暴力の連鎖を乗り越えて
今から30年前に、横浜浮浪者連続襲撃事件が起きました。1982年1~2月に横浜で14~16歳の少年10名がホームレスを連続して襲撃し、負傷者10名と死者3名もの犠牲者を生み出した事件です。少年たちは同年2月中に逮捕され、家裁の審判によって、9名が少年院に、1名が教護院(現・児童自立支援施設)にそれぞれ送致されました。
1980年代は、青少年のホームレス襲撃事件が相次いだだけでなく、校内暴力、家庭内暴力(親に対する子どもの暴力をいうが、多くの場合は親子間の相互暴力)、いじめ、不登校が一挙に社会問題化した時代でした。
この事件の同年に、総理府青少年対策本部『青少年と暴力に関する研究調査―直轄調査(1982年)』が発表され、この時点で青少年の中に暴力が広範囲に拡大していたことを明らかにしています。
この調査は、全国の中高生3000人を対象に、家庭訪問による聞き取りを調査方法とするもので、この時代の青少年と暴力に関するもっとも精度の高い調査研究であるといっていいでしょう。
これによれば、すべての中高生の1/3が教師に対する暴力願望を持っており、6~7割はいじめを許容していたことが明らかとなっています。とりわけ低学力の中高生については、教師に対する暴力願望は1/2にまで跳ね上がり、ここではさらに40%の子どもたちが親に対する暴力願望をあわせもっていたことも分かっています。また、親に対する暴力願望は、家庭に不満のある子どもたちの場合には、70%を超えるまでになっていました。
2000年には、総務庁青少年対策本部『青少年の暴力観と非行に関する研究調査』が発表されています(http://www8.cao.go.jp/youth/kenkyu/hikoug/hikoug.htm)。
この調査は、全国の中高生約2100名と少年鑑別所に在所する非行少年約1400名を対象に調査票による集団自記式調査を手法とするもので、こちらも調査精度は高いと評価していいものです。
この調査結果の一部を抜粋すると、次のようなことになります(以下のグラフは、上記ページからの抜粋)。
◇親から受けた暴力
非行少年群は40%前後の高い割合で、親からの身体的虐待を経験しており、一般の中高生においても男子は2割前後が、女子は1割強が親からの暴力を経験しています。特に、女子の非行少年群において、親から受けた暴力の割合の高さが目立ちます(図1)。
◇親に対する暴力
親に対して実際に暴力をふるった経験のある割合は、非行少年群と一般中高生において開きがあり、非行少年群では15%前後となっています。しかし、青少年の内面における親への暴力願望を含めたあり様は、男子はともに4割前後が、女子は一般群で3割前後、非行群で4割強となっており、一般の中高生においても暴力願望の高いことがうかがえます(図2)。
◇いじめ
「いじめられた」ことと「いじめに加わった」ことの双方で、さほど一般群と非行群の差はありません。1/3から1/2の割合で子どもたちはいじめの当事者であることが分かります(図3・図4)。
しかし、「いじめ」の場面で「知らんぷりする」(黙殺する)ことを肯定する割合は、非行群よりも一般の中高生群の方が著しく高いことが分かります(図5)。多くの子どもたちが暴力願望を内面に抱き、「いじめ」の当事者でありながら、一般群では「巻き込まれないように黙殺する」という「臆病な処世術」にはまっているということができるでしょう。
なお、「いじめ」については、国立教育政策研究所『いじめ追跡調査』(2004~2006年、2007~2009年、http://www.nier.go.jp/shido/centerhp/shienshiryou2/3.pdf)が詳細に明らかにしています。
2004年度に小学4年生であった首都圏の子どもたち約600名を対象に、2009年度中学3年生になるまで、年2回の縦断的調査を実施した精度の高い調査です。
この調査結果では、「いじめ」被害を1回以上経験したのは子どもたち全体の90.3%で、この内、週1回以上の頻度の被害経験のある子どもは53.7%と過半数を超えています。また、いじめの加害者となった経験のある子どもたちは88.9%であり、この内、週1回以上の頻度で加害経験のある子どもたちも43.1%にも上るのです。
要するに、「いじめ」はもはや普遍的な事象であり、特殊な性格の子どもに起きるのではなく、どこの誰にでも発生する現象であることが明らかにされました。
このようにして、1980年代からの様々な調査結果は、家族、学校、地域を舞台に、親密圏(親子、夫婦、彼氏彼女)、職場、顔見知りの関係、見知らぬ関係のいずれであるかを問わず、暴力が広範囲に拡大してきたことを明らかにしています。家に居ようが、学校に行こうが、職場であろうが、どこもかしこも心休まる場所はありません。暴力に巻き込まれないための防衛的処世術の鎧を身にまとい、あるいは神経をすり減らしながら生き抜く力が、「生きる力」「自立心」の必要不可欠な一部を構成するまでになっています。「モンスター・ペアレント」や「クレーマー」の対策づくりも、このような消耗戦の一つです。
このようなサバイバル・ゲームが日常生活世界になってきたこの30年余りは、ちょうどわが国が1985年のプラザ合意に始まる「バブルの時代」を挟んで、産業の空洞化とグローバルな資本移動の自由を最大限に保障するための構造改革を追求してきました。規制緩和という「国・自治体を市場に埋め戻す」構造改革をすすめながら、企業社会では、家族がどこに居ようが海外を含めての長期単身赴任は当たり前、それでいて中高年になれば「リストラクチャー」を口実に解雇に向けた陰湿な「職場いじめ」に合うようになりました。
バブルの時代に浮かれきった経験のある先行世代は、当時に正視すべき問題をまともに見ることなく問題解決の契機となる転換点を見失ったという意味で、歴史的な責任を若い人たちに負っていると断言します。
一方では、公共の場が市場化され、他方では、生活と労働の主体であるはずの人間が資本蓄積の効率に貢献する限りの奴婢にまで貶められるようになったのではないでしょうか。一部の結果的な「勝ち組」を除き、ほとんどの人たちは「自尊心を培えない競争」の渦中に生活丸ごと巻き込まれるようになり、学校・職場の「いじめ」や虐待が普遍的現象にまで拡大していったのです。
それは、近代的自我をもつブルジョワジーの「万人の万人に対する闘争」ではなく、近代的個人にまでには至れない「萎えた自我」が繰り広げる、前近代的身分差別に近似した構造があるとさえ考えます。葛藤を回避する間柄は、析出した個人間の関係ではなく、「閉じこもった自分」か「全体秩序に従う自分」の間でしか成立しないからです。
競争に勝ち抜くために「今、ここで、自分だけ」という自己愛に走らざるを得ないのだが、勝ち残ることができるのは一握りの人に過ぎないために、自尊心を育むことは能わず、自己の無力感はときとして自暴自棄と暴力のエネルギーとして吐き出されることになります。それは、負け続けたギャンブラーの心性とほとんど変わることはないでしょう。
その一方で、「勝ち組」は万能感に浸りながら、暴力や貧困と隔絶した「安全な」生活世界に身を置いて、決してこれらの社会問題を「負け組」と共有することをしなくなりました。これがまさに「選択の自由」にもとづく格差社会であり、「呪いの連鎖」を社会に産出し続ける原動力なのです。
ヨーロッパにおける「職場いじめ・パワハラ」対策の起点に重要な役割を果たした精神科医のマリー=フランス・イルゴイエンヌの『モラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられない』(高野優訳、紀伊國屋書店、1999年)は、自己愛的な精神病理と自尊心の欠如をさまざまな暴力を生み出す問題点として指摘しています。もとより、自尊心の欠如は、虐待の原因であり結果でもある重大な要因の一つです(これはよく知られた知見であり、例えば『子ども虐待問題百科事典』、明石書店、198頁参照のこと)。
私たちは、自分に自信が持てず、自己評価の低いことを「社会的に宿命づけられる」現代のサバイバル・ゲームそのものを問題群として共有することによってはじめて、日常生活世界における虐待と暴力の連鎖を断ち切る民衆的展望を切り拓くことができるでしょう。
コメント
私も何かの本で読んだことがありますが、やはり小さい頃の育て方や生活環境は子どもの性格付けにとても影響があることは明らかです。
近年、教育現場ではモンスターペアレントなどにより教師や教育者の教育の仕方に問題があると指摘されがちですが、その前に保護者による教育が子どもの育ちに対する影響が大きいことは忘れられがちです。
虐待をしてしまう親も、元をたどれば小さい頃にその親に虐待をされていた、などどこかで連鎖を断ち切らなければ悲しい子ども、未来の大人は減ることがありません。だからこそ、義務教育、果てはその前の初等教育から子どもをしっかりと見つめ教育することのできる教育者が求められるのです。
連鎖を断ち切る一つの期待として、これからの教育者が求められるのではないでしょうか。
私は以前、彼氏に手をあげられたことがあります。彼は幼いころに父親からの暴力を受けていました。手をあげたことで、自分も親と同じなのではないかと苦しんでいます。
子どもは親を選べません。自分を慈しんでくれる家庭に生まれる子もいれば、そうではない子もいる。では選べるものは何か…。友達、先生…。そのような身近にいる人々が、いかに話を聞いてくれるか、支えになってくれるか。
そのために、他者との信頼関係をいかに築くことができるか…。今の日本人にとっての課題の一つではないでしょうか。
私が「いじめ」において思ったことは、問題(いじめ)に巻き込まれたくないという考えの傍観者的な人たちが多くいることです。
