親密圏のコミュニケーション
現代はシステム・クラッシュのオン・パレードです。ギリシャ危機がイタリアその他に飛び火している現実は、世界経済システム炎上の感があります。タイの洪水はわが国の物づくりの拠点の大部分がすでに海外にある現実を照らし出しているにも拘らず、TPPに加盟しないと「わが国の輸出産業は崩壊する」という支離滅裂な主張は、日本の国家システムが一時代の終焉を迎えようとする断末魔に聞こえます。家庭内虐待やDVの深刻化は、わが国の地域社会と家族がもはや定型を失い、液状化している現実と受け止めざるを得ません。
これらのシステムはいずれも、蘇りに向けた過渡期に入っています。が、「賞味期限切れ」のシステムだからといって、すぐさま捨てさっていいものではありません。さまざまなシステムの転換期に伴う民衆の犠牲を極力低減し、次代の開拓に民衆の力を結集させるためには、まずは現状のソフトランディングに知恵を出す必要があります。
もちろん、次代のシステムをどのように構想するのかが問われていることは間違いないのです。
ただ、このような混乱に乗じて、大した構想もないのに、坂本龍馬にかぶれる薄っぺらな輩や、ポピュリズムと野蛮なリーダーシップを発揮して公権力の独裁をもくろむプチ・ファシスト(どうも私の出身地に跋扈しているように思える)もそこかしこに現れるようになりました。これらに対しては、バカバカしいと軽んじるのではなく、十分警戒しなければならないでしょう。それは民衆を煽情して多大な犠牲を招くことはあっても、次代を切り拓くことには決してつながらないからです。
ここで、私がとくに強調したいことは、次代を拓く処方箋は一握りのリーダーや先行世代の経験と知恵によってではなく、若い世代と先行世代による民衆的な課題認識の共有と協働の中でこそ編み出されていくのだという点です。
とくに、私が若い人たちと議論したいと考えているのは、親密圏のこれからについてです。現代の私たちの多くが「家族」としてイメージする親密圏は、もはや「賞味期限」が切れているため、今後に向けたデッサンをし始めたいのです。
親密圏における「絆」は、慈しみのある関係性と互いの自由を束縛する関係性の分かち難い両面から成り立つものであると指摘しました(2011年10月17日ブログ参照)。
庶民における旧来の家族像を探ってみようと、織田作之助著『夫婦善哉』(『現代日本文学大系』第70巻、235-252頁、1970年、筑摩書房)を読みました。ここでは、大阪は南の「うまいもん屋」めぐりをしては「ど、ど、ど、どや、うまいやろ」と二人が会話を交わす場面とともに、生業がうまく行かずに激しい夫婦げんかに発展するあり様など、慈しみと葛藤の起伏に溢れる夫婦像が描かれています。
この『夫婦善哉』に描かれた夫婦像は、当時の大阪にふさわしい親密圏としてそこかしこに存在したのでしょうが、今や絶滅したか天然記念物のように思えてきます。
わが国の家族の現状は、「慈しみ」が「ピュアな愛情」に気化し、「束縛」が「自分の思い描く人(パートナーまたは子ども)であって欲しい」か「見限る」「放置する」に転化する点に問題を抱えているように思えます。ここに「絆」の実体はありません。
とくに気になるのは、わが国における親密圏のキーワードとされてきた「甘え」についてです(土居健郎著『甘えの構造』、1971年、弘文堂; 大塚久雄・川島武宣・土居健郎著『「甘え」と社会科学』、1976年、弘文堂;土居健郎・斎藤孝著『「甘え」と日本人』、2010年、角川新書)。
『「甘え」の構造』関連の書を今改めて読んでみると、「甘え」概念が親子の間柄に関する「二者関係」に収斂して論じられたものであることが分かります。親子間の「甘え」という情緒性に富んだ関係性をわが国の特質としてさまざまな角度から論じてはいますが、親と子が共有すべき「第三項」についてはほとんど浮上しない構造をもつメンタリティの説明となっているのです。もし、このようなメンタリティがわが国の親密圏を構成する特質であったとすれば、現代における「ピュアな愛情への気化」=「愛情の強迫化」につながる芽は「甘えの構造」そのものが懐胎していたということにならないのでしょうか。
「甘えの構造」が成立する基盤である家族がシステム・クラッシュしてしまうと、夫婦間や親子間は息苦しくなりますから、「絆」に伴う葛藤を回避しようとする日常生活態度が広まります。10月17日付のブログに記した「(悪意なき育児放棄)。」という現象はまさにそれです。また、愛情の強迫化と葛藤の深刻化が同時進行すれば、「こんなにもお前のことを愛してこうあって欲しいと思うからこそ、殴ったのだ」という虐待・DV・教師体罰等の不当で無意味なエネルギーの暴発があらわれるのでしょう。
ここでは、「甘え」の再生ではなく、これまでの「甘え」に替わる親密圏の所作についての提案が求められています。
内田樹さんは「家族を愛するとは」(『疲れすぎて眠れぬ夜のために』第V章、205‐257頁、2007年、角川文庫)を論じて、叔父・叔母の関係性を含む拡大家族へのシステム変更と併せて、家族の間柄をもっと風通しのいいものに変えていく提案をされています。
これらにもヒントを得ながら、今後の親密圏の間柄にかかわるごく一部のデッサンをしておきましょう。
内田さんは、たとえば恋人同士の会話が、「ようやく着いたね」「やっと着いたわね」、「すばらしい景色だね」「ほんとにすばらしい景色だわ」、「愛してる」「私も愛してる」というような繰り返しのコミュニケーションであることに、間違いのないコンタクトのある間柄をみてとります。
これは面接技法にいう「繰り返しの技法」にほかならず、相手の言葉を繰り返すことによって自分が相手の心の鏡となる(考えや感情の受けとめと照り返し)コミュニケーションの大切さを意味するものです。
ただし、この「繰り返しの技法」が単なる「オウム返し」ではなく、間違いのないコンタクトとなるためには、条件のあることを忘れてはなりません。彼氏彼女、夫婦または親子が遠くまでドライブして「ようやく着いたね」「やっと着いたね」というコミュニケーションが意味を持つのは、目的地に着くまでの長い時空間の存在が両者の「第三項」として共有されていることが条件となっています。到着地で交わされる「すばらしい景色だね」「すてきな景気ね」にしても、眼前に広がる景色が第三項として共有されているからでしょう。
このようにみてくると、現代の家族は、日常のルーティンの中でこのような第三項の共有にもとづく「繰り返しのコミュニケーション」が成立する場面を喪失してきたことによって、慈しみのある関係も、束縛に伴う葛藤耐性もともに培われなくなってきたのではないかと思えてなりません。わざわざ「絆」だ、「愛情」だ、「もっとよりそって考えよう」などと言う前に、このような親密圏における当たり前の所作が消失している現実に目を向けるべきだと考えるのです。
たとえば、手作りの夕飯を毎日家族がともにするだけで、たとえば「今日のサンマは美味しいね」「ほんとに美味しいね」(ここではサンマの塩焼きが第三項)となるのに、家族そろって食事をするのはほとんどイベントのようになってしまっている家族が普遍化してはいませんか。このような日常をすっ飛ばしたまま、子どもに向かって「自立してね」などというのは「息苦しい」間柄を生むだけです。
夫婦の就労時間によるすれ違い、塾通いによる親子の生活時間のすれ違いなどが交錯して、日常のルーティンの中で何も共有する第三項がなくなれば、実体のなくなった慈しみを「ピュアな愛情」に〈気化〉するか、「ブランド物を買ってプレゼントする」ように情愛を〈モノ化〉するか、砂をかむような日常に情愛を演出するための「記念日」をもうけるように〈イベント化〉するか、あるいはまた、家族という「殻」を維持するための相互間の気遣いだけにエネルギーを消耗して疲れるために、〈葛藤の回避〉が恒常化する等に行き着くのです。
