さいたま市ノーマライゼーション条例実務者研修
先週に引き続き、さいたま市の条例施行に向けた研修会が開催されました。先回は学校の教頭先生方の研修でしたが、今回は各区支援課・障害者生活支援センターの職員等の研修で、差別・虐待事案を含むさまざまな相談を第一線で受けとめ、問題解決に資する支援と連携を地域に実現していく役割を果たす方々です。
そこで、講師は私のほか、同種の条例にもとづく相談活動の実際についてすでに経験をもつ千葉県から、健康福祉部障害福祉課市川圏域広域専門指導員の白川洋子さんをお招きしました。
千葉県広域専門指導員の白川さん
まず、さいたま市条例の呼称について簡単に解説しておきます。正式な名称は「さいたま市誰もが共に暮らすための障害者の権利の擁護等に関する条例」で、この略称が「さいたま市障害者権利擁護条例」、通称が「さいたま市ノーマライゼーション条例」です。
条例づくりは、障害者の権利条約とノーマライゼーション理念を地域社会に実現することを目的としていましたから、略称と呼称が異なる点は内容の上で別の何かを指しているわけではないのです。条例づくりの出発点で「ノーマライゼーション条例」としてきた仮のネーミングに慣れ親しんだ関係者も大勢おられたことから、それを通称として残した経緯があるだけです。ちなみに、さいたま市のホームページでは、条例づくりのプロセスとのつながりも考慮して、「ノーマライゼーション条例」の通称を優先的に使用しています。
さて、この条例の特色は、まず、障害の概念規定を社会モデルに置き、合理的配慮の欠如を含む差別とセルフネグレクトを含む虐待に関する包括的で具体的な規定を明文化している点にあります。
次に、差別・虐待事案に対するアプローチの原則は、「罰則規定」を設けるのではなく、相互理解を培い、ケースごとの現実的な問題解決に必要な「調査・助言・あっせん」および「支援」を積み重ねることにあります。パターナリズムを排除するものではありませんが、そこに軸足を置くのではなく、支援者を含む市民の協働決定によって前進することを重要視する内容です。
三つ目には、差別と虐待を克服することによって、障害のある市民が全面的な活動の展開と社会参加を実現するための総合的な支援策を漸進的に拡充する点です。
つまり、新しい障害概念にもとづいて地域社会の内側から差別・虐待を克服し、施策の拡充と併せつつ全面的な活動展開と社会参加を実現するための条例である-このように条例の内容を解説すること自体は簡単ですが、それを地域社会の現実の営みに結実させていくことは容易なことではありません。
恰も標高の高い山に登るように、頂をめざして一歩一歩着実に歩みを進め、急峻な崖を避けて回り道を惜しまず、あるいは風雨があまりにも強い局面ではビバーク(予定外の露営)を余儀なくされることも想定しておく必要があるでしょう。
まずは、新しい皮袋にふさわしい新酒を作り始めなければなりません。その第一線に、今回の研修参加者がいます。
たとえば、旧来の障害概念である医学モデルの滲みついた発想に由来する典型的な「差別」的問題として、サービス提供事業者の側から主障害を特定することが指摘できます。障害理解の発想と支援の組み立て方については、社会モデルの枠組へと早急に改めなければなりません。相談の入り口に当たる支援課や生活支援センターにおいて、障害にかかわる「制度の谷間」が生じかねない枠組みを設定していることなど論外です。
昨年6月の改正により障害者基本法の障害概念も包括的になりましたから、「障害種別」に分かれた相談支援事業はもはやアナクロです。さいたま市の条例は、障害種別にかかわる「応諾義務」をはたしさえすれば事足れりとするような、まやかしの条例ではないからです。
わが国の福祉サービスに関する実体法は、サービスの利用に障害の種別・程度に事細かな形式要件を設けて、障害のある人たちを長年にわたって、差別・分断してきました。この問題は、半世紀以上、実践と研究の両面で批判されてきたものです。現在でも、従来の形式要件がさまざまに生きていますが、だからこそそれらを地域社会の営みの内実から一歩一歩乗り越えていくことが求められているといえるのです。
