銀行、官僚、政治家のいずれもが責任をもたず、多大なつけと犠牲を民衆だけに払わせようとしている点です。
◇森健著『「つなみ」の子どもたち-作文に書かれなかった物語』(2011年、文藝春秋)
この本は、『つなみ-被災地のこども80人の作文集』(『文藝春秋』2011年8月臨時増刊号)の中から10人の子どもたちとその家族の物語をルポしたものです。
「傷ついた心を引きずりながらも前を向き始めた大人たちがいる。びっくりするほど元気になった子どももいる。地域、事業、家族を再構築するために奮闘する人たちがいる。そんな姿を伝えることは、この未曾有の震災をどう受けとめ、支援し、乗り越えていくのかを考える上で、何らかの助けになると信じている。」(同書14頁)
「どの家族も生活の中心には子どもの笑顔があった。子どもの前を向く力が家族の救いだったのだ」(同書279頁)
復興に向かう被災地の子どもたちとその家族の物語を丹念に追う中で、首都圏その他の都市部にいるだけでは決して分からない被災地の地域生活文化が浮かび上がってきます。北東北の大家族文化や「先祖伝来の土地」への郷愁的執着をベースに、「東北で子どもが多いことは、多くの子どもが津波常習地に住むことを余儀なくされてきた反面、その子どもたちによって東北は救われてきたのではなかったか」と著者は問いかけています。
津波常習地の高台移転がこれまでに進むことなく、今回の大被害がもたらされた背景には、戦後の経済成長優先政策のツケのあることも端的に指摘しています。被災地の人たちの困難を私たちが少しでも共有しようと心掛けるのであれば、ぜひとも読んでいただきたい一冊です。
さて、このような書物に出会うと現代社会の不透明感と情報化社会の罠をつくづく感じます。ただでさえ複雑な社会現象についての溢れるような情報を前にして、一体どの情報に頼ればいいのかまごついてしまうことです。さまざまな言説の根拠を吟味するにも、吟味する側には相当な知識と能力が必要になります。
事実と真実に接近する努力を怠っていると、錯綜する大量情報の津波に襲われて不安がさらに高まるために、ポピュリズムが登場しやすい土壌をつくってしまうのでしょう。
つまり、ポピュリズムとは、頼りなげな状況に多くの人たちが身を置くことをテコに生じた政治現象だということです。ある政策を実現するためには、複雑に絡み合った諸政策の整合性や新たな法整備、利害関係組織への圧力と調整などの手立てと見通しに根拠が必要です。
しかし、ポピュリズムは複雑な社会現実を丹念に吟味することはありません。羊の衣をかぶった「権力志向のオオカミ」が、集票に利する「甘く分かりやすく単純化した政策」を掲げて、颯爽と賑々しく振る舞うのです。ときとしてマスコミは、ポピュリストにとってもっとも使い勝手のいい宣伝手段になることもしばしばです。
現代のこのような状況に抗して未来をつくるためには、ICTによる情報化社会の進展だけでは不十分で、市民によるシンクタンク活動の必要があるのではと考えています。
コメント
私は、今のマスメディアは情報を提供する側としての責任を果たしていないと思う。私たち民衆は主に情報をマスメディアを通して入手する。言い換えれば、入手した情報はほとんどマスメディアからのものといえる。そのためマスメディアの責任は本来は重いはずである。しかし、今のマスメディアは正しい情報を提供するよりも民衆の興味を引ける情報を提供しようとしているように思えてならない。民衆のニーズがそのような状況にしているのも事実ではあると思うが、今のマスメディアは正しく必要な情報を提供するというという役割を全うしていないと思う。
私は現代の情報の得方について述べたい。現代ではインターネットやテレビなど情報を簡単に得ることができる。しかし、その情報が絶対に正しいかといったらそうではないと思う。テレビでは報道されないような情報がインターネットでは話題にされていたりする。でもインターネットもまた個人を通している情報なのでその人の偏見が入っている可能性があり、完全に正しいとも言えない。そんな中で他人の偏見が入っていない情報を得ることは難しいと思う。なので自分はただ周りの意見に左右されずにたくさんの情報の中で自分の意見をしっかり持つべきであると考える。
「ゆりかごから墓場まで」といわれているスウェーデンは、税収がしっかりしているからその様にいわれているのは知っていた。しかし、日本の国税収入全体における消費税の割合 は、すでにスウェーデンと同じ22.1%に達しており、国民 はすでに高い税負担をしているとは知らなかった。それでもなお、日本は消費税を上げようとしているのだろうか。他の税収では補えないのだろうか。国民の代表である政治家が決めていることの筈なのに、国民がわからないことが多すぎる気がする。
今私たちが生活している社会では情報が溢れかえっている。そんな社会の中においてはメディアリテラシーの重要性は増していると思う。溢れかえった情報を正しく認識し、適切な行動をおこなうということは当たり前のことのようではあるが非常に難しいことだと思う。そこで、メディアリテラシーを向上させる有効な手段として読書がある。ある分野について多角的視点から考察し考えをまとめることで正しい情報処理能力が身についていくのではないだろうか。
現代は「本当に伝えたいこと」が(意図的か否かは別として)私たち一般人にはきちんと伝えきれていないように思われる。情報化が進み、今ではこのようなコメントであっても単純な操作ですぐに全世界へ発信することができるという便利な点が存在するが故に、先に述べた”本当に伝えたいこと”が、他の誤った情報や不十分な情報の中に埋もれてしまっているように感じられる。