恋愛関係や家族の親密圏の再構築には、所得水準や見てくれの問題も要素に介在するでしょうが、第三項の共有による繰り返しのコミュニケーションのかけがえのなさを日常の所作にできることの方がもっと大切なのではないでしょうか。
蛇足ながら、このことの大切さがわからないような相手とは、つき合ったり、結婚しない方がいいでしょうね。
コメント
時間的な余裕が無い人が多い中で、何にでも効率性が求められる現在の日本ですが、親子間でのコミュニケーションにまで効率性を求めるということはナンセンスですよね。
何気ない会話の中にも、感受性の高い子どもは考えるところが多々あるでしょうし、本文の内田樹さんの文章の抜粋にもあった通り、そういった会話の中での「共有」で親子の絆を確かめることもできますからね。
私も狭い世代間に閉じこもるのではなく、今のうちから幅広い世代の方々とコミュニケーションをとっていきたいと考えました。
確かに現代は、効率ばかり追い求められて、日本人が持っていた文化がほぼ失われていると思います。私の地元の祭りは江戸時代から続いている伝統あるものです。
準備一つにしても、もっと良い方法があるのではと度々思いますが、自分の町に誇りを持つことや義理を通すことの大切さと美しさは代えがたいものがあります。普段の生活の中で、これらのことを実践するのは難しいと思いますが、何らかの形で残していきたいと思います。
先生のご説明にあった、人と人のコミュニケーションにおいて「第三項」の共有が重要になってくるということ、なるほどなと思いました。
結局のところ共通の「第三項」を持つためにはお互いが本音で相手に対して向き合っていることが必要ですものね。(例えば景色がきれいだということを共有するときに、両者が景色を見るということに対して時間を割いているから成り立つものであります。)
自分もただ相手からの働きかけを待っているのではなくて、積極的に自分の側から「第三項」を作っていくようにしたいと決心しました。
たとえ今の地域社会、家族が体をなしていなくても、その状況に絶望することなく、常に回復への努力を続けていくことが求められてると感じています。
家族は第三項の共有によるコミュニケーションが重要であることは納得できます。しかし、現代の日本で親と子が共有する時間が少なく、「第三項」の共有は成立しにくいのが実情です。
私的にはそんな慈しみのない関係はいやです。だから、親子が共有する時間はイベント感覚であっても必ず必要だと思います。
例えば、地域の伝統行事に参加し、家族内で毎週一緒にいる日を作るなどが考えられます。このような取り組みでも何もしないよりかは家族という枠組み内で親密圏を構築できると私は信じています。
江戸時代の例は、確かに現代よりも「第三項」を共有する時間が多く現代よりも慈しみのある親密圏を構築していたと思います。でも、私たちが生きている今にも「第三項」が多く共有される親密圏は作れると思うので、日常に刺激を与えていきたいと感じました。
私の父親は単身赴任で、週末に4時間くらいしか会えません。しかし、家族は皆、週末に父が帰ってくることを楽しみにしています。むしろ、各自それぞれの日常で忙しいからこそ、お互いに会える時間を大切にしようと思える気がします。
私は、自分の家族の中にいる限りは、家族の信頼関係や安心感を築くために、必ずしも日常の所作に第三項の共有がある必要はないと思います。大事なのは、テレビでも、食事でも、学校での出来事でも、できる限りは第三項を共有しようという気持ちを当たり前に持って、たとえ日常の中で短い時間であってもコミュニケーションを楽しむことだと思います。
以前私は父親とのコミュニケーションが少なかったです。夜遅くに帰る父親に話す事と言えば小遣いアップの交渉か、母親に強制された学校の期末テストの結果の報告くらいしかなく、今思うと、私と父親との間に成立していた第三項の共有は私の購買力と母親の気遣いによって成り立っていました。
しかし私が一人暮らしを始め更に父親と、母親とさえも会うことが難しくなると、帰省の際には家族全員が顔を合わせることを楽しみにするようになりました。この感覚は以前では味わえなかったことのように思います。家族とのコミュニケーションがイベント化しても、それがその家族にとって有意義なものになることもあると思います。
私の家族は2番目の姉が独立していて、父と母、1番上の姉と私の4人で生活しています。
しかし、家族1人1人の生活スタイルがだいぶずれているので、家族が4人そろって食卓を囲んだりすることは年に1、2回程度で、1週間にするコミュニケーションの量はかなり少ないです。
父は特に、朝家を出るのが早く、夜も遅く帰り、日曜日も近所のつきあいで出かけることが多く、顔を合わせる機会もなかなかないのです。さらに来年には1番上の姉も結婚してしまうので、ますます家族での関わりが薄くなってしまうようで悲しく思います。
そう思うと、毎日の何気ない会話や行動がいかに大切だったのかを感じさせられます。朝、家を出る父に「いってらっしゃい、仕事がんばって」という、その日常の一言をかけるだけでも、家族をより親密にしてくれるのではないかと感じました。特別なコミュニケーションを期待するよりも、1日1日の家族と共有する時間を大切にしていけたらと思います。
私は現代の家族が親密圏を形成するためには時間の共有が絶対的に必要だと考える。
なぜなら、家族が一緒にいる時間が増えればそれだけ第三項を共有する機会が生まれ親密圏が形成されやすくなり、逆に一緒に過ごす時間の消失は第三項の消失に直結する恐れがあるからだ。
なので、家族全員が一緒になる時間を作ることがとても重要だと考える。
しかし、現代の社会の在り方(父は夜遅くまで仕事し、母はパートや家事に忙しく、子は塾で勉学に勤しむ)では家族が一緒にいられる時間を作ることはとても困難である。
日本人は本当に勤勉で働きすぎだ。その割には貧しい。まずはこのような社会の在り方を変えなければ、現代の家族の在り方も変わらないだろう。
第三項の共有が大切という点はなるほど、と思いました。何かを一緒に見て、「綺麗だね」「そうだね」と言い合えるのは素敵なことだと思いますし、恋人とはそういう関係でありたいと思いました。
しかし、私は実家で暮らしている間、母との喧嘩が絶えなかったのですが、大学に入学し一人暮らしを始めてから、母との関係が逆に円滑になったように思います。私の中の母に対する嫌悪感はいつのまにか無くなっていましたし、一緒にいるのが当たり前じゃなくなったからこそ、一緒にいる時間が貴重だと思えるようになりました。だからイベント化がいけないことだとは一概には言えないように思いました。
ただ、家族においても恋人同士においても、一緒にいる時間を大切にしようという思いが無くなってしまうのはとても寂しいことだと思います。
第三項を共有し「繰り返しのコミュニケーション」が存在する間柄というのは、とても素敵なことだと思います。それがいつしか「すばらしい景色だね」「うん」やという、ふたつ返事になってしまってはいけないと思いました。
また私も、家族の存在はとても大きなものだということを、一人暮らしを始めてさらに強く感じました。3年ほど前まで、私は父親とあまり会話をすることがなく、家族の関係も決していいものとは言えませんでした。しかし、大学受験の際に家族に支えてもらっていることを実感し、いつからか自分で積極的に家族といる時間を作るようになりました。今は、家族全員でご飯を食べている時間が、一番幸せだと感じています。将来自分が結婚したら、そういった当たり前の時間を大切にし、家族間のコミュニケーションを欠かさないでいきたいと思いました。
