子どもが語る施設の暮らし
この本は、家庭の様々な事情から、親元を離れて児童養護施設等で暮らす子どもたちの声を集めた労作です(「子どもが語る施設の暮らし」編集委員会編『子どもが語る施設の暮らし』、明石書店、第1巻は1999年刊、第2巻は2003年刊)。
施設の暮らしの主人公である子どもたちの人権と意見表明権のあり方を考えさせられるこの本は、障害・高齢の領域の支援者にも一読をおすすめします。
この本の成り立ちは、児童養護施設に暮らす子どもたちの「東京地区高校生交流会」という施設を越えた交流会の報告書作りがきっかけとなっています。この交流会は施設職員がアシスタントを務めますが、ノンディレクティヴ・カウンセリングが貫かれ、支援者が子どもたちの声を抑圧・操作することなく、子どもたち自身が自分たちの悩みや要望を語り合う集会です。このような声を受けて、「自らの決意で入所した者はほとんどいない」現状の下で、「『子どもの権利条約』に照らし、真に子どもの権利を擁護する施設はどのようにあれば良いのか」(第1巻「序」、13-14頁)を考えることを「大人の責任」として明らかにしようとする意図があります。
したがって、この本に収録される子どもたちの声は、子ども自身が作文したものか、施設関係者ではない第三者が子どもたちからのインタヴューをもとにしたものかのどちらかです。したがって、施設と職員に対する批判・抗議・疑問・感謝等が、さまざまな彩りで表明されています。子どもたちの語りのタイトルを第2巻から紹介すると次のようです。
・「あなたのためを思って…」が不愉快だった
・自分だけが不幸なわけではない
・これでよかったんだと思えるようになった
・ドラマや映画ではない本当の施設の暮らし
・もっと子どもの気持を受け止めてほしかった
・お父さんがもう少し長生きしてくれたら
・規則は押しつけられるものではないはず
・里親からもらった大切な気持ち
・父の暴力と母の入院で
・「いつ出ていってもいいのよ」里親に言われて
・笑いながらすべてを話せる日がくればいいな
・怖かったお母さんから解放された
・父の暴力と母の自殺
・信頼できる人に出会えた
ここに表明される子どもたちの声は、決して一様ではありません。それぞれの子どもたちの立ち位置は、施設・里親の下に来るまでの経緯(親の養育困難・養育放棄・虐待等の織り成す生育歴やライフイベントなど)、施設内いじめの有無や施設職員の資質の分かれる施設ごとの実践水準等によって異なるため、施設の暮らしに対するスタンスも異なっています。
子どもたちの声の中には、長年に及ぶ我慢と抑圧、言語的な意見表明を明確化できずにもやもやとした状態にあるものも含まれています。
ただ、複数の子どもたちに共通する意見もかなりあります。これまでの施設の習慣や規則を押しつけるだけで子どもたちの意見を汲み尽くそうとしない施設長・施設幹部・ベテラン職員に「支援者として失格ではないか」と指摘する点や、子どもたちを一律に参加させる施設行事への嫌悪、施設を越えた子どもたちの交流が施設改善につながると考えている点などです。
このような子どもたちの意見は、この本の編集に携わった施設職員等の座談会でも指摘されていますが、施設以外に行き場のない子どもたちを前にした施設職員の力関係における優位性を正視しないまま、施設という暮らしの場に「集団養護」を持ち込むことの過ちや、「この子たちのため」という一方的な職員の思い込みによって施設固有の不適切なケアを産出してきた問題点を指摘するものといっていいでしょう。
この本の第1巻「序」には、ある高名な弁護士の発言が引用されていました(15頁)。
「施設職員の『専門性』が外部にはまったく見えてこない。ごく一部の立派な施設長の先生くらいしか施設の話を聞くことができない。話を聞いている限りでは、あらゆる問題を職人芸のように解決していて、施設には全く問題がないように聞こえる。単なる自慢話にしか聞こえず、とても不愉快にさえ感じる。実態は経験の浅い多くの職員によって支えられており、一人や二人の職人芸的な仕事で解決できる問題ではないはずなのに、施設はどうして社会全体の問題として誰にでも見えるようにしないのか」
また、子どもたちにインタヴューを行った木附千晶さん(子どもの権利のための国連NGO・DCI日本支部『子どもの権利モニター』編集長)は座談会の中で、次のように発言されています。
「ある程度関係ができてきて、緊張がほぐれてくると、初対面の私に、ものすごくプライベートなことまで話してくれるんです。施設の職員の皆さんへの批判ということではなく、施設という場所の特殊性もあって、やっぱりなかなかなんでも話せる関係をつくるのはむずかしいんだなあと思いました。
そのことを職員に話すと『あの子は何も考えてない』とおっしゃるんですけど、子どもたちはすごく考えているんですよ」(189-190頁)
「もう一つ気になっているのは、職員の方の『あの子にはなにかを話すとか、自分の意見を言う力はないんです』という一言。意見表明というから、きちんと理路整然と意見を言えなきゃいけないようにとらえられるけれども、じゃあゼロ歳児の子に子どもの権利はないのかといったら、そういうわけではないでしょう。言葉で語れなくたって、子どもは不快だったら泣くとか暴れるとか、自分の欲求をなんらかのかたちで表明する。それもすべて意見ですよね。それをどういうふうに受け止めて、聴き取っていくのかは大人の責任じゃないでしょうか。(…中略…)きちんとまとまったことが言えないから、子どもは語れないというふうに行ってしまったら、子どもの権利条約なんていうものは、もうほんとうに『画に書いた餅』じゃないですか」(204-205頁)
子どもたちの多彩な施設への意見表明を読み解くと、障害・高齢領域の施設・グループホームにおいても多様な意見が間違いなくあるだろうと想像できます。しかし、障害・高齢領域ではさまざまな障害特性を理由にして、サービス利用者にあるはずの意見の多彩さがかき消されてしまっていたり、知的障害や認知症の人たちの意見表明をぎりぎりまで汲み尽くす以前に、家族や支援者の意見が優位性をもって正当化されていることはないのでしょうか。
障害者の権利条約を「画に描いた餅」にしないためには、『子どもが語る施設の暮らし』の取り組みのように、一つの事業所・施設を越えたサービス利用者の交流会を、支援者の一切の操作・抑圧からも解放されたノンディレクティヴ・カウンセリングの手法をもって実施し、現在のサービスに対する多様な立ち位置からの意見に耳を傾けることから始めなければならないでしょう。
『障害のある人が語る施設・グループホームの暮らし』『障害のある人が語る福祉サービスを活かした暮らし』というような書物が刊行されない間は、わが国の人権保障のレベルは未熟なままだということができます。
社会サービスにおける“Noting about us without us”の実質化は、不適切なケアと施設従事者等虐待の克服に通じることによって、障害のある人の人権擁護を前進させるはずです。
コメント
これだけ発展した国である日本にもたくさんの戸籍が登録されていない子供もたくさんいるようです。
それぞれの事情で施設へ入った子供たちのうち、養子縁組を組み、新たな家庭で暮らす子供たちも多くはないそうです。
解決するには、制度自体を変える必要があるのでは。
また、「子どもの権利条約」という話がありましたが、実際に読んでみると、日本の子供に対する制度や待遇などの評価は圧倒的に不備(改善余地あり)のほうが多かったです。
お手本とするものがあまりない中、どのように解決するのか、大きな問題ではありますが、知恵を絞って解決しなければならない重要事項であることは確かです。
