「加害者―被害者」の枠組を越えて
山口県光市で起きた母子殺害事件(1999年)の最高裁判決が下り、被告Oさんの死刑が確定することになりました。被害者家族であるMさんは、死刑判決確定後の記者会見において、「勝者なんていない。犯罪が起こった時点で、みんな敗者なんだと思う」と語っています。まったく同感です。この判決をめぐる報道に接して、私は虚しさだけが残りました。
光事件の裁判は、刑事裁判をめぐる争点(証拠、殺意の認定等)のほかに、さまざまな論点を社会に投げかけてきました。司法制度における「被害者の権利」、少年犯罪に対する死刑の是非と判断基準、劇場型報道の歪み等、根深い問題をはらみながら長年にわたって等閑に付してきた数多くの問題が、この裁判の過程で一挙に噴き出してきました。
刑事被告人の弁護人に対する「懲戒請求の呼びかけ」にはじまり、インターネットの掲示板には、今でも「(Oさんの)弁護士も一緒に死刑にしてくんないかな」との書き込みが続いている(2月23日朝日新聞朝刊による)ように、この裁判の続いた13年間は、“呪いの連鎖”を広範にまき散らしてきた虚しさを感じるのです。日本が法治国家であることさえ疑わしくなる幾多の事象に直面したと考えています。
そこで、刑事裁判における「加害者-被害者」という二者関係からいささか距離を置き、このような事件の背後にある暴力の社会的連鎖の観点から、「みんな敗者」になってしまうことを私は考えてみたいのです。
念のために付言しておきますが、「Oさんは、子ども虐待の被害者であって、刑事責任はない」などと主張する意図はありません。このような発想の枠組を越えて、私たちすべてが社会的に取り組まなければならないことの一端を考えたいし、考えるべきだと思っています。
未成年者の死刑に関する判断基準は、長らく最高裁判例である「永山基準」が用いられてきました。1968年に起きた拳銃による連続射殺事件は4人もの犠牲者を出し、翌年逮捕された永山則夫は、1990年の最高裁判決によって死刑が確定しています(1997年死刑執行)。
この永山則夫の生い立ちは、子ども虐待の極みに彩られています。舞台は、極寒の北海道網走でした。父親はアルコールと博打に浸るアディクション(嗜癖・依存)から家出し、たまに家に戻っては米を盗み出し、結局は行旅死亡人として取り扱われています(行旅病人及行旅死亡人取扱法による措置。行旅中に死亡し、かつ引取り者のないものが対象)。姉は、精神障害で入院していました。則夫5歳時には、母親が貧しさに耐えかねて、4人の子どもを置き去りに家を出ました(永山は、8人兄弟の7番目ですが、すでに家出をしたきょうだいがいて、母親が家出した時には4人の幼い子どもしか残っていませんでした)。
両親から見捨てられた子どもたちは、ゴミや漁港に落ちている魚などを漁りながら、飢餓と闘いました。近所の人が福祉事務所に連絡を取って、生活保護受給に至っています。中学生時代には「自殺したい」と希死念慮をたびたび口にしており、中卒と同時に「金の卵」として上京しています。生い立ちの中で彼は親からの愛情や慈しみをほとんどまったく受けることなく、15歳の春に「自立」を強いられました。
1998~99年に起きた保険金殺人事件の首謀者として、2010年最高裁判決により死刑が確定した吉田純子も不適切な養育を受けた生い立ちを持っています。この事件は、4人の看護師が医療技術を駆使した殺人を病死と偽装し、2人の近親者の死亡保険金を詐取したものです。
森功著『黒い看護婦-福岡四人組保険金連続殺人』(2007年、新潮文庫)によると、純子は高度経済成長から取り残された福岡県柳川で育っています。父親は母に当り散らし、料理が気に入らないと言っては卓袱台をひっくり返すDV男でした(今日では、子どもに対する直接的な危害がなくとも、夫婦間の暴力が子どもの眼前で展開されるだけで、児童虐待防止法上の心理的虐待に認定されます)。母親は長男を溺愛する一方で、純子をまま子扱いし、純子が虫垂炎で緊急入院しなければならない場面でも、長男が学校から帰宅するまでは放置していたと言います(医療ネグレクトの一種と言っていいでしょう)。