確かに安全な位置にいれば問題に巻き込まれることはないと思いますが、それは周囲が敵であるつまりだれも信用できないということです。
この原因は少なからず現在の道徳教育の在り方に問題がある気がします。つまり「友情や信頼関係は大切だ」という表面的な問題認識をさせるのではなく、もっと根本的な「壁を作るのではなく、互いを信頼し、分かりあうことの大切さ」を再認識させること、殻を破り一歩踏み出す勇気を育てることが重要なのである。
そのことが、この問題の歯止めになると思いました。
「いじめ」というのは、暴力をうけたり、悪口を言われて精神的に追い込まれたり、というようなもののことだと思っていましたが、最近は少し範囲が広くなったように感じます。何をもって「いじめ」と判断するのかは難しいことですが、単に「被害者が嫌だと思ったこと」という認識では社会で生きていくうえで問題が発生してしまうでしょう。「軽い冗談のつもりがいじめと思われてしまった」ということが頻繁に起こってしまう社会では、誰もが息苦しく感じるはずです。傍観者の問題もありますが、いじめを根本からなくすために、まずはそれぞれが「いじめはいけないこと」という大前提と「何がいじめなのか」を考えて、いじめの発生理由を子供たち自身が考えられるような教育の機会ができることが解決の要素となるのではと思います。
暴力願望をもっている中高生は一般少年群でも高い割合であることが気になりました。
親の育て方は子供の考え方に影響を及ぼし、親から暴力を受けた子供は暴力願望を抱きやすくなると思います。暴力は家庭でも「いじめ」という形で学校でも行われ、どちらかで解決できる問題ではなくなってきているように感じます。より学校と家庭との連携が必要であると思います。
またいじめの黙殺を肯定する人が多いことについて、黙殺はいけないことであるということはあまり教えられてはいないように思います。そのことをどのように子供たちに教えていくかも教育現場での課題であると思います。
私は図1から図5までの数値をそのまま鵜呑みしてはいけないなと感じた。いじめの問題や、家庭における暴力の問題について調査するにあたって、調査される側の人によって、どこからがいじめなのか、そしてどこまでがしつけの一環でどこからが暴力なのか、そのボーダーラインはさまざまである。最近よく、何か自分に不都合なことが起こると「いじめじゃん」と言う人をよく目にする。例えば、グループ内でじゃんけんをし、負けたから前に出て発表することになり、「いじめじゃん」の一言。もしこのようなことを本当に「いじめ」と思っている人がいるなら、高い調査精度は期待できないと思う。「いじめ」の定義は何なのか?もし定義づけられたらもう一度調査結果を見てみたい。
今までに「いじめ」を経験した人が子供達の90%以上であることに驚いた半面、国立教育政策研究所の『いじめ追跡調査』によるいじめの定義に「陰口、仲間はずれ、無視」といった事柄が漠然と含まれていることに疑問を感じた。このことが%をあげている大きな要因であるのではないかとも思った。確かに「陰口、仲間はずれ、無視」もいじめではあると思うが、それと同時に暴力などの目に見えるものではなく、人それぞれの心に起因する部分が大きい上に、僕個人の経験として子供達はいじめという言葉をよく理解せず、不用意に使う傾向がある。その点で、より信頼性のある調査にするためにもっといじめに対して具体的な定義を設定することが必要であると思うし、そうすることでいじめに対する対策もより良いものになると思う。
日本人は子どものころから、自己主張よりも自己抑制をしたほうが、より褒められる傾向にあります。そのため、「自分はこう思う、こうしたい」というような自己主張をあまりせず、空気ばかり読もうとするため、自分に自信が持てず、自己評価も低くなるのではと思います。この、周りに合わせようとする日本人の特徴が、いじめを黙殺したりする原因の一つになっているのではと思います。また、日本でよくある「全然勉強してない」と言って友達を安心させておきながら、自分だけ高得点をとるという卑怯なやり方からも、誰かをひそかに蹴落として自分は自動的に上に立つという「いじめ」と似た思考があるのではと思います。日本のお国柄を見つめなおすことも必要なのではないかと思いました。
自分の父母の世代やそれより上の世代では、教師が悪いことをした生徒を叱るのに手を上げる、父親が悪いことをした子をぶつ、といったことが当たり前に行われていたと聞く。これは決して虐待や暴力ということではなく「指導」として大人‐子どもの双方が理解していたらしい。それが現在では教師が生徒を殴れば生徒側からの反発が生じ、その親やその他大勢の保護者方からの抗議はすさまじいものである。かといって事務的な注意の仕方のみで解決しようとしても非行少年を生み出すきっかけになりえる。(以前、非行少年たちは教師に「見てもらえない」ということが不満である、という内容の特集映像を見たことがある。)この過去と現代の差はどこから生まれてきたのかを考えると、親‐子の関係の変化にあると自分は思った。自分が一番大きい要因と思うのが「共働き世帯」が増えたことである。子どもの活動している時間は昼間であり、その時間帯に親は仕事をしていて自分の子どもが何をしているかを「見て」いない。帰宅して子どもと今日一日何があったかをゆっくり話す時間があればいいが、中学生にもなれば、夜は部屋にこもって宿題をやるということが増えるし、自分のやりたいことも増える。この親と子の関係が希薄になっていき、本来家庭で学ぶべき「良いこと悪いこと」が分からない子が増える要因となり、これが「いじめ」や「暴力」といった攻撃性へとつながっているのではないかと自分は考える。
今の子供たちは、いじめの加害者、被害者両方の経験がある。つまり、いじめの加害者であった人が被害者に、被害者であった人が加害者に変わるということである。いじめられないようにいじめをするといった子供もいると思います。このように、いじめが自分を守る手段となってしまう。親からの暴力、学校でのいじめなどがあり、支えとなる場所がなくなってきているからだと思います。いじめは、家庭や学校全体で考えていかなければならないと思います。教師や親が子供たちの支えにならなければいけないと思いました。
自分はいわゆるそこそこに「荒れて」いる小・中学校の出身です。すぐに殴るというような行動を起こす人には兄弟も同じ傾向にある人もいました。幼いころから触れている家庭からの環境は大きいものであると感じます。ただ、親から、兄弟から暴力を受けていた、ということだけでなく、親との交流が少ないことも非行へとつながっているような気もします。現代では共働き世代が増えて、親子の関係は昔よりも疎遠になっていると聞いたことがあります。「親が自分を見てくれない」つまり愛情を感じるということが減ってしまったことも原因なのではないかと思うのです。
ブログの冒頭にある、ホームレスに対して中高生が襲撃する事件は、横浜浮浪者襲撃事件のように死者がでるようなケースではないものの、他地域でも起こっているような気がする。私の地元でも、何年か前に中学生のホームレスに対してのいたずらが問題になったので、このブログ記事は他人ごとではなかった。
人間には喜怒哀楽があるが、ただそういった様々な感情を抱くだけでなく、その感情を共有してもらいたい、という気持ちがあるのだと思う。具体的に述べるとすれば、学校で賞をとったなどの自慢話や新しいクラスで友だちができるかな?といった悩み事などだ。しかし、親が仕事等で忙しく聞き耳をたてない、もっというと親が暴力をふるってくるといった状況では子どもが感情を共有してもらうあてが家庭内では無くなる。したがって、学校での友だちとの会話のなかで、そういった子どもは自分の感情を共有してもらう、すなわち、かまってもらう場所を見つけるほかないのだと思う。しかし、学校で感情を共有できてもできなくても、やはり、親の愛情を受けることができない、そして、感情を共有してもらえない悲しみ、寂しさはつのり、その悲しさ、寂しさを発散させる先に、いじめや暴力があるのだと思う。子どもは親を選べない。けれども、皮肉にも子どもにとって親は親であり、一番愛情を受けたいと切に願う相手なのだなと改めて思った。
「いじめられる」理由はたくさんあります。正確に言えば、理由がないことさえ口実になっていじめられるのが今のいじめです。私はその責任が親、教師、子供それぞれにあると思います。共稼ぎが増加し親は家庭教育を怠る、教師と学生はいじめをみても暗黙的承認をする、このような状況ではいくら政策が導入されても根本的に問題は解決できないでしょう。よって、我々は義務感を持ちそれぞれに課せられた社会的義務を果たす必要があると思います。
自分が負った心の傷をかばうために、他人を傷つけたり非行にはしったりする子どもが増えてきている。また今の時代は、いじめられている子をかばった子が次のいじめの標的にされてしまう。こういったことが増えた原因は、大人になりきれない親が増えていることと、子どもたちが抱える不安や心の傷を受け止めてあげる大人が少ないことにあると思う。良くも悪くも子どもに影響を与えるのは、周囲の大人たちなのだということを今一度考える必要があると思う。
「いじめ」という教育現場における問題は非常に難しい。「教室」という限られた空間には、様々な子どもがいる。その中にはきっと、子ども自身にとって苦手な子どもやあまり気が合わない子どももいるだろう。それなのに教師は、「みんなと仲良くしよう。いじめはいけません。」と指導しなければならない。こうした矛盾の中でいじめの黙殺等の問題は生まれてくるのだと思う。また、私はいじめを受けている子どもを受け入れるようなシステムが崩れていると考える。最近では学校にカウンセラーを置きいじめの対策をとっているが、重要なのはもっと身近な人々なのではないだろうか。例えば、親や保護者、地域に住む人々である。しかし親や保護者は共働きなどの新しい家族の形態ができ、また地域に住む人はプライバシーが問題視され始めてしまい、子どもが身近な大人と接する機会が少なくなってしまっている。子どものいじめの問題は日本の社会全体が関係している大きな問題であるといえるだろう。いじめはどこにでも存在しているという認識を共有し、この問題をしっかりと直視することによって、解決への糸口が見つかっていくと私は考える。