あらゆる場所でバリアフリーデザインを取り入れているが、その管理の悪さを改めて知りました。点字ブロックを隠すようなマットの置きかたや、国際シンボルマークのあるトイレの物置化などは人々の「本当に必要とする人が使うことなんて滅多にないだろう」という意識の現れだとおもいます。利用者のことを考えて管理すべきだし、私達も意識しなければならないと思います。しかし実際わたしもこの講義によって改めてそう考えるようになりました。バリアフリーの管理を意識するどころか、その存在や意味すらきづかなかったりしらなかったりする人が多いと思います。誰もが生きやすい環境にするためには人々の意識改革が重要だと感じました。
虐待をうけた子供たちの心の傷はとても深く、それが原因で自分の意見を自信をもって表明できない。それにもかかわらずそのような子供たちになんの配慮をしないのは周りにいる私たちの責任ですよね。今私がそのような子たちをどう考えているかというと、そういいう子供たちに対して何も考えてない、関心がないというのが正直なところです。やはり時々でもいいからそのような子供たちに対してどんなことをしてやるべきか、どのような環境が子供たちにとってベストか、考えて意見を言うことが周りにいる私たちの責任だとおもいました。
私は月に1,2回児童養護施設を遊びボランティアとして訪れている。表向きの子どもたちしか知らない私は、普段の生活に対してどのように考えているか知りたい。だからこの本を読みたいと思った。
確かに、子どもはなかなか意思表示を言語的にうまくできない。しかし、それを意思表示できないととることは間違いである。私が普段接している子どもたちはしてほしいことはきちんと言うことができる。不満があったら態度に出る。これが彼らの意思表示として私は捉えている。子どもたちの要求を大人たちは正確に受け取り、それに応えることで子どもと大人の信頼は生まれる。これは、子どもの愛着を作る形成と同じである。子どもたちは望んで施設にいるわけではない。多くの子どもは親と住みたいと思っている。しかし、だからこそ、施設での生活は子どもたちにとって快適なものにしていくべきである。
しかし、寮舎型の施設の場合は1舎当たりの児童数がとても多い。全員の要求を聞いていたらうまく運営できないことも事実である。だから、少ない人数で生活することが子どもたちにとってはいい。しかし、行政はお金の問題から小規模の施設を作ることを嫌がる。施設職員を増やすことも嫌がる。行政の改善も施設の子どもたちのためにまだまだ必要である。
施設の職員がこの子はこういう子だと決めつけているのは、良くないです。人間は成長していく生き物なのですから、いくらでも変わる余地があります。子どもたちは自分たちのことを見てもらいたいのです。職員はそのことをふまえ子どもたちに接するべきです。
また、現在は施設が不足していると聞きます。しかし、新しく施設を建てるには、費用がとても掛かります。政府はこの現状についてなにかしらの政策をうつべきだと考えます。
人は、誰一人として一緒の存在ではありません。様々な境遇を持っていることでしょう。今回のブログを読んでいると、改めて様々な境遇を持つ児童がいるなと感じます。そのような児童にも信頼されるように一つ一つの言動に気をつけたいと思います。子どもは、些細なことで傷付きやすいと思います。また、今回の教育実習では、私の言動をよく見ているという印象を受けました。直接的でなくても、教師の軽はずみな発言を利用して他の児童を傷つけることがあるかもしれません。あらためて、現在の学校には、様々な児童がいます。それを念頭に置いた言動をとる必要があるなと感じました。
子供の気持ちを考えることは確かに大事であろう。
施設にいる子ども達はとくに、いろいろな悩みを抱えているに違いなく
デリケートなケアが必要になってくるだろうとも思う。
ただ私はそこで子どもを尊重しすぎるのもどうかと思う。
やはり社会には不可逆の力関係もあり理不尽な出来事だってある。
そのような中で、子ども意見を尊重しすぎることは
子供たちの増長していくのを促しかねないとも思う。
昨今の教育学者(この言葉は正しいのかはわからないが)は
「子どもの権利」というものを振り上げて
教育をより一層複雑に、難しくしていると思う。
もちろん、ニュースになるような事件を起こすような教育者や
そうでなくとも子供達のことをまったく考えていないような教育者も沢山いるのは事実である。
だかそれはすべてではない。
子供のことを考える、というのは確かに大事ではあるが
大人が大人の威厳をなくしてまで、子供に寄り添うことには私は賛成できない。
と、いっても
あらゆることにおいて
極端ということは良くないことなので、
やはりこそは難しい問題である、とも思う。
子供が独立した人格を持つ個人であり、自分たちの権利を持っている。子供と両親は、血縁関係だけではありません。また、法的な関係である。キャンパス内の暴力は、根本的には、伝统的な師道尊厳、不ちゃーんいろんなという誤った認識を示している。确立する児童権利の観念を根本的に解決しないし、個人の権利の誤解と偏見が本質的に解決することはできないということ児童虐待される問題だ。
複数の子どもたちが共通して発言しているように、施設の習慣や規則を押し付けるだけで、子どもの意見を汲み取らない施設やそこの職員が存在することはとても残念なことである。辛い経験をしてきた子どもたちの意見をしっかりと聞いて、精神面でのケアーをすることが最も大切なことである。職員の自己満足で終わってはいけない。
また、「子どもの権利条約」に何が書かれているのかをしっかりと理解している人は少ないように思う。学校の授業で扱うことを増やせば、多くの人が子どもに関わる問題を考えるようになるはずである。
「虐待などによる理由から施設に保護される」という言い方をよく耳にするので、施設は子供にとって絶対的に安寧の地であり、そこへ保護されれば問題はほぼ解決するものだと思っていた。実際には保護された子供の中には、本当の気持ちを言い出せなくて苦しい思いをしていたり、施設内いじめにあったりして辛い思いをしていることもあることが分かった。ならば傷ついた子供たちを確実に癒せる場所はあるのだろうかと思うとともに、どうすればそのような場所を作ることができるのだろうかとも思った。
施設の習慣や規則を押し付けるだけであったり、大人側から見た視点からの改善策によって解決されたつもりになり、自己満足的に完結させていることは今の社会には多く混在していると思う。表面化されていないところでは特に深刻だろう。しかし、それでは根本的な解決は望めない上に、子供の人権の侵害にも及ぶ問題になると私は思う。一方的な思い込みというものは怖いもので、見方が固定化され、それが差別や偏見をも生んでしまう。しかし、子供にも一人ひとり個性があり、意思がある。それをひとまとめにして決めつけてしまうのはよくないし、心が痛むようなつらい経験をした子供ほど、強い意思があり、何も考えてないわけがないと思う。表現の仕方もその子の個性であって、言葉だけが意思の伝達方法ではない。個性ある子供を施設という体系のもとで、抑圧し操作してしまうことはあってはならないことであるし、身寄りのない子供を匿う立場である施設ならなおさらであるはずだと私は感じた。先生のおっしゃるように、まずは一切の操作、抑圧から解放されたノンディレクティヴカウンセリングの実施によって多様な立場から改めてサービスの見直しが必要であると思うし、社会全体に関心をもっと求めて真の解決策を摸索していくべきであるとも感じた。