冒頭で述べた光事件で死刑判決が確定したOさんも、激しい虐待を両親から受けていました。父親からは殴る蹴るに加え、両足をロープで縛り逆さ刷りにして水風呂につけるような暴行を受けていたことが分かっています。母親からは「あんた(=息子であるOのこと)の子どもが欲しい」と性的虐待を受けた挙句に、母親が自殺を遂げるというのですから、Oさんの子ども期における家庭生活は地獄のような毎日ではなかったでしょうか(野田正彰関西学院大教授と加藤幸雄日本福祉大学教授による第一審弁護側精神鑑定は、Oの精神年齢は犯行当時5~6歳で、虐待に起因する発達障害があると指摘しています)。
さて、子ども虐待が世代間連鎖することはよく知られています。虐待にあった子どもが親になったとき、自分の子どもを虐待してしまう現象を指します。
2010年に起きた大阪2児遺棄事件の容疑者であるSは、子ども虐待の世代間連鎖を示した典型ともいえる母親でした(2010年8月12日ブログ参照)。高校の教師でラグビー部顧問であるSの父親は、女性との関係がふしだらな上に育児放棄を続けていました。
このような虐待の連鎖が、家族という限られた枠組みの中だけで生起すると考えることは妥当ではありません。非行少年の問題にいささかでも分け入ったことがある人なら、非行少年の生い立ちのほとんどに不適切な養育(もちろん、激しい暴行を含むことがしばしばです)の確認されることは常識に入る知見です。つまり、この少年たちは自分が親になるはるか以前に、虐待の後遺障害ともいえる暴力等の犯罪を他者に向けているのです。
このようにみてくると、子ども虐待が産み出す暴力の連鎖は、「親-子」という垂直的な世代間連鎖だけではなく、社会的な広がりをみせて第三者を巻き込んでしまう水平的な連鎖も含まれるということになるでしょう。
垂直と水平という二つの方向性をもつ暴力の連鎖が、ここまで深刻な社会問題となってきた背後には何があるのでしょうか? 暴力の起点が家庭内虐待で親から子へと垂直的につながっていくだけであれば、子ども虐待の発生件数はコンスタントなはずで、この20年余りのように子ども虐待が50倍以上増加する現実を説明することはできません。このような暴力が「呪いの連鎖」という社会的連鎖に広まるには、個々の家族の枠を超え出る社会問題のあることを示唆していると言っていいでしょう。
コメント
虐待されていた人が振るう暴力と、虐待されなかった人が振るう暴力。虐待の有無という分類で暴力の種類を分けるとしたら上のように分けることができるだろう。この『「加害者-被害者」の枠組みを超えて』の文章の「呪いの連鎖」とは虐待されていた人が振るう暴力から生じる暴力の連鎖に限定されているような気がする。しかし現実には虐待などの経験もなく、恵まれた境遇で育ったのに暴力を振るう人もいるのです。もしその人から暴力を受けた人が虐待する者へと変わってしまったら…。これも「呪いの連鎖」になりうる。少なくともこのような人による暴力を断ち切らないと暴力の連鎖は水平と垂直のニ方向に収まらなくなってしまうであろう。この鎖を排除してからようやく虐待されていた人による暴力の鎖が見えてくるのではないだろうか…。
親-子の関係は、子どもがこの世に生を受けて初めて築く関係だと思います。もし子どもが親から虐待を受けた場合、暴力的な関係しか知らないことになります。そのような子どもが成長して、裁判にまで発展するような事件を起こすことは不思議ではないと思います。また、そのような環境で育たなかったとしても、第三者との暴力的な関係を築いた場合、やはり裁判沙汰になる可能性があります。そうすると、『呪いの連鎖』は想像以上に広まる可能性があるといえます。