親密圏の関係性にとってコミュニケーションはとても大事だということはよくわかる。しかし、現代人はコミュニケーションの意味を履き違えていると思う。自分と相手というその存在だけで家族・恋人と軽々しく呼んではいけないのだと思い知らされた。共有する第三項があることで会話が生まれる―その段階があってこそ真の親密圏といえるのだろう。
大学生になってから、私も家族と共有できる時間が減ってしまった。先生のブログを読み、親密圏に含まれる周りの人との関係を見直してみようと決意した。
高度成長を遂げた日本は、これまでに家族の形を変えてきて、今では核家族が一般的となっている中、親子関係も空洞化しているように思える。1日の中で家族全員が揃うことはほどんどなくなり、共通な話題も少なくコミュニケーションが取れていない家族は多いのではないだろうか。
2011年は関東大震災が起きて、「絆」という言葉がよく使われたが、これを機会に自分たちの身近な周りの人たちとのコミュニケーション状況を再確認したいと思う。
家族間の第三頂の共有にもとづく「繰り返しのコミュニケーション」は当たり前であるがゆえに、とても大切なことなのだと感じました。私が大学生になって一人暮らしを始め、家族揃ってご飯を食べたり、どこかに買い物に行ったりと、今まで当たり前のようにしていたことがいかに大切だったのか感じました。
今、家族が揃ってご飯を食べたり出掛けたりするのができるのは、私が帰省した時の短い間だけです。回数は少なくなってしまったけど、その大切さやありがたみというものに気づくことができたので、その時間はとても有意義なものなのだと改めて感じました。
妹が大学生になったりして、今より家族で集まることが少なくなってしまっても、家族と共有する時間を大切にし、将来自分自身の家庭を持ったら、同じようにコミュニケーションを大切にしていきたいと思いました。
私は父子家庭だったため高校生までは、父の仕事が忙しくて家に帰ってくるのが遅く、買ってあった弁当を一人で食べることもありました。今では、帰省した時にほとんど一緒にご飯を食べています。共有する時間と項目が増えたことで、コミュニケーションの大切さを実感しています。同時に、一番身近な家族としての関係を充実させることさえ難しい時代になっていることも実感しました。家族との共有が当たり前な社会になるように考えなければならないと思います。
記事を読んで、本当の「家族」という理想像とはどういうものか、ということを考えさせられた。宗澤先生がおっしゃっているように、現代の家族には共有するべき第三項が無いように思える。そのようになってしまった原因は家族としての基本的な関りの希薄化にあると思う。
本来家族とは何気ない会話から、一緒に暮らしているからこそ話せる少し真剣な会話までができる存在であるべきだと思う。そして普段交わしている会話のコミュニケーションが、家族同士の絆を強くすると思う。問題はそのコミュニケーションをする時間が、家族同士でほとんどないということであると思う。ストレスがあると話し合いを行わずに、すぐに暴力をふるう。これは虐待やDVの潜在的な原因にもなっていると、私は思う。
最後に、何かを共に感じるまでの過程=第三項を養うためには、やはり家族でいる時間、例えば夕食を一緒にとる機会などを増やすことが、大切だと思う。
私は母子家庭で育てられたのですが、母は仕事で忙しくまた、兄弟とは生活リズムが異なるため「おはよう」などの挨拶すらない家庭だった。コミュニケーションはおろか第三項は皆無だった。息苦しく何とか今の生活を抜け出したかった。母は私が大学生になってから病気を患い働くことができなくなった。生活は経済的な面では以前にも増して厳しくなった。だが、母が家にいるようになって、「おはよう」「いってきます」「ただいま」など挨拶を家族がするようになり、会話も増えた。何気ないコミュニケーションにより、昔はなかった家族の「絆」が今は存在すると感じる。私には母の病気が、家族関係を省みるきっかけとなった。母が忙しいということを言い訳として、コミュニケーションをとろうともしていなかった自分に気がついた。
昨今「絆」という言葉が叫ばれるようになったが、言葉が独り歩きしてしまっているような気がする。まずは一番身近な存在(家族)から本当の「絆」について改めて考えることが必要であり、そのためにも共有する時間を増やしていくことが大切だと思う。
家族間の生活時間のすれ違いや、自分の家族でさえも自分の欲求を実現する手段としてしまっていることなど、人と人のつながりって?と考えさせられてしまう。
以前、ある実習で、「この子は施設に入るのだから、強く生きていかなければならないのだから、甘やかさないで!」と言われたことがある。実習という限られた時間の中で、子どもが一生懸命話そうとしていることを聴いたり、帰らないで・・・と泣きじゃくっているその子が寝るまで傍にいたことは、その場しのぎ(自己満足)にすぎなかったのかもしれないが、人が強くなるには、心を支える何かが必要なのだと思う。
自分の心を支えてくれているものは何か?を考えながら、ケアするときに何が必要か、どう伝えたらいいのかを考えていけたらと思う。
アニメ『輪るピングドラム』の最初のシーンは妹が兄の味噌汁を食べ、「お母さんと同じ味がするね」と言うシーンから始まる。テーマにしているのは家族と愛と虐待。内田樹と村上春樹の影響があるのだろう、この作品は食事のシーンを大切に描く。食事は原始的な交流であり、基本的な(第三項)である。食事ということを丁寧に描く作品群が出てくることが、私たち自身が第三項の共有を必要としているということを示唆していると思う。
現代における人と人のコミュニケーションは大難問になってくる。日本だけではなく、世界範囲で起こっている。中国も実際経済を発展しながら、従来の社会システムが崩壊している。
昔は近所の人との関係がまるで家族のように親しみであった。隣の家が晩御飯を仕度すると、「今日何をつくるつもりですか?」とあいさつしにいく。つまり、日常にある些細なことがコミュニケーションのきっかけとなる。でも、今はそんな風景がほとんど見当たらない。
現代社会におけるさまざまな経済的な野望が昔ながらの社会形態を壊している。例えば、詐欺、悪質訪問販売などがあって、人と人の信頼関係をぶっ壊した。人間同士に信頼関係が築きにくくなればなるほど、コミュニケーションのきっかけが少なくなる。結局冷たい社会的人間関係に変わってくるわけである。
そこで、友人のことを思い出した。友人の母がヨーロッパで出稼ぎしていて、もう10年近く帰国してきていない。もちろん、夫と息子と会う機会もない。ヨーロッパ人の友達から「家族に会いたくないですか?」と聞かれて、「もちろん会いたいですよ、会いたくても仕方がない、お金を稼がなくちゃ」と答えた。しかし、そのヨーロッパ人が「あなたは損したよ。家族と一緒にいる時間はいくらでも買えないものです。」と言いました。
私たちは物質的な欲望を満たすときに、本当に大事なものを失ったではないでしょうか?よく日本で「単身赴任」という言葉が聞こえる。単身赴任の夫が頑張っている、家族が偉いと思う人がいると思う。確かに間違っていないが、どうやらおかしい。本当にそれでいいのか?家族がバラバラになって、子育ても全部母親に任して、仕事にそこまで頑張る必要があるのでしょうか?