施設の習慣や規則を押し付けるだけであったり、大人側から見た視点からの改善策によって解決されたつもりになり、自己満足的に完結させていることは今の社会には多く混在していると思う。表面化されていないところでは特に深刻だろう。しかし、それでは根本的な解決は望めない上に、子供の人権の侵害にも及ぶ問題になると私は思う。一方的な思い込みというものは怖いもので、見方が固定化され、それが差別や偏見をも生んでしまう。しかし、子供にも一人ひとり個性があり、意思がある。それをひとまとめにして決めつけてしまうのはよくないし、心が痛むようなつらい経験をした子供ほど、強い意思があり、何も考えてないわけがないと思う。表現の仕方もその子の個性であって、言葉だけが意思の伝達方法ではない。個性ある子供を施設という体系のもとで、抑圧し操作してしまうことはあってはならないことであるし、身寄りのない子供を匿う立場である施設ならなおさらであるはずだと私は感じた。先生のおっしゃるように、まずは一切の操作、抑圧から解放されたノンディレクティヴカウンセリングの実施によって多様な立場から改めてサービスの見直しが必要であると思うし、社会全体に関心をもっと求めて真の解決策を摸索していくべきであるとも感じた。
このブログを読んで初めて『子どもが語る施設の暮らし』という本の存在を知った。読んだことがないため本に対する感想を述べることはできないが、タイトルを見るだけで興味の惹かれるものばかりである。現段階ではあくまで想像することしかできないが、これから教育現場に携わることが増える立場として(施設に限らず学校という公共教育の場でも紹介されていたような境遇の子どもがいる可能性を否定できないことを考えると)一読する必要があると感じた。
インタビューや文面でもはっきりと意思表示できない子どもの心情を読み取るには、多くの労力と時間を費やすことになるだろう。それでも表面的・事務的な対応で終わらせるのでなく、子どもたちから目を背けずに心を開いてくれるまで長く深くかかわっていくことがこれからの社会を担っていく人たちに求められるものの一つではないだろうか。
正直、施設に住む子供たちの生活をメディアという媒体を通してしか知らない自分には、彼らの生活や感情は容易に想像することはできません。ただ、大変だろう、かわいそうだとは思いますが、それだってどこか他人事な感情です。そんな人が大多数のなかで、子供たちに不幸なのは自分だけじゃない、などと言っても納得することは難しいと思いますし、かといって、同情したところで、当事者じゃない人に言われても容易には受け入れてはくれないでしょう。そんな子供たちの心を開き、傷を癒すのは簡単なことではないと思います。しかし、成人となりこれから大人として生きていく自分たちこそが、こういった問題に向き合っていかなくてはならないと深く考えました。
何らかの不幸があり施設に入った人たちは、その保護を受けることで生活を送ることができます。しかし、同時に周囲からの無責任な同情や理不尽な扱い、自分の現状を卑下するなどの環境に身を置くことにもなります。
それらの環境から利用者を守り、同時に正しく導く事が施設の人間に求められることであると思います。しかし、そうあるべきはずの職員が先入観や思い込み、優越等により満足な仕事をしないということは施設にも利用者にも悪影響でしかない。
そのためにも、他の人が述べているように行政面からの変革や、自分たちが何をしているかの意識改革が必要であることを感じました。
子どもたち全員がそれぞれ違う環境に置かれ、違う経験をしてきたのだから、子どもの人格もそれぞれ違うものになるはずである。。物事の考え方も違うし、自己を表現する方法も違ってくる。その多種多様な人格を施設の規則にそって同じように養護していくことは、子どもたちにとってあまりいいことではないと感じた。施設の職員がそのことをもっとはっきりと意識して、子どもひとりひとりに寄り添いながらケアしていくことが大切だと思った。
障害のある子どもたちの言葉にとても衝撃を受けました。
支援者や親は「子どものためだから」と言いながらも、実際にはそれとは程遠いことが起きていて、本当に子どものためなのかと疑ってしまいます。
障害を持っていたとしても、その人には意見があり、意志があり、好き嫌いがあり、人権を持っているということを、私たちはきちんと考えなければならないと思いました。
このような子どものことを知ると、自分が幸運にも健全な身体、恵まれた(というよりは不足ない)環境に生まれ、育ち、今を生きていることを痛感すると同時に感謝せざるをえない。しかし、点字ブロックの粗雑な扱いや国際シンボルマーク付きトイレの物置化など、どこかしらで障がいのある人をないがしろにしているように、上記の施設の職員はなにかしら不足のある子どもに対して、偏見を持って接しているように思える。子どもたちは子どもたちなりに信念を持って生きていることを、施設の職員はじめ、すべての人間が尊重すべきだと感じた。
私は、子どもの権利条約が保障するように、すべての子どもは、それまでの経緯や障害に関わらず、その人権が尊重されなければならないと考える。そのためには、日本の施設環境はまだまだ北欧諸国と比べると、不十分であると思える。多くの施設が資金不足であり、寄付金などでその運営資金をまかなっている日本の施設の現状を考えると、政府は子ども手当てのような、政府財源のばらまき政策ともいえる政策をとるよりも、このような施設に対する補助金に財源をあてるべきだと私は考える。
紹介された子どもたちの語りのタイトルから、子どもたちの切実な訴えが感じられました。そして今日における社会が、いかにそれらの訴えを真剣に受け止めていないのかと思いました。
「子どもの権利条約」についても触れられていましたが、子どもの権利条約についての社会全体の認識が甘いと思います。学校教育の中で条約についてほとんど扱われなかったり、メディアにおいてもそれに関する報道があまりにも少なかったりと、このままでは、まさに「絵に描いた餅」状態ですね。そうならないためにも、まず大人がこの条約のことを知らなければならないと思います。子どもに対しても一個人として対等に向き合うことが子どもに関する諸問題解決の第一歩だと思います。
子供は大人よりも身体的にも精神的にも弱い存在ですが、昨今指摘されている親子関係問題を見ていると、はたして親は子供に対して「大人の責任」を全うしているのか疑問に思います。確かに各家庭の事情は複雑ですが、子供が児童福祉施設に預けられた親は自分の責任を理解していないように感じますし、政府も個人的な問題として介入するのを躊躇しているような気がします。政府および施設は、親子の生活自立のためのサポートを手厚くしていくことが求められると思います。
児童養護施設の人たち(職員の方たち)にはほんと尊敬の念を抱きます。家庭などで様々な悩み、悲しみ、痛みを抱えた児童たちが施設にはたくさん来て、その児童たちの心をもう一度開くのには大変な努力と辛抱強い我慢とが必要になると思います。それを毎日、絶え間なく、自分の子供でもない児童に対してやっているのは本当に凄いです。
その一方で、虐待などの暴挙に出る親たちには失望します。なぜ自分の愛する子供を痛めつけるのか自分には理解できません。「あなたを思って・・・」などと言っているけれど、結局は自分の思う通りにいかなくて、そのストレスを子供にぶつけているだけだと思います。いつか、世界から虐待が失くなることを願います。
児童養護施設は本来子供を養護し、自立の手助けを行うべき場所であるはずが、大人の自己満足や決めつけによって子供の意思が無視され、人権までも侵害されるようなことが起きているとは知らず、非常に驚きました。子供であろうと大人と同じように人権はあるので保護するための制度を整えなければならないと思います。これは重大な問題であり、早急に解決しなければならないと思いました。