一方、伝達手段としてはネットに一歩劣る書物であるが、深いところ(それこそ専門書まで手を付けたら収拾がつかなくなるが…)まで追及していけば自然と求めている情報(答え)にたどり着くだろう。
しかし、私は、どの情報が正しく、どの情報が間違っているのかを最終的に決めるのは結局「自分自身」であり、世間一般が正しい(あるいは間違っている)と捉えている事象も、自分の考えが全てだと捉えたならその事象は間違っている(あるいは合っている)と認識してしまうのではないか、と考える。
兎にも角にも、様々な情報で溢れかえった社会の中で、自分の納得のいく情報(答え)に辿り着くためには、幅広い分野の教養を培い、主観・客観を問わず様々な角度から物事を見る力を身に付けることが重要であると感じた。
莫大な量の情報があらゆるメディアを通して飛び交う現代、必要とされているのは我々の判断力であると、私は考える。物の見方というのは幾通りもあるがゆえに、物事を完璧に論ずることなど不可能である。つまり100%の正論など存在しない。ゆえに我々は、数多くある情報の中から、情報を取捨選択しなければならないのだ。こうして、情報の波に飲み込まれず、自己のアイデンティティを確立していくことが重要であると、私は考える。
こんにちは、人間形成と教育の講義を受けてる者です。
今日、私たちが情報を得るための媒体であるマスメディアは、とてもオープンであると思います。様々な情報が新聞、TV、ネット等様々な手段があります。その一方で日本に近いある国では、国家権力に影響がでたりするなどの理由で、ものすごい情報に規制がかかっています。そういう国では正しい情報が入ってこない一方で、日本のようにオープンすぎて情報が溢れて正しい情報が判断できないという皮肉のようなものが見えていると最近のマスメディアを見ながら感じています。
講義を受けているものです。
私が印象に残っている講義内容はいじめに関する講義です。
最近は暴力で欲求不満を発散しようとする、中高生が増えているのを知りました。
私の中学校では娘がいじめられたという事を知った時に父親が娘の学校生活にべったり張り付くという事がありました。
以上から最近は過保護に育てられなに不自由ない生活を送り、その為に自由を求めて少しでも気に入らない事があると暴力に走ってしまうのだと思います。
日本の政治は、本来であれば国民の代表である政治家が、正しい情報を与えられた国民の意思を代弁する形で政治を行っていくものであると私は考えています。しかし、その代弁すべき”国民”がごく一部の力のある人間になってしまったり、意思を持つことに必要な情報が歪められてしまうことなど、あるべき形からはずれてしまっていると感じます。
このまま現状が続けば、当たり前の生活すら崩れてしまうかもしれません。それを防ぐためにも、”国民”としてではなく、個々人が明確な意思と情報を持って政治に関われるようになるべきであると思います。
この頃特に、マスコミはただ視聴者を惹きつけることを第一に考えてテレビや新聞において情報を発信していると思う。大きな事件や世の中の関心が高い事件やニュースばかりを取り上げるが、世間の関心が失われればすぐにまったく触れなくなる。手に入れたい情報を得るためには正しい情報を取捨選択する力に加え情報収集を行う力も必要であり、マスコミの報道の流れに身を任せているだけでは浅い情報ばかりで何も正しいものが手に入れられないと感じる。やはり自分自身が探さなければほしい情報は見つけられないと考える。
自分も今日のマスメディアは表面的なものであり、不十分なものであると思います。というのも、メディアというものがオープンなものになりすぎてしまったがために、誰でもその情報に編集を加えたりでき、真偽が定かではなくなってしまっているからです。
『消費税増税で日本崩壊』からは日本の消費税による税収がとても高いことがうかがえるが、これは驚くべきものであり、こんな状態の中で国民のための税収をうたっても国民の負担は増える一方で何の価値もないものだと思った。
紹介なさった4冊の本はどれもホットな内容であり、こういった内容を考察していくことはこれからの日本には欠かせないことだと思う。
消費税が今後10%に上がるという状況になった今、現在は消費税5%という世界のいろいろな国から見ても明らかに低いと思われがちである。しかし日本の税収入という点からみると、スウェーデンと同じ22、1%に達しており決して低い数字ではない。むしろ高い税負担を国民に背負わしている状況である。そんな中で10%に引き揚げというのは国が私たちに対して生活をより苦しめるようなものである。さらに派遣社員も増加する一方により日本にもまだまだ課題は山積みである。
私は、今日の混沌とする日本社会の中で生きていくためには、自分の力で情報を取捨選択し、一人の国民として問題意識を持って行動することが大切であると考えている。ここ数年で、人々は以前にも増して情報を様々な方法で得ることが出来るようになった。しかし、その情報も真実を伝えているとは限らないのが現状である。このことは、私自身が東日本大震災以来感じるようになったことでもあるが、政府は自分たちの利権を守るために必死になり、国民に真実を伝えていないのではないかと不信感を抱く場面がいくつもあった。確かに、テレビやインターネットを通じて情報を得ることは簡単であるため、批判的な目を持って実際に行動を起こすことは難しいかもしれない。しかし、より国民が生活しやすい社会にしていくためには、大学生である今から市民によるシンクタンク活動に参加するなど、勇気を出して行動を起こすことが大切なのではないだろうか。自分自身、積極的に行動していきたいと考えている。