親-子の関係はごく普通であると思って過ごしてきましたが現状を考えるとそうでなく自分がどれだけ恵まれて育ってきたかを痛感しました。山口県の事件は地元ということもあり印象強く残ってます。ですが私が知っていたのは事件が起きたという表面的なもの。裏に虐待があったなど知ることもなく非難してきました。虐待による傷はとても大きいものだと思います。愛情を受けず知らずに育ってきた人が我が子に愛情を教えられるわけがありません。また第三者に対しても伝えられるわけもなくこのような事件が起きたことはそのような面からとらえるなれば当たり前のことだと思います。親から虐待を受け親や第三者に暴力をふるう。これを呪いの連鎖とするならばそれを断つことは限りなく不可能に近いと私は思います。暴力をなくすことはできません。人は自分を守るために他人を傷つけているのですからこのような現状がなくなることはないと思います。身体的・精神的に満たされたいが故に他者を平気で傷つける。それがだめだと教えるはずの立場の人間がその行為をとっているのですから呪いの連鎖は拡大していくばかりだと思います。私は今の世の中に対して出産年齢の低下もこの要因の一つだと思います。ゆっくりと段階をふみ、しっかりと人を愛することを学び親になれば少しはこの鎖がのぞけるのではないかと思います。非難するだけでなく受け入れ伝えることが次の世代につながり本当に自分を他者を愛するといえるのではないかと思います。
親-子の関係はごく普通であると思って過ごしてきましたが現状を考えるとそうでなく自分がどれだけ恵まれて育ってきたかを痛感しました。山口県の事件は地元ということもあり印象強く残っています。ですが私が知っていたのは事件が起きたという表面的なもの。裏に虐待があったなど知ることもなく非難してきました。虐待による傷はとても大きいものだと思います。愛情を受けず知らずに育ってきた人が我が子に愛情を教えられるわけがありません。また第三者に対しても伝えられるわけもなくこのような事件が起きたことはそのような面からとらえるならば当たり前のことだと思います。親から虐待を受け親や第三者に暴力をふるう。これを呪いの連鎖とするならばそれを断つことは限りなく不可能に近いと私は思います。暴力をなくすことはできません。人は自分を守るために他人を傷つけているのですからこのような現状がなくなることはないと思います。身体的・精神的に満たされたいが故に他者を平気で傷つける。それがだめだと教えるはずの立場の人間がその行為をとっているのですから呪いの連鎖は拡大していくばかりだと思います。私は今の世の中に対して出産年齢の低下もこの要因の一つだと思います。ゆっくりと段階をふみ、しっかりと人を愛することを学び親になれば少しはこの鎖がのぞけるのではないかと思います。非難するだけでなく受け入れ伝えることが次の世代につながり本当に自分を他者を愛するといえるのではないかと思います。
光市母子殺害事件について、私は別の講義で、この事件を詳しく調べました。実際、事件の概要だけ聞いただけだと、被告人Oは死刑で当然だろうと思いました。しかし、詳しく調べはじめて、被告Oの家庭状況がとても酷い状況だということを知ってからは、本当にこれは死刑でよかったのだろうか、と思い始めました。親―子の虐待が、第三者をまきこんで事件へと発展する。この悲しい連鎖を止めるには、私たち一人一人がこのような事件を考え、虐待の現状を理解するということが大切だと思った。
先生の講義を受け、虐待の現状や原因などを学んでいく中で、今までの自分の虐待に対する認識がどれほど甘かったかということをよく実感します。今回の光市母子殺害事件についても、テレビでとても多く報道されていたのでよく覚えていますが、テレビなどのマスメディアは事件の概要を説明するだけで、事件の本質(今回の場合は加害者の幼少期における虐待)にはあまり触れません。この点を改善する必要があると思います。プライバシーの問題などもありますが、このような虐待・暴力の連鎖を止めるためには、マスコミなどの力も使い、虐待・暴力という行為の本質を広く世間に認知させることが重要なのではないかと思います。