施設の中の生活が不透明であることは全く同感で,しかも問題なのは,それを改善しようという声さえなかなか聞こえてこないということではないでしょうか。また,講義で施設の内部のビデオを何本か視聴しましたが,実際の施設生活にも何かしらの課題があると思います。ビデオを見て思ったのが,自分が考えていたよりも施設にいる子供たちが笑っておらず,リラックスしている雰囲気が感じられなかったということです。それらに映っていた施設内での生活の内容は基本的に,子供たちが自分たちで食事の用意している,片付けをしている,清掃している,そして遊びの時間がもうけられている,といったものでした。これはもちろん,人間的で将来生きていくために自分でしなければならない基本的なことであるのですが,どうにも自分にはそういった一つ一つの日常的な行動の中に「やらされている」という感じがします。あくまで体験談ですが,自分はこの施設にいる子供と同じくらいの年齢のとき,食事の手伝いをすると「お手伝いしているんだなあ」と,ある一種の喜びや楽しみといった感覚を覚えました。しかし,視聴した映像からはあまりそういったものが伝わってこなかったのです(あくまで自分の感覚の感想です)。これでは,暴力がないだけであって,虐待されていたときと同じある種の束縛された生活とあまり変わらないと思います。もちろん,施設の職員の方たちが子供たちの虐待された心の傷を癒そうと不断の努力をされているとは思います。しかし,現状ではそれにより,子供たちが感化されていないと思えるのです。
私が、ブログを読んでいてどうも気になったのは、施設職員の方が、「あの子は意見を言う力はない」と断言している部分である。いつも、一緒にいるからこそ、施設職員は子どもが好きなこと、得意なこと、あるいはその逆も推測できると思うが、それを固定概念化してはいけないと思う。子どもは日々、変化していく。なかなか思うようにできなかったことがふとしたきっかけで、できるようになる可能性もあるだろう。したがって、今の時点で仮に「意見を言う力がない」のだとしても、それを向上させる助けをすることが必要だと思う。しかし、この文面を見ているとそれが伝わってこない。可能性を捨て、あきらめて、放置してしまっているとしか思えないのである。
次に、子どもたちが「これまでの施設の習慣や規則を押しつけるだけで子どもたちの意見を汲み尽くそうとしない施設長・施設幹部・ベテラン職員に支援者失格だと考えている点や、子どもたちを一律に参加させる施設行事が嫌だ」といった意見をおおよそ共通して出していた、という点に関して言及したい。
確かに、施設は子どもたちの意見を尊重すべきである。しかし、親の下で暮らす子どもであっても、家庭の習慣や規則は押し付けられるし、子どもたちが家庭の規則を決めるということは少ない。したがって、「支援者失格」とするのは言い過ぎのような気がする。だが、施設で働く方々は、従来通り、今までのマニュアル通りで進めるのではなく、子どもたちが今何を考えているのかということを理解する努力をさらにして、全て意見を汲み尽すのは無理だとしても、最大限子どもたちの意見を反映させるように改革していくことが、必要だと思った。
まず大人たちがこどもがどんなふうに感じているかとか、どんなこどもか、などを一方的に決めつけてしまう傾向が一部ではあるのかが疑問としてあります。こどもの権利条約としてはっきりと条文化されているほど、こどもが自らの主権を尊重されなければならないのに、意見を表明しないこどもの気持ちを勝手に解釈、代弁されていることが こどもと親の関係をおかしくさせる要因でもあると私は考えます。こどもの気持ちを完全に分かれ というのではなく、少しでもこどもの考えに耳を傾けることだけでこどもから親、親からこどもへの見方が変わると思います。
子どもたちは周りの大人が考えている以上に、さまざまなことを考え、そして悩んでいる。親や施設の大人から自分の気持ちを理解されないことがどれだけ辛いことか気付いていない大人が多すぎると思う。またその感情をうまく表現できないせいで、おかしい子だと認識されてしまう子どもも多く存在する。大人はもっと子どもの気持ちを汲みとってあげなければならないのではないだろうかと感じた。
虐待を経験して施設に保護された子どもたちは最初は心の傷を抱えていても、同じ傷を持った者同士の関わりで施設に居場所を見いだし、ある程度の問題は解決するというようなイメージを持っていたが、まったくもって浅はかだったことを感じた。施設内でのいじめや施設職員に対する不満、決して癒えない傷があるのだということが伝わってくる子どもたちの語りのタイトルがとても重かった。親が与える影響の大きさと、傷を抱えた子どもたちといかに接していくか、施設はどうあるべきなのかということを考えていかねばならないことを痛感させられた。
私は、子どもの権利条約をもととする活動に参加していて、時には精神的に不安定な状況にある子どもたちとふれあう機会もあります。そのとき、確かに行動の一部に違和感を感じることがありますが、そのような子どもたちでも、感情の表現は初対面の私にでも喜んでいるのか、怖いのか、そのくらいの大きな分類では読み取ることができます。
なぜ、養護施設ではそれを読み取ろうとせず、子どもたちは上手く表現ができないのだ。と言葉で表現ができないからといって決めつけてしまうような職員を配置しているのでしょうか。もっと採用するときに面接などを通して適切な人材を探すべきだと思う。
親からの暴力などが原因で施設に入った人の中にも、親元を離れたがらない子がいると聞いたことがあります。いくら暴力を受けていても、親の愛情を子供は欲しているのだと思います。そのような中で、施設に入った子供の感情は様々で、どのように接するのがベストなのか分かりません。しかし、施設に入り、親の暴力を受けなくなったからといって、子供たちが幸せを感じることができるとは言えません。施設内での他者からの言動や一律参加の行事など、ときに子供たちの心を傷つけ閉ざしてしまうこともあります。子供たちは施設で生きているのではなく、社会で生きており、施設内以外の人との交流も重要であると思います。子供たちに交流の場を与え、よい方向へ気持ちの変化をもたらすことが必要になってきているのだと感じます。
自分は人間の人格が形成されるのはやはり、幼児期における親や身近な人とどう接するかで決まるのではないかと考えます。大人になってからでも性格は変えることができますが、根本的なところはやはり幼児期の過ごし方で形成されるのではないでしょうか。このブログで施設職員の方が、「あの子は意見を言う力はない」と言っていますが、これは上からの目線で断言しています。施設職員の方々は様々な問題を抱えた子供達と接し、問題の解決など多くの苦労があると思います。しかし、多忙を理由に子供と同じ目線で考えるのをやめているのではないかとこのコメントから感じました。上記でも言いましたが、人間の人格が形成されるのは、幼児期における親や身近な人とどう接するかで決まると考えています。幼児期では自分の目線で考えるのではなく、子供と同じ目線で考え、子供を理解しようすることで人格の形成をよい方向へと促す手伝いができるのではないでしょうか。
先日、児童養護施設を訪れて子ども達と接する機会があった。ここに書かれているように、人との付き合いが上手ではなく、うまく相手に思っていることを伝えることが出来ない子がいることは確かだった。
しかし、話すことだけが伝える手段ではないし、接していくなかでどんなことが言いたいのか、分かってもらいたいのかを感じることが出来るのも事実である。
人によって複雑な環境や背景をもっているから、接し方は注意しなくてはいけないという人もいるけれど、ひとりとして同じ環境、背景をもった人はいないわけであり、施設の子だからといった概念を払拭して、一人の人間と向き合うという考えを持った人でなければ、この問題と向き合っていくことが出来ないと思う。
誰にでも生きる権利や意志を尊重される権利はある。現在の施設で生活している子どもの意志が尊重されているのかと考えると、施設の生活に合わせて生活していてそれぞれの子どもの意志が尊重されていないように感じた。。子どもの意志を尊重するためには言葉として子どもが意志表示していなくても、行動や表情から子どもの考えに気づくことができるということが大切である。そして、一人ひとりの子どもの意見を大勢の人に知ってもらい、それぞれの状況に合わせた生活が出来るように多くの人が考えていく必要があると考える。
私がこの記事の中で特に共感のは、以下の内容である。
