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宗澤忠雄の「福祉の世界に夢うつつ」

悪意なき育児放棄

 先日、岩村暢子さんの「悪意なき育児放棄」という記事に目が留まりました(9月18日付西日本新聞朝刊)。岩村さんは、食卓や家族の調査研究から現代とこれからの家族のあり方について様々な議論と問題提起をされてきました(たとえば、次を参照されたい。いずれも岩村暢子さんの単著で、『変わる家族変わる食卓』中公文庫、2009年;『普通の家族がいちばん怖い』新潮文庫、2010年;『「親の顔がみてみたい!」調査』中公文庫、2010年)。

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 この新聞記事は、岩村さんがこれまで議論されてきた内容のエッセンスであるように思います。いささか長くなりそうですが、新聞から岩村さんの論説をご紹介しましょう。

 “「息子が朝食はプリンと言ったから」「おやつを食べすぎた娘が夕飯は食べたがらなかったから」その通りにした。さらには、おなかをこわしたり、熱を出したりした子どもが「食べたいと言わなかったから」何日も満足な食事を与えられず寝せておいた結果、病状が悪化した―。こんな信じられないようなことが、もう「例外」とは言えなくなってきている。”

 “食事を一定の時間までに用意する習慣がなく、親の外出や友達付き合い、テレビやネット、その他家事などの都合や成り行き次第で、「おなかがすいたら作る」家庭の増加も見過ごせない。そんな家では、子どもが突然空腹を訴え始めると、「子どもがうるさいから」「子どもが待てないから」、すぐに出せる菓子パンや冷凍たこ焼き、ふりかけご飯などを与えてしまうのだ。あとで親たちがおかずのそろった食事をしたとしても、おなかを満たした子どもたちはもう興味を示さない。”

 “このようにして起こる近年の子どもの欠食や食事の粗末化は、子どものわがままのせいとは言い難い。それを子どもに対する「悪意なきネグレクト(育児放棄)」と呼んだら、言い過ぎだろうか。”

   (中略)

 “そして、2、3歳の幼児であっても、一人前の「意思」を尊重され、食事を食べるかどうか、何を食べるかを問われ、「食べたい」と言わなければ与えられなかったり、食べたがるものが「お菓子」であったりすると、それが与えられてしまうケースが増えてきている。
 食に関する知識も自己管理能力もない幼い子どもを一人前扱いし「意思」を尊重して、親としてかけるべき手も目も放してしまう親たち。それは「親」なのだろうか”

 このように岩村さんの指摘する事実や状況は、虐待論の見地から言えば、現代における「不適切な養育(mal-treatment)」であり、急増して止まない子ども虐待の広い裾野を構成するものと考えます。

 このような現実は、私も、自分の子育て期に周囲の普遍的な事象であると実感してきました。「朝食にお菓子を与えている」という事実があるとしても、それは「いつものことではないから」と(事実は「しばしば」であっても)家族の食事のテーマとして親の問題意識に浮上することはありません。私には、「健康と食文化」を踏まえた家族とその食事が形を失い、溶融して、液状化しているようにみえるのです。

 現にこのような親子間の現象は、食事にとどまらず遊びにもあてはまります。

 子どもが乳幼児期の時代は、親の労働・生活時間のリズムとの兼ね合いで、子育てに大変な思いを余儀なくされることがしばしばあります。乳幼児の生活リズムを「健康で文化的な」見地から考慮すると、9時間の睡眠時間をはさんだ早寝早起きが「子どもの最善の利益」となるでしょう。

 親はウィークデーの疲労がたまった週末くらいは「ゆっくり寝ていたい」と欲しますが、幼い子どもはそんなことおかまいなしです。
 私の娘が乳幼児期であったとき、娘は毎朝5時半から6時にパッチリと目を覚まし、夜は7時半から8時にはぐっすり寝入りました。これはこれで親の努力の所産です。が、深夜まで仕事をせざるを得なかった翌朝5時半に、「お父さん起きろ!」と私が寝息を立てている布団の上に、ムササビが舞い降りてくるように娘から波状攻撃を受けると、かなりこたえます。
 それでも、私は心中「白旗」をあげて布団からごそごそと這い出し、娘と早朝の公園にでかけていました。

 ところが、ここで私とは異なる対応が周囲にあることを知りました。子どもが親よりも早起きしたら、親は子どもに「アンパンマンを見よう」と子どもを誘い、テレビのスイッチを入れ、アンパンマンのVTRを子どもに見せて、親は再びぐうぐうと寝入ってしまうのです。幼い子どもが一人でテレビを見続けることは、「感情の過飽和」を招くために決していいことではありません。

 また、休日の過ごし方にも「おやっ?」と思うことがありました。
 お父さんが子ども連れで映画館に行きます。行き先はシネコンで、建物の入り口で親と子がそれぞれに見たい作品のチケットを購入し、それぞれの作品の上映が終わった後に親子が落ち合う時間と場所だけを確かめて、親子はさっさと別れてしまうのです。それぞれがハッピーということかもしれませんが、「親子で行楽に出かける」内実は果たしてどこにあるのでしょうか。

 これらはいずれも特異な現象ではなく、いたるところで普通に確認できる事実です。アンパンマンのVTRがテレビゲームになったり、映画館で見たい上映作品の相違がゲームソフトの相違になっている場合など、さまざまなバリエーションはあるでしょう。これらはいずれも、親子のコミュニケーションと協働を重ねることによって子どもの最善の利益に接近しようとする視点をほとんど消失しています。

 このような親子に、果たして“絆”(きずな)はあるのでしょうか。子育ては、親子間の葛藤を回避することができない営みです。

 大平健著『やさしさの精神病理』(岩波新書、1995年)は、表面的な言葉のやり取りによって葛藤を回避し、互いに「傷つけあわない」間柄を「やさしさ」とする現象について考察を深めた労作です。
 大平さんは、「絆」とは、〈きずな〉と読み「情愛のこもった関係」を指すことと、〈ほだし〉と読んで「互いの自由を束縛する関係」を意味することの分かち難い両面から構成されるものであるため、「束縛なしの絆はあり得ない」、つまり葛藤を伴わない「やさしさ」は存在しないことを指摘しています(前掲書、84-85頁)。これはまさしく、親密圏の定義です。

 支え合いの希薄になった都市部の地域づくりや東日本大震災からの立ち直りを目指すキーワードに「絆」(きずな)を掲げるのは、「絆」の両義性から「情愛のこもった関係」だけをご都合主義的に摘み出す、あり得ない「やさしさ」幻想をふりまく行為であるというのは言い過ぎでしょうか。それは、空疎にも肥大化し、強迫化した共生願望の表明に過ぎないと、私には思えてなりません。

 ことばの表面的なやりとりだけで食事や遊びを片付けるように、葛藤を回避する日常が親子の現状に浸透しているとすれば、「悪意なき葛藤の回避」によって知らぬまに沈殿した矛盾の堆積物は、あるいは虐待やDVとして、あるいは子どもの不登校として、さまざまな姿に転化して噴出するようになる―これが現代の家族なのではないでしょうか。


コメント


 近年、児童相談所における児童虐待相談対応件数の増加が深刻になっていきているという問題を、ニュースや新聞、インターネットなどのメディアでよく取り上げられているのを、目にしたり聞いたりしていたので、私自身少なからず、そういった「児童虐待」についての知識はあるつもりでした。
 しかし、ここで、とりあげられているような事例については今回初めて知った「児童虐待」の問題であったので、とても驚きました。
 親の「悪意がない」という面から考えると、複雑ではありますが、本来、子どもの健康を守るはずの親という存在が役目を果たしていないと思いました。
 「こどもの意思を尊重したい」という思いはとても大切であるとは思いますが、まだ自己管理ができていない子どもの意見をすべて聞きいれたり、目を離してしまったりしまうのはやはりそこには、「わが子が健康に育つためにはどうすればよいか」といった親自身の考えはないので、表面上の言葉のような気がしてしまいます。
 身体的虐待や、性的虐待、ネグレクト、心理的虐待などの虐待とは大きく違う内容ですが、好きなものだけを食べていた子ども、親と公園に遊びに行ったことがなくアニメを一人で見ていた子ども、将来その子どもたちが背負うであろう後遺症は同じであると思います。親は子供に対して、それが本当に子どものためになるかを第一に考えた育児をするべきだと思います。


投稿者: セプター | 2011年10月21日 17:50

 宗澤先生のブログを読んで、ブログの冒頭部の、朝食にプリンを与えて子供を甘やかす親や、おやつでお腹いっぱいになった子に夕飯を出さない親など、私にとっては子供時代に体験したことがないのでとても信じられるものではありませんでした。
 しかし、私が感じる問題点は、そのような親たちに悪意もなければ、子供たちにも育児放棄されているという自覚が生じにくい点にあるのではないでしょうか。
 それはつまり、虐待、育児放棄の問題として発覚されにくく、子供が大人になってから生活に支障をきたしてしまいかねないと思います。
 これは現代における大きな社会問題であるということは確かだと思いました。


投稿者: 09TC047 竹村隆一 | 2011年10月25日 23:01

 コンビニなどでアルバイトをしていると、近頃の育児の有り様が垣間見える。
 例えば、子供がおねだりする商品を根こそぎ買い物かごの中へ入れる親もいれば、店内を走り回る我が子に目もくれず買い物を続ける親もいる。
 更には、まだ売買が成立していない商品を勝手に開けてしまった子供に対し店員がその親子に注意すると、「子供がしたことなんだから仕方ないじゃない!」と逆ギレする親もいる。

これらの事例は、
・機械のように子供の欲求を満たすだけの育児
・我が子への興味、関心の消失
・悪い事をしても我が子を叱らない、もしくは叱れない親の増加
など近年なにかと話題になる育児の有り様に関しての片鱗を描いている気がする。

 そして、私はこれらを"育児"とは呼びたくない。
 なぜなら、「子供の健全な成長を手助けすることこそが育児である」と考えているので、甘やかすだけ、もしくは放っておくだけの育児は育児ではないと思うからだ。

 今、耳を疑うような育児の増加や親のモラルの低下、子供への無関心などが非常に深刻な問題になりつつあり、そこから「悪意なき育児放棄」などへ派生し、児童虐待が発生することもある。
 この負の連鎖を将来世代に残してしまうことになったら、社会の秩序が消え失せ、人々の絆が希薄化し、親子そのものも形式的な名ばかりのものになるのではないか、と危惧する。

 今こそ、この連鎖を断ち切るために、叱るときは叱り、褒めるときは褒める、というもともとの育児の有り様に立ち返るべきではないだろうか。


投稿者: まるこ | 2011年10月25日 23:24

 宗澤忠雄さんのブログを読み、親の‘悪意なき’育児放棄という言葉の存在を知りました。ニュースで多く見るような育児放棄ではなくどの家庭でも平然と行われるような行動に、これを育児放棄と考えたことはありませんでした。
 しかし確かに、上記のようなこれらの行動は「子どもの意思を尊重する」という‘名目’で子どものことを真剣に考えることを放棄しているのではないかと感じました。しかし、行き過ぎた絆、束縛も「教育」という名の暴力に成り下がる危険性を秘めていると私は考えます。
 適度・適当であることが一番重要で何よりも難しいものなのだと理解し、悪意なき育児放棄の一面だけを見て否定することなく、本当の意味で子どもの意思を尊重し親子の絆を育むこと。それが児童虐待を減らすことにつながると私は考えます。


投稿者: 匿名希望 | 2011年10月28日 15:39

 三郷市のふくし総合相談室長の小平(コヒラ)慶一と申します。昨日(10月28日)の本庄市における障がい者の人権の分科会に参加させて頂きました。さいたま市における先生の取り組み、考え方に深く感銘いたしました。障害福祉団体の『異業種』とも言える団体の調整や歩み寄りのお話は特に興味深いものがありました。本当にありがとうございました。
 私の相談室は、福祉に関する困りごとの何でも相談室のような課ですが、最近認知症や精神障害が原因と思われる徘徊、虐待、入院入所の相談、近隣騒音等の事件が多発し、当室の職員も相談だけでなく、他の課との調整や施設、病院の入所、入院調整、現場出動などを行なうことが多くなってきています。
 この相談室には様々な相談が持ち込まれ、福祉における行政課題の縮図をみるようです。今後、三郷市への何らかのアドバイスや御講演をお願いするかもしれませんが、その節はよろしくお願い申し上げます。本当なら、昨日講演会終了時に名刺交換させていただきたかったのですが、市のバスで集団で来所したため、帰りの時間が迫り、時間がとれませんでした。今後ともよろしくお願いいたします。