子どもはなにも知らずに生まれてくる。子どもが最初に知り合い、幼稚園や保育園や小学校に通うまで、子どもの世界は「家庭」であり、話したりするのは「親」くらいだろうと思います。その中で親から暴力を受けていたり、夫婦間の暴力があったとしたら、その子にとって「愛情」よりも「暴力」が大事な世界なのだと思ってしまうのかなと思います。マズローの欲求段階にもありますが、やはり、「愛情」を知るというのは人間が人間として形成されていく過程で大事なことだと考えます。
愛情よりも暴力が大事だと理解してしまった子どもは、友達に向かっても愛情よりも暴力で対応して、これが先生のおっしゃる、縦から横への暴力の連鎖なのかなと自分なりに考えました。
現在、この山口県の事件や滋賀県のいじめが問題になってしまったりと、子どもの暴力が社会問題となって注目を集めていますが、世論の流れをみていると、どうも「現代の子どもは」的な風潮にとらわれ過ぎているんじゃないかと思ってしまいます。
そうではなく、「なぜ子どもが暴力を振るわなければならない社会をつくってしまったのか」、「子どもはなにに暴力を振るっているのか」、「どうしたらみんなが笑って暮らせる世の中をつくることができるのか」そこに目を向けるべきなんじゃないかなと自分は考えます。
子ども虐待が急増し、そこから犯罪も増えてくる。この連鎖を止めるためにも、子どもを育てる立場の大人こそが、社会・地域の一員としてどうしたらよりよい世の中となれるのかを考え、子どもに暴力を振るってしまう人の話を聞いてあげたり、ときには保護者と子どもを引き離して保護したりと、「地域で子どもを育てる」という姿勢が大事なんじゃないかなと考えました。
私はこのブログを読んで、改めて親と子の関係について考えました。私と私の親との関係が本当に正しく良いものなのかはわかりませんが、このブログの記事や最近のニュース、授業における文献などを見ると、私と親の関係は間違ったものではないと思えました。本来自分の気のおける心地よい場所である家庭が、そうではなく、暴力に満ちた子供にとっては地獄同様の家庭があるということが、私的には非日常すぎて驚きました。子供虐待を止めることができるのは大人しかいません。子供であろうと1人の立派な人間で平等に扱われなければならないということを、今一度認識して欲しいと思いました。
幼い頃に受けた虐待を受けた人が、成長し大人になった時、自分の子供にも同じように虐待をしてしまったという事例をよく聞きます。
「両親の愛情を感じたことがない」「幼い頃は自分も同じように育てられた」などその理由は悲しいものが多いです。最悪の事態になるとこの記事で取り上げられているような犯罪を引き起こす可能性すらあります。記事の中にある、被害者家族のMさんの「勝者なんていない。犯罪が起こった時点で、みんな敗者なんだと思う。」という言葉には、私も共感しました。
このような見方をすると、誰が被害者で誰が加害者なのかわからなくなってしまいそうです。元をたどっていくと、加害者は幼い頃被害者同然の扱いをされていたがために、自分が大人になって加害者に姿を変えてしまったということも考えられます。子供を産むからには親としての自覚を持ち、愛情を込めて子育てすべきだと思います。そして被害者も加害者も出さないような世の中になればいいなと思います。