現在、このような施設で働く人達の意識が欠けていることは、子どもたちは口に出さなくても(あるいは出せなくても)意見をもっていて、それをくみ取ることが大人の仕事であり、またくみ取られることが子どもの権利であるということだ。また、施設内で起きたことを施設内だけの問題として扱うのは適切でない。もっと社会に対して発信し、社会の問題として扱い、第三者の意見を上で、施設の運営上の改善点を見つけていくべきだ。
共感した理由は、私は施設での生活を経験したことがないが、普通の家庭で育った私でさえ、子どもの時は大人に決めつけられているという思いを抱いた経験があり、様々な事情を抱えて施設に入ることになった子ども達にとって、そのことに対するストレスは、私自身が味わったものをはるかに上回ると考えたからだ。
また、施設でのことに関わった当事者だけで問題を解決していくのは、主観的な目でしか問題を捉えられず、重要なことを見落とす可能性があるため間違っていると考えられる。これはどのような状況でも言えることだが、この場合、当事者だけで問題を処理しようとした為に、最も重要な子ども達の意見がないざしろにされるという事態になってしまった。
福祉の制度をより豊かにしていくためにも、運営者が経験にものを言わせるのではなく、第三者や制度により支援を受ける側の声に耳を傾けていく必要がある。
この本のタイトルをみて、自分は児童養護施設のことを全然知らないなと思いました。子供にとって施設は本当に心休まる場所であり、安心して暮らせる場所だと思っていたので、とても残念です。子供たちだって一人の人間だし、考え方や感じ方も一人一人違います。ベテランの職員こそ、それを認識しなおす必要があると思います。施設に来た子が笑顔になるためにはたくさん話してその子の気持ちを知る必要があると思います。職員がそのことをあきらめたら誰が子供たちの気持ちをきくのでしょうか。施設にいる子供たちが安心して暮らせる施設を作るために、職員を教育していく必要があると思います。
何らかの事情があって施設に入る子どもはそれぞれ事情がある訳ですから、子どもたち一人一人に対する理解が必要なのではないかと私は考えます。この記事を読んで、こんなに子どもと関わる仕事に対して意識の低い施設職員が居るのかと驚きました。規則に則って同じことを全員にしていく、という点は、対人間というよりも物を扱うようだと感じました。やはりこうした現状を改善していくには施設職員一人一人がその子どもに対する理解を深め、どう接していくべきなのかを考えなければならないのではないでしょうか。
子ども期というのは、家族(親)という安全地帯となる共同体を基盤とした生活、他者とのコミュニケーションや外との環境適応がなされていると考えます。家庭事情などでそのような環境が与えられない状況では、その代わりとなる環境として、児童養護施設のような場所が子どもの安全地帯になることが望ましいと思います。これは現在の施設の様態からして完全な理想論であるかもしれませんが、子どもたちひとりひとりの成長に大きな影響を与える時期の環境であるからこそ、もっと児童養護施設のあり方を考え直すべきだと思います。施設は他人同士が集まるところであるから家族のような関わりは不可能であっても、少なくとも職員の方々がそれぞれの子どもの気持ちを汲み取ろうとする余裕が持てるような環境を築く働きかけが必要だと思いました。
大人はいつでも、自分の年齢を過信しすぎているのかもしれないと感じた。自分の経験にとらわれて、本当に見なければならないことを、見逃しているということだ。
「相手の気持ちになって」とか、模範解答のようなことを言いつつ、相手の気持ちを知るには、相手に聞くのが一番だということを忘れている。「あなたのことを思って」なんて、やっぱり相手を見下しているとしか思えない。
相手の考えをいかに聞くか。人間同士が関わるには、それが一番大切なのではないかと考えさせられた。
児童擁護施設や児童相談所などの児童における福祉施設の職員は、子どもたちの実態を正しく理解していて、子どもたちに適正な態度で接している職員ばかりだと思い込んでしまいがちですが、この記事を読んでそういうところばかりではないのだと改めて実感しました。
以前に介護実習で行かせていただいた知的障害者更生施設というところでも感じたのですが、職員が利用者の方々に対して暖かい接し方をしていないところがあり、自分の思い描いていたものとのギャップを感じてしまいました。
そこでの障害を持つ方々は言葉を上手く操れません。だからこそ、健常者よりもより敏感に人の表情や態度からマイナス要素を感じ取っているのだと思います。
木附さんや先生もおっしゃるように、様々な問題や困難を抱える子どもたちと同様に障害を持つ方々も、言葉では表現しなくとも様々な意思や欲求を持っているのだと思います。
一学生が生意気なことを言うようですが、職員の方々もそれぞれの事情があるだと思います。しかしそれでも自分だけができる仕事だと自覚し、彼らが外に助けを求める心の声に耳を傾け、彼らが救われるよう根気よく親身に接していく必要があるのだと考えます。
障害者の施設や児童養護施設だけでなく、一般の公立学校でもきちんと子どもの意見を汲み取っているのかどうか疑問です。もちろんしっかりと子どもの意見を尊重している先生方もたくさんいると思います。
ノンディレクティブ・カウンセリングという用語を初めて耳にしましたが、とても良いものだと思いました。ただ自分の話を聞いて欲しいと思っている子どもたちはたくさんいると思います。
私は以前、虐待された子供たちが暮らす施設でボランティアを行ったことがあります。その時に感じたことは、自分の意思を言語で表明してくれる子供たちが少ないということでした。そこの職員さんには人とのかかわり方がよく分からない子たちだから、仲良くなりすぎないようにと注意されたのも驚きでした。私は教育を専門的に勉強しているわけではないのでそういうものかと思いましたが、子供たちが人と上手く関われないと決めつけて接するのはいかがなものかと、この記事を読んで思いました。
今は施設が不足していて職員が不足しているという話をよく耳にしますが、私のような素人同然の人も施設に行って子供たちと関わっていくことが大事だと思いました。
私はこのブログを読み、子どもの権利条約というものを改めて調べてみました。さまざまな状況を経て、児童養護施設に来た子どもたちは、傷つき悩んでいると思います。そんな中、施設の人からは規則を守ることやイベントに参加することを強要され、それが子どものケアにつながることは思えません。子どもたちはみんな自分の意見を持ち考えていることを理解して、その考えをみんなで共有していくことが一つの子どもの権利条約を守っていくことにつながると思いました。
子どもから見た施設というのは、幸せな場所なのだろうと思っていた。しかし、保護された子供たちの経緯や、親との関係などのたくさんの要因が重なって子どもたちにとって幸せな場所と決まっているわけではないのだと知った。虐待された子どもであっても、母親が好き、父親が好きだという子どもいることをきちんと考えるべきなのだ。子どもを親から引き離す、これだけが虐待されている子供たちの保護の仕方ではない、親のもとに子どもを戻す方法、どうすれば親としての自覚が芽生えるのかまで、保護する側は考えまた、行動していかなければいけないのだと考えさせられた。
子供達の権利を守るべきである施設の管理者たちが子供達の権利を奪っていることはノンセンスだ。「あの子は何も考えていない」といえる職員の気持ちがわからない。彼らだっておいしいごはんを食べれば笑顔になるし、いやなことがあれば怒る。何も考えていなければそんな感情表現もないだろう。障害性を利用して自分達に都合がいいように規則などを曲げていく姿勢は言語道断だ。「知的障害や認知症の人たちの意見表明をぎりぎりまで汲み尽くす以前に、家族や支援者の意見が優位性をもって正当化されていることはないのでしょうか」という意見には大いに賛成である。社会サービスという言葉のようにServiceなのであるから、障害を持っていようがいまいが、利用者にとって居心地のいい空間を提供するように最大限職員達は知恵を絞って努めるべきである。
