あれから25年
「厚生労働省は、新たに精神障害者の採用を企業に義務づける方針を固めた」(2012年6月14日付朝日新聞朝刊)との報道に接しました。これに伴い、民間企業の雇用率を1.8%から2.0%引き上げることを含め、「今秋から労働政策審議会で議論し、来年にも障害者雇用促進法の改正案を通常国会に提出する」とあります。
今から25年前の1987年のこと。「国連・障害者の10年」の中間年にあたるこの年は、精神衛生法の精神保健法への改正と並んで、身体障害者雇用促進法(現、障害者の雇用の促進等に関する法律)における雇用義務範囲の拡大が制度改善に向けた大きな論点になっていました。
私の記憶に間違いがなければ、この年は労働政策審議会が障害者雇用の推進に当たって「保護雇用制度はわが国にはなじまない」と結論づけたときであり、保護雇用がなじまないというならば雇用促進法における雇用義務を特定の障害種別に限定するのは不合理だとする声が大きくなっていました。
1981年の国際障害者年を契機に、障害種別を横断する日本障害者協議会が設立されました。この団体の主催する雇用促進法の改正をめぐる議論が、1987年に東京新宿の戸山サンライズで開催され、私はそれを傍聴に行きました。
当日の発言は、身体障害者団体からはじまり、知的障害者の団体、精神障害者の団体と続きました。
冒頭の身体障害者団体の発言要旨は次のようなものだったと記憶しています。
「身体障害者雇用促進法は、身体障害だけを雇用義務としてもなお雇用率が守られてはいない。このような現状の下で、知的障害や精神障害を含めることは、身体障害者の雇用義務を企業に免責することであり、時期尚早である」と。
次いで知的障害者の団体は大略このように発言しました。
「国際障害者年を機に、障害別の制度格差を放置することは時代錯誤であり、早急に知的障害者を義務雇用に加えるべきである。とりわけ、知的障害者は、高度経済成長以来、町工場などで就労してきた実態もあるため、雇用義務の範囲から排除するいかなる合理性もない。しかし、精神障害者を雇用義務に含めるのは時期尚早である」と。
そして最後に、精神障害者の団体は、「あらゆる障害別の制度格差を撤廃し、雇用義務の範囲に精神障害者を加えるべきだ」と発言したのです。
わが国における障害者施策の歴史的な問題を眼前にするような気分に襲われました。傷痍軍人や国鉄労災障害者等の「お国のために受障した」人への救済から出発した障害者施策の歴史は、「官」が障害種別の団体を分断支配しながら、障害種別の法制度化と格差をもたらしてきたという歴史教科書的事実を、過去の遺物としてではなく、現実に垣間見たように思えました。
あれから25年が経ち、ようやく障害種別による格差が一つなくなりました。それでも、私にとっては、「今さら」の感が大きいですね。
冒頭に紹介した新聞報道では、ハローワークを通じて仕事を探す精神障害者は「2011年度は約4万8千人。この数字で単純計算すると雇用率は少なくとも2.2%になる」というのですから、精神障害者を雇用義務の範囲に加えて「雇用率を2.0%」に引き上げるというのは、雇用促進法の改正というよりも、現状に辻褄をあわせる以上にさほど意味がないようにも思えます。つまり、精神障害のある人が障害別の格差から制度上は一歩抜け出す前進はありますが、現実には、精神障害者自身にとってのメリットよりも、企業のカウントするメリットが法制度上明確になる点に終始することが懸念されるのです。
国や自治体の仕事は法的根拠にもとづいて営まれるものですから、障害者にかかわる法制度が障害別であれば、その運用も障害別とならざるを得ません。そこで、障害別格差という歴史的な問題の克服には、障害別の行政に振り回されない市民の取り組みが必要不可欠となります。その中心に据わるのは障害のある人であることはいうまでもありません。
障害者基本法における障害規定が包括的なものとなり、さいたま市をはじめとして自治体の条例でも障害別の発想は徐々に乗り越えられつつあります。実際のサービス提供に際しては、それぞれの障害特性を十分に考慮することは必要不可欠ですが、法制度上の枠組ではすべての障害のある人に資する普遍性を担保しなければ、どこかで誰かが割を食うだけです。さいたま市障害者の権利の擁護等に関する条例にもとづく「市民会議」は、障害別の分断・格差という障害者施策にまとわりついてきた歴史的問題点を克服する視点を明確に掲げる必要があると考えます。
