人権教育研修会から
先日、さいたま市教育委員会人権教育推進室主催の「さいたま市小・中学校等管理職人権教育研修会」で講師を務めました。内容は、さいたま市の「誰もが共に暮らすための障害者の権利の擁護等に関する条例」とこれからの学校教育のあり方についてです。教頭先生たちが受講者で、みなさん大変熱心に研修に臨まれていました。
人権教育研修会
さいたま市では、市報の1月号でこの条例に関する特集記事も組んでいるように、本年4月の全面施行に向けて、広報と条例施策の具体的な取り組みが徐々に進められています。
(次を参照。http://www.city.saitama.jp/www/contents/1324515732845/index.html)
この条例づくりの最中に市で収集した「差別事例」において、学校教育に関連するものは63/521事例あり、制度別でみると結果的には最多領域を構成しています。この事実はそれとして重みのあるものとして受け止めなければなりませんが、裏返してみれば、学校教育に対する関係者の期待の表明にほかならないと私は考えてきました。
それは、障害のある人のライフサイクルの全体を見通したとき、障害のあるなしにかかわらず、単一の普遍的な制度において支援を享受できる唯一の領域が学校教育であることに由来します。
たとえば、地域の学校にすべての児童生徒が等しく受け止めてもらうこと、その中で特別の教育的ニーズにふさわしい最適な教育が保障されること、学校は子どもたちにとっての生活の場でもありますから、障害のあるなしにかかわらず相互の交わりと理解を深め、日常の所作に裏打ちされた支え合いが市民感覚として培われること等を含めた希望が、学校教育への期待として集中するのだと考えます。
学校はこれらの期待に応える努力を堅持しなければなりませんが、現在の学校現場にはさまざまな制約のあることもまた事実です。
2007年の学校教育法の一部改正によって、小中学校の通常学級を含めた特別支援教育の推進がはかられることとなりましたが、条件整備や教員配置に必要十分な手当があるとはいえません。
条例づくりの際にヒアリングにうかがった小学校では、通常学級と特別支援学級の双方ですばらしい取り組みが進められていました。それでも、このようなすばらしい実践は、先生方の夜遅くまでの残業によってはじめて支えられていることもまた事実なのです。実際、私の居住する川越市内の小中学校を見ても、職員室の電気照明は毎晩12時近くまでこうこうと灯っています。このように客観条件に乏しさがあることを放置したままで、障害のあるなしにかかわらず「共に生きるための権利の擁護等の条例」を推進することに困難を伴うことは明白です。
しかし、私が条例づくりで知り合った障害のある子どもを育てている現役のお母さん方のほとんどは、先生方の熱心な前向さと柔軟な気持ちさえあるのであれば、「学校の応援部隊になりたい」と声を揃えておっしゃいます(2011年12月19日ブログ参照)。
ここに、私は前進の鍵があると考えたいのです。子どもたちの特別の教育的ニーズを真中に据えて、学校と地域が信頼関係をもって向き合い、ここで教育実践の内包の充実がはかられた度合いに応じて、制度条件の改善もはじめて進んでいくという見通しを共にできるからです。
実践の内包を充実させることなく、制度改善だけを声高に叫ぶような傾きには、決して権利保障の未来を切り開くことのできない剣ヶ峰に立っているという時代性の自覚が、すべての領域の支援者に求められているのでしょう。
コメント
今思うと、確かに職員室は夜遅くまで明かりが付いていて、何をしているのだろうと不思議に思っていて、せいぜいテストの採点やプリント作り、受験生の先生達が仕事をしているだけだとおもっていました。中学生の頃は人権等のことなんてまったく考えてなくて、先生達がそのような事について、夜遅くまで仕事をしている事に驚きました。でも実際、学校生活では特別、人権や差別に対する特別な対応は見られなかった気もします。しかし、実際は生徒の見えないとこで一生懸命だったのだなと気づかされました。
特別支援教育を障害のある子どもへの支援教育だけではなく、「特別なニーズをもった子どもへ必要な支援をあたりまえにする」という視点にたった時、ブログ本文にあるように、「学校と地域が信頼関係をもって向き合い、ここで教育実践の内包の充実がはかられ」るというのは非常に納得できる点でした。特別支援教育についての理解を深めるには地域との信頼関係は絶対不可欠であり、それにより学校教育の質も向上すると考えます。
差別事例が学校に多いことは残念なことではありますが、確かに学校が排他的でないという証拠にもなりえると思いました。これからの課題としてそういった差別事例をなくすために学校だけでではなく、地域や社会と連携をとりながらの対策が推進されるべきであると感じました。
私が小中学生の頃は、まだ障害や学習障害を抱える生徒を受け入れる学校は少なく、わざわざ遠くまで通わなければいけない同級生がいました。しかし、今考えてみるとそんな小さな頃から公共の交通機関を使って一人で遠くの学校に通っていた彼らのほうが私よりもよっぽど賢かったのではないでしょうか。そんな私の母校でも、今では「青空学級」という学習障害を抱える生徒や多動症など、集団生活になじめない生徒のためのクラスが設けられているようです。クラスは学習レベルに応じて分けられているものの、行事などは普通のクラスと一緒に行い、互いに触れ合う交流もはかられているようです。今日、教育現場の問題は増えるばかりですが、その陰で先生方の懸命な努力を感じますす。
差別事例が増えている件について、私は衝撃を受けました。昔に比べて今の方がより過去の事例を元に対応できるので減っていると思ったからです。この記事を読んで、差別のない教育をするために必要なこととしてまず差別に対する知識を持った先生を今以上に育成することが1番大切だと思っていましたが、それ以上にまず学校と地域の信頼関係づくりが必要なのだなと感じました。そのために今教師を目指している人は後に教師となった時何をすべきなのかについてよく考えるべきだと思いました。