家族といってもだんだん他人のようになるのが現代社会における通病である。本当に大事なものは何か?を一度よく考えなければならないと思う。
現在の日本社会において家族の共有時間が限られているのは皆が実感していることであろう。その限られた時間の中でどのようなコミュニケーションを行うかによって、家族の形は様々に変化する。
親密圏を再構築する上でキーの一つとなる「第三項の共有による繰り返しのコミュニケーション」を行うためには、当然家族が同じ時間・同じ空間を共有する必要がある。しかし、先に述べたように現在の日本社会では家族が共有できる時間は限られているという現実がある。さらに言えば、そうした時間でさえも場合によっては衝突を避けるために気を遣ってしまったり、何か他のことに気をとられて(何に気をとられているかは話さない)いたりして、とても何かを共有できるような状態になれない場面もあるのではないだろうか。
親密圏に関する問題を根本的に解決するためには、一つには現在の日本社会の在り方を変える必要があるだろう。たとえば(現実的ではないが)、労働時間を減らすことで、家族が共有できる時間を増やし、コミュニケーションの機会を増やすということが考えられる。
現代の家族は、両親の共働きと子供の塾通いが相重なり、家族全員で時間を共に過ごすということが本当に少なくなってきていると思います。それに比べると、母は専業主婦、父は自営業という私の家族は現代の一般家庭よりも多くの時間を家族で共有してきました。
思春期には他の家族より、父や母との距離が近すぎて嫌になったこともありましたが、大学に入って家族と離れて過ごす今思うのは、家族で共有してきた時間や交わしあったコミュニケーションはとても大切であったということです。築いてきた親密圏を消失させないためにもこれからも家族と「第三項」を共有し、また、今身近にいる友人と共有する時間を大切にしていきたいなと思いました。
私は高校まで家族と暮らしていました。しかし、1人1人生活リズムが異なっていたために日曜日の夜でさえ、全員が顔をそろえて食卓を囲むことは必ずではありませんでした。だから、1つの家に全員が暮らしているのにそれぞれの部屋で1人暮らしをしているようにも思えました。
それぞれの生活リズムを全員が1つに合わせることは、まず難しいでしょう。しかし、自分の部屋に閉じこもるのではなくて、食事をしなくても、ダイニングでコミュニケーションをとったりするのは努力すれば容易にできることであると思います。自分が家庭を築いたときは、そうやって家族と共有する時間を増やす努力をしていけたらなぁと思いました。
現代日本における家族の親密圏は既に崩壊しているという内容はとてもセンセーショナルでした。しかし、講義やブログの記事から分かるように、それはこれから起きうる現象に警鐘を鳴らしているのではなく、実際に起こってしまった後であると気付きました。
親密圏の再構築に向けて必要だと感じることは、同じ時間を共有するということです。その一番の障害となっているのは家族のライフスタイルが各々異なっていることだと思います。核家族で両親は共働き、もしくは単身赴任、子供は塾や習い事、その結果同じ時間を共にすることが滅多にないという家庭が多いのではないでしょうか。
実際私の周りも話を聞いてみるとそういう家庭が半数以上です。家族の再構築に向けてライフスタイルの改善が迫られていると思います。特に、労働環境の変化なしでは現状に改善の余地はないように感じます。同じ時間を共有するようになって初めて第三項の共有が可能になるのだと考えます。
現代社会において横行している恋愛のテンプレートと言えば「恋愛の歌を聴いて自分と重ね、記念日にはおそろいの指輪を揃える。」といった様な、まさに第三項をすっとばしたものである。そしてこのテンプレートは、若い世代にかけて多用されていると感じる。
一番身近な存在である家族においてでさえ、一家そろっての夕食がイベント化するような状況である。その影響を受けた若者が、第三項のない空虚のような恋愛を求めてしまうのも、ある意味自然な流れかもしれない。
私は、地方から大学に進学し現在一人暮らしをしています。一年のうち実家に戻るのは盆と正月の2回ほどですが、実家に戻ったときはなるべく家族と多くの時間を共にするように行動しています。このように行動することは、実家で生活していたときにはなかったものです。
実家にいたときにはしていなかった行動を、実家を離れてからするようになったというのはなぜなのだろう、と今考えてみると不思議です。
このようなことが起こったのは、実家にいたときから家族とのコミュニケーションが取れていたことに起因しているのではないかと私は考えます。振り返ってみると、食事や農作業の手伝いなど、毎日ではないにしろ共にしていた時間はあったのだと思います。
現代は家族というものが形骸化しており、そのあり方が問題視されていますが、だからこそ「第三項」の共有が重要であるということを知る私たちが正しいあり方を作っていく必要があると思います。
私の家庭では母と姉がよく口喧嘩をしていました。なんでもないような些細なことからそれは始まり、姉が負かされて終わるというのがいつもの流れです。喧嘩している最中はかなり剣幕な雰囲気が流れ、互いに嫌い嫌われているように感じるほどですが、普段はよく話をしている仲の良い親子です。「喧嘩するほど仲がいい」とはよく言ったものだと実感させられます。
姉と母が喧嘩した内容は主に進路や弟のことで、ここに共通する「第三項」があったのだとこのブログを読んで気づけました。進んで喧嘩をするつもりはありませんが、私ももっと家族と共に過ごし多くの「第三項」を共有したいと思います。
私は、今年から上京して、父の知人の家に居候させてもらっています。このような状況で半年以上が経ち、家主の方と私の間には、先生がおっしゃるような「絆」といものが、成立しつつあると感じています。それは、日々の日常の中で、二人が共有できる第三項が、存分にあるからです。お互いに家にいる時間が異なるなかで、そのような第三項があるということに感謝しつつ、これからも大切にしていきたいと考えています。
私は、今年から上京して、父の知人の家に居候させてもらっています。このような状況で半年以上が経ち、家主の方と私の間には、先生がおっしゃるような「絆」といものが、成立しつつあると感じています。それは、日々の日常の中で、二人が共有できる第三項が、存分にあるからです。お互いに家にいる時間が異なるなかで、そのような第三項があるということに感謝しつつ、これからも大切にしていきたいと考えています。
私は他者と共有する「第三項」がなければ話すことができません。しかし、自らその「第三項」を作りにいくこともできません。ですから、同じ学科、同じサークルでも話せない人がたくさんいます。そこには私の「人から拒絶されたくない」という心理が働いている気がします。しかし怖がっていても何も始まらないのだから、まず何か話してみることが大切だと思います。たわいのない話でも、日常的なコミュニケーションが重要だと思いました。
私は時間を共有しない第三項の共有のしかたがすぐには思いつかない。時間さえ共有すればいいわけではないが、時間を共有せずに第三項は共有できないと思う。だから、まずは時間を共有しなければ始まらないと思う。しかし、時間を共有するために子どもが夜遅くまで起きているのはよくないと思う。朝早くに起きて共有するのが理想である。
私の家では子どもは9時には寝なさいと言われていた。9時までに寝ると父に会えない時はあったが、朝には会えた。大きくなって父が帰ってくるまで起きていると、朝は起きれなくて会えなかった。
私の家の場合、母が専業主婦であったため多くの時間を共有していた気がします。しかし、父は出張などが多く、決して会うことが多くありませんでした。そんななかで父と過ごす休日はとても楽しみでした。母とは「第三項」の共有をする機会が多くありました、確かに「第三項」の共有は大切だと思いますが、父とは逆に「第三項」を共有することが少なかっただけに一つ一つの思い出を大事にして、いい距離感を維持できていたのではないかと思いました。