こんにちは、私は人間形成と教育の講義を受けています。
今日のマスメディアとして挙げられるもののなかで一番身近な媒体といえばテレビが挙げられます。おそらくほとんどの人がテレビから情報を得ているでしょう。
しかし、はたしてテレビからの情報だけを鵜呑みにしてもいいのでしょうか。画面に数秒間しか表示されない情報で一方的に押し付けられているだけのように感じてなりません。
正しい事実を知るためには自分から行動するべきです。一つの情報だけに頼らず、様々な角度からみていくことが大切だと感じました。
私も先生同様、現代の日本社会において、どの情報が本当に正しいのかと、疑問に感じることが多々あります。様々な情報がテレビ、新聞、ネットによって発信される中で、私たちはその情報が本当に正しいのかを、吟味し判断するメディアリテラシーを養っていかなければいけないと思います。さて、先生がお勧めになられている書物のうち、震災に関するものがふたつありましたが、今回の震災で被災された方々が復興への道を進む姿は、被災された方々はもちろんのこと、私たちにも、夢や希望を与えてくれていると思います。その反面、原子力発電所や放射能を浴びた瓦礫の処理といった問題の責任や負担を、押し付けあっているという現状があることが非常に残念です。これらのことすべてが解決され、被災された方々が快適な生活を送れる日が来ることを心から願います。最後に、大学に入って未だに、自主的に書物を読んだことがないので、これを機に書物を読みたいと思います。
日本の国税収入における消費税の割合がスウェーデンと同じ割合に達していることには驚きました。それを考えると消費税増税というのはとても不思議な話だとは思います。ニュースやドキュメンタリー番組を見ている限りでは日本の内政は無駄が多すぎるのは明らかです。にも関わらず更に消費税を増税して、日本の国民に負担を強いる。他にもっとやる事はあるだろうと思いました。
今日のマスメディアは、一方の意見のみ取り上げ、あたかもそれが正しいことのように論じています。これではまるで集団洗脳です。マスメディアは、多くの人に多大な影響を与えてしまうので、きちんと反対意見も取り入れるべきです。
また、東日本大震災の時のマスメディアはひどかったです。被災地の人々を可哀そうと盛り立てて、その地域で頑張っている自衛隊についてはほとんど報道されていなかったり、マスコミのヘリが救助の邪魔になったりなど、本当に何を伝えるべきでどのように行動すべきか考え直してほしいです。
「テレビや新聞の報道はまったく表面的で不十分なうえに、インターネット上の情報もあてにならないものが溢れかえっている」全くその通りであると思う。
その例として、原発事故後のテレビ番組をみていると、真実を報道しているようには思えない部分が多々あった。「この量の放射能を浴びても直ちに人体への影響はない、放射線物質を取り除くにはこうしたら良い」などといった、全く信憑性のない情報が、どのテレビ局からも流されていた。
様々な情報が飛び交うこの世の中、それらの情報をうのみにすることなく、いったん疑ってかかることも必要であると思う。それこそ、書籍などを読み、何が正しい情報なのかを自分でしっかりと見極めていくことが重要になってくるのではないかと考える。
中国で、消費税は明確に表示していない、あまり税金というものがわからなかった。日本に来て、生活しているうちに、日本の税金は高いと感じます。知り合いの日本人も税金に対し文句を言ってた。こんな日本は消費税を10%にあげるのは国民の生活の負担が一層大きくなって行く。反対の声が高まって行く上、消費税増が実行していくべきか?政府にもう一度考えてほしいと思ってます
今の日本のマスコミについては私も不信感や不安などを抱いていた。ニュースなどの情報をただ発信するだけの番組でも、情報公開や調査に不備があるのではないかと思ってしまうことがある。これはただ公開された情報が信用できないというわけではなく、ほかの番組に出演している人などの発言などが偏りを持っていると感じてしまうことが多いことから、この番組もそのように偏った視点で見ているのではないかと思ってしまうからだと思われる。
日本のマスコミには情報公開をしっかりとしてもらうとともに、国民に不信感を与えないような努力をしてもらいたいと思う。また、視聴者にもメディアの公開した情報をそのまま鵜呑みにしてほしくはないと思う。
今日、私たちが得られる情報は、以前よりも量は増えていますが全体的にみると質は下がったと思います。マスメディアからの情報は、真実や本当に必要とされるものが少なくなってきているように感じられます。
そして、マスメディアだけでなく、私たちも、インターネットなどで簡単に情報を得ることが出来るようになったことで、情報の真意を確かめようと行動することが減ってしまい、その結果として、上辺だけの理解が広まってしまっているのではないかとも思います。
今後は、自分で行動することによって、信頼できる情報を探し、現在の様々な事柄を理解したいと思います。
消費税増税の弊害については私も色々思うことがあります。
まず、先生がおっしゃっている通り
日本の国税収入は、比較的税金による負担が大きい北欧の国々と比べてもその率はあまり変わらないということ。
つまりこれは日本は北欧と同様に「高負担」であるということを意味してると思います。
また、消費税増税分を社会保障制度の維持に回そうということについては
明らかに手段と目的があっていないと考える。
「持続可能な社会保障制度」のためであるならば、
今後少子高齢化が確実視される日本において
今後も「今の税収では、社会保障が維持できない」ということになるのは
素人目に見てもわかることであると思う。