「いじめ」は誰しもが行う可能性があり,そして受ける可能性もあります。しかし,一度も受けずに育ってきた人がいるのも事実だと思います。「いじめ」のつらさは,やはり経験のある人にしかわからないのではないでしょうか。学校が「いじめ」の温床になってしまうのは,教師がいじめられたことのある経験がなく,「いじめ」に対して無知であるというのも原因の可能性があるのではないでしょうか。伝聞による知識やただ傍観しているだけでは「いじめ」の実態はつかめないと思います。生徒にとって過ごしやすい環境は生徒自身にしかわからないと思います。学校側は生徒達からも意見を求めその体制を変えていくべきだと思います。
私が幼稚園に通っていた時は、クラスの中のガキ大将の様な人が、気弱な人から物を取ったり、ぶったりという「ドラえもん」のジャイアンとのび太の関係のようないじめだった。もしも、それで泣いている人がいれば、しずかちゃんの様な優しい子(女の子とは限らない)が駆け寄ってきて、「なんで泣いてるの?」「いじめはダメだよ」と助けてくれた。しかし、小学校高学年位になるとクラスがいくつかのグループに分かれ、そのグループ毎にヒエラルキーができるようになった。ヒエラルキーの頂点に立つグループが誰か一人をいじめの対象とすると、頂点のグループだけでなく、同じグループの昨日まで一緒に遊んでいた友達や今まで見向きもしなかった別のグループの人までもがいじめるようになった。
このような現状を引き起こす原因は「空気を読む」という文化にあるのではないかと考える。「この人をいじめなければいけない。」という空気がクラス内に漂うと、その空気を読み取り、今まで見向きもしなかった人や、友達だったはずの人までいじめに参加するのだ。
少し前に「KY」という言葉が流行した。「空気が読めない」という意味の言葉だ。これは、一種の危険を知らせるサインなのではないかと私は考える。「お前、空気が読めないな」と注意すると聞こえが悪いが、「お前、KYだな」と冗談交じりで注意することにより、その言動は周りから避けられるぞと暗に注意しているのだと思う。
親から暴力を受けたことのある人がまた自分の子供、パートナーに暴力をふるってしまう、という暴力の連鎖はとても悲しいことだと思います。
本来、両親や家族、恋人といる時間は心の休まる場所だと思いますが、その心の休まる場所で暴力が起きてしまったら、心の休まる場所はなくなり、学校や仕事場でのいじめや暴力の連鎖に発展してもおかしくはないと思います。
いじめや暴力をなくすことは、難しいと思います。でもせめて私の周りでそういった悲しい連鎖が起こらないよう、心の休まる場所を家族や友達、パートナーに与えてあげたいと思いました。
私は小学校の時にいじめられていた子を助けたことがあります。その後、私が助けたことが気に食わなかったのか、私へのあたりが強くなりました。しかし、逆にいじめていた側がクラスで孤立するようになってしまいました。「いじめ」も連鎖するのだと思いました。このブログを読んで、「いじめ」が普通であることに驚きました。また、いじめを見て知らんぷりをしても仕方がないと答えた割合が、高校生に多いことにとても複雑な気持ちになりました。私が高校生の時に「いじめ」は無かったと思っていたからです。ですが今思うと気づかなかっただけなのかもしれません。大学生になって「いじめ」なんてあるはずがない、と思っていましたが、これからは周りをよく見なければ、とおもいました。
これから「いじめ」が怖いから自分の意見が言えない、そんな人が増えるのでしょうか。「いじめ」を少しでも無くす取り組みが、社会で必要とされていることの一つだと思いました。
この記事では主に子供の親への暴力やいじめが取り上げられていますが、私は暴力というと真っ先にDVが思い浮かびました。私は家庭で父が母に暴力を振るう光景を見てきました。幼少期からのこの経験が、暴力を受けた張本人でない私の心にも傷をつけています。人が人に傷つけられているのを見るのは本当に苦しくて、盾になったこともあります。暴力は被害者もその周りの人も傷つけるし、物理的にも精神的にも傷となるし、人間が持っているはずの理性を欠いた、最低で恥ずべき行為です。そして一生償うことはできません。暴力を振るう人はその暴力が最終的には自分の心にも傷を残すということを思い出して、暴力を振るう手前で少しでも理性を取り戻して行動すべきだと思います。
子供たちの性格や考え方、精神状態は少なからず小委の環境が影響している。仮に家庭内暴力をうけて育った子供がいるとする。この子は家庭で暴力を受けることが「あたりまえ」なのだと認識してしまう可能性がある。もしそうであったならば、この子が大人になり家庭を持ったとき、自分の子に暴力を振るってしまうかもしれない。なぜならそれが「あたりまえ」だから。
このような暴力の連鎖は実際に起きている。どのようにしたら防げるのか。それは周囲の人間の助けだと思う。それは友達であったり教師であったり近所の人であったり。危機的状況を察知できるだけの人間関係を築くことが大切なのだと思う。
家庭環境と子供の非行は密接に関係している。暴力が日常的に振るわれる家庭で育った子供が、非行に走る可能性が高いというのも事実だろう。しかし、昔は「頑固おやじ」や「熱血教師」など体罰を行い、子供たちを正しい道に導けていた。この違いが生まれたのは、今の親や教師が子供のことをしっかりと理解できていないからだと思う。親は共働きの人が多くなり、教師もさまざまな問題に時間を取られ子供とつきあい、子供を観察する時間が圧倒的に短くなっている。
普段自分たちのことを見ていないのに、たまに口を出してくる大人を「うざい」と感じてしまうのも分からなくない。反感の気持ちを持たせるだけでは、しかることに意味はない。
今はしかるのにもテクニックが必要とされているだろう。まず、子供をほめるということが大切だ。ほめることでしつけにメリハリがつき、しかることが効果的になるだろう。また、親の期待に応えようという気持ちも芽生える。次に、子供と子供の行為を区別するということが、必要だ。しかる時に行為ではなく子供自身を攻撃してしまうことがありがちだ。しつけとは未熟さゆえに繰り返す失敗行為を改めさせることだということを忘れないようにしたい。
「頑固」や「熱血」なしつけが通じなくなった今、しっかりとしたテクニックを身に着けたしつけが必要とされていると思う。
私も転勤族であり小学5年生のころには環境になじめず、いじめを受けていた。表面上はクラス全員からうけていたが、内面上は私に対するいじめをこころよく思っていない者もいた。経験者として私はいじめの原因はその集団の権力者にあると思う。権力を持つものに嫌われたら周りの者もその意見に賛同せざるをえず、それでいじめが始まる。その権力者の意見に左右されるからいじめの被害者にも加害者にも簡単になってしまうと思う。
そこで、これを解決するためにはさらに上の権力者の力が必要だと思う。学校でいえば先生、家庭でいえば父親である。今の世の中威厳のある教師、父親がすくなくなってきたと思う。教師も父親ももっと威厳をもち子供たちと接し、面と向かって一人一人と向き合うことが必要であると思う。
非行少年たちは記事にある調査結果を見ると、明らかに親からの暴力を受けていることが多い。また、その非行少年は親に暴力をふるったりすることもある。非行少年たちが将来親になって子供を産んでも、こういった暴力が再び行われる可能性は低くないと思った。
また、こうした非行少年たちはいじめる側に回る可能性が高いが、いじめられている人を傍観し、自分がいじめの対象にならないように息をひそめている人たちがとても多いことに気付く。「自分さえよければ」などと思っている人が多く残念に思う。
しかし、いじめというものは生徒同士で解決できるものではなく、教師がきちんと把握していじめられた子の親と連絡を取り合って解決していかなければならないと思う。そこで、教師がいじめを把握するためにも、ただの傍観者ではない勇気ある生徒の一言があれば、いじめられた子を救えるのではないかと私は思う。
暴力願望というのはその相手から暴力を受けたかどうかが深く関係すると思います。私も小学校五年生のときに憎い教師がいました。暴力をふるったりする人だったので、暴力願望を持たないほうがおかしいと思います。もしあの人が親だったら迷わず暴力をふるっていたと思います。「やられたらやりかえす」というのは多くの人が持つ考えです。青少年の暴力は、受けた暴力と密接に関わっていると思います。
一般群の「知らんぷり」の割合が非行少年群より高くなっており、仲間意識を持てていないのではと感じた。その点では非行とはいえ、共に行動する仲間がいるという見方ができる非行少年群のほうが心の拠り所が存在しているとも思える。いじめを容認しない為にも親密圏にある親兄弟との絆を深め、安心できる場を形成する必要性が今おおいにあると感じた。その為には親子が触れ合える時間を作る為の社会の仕組みも重要であると考える。
いじめが現代の社会において普通のものとして扱われていることはとても残念なことだと思います。実際に、いじめの現場を見ても自分もやられるかもしれないから無視する人たちが約半数にも上っていて、いじめをとめるための発見の第一歩さえ踏み出せないのかなと感じます。現在問題になっているいじめに関して、先生さえも見て見ぬふりをしたといわれています。先生にさえ助けを求めることができないのは、さらにいじめ問題が加速する原因となることであろう。まず、いじめを絶対に許さないという姿勢と相談しやすい雰囲気をつくることが大切だと考える。