私はこの文章を読んで、親から子への影響を考えました。重大な犯罪を犯してしまう人の多くに、子供時代に虐待を受けていたことがわかります。やはり、子供というものは親からの愛を感じて育つものです。それは、本来ならば当たり前に与えられるものであり、だからこそ子供たちはそれほどには愛を感じません。しかし、ふとした出来事により親からの愛を認識することができます。幼いころから親に虐待を受け、愛を与えられなかった子供には、表面ではわからない闇ができます。幼いころは、悲しいや寂しい、辛いといった感情がわくと思いますが、大人になり世間や周りの環境を知っていきます。それにより、幼いころの感情とは変わり、恨みや怒り、憎しみといった感情が湧いてしまうのだと思います。そのような、感情が親以外でなく他者へと向いてしまうのです。それは、社会そのものが、親から見放され居場所を失った子供たちを救う役割を果たせてないからです。今日まで、犯罪、虐待が増え続けてしまったのは、親と子の関係だけでなく、社会そのものの在り方から間違っているのだと感じました。
山口県でおきた母子殺害事件や福岡県でおきた保険金殺害事件など、事件内容だけに注目すれば、犯人はなんて卑劣なことをするのだと無条件に憎悪を覚えます。
しかし、悲惨な事件をおこす犯人の多くは幼少時に耐えがたい虐待を受けていることが分かりました。このことから、犯人である人物は、周囲の人たちを否定し、一般的な人々の常識とする部分が大いに外れていたのだと思いました。
幼少期の親の養育状況が、その人の人格を形成し、人生を決めてしまうと考えると、はたして自分は自分の子供を正しい道に導けるのかとても不安に思います。
今考えると、大学で実家を出るまで家族と過ごす日々が一番多く、私の中の常識は、家族のルールであったことを感じています。
それは、実家から出て、様々な環境の中で違いを把握していきます。しかし、小さい違いであったとしても自分の中の常識を変えることはとても難しいことです。
さらに、それは普段一緒にいることの多い友人などに自然と受け継いでいる場合もあります。
日常のほんの小さなこと、例えば掃除の仕方や服のたたみ方などであっても幼いころの記憶からくる癖というものは変えることが難しいのに、それが暴力などの虐待となるとその人の人格は非抑制的なものになり、さらにその人格を変えることがいかに難しく不可能に近いかが分かりました。
凶悪な犯罪やニュースがある度に、被告人に対して「どうしてこんな酷い事ができるのか」「こいつはもう人間じゃない」等、散々思ってきました。人を殺す事も傷つける事も本当に許されない事です。被害者やその周りの人々の悲しみ、絶望感はきっと計り知れないと思います。しかし、昔の私を含め、大半の人はきっとそこで終わってしまっています。被告人に対しての怒りや軽蔑は持つけれど、被告人がどうしてこんな事をせざるを得なかったのか、その背景に目を向けることは殆どありません。実際、この光事件のOさんには幼い頃からの虐待という経験があって、きちんと与えられるべき親の愛を一切受け取らずに育っています。この事実をニュースは直様報じたりしませんし、誰も自ら知ろうとは思いません。幸いな事に、今私は福祉や虐待の実態を少しばかりですが知る事ができ、被告人に対してすぐに暴言を抱くようなことはなくなりました(だからと言って許している訳ではありません)。代わりに、どうしてこんなことをしてしまったのか、この人に何があったのか、犯人のことを考えるようになりました。このように、少しでもその背景を知ろうとすることが出来る人が増えれば、水平の連鎖を阻止するきっかけにもなるのではないかと私は思います。
ある事件の加害者が、子ども時代のDV等の被害者であるケースは度々耳にします。加害者の親に少なからず原因があるとすれば、「親を選ぶことができない子どもは将来、なるべくして加害者になる」と考えることができると思います。
しかし、近所の人々によってDVから救われる、社会との関わりを教わる、といった様々な人との網目状のつながりによって、加害者に成長しなかった方もいるはずです。
昔と比べてこのような事件が多くなっていることの背景には、周りとのつながりがなく親の育児(あるいは放棄等)が将来に直結してしまう問題があるように思います。周りとのつながりの無さが生きづらさになるということは親自身にも言えることだと思います。