ましてや、消費税増税は
若ければ若い世代ほど長くその税金を払わなくてはならず
将来のためと言いつつ、将来年金等をもらう今の若者からすれば
デメリットでしかないわけである。
私個人の意見として
今の国の財政からして
今の社会制度を維持するのは不可能である。
根本的な制度の改革と
歳出削減による財政改善をしなくてはいけない。
一般の家計のおいて
贅沢な生活を送っていて
赤字になったとき
その生活を維持しようとして収入を増やそうとする人はそういない。
普通は支出を減らそうと考えるはずである。
政治家になると、一般人にはわかりえないようないろいろなしがらみ等もあるのはわかるが
それではいけないのだと思う。
今日、私たちはマスメディアから様々な情報を簡単に、かつ大量にてに入れることができます。そして、その手段として最も一般的なのが、テレビやインターネットといったものでしょう。かくいう自分も家で暇な時間はもっぱらニュースを見ているような人間です。しかし、自分はその情報を司るメディアに不満を持つことが多々あります。というのも、昨今のニュースは物事の負の部分のみを大々的に取り上げる傾向があると思われるからです。最近で言えば原発の問題などがあります。あれだって、稼働しなければ日本のエネルギー事情は悪化の一途を辿るだけなのに、反対の意見の方を多く取り上げ、あたかも原発=悪、といった報道をすることが多く感じます。それによって、見識のあまりない人はそれを信じてしまうでしょう。もし、それが大多数の考えだとしても、メディアは世論を更に傾けるというのはするべきではないと思う。だから、メディアには世論に多大な影響を与えるということの責任をもっともってほしいと思いました。
情報があふれている、と言われる今の時代では、どの情報が正しくてどの情報が間違っているのか、その判断はとても難しいものになっていると思います。自分に詳しく正確な知識があって、それで判断することができるのならばいちばんよいのですが、なかなかそうもいきません。しかし、ひとたびネットをひらけば、そこは膨大な量の情報であふれかえっています。その中から必要な情報を吟味して選びとることができるかできないか、が重要になってきているのだなあと思います。
日本の国税収入における消費税の割合がすでにスウェーデンと同じくらいになっているとは本当に驚きです。それと、消費税率を上げるほど、非正規雇用が拡大するとは、悪いサイクルだなと思いました。今、消費税増税がとても話題になっているけれど、消費税が上がるだけでも大変なのに、非正規雇用まで増えると、正規雇用でないと長い目で見ると賃金に差が生じると学んだので、とても困ります。
現在の日本のマスメディアは、どれを見ても同じようなことばかりを言っているように思う。一見、わかりやすく伝えているように映るが、実際は表面的で内容が薄いだけである。問題の取り上げ方についても、解決策として示したことのみが正しく、それ以外の手段は間違っているかのように押し付けてきているように感じる。マスメディアが人々に与える影響はとても大きなものであるため、このような偏った報道は見直されなければならないだろう。情報を受ける側の私たちとしては、受け取った情報を鵜呑みにせず、吟味した上で自分の意見を持つことが重要になってくるだろう。
こんにちは、人間形成と教育の講義を受けてる者です。
ここ最近の数回の授業でバリアフリーについて講義していただきました。私は大宮に住んでいるのですが、実際大宮駅前を注意深く見ていると…、正しい設置の仕方がされていない所がいくつもありました。大宮はとりわけ埼玉県でも多くの人が集まる都市の中で、このような事態があってはならないと感じました。
高齢化が進む現代、バリアフリーを進める社会を創らないといけないと思いました。
最近の日本の風潮として、価格競争が激化していることが挙げられると思います。
消費者の安いものを買いたいという欲求に過剰に反応した大企業どうしで最安値を引き下げつづけています。この価格競争に乗れない老舗の飲食店などは、経営を続けるのが難しくなり、倒産せざるを得なくなります。僕はこの行き過ぎた価格競争に警鐘をならします。
なぜならこの価格競争が商品の価値を下げるからです。価格を下げるために品質の悪い商品を仕入れたりすることがいいことだとは思いません。やはり、おいしいものは高いものでもちゃんとしたものを食べたいです。
現在、言葉から派生される意味や関連している事項を理解せず、単語としてのみとらえる人が増えていることがわかりました。単に、「消費税をあげる」という言葉にとらわれず、消費税の使われ方や国益に占める割合など、多くのことを連想して考えていく必要があると思います。また、言葉の意味を間違えてとらえ、そのまま使用する傾向もあるらしいです。これらを防ぐためにも、活字に触れ知識を増やして、インターネットやTVなどメディアの情報に関わっていくことが重要になってきているのだと思います。
僕は、先生が1番に挙げられた本の消費税について意見を述べたい。
結論から申しますと僕は消費税の増税に反対である。増税する前にまだやれることがあると思うからである。
例えば参議院の廃止である。今や参議院はあまり国政に影響を与えていないと思うからである。例として法案に対する参議院の与える影響を挙げる。法案はまず衆議院で可決されてから参議院に回される。参議院で否決されてその法案は廃案ということであればよいのだが、否決されても再度衆議院で可決されればその法案は可決されてしまうのである。実際、衆議院での再可決で法案が通ることが多く、参議院の否決は全く反映されていない。他の例をとっても参議院の意見は結果としては反映されていない。よって参議院は必要ないと考える。そうすれば参議院に回る資金は他の所に回せる。