投稿者: 三郷市ふくし総合相談室 小平 | 2011年10月29日 13:01

 私は宗澤先生のブログを読んで、いろいろな育児放棄が挙げられていますが、文のタイトルに「悪意なき」という言葉がついている理由がわかりました。例を挙げると、早起きした子どもに対して親は子どもの好きなアンパンマンを見せることで自分はまた寝る。でも、育児の面においてよくありません。この行為には親は介入しないからです。よって、親と子どものコミュニケーションは生まれません。
 実際、親には悪意がなく、ただ疲れをとるためにもう少し寝たいからやった行為だと思うし、子どもにとってもアンパンマンを見ることができてうれしいと思います。親からすると育児放棄をしたつもりはありません。でも、このような行動が頻繁に行われると、親と子どもの関係は冷え切っていきます。そして、子どもが親になったとき、同じことをするのです。この流れを止める必要はあると私は思います。
 方法として、子どもに親は大切な存在であることを伝えることです。それにより、親と子の絆が確かなものになるはずです。虐待がある家族は絆が希薄であると思います。だから、絆というものが急増する虐待を止める手助けになるのではないかと私は思います。


投稿者: mura | 2011年10月31日 23:14

興味深く読ませていただき、また考えさせられました。確かに上記で上げられていることは、望ましいことではありません。その事をわかっているけど、そうしてしまう親が多くいるのも事実だと思います。
それらは、単に個人の問題だけなのでしょうか。
社会は本当に子育てを応援してくれているのでしょうか。
職場では、子どもがいると言うことで、当然迷惑を掛けることも多いですし、また風当たりが厳しいのも事実です。だからこそ、出勤している時は何倍も働こうとギリギリの所で多くの親は頑張っています。

スーパーで、あれだけアンパンマンが商品化されていれば、子どもが引き込まれていくのは当然でしょう。企業の戦略でもあります。

社会全体として、子育てをどう考え、向き合っていくのかを考えず、親ばかりに焦点を当てるのは、今の現実、現状からすると、厳しいものがあるのでは、と改めて思いました。
このような時代だからこそ、確かに、揺るぎない信念と覚悟を持つことは、子育てにおいて必要かも知れないですね。


投稿者: 働くママ | 2011年11月03日 08:45

親のモラルの低下が昨今叫ばれていたことを思い出したが、
今回このブログを見て今の育児の現状を知り、ますます興味を持てた。
と同時に子供たちのことを思い、悲しくなった。
親は子供のことを考えているようで考えていないし、むしろ、物か何かモノのように扱っていることに驚いた。
やさしさの意味をはき違えて子供の望むものを全て与えて常に不足なく育てることが良いことだと思ってるのだろうか。
そういった親は頼られていることに酔っているだけで自己愛を満たしているだけだと思う。
もちろん、そういった親は、親の数全体で見ればまだ少数であろうが、
諸々のデータによる虐待やネグレクトによる通報件数の増加をみて、心配になった。


投稿者: クロ | 2011年11月07日 12:48

この「悪意なき育児放棄」を読んで、私は子どもの朝食にプリンだけを与え、また、熱が出て何も食べたがらない子どもをそのまま放っておく親がいるということがとても信じられません。
悪意がないとしても、親として失格なのは言うまでもありませんが、そもそもこのような親は子どもに対して愛情を持っていないのだと思います。だから、自分では育児放棄をしているという意識を持っていなかったとしても、子どものことを考えることができずに育児ができないのだと思います。
私は、この一番の問題は無意識なことだと考えます。自分では意識できていないからこそ、このような例はこれからどんどん増えていくのではないかと思います。何か早急に策が必要だと思いました。


投稿者: mikan | 2011年11月28日 17:45

この記事をよんで、一番に思い出したのは、自分の子供時代のことです。まず小学校時代、映画館に子供だけでいくことは、たとえ友達とでさえも絶対にゆるしてもらえませんでした。親になんでだめなのかきいたところ、震災や火事があったとき、いちばんとじこめられる確率が高いからといわれました。そのときは大げさだなあと思ったけど、いまは、自分が親だったらと考えると、おなじようにすると思います。
たとえば、子供時代に嫌いな野菜をたべさせようとがんばる親がいます。子供は嫌いなものなので嫌がります。しかし、大きくなったときにその親に感謝するでしょう。つまり、子供時代にはまだ体にいいなどの判断はできないのだから、親であるその人がしっかり責任として監督するのが当たり前だと思います。


投稿者: doradora | 2011年11月30日 17:04

 この記事を読んで感じた意見をありのままに書きます。
 まず、子供にご飯代わりとして菓子類を普通に与えているという事実から、現代の親の虐待やネグレクトといった、子育てをする上で必要な知識の欠乏の表れであると思う。おそらくお菓子をご飯代わりに、といって出した親当本人は、何も悪いことをしたと思っていないと思う。
 子供の意思を尊重するかどうかよりも、自分の子供の栄養バランスを考えた時に、必要な時期に必要な食物を食べさせるべきだと、菓子類をご飯代わりに、あるいは三度の食事の前に食べたいといっても止めるのが母(父)親としての立場ではないか。子どもがそういうことを自分で考えられるようになるまで親が見守ることが育児であり、間違っていても子どもの意見をそのまま見過ごすのは、むしろ“無関心”に近いのではないか、と私は思った。


投稿者: Risa | 2011年12月20日 16:14

 悪意無き育児放棄という言葉を聞いただけでは、正直なんの話か分かりませんでしたが、記事を読んだらその内容がよくわかりました。
 「互いに傷つけあわない間柄を優しさとは呼ばない」というところにはすごく考えさせられました。その葛藤があるかないかが「優しさ」と「甘さ」のちがいなのかな、と考えました。きっと悪意無き育児放棄をしてしまっている親たちはその違いを含めた本当の優しさがわかっていないのだろうなと思います。
 お菓子を食べたいといってもダメなときはダメという必要があるし、それによってこどもがすねたとしても子どものためだと自分を納得させてときには強気な姿勢をとる必要があると思います。


投稿者: nwt | 2011年12月27日 14:56

 このブログ記事を読んで、悪意なき育児放棄には三点の問題があると思いました。
 一点目は、すでにコメントに書かれた方も多いですが、「無自覚」の問題です。特に被害者である子供の無自覚が問題です。被虐待の自覚がない子供たちが親になった場合、間違いなく同じことを繰り返してしまいます。
 二点目は、(これは推測なのですが)親が虐待の意味をはき違えているのではないか、という点です。つまり親は、野菜を無理矢理食べさせて子どもに苦痛を与えることが虐待であり、好きなことをさせて、できるだけ子供たちを笑顔にさせることが正しい子育てだと勘違いしているのではないかと思います。
 三点目は、「強制」あるいは「矯正」の欠落です。悪意なき育児放棄によって、我慢して食べることや親に叱られる経験のない子供たちは、「強制」や「矯正」に耐性がなく、学校の校則や教師の指導などに対して、登校拒否・不良化・突然キレるなどの極端な行動に出る可能性が高くなると考えます。


投稿者: どらやき | 2011年12月27日 21:23

子どもが食べたいと言ったから、というような理由でお菓子ばかり与えていたり、偏った食生活をさせているというのは、そういう家庭があると初めて知ったときは大変驚きました。なぜなら、私の家では好き嫌いをせず食べるように言われていたし、おやつも量を決められていたりと厳しかったからです。小さなころはそれが不服であったし、どうして?と思うこともありました。しかし、ネグレクトという虐待を知った今、わたしは愛情を持って育てられていたんだな、と感じました。
 また、他の方のコメントにもあるように、コンビニで働いていると、その子育ての姿勢に子どもがかわいそうだと思うことがよくあります。子供の言うままにお菓子を買い与える親、週に何度もコンビニ弁当を買っていく親、そして、それを普通のことのように感じている子どもの姿を見ていると、心配になってくることもあります。
 しかし、暴力による虐待と違って通報できるわけではないし、そうした人を見かけたからと言ってその育て方に意見を言えるわけでもありません。ネグレクトという名の虐待であるという事実に本人もまわりも気づきにくいからこそ、難しい問題なんだと思います。今、何か行動に移すことはできませんが、どうしてこういうことが起きてしまうのか、どう対処したらいいのか考えていきたいと思いました。


投稿者: フローレン | 2012年01月02日 12:20

興味深い記事内容だったので、いまさらですがコメントさせていただきます。

今回の悪意なき育児放棄をしている親は自分の利益を優先しているのではないでしょうか。親としての役割を捨て、子供と正面から向きあわず、甘やかしておくことで、親子間のトラブルを回避しようとしているのではないでしょうか。正直さまざまな問題と向き合うのは面倒だし、できれば回避したいものです。しかし、自分が向き合いたくないからといって、子供を甘やかしていいわけないです。親として、大人として我慢して向き合わなければなりません。
今の人々は、自己利を優先するあまり、他人を思いやるという気持ちが足りていないのではないのでしょうか。


投稿者: hunmer-head | 2012年01月03日 05:17

私は先生がお書きになったようなことが、今現在「虐待」として扱われることに対して驚きを隠せません。ですが、一昔前にもニュースで話題になったように、親の行き過ぎた子への干渉行為、いわゆる過保護やモンスターペアレンツと呼ばれるものが増えてきていることもあり、やはり親の行き過ぎた子への干渉による「悪意無き児童虐待」は広まっているんだと実感しました。確かに子供というものは可愛いものです。しかしながら、子供のいうことを聞くだけでは、それは果たして本当に親としての役割を全うしているのでしょうか。親が子をしつけるとまではいきませんが、子の体調などを第一に考え、先を見据え、そこで正しい選択を行うのが親の役目ではないのでしょうか。私は、そういったことが出来て始めて親子の「絆」が生まれると考えます。


投稿者: まるいち | 2012年01月03日 23:53

小学生の頃、私はよく母と言い合いになることがありました。実際、母の言っていることは正しく、それを教えとして反省していきました。時には「ほっといてよ」と思うこともありましたが、今考えてみれば、それは家族との会話が多く、日々の中で関わることが多かったからなのではないかと感じています。
先日電車の中で、椅子に寝そべり大きな声で歌っている子どもを見かけました。他の乗客も多くいたにも関わらず、その母親は子どもの横に座り、注意するどころか一緒に笑っていたのです。その様子を見て、一声かけられない自分が批判して良いものなのかはわかりませんが、その状況に呆然としてしまいました。
子育てには親だけでなく、地域や社会の支援も必要だとは思います。しかし、まずは親が子に教えるという基盤があってこそなのではないかと考えます。子どもとのコミュニケーションの中で、時には厳しく物事の善悪や食事の指導、生活の中でのしつけを子に教えることも大切だと思います。


投稿者: こむぎ | 2012年01月05日 01:52

 『悪意なき育児放棄』を読んでいて、とても興味をを持った。
 私は実際にそのような経験はしたことはないが、世の中にはそのような事態が実際に起きているのかと思うと、とても胸が痛くなる。そのような親は自分が親であるという自覚が足りないのではないかとも思う。結婚する前、もしくは、出産する前のように、自分の時間を最重視し、本来愛すべきわが子のために、自分の時間を失いたくはない、という気持ちが作用していると思う。
 本当にわが子を愛しているのであれば、自分自身を犠牲にしてでも、わが子を立派に育て上げるべきだ。親自身が、犠牲を払わないで、どうして真面な子育てができよう。先生の仰る通り、束縛があってこそ絆というものが存在すると思う。時には厳しくしつけ、時には優しくしつけ、本当の愛情をわが子に捧げることが大切であると思う。


投稿者: nz | 2012年01月06日 11:45

 自分の幼少期を思い出してみた。
 休日の楽しみといえばまだ寝ている親に気を遣い、音量を最低限まで下げてこっそりと朝早くからやっている、アニメ、特撮物をテレビで見ることだった。休日に遊びに言った経験などほぼない。
 しかし、私は親を尊敬していたし、親も普段から私に愛情を注いでくれていた。そういった『絆』があったから、私もここまで特に問題もなく大きくなれたのか、そんなことを思った。
親に感謝したい。


投稿者: サンデル | 2012年01月06日 21:06

自分の幼少期を思い出してみた。
休日の楽しみといえばまだ寝ている親に気を遣い、音量を最低限まで下げてこっそりと朝早くからやっている、アニメ、特撮物をテレビで見ることだった。休日に遊びに言った経験などほぼない。
しかし、私は親を尊敬していたし、親も普段から私に愛情を注いでくれていた。そういった『絆』があったから、私もここまで特に問題もなく大きくなれたのか、そんなことを思った。親に感謝したい。