かつては、利益誘導型政治に障害別の団体がつるむことによって「施策の前進」を果たすかに思えた時代もあったでしょう。でも、それはもはやアナクロです。障害者の団体が政治に振り回されて終わるのがせいぜいでしょう。縦割り行政や制度上の障害別格差の克服は、市民社会サイドが障害横断的で組織的な取り組みを充実し、障害のあるなしにかかわらない共通の利益を具体的に明示することから拓かれるものと考えます。
コメント
障害者が社会に出るために法の力がなくては果たせないということは大変残念だと思う。確かに会社側からすれば健康体の方が欲しいのは当然だが、やはり法の制約がなくても平等に採用出来るような社会にできたら良いと思う。
条例ができたとしても、障害者の方々に対しての民間企業の門戸はまだまだ狭いように思います。また、たとえ雇用されたとしても彼らに対しての待遇について決して良いとはいえないのが現状です。今一度、条例の力に頼らない「障害者とともに生きる」社会の在り方を私たちが考えていかなければならないような気がします。
障害者雇用促進法によって、企業に障害者雇用義務が課されたが、実際にはこれを達成できるのは大企業のみで、中小企業には経営に余裕がないため障害者を採用するのが難しく、雇用率が低いという話を聞いたことがある。そんな状況で民間企業の障害者雇用率を引き上げたとしても、それは一時的な政策に過ぎず、現状はさほど変わらない。社会全体で障害者を支援し、彼らの権利を守っていくよう、もっと対策を考えていかなければならない。
障害者が職を手にするのが非常に難しい環境にあるのは、身体障害者雇用促進法が改正せれてもなお、いまだ変わってはいません。しかし、こういった法による力がなければ、障害者がより社会に進出しにくくなることは事実であります。障害の有無、またその障害種にかかわらず、協力し合い気持ち良く仕事ができるような社会環境が今後つくられていくことを切に願います。それにはやはり、障害者を雇う企業サイドはもちろん、一般市民である私たちも、障害者を決して差別することなく彼らを一労働者としてみなして円滑に付き合っていくことが重要だと考えます。
格差や差別と区別との境界線は非常に難しいものです。障害別格差の問題は解決しなければならないものではありますが、身体障害の人、知的障害の人、精神障害のひと、またそれぞれの障害の重さなどにより、可能なこと・不可能なことが違います。であるから、どうしたって差は生じてしまうと思うのです。だからと言って、しょうがないと投げ出すのでは状況はよくなりません。考えてみましたが、結局のところ、企業が求めるハードルを下げ、逆に、障がい者は努力する、しかないのかもしれません。
最近テレビなどで、障害者が働いている様子が報道されているが、それらの多くが障害者がまとまって一つの企業で働いているものであり、障害のない人とある人が一緒になって働いている様子をあまり見ることができない。障害者が職を手にするという意味では上述したような形態はありかとも思うが、真の平等を求めるには、やはり障害のある人とない人が一緒に働けるような社会形態を作ることが大切であると思うのと、それを実現するためには、条例や法の整備などの前に、障害がない人がある人を受け入れることが重要だと思う。
今や時代は就職氷河期です。つまり、障害者というレッテルが無くとも就職は困難な時代です。そんな時代に法改正が行われたところで果たして本当に効果があるのかどうか、というところに疑問が残ります。もし仮に障害を持つ方たちばかりが積極雇用されれば、逆に差別だと健常者たちからの批判を浴びるでしょうし。また、障害を持つ者どうしでも、障害別で認識や理解も変わってくるようなので、いかにそこを接近させ、互いに理解し協力するかを考えていく必要がありそうです。そして私たち市民が、障害別の行政から一歩引いて障害者全体を見て、理解する努力をしなければならないと思います。人は皆、健康で文化的な最低限度の生活を送る権利があるのですから、障害の有無に関わらず皆がそのような生活を送れる世の中にしなければいけないと考えます。
障害者の方が働くというのは昔と比べれば多くなってきてはいると思う。しかし、まだまだ労働環境などは整えられていないように感じる。特に、障害がない人が障害のある人に対する見方が以前から変化していないように感じる。すでに障害者と障害者でないという境界が存在すること自体が今現在の状況を作り出しているのではないだろうか。そういったことを一つ一つ改善していくとが今最も必要なことではないだろうか。