また国民の税金で議員は生活している訳だが、国会の議会の中継を見ていると居眠りをしている議員をよく目にする。仕事中に居眠りしている議員にも国民の税金が投入されていることに僕は甚だ怒りを覚える。
確かに社会保障問題などに対処していくことは重要であるが、ただ財源が足りないからその負担をすべて国民に押し付けているように見える。まず、自分たちの身を削り、今の体制を見直して削減すべきところは削減する。その上で国民にお願いするべきなのではないかと考える。
以上から増税に反対である。
今日の社会で、情報の真偽を見きわめるのはとても難しいと思います。また、情報量があまりにも多くどの情報が正しいのかなんてなかなかわかりません。しかも、私たちはテレビのコメントなどに流されやすいです。私はコメンテーターの発言が正しいと思ってしまい、コメンテーターの意見が自分の意見となってしまうことがあります。このままでは、自分の意見を持たない人間になってしまいます。このような人間は私以外にもいると思います。私たちは、情報と付き合っていくうえで、情報を見きわめる力が必要です。しかし、そんなに簡単にできるわけないので、先生のように自分の興味あることを自発的に調べることから始めてみようと思いました。
今日の社会で、情報の真偽を見きわめるのはとても難しいと思います。また、情報量があまりにも多くどの情報が正しいのかなんてなかなかわかりません。しかも、私たちはテレビのコメントなどに流されやすいです。私はコメンテーターの発言が正しいと思ってしまい、コメンテーターの意見が自分の意見となってしまうことがあります。このままでは、自分の意見を持たない人間になってしまいます。このような人間は私以外にもいると思います。私たちは、情報と付き合っていくうえで、情報を見きわめる力が必要です。しかし、そんなに簡単にできるわけないので、先生のように自分の興味あることを自発的に調べることから始めてみようと思いました。
今日のマスメディアについて。確かにかなり不十分で信頼性の低いものだと思う。インターネットなどは「ほとんどがデタラメ」と思っていた方が良いとボクは思う。なぜかというと、第一に誰もが簡単に操作可能だということ。第二に、情報量が多すぎるということ。第三に、専門の人が書いているサイトはごくわずかで、ほとんが素人によるものだということ。以上の理由で信じてはならないと思う。マスメディア(特にテレビジョン)は、さらに信憑性が低いと思う。要人に関することでもし都合が悪ければもみ消される。ボクが決定的にこう思ったのは、昨年の東日本大震災の前後での、あるCM。言うまでもなく、原子力発電に関するCMである。震災以前は、有名人(星野仙一さん、上沼恵美子さんetc)が出演して「安全です」や「原発に賛成です」などと言っているCMが流れていたのを覚えている。ところが、世界最大級の事故が福島の原発で起こり、震災以降は全くそれに関するCMが流れなくなった。CMを流している側も以前のCMがいかに正しくなく、国民に嘘をついていたかということをはっきりと理解したのだろう。よって、ボクはマスメディアというものに対してすごく不信感を覚えるようになった。ボクらは首都圏にいて、昨年は忙しく東北の「現状」を見に行くこともできなかったので、ぜひ、森健著『「つなみ」の子どもたち-作文に書かれなかった物語』(2011年、文藝春秋)を一読してみたいと思いました。
テレビやインターネットなどマスメディアが発達してきた一方で、誰もが情報を享受できるように、一つの事柄にしても内容が画一化してしまうようになった。大衆が作り出す民意の中では、物事の真偽が不透明になりがちだが、物事に関して正解、不正解はなく、様々な側面から物事を考察することが重要だと私は考えている。私はあまり本を読まないが、これからは同じ内容でも筆者が違えば読み比べることをし、自分の意見を確立するようにしたい。
私は日本の消費税は5%と一桁しかないし、周りと比べても相当低いと思うので、正直、使い方を明確にしているならば、消費税率が上がってしまうのは仕方がないと思っていました。しかし、日本における消費税の割合がスウェーデンと同じであり、税負担は変わらないことがわかり、政治面の話はいろいろ調べて、他と比べたりして、しっかりとした知識を持たないといけないなと痛感しました。
講義を受けているものです。今の日本は政府の言うことが信じられなくなった。このことは怖いことだと思います。まあ、いままでも信用していたわけではもちろんありませんが・・・。日本の消費税率は低いけれども、突き詰めてみるとみると欧州各国と相違ないほど負担していることや、原発に関しては事後法的に新たな事実を東電が公表したり・・・。事後法的に公表することで、責任の軽減を意図しているとしか考えられないほどです。こんな下等な行為がまかり通っている社会はマスメディアから何から信用性にかけ、このことが、社会のあらゆること、たとえば講義の内容でいうと児童虐待を防ぐことができなかったことなどに、つながっていくのだと思います。まあ、当たり前だと思っていたことが、当たり前でなくなっている。これは明かであります。
ソーシャルネットワークの普及で私たちが情報を得る機会はますます増えました。従来のマスメディアでは私たちは受信者としての面ばかりで、あまりにも多すぎる情報の中で、一体どれが正しいのかもわからぬままに流されてしまっていたことも多くありました。しかし、ソーシャルネットワークを通して、私たちには発信者としての一面ができました。発信者として自分の意見や考えを発信しつつも、積極的に情報の取捨選択を行い、情報を受動的にではなく能動的に手に入れる力が必要であると考えます。