「第三項」の共有、確かに大切だと思いました。それと同時に、「第三項」が意味をなす為にはお互いがその「第三項」や相手に関心があり、向き合って話が出来る事が重要だと思いました。フィクションの話になってしまいますが、とある漫画に登場した家族の話です。夕飯を一緒に食べるなど「第三項」も持っている言わば「いい家族」なのですが皆がよそよそしいのです。それはおそらくお互いに関心が無いことに起因しているように見られましたし、おそらく現実にこんな家族がいればこういう他人行儀な関係になるだろうと思わされるものでした。
あいにく連載中の漫画のため解決は先の話になりますが、その家族がお互い向かいあえるようになればと思います。フィクションであり極端な例でしたが、建て前のような無関心では「第三項」が意味をなさないと思わされました。
このブログや宗澤先生の講義を通して、自分は初めて親から子への虐待が愛情を持っているにもかかわらず子どもを虐待、または「悪意なき育児放棄」であることをはじめて知りました。このタイプの虐待は親が愛情を持っているだけに解決しがたく、適切なフォローが必要だと考えます。
そのような親には子どもへの愛情があったとしても、殴ったりして子どもを傷つけることは虐待である、という自覚を促す必要があると考えます。
確かに「第三項」を共有する場面が現代減ってきているということはよく感じることである。その穴埋めとして用意された行為が今ではまるでお手本のように世の中に浸透している。
しかしそのような行為で以ってはただの葛藤回避に落ち着くに過ぎないと思われる。「第三項」を共有せずとも“いられる”世の中だからこそ自らその共有をしようとする能動的な姿勢が求められる。
家族間で最も重要なのは時間や物を共有することであると改めて感じました。家族間でもコミュニケーションがとれていないことが問題になっていますが、そもそも共有するものが存在しなければ会話の話題も無いのだなと当たり前のことに気づかされました。そして一緒に食事をすることは時間と物を共有できる場であり、コミュニケーションもとれる素晴らしい空間であることも再認識しました。実家に戻った時には家族で食べる食事をより一層大事にしていきたいです。
また、私は何かを言ったときにそうだねと自分を肯定してくれる繰り返しのコミュニケーションにより安心感を得ることが出来ます。相手も同じことを思っていたのだと思うと嬉しく感じるのです。
同じ時間を過ごし、繰り返しのコミュニケーションにより良好な関係性を家族だけでなく、様々なところで作り上げていきたいと思います。
第三項の共有はとても大切なことだと思いま。子供の頃、父親は帰りが遅く、平日で夕食を共有できるのはよくて週に一回あればという感じでした。加えて、休日は家にいても仕事をしているかパソコンでインターネットをしているか寝ているかで、ほとんど第三項を共有した記憶がありません。
だからといって、今絶縁関係にあるというわけではありませんが、父親に対して私は若干心理的に距離を一方的だとは思いますが感じています。
ひとつひとつは小さくとも、積み重なると大きく心の距離が遠くなる、もしくは近くならない。これが第三項の共有なのかなと感じました。
昔テレビで、今の日本の家庭が目指すべきは“サザエさん”のような家庭であると、言われていたのを思い出しました。たしかに第三項の共有してのコミュニケーションや親と子の間での“甘え”など、“サザエさん”のような家庭は私達の理想だと思います。でも現代社会の家庭と昭和時代の家庭では違いがあって然るべきです。
手間を省くことを覚えてしまった社会で誰かと第三項を共有することはなかなか難しいことだと思います。
私が高校生だった頃に両親が離婚し、現在、父親とは離れて暮らしています。離婚前も父親との会話はあまりなかったのですが、このブログを読んで私は父親との「第三項」が全然なかったということに気が付きました。家族という形態と言えど「第三項」を持たなければ、言うなれば同じ学科の顔見知り程度の希薄な関係になってしまうのだなと思います。仕事が忙しくて仕方ないとは言えど、共通する何かというのは人間関係で大切なのだと実感します。現代の日本では離婚率も上昇していますが、仕事に従事する時間が減らされれば改善していくのだろうかと考えました。しかし、一概に決められない難しい問題だとも思います。
アパートで1人味気ない食事をとっていると家族そろって食卓を囲んでいた日々を愛おしく思い、家族のもとに帰りたいと強く感じます。これは私と家族との間に「絆」があるからでしょうか。
東日本大震災をうけて「絆」という言葉が取り上げられるようになって、「絆」という聞こえのいい言葉ばかりが前へ前へと出ていってしまっているように見えます。国語辞典で「絆」をひくと「断ちがたい人と人との結びつき」と書かれていますが、「断ちがたい」ほどの結びつきは一朝一夕にしてなるものでしょうか。大事なことは「絆が大切だ」なんて声高に話すことではなく、日々の何気ないコミュニケーションなど些細に見えることを1つ1つ積み重ねていくことではないかと思います。
私の家族はコミュニケーションが豊富である。しかし、周りの人ではそうでない人が多くいる。実際に私の知人にもそのような人もいるが、親とのコミュニケーションの大切さを知ってもらいたいと思う。親とのコミュニケーション不足により、後悔することもあると思うので、そのことに早く気付いてほしい。まずは、積極性が必要かもしれないが、それは困難なことかもしれない。しかし、その困難なことを承知の上でも関係を築き上げることは、それ相応の価値があると思う。
私は大学に通っている現在でも家族と一緒に住んでいますが、私はサークル活動やアルバイトなどで家に帰るのが遅く、滅多に家族と一緒に食事をしません。同じ家に住んでいるのに父親とは一週間くらい顔を合わせていません。これからは家族と食事を食べたり休みの日に出掛けたりできるように意識してみようと思いました。
現代の効率化を求めて生まれたこのような状況は、第三項の共有によるコミュニケーションは確かに減少しているかもしれない。しかし、まだ〈葛藤の回避〉は別にして〈気化〉や〈モノ化〉や〈イベント化〉が残っているだけでもいいのかもしれない。現代の家族では昔ほど第三項の共有が現実的に難しくなっている状況で、相手のことが少なからず考えているということである。これが無関心になったときこそ、絆を取り戻す手がかりも失うことになるだろう。
このブログを読んで確かに第三項を共有するということは大切だと思った。しかし、自分は一人暮らしをはじめて家族と会う機会が減り、家族とのコミュニケーションがイベント化することによって、家族とのコミュニケーションが楽しみになり、家族の大切さを理解することができた。なので、本来ならば家族で第三項を共有することが理想なのかもしれないが、家族とのコミュニケーションがイベント化するということにもいいことがあるのではないかと思う。しかし、自分のように家族とのコミュニケーションがイベント化する前に第三項を共有することの大切さに気付き、家族との時間を大切にして日々を過ごしていけることが本来の家族のあるべき姿だと思う。
「第三項」の共有が必要だとの話に納得した。確かに、人は共通の体験を通してこそ関係を育み、愛を深めることができるのだと考える。時間的余裕のない現代では家族との「第三項」の共有の機会は減少し、家族関係がぎこちないものになってしまっているケースは多いと思う。父とは休みが合わないこともあり機会は少ないが、祝日などいまだに様々なところに連れ出してくれ、共通の体験を持っているせいか良い関係を気付けていると思う。いつか自分が親となってからも、家族で過ごす時間を大切にしていきたい。
私は家族団欒が無いというのはその通りだと思いました。よく友人がおばあちゃん子だったと言っていたのですが、それは親と子の触れ合う時間が無くなった結果なのだと思いました。やはり、両親供働きで夜に少しだけ顔を合わせる程度だったようです。おばあちゃんの事が好きなのは結構な事だと思いますが、子どもの頃の思い出に両親と過ごした思い出がほとんど無いというのはとてもさみしい事だと思いました。
