駅メロ・着メロ
都会は様々な音楽があふれかえっています。ターミナル近辺の繁華街では、店のテーマソングを街路に向けてたれ流す量販店があるかと思えば、アイドル・グループの新曲を街頭まで出てきてアピールする音楽事務所などが見受けられます。電車に乗ろうとすれば、駅ごとに発車を知らせる駅メロが流れ、行き交う人の携帯電話からは着メロが流れてきます。それらは、耳障りを通りこし、雑多な音楽の強迫から気が変になり、嫌気がさして、私は逃げ出したくなるのです。
音楽は、人それぞれに好みが分かれます。同じ楽曲や歌でも、ときどきの身の置き所や状況によって「聞きたい」か「聞きたくない」の感想が分かれるのは通常の心の運びです。しかし、都会は耳栓をして歩かない限り、他人の都合で決められた音楽を無理やり耳に押し込まれてしまいます。こんなとき、こんなところで、こんな曲なんか聞きたくない、まっぴらご免だと考えるのは、自分だけなのだろうかとつねづね不思議に思ってきました。
たとえば、あるコーヒーショップで近くの席に陣取っていたオジサンの着メロはベートーヴェンの「運命」。この人は何かとご多忙な様子で、数分おきに「ダダダ、ダーン」(第5交響曲の出だし部分、音階で表すとソソソ、ミ♭)と着メロが鳴り響くのです。しかも、結構な音量の、チープな電子音。電話の着信があるたびに「運命が足音を立ててやって来る」気分になるほどに、このオジサンは緊張感に満ちた重大な人生を送っているのかも知れませんが、新書を読んでいる私には迷惑千万です。
次に、大宮駅の発メロです。埼京線の新宿方面では「twilight」か「新たな季節」が流れ、京浜東北線の上野方面では「Vamos Ardija」(大宮アルディージャの応援歌)か「希望のまち」(さいたま市歌)が耳に侵入してきます。朝の通勤・通学時に「twilight」もどうかと首をひねるし、大宮駅利用者の中には浦和レッズのファンだっているでしょうし、宇都宮から新宿に行こうとする人が大宮駅で「さいたま市歌」を聴かされて何の意味があるのでしょうか。阪神電鉄の甲子園駅でさえ「六甲おろし」(阪神タイガースの応援歌)を流してはいませんよ。
携帯電話の着メロは、それぞれの人が曲を自由に決めて、不特定多数の人の中にいるときにはマナーモードにでもしていただければ周囲への迷惑を防止できます。しかし、駅の発メロは音楽の押し売りと言っていい。多くの人が好む曲を選定すればいいという問題ではありません。他人が勝手に決めた音楽は、私にとっては耳障りだから勘弁してほしいと、当たり前の自由権を主張しているだけです。
駅メロは、曲云々の問題をさておいても、発車時刻に合わせてメロディの「途中切り」はするは、安上がりな電子音のためか作りがチープである点など、音楽を名乗る資格があるのかどうかさえはなはだ疑問です。いうなら「音楽のユルキャラ」。このような安っぽい音楽を押し売りするのなら、国鉄時代の発車ベルのままで良かったと思うのです。ところが今や、駅の発メロを集めたサイトまで登場しているありさまを前にして、ほとんど愕然としてしまいます。鉄道マニアの「鉄メロ」ファンのサイトであれば、理解できないわけでもありませんが。
国鉄時代の末期、各駅の発車ベルは「ピロピロピロ」という電子音となり、乗降客から「耳障りだ」との苦情が相次いだことから、発メロの導入になったと言われています。とくに新宿や秋葉原のような駅では、ラッシュアワーの時間帯ともなれば方々のホームからひっきりなしに「ピロピロピロ」と鳴り響くために、確かにそれは耳障りだったことでしょう。しかし、この「ピロピロピロ」を、人によって好き嫌いの分かれる「音楽」にしたところで、「耳障り」であることに変わりはありません。
以前、私は教会のミサ・クリスマスキャロル・結婚式・お葬式等のオルガン演奏や、結婚式の披露宴でBGMのピアノ弾きをしていた経験があります。新郎新婦と会ってなれそめのお話や結婚式に関する趣向・希望を伺い、BGMの選曲と演奏の順序を決定できれば、仕事の9割は終わったも同然でした。プロのコンサートでも、曲の選定と演奏する曲の順序を決めることが最大の悩み事であり、コンサートの成否を決めるとされています。
BGMは、まず不特定多数の人に心地よく聞き流してもらえる曲から構成します。教会のミサにおける前奏曲や陪餐式のBGMも同様です。それぞれの人が、それぞれの世界に没入できるような環境としての音楽であり、障害者権利条約風に言うならば、「インテグリティを保障するにふさわしい合理的配慮に満ちた音楽」となるでしょう(笑)。
このことを選曲の基本としたうえで、セレモニーや披露宴の流れの中でクライマックスとなるところを見計らい、場の雰囲気を盛り上げるにふさわしい「聴かせる曲」を挿入します。BGMと「聴かせる曲」とのコントラストを創るには、メロディ・和音・リズムという音楽の三要素と場の状況を最大限に考え尽くす努力が必要でした。奥に引っ込んでいた音楽が、場の盛り上がりの時だけ少し前に出て聴衆と歩調を合わせるという感じに仕上げるのが勘所です。
生演奏は、打ち合わせの段階からみれば「想定外」の事態にも臨機応変で対応できるのが筋目ですから、予定の曲目が100曲でも、いざという時のために10曲程度の「のりしろ」をいつでも演奏できるように準備していました。
生演奏は、演奏者と聴衆の姿と顔が見合える分、音楽のジャンルと曲の選定を間違わなければ、その場にふさわしい聴衆の最大公約数を作りやすい客観条件があります。演奏者と聴衆の相互作用の良循環を考慮できればいいのです。見た目がばっちりの「ミージシャン」は、音程がはずれ、あるいは、歌唱力はなく楽器演奏も今一つであったとしても、コンサート会場やミュージック・ビデオのようにビジュアルな訴求力を介し、熱狂的なファンやそこそこの支持者を生み出すことができるというのも同様の事情によるところが大きいと思います(もちろん生演奏でも、私はこんなのはまっぴらご免です。とりわけ、リズムの歩調が合わないジャズバンドや、音程を外しているアカペラは絶対に許せない-これらは騒音に過ぎません)。
キース・ジャレットは、「音楽は聴衆とともに創るものであり、聴衆のいないスタジオで録音したCDで儲けるための消費物じゃない、音楽の商業主義に抗してこそジャズなのだ」と、雑誌『スウィング・ジャーナル』(2010年に休刊)のインタヴューでかつて語っていました。つまり、音楽とは生演奏を通じて創造するものであり、電子的に消費するものではないと言明しています。