ぼくは普段、全然本を読みません。しかし、今回先生の紹介なさっている本のなかで、「消費税増税で日本崩壊」という本に興味を持ちました。日本の消費税は外国に比べれば安いほうだと言われてきたし、だったら消費税増税もいた仕方ないだろうなと思っていたので、税収に対する消費税の割合がすでにスウェーデンなみだと知って驚きました。この記事を読んで、自分から情報を得ようとしなければ、自分が損をしても損をしたことにすら気がつかないんだなと思いました。改めて、活字でたくさんの人の考えにふれて、いろんな事実を知った上で行動することの大切さを実感しました。
情報の取り扱いはとても難しいものである。
記事に出ていた通り,インターネットは真偽の判断が情報を得る側に委ねられ,テレビ新聞では表面上の情報を扱うので意味が少しずつねじ曲がったり根底が見えなかったりする。
私は本も絶対正しい情報であるとも思えない。自由に誰もが本を書いて出版しているのだから,意見も様々で間違っていることも多々ある。まず筆者について調べることも重要であると考えている。
情報を得る際に,ここから得れば信頼できるといった人や記事を一人ひとりが持っておくことがこれからは重要であると感じた。
今の世の中は、インターネットやテレビの普及などにより、私たちは様々な情報をすぐに得られるようになりました。ただ、得られる情報がとても多くなり、何が正しい情報であるのかという判断が難しくなっているように思われます。ですので、私たち情報受信者は得られた情報を鵜呑みにするのではなく、その事柄について自分の意見をしっかり持って判断することが大事なのではないかよ思います。
現代の日本では、インターネット、テレビ、雑誌などあらゆるところから様々な情報があふれています。そして、そのような情報に人々は振り回されていると感じます。何が正しくて、何が間違っているのか、一人一人が考えなければ、情報に踊らされるだけになってしまいます。なので、正しい情報を得るためにも情報を受け取ったものはすべてを信じるのではなく、何が正しいのか見極め、考えることが必要だと思います。
今のテレビのワードショーやニュースは実にくだらないと思う。上辺だけを報道し、視聴者が望む情報はなかなか伝えられていない。さらには、大げさな表現をしたり、ある側面からの見方しかしていなかったり正しい情報を発信しているとは思えない。最近、いじめのニュースをよく耳にする。テレビでコメンテーターなどは、学校や教育委員会の対応が悪いと発言している。確かに、このような事態になってしまった原因の一つにそれはあると思う。しかし、この一面だけ取り上げていても何の解決にもつながらない。情報の発信者が伝えなければならないのは、こんなことではないはずだ。いじめはどれほど非道なものか、それを伝え、視聴者に考えさせるような報道をするべきだと思う。今のテレビは視聴率をとることだけを意識して、報道の本当の意味を見失っているような気がする。
さて、情報を得ようと思った時に最初に飛びつくのは何か、と問われれば本ではなくインターネットかテレビだと私は言える。確実性で言えば本であると頭では分かっているのだが、インターネットでの一瞬の検索や、ニュースでの他人の意見の方が情報を得るのが容易い為についついそちらを利用してしまう。
別にそれらが悪いと言っている訳ではないが、こと情報の確実性と言う点では良いとは言えない程に嘘や虚言が溢れているのだ。
『ポピュリズム(英: populism)とは、一般大衆の利益や権利、願望を代弁して、大衆の支持のもとに体制やエリート主義などの特定の抵抗勢力と対決しようとする政治思想または政治姿勢のことである』(ウィキペディアより引用)
上記のようにポピュリズムとは大衆の意識をもとに改革をしていこうという政治姿勢の事だが、情報の不明瞭さはこの一般大衆の意識さえも誤った方へと導いてしまうのではないかと思った。
最近ではマスコミを第四の権力(実際は三権を監視する役目があるという意味合いだが、ここではマスコミが三権に並んだ権力を持っているという意味)と揶揄する人々が居るが、大衆の意識を先導してポピュリズムの名のもとに改革を進めて行こうとするような人が居る現在ではこの揶揄もあながち間違ったものではないのかもしれないと私は感じた。
上記の事は全てのマスコミに言えるわけでは無い。だが人々がマスコミを第四の権力だと言うようになったのはどの情報を信用していいかわからなくなってしまったからではないだろうか。
マスコミだって人なのだから誤報もある。だがそれによって今までマスコミを妄信していた人が裏切られた、と感じたとしたらどうであろう。今までの自分の情報や価値観は全てマスコミの言う通りに作られてきたのかもしれないと言う恐怖。それは確実に人を苛むことだろう。何せ自分の意見だと思っていたものが全て他人に植え付けられたものだったのだから。他者(マスコミやコメンテーターなど)の言葉を鵜呑みにしていた人々はそれが自分の意見ではなくマスコミの意見だったのだとここで初めて理解するのだ。
などと語ってきた私だが、やはりマスコミやコメンテーターのいう事を鵜呑みにしていた時期もあった。何故と問われればその方が楽だからだ。
だが今ではそれは甘えだったのだと客観的な判断が下せるようになった。自分で考え、自分で選び、自分で決断する。この情報に溢れた世界ではそのことが重要だという事をようやく理解できるようになったのだ。
情報化社会によって溢れた悪意のある虚言や信憑性の無い誹謗中傷などが跋扈するようになった今こそ、人々は他者から与えられた意見を鵜呑みにするのではなく、その情報を一回自分で吟味してから判断すべきではないかと私は思った。