投稿者: サンデル | 2012年01月06日 21:21

いわゆる『虐待』というものの一種で、このようなものがあることは驚きでした。
今日『育児放棄』というものを多く取り上げられることは多いですが、このような『悪意のない育児放棄』というのはあまり聞いたことがなく非常に興味深いものでした。
現代社会における育児というのは、実に様々であり、確かに私自身このような光景を見なかったわけではありません。日常の風景であるスーパーでの買い物一つとっても子どもをほったらかしにして親は買い物を済ませるというのをよく見かけます。この日常の風景は育児の現状をそのまま表しているのではないかと考えます。子どもへの無関心、無関心であるがゆえに親であることの思考の停止。
そうした中で最も問題なのがこれらの事実に親が無自覚であるということ、子どもは愛情の欠如に気づかないということである。
私は育児と言うのは一方的なものではなく、親子の信頼関係によって成り立つと考えるので、このような親の自己満足だけで成り立っている状態は育児とは呼べないと考えます。
また愛情の欠如は子どもの人間形成において大きな影響を及ぼすとともに、将来的にですが親子関係に亀裂が生じることもあると思います。
もちろんこのような育児は絶対悪ではありませんが、そこに潜む危険性を理解しなければ、親子の絆というのはどんどん希薄なものになっていくと考えます。
『悪意のない育児放棄』は大きな社会問題であると考えます。育児放棄が恒常的になり、育児に責任が持てなくなる。やがて親子の絆が薄れていき、親子そのものが形式化していく。さらには目に見えない育児放棄が虐待やDVに転化していく。
それだけでとどまらずそれが次世代への育児に繋がっていく。このように連鎖していくならば、悠長にしてはいられないと考えます。
親が子供に向きあい、正しいことを褒め、間違いを叱る勇気が改めて求められていると感じます。


投稿者: 太一 | 2012年01月08日 02:28

私が子どものころ、食事は決まった時間に出てくるもので、献立も要望通りではなく、必ず2・3品、栄養を考えた料理が出てきました。それが当たり前だと思っていただけに、この記事を読んで驚き、怖くなりました。
 親は自分の生活習慣を子供に押し付けるのではなく、子供に適した生活習慣に親子ともに慣れていくべきだと考えます。「普段の生活も子供の将来を左右する」という自覚を持って育児に臨むべきだと思います。


投稿者: NY | 2012年01月08日 14:51

 この記事を読んで、親子の間にこんな現象が起きていることを初めて知りました。これを育児放棄だと感じていないことが一番の問題です。このような親を持った子供たちは、将来親になった時に同じようなことをするでしょう。
 暴力や食事を与えないなどの身体的・心理的虐待ばかり目立っているように感じますが、この悪意なき育児放棄の実態も世間に広め、親たちの意識に取り入れていくべきではないかと思います。


投稿者: ゆきりん | 2012年01月09日 14:10

 最近の若い親には親としてだけでなく、社会人としての責任感やモラルがないと思います。食事がプリンや菓子パンになってしまうことはネグレクトに違いないけど、責任感やモラルがないために親たちに問題意識がなく「悪意無き」ネグレクトと言わざるを得ないのだと思います。
 このように育てられた子供は、やはり大人になったら自分の子供も同じように育てる(悪意無きネグレクトをする)と思います。だとすれば虐待を受けた子供が自分の子供にも虐待をするようになるということを考えると、悪意がなくてもネグレクトは立派な虐待であると感じました。親がそれをきちんと認識することが大事だと思います。


投稿者: Kosuke | 2012年01月09日 18:32

 大平さんの、絆は「束縛なしではありえない」という考えにはとてもうなずけます。特に親子間の絆というものでは、親は子供を正しい道へ導くために、例を挙げれば生活習慣等を「束縛」し、知識のない子供は反抗することもあろうがそれを享受し、やがて社会を知っていく
。そのとき親のありがたみを改めて感じる。この当たり前だった絆を形成する第一歩のやりとりが、今の親子間では薄れているということを知ってぞっとしました。
 ニュースでもよく目にしますが、最近の親の無知さには驚いてばかりです。「悪意なき育児放棄」は、当の親が「まさかそんなつもりはない」と思っている点が一番の問題点であると思いました。「子供の意思を尊重する」云々の前に、親は自分の無知や無自覚が子供に及ぼす影響についてしっかりと学び、教育者としての責任を持った育児をしなければならないと考えました。また、このような問題は最近話題の「モンスターペアレント」等の問題とも繋がっていると思い、これからの日本の「教育」への不安がさらに押し寄せてきました。


投稿者: かんとく | 2012年01月10日 11:45

 新聞記事やブログに出てきた「悪意なき育児放棄」という事例が特別で、自分に無関係なものではなく、子供と関わりのある者の直ぐ身近にあり得るものだという認識がまず必要だと考えます。
 親子関係の希薄化について、私は個人主義に由来する親の子供に対する無関心が原因ではないかと考え、実感してもいました。バランスの良い食事の代わりにお菓子や軽食を与えるという行為はこのもっともな例ではないかと思います。
 しかし、実情はさらに複雑です。なぜなら親は子供に対し無関心ではなく、尊重する気持ちがあるからです。子供を尊重するという一見正しく見える行為がこの場合は間違いになります。
 こういった間違いを正すことは容易ではありませんが、初めて子供を育てる親へのサポート、具体的に言えば、子育ての指針となるような頼れる存在の助力、及びそれが機能する環境が必要ではないでしょうか。


投稿者: 楽々 | 2012年01月11日 01:47

「悪意なき育児放棄」では、「悪意なき」という言葉がこの現象の恐ろしさを物語っていると思う。育児をしている親自身は育児放棄をしているということに気づいていないからだ。一見子どもの言う通りにして、子どもに関心を持っているようにも見えるが、結局は子どもへの無関心の表れなのである。「束縛なしの絆はあり得ない」-この言葉は心に深く響いた。私が家庭を持ったら、自分の子どもとしっかりぶつかり合うような育児をしたい。


投稿者: misia | 2012年01月11日 21:38

 食べたいと言ったから食べさせた、やりたいと言ったからやらせた、しかしそれは優しさではない、というのはその通りであると思う。正しい判断ができない子どもにものの良し悪しを教えることは、親の役目であると思う。
 また、他人の子を褒めることはできるが怒ることは難しい。悪いことは悪いと言って怒ることも親の責務であると思う。もちろん言うだけでは簡単である。僕もしっかりとした「親」になりたいと思う。


投稿者: ふぁみーゆ | 2012年01月12日 16:23

 料理のうまい母親の子どもは不良にならない、と聞いたことがある。親が子どものために料理をするというのは、言葉を介さないが、非常に強い愛情表現の一つである。家に帰っても、飯がない、誰もいない、そのような状態では子どもが家に帰ってこないのも仕方がない。子どもが家に帰りたいと思う環境を築くのが親の義務だといえる。


投稿者: たおた | 2012年01月12日 17:17

「悪意なき育児放棄」の記事を読んで、私は日本の育児に危機感を覚えずにいられない。
 暴力行為のような故意に行われるものだけではなく、無自覚のうちに進行するネグレクト。
 故意、過失を問わなければ今この国でどれだけの「虐待」が行われているであろうか。
 あくまで主観であるが、最近「親」というものの質が低下しているように感じる。
 子供の悪事を看過する、それどころか擁護する「親」までいる世の中、これでよいのだろうか。
 無関心だとネグレクト、過保護がすぎるとモンスターペアレンツ...と、確かに加減は難しいかもしれないが、子供は「親」を見る。不適切な育児を行っても、社会的に非常識な行動をとっても、子供はそれを疑わないし、場合によってはまったく同じことを疑いもせずに行うかもしれない。
 「虐待は連鎖する」とよく言われるが、私に言わせてみれば「バカの子はバカ」となってしまう。
 己が子を好きで不幸にしたい「親」などいない。
 まずは、自分の育児が将来子供に与えてしまう影響を考えるようにすること。
 これを各々の「親」に意識させるような教育が今の日本には必要だと考える。


投稿者: ミハエル、 | 2012年01月13日 01:58

 親子は家族ではあるが、自分ではないという意味で他人、ということには変わらない。しかし一番近い“他人”である。だからこそ距離の取り方が難かしいのではないか。
 相手のために良かれと思ってしたことが悪い結果を招いたり、意図が伝わらず相手に受け入れてもらえなかったりすることも他人である以上仕方のないことであるが、相手のことを気遣い思いやる姿勢が大切であり一番近い”他人”、家族、という関係を築くのだと考える。これを機に本当の優しさとは何か考えてみたい。


投稿者: umk | 2012年01月14日 00:49

 幼少期のころ(小学校入学)までの私は、毎日ほとんど決まった時間に家族と食事をとり、週末は父親とキャッチボールをしていたので、このような現実があることに驚き、このような親に対して、憤りを感じます。
 このような親に罪の意識はないと思いますが、親の責任として子供の将来を考えることは当然なことなので、子供の主張を尊重することも大事だと思いますが、ダメなことはダメと言えるような親が増えてほしいです。また、自分の育児が直接、子供の未来に関係していくことを理解できればこのようなことをする親が少なくなっていくと思うので、育児教室などを行うこともこのような問題の対策になると思います。


投稿者: オーウェン | 2012年01月14日 16:12

 私も、小学校時代に、「野菜がすきだから」という理由で遠足のお弁当に「ベジタブル味」のスナック菓子を持ってくる子に衝撃をうけた覚えがある。
 そして、その子の親は全くお弁当にそれをいれることに抵抗を持っていなかった。(むしろなぜか少し得意げだった気がする。)
 「悪意のなき育児放棄」が行われているという事実はもはや机上の特殊な例というわけでは決してないのだ。
 「絆」という言葉のもつ一面的な要素のみを持ってして、「子供を尊重すること」がよいと思っている保護者は確実に増加している。
そして、それを自分の持論として胸を張っているパパ・ママ芸能人がテレビでもてはやされているような風潮も否めない。
 彼らは一見して矛盾のないような論理を展開しているため、えてして大衆受けし、誤解されやすいのかとも思われる。
 本当に子供にとって何が必要であるのかを、真剣に考え行動しようという考えが、「子供に嫌われるのが怖い」と懸念に負けてしまうことが現実に起こっている。自分の手間や工夫を子供の自主性という都合のよい言葉によって逃げていないか。もう一度子育てをする親が見つめなおすべき問なのではないだろうか。


投稿者: かげぽよ | 2012年01月14日 19:05

 私はこの記事を読んで、親と子のあり方について深く考えさせられました。私は実際にこのような体験をしたことがなかったので、朝食にプリンや、おやつを食べさせ過ぎて夕飯をとらないとか信じられませんでした。
 また、このようなこどもの意思を尊重した上での親の悪意のない行為が育児放棄になるのではないかということを考えたことがなかったので、この記事は非常に興味深く、難しい問題であると感じました。このような行為は親も子供にも自覚がないまま、虐待などへと発展し、社会問題になるかもしれません。親と子のあり方について改めて考える必要があると思いました。


投稿者: たっつーん | 2012年01月14日 23:36

 子供の自由は、その幸せとイコールの関係でないと改めて言わなければならぬ親がいることは、非常にむなしい。望みを叶えるだけでは育児と呼べないただの自己満足だろう。
 もちろん意志の尊重も大切だが、我慢したり叱られたりといった経験が親という子供の初めて接する他人によって教えられるからこそ子供たちは正しい判断能力を身に着けられると思う。これは最低限の親の責任であり当たり前のはずである。無自覚のうちに放棄されて良いことではない。
 加えて、子供は親からの行為を疑いもせずただ受け入れるのだから、子供に誤った自覚などは生じない点は重要である。親自身が責任を自覚しなければ、育児における“普通”の変化が連鎖されていくだろう。絆とは、愛情とは何なのかという親への教育が求められているのかもしれない。


投稿者: sinaki | 2012年01月15日 11:43

 悪意なき育児放棄の名の通り、親達には悪意がなくその行為が正しいと信じて行っているのではないかと考えます。このような問題が生じる原因として育児に関する親の知識不足が挙げられるのではないかと考えます。
 子供にとって最大の利益はなんなのか、我が子との絆を深めるにはどうすればよいのかを知らないために、子供のご機嫌取りの様な、欲求を満たすだけの育児になっているのではないかと思います。
 子供と深く関わることから逃げていては、そこに絆は生まれないということを親達に知ってもらうためには、公園などで親同士のコミュニケーションを重ね子供に関する知識や情報を収集してもらうことが重要ではないかと考えます。