さて、駅メロ・着メロは、生演奏でもなければ、考え抜かれたBGMでもありません。しかもこれらは、私見によれば、チープさ極まりない電子音による「ユルキャラ音楽」です。「これも一つの音楽だ」と思う人は、各人の好みに応じて個人的にお楽しみになればいいでしょう。しかし私は、駅や街角という「公共の場」で、聴きたくもない音楽を、強制的に私の耳に侵襲させることだけはやめてほしいと強く訴えます。
コメント
駅や繁華街から聞こえてくる音楽は、その場所、時代の流行や特徴を感じさせてくれるものであり決して騒音ではないと思います。水道橋駅に行けば「闘魂こめて」(巨人の応援歌)のメロディが流れています。このことで、下車した人はこの辺りは巨人で有名なのだと知ることができると思います。特に駅メロは、その土地の風物詩のようなものであり、地域活性化にもつながるとても大切な文化であると私は考えます。
騒音とは「騒がしく、不快に感じる音」(広辞苑)のことである。人によってどんな音を不快に感じてどんな音を不快には感じないのかさまざまである。私は駅メロに関しては何も不快を感じない、すなわち騒音とみなしていないが、その一方で駅メロを不快な音、すなわち騒音とみなす人もいる。こう考えると「音」とは難しいものであるとつくづく思う。しかし、テレビから騒音がしたら消せばいいだけだが駅メロの場合はそうはいかない。公共の場で流れる音楽もどんな音楽を流すのかではなく、本当にその音楽自体流さなければいけないのかの見直しが必要だと私は考える。
私は、人がたくさん集まる公共の場だからこそ様々な音楽を流しているのだと思います。なぜなら、そうすることで新曲などを多くの人に効率良く知らせることができるからです。確かに、こういった宣伝方法を不快に思う方もいると思います。しかし、利潤追求を念頭に置く資本主義社会のもとではたくさんの人々に効率良く宣伝できる方法をやめさせるのは難しいと思います。また、広告宣伝による企業間の競争を強くするためにもこういった宣伝をやめさせるべきではないと思います。
私は鉄道マニアで特に駅メロが大好きです。
駅メロは、大宮の「Vamos Ardija」や新座の「鉄腕アトム」のように地域色豊かなもので、一つの文化なのではないかと考えています。
私は、JRが提供しているこのサービスをぜひ楽しんでもらいたいのです。
駅メロ以外でも耳障りとおっしゃらずに、一度耳を傾けてはいかがでしょうか。新しい発見があるかもしれません。
音というものは生活を営む上では必然的に耳に入ってきてしまうものです。その音自体を騒音として捉えるかは個人の主観は大きく関わってきます。
しかし、現代において無機質な電子音が公共の場等に多く飛び交っているのも否定はできない事です。何度も何度も同じ音・宣伝が機械的に流れていれば少なからず不快感は生まれるでしょう。
その一方で皮肉な事ですが、それらが今の資本社会の一端を担っているという見方も捨てきれません。
無機質な音が飛び交う現代社会において少しでもその音から身を遠ざけようとしてイヤホンをつけて歩く人が多いのかもしれません。
本当に公共の場での必要な音というものは何なのか?と社会的に考える必要性をは大いにあると自分も考えます。
確かに,都会は「静か」とは言い難い空間であり,電車の扉が閉まることを知らせるメロディや,お店や商品の宣伝,人々の携帯電話から鳴る着信音など,さまざまな音楽であふれている。電車の中や喫茶店などでは,本を読んだり勉強をしたりする人々もいて,その中で大音量の着信音が流れれば,迷惑である。しかし,駅メロは必要なのではないかと私は考える。駅メロがなければ,電車に乗ろうとしたときに扉が閉まってしまうということが起きる可能性があり,危険があるからである。ただ,ホームのどこにいても聞こえるくらいの音量で,扉が閉まる合図(それは声でもいいかも知れない)があれば十分であり,今のようなメロディである必要はないだろう。私は今の駅メロを耳障りには感じないが,もしそう感じる人が多いのなら,どのような音にしたら耳障りに感じる人が最も少なくなるのかを考えなければいけないのかも知れない。
私は、駅メロ、着メロは音楽ではなく『記号』であり、他の音楽と区別して考えるべきだと思います。結婚式の披露宴の音楽などは場の雰囲気を盛り上げる等の演出を主目的にしているのに対し、電車が発車すること、メールや電話が来たことなどを知らせる事を主目的にしているからです。
駅メロ、着メロがチープな電子音である理由もそこにあると思います。都会の喧騒の中で生演奏をしても、その良さが100%伝わる事はまずありません。美しいハーモニーが演奏されていても、人の耳に聴き取りにくい低音部等は、電車や人ごみの喧騒にかき消され、結局は人の耳に聴き取りやすいメロディーしか残りません。それならば、人に知らせるという点のみで考えると、人の聴き取りやすい部分を用い簡略化されたメロディーで十分だと言えます。ハーモニーを全て伝えるためには都会の喧騒以上の音量で流す必要がありますが、それこそ心地良いと思う人は少数でしょう。
ピロピロピロ音は単調な音であり、知らせるという目的は達成されていますが、嫌う人はいても好む人は少ないと思います。同じ知らせるという目的で音を使わなければならないのなら、少しでも不快に思う人を減らすために音楽を用いることは別段不思議ではないように思います。
ただ、店の宣伝の曲はともかく、店頭で流れている新曲の宣伝などは、全く興味のない、中には音程も外れているような音楽を無理やり聴かされることが多く、その点に関しては公共の場で流してほしくないと考えます。
私は、駅メロは地域の色がでているものだと思います。なので駅メロによりその地域ではなにが有名であるかなどがわかり、何気なく通っている駅でも駅メロをよく聴いてみると新しい発見ができて面白いと思います。駅メロは音楽というより、その地域を表すキャッチコピーのようなものとして捉えてみてはいかがでしょうか。
店頭などで聴く音楽はその曲の宣伝のために流しているもので、CDなどの商品を売るための方法として仕方ないとも思います。
私も、繁華街等で聞こえる、音楽には不快に思うこともあります。着メロが流れることで、「マナーがなっていない」とも思います。しかし、駅メロはその地域の特色を表しているもので、初めてその駅を訪れた人にどのような場所かを教えてくれるもので、「音」とはまた違うものとして考えています。
僕はこのブログの記事を読むまで、駅メロ・着メロを気にしたことなんてありませんでした。
また、このような公共の場での音楽が気になったこともあまりありませんでした。
僕は電車内では基本的に本を読んでいるのですが、本に集中しすぎて駅の乗り過ごしをしてしまうほどです。
もし、強制的に入る音楽が嫌なら、自分で選んだBGMを、ウォークマンなどで聞くのはいかがでしょう?
もしくは、聞いている風を装って、ただ耳栓としてイヤホンをするのはどうでしょう?