私は際立った暴力を受けることなく今まで生きてきたが、記事にあるようないじめの「知らんぷり」を行ったことがある。「知らんぷり」を行っていた側としては、確かに私は自分がする行動に自信が持てず、自己愛に走っていたところがあったと感じる。
私は自信を持つことが未だにできずにいるが、友人から頼りにされたときなど、人との深い関わりを感じた際は、必要とされていることが実感でき、少しではあるが自信をもつことができるように思う。だから、この暴力が増加してしまった社会であるからこそ、現代社会のもつ問題を共有でき、グローバル化進行により稀薄になった対人関係ではなく、お互いが支えあっていけるような濃い対人関係が必要となるのではないかと考える。
私が小学4年生のときに、クラスでいじめが問題となりました。それはクラスの大多数の人がいじめる側にいて、私もその一人でした。担任がこの問題をクラス全体で考え、私もいじめについて深く考えるようになりました。いじめというのは、本当に深刻な問題であって、なかなか発覚しません。それでも教師は、いじめに気付いて向き合わなければなりません。今、大津市の事件が大きな問題となっています。ああいった事件はもう起こしてはいけません。現代では、いじめと教育現場は切り離せない状況になっています。このことについて、私たちは何度でも何度でも考え、話しあっていく必要があると思います。
いじめについて、現在、各メディアで大津市の中学校の問題が取り上げられている。その件について、ニュースを見たり、新聞を読んだりする機会がとても多いが、この件にかかわっているいじめの内容や教師の対応など全てが最悪と言える状況であったのだと感じた。きっとこれは、現代社会における地域のつながり・人と人とのつながりの希薄化など産物なのだろうと思う。このことは、日本の社会が抱える最大の課題の一つとして、広く認識され、一人一人が考えていかなければならないことなのだろうと考えている。
いじめはあってはならないことです。いじめは人を傷つけ、自分も傷つきます。そしてまた、被害が拡大し感染病のように広まっていきます。いじめられた本人は、最悪な場合自殺などを考え、精神的にもやられます。いじめは、その人の人生を変え、未来を奪う可能性があるのです。いじめが起こる原因は、自分の気にくわない人、嫌いな人を干渉するから発生するだと思います。いじめる人は、自分の立場を確保したい、私情で心が傷ついていたりなどいろいろな心の問題を抱えているケースが多いです。いじめが発覚した場合、いじめられた側はもちろん、いじめた側の人間にもケアは必要です。このケアの仕方によって、双方の更生が成功したり、失敗したりします。どのような理由であれ、いじめはよくないので、そういう現場に遭遇したときは注意できるようにし、きちんと考えて行動ができる人間になりたいと思います。
暴力というものは生きている限り誰にしも関わりがあるものと私は思います。恥ずかしながら私も中学生の頃3つ年の離れた弟を相手に暴力を行なっていました。当時の私の気持ちは当然、今の私では理解しがたいものですがそのことを考えると非常に大きな背徳感に襲われます。力のあるものがないものに対し暴力を手をかけるのは簡単なことで愚かなことだと思います。これは思春期の子どもの「いじめ」の話だけではなくて大人の社会でも十分にいえることだと思います。暴力がなくなる社会を実現することは非常に難しいことだと私も思いますが一人一人の意識こそが環境への変化へつながることは確かなので私自身今一度経験を糧に心がけて生活していきたいと思います。
宗澤教授の授業を受けているものです。「いじめ」という問題が全体の90.3%の子どもが一回は受けているという現状が指し示している通り、当たり前、まるで普通のことのように扱われていることに私は問題があると思う。私自身この結果からみても「いじめ」を0にすることは無理なのではないかと思う。ただし、そのいじめの芽を早いうちに摘むことはできるのではないか。そこで重要になってくるのがやはり「家庭」だと思う。教師よりも長くこどもを見ている親たちが、子供らの学校の様子について聞く時間を設けるだけでずいぶん「いじめ」の初期段階に発見でき、いじめの件数がグッと減るのではないか。
私は「いじめに対してどう対応するか」よりも「いじめが起こらないようにするためにはどうしたらよいか」という議論や環境づくりの方が大切だと思います。
例えば、いじめた側に厳しい罰を与えると、「報復」をうけたり、今度は「あいつは悪者だったんだ」と今度はそちらがいじめられる側になるかもしれません。
例えば、いじめられた経験をもつ人が「もうあんな思いはしたくない」と考えて、いじめを見ないふりをしたり、いじめる側に加担してしまうかもしれません。
それに、いじめられている人が教師や親に相談するのは難しいし(「報復」への恐れや親に心配をかけないようにするためなどの理由から)、仮にしたとしても教師だって生徒からの「攻撃」を恐れて何もしてくれないことの方が多いです。
いじめは、する側にもされる側にも傷を残します。故に「加害者」はどこにもいないと思います。暴力や虐待も同じです。
「いじめ対策」「虐待対策」など、様々な対策がありながら、それでも普遍化しつつあるのは、この「被害者しか生まない現象を生む環境」への対策が不十分だからなのではないかと、私は考えています。
子供は親の影響をとてもよく受けています。親の姿を見て育ってきた子が大半だと思います。親に暴力を振るわれたことのある子は暴力に対して過敏に反応するでしょう。そして自分が大きくなり、親に対して反抗的になったとき力を見せつけようとして自分も暴力を振るってしまう子も中にはいるのかもしれません。実際には本人にしか分からないことですが、そういった気持ちを全く関係のない人にぶつけるのは違うのではないかと思います。いじめで自殺した子も今までニュースなどで取り上げられてきましたが、まだまだ見過ごされているいじめはたくさんあるでしょう。私自身はそんなに大きないじめの現場をみたことがあるわけではありません。しかし、実際に見たところで止める勇気があるかと言われれば、ないと答える可能性のほうが高いです。綺麗事ばかり並べていたって何もかわりません。なんだかんだ言ったって自分が標的にされるのは嫌だと多くの人が思っているでしょう。けれど、どこかに見て見ぬふりをしていることに罪悪感を持ちます。1人で動くのはやっぱり怖いので誰か信用できる人がいたら少しは違うのかと思いました。
私が中学生の時に、クラスの中でいじめがありました。いじめられていた女の子は、精神的に少し未発達な部分があり、男子から掃除時間にその子の机だけを運ばなかったり、本人に聞こえるように悪口を言ったりするなどのいじめを受けていました。私たち女子も、男子に少し注意する程度で、いじめを本当に止めようとは考えていませんでした。今、思えば、私もいじめを傍観していた一人で、彼女をかばうことで次は自分に被害がくるのを恐れていたように思います。彼女には、本当に申し訳なく思っていますが、私は、これから職場などで同じような場面に遭遇しても、また傍観者の態度をとってしまうかもしれません。自分に被害がくるかもしれない状況で、相手のことを優先するのは、本当に勇気と覚悟がいります。これは、いじめを傍観してしまっている子のみんなが、わかっていることかもしれません。しかし、その勇気や覚悟を持つためには、家族や先生や友達の支えが必要不可欠です。心から信頼できる先生や友達がいれば、いじめをなくしていくことに少しは繋がっていくと思います。もっと人とコミュニケーションをとり、信頼関係を築いていける社会にならなければ、いじめや暴力はなくならないと思いました。
子どものいじめは、親の虐待が影響していると思います。それを考えるといじめや暴行を行う子どもたちを叱るだけでは、問題は解決しないと考えます。虐待をうけた子どもたちは、暴力を振るわれるのが普通という環境で育っているため、自分も嫌なことをあれば誰かに暴力を振るう、というのがその子たちにとってあまり悪いことと思っていないのかもしれません。いじめを無くすのなら親の虐待をやめさせるか、親から虐待をうけているのを誰かが気づいてあげて、その環境から救ってあげることが必要だと思います。
親の虐待についても、虐待してはいけないと言うだけでは解決しないと思います。親が子育てで大変な状態である、というのを誰かが理解してあげ、その状況から助けてあげようという思いが無ければ、いくら虐待をするなと訴えかけても虐待は無くならないと思います。虐待の事件がテレビなどで取り上げられれば、その親を責める声しかあがりません。本来すべきことは、虐待で事件がおこってから責めることではなく、虐待が起こる前に親を助けてあげることだと思います。
簡単に解決する問題ではないと思いますが、いじめを無くすためには虐待につながる前に親の状況を救ってあげるということから始めるべきだと私は考えます。
1980年代に起きたホームレスを襲う事件は20〜30年経った現在でも同じような事件が起きています。このような暴力が繰り返されていることがとても悲しく思います。弱者に暴力を振るう人はその人自身も何らかの暴力を受けていたのかもしれません。小さい頃のそうした経験、生活の中で精神的、身体的な傷は大人になっても消えることはないでしょう。そうした経験が次の暴力に繋がっていっていると思います。いじめや虐待もそうした連鎖の中で続き、その連鎖は広がりながら続いていってしまっています。私自身はそうした経験はないですが、ニュースや新聞にそうしたいじめや虐待のために失われる命があることがたまらなく悲しく思います。誰でも弱い心を持っているし、自分ではどうにもならない傷を抱えている人もいます。その傷を暴力で解決しようとしても解決されるわけがないのです。どうすれば暴力の連鎖がなくなるのか。それはこれからも続く、人々の課題だと思います。ブログの最後にある、「現代のサバイバルゲームとしての問題群として共有すること」は簡単なことではないと思いますが、一人一人のこうした考え方が少しずつでも共有されていける社会になって欲しいと思います。