民間企業での障害者の雇用率を上げるにあたって、学校という場所は非常に重要なものであると考えています。私は今大学生なのですが、生まれてきてから今まで障害者と接する機会があったのは、小学生の時の障害児学級との交流くらいです。そして、多くの人は私と同じように障害者と接する機会があまりなかったのではないでしょうか。私はそこに問題があると考えます。学生のころに障害者と共に生活したことがあまりないのに、社会に出て突然「障害者と共に仕事をしよう」と言われても、やはりそこには難しいものがあるはずです。そして、障害者の立場からしても障害をもたない人といきなり仕事をしていくのはやはり無理があると思います。ですから、私は小さいころから障害をもつ人ともたない人がお互いの理解を深め合えるような、そういった学校制度に変えていくべきだと考えます。
私は中国からの留学生です。日本は障碍者の雇用問題に対しの改善は中国より成功したと感じます。自分のバイト先にも障碍者がいるが、周りの人々は障碍者を差別せずに一緒に働いています。障碍者を普通の人の見る意識を人々に持たせるのは障碍者の雇用問題の最も適切、有効な方法だと思います。
この事に関わらず、このような法制度の整備は、日本はとても遅いと思う。私はまだ大学生で「やっと」と思えるようにはなっていないが、それでも外国より遅れていると思うことはある。日本の立法は、もう少しフットワークが軽くした方がいいと思う。しかし、もっと大切なのは、国民一人一人の意識改革であると私は思う。身体障害者は弱者で法律によって、守らなければならない、という考えを持つこと自体、おかしいと思わなければならない。身体障害者であっても周りの環境を整えることによって、健常者と同じ、またはそれ以上、働くことができるかもしれない。そういった考えは、障害者だけでなく、高齢者にもあてはまる。法が変えるのは、制度だけでなく、人々の意識でもあって欲しい。
このような法律を作らなければ、障害者の社会進出が進まないのはとても残念でならない。仮にこの法律で障害者の雇用率が向上しても、現在の社会環境で彼らにどのような仕事を企業は与えるのだろうか。ただ雇用して法律を守っているという状況にならないか心配だ。国は法律を作るでけで終わってはならない。障害者と健常者が自然にかかわる社会の実現を目指していってもらいたい。そのためにも、学校での障害についての教育に期待したい。日本に住むすべての人が差別なく暮らせる日が来ることを願いたい。
障害種別で格差をつくるのは、よくないことだと思います。これも、ひとつの人権侵害ではないでしょうか。話は変わりますが、知的障害者であれ精神障害者であれ、外見では私たちには、わかりにくいことが難点だと思います。かといって、周囲の人にわからせるため、妊娠している人がよくぶらさげているベビーキーホルダー(勝手に呼んでます)のようなものを、つけてもらうのも人権侵害のような気がしてしまいます。
ある時、電車の中でベビーキーホルダーをつけている人が前で立っていても、席を譲っていない人を見ました。
とても、腹立たしかったしその人の人間性を疑いました。
障害者の雇用はたしかに健常者を雇うのに比べて会社にとってのメリットにはつながりにくいかもしれない。しかし障害者も人間である以上、働く権利があるし、生きる権利があると思う。即戦力を求めている現代では健常者でも就職が難しいため、障害者の就職はさらに困難を極めていると思う。法の力で雇用が義務になっているとはいえ、もし就職できたとしても会社の中での扱いはどうなっているのかわからない。まだまだ障害者に対する偏見が多いため、いつになるかわからないけど、健常者と対等に扱われる時代が早く来るといいと思う。
障害者が社会に出るということは非常に大変で、法の力が必要不可欠なのは大変残念だと思う。身体に不自由のある人を、労働的に雇うのはデメリットもあるけど、絶対メリットもあると思うし、今後もっと障害者の未来が明るいものとなってほしい。
障害者と健常者との格差だけではなく、障害者のなかでの格差である障害別格差があるという事実は、恥ずかしながら知りませんでした。障害があるというだけで様々な困難があるというのにも関わらず、障害の程度でさらに細かく差別してしまっているのは、人間として非常に悲しいことだと思います。法に頼らず様々な人が助け合って生きていきたいものですが、気づかない間に人を差別してしまっている自分や周囲の人の存在に気づくことがあります。悲しいことですが、やはり人間は法という決まりを作っていくことが必要なのかもしれないと思いました。
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