僕の場合は、周りの音は自分で気にしない限りただの雑音として捉えています。捉えられています。
人それぞれだと思いますが、僕は、公共の場での音楽は有りだと思います。
聴きたくなければ、聴かなければいいだけのことだと思います。
しかし、駅など、音楽を流している側は、嫌な人もいると理解し、対策を講じるべきだとも思います。
私は街で溢れている音楽を騒音だと感じたことはありませんが、筆者のように街であふれる聴きたくもない音楽を聴かされているということに大変嫌な思いをされている人も確かにいるのかもしれません。しかし、街に溢れている音をその土地を表すシンボルというように捉えてしまえば、嫌な思いも弱まっていくのではないでしょうか。もちろん、好きな音楽は自分だけで楽しむことも大事でありますが、公的な空間では音に対して先にあげたような捉え方をしていくことが重要だと思います。
音は聴く側の意識によって、価値観が変わるものだと思う。聴くことを目的としてホールに足を運び演奏会を鑑賞するとき、その音は芸術として受け入れられるだろうし、もしその演奏会の最中未熟児が泣きわめきでもしたら、求められていないその音は騒音として扱われるだろう。
公共的な場においても、その音を求めている人がいれば、それは必要なものであるし、求めていない人はただただうるさいと感じるだけ。駅メロにもこれは当てはまり、電車に乗ろうとしている人にとっては、発車までの必要な合図として受け入れられている。
こういう場の音は必要な人のことを考えられており、それをうるさいと感じる人のことは考慮されてはいない。
その音を求めている人・求めていない人、それぞれが混在しているのだから、ある程度は妥協して我慢するしかないと思う。
私が特別支援学校に実習に行ったとき、自閉症を抱える子がいて、その子は聴覚が過敏でちょっとしたBGMでさえ耳を塞いで嫌がっていました。聴覚が過敏でない私は、そのBGMはたいして気になりませんでしたが、駅メロは「うるさいな」と感じます。そもそも、埼玉や東京の駅は利用者が多く路線の数も多いので、駅構内はいつでも騒々しいです。電車の通る音がひたすら耳に入ってくる駅は、大きなストレスを感じパニックを起こしそうになります。そこにあの「駅メロ」が流れると、さらなる騒音になります。これが、聴覚過敏の人にとってこの音はどれほどの騒音となりうるか、想像に難くありません。いろんな人が利用する駅なのに、果たして騒音を使っていていいのかと、私も思います。
執筆お疲れ様でした。講義を受けているものです。
私はピアノを何年も学んで、音楽にこだわったことがあります。あまり電車を乗るチャンスがないので、駅メロがどうかといいがたいけれども、デパートやスーパー、ほかの店などで流れる音楽にとても気になります。新曲宣伝のためならいざ知らず、もともと経典てあるクラシックなシンフォニーやコンチェルトなどを気軽に何回も何回も流すと、いやにならざるを得ないでしょう。ですから、各店なども選ぶ曲に見直さなければならないと思います。
読売嫌いである自分にとって、水道橋駅で流れる読売の応援歌は不愉快そのものでしかない。地域の特色を押し出したい気持ちもわからないではないが、東京ドームにやってきたビジターチームを応援している人々の気持ちもくんでほしいとは思う。
一方で、自分自身音楽を聴くのは好きだし、大学と自宅の往復には音楽機器が欠かせない。音楽をどうとらえるかは結局のところ一人一人の感性次第になってしまう。無機質な電子音がいいとは思わないが、もう少し万人受けする音楽を、駅や店は模索すべきだと思った。
駅メロは聞くことによりその地域の特色に触れることができると思います。最近、イヤホンで自分の世界に閉じこもっている人をよく見かけますが、周りの音楽や雑音を聞くことで、その土地や季節を感じ、世界を広げることができるのだと私は考えています。よって駅メロを聞き、そこの文化や特色を感じてみることをお勧めします。
私はこの記事を読み,源(2012年07月02日 18:08)さんのコメントに近いことを考えました.つまり,駅メロなどは,音楽の中でも異端な「記号」としての音楽ということです.
なぜ聞きたくもない安い音楽を聞かなければならないのか.この目的から考えると「危険回避のため駅に電車が到着または発車することを認識させる」ということにあります.つまり「認識させることを最大にさせる方法」の解の1つが「電子音の音楽」ということです.先生のおっしゃったとおり日常は様々な音楽が流れています.この中で1つの記号を認識してもらうには,通常聞くことのない電子音にすることは効果的であると思います.(更に,振動数の面から考えても低い音で無く高い音を用いることにより音が散乱しやすく,近くに居る人に届きやすくなります.低い音は遠くには届きますが,電車に近い人がターゲットなためふさわしくありません.ゆえに高い音はチープで騒音に聞こえやすいのですが・・・)
私も先生と同様に,聞きたくない音楽ほど苦痛なものは無いと考えますが,以上のことより駅メロなどの記号化された音楽には容認的に考えています.
私は今まで駅メロを騒音と感じたことがなかったため、記事を読んで、「音」は聞き手の受け取り方次第で、気持ちを高揚させるものになる場合や、逆に不快にさせてしまうものになるのだと感じた。確かに、静かに食事をしたい時に突然子どもが泣き出したり、隣の人の着メロが大音量で繰り返されたりした場合は騒音として感じるだろう。また、普段は何とも感じなかった駅メロも、機嫌が悪い時に聞いた場合は耳障りな物に感じるのかもしれない。今回は音の感じ方から人の価値観を考えさせられたが、これは全ての物事に共通することではないだろうか。人はそれぞれ価値観を持っており、またそれは時と場合によって変化するものである。そのことを改めて認識し、互いの価値観を受け止めあうことの大切さを実感した。全ての人に受け入れてもらうことは難しいことかもしれないが、自分の価値判断を他人に押し付けるのではなく、周りに配慮した行動について考え、実行していくことが重要であると感じた。
確かに街には駅メロなどの正式な音楽とは言えないような音楽から、JーPOPのような一般的な音楽までさまざまな音楽で溢れています。後者の場合、私はこの記事とは逆に、聞きたいと思っていた歌手の曲がこんなところで聞けてラッキーと思っていました。音楽が好きな人にとっては街中に流れる音楽は騒音ではなく、新しい音楽との出会いのきっかけになるものだと思います。
前者の駅メロに関しては他のコメントにも意見があるように「記号」であり、音による標識であると考えます。視覚障害者のためであることはもちろん、ホームの様子が見えないところからでも発車が間もないことがわかり乗り遅れを防ぐことができます。そういった意味では駅メロは必要なものであると考えます。
駅のような場所は通勤や通学時に必然的に通らざるを得ないような場所であり,そこで流れる音楽を聞きたくないから聞かないという選択はできません。そういう場所でマナーの悪い騒音が飛び交うのはあまり快くないものです。しかし,駅メロなどの音楽はある程度,多くの利用者の理解を得られていて流れているのだと思います。音楽の変更などは簡単ではないと思いますが,音量などの調整を要求するのなら可能ではないでしょうか。私は駅メロについてよく知らないのですが,大音量で鳴らしているようなら音量を下げるべきだと思います