投稿者: ねっこ | 2012年01月15日 13:48

 この記事を読んで、特にタイトルの「悪意なき」という点に驚きと恐ろしさを感じました。
 親は子どもの言うことを何でも聞き、子どもに精一杯の愛情をかけていると感じる。親自身は、子どもの事を“思って”やっているので、それを“虐待”とは捉えにくい。さらに家庭内で起きている問題なので、第3者の目からでは見抜きにくい。こういった実態もあるので、この問題の解決はとても難しいのだと感じました。
 ただ、この記事にある岩村暢子さんの「悪意なき児童虐待」という言葉は、そんな一部の親が持つ「子どもに対する愛情」の考え方を変えていくことが出来るものの一つだと思うので、多くの人にこの言葉を知って欲しいと思いました。


投稿者: やーくん | 2012年01月15日 14:05

 親としての自覚のなさ、モラルの低下が生み出している問題だと思います。このような教育をされた子供が親になったとき、当たり前のように質の低い教育がなされてしまいます。子供に規則正しい食生活を提供したり、一緒に遊ぶことは親の義務です。
 親も仕事などで忙しく、大変だと思いますが、子供のために立派な親になろうという意識を持つことが大事だと思います。


投稿者: TKG | 2012年01月15日 14:23

 近年、子供に対する虐待が増えている。この記事の中に出てくる「悪意なきネグレクト」をする親は、虐待に対して自覚がなく無意識的に行っているので、意図的な育児放棄よりも解決が困難に思える。
 乳幼児期はコミュニケーションをとる相手が親しかいない。親とのコミュニケーションを通して子供たちは食事やトイレの仕方、そして何が正しく何が間違っているのか、など生きていくうえで必要不可欠なことを学んでいくのである。こういった基本的なことを幼いうちからきちんと教えられてこなかった子供の将来への影響は大きいと思う。
 親は、本当の「やさしさ」とは何か、子供のために自分は何をすべきなのかを自分自身に問い直し改めてしっかりと考え、率先して子供と向き合ってほしい。


投稿者: ぺこ | 2012年01月15日 19:57

 4歳になる子供がいる姉が毎日のように子供を叱り、イライラしているのを見ます。それを見ていると迷惑をかけないならば子供の好きなようにやらせれば自分もイライラせずにすむし、子供も泣かずにすむという考えに至るのも分からなくはないです。
 子供を育てるというのはとても大変なことで、それを知った上で覚悟と責任を持って子供を産まなくてはいけないと思います。最近はできちゃった結婚というものが増えてこの覚悟をしないまま子供を産むことが多くなってきていると思います。
 「絆」とは「互いの自由を束縛する関係」このブログを読んでこの言葉の意味の深さを感じました。
 今一度と親と子の絆というものを考え直す必要があると思いました。


投稿者: ピース | 2012年01月16日 04:26

社会構造の変化により共働きの家庭が増えた現在、かなりの数の家庭で、似たような状況が生じているようのではないかと思います。ネグレクトと聞くと、食事すら与えないというイメージがありますが、ブログ内で紹介されているケースはそうではありません。子どもたちは物質的には満たされていても、精神的には満たされていません。子どものために働き、モノを与え、子育てをしていく。この当たり前の様な事が現在の日本では困難なことになりつつあります。子どもに目を向ける余裕がなくなってしまっているのかも知れません。
虐待にはある程度の定義がありますが、子育てや教育にはこうすれば正解だと言う方法や方程式はありません。また、保護者も育ってきた環境や価値観もそれぞれ異なりますから、当記事を読んで、初めて「悪意なき育児放棄」に気付く人もいるのではないでしょうか。
多くの人に考えてもらいたい問題であると私は考えます。


投稿者: Dangan | 2012年01月16日 17:20

 近年、子供に対する悪意なき虐待というのが非常に増えていると思う。子供は自分での食生活の管理や体調管理というのは非常に難しい。それにもかかわらず、子供に何が食べたいかと聞き、その答えに対しそのままの食事を与えたり、食事を要らないと答えたら、食事を用意しないというのは親としての責任が十分に果たせていないことだと思う。子供の栄養面を考えたら子供の要望とは違ってもしっかりとした食事をとらせることは親としての最低限の責任だと思う。
 また、もっとも身近である子供と親の関係というのはお互いに共通・共用した時間を分だけ信頼関係が築かれていくものだと思う。親は、親として子供とどのように接するかをしっかりと考えていくべきだと思う。


投稿者: pon | 2012年01月17日 01:22

子どものわがままに対して何も言わずに好きなようにさせると、子どもはもちろん文句を言わないですし、親も苦労しなくても済みます。一見両者どちらにとっても好都合に思えますが、この両者の間に『絆』など全く存在しません。また、このような親の行為は決して『優しさ』ではなく、単なる“育児放棄”と言っても過言ではないと思います。
 この記事を読んで、自分の母親のことを考えました。私の母親はとても厳しく、門限を守らなかった時や我が儘を言った時にはこっぴどく怒られました。昔は「うるさいなぁ」としか思っていませんでしたが、母親のこのような行為が私に対する『愛情』だったと気付いた今では、厳しく育ててくれた母親に感謝していますし、『絆』や『優しさ』をしっかり感じることもできます。
 “悪意なき育児放棄”が増えているという現状を放っておくことは、家庭の崩壊を招くだけではなく、家庭の集合体である地域社会、さらにはこの私たちの社会まで悪化させてしまうことにつながりかねません。今一度、現代の家庭について真剣に考える必要があるのではないでしょうか。


投稿者: panda | 2012年01月17日 16:08

一般的に言われている「虐待」と同じく、「悪意なき虐待」を受けた子どももいつか親になったときに同じことを自分の子どもにする可能性が大いにあるはずです。その負の連鎖を食い止めるために、親の役割や子育てとは何なのかといったことを考え直す必要があると思います。そのために社会全体としてももっと働きかけていかなければならないと考えました。
また、そもそも親がこのようなことをなぜするのかを考えてみると、親の育った環境や当時受けてきた教育も影響していると思います。この記事を読んで、改めて教育や子育ての奥深さと重要性を感じました。


投稿者: あずき | 2012年01月17日 16:34

悪意なき育児放棄といったものはほんとにどの家庭でも起こりうることだなとおもった。子供が~したい!といったら、親としてはわが子をかわいがるあまりに、子供の要求を素直に聞いてしまうということは十分にあり得る。育児というものは、子供をきちんと常識のある大人になれるように教育しなければならないのだと改めて感じた。映画館の話には正直びっくりした。それぞれが別々の映画を見ることで欲求というものは満たされるかもしれないが、親子の関係というものはそれでよいのだろうか。やはり親子というものは、さまざまな体験をともに共有し合うことが大切であると思う。とても考えさせられる問題でした。


投稿者: YT | 2012年01月17日 17:19

ブログの冒頭部にある「朝食はプリン」「食べたがらなかったから食事を与えない」といった親の子供に対する行動には、正直なところ、驚きを隠せないでいる。自分自身が両親から受けてきた教育というのが根底にあるからなのか、こうした行動をとる親がいるということが信じられない。親の意見からすれば、子供の望むことを最優先した上での行動で、ブログタイトルにもある通り、悪意はないのかもしれない。しかし、この親達がまるで感情のないロボットであるかのように感じられてしまう。最初に述べた行動を、何の疑問も抱かずに我が子に対して行ってしまう親、そして、その子供が親となる将来の日本に危機感を覚えずにはいられない。


投稿者: カメレオン | 2012年01月17日 22:11

 子供の意思を尊重するといって子供に判断を丸投げするのは、親の怠慢ではないでしょうか。子供に栄養バランスの取れた食事、規則正しい生活をさせることは親としての義務だと私は感じます。このような親の責任感やモラルが欠落している親がたくさんいるということが正直に言って信じがたいです。「虐待」という言葉にすると少し大げさに聞こえるような気もしますが、この悪意なき育児放棄は着実に広まっているということを実感させられました。
 近年増加しているモンスターペアレントといった親の子供への過剰な干渉も良くないと思いますが、子供と適度なコミュニケーションをとりつつ、親の義務を果たしていくことを忘れないようにしたいと思います。


投稿者: Crux | 2012年01月17日 23:11

 悪意なき育児放棄を行ってしまうのは、親自身が人間的に成熟してないからだと思う。自身がされた教育内容がまさにその通りであったか、そうでなかったら、親からの教育が十分に届かなかった可能性がある。
 子供のことを考えれば、判断能力が備わっていない子供のために尽くすのは親として当たり前であるし、意志を尊重して放置というのは、ただの放任でいい加減な対応である。
 まず、親が自分を中心に考えるのでなく、子供の教育のために何が出来るのかというのを考えねばならないと思う。
 この記事を読んで、強くそう思った。


投稿者: YK | 2012年01月18日 08:41

 悪意なき育児放棄の問題点は、その名の通り、親が自身の行動に対して問題・悪意を感じていないという点である。
 このような問題を改善してゆくためには、子どもの頃の教育の他にも、親となった後に子を持った大人への教育も必要なのではないか、親は子どものためには何をすべきなのかを学んでいかねばならないのではないかと感じた。


投稿者: KKY | 2012年01月18日 09:54

 私の父は医者なので、特に食生活を重視している。なぜかというと、食事は人間にとって生きていくために毎日欠けてはならないことである。「薬より食事」という論調は中国古来の医学の中心であり、食事で病気を治すことこそ、漢方の根である。
 よく父に「朝ごはんはちゃんと食べなさいよ。」と言われている。しかし、まわりの人を聞くと、80%の人が朝食抜きで、さらに、一日1食しか食べない人もいる。現代社会の忙しい毎日を過ごしている中、食事を取る時間をとにかく節約して、ほかのことに配る気持ちはよく分かる。テレビのCMを見ると、朝栄養ドリンク1本だけで体が満足できるなどの宣伝がよく見られる。そして、スーパーで母親がカゴにパンと冷凍即食品を大量に入れる光景を頭を傾げざるをえない。それはどうしてもおかしいと思っている。
 私は子供のごろ、母が新鮮な食材を買ってきて、熟練かつ丁寧に調理する過程をいつも楽しみにしていた。母も食材の健康的効果を一つずつ教えてくれた。そこで、私は生活の知恵というか、常識を知ることができた。「母親の味」は決して単なる料理の味ではなく、母が料理を心込めて作ってくれる姿もその中の一つの「味」だと思う。毎日パンと冷凍食品を食べている子供が、「母親の味」をどう認識しているか?将来「母親の味」という言葉が消えるか?という不安感を感じる。


投稿者: Sissi | 2012年01月18日 13:08

 現代のこどもを持つ親が、子供の言う通りに朝食にプリンを出す、おやつを食べすぎてお腹がいっぱいなので夕食を出さないという事実が存在することにとても驚いた。それが子供の意思通りにしているということにも驚きだ。
 以前まではあった食事中における家族団らんという光景がなくなってきている。親子間でのコミュニケーション不足は子供の成長の過程良い影響を与えるはずがない。今日、親の共働きという家庭は大半を占めている。仕事が忙しいのは分かるが、少ない時間でもいいから子供と遊んだり、食事をとるなどをしてほしいなと考える。


投稿者: ngng | 2012年01月18日 15:51

 私は食事にあまり定着がなく、成人を過ぎた今でも、一人で一日過ごすとまともな食事をしようとせず、飲みものやお菓子で済ませてしまいます。そんな私の親がこの記事のような方だったら、確実に「悪意なき育児放棄」でした。
 この記事を読んで私は親に感謝の気持ちでいっぱいになりました。そして、私が親の立場になったら、嫌いな食べ物を何とかして食べさせようと思うし、栄養を考えて食事を作ると思います。子どもはしたいこと、したくないこと、の意思は持っていますが、自分のために何をすべきかが分からないと思います。そのため、親が責任を持つのは当たり前のことだと思います。


投稿者: nao | 2012年01月18日 16:38

 悪意なき育児放棄…この問題の背景にあるのは、親の“親としての自覚や覚悟の希薄”や“虐待に対する偏見”、そして“子育てに対するある種の無知”だと私は思う。ここに書かれている親からすれば、自分は子どもを“大切”にしているし、ちゃんと“子育て”もしているのだろう。しかし本質的に考えれば、彼らは親としての務めを果たしているとは言えないはずである。
 たしかに子どもたちに食べ物を与え、彼らのしたいようにさせているが、その実、その行為が子どもたちに対してどういう意味を持つかについては何ら考慮していないからこそ、そうした“子育て”ができるのではないだろうか。この問題を解決させるためには、子育てに対する誤解や無知をなくす必要がある。教育機関やメディアを媒体とし、本当の意味での子育てを皆に知らしめることが重要である。
 また親子の絆について言及するならば、上記の親は子どもとの衝突を避けようとしているようにも見受けられる。そのような姿勢で子どもと関ろうとしても、このブログに書かれているような絆の形成は難しいだろう。親は、親子間で様々な摩擦が起きようとも、それを乗り越えようとする姿勢、もとい愛情を持つべきである。私はお互いに真正面から向き合える間柄でこそ絆は形成されるのだと思う。