それと、カレーが粗末な食べ物の代表になりかけているというは不愉快に思いました。カレーといえば給食で圧倒的人気を集めるものであり、家で夕飯等で手作りが出るのが定番だと思っていたからです。今の子どもがそんな風に思い始めているのだとしたらとても悲しく思います。
あわただしく利益の追求ばかりが求められる現代社会において、こちらのブログに書かれているような「第三項」の共有によるコミュニケーションが実践されるというのはなかなかに難しいことであるように思われる。
しかし、このようなコミュニケーションを「難しい」「できない」とおざなりにしてしまうのではなく、必要なことであるとこれからの社会を創っていく私たちが認識しておかねばならないと思った。
家族とのコミュニケーション。これは非常に難しい社会構造になってきたように思います。まず、共働きや単身赴任の家庭が増えたこと。どうしても時間を共有することが困難となってきました。こうなってくると、親子ともに愛情の表現がぎこちなくなってくると思います。最悪コミュニケーションをとらなくなるでしょう。もう一つは親戚と疎遠になりがちであること。親戚の家に顔を出すことは素晴らしい共有の場であるにもかかわらず、行かない。結果、両親以外の親類ととるコミュニケーションも極端に減ってくる。
私は大人が子供に対してもっと興味関心をもって接することが必要だと思います。会う機会が減るのは仕方のないことですから、たまに会ったら「最近どう?」など近況を聞くだけでもかまわないのでコミュニケーションをとっていく。はじめはめんどくさがられるかもしれませんが、大人がめんどくさくなってやめたらそこで終わりです。小さい頃からコミュニケーションをとる努力をしていれば、大きくなっても必ず良好な関係を築いていけると思います。
僕の家族は4人家族で、最近は予定が合わず、旅行に行くことなどはありません。でも、できるだけ家族そろってご飯を食べ、様々な会話をしています。なので、コミュニケーションは十分にできていると思います。しかし、これからますますこのような時間が減ると思います。そのかわりに新しいコミュニケーション機会が増えるでしょう。その新しい環境でのコミュニケーションも今までと同様にし、オウム返しであっても、崩さないようにしたいと思いました。
親密圏というものが存在するならば、それはとても幸せなことだなあと思います。親密圏におけるコミュニケーションは、親密圏以外の人ととるコミュニケーションとは異なるものだと思います。その区別はあってしかたないと思います。違うからこそ親密圏とよべるのだろうし、そこで同じになってしまったら、それはもう親密圏ではなくなってしまっているように思います。
特別だからこそ、親密圏。私はそう思います。
家族という親密圏は、人が人として成長し生活していく上でとても重要なものであると思います。家族に限らずとも、友だち同士恋人同士等での親密圏をうまく築くことが出来ること、またそこでの居心地の良さがその人の心の安定の根底にあると思います。第三項を共有することは、その人とものごとを共に経験することです。経験を共にするということは、大きいことでも小さいことでも時間を共有することになります。そういった時間の長さや密度が、親密圏の形成に影響するのかなと思います。
ふと思い出したのですが、恋人に、「私のどこが好きなの?」と聞かれたとき、「(どこがというわけじゃないけど)君と一緒に過ごす時間」という答えがとても効果的だ、と小学校のときの塾の先生が言っていました。
僕の家では、よほどの理由がない限り家族全員そろって夕食を食べていました。ですから、夕食のときにはその日の学校の出来事などを話していました。僕が小学生のころには、友達と何をして遊んだのか、学校で何を勉強したのかなどその日一日のほぼすべての出来事を話していました。歳を重ねると事務的な連絡が増えてきたり、受験に関する話が増えたりしましたが、親も僕の考えをよく理解して応援してくれていました。結果的に僕の家では先生が言う「第三項」を共有することができていたのだと思います。ですから、それができていない状況を想像することが難しいです。しかし、今より良い状況ではないことは想像できます。
次代を担う若者が先行世代の現出させてきた課題を理解し、協働していくとあるが、実際に担い手を若者とするのならば、どのように若者に課題を理解させ、協働へと導くかという点に生ずる疑問を解消する必要がある。「絆」を考える前の前提条件としての「第三項の共有」の必要性が指摘されていたが、もちろん、二項関係をつなぐような第三項の存在が必要なのはわかるが、「ピュアな愛情への気化」が「愛情の強迫化」につながるということは、要素のつながりがあまりにも直線的すぎないだろうか。そこにはピュアな愛情が強迫へと代わるのは、例えば、相手が自分の思い描くような行動をとってくれないという要因のあるときで、どの人にも、またどの場合にもそれが当てはまるわけではないという説明が必要である。
就労時間のすれ違いや塾通いによる親子の生活時間のすれ違いがおこるのは、そこにそもそも趣向のために親子の時間を犠牲にしてしまうような現代的な時間の使い方の様相があらわれており、例えば仕事で忙しいとはいえ、家族のために休みの日の時間を使うといったことや、帰ってきてから家事をするというようなことは、それをするために努力することでできることは多いのではないか。その点で、そういった対策を何もしないのは明らかに問題であるが、まずは共有できる時間を創出することに意識を置いてはどうだろうか。そうすれば、葛藤を回避せず、そういった葛藤自体を親子の交流を深めるための財産にすることができる。
私は先日の講義で、虐待の発生にはさまざまな要因が重なって起こっていて、決して親、もしくは学校という狭い関係だけが原因ではないことが分かりました。子どもを育てる場は家や学校だけではないし、もっとたくさんの人たちで子どもたちを見守っていく必要があると思います。私もそうですが最近は親戚や近所の人たちの関係が希薄化していて、子どもにとって、頼れるのは親だけになっているのも問題があると思うし、親もまた相談できる相手がいないのも問題だと思います。核家族化が進み仕方がないのこもしれませんが、ここ数年に虐待関連の問題が何倍も増えているのは悲しい世の中だなと思います。また、親が子どもに対し間違った愛情を注ぐことも子どもにとってはある意味虐待になってしまうので、親と子の関係は本当に難しいと思いました。私はあまり経験はないのですが、親からの強い期待を押し付けられたらとても辛いと思うし、反論もできずため込んでしまうと思います。私は親に虐待もされず、大切に育ててくれたことを感謝したいなと、この講義を通して思いました。
先日の大学での講義ありがとうございました。先生の講義はとても興味深かったのですが、なかでもとりわけ「共依存」というものについてのお話に興味がわきました。というのもおそらく以前の私の家庭状況がそれに似たようなものだったからです。私の家は、私の姉と両親、父方の祖父母の6人暮らしです。私が小さい頃、よく父と祖父は大ゲンカをしていました。そのたびに母が仲裁しようとしたのですが、とまらず、暴力などは受けなかったもののいつも泣いていました。そのため私は小さいながら父や祖父が嫌いで家出など考えていました。しかし、ここで家出をしてしまえばまた母が泣いてしまうと思い、そのたびに踏みとどまっていました。少し違うかもしれませんが、自分たちが我慢すれば大丈夫という考えでした。今思えば、これは「共依存」の考えではないのかと思いました。でもありがたいことに、自分や母はこれまで一切暴力は振るわれず、今では父と祖父のけんかも一切なくなり円満な家庭となりました。こういった経験があるからこそいっそう「共依存」という話に興味がわきました。この「共依存」という問題をなくしていくことは、本当に難しい問題だと思います。こういった連鎖は無意識のところで働き、ある意味盲目的、脅迫観念のようなもので、自分の意志では抜け出せないものです。この問題を解決するのに、私は親密圏、時間の共有が重要だと思います。私の家ではこれまでずっと、特に用事がなければ家族みんなそろってご飯を食べていました。そのため家族全員とコミュニケーションが取れ、家庭はお互いに冗談を言い合い、笑えるほど円満になりました。それにより、徐々に「共依存」という関係はなくなっていきました。この経験から家族を含め人とコミュニケーションをとることは非常に大事なものだと感じることができました。なので、親密圏が希薄化する現代だからこそ、そう簡単に行動に移すことは難しいことだと思いますが、親密圏を広げていき、人とのコミュニケーションを積み重ねていくことが重要だとこちらのブログの内容を読んでみても思わされました。少し重い話になりましたが、今回先生の講義を受けることができてとても良かったです。
