足元を見る
「足元を見る」とは、昔、駕籠かきが旅人の疲れを足元の運び具合から見てとって、料金をふきかけたことから、一般に、弱みにつけこむことを言います。
私の友人A氏は、なかなかのイケメンです。その程度も半端なものではありません。
例えばです。A氏と私が食事をしにレストランに入ったとしましょう。A氏がテーブルからお手洗いに席を立って移動するとなると、レストランのすべてのウェイトレスの視線がA氏の移動する姿を注視して追っかけてしまうくらいのイケメンです。
革ジャンだろうがダウンジャケットだろうが、A氏はカジュアルに何を着ても「ちょい悪オヤジ」風に決まります。背広にネクタイ姿ともなれば、もはや「生まれながらの貴公子」であるに違いないと神々しく見えてしまうのです(事実は、炭鉱労働者の末裔に過ぎません)。
それでもA氏には、「伊達男」のような軽佻浮薄さは微塵だに感じられません。普段使いのアイテムは「ナナハン(排気量750㏄)」のオートバイに外車のカブリオレ(オープンカー)ときて、それらを操る姿もこれまた実に決まっていますから、女性にもてないはずはない…。
ところが、この点では、これまでのところ、A氏と私の人生行路にさほど変わりはないのです。「山あり谷あり」の人生が、二人の主観的感想からいえば「フツー以上の辛酸と悲哀をなめてきた人生」ということで確かな(?)一致点を見出し、そのことが薄く長い友情の礎とさえなっています。
このように、人間は少し長生きするだけで、「人間見た目が10割」なんて愚論は大嘘であると分かってきます。「人間見た目が10割」という考え方は、「就活」や「婚活」などのように、人間関係をビジネスモデルに枠づけ、人間を商品化して「デザイン」から評価してしまう視線です。人間はそれほど単純な存在じゃないのです。それどころか、必要以上に洋服や整容を気遣う人は、八方美人的な軽薄さや病理を抱えていることがままあります。
A氏と私の世代の青年期に「肉食系男子」や「草食系男子」などという分類はありませんでした。私が自分と知人友人の青年期のあり様をざっと眺めまわしてみれば、全員まずまず「健康で文化的な」範囲におさまる「標準型好色系男子」と表現するのが妥当です。この範囲内にA氏と私の収まる点は、完璧に共通していると言っていいでしょう。
ここで行論を逸れて、男性性の類型について付言すれば以下の通りです。
私の青年時代の男性性に関する他の分類があるとすれば、好色の度合いの著しく高い「井原西鶴型好色系男子」と、好色の程度はさまざまだが女性を前にしてすぐ腰が引けてしまうような「軟弱型好色系男子」です。いずれも本質的な違いはなく、好色程度の偏差と行動様式による類型判定基準が設定されていたように思います。いずれの類型も、男尊女卑傾向を引きずっています。
これらの旧分類に、女性の評価視線の網をかけた上で、男性側の身体性に関する自信と異性との葛藤回避性のそれぞれの程度をクロスさせると、今日の「肉食系」「草食系」類型とそのバリエーションが出来上がるのではないでしょうか。ここでは、女性からの評価視線が男の男尊女卑傾向を相殺する形になっています。
さて、話しの行論を元に戻しましょう。
A氏と私は男性性についての相違はさほどないのですが、それぞれの存在様式は著しく異なります。「見た目」とその「作りこみ方」という身体性について、私はA氏の対極に位置するために、私は見た目でパッとすることはありません。
学問的識見で共通項をもつほかに、A氏と私で見解を異にしない点は、「カッコいいオートバイ」と「風情のある源泉かけ流しの温泉」のあり方についてくらいです。二人の違いはおそらく、それぞれのアイデンティティの組み立て方、作りこみ方における生活史的・地域文化的相違(A氏は福岡、私は大阪)に由来するものだろうと考えています。
存在様式の点でA氏の対極にある私は、普段からあまり身なりを気にすることがありません。背広だろうがジーンズ姿だろうが自身の気持ちのあり様にさほどの変化もなく、TPOにかかわる必要最低限の常識的判断をするくらいでしょう。
着る物をコーディネートすることや、そのために服を選ぶなんて発想が、私にはいささか欠落しています。衣服を購入する際も、売場に居る時間は3分程度、サイズがなくて売場でまごついた時でさえ5分程度という「そっけなさ」が、私の「持ち味」くらいに思ってきました。身に着けるものは、デザインより機能優先で選択する癖が身に滲みついていますから、仕事もプライベートもとにかく肩の凝らない恰好がよろしい。
このような私が、先日、大学生の娘と靴屋に行くことになりました。わが家の近辺にはあいにく靴屋がないため、娘がブーツを購入したいとかで車で連れて行ってやることにしたのです。
行き着くまでの車内で、娘は次のように言い、私はひたすら耳を傾けました。娘はA氏のことをよく知っています。
「Aさんは、間違いなくイケメンでカッコいいから、カッコをつけた分だけ決まっている。だから、『何カッコつけているのよ』と女性の反感を買うことはない。その点、お父さんは『カッコつけても様にならない』ということをよく自覚していて、変にカッコつけようとしないところがいい」
(…こいつは親爺をほめたいのか、こけにしたいのか?)