確かに今のメディアは正しい事実を発信していないと思う。原発問題が起きた直後も、意見が定まらない政府の安全ですという発表や、東電の今になってみればわけのわからない言い訳ばかりで、原発の危険性を示唆する人や、原発に反対する人の意見はほとんど発信してない気がする。メディアは、企業や政府の言いなりになるのでなく、正しい情報を国民に発信していくことが使命だと思う。自分たちに利益があるような、当たり障りのないようなネタばかり発信するのでなく、公平性を持ち国民の味方をするべきではないかと私は考える。
「たくさんの情報の中から自分が正しいと思う情報を選ぶ力」これが今私たちに求められていると思う、インターネット、テレビ、ラジオ、世の中はたくさんの情報であふれかえっている、ここまで来ると、どれが正しくてどれが間違っているか判断することは難しいかもしれない、しかしその中で、情報に流されないで自分自身で情報を選び取ることならばできると思う、自分の意思をしっかり持ち、情報をしっかり受け止めることが必要だと思う。
「わからない。だからみんなが言っていることを信じます。」は伝わってくる様々な情報を吟味することを辞め、逃げている行為ではないでしょうか。「わからない」があることや、自分がマイノリティであることが不安なのは当然だと思います。早く安心したいと思うのも自然なことでしょう。しかし、ここで私が問題だと感じるのは、自分で調べず人の言葉を鵜呑みにしてしまうことです。例えば、誰もが尊敬してしまうような偉い教授から聞いた話を信じたとしましょう。何の努力もせずに耳に入ってきた話を鵜呑みにしました。でもそれが大嘘であったとして、「全部騙したお前が悪い!」と怒れますか?裏を取らずに信じてしまった自分に少しも非がなかったといえますか?情報を吟味する努力なしには真実はつかめないのです。自分で調べたり、事実であると確証をもったりしもしないのに怒る。大多数の意見に流されるだけじゃ間違いを間違いとも気づけないかもしれません。不安にならないために、真実を掴むために、自ら学ぶ姿勢・努力が必要なのではないでしょうか。
今は情報化社会。世の中には情報があふれている。しかし、その中のどれ程が正しい情報を伝えているのだろうか。
TVのニュースを見てほしい。時間帯や局がちがうだけで、同じような表面的な話をダラダラ喋っている。
インターネットを見てほしい。匿名であることを利用し、嘘やデマが飛び交っている。
皆で活用するはずの多様な情報に、皆踊らされている。情報を見極めるのには、多くの知識が要る。だからこそ、信頼できるソースを一人ひとりが確立していく必要があると思う。
今こそ情報化社会の本来の意義を見極めなければならない。
「つなみ」この単語を見るたび、私はあの日の地元景色を思い出します。道路が川のように水であふれ車や家が流されている。慣れ親しんだ風景が一瞬のうちに無くなっていました。あの日から数えて五日間、私たちの町は電気が通じず、電波も通じず、他の地域がどうなっているのか知るすべは、ラジオと新聞のみでした。情報化社会と騒がれるこの頃ですが、テレビや携帯が通じないとこんなにも情報難民になってしまうということを身をもって感じた日々でした。「メディアの情報に流されてはいけない、見極めなければいけない。」と、さんざん言われていますがやはり、今の社会の中では情報が行きかうことに感謝をしなければいけないことも真実であると私は考えさせられました。
マスメディアは今の生活にはなくてはならない存在である。私たちが、日本もしくは世界で今、何が起きているのかを知ろうとする時、マスメディアを利用する人が大半であろう。そんなにも期待されているため、マスメディアは行き過ぎた行動、報道をしている点が多くあると思う。マスメディアには「知る権利」は私たちの持つ他の権利を侵してしまうことをしっかりと理解して仕事をするべきだと思う。
自分が情報を得る手段はどんなに限られているのか。私は普段インターネットやテレビを通して得る情報が相対的に多い。問題はこのようなマスメディアを通して、よく取り上げられる問題は社会的に重要なものであって、そうではないのは重要ではないと思われる傾向があるのだ。このように、人々はマスメディアの報道や編集の方向によって、事件の意味の理解に影響を受けられる。実は、よく知られる伝統的なマスメディアの加工過程への不信で、自分もテレビのニュースより ツイッターの情報をもっと信頼することがあった。大地震のときも ツイッターで広がる文章を読みながら、日本政府の発表を疑ったこともある。最近のSNS(Social Network Service)では個人の私見や検証されない情報がre-tweetを通して、無分別で拡散されている。私的領域と公的領域が合わせて、強い波及効果が生じられているのだ。もし、この時間違った情報が伝達され,大衆を引っ張るとポピュリズムに繋がる恐れがある。したがって、マスメディアへの不信にたいする解答がsnsになれない。重要なのは溢れる情報の中で、事実の真偽だけに気にすることではなく、多様な情報に接して、事件を理解する様々な視覚を持つこと。つまり、事件の全体をあっちこっちから見る力を養うこと。そしてその事件についた自分の意見を根拠に基づいてほかの人と交わすこと。これが今の時代に必要なメディアリテラシーではないのか、そう思った。