投稿者: アンテア | 2012年01月18日 21:16

 虐待にも様々な種類があることを改めて理解し、特にアンパンマンのビデオの例については衝撃的を受けました。両親共働きの家庭が増加している中、多忙による疲労を理由にして、食事を菓子パンにする・自分が寝ている間は子供にアニメを見させるなどの“悪意なき虐待”をおこなってしまう方も多くいるのではないかと思います。
 しかしどんなに忙しくとも親には子供の面倒をきちんと見る義務があります。特に女性には計画的に自分の生活と子育てのバランスを調節したうえでの行動が今後一層求められると感じました。


投稿者: ゆかりそ | 2012年01月18日 22:03

 このブログを読んで、子どもが望んだからと言って、食事のバランスを考えないでお菓子などを与えてしまう親がいることにとても驚きました。
 子どもは食事の意味も分かっていないだろうし、栄養など考えずに好きなものを食べたがるのは普通の事だと思います。私自身、昔はお菓子ばかりを食べたがった記憶があります。ですが、そこで成長期にある子どもの体を考えて、バランスのとれた食事をとらせることが親の役目であると思います。
 子どものことを思って子どもの意思を尊重しているつもりでも、結果として悪い方へと導いているだけです。しかも、親自身は悪意がないということなので、改善に時間がかかる、悪い状況であると思います。親は、子どもが自己責任を負えるようになるまで、責任を持たなければならなりません。そのために、子どもの身体的、精神的バランスがとれるような生活スタイルを保つ義務を果たしていかなければならないと思いました。


投稿者: mon | 2012年01月18日 22:18

 育児放棄という問題はもはや特別な家庭の話ではなくなっているのだと、この記事を読んで改めて感じました。私はこの問題が親の未成熟さに起因しているのではないかと思います。まだ自らの行動に責任が持てない子どもの言うとおりに食事を与えるのは、親の判断能力が十分ではないからではないのでしょうか。家族の絆の重要性に気付いていなことも親の認識の甘さの結果だと考えます。そしてその責任はその親を育てた世代にあるのではないでしょか。


投稿者: sakon | 2012年01月18日 22:46

 私は母が健康志向なのでそんなことはありませんでしたが、確かに最近このような家庭は少なくないと思います。朝食は食べないのが普通だという子もいます。子供のわがままをすべて聞くのがその子のためだと思ったら大間違いです。親になるからには、責任を持って親としての義務を果たしていかねばならないと思いました。


投稿者: あいす | 2012年01月18日 23:26

昨今の社会情勢の目輪ぐるしいまでの変動が、親密圏におけるコミュニケーションの変容に寄与している。この事実は、多くの人間が潜在意識の中に感じていることであろう。人の心の豊かさは、年齢を重ねると共に育まれていくものあったはずが気付けば摩耗している。
 現在の社会システムというものは、構築されて間もないものである。ほんの少しさかのぼれば、世界中が戦禍を被り闘争と逃走を余議なくなれた時代だ。戦後、世界中から寄せ集められた当時の最新の民主主義思想に基づき、高らかに民主主義を謳うところから現代の平和な日本が始まったのである。わずかに70年ほど前のことだ。そして、濁流のように押し寄せた社会システムの荒波は、時に無情なまでに人々の生活を激変させた。そして今この瞬間も変わり続けていく。世界はまだまだ未熟である、そのことを強く認識したうえで時代に適応していかなければならないのだろう。
現代の、親、と呼ばれる世代の多くはそんな時代の過渡期を経験せずに育ったわけである。もがき苦しみ、責任や権利を獲得していった世代とは毛色が異なる。生を受けたその瞬間から、肥大化した権利を押しつけられて育っていくことになったわけである。
このような事実を理解した上で、悪意なき育児放棄という言葉を考えてみた時に、腐敗した社会システムにすべての責任の根拠を求めるのはいささか乱暴なものだと感じる。我々、現代を生きる人間は常に変化するものに立ち向かっていかなくてはならない。そしてそのよりどころとなるのが人間関係なのだろう。つながりの希薄な現代において、個の結びつきを紡いでいくことに尽力し、そのサポートできる体制を構築していくことが社会の役割なのだろう。そのことがネグレクト防止の一助となるのではないか。


投稿者: snow | 2012年01月19日 15:05

こういった育児放棄は親の問題であることは確かだと思いますが、それだけがもたらしているものではないと思います。伝統的社会体では、親だけでなく、周りの大人たちも含めた共同体とした育児をしていたのではないでしょうか。しかし、今日は核家族や少子化の進展により地域社会や環境が変化したことで共同体が消えてきてしまっているように思います。そういったことも要因のひとつだと思いました。


投稿者: RIN | 2012年01月19日 17:48

子どもが育っていく過程で、親に自分の主張が受け入れられず、自分の意見をその都度変えていく、という事は非常に重要な過程でありその過程の中で、「これはいい」「これは悪い」という、その子なりの「常識」を身につけていくのだと思います。そしてこれも、「1つの子育て」であると私は考えます。
しかし、親が子どものわがままを受け入れていては、子どもは自分の意見こそが全てだと考え、周りの意見を取り入れなくなってしまい、「常識の身につけ」が行われなくなってしまうように感じます。
これは1つの「育児放棄」であり、子どもの意見をそのまま受け入れてしまう事はある意味その子とのコミュニケーションを断つ事です。親としての自分の意見を伝えず、なんでも言う通りにしてしまっては、その子と意見の交換が出来ず、結果親子としてのコミュニケーションも薄れていってしまうのではと感じます。
それを防ぐためにも、子どもの主張をなんでも受け入れるという姿勢は変えるべきだ、と考えました。


投稿者: rmmk | 2012年01月19日 17:52

親が1歳や2歳のこどもが「食べたい」と言った時に与えるなどのようなことをする親がいることがあり得ないと思いました。今の日本の現状として、自分を優先している親も多くみられたりしますが、そういうことをしていると、こどもの成長のためにはいいとは言えません。それなので、まだこどもなのでそういう判断はつかないもので、そのような判断をし、成長するためのアシストをすることが親の役割だと私は考えます。


投稿者: くーみん | 2012年01月19日 22:54

私が20年間生きてきた中で、親は私の進路選択に口など出したことが無い。勉学や運動において、やりたいことはすべてやらせてくれた。
これは「悪意無き葛藤の回避」であろうか?私はそうは思わない。
なぜなら、私が間違った事をしようとすれば正し、助けを求めればちゃんと導いてくれたからだ。私の意志を尊重してくれたのも、自分の手で道を選び取って幸せになって欲しいという心からの親の願いがあったからではないかと思う。
ここで問題視されている、「悪意なきネグレクト(育児放棄)」は、いずれのケースもこういった親の「心から子の幸せを願う」気持ちが欠如しているように感じる。自分が寝たいが為に子どもにアニメを見させておいたり、子どもが待てないからといって健康に良くない菓子パンを食べさせたりすることは、本当に子どもを思う気持ちがあれば起こらない事態である。


投稿者: ゆっきー | 2012年01月19日 23:11

子どもが欲しがるものしか与えない親、自分の睡眠時間を確保するために子どもを放置する親。自分の幼少期から考えると確かに信じがたいことではありますが、親から子への虐待が深刻な社会問題として挙がる現在の状況と比べると、これらのケースははるかにマシなように思えます。しかしそれが本当に子供にとって良いことなのか、考えるとやはりそれは違うと思います。食生活の乱れは子供の将来の健康に悪影響を与えるかもしれません。ひとりでDVDを見ることは、小浦井子どものコミュニケーション能力に悪影響を与えるかもしれません。悪意があろうがなかろうが、ネグレクトはネグレクトであると、わたしは考えます。こうしたネグレクトによる将来の悪循環を防ぐためにも、若者世代に向けて育児教育プログラムを実施するべきだと感じます。


投稿者: ぽちゃ | 2012年01月19日 23:58

ブログの冒頭に挙げられているようなことが実際に起きていると知って非常に驚いた。自分の家では、朝ご飯はきちんと食べ、晩御飯前にはおやつなどは食べず家族みんなで晩御飯を食べていた。冒頭の例のような状態による子どもの欠食や食事の粗末化が子どもに非は無く、親に非があるということをブログを通して理解し、ここで初めてこのブログのタイトルである「悪意なき育児放棄」の意味をようやく理解した。実際、そのような親達は彼らの育児を異常とは思っていないし、育児放棄とは微塵も感じていないのだろうと感じた。しかし、子どもの欲することを良いことも悪いことも全て実現させることは育児とは言えないと私は思う。それは子どものことを全く考えていない。本当に子どものことを考えているのならば、子どもと意見が衝突することもあるし、何が子どもにとって良いものか悪いものかを考え、それらを子どもに教えることが親が持つ育児の責任ではないのか。


投稿者: ごま | 2012年01月20日 14:22

親子の間でも日々の葛藤を避けてばかりいると結果的に虐待やDVに繋がってしまう。表面上の付き合いばかりしていて葛藤を避け続けていると、いい人間関係なんて築ける訳がない。このことは親子や家族間だけでなく、友人などの対人関係にも共通していえる。それぞれの親にも子育てには様々なやり方があり、一概にどれが正解だなんてことはいえないが、どんなやり方でもしっかりと子供と向き合うことが大切である。


投稿者: tkdn | 2012年01月20日 16:01

 親は、子どもを身体的にも精神的にも成長させるということに責任があり、子どもがまだ自己管理が効かない乳幼児期であるならば、親自らが子どもの生活スタイルを築き上げ、子どもを正しい方向へと導くことが大切であると考えます。しかしブログの例を見てみるとそれはそれはひどいもので、彼らに親と名乗る資格などほとんど皆無だと感じました。
 私はまだ子育てというものを経験したことがないので、確かなことは分かりませんが、親は子どもに対するその責任を一つ一つ果たしていった結果、子どもの喜ぶ顔が見られたり、時には反発されることもあるかとは思いますが、あとに残る何らかの影響を与えられてこそ、はじめて親としての実感がわいてくるのではないかと考えます。
 おそらく菓子パンを与えられたり、アンパンマンを見るよう促された子どもたちは、そんなにいきいきとした表情をしていないのではないかと、その表情が頭の中に浮かんできました。これは子どもにとっても、また親にとってもとても悲しい事実です。
 ネグレクトという種の児童虐待は、身体的虐待と比較するともしかするとなかなか発見されにくいものなのかもしれませんが、まだまだ多くの事例があるような気がして恐怖を感じました。


投稿者: no.3 | 2012年01月21日 02:01

 悪意なき育児放棄は親のみの責任ではなく、少子高齢化や核家族化により周りとのかかわりが少ない閉鎖的なコミュニティーが常態化していることにより生じていると思う。かつては学校においても教師が生徒を「叱る」こと、電車内でのマナー違反を「叱る」ことができていたが、今日においてはそんな機会もなくなってしまっている。同世代のママ友作りだけでなく、ご近所づきあいをしていくことで問題が解決されるかもしれない。


投稿者: IS | 2012年01月21日 02:23

 近年、育児放棄の問題はたえませんが、大きく問題として取りあげられたり明るみに出ていないだけで日常的に起こっていると思います。特に意識はありませんでしたが、我が家でも夕食時前に私と弟でお腹が減るとなにか簡単なものやお菓子などを食べてご飯が食べられなくなることがありました。だから少しドキッとするところはありましたが、親には注意されていたし、事例とは違いました。
 いくら子供の言うとおりにしたからと言って尊重しているとは違うし、親子としてのきずなが感じられずとても悲しくなりました。もっと愛のあるやりとりが存在してほしいと願います。


投稿者: キミイロオモイ | 2012年01月21日 16:18

 このブログのような親は子どもに対して関心をあまり持っていないのではないかと思う。関心がないから食事は考えないで子どもの望むようにする。関心がなく眠たいから寝る。関心がなく見たい映画が子どもと違うから別々にみる。
 子どもの食事、すること、見る映画などに興味を持てば普通の親と変わらないと思うが、どのように興味を持つようにするかはわからない。逆に関心がありすぎると過保護と呼ばれてしまうので難しいところである。
 また、このような育て方をされた子どもは他人に対して関心が持てなくなり、親になった時同じような育て方をして悪循環になると思う。