「でもね、女性というのはイケメンだからといって惚れるものじゃない。ここを分かっているのかな、お父さんは。あまりにイケメンだったら、自分との釣り合いや浮気を心配して二の足を踏むこともあるんだよ。そんなことにいちいち気を揉んで消耗するのだったら、イケメンの次とか、イケメンかどうかじゃなくて、言動と身なりがきっちりしていて誠実そうな男の方がずっと魅力的なんだな」
(…はたして親爺を励まそうとしているのか、からかっているのか、女の邪心の率直な表明なのか、一体何を言いたいのだろうか??)
「とにかくお父さんは、身なりを考えなさすぎ。いい加減、大学に行くときくらいスニーカーばっかり履いていくのは止めなよ。女性は足元を必ず見るから、靴くらいパッとする一足を買った方がいいと思うよ」
(…うっ、うーん)
今さらおしゃれをして女性にもてようなどという気はありませんが、普段の身なりにあまりにも無頓着であるという私の本質的欠陥を、娘の言は衝いています。私はまったく反論することができないまま、靴屋に到着すると娘の“勧告”に従うことにしました。
結局、靴屋での支払いは娘のブーツ2足代を含めてすべて私の財布持ちとなりました。まさに、女性は「足元を見る」のです。
コメント
先生こんにちは。
たびたびのご迷惑かもしれないコメント投稿です。
確かあのころ中学生だったお嬢さんも
もうそんなお年頃なのですね。
きっと聡明な女性なんだろうなぁ。
私の苦い思い出になった卒論は高齢者と衣服について
考察したものでした。
どうまとめてよいかわからずただの反省文だった気がします…。
ですが関わってくださった女性からおはがきが届き、その中に書いてあった言葉は私の人生の宝物になっています。
それは「あなたの提案は私の残りの人生に彩りを
与えてくれました」という言葉です。
礼儀も敬意も今よりもっと全く何も判っていなかったあの頃の私に誠実に正面から向き合ってくださったその女性にはもう連絡を取り合うことは無くなってしまったけれど、言葉が見つからないほどに感謝しています。
そしてそのお葉書に書いてくださった言葉が
私が導きたかった結論そのものだったと思います。
年に似合わない若返り願望や不必要と思われる顔面整形などなど、見た目に必要以上に固執することは、やはり人間の心の闇が隠れていると思います。
内面の伴わない美しさは空虚なもの、満たされない
ものを求める叫びのようにも感じます。
内面の充実があってこそ、の外見ですが
自然に花が咲く様に人生や日々の暮らしにも
彩りを。厳しい環境で可憐な花を咲かせる高山植物などは人々を魅了する何かがあります。
身だしなみそれから発展してのファッションは
人生の荒波をくぐり抜ける上での追い風の一つに
なってくれるかも知れませんね。
A氏は一般男性に比べて女性の対してのストライクゾーンが極めてせまいのでしょう。
見た目でパッとしても、魅力のない男性はたくさんいます。
A氏は「見た目」と「作りこみ方」に加えて艶があるのでしょうね。
艶は異性のパートナーとの営みの中で醸し出されます。
昨今珍しい魅力ある九州男児ですね。
Hさんからの葉書にある言葉は、木崎さんに対する正真正銘の“贈り物”ですね。
このかけがえのないかつてのプレゼントを噛みしめることのできる今の貴女は、きっと誰かにこのようなプレゼントができる人になっていると思いました。
一度、当時のゼミのみんなでお会いしたいですね。
こんばんは。
コメントを返してくださっていたのですね。
ありがとうございます。
毎年5月の第2週ごろに札幌の実家へ帰っているのですが、その時に絡めて埼玉を系由しようかと
考えていました。
自分の都合もまだはっきりとは決めていないのですが、ここのブログを見て連絡をくれた子もいたので、出来たら予定をあわせて皆で顔を出せたらいいなと思います。
また近くなりましたらご連絡させていただくかと思います。よろしくお願いいたします!
私もA氏と先生で言ったら、先生よりの人間です。高校まで一日中バスケしかやってなくて、格好いいバッシュの選び方とジャージの着こなし位しか知りませんでした。
そのまま大学に入り、周りの皆が素敵な格好をしているものだから私も負けじと・・・と思いましたが、如何せんしたことがないものでどうすることもできなく、周りの人のファッションを真似ている始末でした。これからお互い頑張りましょう!!
「パンダのりーりー」さんへ
同士を得たように嬉しく思います。
お互いに頑張りましょう!!