意見とは関係ないですがNothing のh が抜けています。(後ろから3行目)
一部のこどもにとってみれば大人の優しさはお節介なものであったり、少し面倒だと思ったりする。もちろんその優しさを余すことなく受け止めるこどももいる。要はこどもだって自我がありそれぞれが主体となって考えることができるので、一律にこどもを扱う養護施設においてすべてのこどもが満足した生活ができるとは思えない。適切なケアは、こどもたちの話を聞くことから始まるのだと思う。対等な人間として、ゆっくりと多彩な話を聞いてあげること、それだけでも少しはわかりあえるのではないだろうか。
児童養護施設に暮らしている子供の気持ちを一様に決めつけてしまっているという事実はとても残念なことである。真に子供の権利を擁護する施設であるならば、子供の気持ちをできるだけ汲み取ってあげるように努力すべきだ。
虐待を受けた子供、障がい者、高齢者などとひとくくりにして彼らの意見を決めつけるのではなく、一人ひとりの個性を尊重して柔軟に対応していってもらいたい。
施設に入る子供には誰も、大切な人をなくす、親から虐待をうける、親に捨てられるなどさまざまな辛い体験を大人でも耐えることができない悲しみを背負っていると思います。その子たちを世話し立ち直らせ、立派な大人に成長させる、このことはとても大変なことと思います。文章では職員が否定的な立場でしたが彼らは不幸な子供たちを助けたいと思う気持ちを持っているからその職業に就いたのだと信じています。つまり責任は私たちにあり、まずよく今の現状を理解し、みんなでいろいろな方法で支えあうべきであると思いました。
施設に入る子供には誰も、大切な人をなくす、親から虐待をうける、親に捨てられるなどさまざまな辛い体験を大人でも耐えることができない悲しみを背負っていると思います。その子たちを世話し立ち直らせ、立派な大人に成長させる、このことはとても大変なことと思います。文章では職員が否定的な立場でしたが彼らは不幸な子供たちを助けたいと思う気持ちを持っているからその職業に就いたのだと信じています。つまり責任は私たちにあり、まずよく今の現状を理解し、みんなでいろいろな方法で支えあうべきであると思いました。
私は介護等体験で児童養護施設に行ってきました。そこでは、子どもたちが笑顔で生活していました。実際に児童養護施設の職員の方々も、子どもたちの声を聞くということが大切だと話していました。施設に入ることになった子どもたちは、一人ひとり理由が違っています。子どもたちは、私たちが考えていること以上のことを感じて、そして考えていると思います。自分たちが子供たちの気持ちについて決めつけ、話を聞かないということはしてはならないことだと、私は思います。そのようなことがないように、地域や行政をあげて、講話など改善に取り組んでいくべきではないかと思いました。また、これは教育現場にも言えることで、生徒一人ひとりのことばを聞ける教師を増やしていくべきだなと考えました。
子どもを虐待する親を本当に責めたくなる。自分の子どもを愛しむことが当たり前だと思うけれども、子どもに叱ったり、暴力をふるったりすることで幼い心に傷が残る。虐待を受けた子どもたちが親元から離れて児童養護施設に預かる。一度親に虐待されたことがある子どもたちは、その後親元に戻ることができるのかを考えている。
子どもは子どもである前にまず、人としての権利を持っている。大人の持つ権利と子どもの持つ人としての権利は同じである。しかし、大人と子どもの権利にはどこか差があるように感じる。子どもを育ててる人の中にはどこかで育ててやってるという気持ちがあるからだろう。子どもの意思を尊重するためにも、こういう考え方を教育で取り除かなくてはいけないのかと思う。
児童養護施設に入所している子どもたちには様々な経緯や理由がある中で、ある共通の否定的な意見が施設に対して存在することが明らかになったことは、とても有意義なことだと思います。しかしここで終わってしまうのではなく、この意見を反映させてどのように改善していくか、ということに着手してなければならないと思いました。児童養護施設は、この子はこういう子と判断して対応するのではなく、小さなサインを見逃さないように細心の注意を払い、職員と子どもとが信頼関係で結ばれるような場であるべきだと考えました。
詳しくは書いてないにしても、この記事を読むまで児童養護施設の実態をあまり知らなかったことを恥ずかしく思ったのと、木附千晶さんの話には賛同というかそうであるべきだと思った。施設の人が関係ないにしてもきちんと意見表明できないのは我々大人の責任であって、その現状からどうしていくかが肝心であり、子供たちの闇を取り除くのがその施設の職員の責任だと思う。記事にあったように、子供たちの現状を社会全体に明らかにして解決していくべきである。
児童養護施設に通っている子ども達は、何かしらの心の傷を負っていると思う。その傷は大小で比べられるものではないし、ベクトルも違う。そうした子どもたちに一番近い職員がなぜ、子どもたちに寄り添うことができないのかいささか疑問に思った。
児童養護施設に入る子どもたちには様々な経緯や理由があるものの、どうしても社会的な目で「かわいそう」や「残念な子」という印象になってしまう。しかし児童養護施設ではないが、介護実習で特別支援学校に行った際に子どもたちはすごく素直だし、行動・態度で様々な心のうちを明かしてくれたと思う。実際に体験しなければわからないことではあるが、第三者の目でなく見方を変えてあげることが必要だと思った。そしてなにより職員の方が子どもの行動を拾ってあげ、信頼関係を築くことが必要と思います。
この児童養護施設に関する問題にしてもそうなのですが、社会には不透明な事柄が多すぎるように感じます。一部の責任者や代表者の表層的な発言だけをくみ上げそれが全体的な印象に繋がっているのは非常に遺憾なことです。福祉に関する正確な問題提起をするためにもより様々な立場の人の意見を聴くことのできる場が必要だと思います。
はじめましてこんにちは。北九州市立大学で特別講義を受けさせていただいた者です。
児童養護施設に入っている子どもたちは、虐待や育児放棄など何らかの心の傷を負っている子が多いのではないかと思います。それを子どもたちと一番身近な職員方たちが支えなければ、誰が子どもたちの傷を癒してあげられるのでしょうか。記事内にあった、「あの子にはなにかを話すとか、自分の意見を言う力はないんです』という言葉を施設の職員の方が言ったということにとても衝撃を受けました。大人たちの一方的な決めつけだけで子どもを判断すべきではないと思いました。なかなか自分の気持ちを表に出すことができない子でも、耳を傾け、考えを聞くことが大事なのではと考えます。言葉にはできなくても、その子たちの表情や行動などで少しでも考えを理解する努力を、支援する側がしなければならないのではないかと感じました。子どもたちの権利条約を「画に描いた餅」にしないためにも、きちんと問題について話し合い、解決に向けて早急に対策をするべきだと思いました。
この記事を読んで、いろいろなことを改めて考えさせられました、ありがとうございました。
児童養護施設とはご両親が亡くなったり、暴力を受けたりしてやむを得ない事情を抱えている子供たちを受け入れる機関であるはずですが、私の予想とは少し現状が異なって、しっかりとこどもの意見に耳を傾けきれていなく、不満を抱えている子どもも多いことに驚きました。
時代は刻々と変わり、虐待の様態や、それによる子どもたちの精神的ストレスの感じ方も変化しているはずです。昔ながらの施設の習慣や規則を押しつけず、もっと彼らの望みを聞き入れるべきではないかと思いました。