聞きたくもない「音」を不快に感じることは私も共感しました。ですが、活気がある街というのは人が多く集まり、その分だけいろいろな「音」がとびかってしまうもので、それは仕方のないものだと思います。私はそういった「音」は車の走行音などと同じようなものだと考え、音楽プレーヤーなどを使用して耳に入らないようにしています。駅メロのような公共音はなくすことは難しいので、音楽プレーヤーの使用などをして、聞かないようにすることが不快感を感じない一つの方法だと思います。
この記事を読むまで実際に駅での音楽について気にしたことがありませんでした。確かに思い返してみれば、駅では駅で流れるメロディや携帯電話のメロディなど様々な音が飛び交っています。しかしこれらはその地域の特色であったり、その時代の音楽を色濃く映し出しているような気もします。駅メロや着メロは聞いたことのない音楽に触れて、そのメロディに興味を持つことで、新しものに触れる機会を作ってくれると思います。
今まで駅メロなどの類に関してあまり気にしたことはなかったが、確かに駅メロなどというものは無理矢理に聞かされる音の一種であり好んで聞きたいものでは決してありえないと思った。それはあくまでも「電車が発着する」ということを指し示す記号に過ぎないわけであるが、そう考えてみるとそこに駅ごとに違うメロディをわざわざ選ぶ必要もないはずである。もっと突き詰めて考えてみれば、構内アナウンスや電子掲示板がある以上駅メロ自体を流す意味もないと結論付けることもできる。
音楽といえば、表現の自由という問題がよく取り上げられる。音楽というものは、この記事にも触れられているように、場にふさわしいものである限り(何をもって場にふさわしいというかは別として)、その場になんらかの色を付け加えてくれるものである。しかしながら、音楽を表現の自由だといい、ただただ自分の主張や感情を不特定多数の人々に闇雲に押し付けるようなものは、決して音楽などではありえず単なる音に過ぎない。単なる音であるならば、それを騒音と感じ、不快に思う人が不特定多数いることは当たり前である。
とにかく、全員が不快に思わないように公共の場を構成していくことはできないであろうが、音が氾濫する公共の場を脱却していくことはできるのではないだろうか。
街を歩いているときに聞こえてくる雑多な音楽には私も不快感を感じます。友達と会話をしているときにも思うのですが、本当に、好きな音楽というのは人それぞれです。私からしてみればただ耳障りな音楽であると思うものもある人の中ではとても素晴らしい音楽になりえるし、私の大好きな曲も他人の中ではくだらない音楽になってしまうのかもしれません。なので私が普段から気を付けていることは、自分の好きな音楽を強引に他人にすすめないことです。強引にすすめたことによりその人がその曲を嫌いになってしまうこともあり得ると思います。なので強引にすすめないようにしているのですが、街の音楽はそんなことおかまいなしに押し売りをしてきます。客の頭に残らせるために繰り返し店のBGMを流したりすることは拷問といっても過言ではないでしょう。このような風潮には断固反対です。」
わたしも喫茶店や電車の中での携帯電話の着メロがすごく嫌いなので、着メロを耳障りだと思うという意見には賛成です。しかし、駅メロはその土地の特徴が出ているので耳障りだと思ったことはありません。わたしは高校時代使っていた駅で聞こえる駅メロで、高校時代の懐かしい思い出がよみがえってくるので、いつまでも変わらないでいてほしいです。その土地になじんだ音楽があるのは素敵なことだと思います。
何を騒音とし、そうじゃないかを決めるかは確かにそれぞれの考えがあると思う。駅で流れる音を騒音と感じたこともないし、店先で流れる音も騒音と感じたこともない私には、わからない。地元の駅で流れる音は小さいころから聞いているから懐かしい気もする。いろいろな場所でさまざまな曲が聞けることに楽しんでいる自分もいる。お店に入れば今の流行の曲がなにかもわかる。なんて便利なんだ!と思うものの、これから先年をとって流行なんて関係なくなったら、騒音になるのかな…と考えたら悲しい。ただ、今も思うことは、電車の中くらいはマナーモードにしてほしい。また、通話もしないでほしい。
私は駅メロも着メロもアカペラもジャズも好きだし、それらの音楽自体を否定はしたくありません。
駅メロについては、あるとその土地柄が分かってとても好きです。例えば、舞浜駅の駅メロは、「イッツ・ア・スモール・ワールド」と「ジッパディードゥーダー」が使われています。この駅メロを聞いただけで、ディズニーランドに来たのだな、とわくわくします。だから、耳障りだと否定してしまうのはもったいないです。仕事に行くときに、ああうるさいなと否定するのではなく、ここの駅はこんな音楽を使うのか、と知ろうとして興味を持てば、だれもが心地よく通勤・通学できると思います。
確かに、街にはたくさんの音楽があふれています。たくさんの人が住んでいるのだから、無音の世界などあり得ません。その中を耳を塞いで歩くのではなく、自分の気になる音楽はないか探してみることで、肯定的な気分で歩きたいものです。
ただし、先生のようにこれらの音楽が気になってしまう人もいるだろうから、最低限のマナーモードは必要になりそうだと感じました。
着メロについては、私も同じように公共の場では迷惑であると思うし、マナーモードすることを心がけるべきだと思います。しかし、駅メロを迷惑と考えることは違うと思います。まず、駅での発車音楽(ベル)は危険を知らせるためだと思うからです。そのためには、音が高音になってしまうのは仕方がないと思います。それに加えて、場所によっていろんな駅メロが流れるのは、その場所の文化を知れるのでいいことなのではないかと思います。また、『阪神電鉄の甲子園駅でさえ「六甲おろし」(阪神タイガースの応援歌)を流してはいませんよ。』とあるが、水道橋駅ではジャイアンツ、海浜幕張駅ではロッテ、西武球場前ではライオンズ、鎌ケ谷駅と新鎌ヶ谷駅では日本ハム、宮城野原駅では楽天の応援歌が駅メロとして使用されています。阪神タイガースがやってないだけで、やっているチームもあります。わざわざタイガースの名前を出した意味があったのかと思います。
ぼくも他人の携帯の着メロは気になる人なので、先生の気持ちがわかります。この間電車に乗ったら、おじさんとおじいさんの中間位の人が大音量で音を出してゲームをしていて、とても不快でした。しかしぼくは、町で流れている低質な音楽が耳に入ってくることに関しては、抵抗がありません。耳を傾けているわけではないですが、繁華街を歩いていると人の声や大型ディスプレイから流れてくる雑音が右から入って左から出て行く感覚がぼくはむしろ好きなのです。嫌な人にとっては耐え難いものかと思いますが、一回だけ右から左に聞き流してみてはどうでしょう。
私は鉄道ファンというのもあって、駅メロを不快であるとか騒音であるとは考えたこともなかった。そういった点でこれは新鮮な意見だと感じた。