市で収集された差別事例で学校教育に関連するものが最多である事の背景には、子ども達が学校教育を受け始めた時に、障がい者の理解が殆どないからではないかという事が少なからずあると思われました。そうすると子ども達が自分と少し違う所を認識する前に、教員による指導が必要になってきます。しかしそれでは教員の負担が更に増える事が考えられるので、保護者と子どもがペアになり、他の親子と一緒に活動するレクリエーション等の機会を多く設けて、保護者どうしでも理解し合うことで、差別の対象となる要因を生まないようにする事が実践される余裕のある学校環境作りが必要になると考えます。
私は障害者について少し学んだことで思ったことは、日本の社会のなかで自ずと障害者がつくられている点に問題があると思います。私たちの先入観により障害者を排除しているような気がします。一人一人の考えが変わって日本全体で障害者に対する配慮が生まれることを期待したい。障害者というだけで、環境さえ整えば私たちと同じように働いたりすることができるので障害者が自由に活動できる場をつくることが大切だと思う。
公共機関、学校などにおけるユニバーサルデザインでない設備や機器が多くみられる。例えば、建物の入口にスロープが設置されているのだが、傾斜が急すぎて車いすの人や、高齢者などは登れないのではないのか?また、自動販売機では選択ボタンの位置が高い、取り出し口が低いため小さい子や足が悪い人では使用が困難である。
私はユニバーサルデザインという観点から、社会の障害を取り除くことで、みんなが同じように行動できる社会づくりをしていくことによってよりよい社会ができると思う。
自分の中学校では特別学級が設置されておりなおかつ通常のクラスにも所属しているという形式をとっていました。当時はあまり気にしていませんでしたが、そのような形式の中でもほぼ常に一緒のクラスで授業や行事に参加していた記憶があります。障害があるということを意識せずに過ごせる環境作りというのが大切であり、小学校というような早期の段階から環境づくりをしていくことが重要なのではないかと思いました。
僕が小学生の時は特別支援学級があり、障害のある子たちと関わる機会もたくさんありました。休み時間に一緒に遊んだり、授業を受けたり、
給食を食べたり。しかし、先生も言われているように、学校で差別があるのも事実だと思います。よい環境で子供たちが生活するには、学校や先生方の努力が必要であるということを知り、地域と学校が協力しあいより良い環境を作っていくことが大切だと思います。
学校教育が先生達の努力によって支えられていることは確かであり、それによって障害がある子もそうでない子も日々充実した学校生活を送れている。
しかし、子どものためだからといって、残業を強いられる環境が何の疑問もなく受け入れられてしまっているのではないだろうか。先生達の努力は報われる部分もあれば、そうでない部分もあり、大半が苦労で占められているはずである。本当に学校、親、子どもが連携し合った環境を作りあげるためには、先生の負担をある程度分散できるような体制にしていかなくてはならないと思う。
施行に対して市全体で環境を整えようという取り組みはとても素晴らしいことだと思います。また、私は障がい者の権利を守ることと同じくらい先生の負担を減らしてあげることが重要だと思います。以前、特別支援の先生とお話をした時、障がいは治すものではなく受け入れて伴走するものだと言っていました。伴走するには、先生の力だけではとても追いつきません。保護者とのつながり、そして周りの人たちの支えがあってこそです。現在の学校では障がいを理解するための教育がまだ不十分だと思います。障がいに対しての周りの知識をもっと深め、一緒に支えていくことが重要になってくると思います。
私は障がいをもつ子どもたちも、健常な子どもたちと一緒に、学校で、地域で、生活できたら、よりたくさんのことを学べるし、共に助け合う社会が作られていって、よいと思います。確かに、障がいをもつ子は、特別な支援が必要になりますから、特別支援学校で、まとまって生活するのが楽でしょう。しかし、この学校という社会の前段階から、障がいのある・なしで分けてしまっては、社会に出たときに孤立してしまうのは、必然のような気がします。障がいのある子も、健常な子と一緒に生活することで、障がいのある子も広い世界に出合い、障がいのない子も、障がい者のいる社会が普通になり、障がい者との接し方も学べると思います。障がいについて正しく理解すれば、差別も生まれなくなると思います。
ところで、このように、障がいのある子どもたちを、地域の公立学校に迎え入れられるようにするには、たくさんのお金もかかり、教員や地域の負担も増します。しかし、人々からの理解を得られれば、その道の第一歩になると思います。まずは多くの人からの理解が得られなければ、お金も出ないし、受け入れてもくれません。私たちは、もっと障がいについて理解し、共に生きていける社会を作るために、努力しなければいけないと思います。
私は「誰もが共に暮らすための障碍者の権利の擁護等に関する条例」などの法規が非常にいいと思います。私は中国に住んだとき、定期的にボランティアとして障害学校で手伝いしました。その学校は脳性麻痺の子供専門学校です。普通の人はよく障碍者がこわいと思ってできるだけ彼らとの接触を避けています。さらに障害者を差別する人も少なくありません。でも、その子供たちと接触して友達になった後は、彼らは本当に前向けでかわいい子、心から彼らを守りたいっていう気がします。ですから、障碍者の権利を保護のために、条例や法律など定めることはとても必要なことだと思います。
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