もちろんそのように取り組んでいる施設の方もいると思います。以前先生が講義の中でボランティア大学生が施設を訪問し逆に彼らを傷つけてしまうことがあるとおっしゃっていましたが、彼らを心の底から理解している人、つまり同じような経験を体験した人でなければ打ち解けれないのではないかと思ってしまいました。よかれよかれと自分が思う「この子たちのため」という一方的な思い込みが不適切なケアを産出しまうのもとても怖いです。
彼らが安心して過ごせる施設にするには一方的な考えや決めつけではなく、彼らの意見に耳を傾ける場作りを進めなければならないと思いました。
宗澤氏の講義において、大学のボランティアサークル活動の一環として児童養護施設に向かう方の存在に触れられていたのだが、私自身も遊びボランティアとして月に1度児童養護施設で活動している。施設に入所している子ども達と比較的年が近いお兄さん・お姉さんだからこそ可能な関わり方に意義を感じ、また施設長の方とも電話・メール等の連絡方法を使って確認することで施設の方のニーズにも対応出来ているという安心感を得ていたのだが、ある意味での、「子ども達」の視点から見るということを怠っていたのかもしれないと反省している。
今考えてみれば、「またこんどもくるよね?」という何気なく受け取っていた言葉の奥には、「もっと自分のことを見てほしい、聞いてほしい」という思い、寂しさ、怒りなどがこもっていたのではないかと感じられてならない。
もちろん児童養護施設という大きな枠組みの中での問題は子ども達の心の問題、施設スタッフと入所者間での思惑の違いなど多数挙がると思うが、一遊びボランティアという立場からこうしたいと思うのは、限られた触れ合える時間の中で、多面的存在である子どもの姿一つ一つをまるまる受け止め、その上で、他ならぬ相手(子ども)自身をしっかりと見ているという安心感を与えられる関わり方をしていきたいということである。
自分は今まで養護施設に入ればどんな事情にしろ子供たちは救われていくのだろうとばかり思っていました。しかし、今回のこのブログを読んで自分や世間の安直な考えが施設での問題が表に出てこない原因の一つになっていると感じました。
また、施設の職員も少ない人数の中で、多くの子供と接するという状況の中で、少なからず施設での仕事を効率的に行ってしまうのではないかと思いました。その結果が施設の中の子供たちの声に表れていると思いましたし、声というよりむしろ自分には叫びにすら感じました。
この状況を解決する手立ては自分なんかには思いつきませんが、養護施設に対する自分の今までの考えを捨て、新しい考えを持ちたいと思います。
子供と話をするときには気を使わなければいけないと思いました。人には様々な境遇があるので、自分では何気ない話かもしれないけど、その人にとってはものすごく嫌なことを言われている、ということがあるかもしれないからです。そのように考えると、児童と接するときには一つ一つの言動に注意しなければいけないと感じました。私自身、将来は教員を志望しているので児童・生徒に対する言動には気を付けようと思いました。
今の社会には様々な境遇を持つ児童・生徒がいるので、彼らに対する言動、行動には配慮が必要だと思います。この記事を読んですごく考えさせられました。
DVや虐待の被害を受ける児童が増えている中で、児童養護施設としての役割は今後増えていくと考えられる。その中で、子供たちによりよい対応を求められる施設職員の労働環境の見直しが必要であると伺った事がある。
心身ともに追い詰められ疲弊して辞
めていく職員をこれ以上増やすことは、この国の将来に多大な損害を及ぼすことになってしまう。施設職員の労働環境の改善は、何よりも児童の健全な育成に関わってくる。
職員が健康で文
化的な生活を実現できる労働環境にいてはじめて、児童への深い愛情を持って接する精
神的な余裕が生まれるのでないかと、考えられる。
私は今活発な性格なのだが、幼少時代はとても人見知りだった。幼いころは自分の意見を大人に言うことがなぜかできなかったことを今でも覚えている。虐待をうけた受けた子供はそれ以上に大人に不信感をもっている持っているはずだから、自分の意見を言うことは困難だ。その事を周りの大人は理解すべきである。
施設に入っている子どもだから自分の意見を言えない、という偏見を持たずに接することが大切なのではないかと思いました。なんでも話せる関係をつくるということ自体、本当の親子でもとても多くの時間と努力を要することだと思います。難しいことだとは思いますが、1人1人の子どもと深い関係をつくるためにも施設で働く人の人数を増やすということが1つの改善策となるのではないかと考えました。大人に余裕がなければ子供も話しかけづらいと思います。
正直に言って、私は今までこのような児童養護施設の様子というのはメディアから受ける情報しかなく、その中でも綺麗な面しか印象にありませんでした。児童養護施設等に入ることのできた子供は無条件でそれまで置かれていた環境より幸せになれているものだと思っていました。今までこのような施設に入って、幸せではなかった、というような話をあまり聞いたことがありませんでした。私たちがよく目にする情報は、児童養護施設は環境もそれまでよりは良く、周りにも自分を理解してくれるような大人ががいて、様々な事情で心に傷を負った子供も、その傷をいやすことのできる場所だということでした。しかし、ここにもあるように実際は傷を拭うことのできない子供がいたり、さらに大人への不信感を深めてしまう子供もいるなど、児童養護施設の環境にもまだまだ改善すべき点はたくさんあるのだと感じました。今後は、このような施設についても、良い面だけを伝えるのではなく、今抱えている問題など改善していくべき点ももっと表に出して伝えていくべきなのではないのかと感じました。
このブログを読んで、児童養護施設の子供たちが支援者の偏見や先入観でその子供たちの意見や意志が壊されてしまっているということを知って、このままの子供たちへの対応ではさらに子供たちの未来を暗くしてまうのではないか、と思いました。このような現状を打開するには、支援者の固定観念を改善しなければならないと思います。
また、私は子供たち自身で語り合うノンディレクティヴ・カウンセリングについて初めてこのブログを読んで知りました。同じような状況にある仲間と語り合うということで、子供たちも互いに話しやすい環境になり、子供たちの心の傷を癒すことができると感じました。このノンディレクティヴ・カウンセリングから生まれる子供たちの真の声を聴く努力を支援者はしていく必要があるようと思います。
児童養護施設には虐待などで保護された子どももおり、そのような子たちにとっては施設に保護されることは幸せなのだろうと思っていたが、そういった安易な考えが施設がなかなか改善されないことに繋がるのではないかと改めて思った。また、講義の中で「ボランティアなどで施設にくる大学生に関して、施設の子どもたちはどう思っているか」という話を受け、子どもたちが幼いながらに様々なことを考えていると知った。今までボランティアに行けばみんな助かるだろう、とか楽しいだろう、という気持ちを持っていたが、やはり彼らの気持ちすべてを一律と考えるのはおかしいことだし、一人一人に向き合っていかなければならないと思った。
私は普通の家庭に産まれそして両親や祖父祖母など、たくさんの大人たちに愛されて今まで生きてきました。これまではこれは当たり前のことであると思っていたけれどもそれがどれほどありがたいことであるか最近になって見に染みて感じました。テレビやドラマで見る施設が全てではないこと、世間のひとはどのくらい分かっているのでしょうか。子どもは大人に比べたら権力は劣ります。しかし子どもの権利条約にもあるように権利は同等に有しているのです。1人でも多くの子どもの権利を主張してそして実現させていくのが大人の責任なのではないでしょうか。私自身もだんだんと大人に近づいていますが、私はきちんと子どもに対して責任を持てる大人になりたいと思いました。