投稿者: atom | 2012年01月21日 20:42

 私の長所は健康であることだと自負している。なぜなら、私は小学校での欠席数は数えられるほどで、中学校・高校では一度も欠席したことがないからだ。しかし、このように私が今まで健康に生活することができたのは両親のおかげである。特に食事に関しては、大きくなってからは栄養のバランスが大切であることを知ったので何でも食べるようになったが、もし小さい頃に母親が私の我儘を聞いて好きなものだけ食べていたら、私は健康には育たなかったかもしれない。だからこそ、自分の我儘を聞かずにちゃんと毎日料理を作り育ててくれた母親に改めて感謝したいと思う。
 また、現実にはまだ食事の大切さや栄養などに関して知識がない子どもを放っておく親がいることは問題だと思う。このような料理をしない親は毎日料理をする親と接することで刺激を受けることができると思う。また、食事以外でも(悪意の有り無しに関わらず)育児放棄してしまっている親はちゃんと子育てしている親から学べることがあると思うので、私は親同士で子育てについて話し合うような機会を設けることが重要だと考える。


投稿者: fujisan | 2012年01月22日 00:22

 最近はゆとり教育と騒がれているがそのとおりだと思う。親は子どもに対して甘い部分が多すぎる。私の家ではそこまでゆとりだとは思わないが実際はどこまでがゆとりなのかなどよくわからない。しかし友達の家ではほしいものはすぐ買ってもらえて家にはお菓子が常にたくさんあるという人がいた。
 私の家ではそのようにうまくはいってなくて、友達がうらやましかったのを覚えています。このように甘やかすのは親的には子につくしていてかわいがっているようにみえても、将来は甘くはいかない。こうすると大人になるときにうまくいかないことがあるとすぐにくじけてしまう人もでてくるでしょう。こういう考え方を将来にむけて考えていくべきだとおもいます。


投稿者: ひろし | 2012年01月22日 03:42

 この記事を読んで最近の親と子の関係について心配になりました。自分が子供の時、親は忙しく、どこかに遊びに出掛けた記憶はあまりないです。それでもご飯は必ず家族みんなで食べましたし、忙しい合間をぬって遊んでもらったりしていました。しかし最近の親はおかしいと思いました。一緒に映画館に行って別の映画を観るなんて意味不明です。せっかく一緒に過ごせる時間があるのだから、その時間をもっと大切にして欲しいと思いました。


投稿者: わん | 2012年01月22日 04:15

 私は今塾講師をしているのですが、この記事の未来のようなことを身近に感じることがあります。それは親が子の言いなりになり、子供の機嫌を伺うように行動ししていることで、それがエスカレートして手に負えなくなっている様子です。
 また親子の関係が友達のような関係になっている家庭もそれに近いと思います。それらどれも自由や意思の尊重というものを履き違えてるように私は思います。また共通して自己主張を大切にするわりに責任意識が低く、結局子供は親の親は子供に責任をおしつけたり、学校の責任にする様子が伺えるように思います。それも「悪意なき育児放棄」の代償であり、まだ継続される育児放棄であるように思います。
 しかしその一方として厳しすぎる親、親の言いなりの子供というもの問題になってくると思います。親にすべての決定権があり、自分の意思を持たない子供となります。そして結局責任感がもてなくなります。そこでその親子関係のバランスが難しく、育児の悩む点になっているのだと思います。
 その解決策は家族以外の人間関係にあり、親以外の人も子供を育て、また親のことも成長させる環境があることで上手く調節されていくのだと思います。とは言うものの核家族化、公共施設の減少などによってそのような環境になるのは難しく、これからの課題であると思います。


投稿者: mnny | 2012年01月22日 11:33

 「悪意無き育児放棄」の記事を読んで、この「不適切な養育」は共働きなどによって育児に時間を取れず、子どもと一緒にいる時間が極端に減った結果起こったように感じました。
 子どもは親を見て育つため、小さいころに親の育児の様子を十分に体験することができず、育児の仕方があまりわからず、育児の常識が形成されないまま親となってしまい、その結果が「不適切な養育」へ繋がってしまうと思いました。また、一人っ子の増加により自分が育児されるという「主観的な育児」の体験のみとなってしまい、兄弟姉妹がいないために、親が育児している様子を見ることができる「客観的な育児」や、親の真似をする際にできる「疑似的な養育」が体感できないということも考えられます。講義でも述べられていたように、かつては似たような事態に陥ったとしても、地域と家族との繋がりが深かったために、子どもは十分な育児を体感することができ、問題にならなかったのではないでしょうか。また、地域との繋がりがないことで、育児を家族のみで行わなければならないという切迫感が、精神的な余裕を失わせ、子どもの楽しみを親が共有できない状態へと陥ってしまうようにも思います。
 以上のような「絆」に代表される親子間の繋がりは、一家族の問題ではなく、社会全体が変わっていかなければ決して改善されることはなく、どこかで改善されなければ悪化の一途をたどる、非常に大きく難しい問題であると感じました。育児の連鎖が断ち切られることは、最も身近な文化が失われること。日本の文化を継承するためにもいち早く改善されなければならない1つの問題であると感じました。


投稿者: バオバブ | 2012年01月22日 14:26

 この記事を読んで、「束縛なしの絆はありえない」という文章を特に感銘深く読みました。私は子供のごろ、親の干渉が嫌いでした。平日には学校に行ってから、学院に行って、必ず10時に家に帰らなければならなかった機械的な生活させた親が嫌いでした。
 しかし、今さら考えれば、それは私への愛情表現だと思います。もし、親の干渉がなかったら、今の私もいなかったと思います。 食べたいと言わなかったから、ご飯を作ってあげないたり、もっと寝たくて、子供にテレビを見せるのは親の役目ではないと思います、 親の束縛は愛情と同じものだと思い、ただ、親としての役割を修行するのではなく、子供に愛情を持って育つのが大切だと思います。


投稿者: 海外から来た男 | 2012年01月22日 14:45

 子供がやりたいといったことは好きなだけやらせて、やりたくないということはやらせずにしておく、というのはやはり育児放棄なんだと感じます。たとえ子供がやりたがることでもやってはいけなかったりやるべきではないことは、親が止めてあげるべきだし、やりたくないと言ったとしても、もし必要なことならば強く言うべきです。これは親が子供に対してビビってしまってるということが原因のひとつにあるのではないでしょうか。


投稿者: mnbst | 2012年01月22日 14:54

 自分はこの記事を読んで、それから岩村さんの文章を読んで、家族として、養育という局面に関して食事や交流を言葉の表面的な意味だけでこなしてしまうというのは広義での育児放棄だという意見には同意せざるをえません。自分の母親が自分たちの食事をかなりさぼっていた時期がありました、その時に父が「おふくろの味」ということをいっていたのを思い出します。子供の養育をする中で、愛情を与えるうえで、温もりのある食卓というのは大事にしていきたいものですね。


投稿者: ヒアルロンさん | 2012年01月22日 15:48

 「悪意なき育児放棄」とはどういうことか、最初は疑問に思っていたが、この記事を最後まで読んで理解し、そしてこれはとても難しい問題であると思った。
 このように育てられた子どもたちは、自分が親から受けた育児を普通だと認識し、自分が親になっても同じようなことを子どもにしてしまうだろう。だが、親に、自分が虐待をしているという意識はないため、この問題を解決するのはとても難しい。社会全体に正しい子育ての仕方を広め、1人1人にもっと親としての自覚を持たせるしか方法はないと考える。


投稿者: M.F | 2012年01月22日 17:50

 ここに挙げられているような「悪意なき育児放棄」の大きな問題点は、親も子も、それを当然と思ってしまうことではないでしょうか。親に悪意がなく、子供にも育児放棄されている自覚がないため、改善されにくいのではないかと思います。
 こうして育った子供は、自分が親になったとき、何の疑いもなく同じ行動をとってしまうでしょう。このような問題を防ぐためにも、親は子供の人生の一端を預かっているという自覚を持ち、相応の知識を持った上で子育てをしなければならないと思いました。


投稿者: ヒルドン | 2012年01月22日 19:29

 今回の宗澤先生の記事の中で、お腹がすいた子どもに菓子パンなどを食べさせ、朝早く起きてアンパンマンのVTRを見せるなどといった内容がありましたが、これはどちらも「面倒くさいから」という副詞で修飾することが可能ではないでしょうか。面倒くさいから何も考えず(子どもと対話しようとせず)、このような行動になってしまうのだと思います。
 僕としましては、子どもと対話しないことこそが罪であると思いますし、罪に気づかないことが更なる罪であると考えます。


投稿者: kzr | 2012年01月22日 21:49

 子供が朝ごはんにプリンがいいと言ったからあげてしまうなどの親の行動は一見信じがたいもののように見えるが、親からしてみればかわいい子供の言うことは聞いてあげたいと思ってのことだろう。愛情の行き過ぎがこのような悪意なき育児放棄につながってしまうのだと考える。
 このような悲しい事態を少しでも減らすために各市町村で小さな子供を持つ親が集まるサークルなどが作られると子育てに役立つ情報の交換が行われるだろうと思う。


投稿者: A.S | 2012年01月22日 21:51

 私は将来「悪意ある」虐待よりも「悪意なき」虐待のほうが増加してしまうのではないのかと思う。最近はニュースなどでも児童虐待についてのことがあげられている。それを見てなるべく子供と自分から関わろうとしない人が増えるのではないかと思う。そのようなことを避けるためにたとえ悪意がなくても育児放棄に発展してしまうことをもっと多くの人に知る機会を設けるべきではないかと思う。


投稿者: imo | 2012年01月22日 23:47

 私はブログを読んで、自分の家庭環境を思い返してみました。両親は共働きで忙しい中でも自分のワガママをあっさり通すようなことはなかったので、このような問題が起きていることは信じられません。
 このような「悪意なき育児放棄」が起きてしまうには、当然親本人の問題もあるが、最近の社会環境も一因になってしまっているのではないかと感じました。当たり障りのない人間関係をそのまま家庭に当てはめた結果起きてしまうものだと考えます。とはいえ、これは子供の意思の尊重と衝突することであるので、慎重に扱うべき問題だと思います。


投稿者: もく | 2012年01月23日 00:10

1、この記事を見れば、如何に自分が制限された自由を親に与えられていたかということに気付かされる。門限や就寝時間、食事の時間など、両親の束縛は小さいころの私にとってとても煩わしいものであったが、今思えばそれが如何に両親の下から離れた時に役に立つか、またそれが両親の私に対する愛情の表れであったかということが分かる。
 さて、私がたまに深夜のコンビニに行くと、夜中の1時にも関わらず元気にはしゃいでいる、見た限り幼稚園児らしい子供とその両親を見かける。しかもその子供は金髪にピアスまでしているのだ。私はその光景を見て腹立たしさを感じた。おそらくその両親は自分たちのわがままでそのような教育をしているのだと思った。
 このような教育をする親には、子供にとっても目先の利益や表面的な感情しか見ることが出来ず、未来の子供を想像する力が欠落していると思わる。自分の子供にしていることが子供の将来にどう影響を与え、また自分の子供にしていることが如何に自分勝手であるかという、根本的な意識改革を行わないと解決できないような難しい問題だと思う。


投稿者: ずんのやす | 2012年01月23日 00:32

 “「息子が朝食はプリンと言ったから」「おやつを食べすぎた娘が夕飯は食べたがらなかったから」その通りにした。”という行為は一見すると何の変哲もない行動に思われがちである。
 現に私はこの行為が世間で一般的に行われているのを知っている。この行為を行う親に子供に危害を加えようという意図はもちろんない。どちらかといえば「無関心」という行為に近いと言ってよい。「無関心」という意図することのない行為なのであろう。


投稿者: tachi | 2012年01月23日 01:01

 「悪意なき育児放棄」これが認知され始めたということは実際にはにどれだけの数の子どもたちが被害を受けているのか不安でならない。この形の虐待は肉体的な危害が暴力という形で加えられないことで実態が通常の虐待よりもはるかに表に出ずらいと思う。それなのに認知され始めたことは見えない被害の多さを物語っている。このような形の虐待があることは世間はもっと認知しなければならないと感じた。


投稿者: とも | 2012年01月23日 01:52

「悪意なき育児放棄」は、親としては決して子のことを愛していないわけではないことがこの問題を難しくしている原因だと思います。「優しさ」をもって接しているつもりが、その優しさは本当の意味での(少なくとも育児という点においては)優しさにはなっておらず、ただの親の自己満足で終わっているのでしょう。まずそういった親に自分の子育ての現状を認識させることが問題解決の道だと思います。そのためにも社会全体でこの問題をまず知ることが大事だと感じました。