しかし駅メロにはその地域の特色を表現しているものもある。例えば地方から上京してくる人の多い上野駅では未だに発車ベルを用いて乗客の混乱を防いでいる。
そのような点を考慮に入れれば駅メロは一概に騒音とはいえないのではないだろうか。
こんにちは。講義を受講しているものです。
私は普段そういった駅で流れるメロディや繁華街で聞くメロディをあまり気にしていませんでした。ですが騒音などと認識をしたことはありません。
私は駅のメロディや繁華街で聞くメロディはその地域の特色などを表している(人によって感じ方は違うと思いますが)と思っているからです。なので、その曲を聞けばその地域を思い出すといったように宣伝効果もあり、私は素敵なことであると思います。
私はこの記事を読むまで、大宮駅の発車メロディーが「twilight」や「新たな季節」であることを知りませんでした。実はその原曲も残念ながら知りません。勿論大宮駅から埼京線を使って新宿方面へ行くことはこれまで何度もあるのですが、何か原曲のあるメロディーであることすら認識していませんでした。駅メロは場所によって、その地域にちなんだメロディーを採用しているところも多いようですが、余程有名なメロディーでなければ私のように気付かない人もいると思うので、それがその地域にとって良い方向に繋がるかと言われればそうでもないと考えます。
店先から雑多に聞こえてくる音楽は、例えばレコード事務所や販売店においては明らかな商業目的を伴っているので、音楽業界においても商業主義が蔓延っている現代においては仕方のないことだと思われます。(確かに騒音であるとも捉えられますが、向こう側の商売だと考えれば…)
しかし、量販店から聞こえてくるその店特有の音楽や、その店特有ではなくただ単に無関係な曲をBGMとして大音量で流している場合には、そのことによってその店の利益が上がるかと言われれば疑問しか残りません。(その店特有の音楽の場合、その店の知名度UPを狙っているのかもしれませんが、それが「うるさい」と感じる人にとっては逆効果でしかありません。)
「リズムの合わないジャズバンドは騒音に過ぎない」という言葉にドキッとしました。
というのも、私はジャズサークルの会員で、今年は新入生を勧誘するためのゲリラライブを大学内でやっていたからです。サークル側としては、日ごろの自分たちの活動をより多くの人に知ってもらいたいと思い、やっていたことです。もちろん、騒音だと思われることは覚悟していましたが、今考えてみると、あれは騒音でしかなかったのかもしれません。
すべての人に心地よい演奏をすることは困難ですが、せめて、メンバーの選抜や選曲などの準備を十分にしてからゲリラライブに臨むべきであったと反省しています。音楽は騒音になってしまったら音楽(音を楽しむ)ではなくなってしまう……このことを肝に銘じて演奏したいです。
公共の場での着メロが流すことは確かに迷惑極まりない行為です。マナーモードにするという簡単な操作ひとつでどれだけの人がいらだちから解放されるかと考えれば私も腹立たしく思います。しかし、駅メロは必要な機能を果たしています。発車するという合図が音楽で知らされる事は駅員のアナウンスよりも多くの人に伝わりやすく視覚障害者にはなおさら役に立つものだと思います。ゆえに必要である以上、嫌であっても「仕方ない」で済ますべきだと思います。
確かに店先から大音量で流している曲は耳障りだなと思いますが、駅の発着のメロディは「耳障り」であるとおもったことはありませんでした。駅を毎日利用しないというのもあるかもしれませんが・・・。地域それぞれのメロディがあるようですし、駅のメロディは騒音や耳障りな音とひとくくりにするのはどうかなと私は思いました。
私は、鉄道の昇降促進の音をならす事は、発車時刻が厳格に決められているという鉄道の性質上、仕方が無いことではあると思う。しかし、そこに音楽が使われる必然性は全く感じないし、むしろいらだちを感じている人間の一人である。
記事本文には、他にも携帯電話の着信音の例が書かれているが、これ以外にも、家電製品のお知らせ音など、現代では、人間に何らかの情報を知らせるために音を鳴らさなければならない状況で、その音を音楽で代用するケースが増えていると思う。例えば、私の家の洗濯機は、洗濯開始を知らせるためにモーツァルトのピアノソナタの冒頭を鳴らす。
しかし音楽は、本来、各人の興味関心に合わせて時間的、空間的に、自由に、自分の意思で聴くものであると思う。私の愛する音楽は専らクラシック音楽であるが、それが他者にとって心地よいかどうかはわからない。また、同じ曲、同じ解釈の演奏を聴く「私」の中でも、その気分・感情によっては聴きたいか聴きたくないかは時間的空間的条件によって振れ幅のあるものである。さらに言えば、音楽には「楽章」「楽曲」といったまとまりがあり、これらのうち一部を切り出して聴くという聴き方には議論がある。例えば、JR大井町駅では、ヴィヴァルディの四季のメロディの「春」が流れる。しかし、私は電車の中で電子音によって再現され、駅員によって無造作にぶつ切りされる四季に、魅力を感じない。
このように、音楽は、音のような「聞こえるもの」、つまり単なる信号ではなくて、自らの意思で「聴くもの」であり、そこには人間の感情というものが関わるものであるはずである。そのような音楽の事情を無視して、駅で、発車を知らせるために、音楽を鳴らし、突然音楽を止めるというのは、人間性の豊かさを否定し、ひとくくりに考えているようにように感じるから、不愉快である。よって、私はこのような意味で、この記事に同意する。
音は、有るという事が問題にもなるし、無いという事が問題にもなるという複雑なものだと思う。前者は騒音などを、後者は情報としての音を想像してもらえれば分かるだろう。今回は記事にある駅メロ・着メロの二つについて考えてみる。この二つの音に共通する点は、積極的に発せられる機能的な音であるという点であり、両者ともに何かを伝えるという役割を持っていることから、自分は必要な音であると考える。しかしながら、これらの音を不快に思う人がいるという事は事実である。これらの問題を解決する理想の方法はすべての人々がどんな状況でも心地よく聞くことのできる音を使うという事だろう。しかし、実際にはそのような音が存在するとは思えない。着メロに関しては個人でマナーを守るという事が最も現実的な解決方法であると思う。駅メロに関しては、街の中心を駅に据えているという事や、地域の人々が多く利用するという事から、地域色のあるメロディーを駅で使うという方法は個人的にはとても良いと思う。しかし不快に感じる人達の意見を無視するという事はすべきでないと思うから、聞き取りやすいがあまり騒がしくない音を開発するなど、できる限りすべての人が快適でいられるよう努めていくことがとても大切だと思う。
自分は普段から騒音についてあまり意識したことがなく、街中で流れている音楽が気になったことはないしや、電車内でのイヤホンからの音漏れや、近所の宴会の騒がしい声も耐えられました。
しかし、他の人(特別支援学校に実習に行ったときの体験を書いていた方)のコメントを見て、以前新聞で読んだ、物音に敏感な発達障害の少年の話を思い出して、世の中には、どうしても騒音に耐えることが出来ず、日常生活に支障がある人もいるのだということを再認識しました。