安心して快適に暮らすために発達してきた社会がむしろ生きづらさを与える問題の解決は、難しいですが解決していかなくてはいけないです。
永山則夫が幼少期に苦しんでいたとき、何かの助けがあれば、違う結果となっていたのではと思ってしまいます。
私はこの講義を受け、自分の中での虐待やDVのイメージが変わりました。光市母子殺害事件や大阪2児遺棄事件などのニュースは私の中でとても衝撃的なニュースだったので印象に残っているのですが、それらが報道されたとき、はじめはなぜそのようなことが起こってしまうのだろう、動機はなんだろうと思っていました。しかしこのブログを読んで、過去に親からの虐待をうけていたのを知ると、語弊を恐れずに言えば、この加害者も「呪いの連鎖」に巻き込まれてしまった被害者のように感じます。この連鎖をどうにかすることが今後の大きな課題だと思います。
わたしは、先生の講義を受けるまで親から子への虐待・暴力を体験して、また自分の目で見ることなく生きてきました。それゆえ、どこか別の世界の出来事のように思ってきました。しかし、講義を受ける中でまたこの記事を読む中でやたら現実味を帯びて伝わってきて、気持ちが悪くなりました。なぜ、暴力は子どもを苦しめるだけなのにどうして親はそれを繰り返してしまうのか、自分で暴力の連鎖を止めることができなかったのか。そういったことを経験してこなかったからこそ、私は「呪いの連鎖は何故止まる事がそれほどまでに難しいのか」を理解することができず、そしてその逆として、そのようなことを経験してきた人たちが「呪いの連鎖から抜け出すこと」もまた大変難しいのだろうと思いました。自分にできる唯一のこととして、呪いの連鎖を始めることがないようにしていきます。
親の愛情を受けることがないまま、暴力や虐待が当たり前の環境で育ち、社会に出て子供の時に受けた暴力を第三者を巻き込んで行ってしまう。僕はこのことを知らず、偏った報道を見ていました。
今思えば、その虐待していた親も虐待を受けていたのかもしれない、すでに「呪いの連鎖」は始まっていたのかもしれない。
虐待のない家庭に育った人は、まず虐待をしないで連鎖の始まりを作らないことが大事で、その上で、親からの愛情とは何なのか考え、それぞれが、社会全体が連鎖の中にいる人間をどう外に救い出すか考える必要性がある。
人は、一生のうちで様々な人からたくさんの愛情を受けるだろう。例えば、両親、兄弟、親戚や友達、会社の仲間、そして配偶者、子供などからである。
これらの多くの愛情の中で、自分が一人の人間として自立するために、そして生きていくために最も重要なのが、親からの愛情なのではないかと思う。
もちろん、親から愛情を受けて育った人が将来自分の家族や他の人に暴力をふるう例もあるが、光事件や永山事件のように、自分が子供のときに親からの愛情を受けなかった人が、今度は自分の家族や他の人を傷つけてしまう事件は少なくない。わたしはこの事実から、幼い頃の家庭環境が自分の将来においていかに重要であるかを改めて痛感した。
では、暴力の「呪いの連鎖」はどうすれば断ち切れるのか。私は、暴力の連鎖は愛情でしか断ち切れないと思う。
親から愛情を受けるか受けないかはとても大きな違いであるかもしれないが、人は親以外の多くの人からも愛情を受け取ることはできるのである。
親でなくてもいい。
自分にとって大切な人から、いっぱいの愛情を受け取ることで、その人は愛情を知り、そして大切な人に愛情を与えることができる。
もちろん簡単なことではないが、愛情はこの連鎖を断ち切ることができると私は信じたい。
光市母子殺害事件のような事件は、事件だけを見るとその犯人は間違いなく性質の悪い加害者である。しかし、「加害者」の生い立ちを見てみると、彼らは加害者になるずっと前からもう長く被害者になっていた。
幼少期に親から虐待を受けた子供は、親になると自分の子供を虐待する。また、幼いころに虐待を受けたことで、彼らのこころが歪み、凶悪な犯罪を起こってしまう。こうして暴力の連鎖は垂直的につながっていくだけでなく、水平的に広がってしまうこともあるのはそれらの事件でも、20年余りに子ども虐待が50倍以上増加することでもわかる。