自分が情報を得る手段はどんなに限られているのか。私は普段インターネットやテレビを通して得る情報が相対的に多い。問題はこのようなマスメディアを通して、よく取り上げられる問題は社会的に重要なものであって、そうではないのは重要ではないと思われる傾向があるのだ。このように、人々はマスメディアの報道や編集の方向によって、事件の意味の理解に影響を受けられる。実は、よく知られる伝統的なマスメディアの加工過程への不信で、自分もテレビのニュースより ツイッターの情報をもっと信頼することがあった。大地震のときも ツイッターで広がる文章を読みながら、日本政府の発表を疑ったこともある。最近のSNS(Social Network Service)では個人の私見や検証されない情報がre-tweetを通して、無分別で拡散されている。私的領域と公的領域が合わせて、強い波及効果が生じられているのだ。もし、この時間違った情報が伝達され,大衆を引っ張るとポピュリズムに繋がる恐れがある。したがって、マスメディアへの不信にたいする解答がsnsになれない。重要なのは溢れる情報の中で、事実の真偽だけに気にすることではなく、多様な情報に接して、事件を理解する様々な視覚を持つこと。つまり、事件の全体をあっちこっちから見る力を養うこと。そしてその事件についた自分の意見を根拠に基づいてほかの人と交わすこと。これが今の時代に必要なメディアリテラシーではないのか、そう思った。
近頃のテレビをみてると、今の流行についてタレントが話しているものばかりに感じます。
テレビに限らず、マスメディアとしては今起こっていることをそのまま伝えることが一番であるのに、印象操作といってもいいような過剰な報道が最近目立つと思います。
インターネットも普及して、簡単に情報が手に入るからこそ、その情報から自分自身の意見や考えを導き出すことが最も必要だと思います。
マスメディアについて。正しいか正しくないかの見分けや嘘の情報への非難などは、大学に入っても情報基礎やプレゼミなどでさんざんやってきた。私はそんなに日頃メディアを気にしているわけではなく、見分けどうこうの話すら気にしていなかった。今ここで、um48akさんのコメントを拝見させていただき、自分がどれほどたるんでいたか認識させられた。社会について無知であるから、困ったときのためにも情報収集について敏感になるべきで、そうなってしまってからでは遅いのだ。そんな中でメディアはum48akさんのコメントのような経験談も、私のようにメディアにあまり携わらない人々に発信していってほしい。そして様々な議論が交わされる中、「情報が行きかうことへ感謝」、そんな素敵なことが言い合える世の中にしたい。
私は今日の情報の発信について述べようと思う。今日では私たちはテレビやインターネットといった手段で情報を得ている。しかし、その発信されている情報はある一つの切り口からしか捉えられていないように感じる。どの情報も万人受けするような発信しかされていないのではないか。このような状況下で、私たちは発信される情報をそのまま鵜呑みにせず様々な面から考えていくことが重要であると考える。
メディアはもはや純粋に情報を供給するものではなく偏った情報を報道するものになっていると思う。たとえば同じことを違う人がやると報道の仕方が違う。これは明らかに話題性といった情報の本来の性質から乖離した部分に焦点を当てた報道である。科学者が自分の結果に責任を持つべきと戦後言われてきているが報道に関しても同様で、報道したら終わりではなく、その報道が間接的に利用され関連した人、モノに迷惑がかかる場合も想定した報道を行うべきだ。
マスコミは地球温暖化が騒がれていた時も「最高6%の温度上昇」が予想されると学会で発表されたにもかかわらず、マスコミは「6%の温度上昇」が予想されると伝えた。
今やニュースはバラエティ番組と同じような無意味でただ、話題になればいいというモラルのかけらもないようなものに成り下がっているのは非常に問題であると私は考える。
誤った情報の責任は発信者はもちろんだが受け取る側の態度も大きいと私は考える。発信者が人間である以上、出来事を報じるにあたって主観が混ざるのは止むを得ないだろう。大事なことは受信者がそのことを理解し、情報をうのみにせず、しっかり取捨選択することだ。現在主流のメディアでは形式として情報の方向性が一方的であること、普及の規模が大きいことから受信者が惑わされやすくなっているのが現状であるが、惑わされることなくしっかり判断していかなければならないだろう。
日本におけるポピュリズムの典型といえば政治家たちの消費税の増税反対の主張だと私は思います。テレビのニュースで、増税の必要性はよく耳にしますし、様々な考え方が存在すると思いますが、私自身は必要であると感じています。国民のための政治を行うことと、国民の顔色をうかがうことは違います。政治家の方々には本当の意味で国のための政治を行っていただきたいです。たとえ国民が嫌な顔をしようとそれが今の国民、果ては未来の国民のために必要なことであれば実行するべきだと私は考えます。それと同時に、私達自身も正しい知識を身につけることで善政の行われる土台を築かなければならない。そうすることで良い循環が生まれ、よい国へと日本が変わっていくのだと思います。
わたしは現代社会のにおけるメディアによる情報の発信のあり方に疑問を感じることは多々あります。たとえば、問題の核心に触れずに表面的な事態しか伝えようとしなかったり、またあるいは意図的に事実を隠して伝わらないようにしようとしたり、情報受信者の意識・印象を変えようとしたりといったことがよく行われているような気がします。これは受信者の興味を引くため、権力や業界の関係によるものなどのさまざまな要因があると思います。わたしはやはり、情報を発信する立場というのは公正であるべきだと思います。
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