騒音問題だけでなく、自分は平気でも、中には日常生活に支障がある人もいるのだということを日頃から意識しなければならないと感じました。
音というのは、様々な側面を持ったものだ。ある時は音楽として、私たちを愉快にさせる。またある時は騒音として、私たちを不快な気分にさせる。
私は、人ごみが嫌いであり、がやがやした場所も嫌いである。すなわち、騒音に対してはものすごく嫌悪がある。しかし、一方で自らが騒音を出さない様に気を付けているだろうか。正直意識していない。これは私だけでなく、特に若い方々は、騒音に対する意識が低いように感じる。本人は普通でも、それが耐え難く苦痛な人もいるのだ。自らの行動を顧みて、他人のための行動を意識していきたい。
街で歩いていると突然鳴り出す誰かの着メロ。公共の場で大きな音を出すのはどうかと多少は思いますが気づけなかった場合に起こる問題というものもあるでしょうしこの程度の迷惑なら大して気にもならないくらいです。そもそも「静かになりたい」のであれば街を歩くという行動自体が間違っているのではないかと考えます。さらにいうと人によっては「人が歩く音」が嫌だとかいう人もいるかもしれませんし、所詮個人の好みの問題なのでそれに他人の行動を強制する力はないのではないでしょうか。駅メロに関していうと私は不快に思ったことすらありません。言われてみるとたしかにあれを音楽といってもいいのかは非常に怪しいものですが、そもそも鳴らしてる側も音楽と考えているのではなくてただのサインとして鳴らしているだけなのではないでしょうか。だからといってあの音がなかったら困るのはどう考えても私たち乗客側です。黒板に爪をたてた時の音のように不快に思う人が多いのであれば変えることも必要なのかもしれません。ですが、少なくとも私は自分の周りでそのような意見は聞いたことがありません。こういう考え方もあるのだということは頭にきっちり残しておきたいと思いますが、その訴えには賛同できないと考えます。
私は普段街中で流れている音楽については深く考えたことがありませんでした。と言うよりは、音楽として認識していなかったといった方が正しいです。たしかに人によっては不快な「音楽」となることもあると思います。しかし、音楽ではなくただの雑音ととらえるようにすれば不快な気持も多少は落ち着くと思います。音楽というしっかりとしたものとしてとらえてはだめな気がします。
私はあまり駅メロを雑音だと感じたことはありません。というよりも余りにも雑音しかないので、聞き慣れて逆に人のざわめいた感じや電子音もその場所のBGMのようなイメージ付けになってきたように感じます(私の中で)。混んだ駅でもそれぞれ雰囲気が違うことに気づき、山手線内だけでも少しちがうBGM(駅メロ&雑音の違い)が聞こえるようになりました。駅での人々の観察などしているとざわついた感じや駅メロなどが気にならなくなりました。音楽とは凄い影響力のある芸術です。ある人にとっては良くても、ある人には雑音になるというのは芸術であるからではないかと思う(少し話がずれてきましたが)。私は美術制作をやっているのですが、このような影響や問題が起こるのは音楽の方が多いのでは?と思う。
美術でもこのような問題は常に喋られているとは思いますが、やはり生活するなかで美術作品に触れることよりも音楽に触れることの方が多いと思います(スーパーやカフェetc…)。モニュメントは喋らないので。
私はあまり駅メロを雑音だと感じたことはありません。というよりも余りにも雑音しかないので、聞き慣れて逆に人のざわめいた感じや電子音もその場所のBGMのようなイメージ付けになってきたように感じます(私の中で)。混んだ駅でもそれぞれ雰囲気が違うことに気づき、山手線内だけでも少しちがうBGM(駅メロ&雑音の違い)が聞こえるようになりました。駅での人々の観察などしているとざわついた感じや駅メロなどが気にならなくなりました。音楽とは凄い影響力のある芸術です。ある人にとっては良くても、ある人には雑音になるというのは芸術であるからではないかと思う(少し話がずれてきましたが)。私は美術制作をやっているのですが、このような影響や問題が起こるのは音楽の方が多いのでは?と思う。
美術でもこのような問題は常に喋られているとは思いますが、やはり生活するなかで美術作品に触れることよりも音楽に触れることの方が多いと思います(スーパーやカフェetc…)。モニュメントは喋らないので。
私も「チープな」電子音は好きではありませんが、もしそれが自分の好きな曲なら耳をふさいだりイヤホンをはめるまではしません。しかし、その曲が最近のアイドルの曲だったりK-POPだとしたら、自分はすぐにイヤホンをはめて外の音をシャットダウンすると思います。結局は人の好みだと思います。自分はAKBやももクロ、ジャニーズみたいなアイドルや、K-POPが大嫌いです。聞きたくもありません。自分が好きなのは80、90年代のロックミュージシャンやバンドマンで、最近のどれも同じに聞こえ、大して歌が上手いでもなく、演奏がすばらしいわけでもなく、ただ顔と評判だけで人気がでてみんなが聞いているようなアーティストの良さがさっぱりわかりません。しかし自分とはまったく違った意見の人もたくさんいると思います。不快になるか気持ちよくなるか、それは人の好みに大きく左右されると思います。
私は着メロに関しましては、公共の場所や多くの人が集まるような所では一人一人がマナーモードにして、周りに迷惑をかけないことを心がけるべきです。
しかし駅メロに関してはどうでしょうか。私の地元の鉄道はほとんどの駅が無人で、駅前も特に栄えているわけでもありません。したがって駅前に音があふれてるわけでもありません。私はそれを良いと思ったことはありませんが、反対に都会の駅の雑多な雰囲気を嫌になったこともありません。駅メロや駅前の雰囲気すべてが合わさってその空間が出来上がっているのだと思います。郷に入ったら郷に従えではないですが、その雰囲気を楽しめるようなゆとりを持つべきではないでしょうか。
私は、街で流れている音楽を雑音だと思ったことはありません。大宮や池袋、新宿とどこを歩いてもBGMが流れているのは、もう日常の一部になっているからです。確かに、いつも同じような大衆音楽ばかり聞かされていたら、もう聞きたくなくなるのもわかります。しかし、逆にBGMの流れていない大宮などの街を想像すると、余計に人ごみのザワザワする音や電車の音、車の音(それこそ雑音)が気になってしまうと思います。それは、私にとっては、非日常です。人ごみの中で生活する人たちにとって、BGMは気を紛らわせるために、必要なのではないでしょうか。
私は駅メロや街中のBGMは耳障りで雑多な音楽ではないと考えます。駅メロの場合、国鉄時代末期の発車ベルが大衆に受け入れられないため少しでも大衆受けする駅メロに変えたわけで、個々人の好みに合わせるのは無理でしょう。街中のBGMに関しても、各地区で話し合われた結果としてのBGMでありましょうし、違法でもありません。今や駅メロやBGMを聞かないで街を歩くのは困難ですが仕方ないのではないでしょうか。しかし、着メロは自分が満足するだけで、他人には迷惑がかかるだけです。公共の場ではマナーモードにすべきでしょう。