このような暴力の連鎖は、もうとっくに家庭や地域レベルで解決できる問題でなく、社会全体の問題である。社会の配慮、学校での教育、個々人の努力を合わせるこそ、初めて暴力の連鎖の切断に可能性をもたらすと考える。
この事件の話をしっかりと調べ上げたわけではないのですが、テレビなどで放送されていた弁護側の言い分にはすごく衝撃を受けました。
そういった刺激の強い部分が多くあったため、この事件はマスコミの注目をさらに盛り上げてしまったように思います。
子どもだったから助かるのか、虐待されていたから罪を犯しても仕方ないのか、そもそもそんな風に行動してしまう環境を正せるのか、そもそも正しいってなんなのかいさまざまなことを考えました。
そんな風に一体何が誰がどれが悪いと話しても結局は被害者家族であるMさんの、「勝者なんていない~」の言葉に収束されると思います。
なんとなく、「子ども」という生き物は、ただ大きくなるだけでは「人間」にならないのかもしれないと思いました。
「虐待」という言葉がニュースなどで報道される際には必ずと言っていいほど「虐待された児童がかわいそう」という意見が寄せられる。もちろん亡くなってしまった子どものことを考えると、子供を虐待した親を許さずにはいられない。しかし、虐待をしてしまった親、あるいは子どもの養育者もまた苦しんでいるのだと思った。虐待を受けていたという経験がこのような事件の加害者になってから、この人をだれか救ってくれる他者はいなかったのかと世間から考えてもらえるようになる。それはあまりにも悲しいことだ。虐待を受ける人を救うということは、その個人の今までの人生をケアすると同時に、これからの人生をより良いものにすることで、また別の他者を虐待から守ってあげることにつながるということを感じた。
犯罪が起こる原因は様々あるが、虐待が要因になっているものが少なくないことは確かだと思います。幼児期に受けた暴力行為やネグレクトは彼らの心に深い傷と大きな憎しみを生みます。宗澤先生のおっしゃるように垂直と水平という二つの方向性をもつ暴力の連鎖が日々繰り返されていくとすれば、いつか我が国会は規範を失い不法地帯になりうると言っても大げさな話にはならないと思います。このような現状からして、最初の話に戻れば、全てのひとがすでに敗者なのだと思います。私たちが勝者〈この場合敗者から脱するという意味が強い〉になるためには今、それぞれが周りの虐待に気付き、アクションを起こすことが何よりも大事なのだと感じます。
先日、北九大での授業を受講させて頂いた者です。その節はありがとうございました。
2012年、カンヌ広告祭プレス部門の中で、世界各地で子供の支援活動に取り組む「セーブ・ザ・チルドレン」の反虐待を訴える啓発広告がありました。その広告メッセージは、『虐待されて育った子供の70%が、虐待する大人に成長する。セーブ・ザ・チルドレンに寄付して、この悪循環を断ち切るために協力してください』というものでした。“「親-子」という垂直的な世代間連鎖だけではなく、社会的な広がりをみせて第三者を巻き込んでしまう水平的な連鎖”は、そんな高確率で起こる可能性がある、ということだと思います。またこの連鎖は虐待だけでなく、殺人被害者遺族による殺人や、侵略と被侵略を繰り返す民族問題など、おなじような悲しい「連鎖」が続くことは少なくありません。かつて虐待被害者だった人が我が子を虐待してしまい、加害者になってしまう。「加害者」「被害者」ではなく「犠牲者」ばかりが増えるのは辛いことだと思います。