投稿者: mokku | 2012年01月23日 10:06

子供が我が儘を言ったから。子供がいらないと言ったから。というので食事を与えないというのはそれを理由にして親が怠けているようにしか思えない。親ならばそこで厳しく躾けるものだと思う。私の家ではそもそもおやつというものがなかったし、きっちり3食食べなければ怒られるという環境だったので若干この記事のような親がいるのが信じられない。子育てするのには親にいろいろ制約がつく。それを了承したうえで子供を授かっているのではないか?と思う。子供は遊びの中で様々なことを覚えていくのだから休日に自分が寝たいからといって子どもを放置するのは私はとても憤りを感じる。


投稿者: K.I. | 2012年01月23日 10:30

「悪意なき育児放棄」この言葉を聞いたとき、自分の母の話が思い浮かんだ。私の母は30年ほど保育士をしている。最近、仕事が休みの日でも子供を連れてくる親が多くなっていると話していた。仕事で疲れているしお金払っているから、確かにこの理由は仕方ない面もあるとは思うが、それにしても多いと言う。親が休みの日は子供にとってゆっくり親と過ごせる大切な時間である。それなのに子供は保育園に預けられてしまう。子供と親がしっかりコミュニケーションをとる時間は紛れもなく減っていると思う。

親が悪意なき育児放棄をする理由に私は「面倒くさい」という気持ちがあるようにも見える。 子供の気持ちを尊重して...というのは建前、本当は子供を相手にするのは面倒くさいから。悪意なき育児放棄について知った時、そんな気持ちがあるのではないかと思った。そして、それが日常化してしまい、何が正しいことなのか、麻痺してしまったのではないかと考えた。

保育園に預ければ子供を相手にしなくて済む。そう考えている親はいると思う。本当の「絆」は表面的なやり取りでは、得られない。子供と親が本当の「絆」を得られる社会、意識、制度、に変わっていかなければいけないと思った。


投稿者: rannma→ | 2012年01月23日 12:27

子供が乳幼児期のときは早寝早起きが子供の最善の利益になるというのは、かつての自分の生活リズムを振り返ってみてこれはとても大きな事実だと思います。小学生の頃の話なので乳幼児期とは言いがたいですが、9時ごろ寝て7時頃起きる生活をしていました。回りの友人に比べて平熱が高く健康体に近かったのは、この睡眠時間のおかげだと思っています。
今私は夜に飲食店でアルバイトをしているのですが、夜の10時過ぎに寝巻きの子供と共に来客する親子がたまにいます。遠くの外出先から遅くに帰ってきて、夕食も済ませて無いから来るならまだしも、寝巻きということは明らかに自宅から来たということが考えられます。そして寝巻きなのでもう寝る準備も済んでいるというでしょう、なので子供はあまり食べずにすぐ飽きて店内をふらふら歩き回ります。このような子供の生活のリズムを乱す行為は自身でリズムをコントロールできない子供に対する暴力のように感じます。
このように、若干形は異なると思いますがこの記事と同じような子供のことを優先的に考えない親がいるのは事実です。親として行動するなら、このような子供に縛られずに子供の利益にならない行動をするのは慎むべきだなと自分の体験とこの記事を見て思いました。


投稿者: うきた | 2012年01月23日 18:56

記事に書いてあるような親の行動は、子育てに対するある種の「覚悟」の不足によるものではないかと思います。
子育てには苦痛や葛藤を伴います。これが当たり前なことだという意識自体が少し希薄になりつつあるのではないでしょうか。それが近年の所謂「できちゃった結婚」などにもつながっているように感じます。
少しでも苦労が増えたら楽な方法をとる、それができる社会になっています。
子供への愛情の形は人ぞれぞれであることはもちろんでありますが、それを一歩踏み外すと形のない虐待を行ってしまうということ、そして子供を育てる上での覚悟の必要性を今一度私たちは認識すべきであると考えます。


投稿者: Y.K | 2012年01月23日 22:23

親というものは子供の健やかな成長を守る存在でなければならず、子供が求めたままの食事を与えたがために子供は成長するのに十分な栄養を得ることができない、という状況を作り出してしまうことは親失格と称されて当然である。
こういった食事や遊びでの親子の関わり合いを経験した子供が将来家庭を持った時、自分が受けたものと同じような扱いを子供にしてしまう(これも悪意なく)可能性がないとは考え難く、連鎖を断ち切る方法も考えなくてはならない。悪意なき育児放棄の改善について、親が正しいコミュニケーションを学ぶ機会を得ることが一つの解決策になると思われる。
例として、私が昔アルバイトでお世話になった方で、現在1歳児の母をしている方がおり、その方は息子さんの成長の心配事や体調の変化、食事のメニューなど様々な件についてSNSを通じてたくさんのお母さん方からアドバイスをいただいて子育てをしている。このように、コミュニティーが希薄になりつつある現代社会の中でも子育てについて知り得る機会はたくさんあり、もしその親がそういった機会に気付けないのであれば「こういう方法があるよ」と周りの人が教えてあげればよいと思われる。
悪意なき育児放棄では、親は子供に対してまったくの無関心であるわけではないので、ほんの少しのアドバイスによって子供との関わり合いを適切なものにできる可能性があるのではないかと私は思う。


投稿者: 茶封筒 | 2012年01月23日 22:34

悪意なき育児放棄と言っていいだろうか、という問いかけがありました。
もし、親と子供の間に絆があるならば、親は多少しかってでもお菓子を食べさせないと思います。そうしないで、体にあまり良くないお菓子や菓子パンなどばかり食べさせるという行為するということは、子供の体のことを考えていない証拠で、悪意なき育児放棄と言ってもいいと私は思いました。親は、子を愛していても、子のことを考えて時には子が嫌がっていることもさせ、束縛しなければならないと思います。


投稿者: jfk | 2012年01月23日 22:48

自分が子どもの時は、朝食で栄養のことを考えていないような内容の朝食や、食事の前に間食をすること、ましてや家族全員で夕食をとらないということはなかった。このブログにあるようなことは親としては子どものわがままを聞いていると思っているかもしれないが、それがまさか虐待につながるとは思ってもいないだろう。単に虐待と言っても様々な種類があることを知り、無意識のうちに虐待につながるようなことをしていたということを減らしていかなければならない。


投稿者: Yと | 2012年01月24日 01:45

 岩村さんの指摘する「悪意なきネグレクト」が最近になってはじめて顕在化した一種の流行のような問題ではなくて、昔からごく普遍的に存在していた問題であるにもかかわらず、表面化することなく、子どもの虐待に繋がる要因として日常の中に当たり前のように潜んでいた事実を知らなかった自分に情けなさを感じるとともに、「悪意なきネグレクト」という悪習がついに好転することなきまま問題提起されるに至った現実を鑑み、子どもを持つ大人たちの教育意識の改革がいかに難しい課題であるかを認識した。
 子どもに好き勝手自由を与え、子どもの行動を正当化し続けることに自らの教育責任を委託する親たちの「放任主義」が、若年層のモラルの低下の根底にあるとしてメディアが取り上げる様子を過去に見たことがある。一見すると親が子どもを軽視しているという点で「悪意なきネグレクト」と類似しているように思えるが、「悪意なきネグレクト」が放任主義と根本的に異なるのは、意思や目的のない淡白なコミュニケーションのために親と子の間の愛情、信頼関係が希薄化していることであろう。子どもが親との充実した時間、また律されることの大切さを知らずに成長することは子どもの幸せ、人生の質を著しく下げると私は思うし、そのような子どもをひとりでも少なくするためにも、「悪意なきネグレクト」に対する危機感をできるだけ多くの人に抱いてもらえるよう積極的にアピールしていくことが大きな一歩になると私は考える。


投稿者: ファイナルたかし | 2012年01月24日 02:27

 悪意なき育児放棄、ネグレクトというのは本当に子どものためを思っている親なら絶対に起こらないことだと思います。
 子どもに食べたい時に食べたがっている物を与える、では一見子どもは満足し子どもの意見を尊重しているが、親は楽をしているだけであり、子どもの栄養面や健康を考えると全く子どものためになっていない。自分が子どもだったときは食べたいときに食べたいものを食べるなど考えられず、家族そろっての食事が基本だったのでそんな親がいることさえ驚きです。
 この問題は「悪意がない」というのが問題だと思います。親は子どもに愛情をそそいでいるつもりでもそれは親として無責任というものであり、親としての自覚があれば育児放棄などは起こり得ないものだと思います。子どもとのふれあい方を今一度考える必要があると感じました。


投稿者: mmc21 | 2012年01月24日 02:36

冒頭の例による子どもの欠食や食事の粗末化の非が親にあるということを理解し、ここで初めてブログのタイトルの「悪意なき育児放棄」の意味を理解した。実際、そのような親達は彼らの育児を異常とは思っていないし、育児放棄とは微塵も思っていないと感じた。しかし、子どもの欲することを全て実現させることも育児とは言えず、何が子どもにとって良いのか悪いのかを考え、子どもに教えることが親が持つ育児の責任でないのか。


投稿者: ご | 2012年01月24日 09:10

私もよく、学校から帰ってくるとすぐに(母いわく、非常食用に蓄えてある)おやつを食べていました。そのため、親が帰ってきてから作ってくれる夕食を少ししか食べられないという状況が何度かありました。そのたびにお母さんからは怒られていました。その頃は、「空腹で過ごす時間より、おなかが満たされているときのほうが幸せな時間が過ごせるから」という理由で、自分は間違っていないと思っていましたが、この文章を読んで親が正しかったことに気が付きました。今、一人暮らしなので一人で夕食を食べることがほとんどなのですが、やはり寂しいです。家族みんなで食べることの大切さが身にしみてわかりました。あのころは、「早く食べてテレビみよう。」などを考えながら食べていましたが、あの時間が唯一の家族の会話の場であったし、みんなの顔が見られる場であったと思います。私が今思う理想の食卓は、毎日習慣づいた場であって、家族みんなが楽しみわくわくで臨める場であって、その中で発生する会話、笑いの共有などによって家族の絆が深まるような場です。親も子どもも早くにこのことに気付くべきだと思いました。


投稿者: から | 2012年01月24日 13:19

私は兄弟が多く、両親もさぞかし苦労しただろうなと思います。それでも1番下の私が20歳になった今年まで大切に育ててくれて、さらに実家から出て1人暮らしを始めるといかに母親の存在が大きかったのか思い知らされました。また、そう感じられた自分がいかに幸せか、この記事を読んで感じました。幼少期のころから親に虐待をされてきた子供たちは果たして20歳になったときに私のように親に感謝することがあるのでしょうか。もっと感じられた幸せもあったのではないかと思うと非常に悔しい思いでいっぱいです。そんな子供たちに何かできることはないか少しずつ考えてみようと思います。


投稿者: きゃりー | 2012年01月24日 14:34

冒頭の例による子どもの欠食や食事の粗末化の非が親にあるということを理解し、ここで初めてブログのタイトルの「悪意なき育児放棄」の意味を理解した。実際、そのような親達は彼らの育児を異常とは思っていないし、育児放棄とは微塵も思っていないと感じた。しかし、子どもの欲することを全て実現させることも育児とは言えず、何が子どもにとって良いのか悪いのかを考え、子どもに教えることが親が持つ育児の責任でないのか。


投稿者: ごまうなぎ | 2012年01月24日 14:44

このネグレクトにおいて、親自身が虐待の自覚を持っていないということが如何に怖いことかと感じました。私は、子育ては「大変だけど楽しいもの」と思っているので、この親達を見ていると、なんとなく損をしている気がしました。いろいろ子育てには重要なことがあると思いますが、特に「しつけ」は重要だとあらためて感じました。


投稿者: となりのペドロ | 2012年01月24日 15:19

 悪意なき育児放棄を引き起こしているのは間違いなく家族間の絆の希薄化だといえる。何でも子どもが思ったとおりにしてあげるのは、親が子どもにとって一番何が必要であるかを親身になって考えてあげることを放棄しているようにしか感じられない。おそらく、子どもに対する興味、関心が薄いのだろう。その親子には都合が良くて、薄い、絆の偽物しかないと感じる。子どもに本当に必要なものを考え導いてあげることが親から子どもに対する絆であると思う。


投稿者: からから | 2012年01月24日 18:11

「悪意なき育児放棄」の例として挙げられていることが普遍的な事象としておきていることに驚いた。正しい判断能力や管理能力を持っていない幼い子供に対して意思の尊重のためといって好きにさせることは間違っている。親が正しく教育すべきである。
しかし、現実は多忙な中で子育てに対する労力を回避してしまいそれが虐待や不登校などの温床となってしまっている。親の子に対する愛情の向け方が薄くなっていると言えるのだろうか。