しかも、この条例は市民生活のすべてを視野に収めた社会的障壁を目指していますから、制度領域としての「福祉サービス」に支援が限定されるものではありません。制度の垣根を越えた連携支援が求められています。
実際、千葉県からは、たとえば商業施設の利用にかかわってコンビニの店長さんが、バスの利用に関してはバス会社が、賃貸マンションの入居に関しては不動産業者や大家さんがそれぞれの無理解を乗り越えて、障害のあるなしにかかわらず地域社会で共に生きるための粘り強い取り組みをつくってきたことが報告されました。
そこで、相談支援の入り口では、制度や障害に関する形式要件をコミュニケーションの出発点に据えてはならないのです。「障害のあるなしにかかわらず共に生きる」新しい型の相談支援を支援課と障害者生活支援センターは体現しなければならない。相談支援の入り口から一切の分け隔てをなくすことが、条例を地域社会に活かす心臓部の果たす機能に求められる必要不可欠な課題なのです。
さいたま市の条例はこの4月に全面施行されます。この条例の目指すものの実現には、長年にわたる不屈のスピリットと粘り強い取り組みの積み重ねが必要です。市民と支援者が従来の発想・慣習・支援経験等を根底から問い返しながら、すべての市民の夢を実現する営みがはじまることになります。
コメント
私の育った幼稚園はどんな子供でも受け入れる幼稚園だった。知的障害を持つ子供、自閉症の子供、耳の聞こえない子供など、どんな子供でも差別せずに受け入れている。
幼稚園の頃、私の同級生にも知的障害を持った子がいて、みんな当たり前のようにその子のこと気にかけて、ある意味面倒を見ていたが、それが特別なことだと後から気が付くこととなった。
そして、最近それを痛感した出来事があった。
家業の手伝いであるデパートの催しで店員をしていた時、大人の知的障碍を持った人がデパート内に入ってきた。その人はたまたまその幼稚園の関係で私の知り合いの人だった。
その人が来ると、それぞれのお店の人が試食や並べてある商品をしまっていた。それはその人が来ると乱暴に扱ったりするから、みんな関わりを持たないように、避けるようにしていたのである。
しかし、私はその人がしっかりと注意を聞き入れることが出来ることを知っている。しっかりとこれはだめだよと注意をすれば、それをやめる。
にもかかわらず、お店の人たちはただただ避けようとするのである。
私はそれを目の当たりにしたとき、これが現実なのかと寂しさを覚えた。
確かに未知に対する恐怖は人はみんな持っているものかもしれない。だとしても、それなら障害を持った人たちへの一般の人々の理解を深めることが出来る社会作りが必要であると私はその時に痛感した。
私は今まで思い込みで日本のこういった支援は進んでいるものだと考えていた。しかし、実際には遅れていて現場を見ず話を聞くだけでも、ひどい状況なことがわかった。さいたま市の障害者権利擁護条約は日本ではかなり進んだものであると思いました。
同時に私たち一般人の障害者理解の深まりが求められているので今後生活していくなかで意識していきたいと思います。またもっとたくさんの地域でこのような条例が広がることが重要であると考えます
この記事の中にある障害差別は健常者が机上の空論で議論を進めてしまうことで起こるのだと思います。それは一見、合理的に基づいているのでなかなか見直されないのではないでしょうか。例えば多目的トイレは今日では至る所にありますが、それが本当に全ての人にとって使いやすいものなのかと言うのは疑問です。というのも、たいていの場合トイレが部屋の端っこにあり、壁に手すりが付いているため片麻痺の人には使いづらい場合があるのです。また、手すりの位置が悪く掴みづらい場合もあります。このようなことは話し合いの場を設けることで解決していけるものと思います。この条例が成功することを切に願っております。
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