駅メロに対して嫌悪感を抱く方もいるかもしれませんが、私は駅メロが決して嫌いではありません。
私は毎日電車を利用していますが、駅ごとに音楽が異なるのはとてもユニークに感じられます。
電車が発車する合図になるほか、その駅・地域の特色を表すこともできるので、駅メロは鳴らす価値があると私は思います。
しかし着メロについて嫌悪感を抱くことは多々あります。電車内で大音量が鳴り響くのを聞くととても嫌な気持ちになります。
公共の場において音を過剰に外部に漏らすこと(イヤホンからの音漏れ、大きな声での会話など)はほかの利用者に迷惑をかけるので、絶対にしてはけないと思います。
何年か前、テレビで駅メロを作成をしている人の特集をしていました。普段何気なく聞いている駅メロですが、短いが人の耳に入ってきやすいもの、発車しちゃう!急がなくちゃ!!と思わせるような調性など、さまざまなことが考慮されてできているということでした。それをチープである、音楽を名乗る資格があるのか、などと一方的に非難されるのはいかがなものでしょうか。確かに携帯電話の着メロなど、個人的なものは他人のことを考慮するのが当然だと思います。実際、私も迷惑だった経験があります。しかし町から流れてくる音楽、ましてや私たちのことを考えて流してくれている駅メロに対していちいち文句を言っているようでは、きりがないのではないかと感じました。
このブログを見るまでは着メロに関しては考えたことがあるものの駅メロに関しては考えたことがありませんでした。着メロに関しては図書館や電車の中で流れてくるときに嫌悪感をいだいたことはありましたが駅メロは生活の一部として当たり前のように受け入れていました。ただ、今考えてみると自分はジャイアンツファンなので何も思いませんでしたが東京ドームの最寄駅でジャイアンツの応援歌の駅メロが流れてるのはビジターのチームにとっては、とても不快だろうし、また原宿駅では流行のJーPOPの駅メロが流れていますが、これも洋楽しか好まないひとにとってはとても不快だと思います。全員が不快に思わない駅メロを流すのは難しいとは思いますが、個人の趣向によって、とても不快に思う特定の人がいるくらいなら昔のように電子音の「ピロピロ」でいいと思います。
私は公共の場にいて聞こえてくる駅メロや着メロなどの音楽を騒音だと感じたことはなく、人によってはそれが耳障りになるのだと初めて気づいた。そもそも、駅メロや着メロは人に「知らせる」ことが目的の音楽であり、音楽の質は重視しなくても良いと思う。ただ、それらが「公共の場」で否が応にも聞かなくてはならないことが、人を不快にさせてしまうのだと思う。しかし、不特定多数の人がいる場所で、時間や状況によって人の気分は様々であり、全員にフィットする音楽なんてそんなにないはずだ。私は、駅メロや着メロも1つの音楽の形としてありだと思う。
先生は音楽に敏感なのですね。私は地元の駅メロが思い出せません。毎日電車で通学しているので、毎日聞いているはずなのに、気にしたことがないのです。ふとした時に耳に入ってくる音楽といえば、渋谷のスクランブル交差点の大画面から流れてくる新曲ぐらいです。そして私はそれを嫌だと思ったことはありません。
音楽に親しむ日本人にとっては、日常で流れてくる音楽は切り離せないと思います。聞こえてくる音楽によって心を救われる人もいるだろうし、なんとなくいつも聞いていたメロディが思い出になる人だっているでしょう。よって私は、町で流れる音を騒音だとは思いません。
例で取り上げられた運命も、けして音楽が悪いわけではありません。悪いのは公共性を破った人です。せっかく素晴らしい音楽と生活しているのに、その良さを壊す人が本当に許せません。不快になるかならないかは結局は本人次第ですが、みんなが気持ちよく音楽と暮らすにはどうすればよいか、ひとりひとりが考えるべきだと思いました。
このブログを読んで、普段何気なく耳にする駅メロや着メロについて、初めて意識して考えてみました。私は、駅で流れる音楽に関しては特に不快には感じません。確かに、浦和レッズのサポーターが大宮アルディージャの音楽を耳にするのは不快かもしれないですが、大宮を拠点とする地域でその音楽を流すのは、その地域の特色を表すものであり、悪いことではないと思います。また、どの地域でどの音楽を流すのかも、表現の自由だと思います。しかし、携帯電話の着メロに関しては、公衆の場ではマナーモードに設定することが望ましいと思います。私自身、他人の着メロに対して嫌悪感を抱いたこともありますので、普段はマナーモードに設定しています。ひとりひとりが、周りの人々のことを考えて行動するべきだと思います。
自分は、先生の書いたこの記事を読むまで、他人に迷惑をかけてしまうものとしての着メロ、ましてや駅の発車ベルの音声に至っては、考えたこともありませんでした。ベートーベンの運命の件についてはすごく共感しました。数分ごとにあの曲が流されたら、たまったものではないと思います。ですが、駅ベルの件についてはやむを得ないと思います。おそらく駅ベル担当の好みのあるでしょうが、あれは、必要最低限の音楽です。自分は今年で電車通学5年目となりますが、何度もあの音楽に助けられてきました。確かに、電子音がチープなところもありますが、自分はそこにいろいろなイメージを働かせています。何回も聞いていると、また違ったイメージが浮かび上がってきたりて、ちょったしたマイブームでした(笑)。また生演奏の件についてはすごいおもしろかったです。自分も今度コンサートに行くので、聴衆として、音楽を創ってきます。
私は音楽にあまり関心がないため街中にあふれる音楽というものを意識したことがありませんでした。しかしながら思い返してみると、確かに駅で聞こえてくる電子メロディは街中で聞こえるものと違い気になる音でした。そのため、この電子音はベルより不快感を与えることなく、周囲の注目を集め電車への注意喚起に役だっていると考えられます。
確かに、駅メロ、着メロというものは否応にも耳に入ってきてしまうものですね。日々、とても不快に感じています。自分でも何故かは分かりませんが、人口的な音は駅メロ、着メロは無意識に避けてしまいます。鳥のさえずりや、風の音、木々の揺れる音は特に嫌ではないのに不思議です。ただ、私は我慢し続けることは苦手なので、駅メロ、着メロに対して対策をとることにしています。それは、イヤホンをつけて、音楽を聞いて日々を過ごすことです。音漏れをしていたら、それこそ自分が騒音主となってしまいますが、私はそれにより自分の空間を作り上げることに成功しました。先生も頑張ってください。
確かに大音量で音楽を流している車などは、迷惑で不快だと感じたことがありますが、駅メロによっては、その地域の特色が出ているものや、駆け込み乗車を抑制するためにと考えられて作られているようなものもあるということを知った時は面白いと思ったし、私は今まで駅メロを不快だと感じたことはありませんでした。なので、この記事を読んで駅メロを不快だと思う人がいるということに驚くと同時に確かにそれ以外でも都会には音楽があふれ、その中には不快だと感じるものもあると思い当りました。人それぞれ感じ方が違い、公共の場で音楽を流すということには様々な配慮がなされるべきなのだと改めて思いました。