先生は、『「Oさんは、子ども虐待の被害者であって、刑事責任はない」などと主張する意図はありません。このような発想の枠組を越えて、私たちすべてが社会的に取り組まなければならないことの一端を考えたいし、考えるべき』だと仰っていますが、本当にその通りだと思います。先生の授業と、そしてこの記事を拝見し、そもそも虐待という結果の対応ではなく、虐待のおこるに至った過程とそもそもの原因にこそ対応しなければならないのに、それができていないことが一番の問題であると思いました。
先日、北九大での授業を受講させて頂いた者です。その節はありがとうございました。
2012年、カンヌ広告祭プレス部門の中で、世界各地で子供の支援活動に取り組む「セーブ・ザ・チルドレン」の反虐待を訴える啓発広告がありました。その広告メッセージは、『虐待されて育った子供の70%が、虐待する大人に成長する。セーブ・ザ・チルドレンに寄付して、この悪循環を断ち切るために協力してください』というものでした。“「親-子」という垂直的な世代間連鎖だけではなく、社会的な広がりをみせて第三者を巻き込んでしまう水平的な連鎖”は、そんな高確率で起こる可能性がある、ということだと思います。またこの連鎖は虐待だけでなく、殺人被害者遺族による殺人や、侵略と被侵略を繰り返す民族問題など、おなじような悲しい「連鎖」が続くことは少なくありません。かつて虐待被害者だった人が我が子を虐待してしまい、加害者になってしまう。「加害者」「被害者」ではなく「犠牲者」ばかりが増えるのは辛いことだと思います。
先生は、『「Oさんは、子ども虐待の被害者であって、刑事責任はない」などと主張する意図はありません。このような発想の枠組を越えて、私たちすべてが社会的に取り組まなければならないことの一端を考えたいし、考えるべき』だと仰っていますが、本当にその通りだと思います。先生の授業と、そしてこの記事を拝見し、そもそも虐待という結果の対応ではなく、虐待のおこるに至った過程とそもそもの原因にこそ対応しなければならないのに、それができていないことが一番の問題であると思いました。
虐待の内容を読んでいて、非常に心が痛みました。親から虐待を受けていた子供は、自分も将来虐待をしやすいという話はよく聞きます。ですが、虐待を受けた子供は、全員が虐待するわけではないはずです。虐待を受けていたが、虐待をしなかった人に解決の策があるのではと私は思っています。そこから、この連鎖を止められるヒントを得られると思います。
普段、何気なく日常を過ごすことがどれだけ幸せなことであることなのか思い知らされました。幼少期にうけた傷は身体的だけでなく、心にも残り、被害者が大人になってからも苦しめ続けるものであり、虐待を受けていたという経験は、その人の人生に大きな影響を及ぼすだけにとどまらず、まわりの人間にも何かしらの影響を与えるものだと思います。虐待で多くの子供たちが苦しまないためにも、まず私たちがアクションを起こして、積極的にこの問題に立ち向かうべきだと思います。
光事件の記事からもわかるように虐待は世代間で連鎖する、ということなのでしょうか。私はそうは思いません。確かに先生も講義中におっしゃっていましたが、虐待を受けていた子供でもまともな大人になる人はたくさんいると思います。記事にでていた二つの事件の被告が子供時代に虐待を受けていたことは確かだと思います。けれど、その二人が大人になって他人に暴力をふるったことは彼らの子供時代に関係するのでしょうか。
私はそうは思いたくありません。たしかに子供時代にうけた暴力は長く心に残る傷だと思います。けれども、その傷を乗り越えて生きている人もたくさんいるはずです。暴力というものは絶対に超えることのできる壁だと思います。そうでなければこの世はなんて悲しい世界なのでしょうか。
私は二つの事件における犯人の動機を、子供時代にうけた虐待のせいにしてはならないと思います。私たちは常に虐待が起こりづらいような環境をめざし、また万が一虐待が起きたとしても、受けた側の心のケアや支援に力を入れるべきだと思います。
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