私は現在大学二年生だが、小学校、中学校、高校を通じて頻繁に暴力を受けることや、精神的な苦しみを受けることなく過ごしてきた。また、自分の周りでもいわゆる「いじめ」というものが起こっていると認識したことがなかった。だから小学4年生に調査した“「いじめ」被害を1回以上経験した子どもたち”の割合が全体の90.3%でこの内“週1回以上の頻度の被害経験のある子ども”の割合が53.7%と過半数を超える多さであるということにかなり驚いた。また、「いじめ」の加害者になったことがある経験を持つ子どもの割合もかなり高いということだった。この数字を見ると今まで私は「いじめ」は起こっていないと思っていたがそうではなく、私の気付かないところで「いじめ」は起こっていた、もしくは、認識の違いで、私が「いじめ」とは思っていなくてもいじめられていると思っている人がいた、ということがあるのではないかと思った。“「いじめ」はもはや普遍的な事象”と書かれていたが、「いじめ」はやはりいけないことであるので、いじめられている人をみれば止めに入ったり、そうでなければその人の力になれる何かをするなど、思いやりの気持ちが大切であると思った。
はじめまして、先日先生の講義を受けた北九州市立大学の者です。講義で聞いた、「虐待を受けたことのある親が自分の子どもに虐待をしてしまう確率は、米国では15%、日本では30%」ということに、非常に驚きを感じました。実際には、自分が虐待を受けたことがあれば、もっと高い割合の人が自分の子どもにも虐待をしてしまうのではないかと思っていたからです。この15%、30%という数字、逆に言えば、自分が虐待を受けた経験があっても、その8割前後の人は自分の子どもに虐待をせず、きちんと子育てを行えている、ということです。子どもに虐待をしてしまうのは、自分が虐待を受けたか否かではなく、子育てにおける周りの環境のほうが強く影響するのだということに気づかされ、目を見開かされました。
また、このブログに書かれている暴力やいじめについては、非常に深刻で、改善がとても難しい問題だと思います。
私の中学校では、「いじめゼロ」を掲げてアンケート調査、いじめに関する講義などを実施していました。しかし私は、いじめをゼロを目標にすることよりも、いじめを受けた人、あるいはいじめをしてしまった人のケアの充実に力を入れることが重要なのではと感じてしまいました。
被害者だけでなく加害者にもケアを行うべきなのは、暴力・いじめ、虐待についても同じことが言えると思います。今までは暴力・いじめ、虐待を受けた側ばかりに可哀想だという目が向けられていたように思いますが、それをしてしまった加害者も、ある意味で同じ被害者なのではないでしょうか。その両方をサポートしていける社会が構築できたらいいのに、とつくづく思います。
「いじめられたことがある」と答えた人の割合がとても高いことが気になりました。「本人がいじめられたと感じたならそれはもう立派ないじめである。」と何度か聞いたことがあります。しかし、いじめの定義がはっきりとしないので、この数値をどのように捉えていいのか少し戸惑いました。
また、いじめを見て見ぬふりをする人の割合が一般の中高生のほうが高いのも気になります。非行少年や暴力非行少年は見て見ぬふりはせず、助けに入るということなのでしょうか。
1980年代より前にもいじめや暴力はあってきたはずなのに急に社会問題として取り上げられるようになったのは、この記事のホームレス襲撃事件のように、少年たちの暴力沙汰が増えてきた結果なのでは、とこの記事を読んで思いました。
はじめまして、先日先生の講義を受けた北九州市立大学の者です。講義で聞いた、「虐待を受けたことのある親が自分の子どもに虐待をしてしまう確率は米国で30%、日本で15%」ということに、とても驚きました。実際は、自分が虐待を受けたことがある人は、もっと高い割合で自分の子どもにも虐待をしてしまうのではないかと思っていたからです。この30、15%という数字、逆にいえば、虐待を受けた経験がある人でも、その8割近くの人は自分の子どもに虐待をせず、きちんと子育てを行えているということになります。虐待を受けたことがあるか否かではなく、子育てにおける周囲の環境が強く影響するのだということを思い知らされ、目を見開かされました。
また、このブログにある暴力・いじめに関することも、近年非常に深刻で、解決が困難な問題です。
私が通っていた中学校では、「いじめゼロ」を目標として掲げ、定期的なアンケート調査やいじめに関する講演会などを実施していました。しかし私は、いじめゼロを達成しようとするより、実際にいじめを受けた人、あるいはいじめをしてしまった人へのケアの充実に力を入れてほしいと感じずにはいられませんでした。被害者だけでなく、それをしてしまった加害者にも十分なケアが必要なのは、暴力・いじめに加え虐待に関しても同じことが言えると思います。そういったサポートがなされていない現状にいる加害者の人々も、ある意味で被害者なのではないでしょうか。どんな立場にある人も心穏やかに過ごせる社会が構築できるようになれば、とつくづく思います。
自分の居場所はどこにあるのか。ともう一度考えてみる必要があると考える。上記のグラフから、非行少年は親からの暴力を受け、いじめに関与している傾向が読み取れる。彼らは自分の生きる価値をどのように考えているのか。自分を主観的にしか見てないのではないかと私は考える。彼らは未来の社会を担う一員でもあるのだから。しかし、このようにさせてしまった親も悪い。暴力は親から子へと連鎖的に続いてしまう。誰かがやめなければならない。その時に自分を客観的に見直すことが必要だ。いつでも自分を更生できると思うからだ。子供たちの暴力の減少化を望んでいる。
はじめまして。先日北九州市立大学で先生の講義を受けた者です。いじめ問題がこのように深刻になっているとは思っていませんでした。私も小学校と中学校のころにいじめに関するアンケートを受けたことがありました。そのころは何も気に留めていませんでしたが、自分の知らないところでいじめはあったのだと思いました。普遍的な現象でいつどこででも発生するということはとても恐ろしいなと感じました。また、浮浪者を襲った事件には驚きました。しかし、その背景には親からの虐待をされた非行少年たちが事件を起こしていて、彼らもまた被害者なのだと思いました。私は親に暴力をふるいたいとは思ったことはないですが、先生に対して何回か感じたことがありました。成長するにつれてその思いはなくなりましたが、自分にも暴力的な感情があると分かりました。これからもいじめはなくならないと思います。しかし、減らしていくことはできると思うので社会と地域が一丸となって問題に対して解決策を考えていくべきだと思います。そこに、大人なだけでなく子供の意見も反映していけばいいと思います。
グラフを見ていじめにあったことがある、いじめに加わったことがあると答えた人がこんなにもいることにとても驚きました。
実は私もいじめにあったことがあります。仲の良かったグループの人たちから言葉の暴力を度々うけました。いじめの報道によると、加害者の子は「ただからかっただけ」のように答えることが多いようです。私がいじめられたと感じたことも、仲間内でのからかいととらえられるのかもしれません。「いじめ」と「からかい」の境界線はどこなのか、とても難しい問題です。本人がいじめだと思ったらいじめであるといいますが、私はある子に「被害妄想」と言われたことがあります。その子によると、色々言われただけでいじめられてると考えていて被害妄想すぎると。私のような人は精神的に強くなることが大切なのでしょうか。
また私のようにいじめられた経験をもっていても、やはり他のひとがいじめられたときに見て見ぬふりをしてしまいます。なぜそうしてしまうのか。私の場合は助ける勇気なんてない、偽善者だと私もまたいじめられてしまう、あの子はこういう所がだめだからいじめられても仕方ない、なんて思います。昔の自分を客観的にみると、被害者というのだけにとらわれて自分のどこがだめだから改善しようという気持ちがたりなかったからいじめられ続けたのだと思います。経験者としていじめの加害者が悪いのは当然だが、被害者も自分なりに自分をまもるための方法を考えることが大切だと思います。
自尊心の欠如が様々な暴力やいじめひいては虐待の原因であり結果でもある要因のひとつだというのはその通りではないかと感じました。自尊心が欠けていると少しでも自分を肯定したいがため、いじめを行って自分より弱いものを作り、暴力をはたらいて少しでも自分の力を見せつけようとするのではないかと私は考えます。しかしそれらの行為は逆に虚しさを伴うだけで、本当の自尊心を育むことには繋がらないし、いじめ・暴力を受けたものは自尊心を壊されてしまうのではないかと思います。だから暴力は暴力を生み、いじめはいじめを生むのだと思います。それならば私たちはいじめ・暴力を減らすことよりも自尊心を育むことにもっと時間を割くことが求められていくのだと思います。