駅メロや繁華街の店のテーマソングが耳に入ってくることでその場所の地域色を知るいい機会になると思うので、自分は耳障りだといって否定する気にはなれない。
しかし、全ての人が駅メロなどに対して肯定的でないことも踏まえなければいけないことも理解している。なので、「心地よい音色」と「耳障りな騒音」とを理解して、場にあった音を利用すべきだと思う。このことを考慮すれば音楽を媒体として人々に土地のイメージを発信するよいメディアとなるだろう。
私も公共の場で着メロが流れるのは迷惑に感じます。しかし街中で流れる音楽はそうは思いません。今の世の中、周りは音で溢れています。いちいちその音に耳を傾けていてはきりがありません。なんとなく聞いていたらたまたま自分の好きな曲が流れてきて嬉しいぐらいの気持ちでいればよいのではないでしょうか。
一度気になってしまうと過剰に反応してしまうのは仕方のない事ですから、音の聞き方を変えてみてはどうでしょう。先生は音楽経験が豊富でいらっしゃるようですので、駅メロを聞いたらそれを譜面に直したらどうなるか考えてみる、などはいかがでしょうか。聞き方が変われば感じ方も変わると思います。
駅メロ、着メロを騒音と思うかどうかは人それぞれであり、私なんかは駅メロや町中で流れている音楽をあまり気にしたことがないのでとらえ方はそれぞれだと思います。でも駅メロはその駅周辺の文化が各々に出ていておもしろいと思います。町中の有線から流れる音楽も、自分の好きな音楽が流れると、とてもいい気分になれます。
披露宴のBGMや生演奏は試行錯誤の上に作られたものなのでそれらとは比べものにならないのは明らかですが、駅メロや町中で流れる音楽の聞き方を少しだけでも変えると、また生演奏らとは違った楽しみ方ができのでは、と思います。
気づかなかったけれど、確かにその通りですね。他人に迷惑がかかるから「公共の場所ではケータイはマナーモードに」という言葉をよく聞きますが、駅のホーム、飲食店、書店、時にはトイレの中でさえも音のない場所はありません。それが気に入った曲ばかりならいいですが大概そうではありません。雑音を聞きたくない人は自分の部屋に引きこもれとでも言われているようです。
私は音楽が大好きです。大抵の音楽は好きですが、嫌いな音楽もあります。音楽の鳴ってる中で本を読むことはできないですし、朝の目覚ましの音楽も大っ嫌いです。
ですが、街中に音楽が流れていて良い気分になることが多いです。この歌なんだろう?とか思って家にかえって調べたりします。音楽の溢れる街にいくのは大好きでしたが、先生の意見を目にして、嫌だと思う人も沢山いるのだろうなと思いました。このことを改善するのは難しいと思いますが、時と場所を考えて音楽をながしてほしいと思います。
地元の駅の駅メロはずっと小さい頃から聞き慣れた音だし、聞くと懐かしくなるのでわたしは好きです。記事の中で出てきた大宮駅の各路線で流れる音をこのように感じている人も利用者の中にはいると思います。
電車内や講義中の教室のような必要以外の音を出してはいけない場所での着メロなどの音はたとえそれがわたしの地元の駅メロであっても騒音だと思います。しかし、そのような場所以外で聞こえてくる音は、自分のまわりにいる誰かにとっての"音風景"なのかもしれないと考えれば、少しは不快感もなくなるのではないかと思います。
私は駅メロや街中の電光掲示板から流れ出てくる音楽に対して騒音だと感じたことはありませんでした。むしろ街中の人々の話し声や、私は夜勤をしているのですが帰宅して朝寝るとき外から聞こえてくる主婦たちの立ち話や、これから学校に向かうであろう子供たちの声のほうが騒音に感じます。音楽という括りだと逆に好んで騒音を聴くこともあります。一般的には好まれないデスボイスやシャウトのようなメタルを聴くと落ち着くし、テレビの砂嵐や雨音を使用した創作音楽なども心地よく感じたりします。これは音が聞こえるからこその悩みなのだろうと思います。私にとって無音は怖く感じるほどです。ですからこの悩みに関しては都会にいるのであれば諦めるしかないと私は思います。
駅の列車接近音や発車メロディといったものは人間の行動心理に基づいて計算されて作られている。安全で迅速な乗降のためにはどれくらいのテンポが良いのか、ご当地ソングなど地域色をも取り入れられている。それだけでなく、各駅ごとに違ったメロディを設定し、ストーリーを持たせるといった試みも行われているものであり、音楽でないと言うのは作曲者や発車メロディ導入に関して尽力している方々に大変失礼な話である。
披露宴の音楽など、10件、20件と施行を重ねる内にパターン化してくるものだ。場を盛り上げることには変わりないが、大した仕事をしているわけではない。自分で曲を書いているというのであれば別であるが、そういったことでも無いだろう。進行に合わせて曲を演奏しているだけである。それもセミプロレベルで。
披露宴で曲目を演奏をするよりも、発車メロディといった方がよっぽど考えられた曲であるかわかる。
静かな公共の場所で鳴る着メロが嫌だ、という考えは同意します。しかし、駅メロや街頭で流れる音楽を騒音だと感じたことは全くありませんでした。
駅メロは、隣のホームと混同しないよう違う曲になっているので、便利だなと思っていました。そもそも聞くのも一瞬であり、イライラする機会がありませんでした。ベルの音ですら騒音だというのならば、電車が発車することはどう知らせればよいのでしょう?案内の声だけでは不十分に感じます。
街頭で流れている音楽も、私にとってはその時々の流行を知ることができるいい機会になっています。
通学に大宮駅を利用していますが、駅メロとしてそのような曲が使われていたこと初めて知りました。大学生になってから利用するようになった最寄り駅の駅メロも市歌を用いているという貼り紙がしてありました。しかし、正直、その曲を知らなければその地域の特色を表すような特別な曲であっても 「こんな曲を用いるところなのね、素敵!」なんて駅メロに思いを馳せることはなく、ただの出発を知らせる通知音にすぎません。かと言って駅メロを不快に感じたこともありません。私の地元電車の出発音はジリリリリという音が強く鳴り響くだけでメロディーはありません。この音もただ出発を知らせるための通知音にすぎず、快も不快も感じません。やはり音というものは発せられる状況、場所や各人の捉え方次第なのだと思います。
繁華街、公共の場で耳にする音楽をあまりよくは思いませんが、私は電車に乗るときに味わえる駅メロを各地の風景と同じくらい楽しみにしています。浦和駅での発車時の駅メロは浦和レッズのオフィシャルソングですが、初めてこの駅を利用した際に風情が感じられて親しみを持ったことを覚えています。この記事を読んで、駅メロと繁華街で鳴り響く音楽をどちらも公共の場の音楽として認知せずに区別していたことに気づきました。確かに公共の場における自由権は立派な権利かもしれませんが、私は地域の特色を反映する駅メロは地元に住む人にとっても観光客にとっても場を理解するという意味で豊かな文化だと考えます。
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