僕も、衣類にはお金を使う方だと思います。でも、僕はA氏と違うのはもてる為のファッションではありません。主に古着を着るのですが、その服の古さや、珍しさや、時代背景を加味して服を買っています。自己満足でもありますが、同時にやっぱり人の目も気にします。でも先生が言ってた八方美人的な要素はそこまで強くありません。僕の周りの服にお金をかけてる人は、自分がしたい格好をどう思われようと、押し通すような性格な人が多いです。八方美人の人は少ないです。でも先生の思ってる衣類にお金をかけている人の基準が少し違うと思います。
私も先生と同じように身なりにとても無頓着です。この授業も毎回スウェットで受けていて、だいたい前の方に座っていました。友人にも「学校くらい服着てきなよ。」と言われるのですが、服を着なければならないという規則があるわけではないし、また、寒くなければ服装は何でもよいと私は思っているので、いまいち服を着て学校に行こうという気になれません。
しかし、これから私は就職活動を控えており、しっかりした身なりが必要になってきます。なので、まずは服を着ることに慣れ、少しでもスウェットを着る回数を減らそうと思います。
人からどう見られているのかを気にするかしないかというのはとても興味のある話題です。『人からどう見られているか』というのは、実際に人から聞いた情報よりも、『自分が自分のことを客観的にみたらどういう風にうつるのか』というイメージの方が圧倒的に多いと考えます。他人の目は結局自分の目だと言うことです。
つまり、他人の目を気にしすぎる人というのは、自分に自信がなかったり、何か引け目を感じていることがあるという証拠です。逆に人の目に無頓着な人は、自分に正直に生きている証拠なわけです。無頓着すぎるのも考えものですが、気にしすぎる人よりも好感が持てるな、と私は思います。
着る服にこだわる、こだわらないは人それぞれだと思いますが、そのどちらかの道を貫いていることが大切だと私は考えます。私は特に服へのこだわりはありませんが、周りの目ばかり気にして見栄を張って服を買ってしまうことがあります。正直疲れます。イケメンだからカッコつけていいなどということではなく、自分がどうしたいのかというしっかりとした意思をもって生きることが1番良いと私は思い、それを実行したいと考えています。
私は「服装のみだれは心のみだれだ」と中学、高校と厳しく指導されてきました。それゆえ私はどんな服を着るのか、よりも服をきちんと着ることのほうが大切だと思います。また、TPOに合わせた服装をすることも大切なことだと思います。
私は普段流行の服装をするような人間ではないので、先生のように機能性を優先するという考え方には共感を覚えます。結論として私はどんな服装であれ、だらしなく着るのではなく、きちんと着ることが大切だと考えます。
私は「服装のみだれは心のみだれだ」と中学、高校と厳しく指導されてきました。それゆえ私はどんな服を着るのか、よりも服をきちんと着ることのほうが大切だと思います。また、TPOに合わせた服装をすることも大切なことだと思います。
私は普段流行の服装をするような人間ではないので、先生のように機能性を優先するという考え方には共感を覚えます。結論として私はどんな服装であれ、だらしなく着るのではなく、きちんと着ることが大切だと考えます。
私も先生と同じように機能性優先で服を選んでいます。他人の目をあまり気にしないタイプの人間ですので、必要以上にファッションに気を遣うことはないとさえ思います。
流行ばかりを追っている人は、他人の目を気にしすぎているのではないかと思います。(別に流行を否定するつもりはありません)
私としては「他人の目に映る自分」よりも、「自分の目に映る自分」がどのような姿でありたいかが大切だと思います。
靴の場合、服よりも遥かに傷ついたり汚れたりしやすいものなので、手入れを怠っているかどうかも他人から見られるポイントなのだと思います。
加えて、髪型も全体のイメージを左右する大きな要素です。こちらもぼさぼさだったり伸びすぎていたりすれば、相手からの印象は悪くなります。
つまり、印象を左右する要素は機能性とデザイン性ではなく、清潔感が大部分を占めていると考えられるのです。
服装に気を使う目的は自己満足だったり、他人を不快にさせないための心配りだったりと多種多様であるのにもかかわらず、ファッション雑誌は「モテ」の二文字でいっぱいです。元々そんなつもりではなかった読者に異性受けばかりを意識するように仕向けようとしている、この雑誌の策略に恐ろしさを感じています。
機能性重視の服装、自分の美学に忠実な服装、人の装いには様々な形がある。そして他人から評価は時代、流行によって違ってくるものだと思います。だから自分の中で何かしっかりと幹がある人は服装や外見での評価をさほど気にしないのではないだろうか。しかし、幹が不安定な人はそれを隠すために外見を過剰に取り繕うのだ。私は服が好きでよく買いに行くことがあるが家の服を並べてみると一貫性がなく流行に振り回されたものになっている。まだまだ自分の幹は不安定なのだろう。
もちろんその場に適した服装は大切だと思いますが、見た目のことにとらわれすぎていて、服装ばかりしか考えず中身(服を着ている人自身が)伴っていないと意味がないと思います。中身がしっかりしている人は服装以外でもキラキラとしたオーラや輝きがあると思います。中身があってこそ見た目があり、わたしも見た目と中身が伴うような素敵な女性になりたいです!
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