この内容の中で自分は”いじめ”というワード、その中でも傍観者の存在が気になった。このように子どもたちが見てみぬふりをしてしまう背景には”スクールカースト”と呼ばれる学校内での階級の考え方があるのではないかと思う。いじめを行う中心人物は、一般にはスクールカースト上位のものであり、その他の、いじめに関わるまいとする子どもたちも、その特性から巻き込まれ、いじめの構造が、加害者集団と被害者一人というものになってしまうということである。そして、このような構造が暴力願望を比較的持たないような子を、”いじめ”という暴力世界に引き込み、現代の社会の暴力問題を、引き起こす一つの要因となってしまっているのではないかと感じた。確かに、人間は内に必ず攻撃性を秘めているもので、”いじめ”が自然に起こりうることは自明である。しかし、絶対に起こることであるから仕方がないとして、対処を考えて行くことをしなければ、自体は悪くなる一方であるのではないか。
現代の人々が、他人の顔色を気にし続け、心の休まる場所を持たない「サバイバルゲーム」に身を投じさせられていることは確かにその通りだと思う。しかしそれは記事内で触れている「勝ち組」が精神的消耗から逃れて生活しているとは思えないし、2013年の現在、自尊心の欠如の原因を格差社会に求めるのは難しくなってきているのではないか。自尊心の欠如に起因する暴力の連鎖は複雑な問題であり、格差社会だけでなく、多くの原因によって引き起こされていると思う。
いじめがおこることによって、その子供の心の奥底に生涯で消えないような深い傷を負わせてしまうことになります。人間にとって大切である仲間としての信頼感や、自信がもてないことによる自己の無力感は、結果として、人間不信、自己嫌悪を与え、未来への希望さえも奪ってしまうような社会を作りかねません。いじめの調査結果を示した図を拝見して、いじめが起こっていたとしても自分には関係ないと考えてしまう子が多いという事実には悲しくなりました。いじめの現場に遭遇したらそれはもう自分にとって関連性をもちます。いじめをなくしていく最初の行動として、我々一人一人が正義感をもち、他者に対する関わり合いの気持ちを大切にするべきです。様子がおかしいと思ったらすぐに反応する。いじめは最初の一日で止める。いじめに発展させないためには周りの人の機敏な対応と人との関わり合いが大切であると考えました。
私自身は暴力やいじめを受けた経験はないが、高校生の時にクラス内でいじめと言えるであろう問題があった。ある大人しい生徒が同じクラスの複数の生徒に容姿や性格について間接的に陰口を言われていたのだ。この問題については、彼女と仲の良い生徒が担任に相談し、担任が加害者側の生徒に事情を聴いて、指導をすることで落ち着いたそうだが、私はその事実に当時気づかなかった。
後で知ったのだが、周りは多くがその陰口の実態を知っていて、クラス内にいじめの傍観者が多数いたそうだ。いじめを肯定する者はそこにはいなかったかもしれないが、黙認してしまう者がほとんどであることは浮き彫りになったし、私個人も仮にそれを知っていたとしても、被害者を救う行動に移せたかと言えばそうではなかっただろうと思う。
そこで、いじめは問題として表面化しにくく、家庭や学校、職場といった場所に限らず、どこでも日常的に発生しうるものだという認識を抱くべきなのだと感じた。また、いじめは負の感情の連鎖を生み、次の暴力やいじめを生み出す。周囲がいじめの加害者をなくせるように努力することは勿論、被害者を救済できるように動けるようにしていきたいと考える。
私が中学生のとき、転校をしてきた女の子がいじめにあい、私がいじめられている女の子に相談をうけた、つまり、両者との間に挟まれたことがありました。そのときに思ったことなのですが、いじめる側はいじめている人間への嫌悪感を共有したがる傾向があると思いました。私はいじめをしていたその女の子に、相談にのるのをやめたほうがいいとか、あの子が私の悪口を言っていたとか、何度も仲間になるよう説得をされました。ブログに載っていた、いじめに加担したことがあったという人数や、黙認していたという人の多さを見て、そのような連鎖が強くかかわっているのだろうと思いました。負の感情をもって仲間意識をもつことは、本当に悲しいことだと思います。
私も過去にいじめの現場に立ち会ったことがあるものですが、やはり「見て見ぬふり」という態度を取ってしまいました。今考えればとても恥ずかしいことです。
今になって客観的に考えてみると、「いじめを是正すると、自分がいじめられる」という恐怖心が私をそうさせていたようです。そして、そのような恐怖心はいじめの傍観者はもちろんのこと、いじめる側の人間にも宿っているということがこのような暴力の連鎖の一要素となっていると思われます。
この問題を解決するには、私も問題の共有が最も効果的だと考えます。いじめを是正する味方が多くいるという安心感を持つことができれば、そのような恐怖心を取り除くことができるでしょう。
学校でのいじめとういものがそこまで多くの割合で存在していて、受けたことがない人のほうが少ないというのには驚いた。確かに自分も中学生の時にはいじめを見聞きしたりはしたが、九割なんて多い割合ではなかった。高校でなんかは耳にしたことすらなかった。ここまで深刻になってしまったいじめについて今まで以上に考えなければ、もっと深刻になってしまうともう。ぜひ今すぐにでも日本全体で取り組んでほしいものだし、それを自分たちも引き継いでいきたいものだ。
いじめというのは中学や高校において自分の周りではなく、いじめに関する調査を見て自分のいた環境はとても恵まれていたと思いました。やはり集団生活をしている以上いじめがなくなることはないという風に私は考えますが、いじめられている人をかばうと、自分もやられるかもしれないから、知らんぷりをするのは仕方がないという人が多くて驚きました。そのような人が多く、いじめが横行しているのは教師側にも原因があります。教師や学校がもっといじめに対して正面から向き合っていかなければいけないと私は考えます。いじめがエスカレートして事件に発展してからでは遅いのです。学校だけではなく政府も積極的にこの問題に取り組んでほしいと思いました。
いじめというのは、する側にも非はあるが、される側も一人で個人的に抱え込んでしまうのはよくないことだと思う。また、いじめられて、自殺したというニュースをよく耳にするが、そういった事態になるまでこの問題が表面化しないという周りの環境にも問題は存在すると考える。いじめを注意すれば、自分がいじめられてしまうと考えがちだが、大勢で止めるとか、上の人に報告するとかやり方は様々あると思います。そして、いじめられる側も、自分が一人ではないのだから、より多くの人と気持ちや意見を共有することでこういった状況も少しはよくなると思います。
自分はいじめにあったり、加担したりしていないのだから関係ないと考える人が少しでも減り、一人一人の意識が変わることが大切なのではないかと思います。
いじめについて私は考えることがある.それは,マジョリティがマイノリティをいじめるために,逆らえない状況を作り出していることが問題なのではないか.そしていじめる側は特に被害者に対して何か不満があるわけでもなく,いじめないと自分も被害者側になってしまうのではないかという不安があり,そこから負のスパイラルが生まれてしまうのではないかということだ.ポイントなのは,いじめないと自分も被害者になってしまうのではないかと思ってしまうことである.しかしそこで一度立ち止まって,自分が加害者に加わることでどうなるのかよく考える必要があると考える.自分が被害者になるからといって人をいじめて良い権利があるのだろうか.いや,あるはずがない.わたしたち人間はみな平等に生きていく権利があるのだから,勇気を振り絞った「やめろよ」の一言が大切なのではないだろうか.
最近、現代社会を「怒りに満ちった社会」と呼ぶことを目にしたことがあります。人々の怒りは、終わりのない「競争」からの疲れ、敗北、我慢の限界などから来るのでしょう。「競争」でできてしまった怒りは、行き場を失い、自分よりたちの弱い人という当てやすいところに向かってしまい、今日、いじめは交通事故のような普遍的な現象になってしまったのではないかと思います。いじめる側を擁護するつもりはありませんが、ある意味で、今日のいじめは皆が加害者で、被害者なのではないかと思います。
図5から非行群より一般の中高生の方がいじめの場面に遭遇した時に見て見ぬふりをすることに肯定である割合が大きいのが分かる。周りにあわせていたほうが無難だし、もしいじめを止めて目立ってそれがきっかけで自分が周りから仲間はずれにされるのが怖いと一般の中高生は思うのだろう。一方、非行群は一般中高生より肯定する割合が低い。これは非行群の人は一般の中高生とは違って自分は周りから浮いていたり変わっていたりしていることを自覚していたりして、いじめをかばって周りから変な視線をあびたりすることに一般の中高生よりも抵抗が少ないからではないだろうかと私は考える。また、いわゆる空気を読まないやつはイタイやつという風潮が若者の間でも浸透しているので大抵の人はこの選択に肯定的になってしまうのでないだろうか。
いじめについて私は考えることがある.それは,マジョリティがマイノリティをいじめるために,逆らえない状況を作り出していることが問題なのではないか.そしていじめる側は特に被害者に対して何か不満があるわけでもなく,いじめないと自分も被害者側になってしまうのではないかという不安があり,そこから負のスパイラルが生まれてしまうのではないかということだ.ポイントなのは,いじめないと自分も被害者になってしまうのではないかと思ってしまうことである.しかしそこで一度立ち止まって,自分が加害者に加わることでどうなるのかよく考える必要があると考える.自分が被害者になるからといって人をいじめて良い権利があるのだろうか.いや,あるはずがない.わたしたち人間はみな平等に生きていく権利があるのだから,勇気を振り絞った「やめろよ」の一言が大切なのではないだろうか.