とても考えさせられる記事だと思いました。施設に預けられた子供たちはきっと皆何かしらの辛い経験をしているのだと思います。その心の傷をどのようにケアしていったらよいのか、とても大きな問題で正直僕にはどうしたら正解なのかがわからないです。一人一人としっかり向き合う、言葉で言うのは簡単なことだけど実行するのはとても難しいことだと思います。
専門的な知識なども必要だと思いますが、それと同時にきちんと思いやりをもって人と接することができる人が施設の職員をやるべきだと思いました。この記事を読んでみると、現状の施設の職員にはあまり子供に対する興味がないのかな、と思ってしまいます。
この記事を読んで自分は普通の家庭で育って普通に今生活しているということがとても幸運なことなのだということを改めて考えさせられました。
複数の子供たちに共通する意見として、子供たちの意見を聞こうとせず、今までの規則・習慣を押し付けてしまう支援者への批判があげられていると知り、とても不安な気持ちになった。施設に入ってきているという時点で普通の子供とは違う家庭環境で育ち、精神的なストレスが大きいのだから、今までの規則・習慣にとらわれない個人個人に対する柔軟な対応が必要だと思う。また、虐待などを受けた子どもにとっては最後の砦となる施設なのに、経験の浅い職員が大半を占めていることも疑問だ。専門の知識を得た経験の豊富な職員が、このような施設を運営するような制度にするべきだと思う。
私はこのブログを拝見して、初めて子供たちの養護施設に対する意見、主張を知り、確かに意見は多種多様であるが、それでも施設長や職員に対して不満、批判の声があがるのは問題があると思う。本来養護施設は人間不信、そのほか様々な難しい問題を抱えた子供たちに対して同じ目線で接し、養護する場ではないのだろうか。施設の規則などを押し付けたりする状況はただ、大人たち、力のある者が弱い者にたいして力で支配する状況、つまりおそらく施設で暮らす子供たちが以前強いられてた状況と何ら変わりがないのではないかと思う。もっと子供たちの意見をよく聞き、理解し、行動にうつす必要があるのではないのだろうか。
私はこのブログを拝見して、初めて子供たちの養護施設に対する意見、主張を知り、確かに意見は多種多様であるが、それでも施設長や職員に対して不満、批判の声があがるのは問題であると思う。本来養護施設は人間不信、そのほか様々な難しい問題を抱えた子供たちに対して同じ目線で接し、養護する場ではないのだろうか。施設の規則などを押し付けたりする状況はただ、大人たち、力のある者が弱い者にたいして力で支配する状況、つまりおそらく施設で暮らす子供たちが以前強いられてた状況と何ら変わりがないのではないかと思う。もっと子供たちの意見をよく聞き、理解し、行動にうつす必要があるのではないのだろうか。
施設に通う子供には、親に捨てられた子供、虐待を受け、保護された子供など、様々な問題を抱えた子供がいます。このブログにあるように施設の子供たちは、施設の習慣や規則を押し付けるだけで子供の意見を汲み取ろうとしない、と発言しています。職員がこの子はこんな子だと決めつけ、ちゃんと向き合おうとしない。職人芸的な仕事で解決できる問題ではないはずなのに表向きには問題がないようにふるまう。この事実は放っておけない社会問題です。
様々な問題を抱えている子供たちだからこそより真摯に向き合わなければならない。私は早急に施設の改善が必要だと考えます。
施設に通う子供には、親に捨てられた子供、虐待を受け、保護された子供など、様々な問題を抱えた子供がいます。このブログにあるように施設の子供たちは、施設の習慣や規則を押し付けるだけで子供の意見を汲み取ろうとしない、と発言しています。職員がこの子はこんな子だと決めつけ、ちゃんと向き合おうとしない。職人芸的な仕事で解決できる問題ではないはずなのに表向きには問題がないようにふるまう。この事実は放っておけない社会問題です。
様々な問題を抱えている子供たちだからこそより真摯に向き合わなければならない。私は早急に施設の改善が必要だと考えます。
私は今ボランティアとしてこのような施設で過ごしている子供に接する機会があるが、表面上ではみんな純粋で明るい子供たちです。しかしブログを拝見させていただいて、改めて育児放棄や虐待、生き別れなど様々な問題を抱え心に傷を負いながらもそれをあからさまに見せることなく施設で私たちと何ら変わらない生活をしているにすぎないことに気づかされました。
施設職員だけでなく子供と関わる我々、そしてこのような子供や職員、施設を支えていくべきである社会にも責任はあると思います。どう接することで心のケアができるのか、子供のことをどれほど理解し向き合うことができるのか、この問題に何が正解であるかはっきりと言えないほど考えさせられる課題において社会全体がもっと真剣に行動にうつすべきであると感じました。
生まれたときから両親と暮らし育てられてきたという生活が当たり前である者たちにとって、親の育児放棄や暴力をはじめとする様々な理由から児童養護施設等で暮らしている子どもたちについて、見聞きする機会はほとんどない。その存在について考えたことがなかったと言ってしまえばそれまでだが、私自身も詳しく“知ろう”としたことがなかったなと、この記事を読んで改めて気付かされました。私たちとなんら変わりのない子どもたちであるにも関わらず、知らないというだけで根拠のない偏見や差別の目で見てしまうことは、そういった環境で暮らしている人々にとって、大いに理不尽な話であると思います。
そのような施設に対する“拒否反応”とも呼べるほどの世にはびこる偏見は、テレビドラマや映画などのメディアが大きく関係していると考えられる。児童養護施設を舞台としたドラマが今現在も放送されているように、私たちの目には少なからずの誇張や演出が加えられた情報が伝えられることが多い。だからこそこの記事で紹介されている著書をはじめとした、当人たちの本当の声を取り上げたメディアを、世の中に広げていくべきだと思いました。私たちが普段目を向ける機会の少ない現代の社会問題に対して、その存在を知らしめ考えるきっかけを与えるという意味では、ドラマや映画のようなメディアが必要であると思う。そしてそれ以上に認知されるべきなのは、そこに取り上げられた者たちの真の主張なのではないだろうか。そういった声を聞かずして、私たちが単なる想像やイメージであれこれ言える権利は一切ないのである。自分たちの身近な生活圏だけに価値観を絞ってしまうことがなく、広い視野で正しい情報をもとに社会を見つめることこそが、今を生きる人々には求められているように感じられた。
記事を読んで、施設の中の子供たちのリアルにほんの少し触れることができた気がしました。施設内の支援者が子供をこういうものだからと決めつけてしまうのは非常に無責任であると感じました。現在、ドラマ「明日ママがいない」が放送されています。多少オーバーな点や残酷な言動が含まれてはいますが、子供から見た世界は案外あんなものなのかもしれないとかすかに心を通り抜けることがあります。温かな家庭に生まれ育った僕にはおそらく一生理解できないことがたくさんあるのだと思います。施設に入ってくる子供たちには両親の虐待の影響で、出会うすべての人々の顔色をうかがうようになってしまったり、NOという発言ができなくなってしまっていたりする子供もいるでしょう。子供の心の声をすべて聞き取るなんてそんなことは不可能かもしれませんが、子供を一人の人間として接し、心を開かせることができるような人を支援者に望みます。真剣に子供と向き合うということの意味をはき違えるという悲劇をこの社会からなくさなければならないと思います。
※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。