私は以前まで虐待は虐待する側が絶対的に悪いと思っていました。しかし、先日の宗澤先生の講義や大学での講義を受けて、必ずしも虐待する親が一方的に悪いというわけではなく、現在の社会が親が子に虐待をするという環境を生み出しているということがわかりました。ナナメの関係の希薄化が進み、昔みたいにご近所付き合いがなくなったことで母親の悩み相談をする場が失われ、育児に対する不安を一人で抱え込んでしまい、結果的に子どもに虐待をしてしまったのは、決して許される行為ではないにしろ仕方なかったのではないかと思います。実際に他県から父のもとへ嫁いできた私の母は、身近に気軽に相談できる人がいなかったため、私が幼い時よく悩んで泣いていました。当時の母は本当に心細く辛かったと思います。父はそんな母のことを気遣ってなのかよく旅行に連れていってくれていました。今思えば、父が「第三項」の共有を大切にしてくれたから私の家族は崩壊せずに済んだのだと感じます。
虐待が少しでもなくなるためには、個々人の悩みを相談できるセーフティーネットを充実させることと家族での「第三項」の共有が重要だと思いました。
中国から留学して来て3年目だ。日本の高校に入るとき寮で住んでいるので毎日友達と話したり、遊んだりするから寂しいとか孤独感などあまり感じていなかった。
しかし、大学に入学した後、一人暮らしの生活を始まったから食堂もないし、話の相手もなかった。ひっそりとうら寂しい家に帰ったら本当に泣いたかった。もしまた中国にいる場合は家に帰ってお母さんを作ったおいしそうご飯をすぐ食べれるようになる、自分の勉強だけに夢中して家事とか全然考えることがなかった。そのときの私すごくホームシックだった。
日本へはじめてくるときやっと自由になった、やっと親の束縛から解放したと思ったのに今の私はそのときの自分が羨ましい、そのときの自分が幸せだと思う。世の中で家族の暖かさがどうやっても買えないものだと思う。
大学生活を続けていて日本の生活もう慣れた、週3回で家族と電話することは変わらずにする。ある中国で「每逢佳節倍思親」と言う古代の詩歌がある、今の私に対してこの詩歌の深い意味も身につけた。
いろいろな国へ留学の人に対して自分の国より高い技術と深い知識の勉強するより異国で自立、自强、自主がもっと重要な目的だと思う。
第三項の共有による「繰り返しのコミュニケーション」の大切さを日常の所作にできることが大切だ、という文に強く胸を打たれました。第三項を共有した上での「繰り返しの技法」が、親密圏の関係においてとても重要だという認識があまりなかったからです。単なる繰り返しも、相手と気持ちを共有するためには重要なことだと思いました。
時間を共有し、同じ気持ちを感じ合うことが家族や友だちとの関係の中でとても大切だと思うので、相手との「第三項の共有」「気持ちの共有」を大事にしていきたいです。
私は自宅から通っていることもあり、家族との第三項の共有はできていると思います。しかし、歳を重ねるにつれて気持ちの共有がうまくいかなくなっている気がするので、素直に自分の思いを伝えることを心がけたいです。
私は普段何気なく他者とコミュニケーションを取っていましたが、そこには共通する第三項というものが存在しているということをこの記事を読んで認識することができました。現代と昔を比べると、時代の変化で人々の生活も変わり、私の親世代の人々が子供だったときとは家族内におけるコミュニケーションも多少なりとも変わらざるを得ないと思います。また子供の成長に合わせてコミュニケーションの取り方も変化して行くでしょう。しかし、その根底にある第三項の存在は揺るぎないものだと実感しました。
先生がおっしゃるように私も現代の家族において、第三項の共有にもとづく「繰り返しのコミュニケーション」が成立する場面が喪失しつつあると思っています。最近アニメや漫画で仲間との「絆」を描いた作品が非常に人気になっているのはこのためではないでしょうか。
家族内で(家族内の関係に限定するわけではありませんが)円滑な関係を維持し、お互いに気持ち良く生活するために、第三項を意識した会話や生活を送る必要があるでしょう。それと同時に私自身もしっかり実践し、いつまでも家族円満でいられたらと思いました。
このブログを読んで、「なるほど、世のカップルが記念日を異常なまでに意識しているのは、日常にイベントを盛り込むことで第三項を共有しやすい機会を設けたいからだったのか」と、たいへん納得しました。たしかに「記念日」を一緒に祝うことは楽しいでしょうし、いつもと違う所へ出掛けたり、いつもよりおいしいものを食べたりして、同じ思いでを共有することで「絆」が深まったような気がして安心するのかもしれません。そういったことを否定する気は全くありませんが、「親しいカップルらしいことをしている」という事実に安心しているのであれば考え物です。家族にしても、例えば年に一回家族旅行をするとして、ふだんはめったに団らんをしないのに旅行で思い出を作れば「家族らしい」からしている、とか。私自身イベントごとは大好きなのですが、やはり日々の何気ない営みの中に幸せはあると思います。俵万智さんの「寒いねと 話しかければ 寒いねと
答える人の いるあたたかさ」という句を思い出しました。親密圏の人たちとのコミュニケーションに幸せを見いだせるような人間になりたいし、そんな家庭を将来築きたいです。
私の実家は母が専業主婦をしており、父もだいたい平日5日の勤務で、出勤が早いため帰宅も早く、私と妹が小中学生ぐらいまでの頃は、毎晩家族そろって夕食をとるということはごく当たり前でした。休日もよく家族で出かけたりしたもので、私個人にとって家族と共に過ごす時間は十分に確保されており、ブログのテーマの観点からいえば、非常に恵まれた家庭に生まれることができたのではないかと感じます。しかし、私が高校や大学へ進学してからは、部活動や友人との付き合いのため帰宅が遅くなり、家族との対話が減りました。その反面、多様な人間関係の中で自分自身が変化していくにつれ、家族の一人ひとりに対する見方が良くも悪くも変わったところがあり、妙にいらいらしたり気を遣ってしまったりすることが出てきました。性格も価値観も異なり、互いに嫌いな面もある別の人間と、一つ屋根の下で共に暮らすということに疑問を覚えたのです。
そんなときでも、やはり家族と過ごす時間に意義深さを感じるのは、家族そろって会食したり、出かけたりすることで時と場を「共有」し、各々の話題に共感し合ったり、共通の話題(昔の話、音楽の話など)をめぐって語らったりする時間、ブログの表現を拝借すれば「第三項」を共有している時間であると強く思います。閉じられた二項関係(相手が好き・嫌い)に閉塞してしまっては第三項に目を向けることができにくくなり、虐待やDVに発展しかねないということはもちろんですが、そこまではならないとしても、第三項の共有―共同と共感にあふれた楽しいひとときがなくなってしまったり、減ってしまったりするということは、寂しいことです。望ましい三項関係を踏まえたうえに、互いに慈しみ合い育み合える二項関係が存在するのであれば、なお良いことではないかと思います。
私自身もやがて異性と親密圏を築き、家庭をもつことがあるとすれば、「恋人」とか「家族」といった概念を妙に(二者関係的に)意識することなく、共にする時を大切にしたいものだと切に思います。
