「改革」「刷新」と陳腐化
人間と社会の液状化
この10年間、現場の支援者から「制度が一向に落ち着かないので、実践的な見通しも不透明になってほとほと困っている」という話をよく耳にするようになりました。昨今の「改革」「刷新」「技術革新」は、ものごとの解決や改善に目標があるというよりも、旧来の秩序と慣習を解体してシステムとその構成単位を液状化させ、常に「落ち着かない」流転の状態を創り出すことによって、金融とサービスのビジネスチャンスを恒常化するための仕掛けだということができるでしょう。
このような渦中に巻き込まれて右往左往させられるのは、まことに腹立たしい。万物流転の下でアイデンティティやレーゾンデートルを突き詰めるなんてことは、とても難しいし、途中でバカバカしくなって投げ出すのが落ちです。人間と社会を落ち着けない状況に貶める構造そのものを正視し、批判的に捉えることから出発する以外に手立てはありません。
最新デジカメ事情ー夢か幻か
上のスケッチ風画像は、最新のデジカメで撮影した「原画」です。画像ソフトで加工を加えたものではなく、カメラの撮影モードを切り替えるだけで、デジカメに搭載された画像処理エンジンがこのような「原画」をもたらしてくれます。
ちなみに、通常の撮影モードによる画像は下にあるとおりです。
一昔前なら夢か幻のようなことが、技術革新によってあっという間に市販品で実現できるようになることがあります。性能と使い勝手も格段によくなっていきますから、実に喜ばしいと思いきや、よくよく考えてみると夥しい疑問が湧いてくるのです。いうなら「地獄への道は善意で敷き詰められている」ようなあり様です。
フィルム時代と異なり、デジカメはPCのデバイスの一つになった性格を持ちますから、さまざまな用途にふさわしい画像の電子ファイルの選択肢が増えれば、それはそれで楽しみと利便性の向上につながります。たとえば、一枚目のスケッチ風写真は年賀状に用い、二枚目の写真は東京スカイツリーの完成した当時の記録写真として使うなどです。
また、フェイスブックでリアルタイムの静止画や動画が投稿されることによって「アラブの春」が起きたように、マスコミによる情報独占の壁でさえ「ベルリンの壁」が崩壊した時を彷彿とさせるまでになりつつあります。フォトジャーナリストとしてベトナム戦争の惨禍を伝えた沢田教一の作品を世界の人が共有できた当時のスピードは、現在ではリアルタイムに等しいまでに短縮しています。
写真表現の質は今でも撮影者の腕によるところが大きいでしょうが、画質と撮影の自由度は格段に上がりました。
撮像素子の画素数は飛躍的に向上し、カメラの側で設定できる感度もISO6400くらいまでスタンダードになっています。フィルム感度の標準がISO100から400に上がって「すごい」と驚いていた1970年代は、光量のない被写体には三脚とレリーズをつけて撮影する苦労を強いられました。
フィルムは光を受けて化学反応を起こす代物です。そこで、1/2秒未満のシャッタースピードならISO感度に大きな変化は見られませんが、20秒も露出すると感度はISO400のフィルムでもISO20くらいまで感度が勝手に下がっていくのです(化学反応のスピードが時間とともに低減していくからです)。そこで、暗い被写体の撮影は、それぞれのフィルムの特性を知り尽くしたうえで、経験と勘がものをいう世界だったのです。
ところが、デジカメはまるで違います。被写体の光量、シャッタースピードと絞りの値によって、カメラに組み込まれたアルゴリズムどおりに最適化してくれます。撮影途上でISO感度が下がるなんてことはありません。
最近のレンズも驚きの性能です(私のようなオジサンにとってはとくにそうです)。先の画像を撮影したレンズには、非球面レンズが3枚、特殊低分散ガラスのレンズ2枚を含む11群17枚構成のズームレンズで、手振れ補正の機能さえついています。
かなり以前から、非球面レンズがさまざまな収差の補正に効果のあることは、光学設計の上では明らかにされていました。ただ、ガラスを非球面に精密研削することは難しく、長い間、市販のレンズに普及することはなかったのです。現在は、ガラスや樹脂の精密なモールド技術(金型に流し込む成形法)の革新によって、研削の困難が乗り越えられました。