私も小学生の時、クラスの中でいじめが起きたことがありました。私を含め、クラスの誰もがその事実を知っていながら何もすることができませんでした。いじめを肯定することもなければ、止めることもせず、自分が巻き込まれないことを第一に考えていた者が多く居たことは間違いありません。当時はそのことを気に留めていませんでしたが、今考えれば、黙殺していた人が数多く居ることはとても恐ろしいことに感じます。「いじめ」が普遍的な事象になってしまっているということを問題として受け止めていないことには、解決に導くことはできないと思います。当時は「いじめ」に巻き込まれることをひどく恐れ、見て見ぬふりをしていましたが、「いじめ」という問題に正面から向かうことができるようになった今、改めて考えていかなければならないことなのではないかと思いました。
幼い頃の環境や経験は、その人の性格や行動に大きな影響を与えるといいます。実際、暴力非行少年は、親から暴力を振るわれた経験がある子供が多いことがグラフからも分かります。この暴力の連鎖を断ち切らなければ、暴力は繰り返されてしまうでしょう。
しかし、地域で協力し合っていた頃とは違い、子育ては各家庭でするものになり密室化しているため、家庭内暴力が見つかりにくくなっています。そのため、子育てのストレスをそのまま子供にぶつけてしまうのではないでしょうか。親同士の交流の場や、子育ての悩みを相談する場づくりが今後必要になると考えます。
私も小学生のころにいじめを体験したことがあります。いじめられたわけでも、直接いじめたわけでもないのですが、クラス内や学年では常に誰かが標的になっていたと思います。この記事に書かれている通り、当時はそれを見て見ぬふりをするのが自分を守る術だと思っていました。いじめがあるのが当たり前の世の中になってしまったことが残念でなりません。いじめをしている人がいじめなんかよりももっと楽しい、幸せなことがあることに気づければ良いです。
中高生の約4割が暴力願望を持っている。しかし、親から暴力を振るわれたことがあるという要因に依って実際に暴力を振るうか、留まるか、大きな差が生まれる。暴力を振るわれている時は暴力を憎んでいたはずなのに、自分も暴力を振るってしまうとは皮肉である。暴力は連鎖する。つまり身体的な虐待や心理的虐待は自分の子供を傷つけるが、将来的には自分を傷つけることになってしまうのである。暴力はなくさなければならない。
現在の世の中は競争が基本の資本主義の考え方が主流であるために、大げさに言うと自分以外は敵であるという感覚が強いような気がします。それに不況ということも重なって、さらに厳しい競争を強いられる状況にあります。このような状況がいじめや暴力につながっているのだとしたら、根底にある資本主義的な考え方を変えていかなければならないと思います。現在の社会の基礎になっている考え方を変えるというのは大変難しいことですが、少しでも人とのつながりを感じられる世の中になっていくといいという思いです。
いじめをされた、したという経験を持つ子供がこんなにも多いということに驚きました。私は、いじめをする側の人間は自分がやっていることをいじめだと認識していないというイメージを個人的に持っていたので、特にいじめをした経験があるという子供、いじめをいじめだと自覚して行っていた子供がこんなにもいるということにショックを受けました。
この調査の結果を見ると、自分が次の標的になりたくないために傍観者になると答えた割合が多いですが、これはつまり、いじめをされている人は孤独に戦わざるを得ないということでありとても悲しいことです。
これは、一人一人の意識の改善だけで解決できる問題ではないと思うので、学校などの社会の仕組み自体、被害者が助けを求めやすくなるような環境への変化が必要だと思います。
自分の親に対し暴力をふるったり、ふるいたいと思っている中高生がこんなにもたくさんいるのだという事実に私は驚いたと同時に悲しく感じた。暴力願望を持ってしまうか否かは幼少期の経験(親から暴力を受けたか)ということが深く関係しているという意見は確かに理解できるが、私も母子家庭で母に手を上げられたことがある。しかしそれを暴力だと思ったことはなかったし、女手一つで私と兄を育ててくれた母には感謝している。
片親だとしても母からの愛情を受けて育ってきた私の考えは甘いと、勝手なことを言うなと思う人もいるかもしれないが、親から暴力を受けたり、愛情を受けられずにして育った人達には自分が辛い思いをしたからこそ自分の家族や他人に愛情を与えられるような人になって欲しいと私は思う。「自分はこんなに辛い思いをしたのだから他人も同じ目に合わせてやりたい。」こういった負の感情が連鎖していくのはとても悲しいことである。
他人を傷つけるということは心がささくれ立って、知らず知らずのうちに自分自身も傷ついている、そんな行為であると私には思えてならない。
子供の人格を形成するのに、家庭環境が大いに影響していると思いました。だからこそ、家庭内暴力を受けて育った子供たちは、平気でホームレスを襲撃できるのだと思いました。そのような劣悪な環境で育った子供たちにとって、暴力が当たり前になっているのだと思います。私は家庭内暴力が子供の人格を形成するのに一番大切であると強く思いました。
人間の成長過程で思春期の自我の確立は必要不可欠で、思春期に経験したことをおもとして自尊心は形成されていくように感じます。
その過程のなかで曲がった方法で自尊心を得ないようにすることがいじめをなくす一番の方法だと思います。
私の場合では多感な時期にいた私が間違ったことをしようとすると、親や担任の先生が優しいがゆえに厳しくただしてくれました。いじめをなくすにはいじめを早くきづくこと、そしていじめをする生徒の不安や悩みとまわりにいる大人が向き合う努力が必要だと思います。
いじめ、暴力、大人になれば、生きてきた中で、一度は二度はみたことある、もしくはしたことがある、されたことがあるであろう。なぜいじめをするのか。それは、自分という存在を守るためであると考える。まったくいじめを肯定するという意味ではなく、いじめに加わることで仲間意識を持つ。集団を形成する。こうすることで自分がいじめられない環境をつくる。これがいじめの主因といえるのではないかと考える。これを解決するのは極めて困難である。集団をつくるという人間の特性を否定せねばならないからだ。大事なことは集団作りを悪いほうに使ういじめではなく、部活の結束、クラスの団結などに力のベクトルを変えさせることが必要である。
子どもたちが親や教師に対して暴力行為を行いたいという感情を抱いていることや、多くの親たちが子どもたちに対して暴力をふるっていることに関して、とてもショックを受けました。
そのような暴力的な感情を抱いてしまうことの背景として、他者との付き合いが少なく閉ざされてしまった、今日の日本社会があるのではないかと考えます。
他者とのつながりが閉ざされた社会の中で、仕事や育児などの悩みや苦しみを抱え、それを発散することも出来ずに自分の内側にため込んでしまい、それが溢れ出てきてしまった結果が他者への暴力なのではないかと考えます。
単純に『子どもたちが悪い』とか、『暴力をふるう親が悪い』などといった考えではなく、日本の社会全体の問題として一人一人が自分に出来ることを考え、行動していくことが必要であると考えます。
いじめというのはちょっとした言動や、運動や勉強が周りより優れている・劣っているという理由だけで簡単に起こります。また、スクールカーストなどと呼ばれるように学校の中にも序列ができてしまい、権力のあるものがないものをいじめるという構図ができあがっています。いじめを止めようと立ち向かうと新たなターゲットになってしまい、負の連鎖は続いてしまいます。現代の競争社会においていじめというものはつきものなのかもしれませんが、それを食い止めることができるのは現場にいる教師しかいないと思います。教師に暴力をふるいたいという生徒が多くいるようで驚きましたが、威厳がなく与えられた業務だけをこなすような形だけの教師が増えているからこうなっているのかもしれません。自分の夢は教師になることですが、教師の役割とはなんなのかもっと考えたいと思います。
いじめは身近にあるというのは、本当にそのとうりで、私が小学校、中学校に通っているときには、いじめが多発していました。しかし、この記事にも書いてあるように、ここでかばったら自分もいじめの対象になってしまうのではないか、という恐怖心から、そのいじめを止めることはできませんでした。しかし、高校に進学すると、いじめというものはほとんどなくなりました。この原因は何でか、考えてみました。そのときに、第一に思い浮かんだことは、精神年齢の上昇です。今まではちょっと変わった性格をしている人をいじめの対象にしていたのに対して、高校では、いろいろな性格の人がいて楽しい、と考えるようになっていました。それに、小学校、中学校という時期は、精神的に非常に不安定な時期で、ある特定のいじめの対象を作ることによって、自分の存在価値を証明したかったのだと思います。正直な話、いじめの根絶は不可能に近いと思います。人間の成長過程で、そのような感情が出てしまうのは、避けられないからです。しかし、だからといって何もしないのは、許されることではありません。こんなことを言っていますが、私は、いじめ解決の方法は、まったく思いつきませんが、自分が親になった時に、子供にしっかりとした教育をしていきたいと思います。
私には、親や先生などの大人に対して、暴力をふるいたいほどの怒りなどを感じたことは、断じて一度もありません。なので、このデータには非常に驚かされました。特に反抗期なども経験しなかった私なので、親とけんかしたりはしましたが、特に普通の親と子の関係だと思っていましたが、大学に入り、親元から離れたことで、ものすごい大きな親の愛を受けてきたことを、そして、今も受けていることをとても感じています。少し話はそれてしまいましたが、次はいじめについてですが、私の小学校では、小学校高学年ぐらいから女子の間ではとても熾烈ないじめがいつも繰り広げられており、私の知る限りではほとんどの女子がいじめられたんじゃないかと思うくらい、対象が常に変化しながらいじめが起こっていたので、わたしにとっても非常にいじめは身近な話題です。わたしにはそれを止める勇気もなく、ただただ傍観してしまいました。怖くて傍観したというよりは、女子だけの問題であると思い、そこまで深く考えている自分がいなかったのが原因だと思います。今では、職場などでのいじめ、パワハラなどもよく耳にしますが、これからも一生いじめというくだらない問題に付き合っていかなければいけないのかと思うと、とても面倒というか、憂鬱というか…。問題が自尊心の欠如にあるといわれても、私にはあまりピンとこないですが、もっと楽観的に、普通にみんなが仲良く生きるだけでは解決できないものかなと、思ってしまいます。私は、これから身の回りでいじめや暴力が起こった場合、必ず両者に一声かけることができ、かならず自分はそのような問題を起こさないようにと強く思いながら、これから生活していきたいと思います。