それぞれの立場でものの見方、考え方には違いがあるので、人同士の間に色々な問題が生じてくるのはやはり仕方のない事だと思います。でも、そこを理解し、問題や課題を共有し合う事で解決していけそうだと授業を聞いたり、ブログを見て感じました。
しかし、この三項関係を築く事が大切だと気付く事が難しい人がたくさんいるだろうとも思いました。友達、恋人に嫌われたくないから、同じ行動をする、否定しないという方は多いと思います。実際に私もそういう振る舞いをする事もあります。それは、本当の自分を隠して接しているので、そこには真の問題の共有はなく、三項関係は成立しないと思います。本音を隠すことで良好な関係を築こうとする、親密圏にいる人だからこそ本音を隠す節が今の風潮にあるのではないかと感じています。それは生きていく為の知恵なのかもしれませんが、先生のお言葉を借りるとそれは、自分で自分を生きにくくしていると思いました。
内田さんの提案からもよくわかるが、現代において親密圏の人たちと何かを第3項として共有する機会は以前よりかなり少なくなってしまった。小学校の頃、宿題がわからない時に父に見てもらうことが何度かあった。教えてもらう時もあれば、父もわからない時があり、その時は一緒に調べて答えを探していた。今思えばあれは宿題という第3項が共有されていたのだと感じる。その宿題が解けた時の達成感はまさに「やったね!」というお互いの言葉に集約されていた。
今の社会では子どもたちが塾へ行き、両親が共働きなのは多数派であり、昔の文学に登場するような家族像を築くのは難しい。したがって、以前の当り前ができない今、食事の時は、週末は、などちゃんと第3項を共有できる時間を自分たちで創り出していくべきである。それによって夫婦間、親子間で一緒に何かのことに取り組んだり、考えたりすることで絆が深まり、より第3項を共有する機会も増えていくのではないだろうかと考える。
講義や本記事を通して、三項関係の成立に関連した様々なことを考えさせられた。これは、(三項の関係性は多少違ってしまうが、)いじめ問題にも応用して考えることの出来る事柄ではないかと感じた。
昨年、いじめに関する事件がメディアで大きく取り上げられた。いじめの被害を受けていた生徒は、自分に起きていることを親にも正直に打ち明けられなかったということである。私は、その生徒の世界が、<自分-学校>の閉じられた二者関係だけで完結してしまっていたのではないかと思う。義務教育の中にいると、学校はどうしても居なければならず、逃げられない場所のように感じられるだろうし、<自分-学校(いじめっ子・傍観者・教師含)>の関係しか見えていないとすれば、いじめという問題は周りの人々と共有し解決していくべきものだという考えも持ち得ないだろう。
「逃げても良い」「自分には学校以外の居場所がある」「自分と相手だけでなく問題に関わるべき人が居る」、すなわち第三項の存在をいじめの被害者に示し、気づかせることができたなら事態は変わっていたのではないだろうか。個人でも団体でも、第三者が被害者の世界にうまく介入し、三項関係を形成して問題を共有・解決するべく動くことは大切であると思う。
先生の講義を受講した北九大の学生です。先日はありがとうございました。障害者のいる家庭における共依存や虐待について、それらが生じるまでの過程を改めて学ぶことができた講義でした。家族という親密圏に存在するべき「絆」も、一歩間違えると「共依存」という主従関係に変化してしまうこと、そして共依存の関係が、周囲からの救いの手を遮る壁となってしまうことを理解しました。また、今までは障害のある子どもばかりに目を向けていましたが、彼らのきょうだいの存在にも着目しなければならないことに気付かされました。カウンセラーを目指す私にとって、多大なるプレッシャーから彼らを守る手段を考えることは、避けることの出来ない問題だと思いました。
ブログ記事に書かれている「繰り返しの技法」についてですが、その条件となる「第三項」の共有が今日の家族には欠けている、という内容に共感しました。親子や夫婦間でゆっくり話をする時間を設けることはもちろん必要ですが、それ以前に、リアルな時間の共有を積極的に行うことも大切なのだと思います。過去を共有するよりも、今を共有することの方が、互いの心に深く印象付けられるはずです。「今日の夕ご飯も美味しいね」の会話を積み重ねて行くことが家族間の信頼関係の構築へとつながり、本当の意味で親密圏が形成されるのではないかと思います。独り暮らしも2年目となりましたが、家族と電話で会話をすると、いまだにリアルを共有できていないことへのもどかしさを感じることがあります。家族だけでなく、ひとと一緒に過ごせる時間をもっと意識的に大切にしたいと、この講義を通して改めて思いました。
第三項を共有することができなければ、確かにそこに絆は生まれないと思います。しかし、今の日本の家庭を考えると、まず時間の共有が少ないのではないかと思います。親の仕事や子どもの塾などの関係で夜でも全員がそろわないという家族も珍しくないでしょう。まずは共に過ごせる時間がなければ第三項の共有は難しいのではないかと思います。
この記事を読んで家族の本当意味での愛情と信頼性を持った関係性を学びました。そして現在、社会問題になっている孤食という言葉を思い出しました。家族間で同じ空間を共有する時間が減ってきている現代日本では、愛情の本来あるべき形が壊れているということを知らされ、驚きました。戸籍上家族であるから愛情を持つのではなく、実際に時間を共有して同じ体験をすることが真の愛情、絆を生み出すのだと知りました。
現代社会においては共働き世帯も増えてきており、ますます家族の親密圏は希薄なものとなってきている。しかし、忙しい中でも親密圏を深める方法はいくらでもあると思う。たとえば「食事の時だけは必ず家族全員で食卓を囲む」などは比較的手軽に行える方法の一つだろう。会話も「今日の学校の話」や「最近あった面白いこと」などどんな些細なことでもよいだろう。この程度の会話でも第三項の共有になりうるだろうし、あるのとないのとでは家庭内の雰囲気も大きく異なってくるだろう。
確かに現代の社会では、家族間コミュニケーションの時間が多忙化により短くなっていると思います。忙しい中でも、家族全員で食事をしたりすることはとても楽しく、ストレス軽減にもなると私は思うのですが、逆にストレスを感じてしまう人もいる模様です。
私は、家族団欒の時間をより多くするためにも、就労時間の短縮化、飲食店やコンビニなどの施設の閉店時間を早くするなど、社会的政策をするべきだと思います。そうすれば、家にいる時間が長くなり、自然と家族団欒の時間が長くなると思います。
今日の日本において「家族全員で食卓を囲む」ということが減少してきている傾向がある。よって “第三項”への共有が減ってきているという比例の関係が発生する。しかしこの結果というものは、家族またはパートナーと共有できる時間をいかにして増やすことができるか、という問題を個々が考えないあまりに起きたことである。よって第三項をいかにしてより多く共有し、意思疎通をとることができるかが今後の問題となる。例えば、家族間であれば週に1回は皆で食べる日を作る、パートナーがいれば記念日には会うなどと設定し言葉を交わすことができれば、今よりもさらに良い関係が生まれるのではないだろうか。
今日の日本において「家族全員で食卓を囲む」ということが減少してきている傾向がある。よって “第三項”への共有が減ってきているという比例の関係が発生する。しかしこの結果というものは、家族またはパートナーと共有できる時間をいかにして増やすことができるか、という問題を個々が考えないあまりに起きたことである。よって第三項をいかにしてより多く共有し、意思疎通をとることができるかが今後の問題となる。例えば、家族間であれば週に1回は皆で食べる日を作る、パートナーがいれば記念日には会うなどと設定し言葉を交わすことができれば、今よりもさらに良い関係が生まれるのではないだろうか。
※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。