非球面レンズの横綱に、シュミット・カメラというものがあります。全天撮影の歴史的ミッションを担ったアメリカのパロマー山天文台のシュミット・カメラは、1940年代末に製作・設置にかかった費用が、当時の金額で数百億円だったはずです。天文台ならではの大型レンズに必要な均質で巨大なガラスにコストがかかることもさることながら、高次非球面の補正レンズ(シュミット補正版のこと。一枚のレンズが、ある部分は3次曲線で、別の部分は4次曲線等で構成されるような複雑な構成のレンズ)の精密研削に莫大なコストがかかったと言われています。
それが今や、市販の天体望遠鏡(シュミット・カセグレン式望遠鏡)にシュミット補正版が使われていて、市販カメラのレンズにも非球面レンズなんて当たり前のように組み合わされるようになりました。そのおかげで、球面収差やコマ収差等の歪曲を著しく低減させたことはいうまでもありません。これを支えた技術革新には、確かに脱帽の思いがこみ上げてきます。
このようにして、デジカメ・レンズの性能やICTの中で活用する情報化は格段に進歩しました。これだけなら、実に喜ばしいことです。
「賢い消費者」になるという諦観
ところが、昨今のデジカメはもう「使い捨て」に等しいまでに成り下がっていると憤りを覚えるのは、私だけではないでしょう。フィルム時代のカメラなら、一眼だろうがコンパクトだろうが最低10年は使えましたし、グレードの高いカメラならほとんど一生もので使い続けることができました。
2~3年前のプロ用のデジタル一眼レフは、あっという間に、現在の普及機がその性能を追い抜いていきます(前者は後者の10倍以上の値段なのに…)。画素数が上がった度合に応じて、画像処理に求められるPCの容量と性能も飛躍的に高めなければなりません。高い買い物でありながら、PCやデジカメの製品寿命は短くなり、完全に「非」耐久消費財化しています。じっくりとつきあって愛着をもちつつ、使い込む道具ではなくなっています。
私の性分からは、自ら進んでデジカメの性能を追っかけるなんてことはありません。それでも、ICT技術の向上と釣り合うデジタル画像のスタンダードの考慮に迫られると、不本意ながら右往左往した挙句に、「デジカメ如きに振り回されても何の意味もない」との諦観を決め込むほかなくなるのです。
簡単に言えば、写真のプロでない限り、デジカメ(コンパクトか一眼かを問わず)は高級機に手を出さずに、自分なりに見極めた普及機を3~5年単位で消費し尽くすのが「賢い消費者」だという結論になりました。ほらっ、ビジネスチャンスだけは広がったでしょうよ。
カメラ雑誌は、もはや業界広報メディアとなっている
そこで、カメラ雑誌の方も、雑誌Aは次々と登場するデジカメの新製品を祀り上げては新製品の購入を読者にあおるように書き、雑誌Bは古の名機を特集しては「中古カメラ」業界の活性化に一役買うといった塩梅です。驚いたことに、女性雑誌のコスメ・グッズの情報記事とカメラ雑誌のそれにほとんど質的差異がないことに気づかされます。
これでは、もはやジャーナリズムとしての機能はなく、カメラ業界の広報メディアに過ぎないといっていいでしょう。雑誌販売が振るわないご時世に、カメラメーカーの広告収入まで減らされるのは「背に腹は代えられない」という出版社の本音が、紙面に臆面もなく露出するようになりました。
特にひどいのは、新製品の紹介記事を執筆する「写真家」の輩です。撮像素子の大きいフルサイズのカメラを紹介する際には「撮像素子が小さいほど、ボケ味を出すには難点がある」(これは真実ですが…)と主張していたのに、新発売の小さな撮像素子の値の張る「高級機」を紹介する際には打って変わったように「ベタ褒め」します。要するに、「写真家」などというのは大嘘で、真の素性は「カメラメーカーの太鼓持ち」に過ぎません。「見苦しさ」と「品のない」人間性の暴露はここに極まれりです。
福祉ビッグ・バンも・・・
このような変化が加速度をつけて拡大してきたのは、ここ20年間のように思います。私には、デジカメやICTの世界を覆う同じ状況性が、福祉・教育・医療の業界や制度の「落ち着きのなさ」にも通底しているように思えてなりません。かつて「福祉ビッグ・バン」なんて叫んだ人たちの弁解を一度聞いてみたいな~。
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