いじめをする側の人の中で、悪いことをしていると思いつつそのグループに加わっている人は、いじめの対象が自分にならなうようにするために、いじめる側に身を置いているのではないかと思います。いじめが普遍的事象となってきているため、いつ自分がその対象になってしまうのか周りの目を気にしながら、周りの空気に合わせ、窮屈な思いをしている人が多くいるのではないかと思われます。いじめだけではなく、親からの虐待や、教師からの虐待など、現代社会では無視できない問題となってきています。どうしたら安心して学べる学校になるのか、どうしたら安らげる家になるのか、どうしたら良い雰囲気の職場になるのか、今一度、一人一人がよく考え、つくりあげていく必要があると考えます。
いじめをする側の人の中で、本当はいじめなどしたくないのに、周りに合わせていじめをしてしまっている人は多くいると思います。そのような人たちはおそらく、自分がいじめの対象になってしまうことを恐れて、いじめに加わっているでのしょう。どのようなことをされたら、いじめと呼ぶのかは、きちんと決まっていないので、上記の調査の結果が正しいとは思いません。冗談であったりふざけあったりしている中で、言った悪口などが含まれているのではないかと思います。しかし、もし上記の調査が正しいとしたら、非常に多くの人たちが、言葉を借りて言えば、防衛的処世術の鎧を身にまといながら、いじめの対象にならないように窮屈な思いをしながら生活していることでしょう。
学校、家、職場、どこにいても窮屈な思いを強いられるような社会では、自分の考えを言わず、周りに合わせて生きることになってしまいます。
のびのびと個性を出すことのできる環境をつくるために、どうしたら、楽しみながら学ぶことのできる学校、安らぐことのできる家、安心して働くことのできる職場を実現することができるのかを一人一人が今一度考え、つくりあげていかなければならないと思います。
暴力の連鎖は恐ろしいものです。暴力をふるったり、非行に走る子供たちはその多くが親からの暴力や虐待を受けている現実があります。子供たちは心と体に大きな傷を受け、それらのストレスを親以外の他人に解放してしまうのでしょう。また、日頃から暴力の中に生活しているため、暴力をふるうことの非日常性に気付かず、簡単に暴力につながってしまうのだと思います。このような現状の打破にはまず今ある暴力を周りが気付き、減らすことが大切だと思います。今、連鎖を断ち切る時なのだと思います。
いじめをする側の人の中で、本当はいじめなどしたくないのに、周りに合わせていじめをしてしまっている人は多くいると思います。そのような人たちはおそらく自分がいじめの対象になってしまうことを恐れて、いじめに加わっているのでしょう。どのようなことをされたら、いじめと呼ぶのかはきちんと決まっていないので、上記の調査の結果が正しいとは思いません。冗談であったりふざけ合ったりしている中で行った悪口などが含まれているのではないかと思います。しかし上記の調査が正しいとしたら非常に多くの人たちが、いじめの対象にならないようにと、窮屈な思いをしながら生活していることでしょう。
学校、家、職場、どこにいても窮屈な思いを強いられるような社会では自分の考えを言わず、周りに合わせて生きることになってしまいます。
のびのびと個性をだすことのできる環境を作るために、どうしたら、楽しみながら学ぶことのできる学校、安らぐことのできる家、安心して働くことのできる職場を実現することができるのかを一人一人が今一度考え、つくりあげていかなければならないと思います。
いじめとは身近に存在する根絶しがたい、しかし乗り越えていかなければならない社会の課題であると思います。私自身、公立の中学でいじめを「見て見ぬふり」することしかできなかったのでわかるのですが、いじめの当事者を真っ向から説得するのは勇気がいり、困難なことです。しかも教職員が手をさしのべてくれるかといったら、可能性はあるにしても希望が薄いことは最近のニュースなどでわかります。
私たちがいじめに向き合うにはまず親しい友達や腹を割って話せる知人が必要だと考えます。個である内は、いじめを受けた際に相談することができなくなるためです。そうして、少しずつでもいじめを減らしていけることを願います。
この記事を読んで、調査の対象になった約半分もの中高生が心のうちに暴力願望があることに驚きました。しかし、親から暴力を受けたことのある者も半分近くいるということで、やはりそのような暴力願望には自分が育った環境も関係しているんだなと思いましたし、そこで芽生えてしまった暴力願望が、後にいじめの発生へとつながっているんではないかとも思いました。これは負のスパイラル化のようなものになってしまっているのでは、と感じてしまいました。どこかでこれを断ち切るためにも、もっと日本の道徳教育を充実させる必要があると思います。表面的な教育ではなく、少々酷かもしれませんが虐待やいじめのドキュメントなどをしっかり見せて、この問題の深刻さなどを受けとめさせるべきだと思いました。
暴力をふるう子供は、はたから見るとあの子は乱暴でいけない子だというふうにしか映らないと思います。しかし、暴力をふるう子は親から暴力を受けている可能性が高く、一概に暴力行為をする子供を責めるのはあまり好ましくないように思います。子は親の背中を見て育つので、それが当たり前だと思い込んでいるかもしれません。暴力の連鎖を断ち切るには、暴力というのは普遍的な行為ではなくいけない行為であるということを教えることだと思います。その時に注意するべきことは、そう教えることにより親に対して恨む気持ちがまた暴力を生むということがないようにすることです。
私は親の都合上、転校することが多かったので、小学校を三校経験してきました。幸いなことに「いじめ」をうけた経験はなかったのですが、どこの学校でも「いじめ」は確かに存在してました。
ただ私が小学校6年生のときに私はいじめる側の集団に多少かかわっておりまして、調査上では中学生や高校生ですけど、いじめにかかわったことのある41.4~51.5%側の一人としての立場から改めて考え直してみると「いじめ」をしていた集団のリーダーは何らかの家庭の問題があったように思われる。(それが具体的にはわからないがもしかしたら暴力をうけていたかもしれない…)
今、こうして思い返してみて、ブログと関連づけて考えてみると暴力の連鎖というものはないとは言えないことを知りました。
いじめが普遍化している現代社会において、私もいじめを普遍的なものとしてとらえている一人でした。いじめはなくすものというより減らすものと考え、その存在を、ある意味では肯定していたのかもしれません。これは自分が被害者になったことがないから、そう思うんだととらえています。
安全圏からしか知っていないいじめの実態について、私は数多くの被害者はもちろん、一部の加害者もまた、いじめに苦しんでいるんだと思います。自分の身を守るためとはいえ、いじめに加担することは決して許されることではないけれど、その人達も助けるという意味で、いじめがなくなれば良いと思います。
小学校高学年のとき、ある男の子の机を触れ全く汚くないのに汚いと言って手を洗うということを自分を含め、クラスの多くの人で行っていまいた。誰かがやっているから自分もやるひと、その行為に便乗しなければ自分が多くの人を敵に回すからという人など負の連鎖ができていたように思います。加害者であった自分は周囲と同じ行為をすることで連帯感を得ていました。今思うと大変軽率で浅はかな行為であったと思います。この行為は担任が指摘し、問題として取り上げるまで続きました。自分の経験からすると、いじめは大人が指摘しなければ続いてしまうものであると思います。現在、報道で取り上げられるいじめは先生すら傍観者となってしまうものが多いと感じています。もちろん、自らで気づいていじめをやめることが一番であると思いますが、大人が気づき、指摘し、子どもたちにいじめについて考えさせる必要があると思います。
私が卒業した中学校は当時とても荒れていて、いじめや暴力沙汰は日常茶飯事でした。窓ガラスが割られるのはいつものことで、職員玄関に斧が刺さっていたのを見たこともあります。校門でタバコを吸っている生徒がいて先生が飛んで行った、ということもありました。タバコ等は自分を押し込めようとする窮屈な社会や学校への典型的な反抗だと思いますが、残念なことに一部の生徒が先生に暴力をふるい、警察がくる騒ぎになったこともありました。
不良と呼ばれる彼らは母子家庭が多かったために、「片親だから非行に走る」と言われていたことも知っています。もちろん家庭環境は子供に多大な影響を与えるでしょう。しかし、私の知っている不良の多くは「親には絶対手を上げない。俺を産んでくれたから」というポリシーを持っていました。先生方の真剣な対応もあり、彼らはだんだんと落ち着いていったように思います。生徒に真摯に対応する先生や、子供が落ち着ける家庭環境が必要なのだと思います。
今年は大学のゼミでずっといじめについて見ていましたが、いじめ問題が日本においてそれほど厳しい大問題としてあちこちに注目されたことに自分は少し驚いたのです。
自分が日本人ではなくて、母国では、いじめを問題視していないため、そもそも、「いじめ」ということばもないです。何か一番いじめ行為にあたっているかというと、学校暴力です。
道徳教育などといった人間性を養う教育をほとんど行っていない結果、児童生徒が人に対しての思いやりも低下していおり、家庭教育もそうであって、「やられたらやり返す」という半沢式の思い方が子供の時から親に教わってきています。「しつけ」ということの大切さが日本に来て知るようになってよかったと思いました。
親から暴力行為を受けた子供も、また暴力行為を他者に行う確立が高いという結果が出ています。成長期の子供にとって親はもっとも身近な教育者であり、大きな影響を与える存在だと思います。また家庭は子供の大切な居場所です。家庭内で親から暴力を振るわれることは、子供にとっては居場所の喪失や自己の存在否定と感じるかもしれません。子供は多大な心のストレスを抱えてしまいます。暴力行為を受けた子供はストレスを発散しようと、他人へ暴力を振るってしまうのではないでしょうか。この暴力の連鎖を食い止めなければいけないと感じました。
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