私の家族ではほぼ同じ時間に全員で食事を行っていたと思う。現代ではそれがいかに大変なことであるということを感じた。親には感謝すべきだと思う。親子関係の崩壊が進む現代の家族の中でこのような気持ちを子供は持つことができるのだろうか。もっと現代の親や子供に家族という場の重要性を説くことはできないのだろうかと思った。


投稿者: のんしゅがー | 2012年01月24日 19:59

「悪意なき」であろうと育児放棄であることには違いがないはず。知らなかった、で済ませることができるくらいの覚悟で子育てをする人が増えた結果がこの悪意なき育児放棄であると思う。そうならない為に親に対する教育が必要である。しかし、啓発活動があることは知っているが、実際に見る人は少なくはないがそう多くはない。まずは親への啓発活動の情報だけでも近所から教え合うことが必要なのではないか。


投稿者: ナオワ | 2012年01月24日 20:24

子供が我が儘を言ったから。子供がいらないと言ったから。というので食事を与えないというのはそれを理由にして親が怠けているようにしか思えない。親ならばそこで厳しく躾けるものだと思う。私の家ではそもそもおやつというものがなかったし、きっちり3食食べなければ怒られるという環境だったので若干この記事のような親がいるのが信じられない。子育てするのには親にいろいろ制約がつく。それを了承したうえで子供を授かっているのではないか?と思う。子供は遊びの中で様々なことを覚えていくのだから休日に自分が寝たいからといって子どもを放置するのは私はとても憤りを感じる。


投稿者: karetoki | 2012年01月24日 20:49

この記事を読んで、今の親の実態を知りました。子供が幼いうちは、親がある程度の制限をかけて、育てていくものだと、自分は思っていました。子供に制限をかけすぎるのも、良くないのでしょうが。。。子供に常に目をかけるのは確かに親にとってかなりの負担になるとは思いますが、それが、親の役目であり、真の子供に対する愛情だと思います。


投稿者: ダルビッシュさえこ | 2012年01月25日 01:16

「悪意なきネグレクト」、まさしくそう呼ぶのに相応しいと思いました。このような記事を見ていると、近年子どもを育てるということに対しての覚悟や責任感が無いまま親になる人が多いと感じます。子どものためにたとえ嫌がったとしてもバランスのよい食事を与えることは当たり前だと思います。私の両親は仕事でどんなに疲れていても必ず子どもより早く起きますし、幼い頃よく外で一緒に遊んだり、今でも家族みんなで出かけたりして十分に親子間のコミュニケーションを取っています。本当に親の鑑だと思います。私はそんな親になりたいです。


投稿者: せあ | 2012年01月25日 01:35

 今回の記事で取り上げられているような「悪意なき育児放棄」というのは今まで自分が思っていた育児放棄とは異なり、このような親の行為を育児放棄と考えたことはなかった。この記事のような子供の欲するがままに食べ物を与えるという行為は、単なる「甘やかし」ではなく、親の「堕落」であると思う。子供をなだめるためのひとつの手段として子供が欲しがるものを与えるのではなく、親は子供と向き合って対話していくべきだと思う。また、子供がお菓子などでお腹を満たすことによって栄養不足などが引き起こり、成長に悪影響を及ぼすということを親が認識することも必要であると思う。
 また、この問題は親に悪意がないことが一番の問題であり、親も子供の言うことを聞いているため、自分が育児放棄をしているということに気付かない。なので、このような問題をなくすためにも、社会全体がこのような親の行為をネグレクトだと認識し、問題視していくことが大切だと思う。


投稿者: ポポ | 2012年01月25日 02:02

自分の知人に、17歳で母親をやっている女性がいます。話を聞くと、生活が子供中心なので、とても大変だ、と言っていました。ですが、大好きな子供のためだから、頑張る。とも言っていました。こどもは、一人では生きていけません。自分は子供の時、両親からたくさんの愛情を注がれて育ちました。子供の「望み」を考えるのは確かに大切ですが、一番大切なのは子供の「幸せ」なんだと思います。


投稿者: ぽにょ | 2012年01月25日 02:17

 子供におやつを食事に出す親がいることは信じがたいものである。その親は子供の意思を尊重したというかもしれないが、このようなことを言い出す親がいるのも現代の社会に問題があるように思える。近所付き合いにしても互いに無干渉という状況では間違っている親に対して誰も何も言えないのである。この閉塞的な状況を打破することが親子間の葛藤の回避を減らすことができるかもしれない。


投稿者: えるもあ | 2012年01月25日 03:10

私は友人など周囲の人たちから“おせっかい”と言われることがしばしばあります。しかし個人的には“やっかいなことに顔を突っ込むのはやめておこう”と面倒くさがりな一面も確かにあると感じています。そのため、自分が親になった時のことを考えると今回のような事例は人ごとには感じませんでした。特に日頃の生活に疲れてしまっている時など調子の悪い時に子育てに対する強い思い、覚悟が揺らぎやすくなってしまうのではないかと危機感を持ちました。


投稿者: くるま | 2012年01月25日 03:31

果然、放棄された乳児は誰の責任なのか。現代の社会は家族より個人の自我実現を重視しつつあることや子供の教育費への負担、仕事と育児等を含めた家事の併行の難しさなどといた理由で育児の放棄が依然として生じている。よって、本文の岩村さんの新聞の論説のように、親は子供の食事について無関心であり育児に放棄された子供はちゃんとした食事が出来ず成長期であるにもかかわらず栄養不均衡の現象が起こり、やがて成長症候群になるにいたる。また家庭から保護されず遊びまわり非行に走りやすくなる恐れがある。このような家庭からの子供の育児の放棄は結局親子の絆を希薄にさせるだろう。
これを改善するためには子供の保育施設の増設や児童保育施設が乳幼児にとどまらず小学生まで拡大、またもっとも大事なのは個人ではなく家族という大切な存在を忘れないよう心を掛けることではないかと思う。


投稿者: L.N | 2012年01月25日 07:00

幸いなことに自分の育った家庭では、毎日決まった時間に家族全員が食卓に揃い一斉にいただきますをしてから食事を取る、そういう習慣だったのでこの記事に出てくるような家庭が存在するとはにわかには信じられませんが、子どもが腹を空かせてグズるとそれを解決する為にお菓子やパンを与えてしまう。
親が直接的な悪意をもって行うわけではないことがネグレクトに繋がってしまうというのは悲しい事だし子どもにとってはかわいそうなことだと思います。

親子間の絆を実感し、甘やかすのではなく真に子どもを思いやる育児をすることが親の責務ではないかなと思いました。


投稿者: れお | 2012年01月25日 07:19

自分が小さい頃は、朝ご飯、晩ご飯は家族みんなで食べていたし、時間も決まっていたので、このブログを読んで朝ご飯にプリンや、食べたくないといったものは食べさせない。じぶんたちがお腹がすいたらご飯を作るということが信じられなかった。虐待の一種にこういう育児放棄が存在することに驚いた。子供の発育をしっかりと促すためには自分たちの都合に子供を合わせるのではなく、一家団欒というのが必要なんだと思う。


投稿者: えんざ | 2012年01月25日 09:09

 こちらのブログに取り上げられている岩村さんの記事にあるような、いわゆる悪意なき育児放棄は、親自身はもちろん子どもたち、また近くにほかの大人がいたとしても誰もそれが「子どもたちにとって」良いことではない、「親の都合」なのだと気付かないのではないだろうかと思った。
 だからこそ現代社会においてこのような薄っぺらな家族の「やさしさ」が当然のもののようになり、目に見えにくい虐待やDVが発生してしまうのではないだろうか。


投稿者: みょるち | 2012年01月25日 09:22

このテーマの一番恐ろしいところは「悪意なき」というところだと思う。
私はこの記事を読んでこの育児の形態は異常であると感じたが、親はこれを異常であると気付いておらず、その親に育てられた子供ももちろんそれがスタンダードだと感じてしまう。そうして育った子供が将来また同じことをする、という悪循環が続いてしまうだろう。
親は子供を持つ、ということの重大さをよく考えて育児に向き合っていくべきだと感じた。


投稿者: GZ-5 | 2012年01月25日 09:37

私は食べ物を与えない育児放棄というのは親となった当人の食育が足りないからだと思います。私は栄養学が大好きで普段から栄養に関しては他人よりわりと貪欲でした。体にはなんの栄養が無いといけない、最近これを摂取していないな、などをいつも意識しています。食に関心がないから食事として栄養としてはゴミのような菓子パンを平気で与えるのだと思います。そして、ゴミのような食事で育った子どもも食に関してあまり興味をもたず、自分に子どもが出来た時にも、ゴミのような食べ物を与える親になるのだと思います。イギリスは最近になって給食を取り入れる活動を料理人であるジェイミー・オリヴァーが始めました。イギリスのほとんどの学校では、子ども達が昼食を持参するのが一般的だったようですが、ほぼ全てが俗にいうジャンクフードだったわけです。ジェイミーが夜だけでもいいから子どもにまともな食事を与えてくれという事をとある家庭に言った時、母親は、毎日パスタまたは米を調理しろっていうのか、と憤慨していました。やはり、親の意識が変わらないと食生活は変わらないし、子どもの味覚も食生活もずっと貧相なままなのかと思いました。親のもとで従順であるしかない子どもが親の意向で健康が損なわれるのはとても残念です。


投稿者: TM | 2012年01月25日 09:54

朝食におやつを与えたり、子供がご飯を食べたがらなかったら与えない、ということは自分にはなかったから、これを読んで驚いた。親というのは子供の栄養バランスや生活バランスも考えて育児、教育していくものだし、それらのことは将来その子の人格等にも関わってくると思うから、親の義務ともいえると思う。それを怠っては絶対にいけない。時には厳しくきちんと教育してくれた自分の親に感謝したい。


投稿者: ちちち | 2012年01月25日 09:55

今回のブログを読んで、自分が親となったとき、しっかりとした育児ができるかどうか不安になった。今回紹介された親たちに"悪意" がなかったからこそ、この問題は特別なことではなく「普通」の人が行ってしまうかもしれない育児放棄だ。先生はアンパンマンのVTRを子どもに見せて寝てしまう親や、映画を別々に観る親子を、子どもの発育にとって望ましくない例として挙げていたが、このようなことなら自分もやってしまうかもしれない。しかもそれを「良くないこと」とは認識せずに。それはとても危険なことに思えた。育児においては自分が持つ良い、悪いの基準や子どもの意思の他に「何が子どもにとって最善なのか」という視点も不可欠なものなのだと感じた。


投稿者: しま | 2012年01月25日 10:10

このような家族が増えていることはとても残念であると思う。その家族の親がそのように育てられてきた結果だろうかと思った。他の家族に自分の幸せの定義を押し付けるのはどうかと思うが、私はこのような家族生活に幸せはないと思う。現代の家族においては家族間の軽薄化とよく耳にするが、これは本当に残念なことであるし、変えなければならないことだと思う。理由は、人は一人では生きていけないし、家族を作っていろんなことを学び育っていくことが大切であるこらだ。そのような家族で育っていった子どもが親になった時に、次の世代にも受け継いでしまう危険性があるからである。もっとも当事者がこの危険性を感じることができなければならないとも思った。


投稿者: usp | 2012年01月25日 11:19

今回のブログを読んで、自分が親となったとき、しっかりとした育児ができるかどうか不安になった。今回紹介された親たちに"悪意" がなかったからこそ、この問題は特別なことではなく「普通」の人が行ってしまうかもしれない育児放棄だ。先生はアンパンマンのVTRを子どもに見せて寝てしまう親や、映画を別々に観る親子を、子どもの発育にとって望ましくない例として挙げていたが、このようなことなら自分もやってしまうかもしれない。しかもそれを「良くないこと」とは認識せずに。それはとても危険なことに思えた。育児においては自分が持つ良い、悪いの基準や子どもの意思の他に「何が子どもにとって最善なのか」という視点も不可欠なものなのだと感じた。


投稿者: しま | 2012年01月25日 12:40

"悪意なき"と言っても育児放棄が許されるわけではないと思います。親にとって、子どもに適切な育児をすることは義務であると思います。親がもしも正しいと思ってやったことであったとしても、一般的に見て適切ではないことも多々あります。記事に載っているように、三食きちんと与えないことや、朝食に菓子パンを与えることもそれらの例であると思います。こうした問題を改善するために、メディアなどを通して「正しい育児の在り方」を伝えていくのはどうでしょうか。


投稿者: kaaaaaaaazuk!! | 2012年01月25日 12:51

ブログを読んで、育児放棄の中にも、“悪意なき育児放棄”というものがあることを知った。
このようなケースは、子どもも表面上は満たされているため、問題が露見しづらいのだろうと思う。一般的なイメージのネグレクトや育児放棄というものは、親は何もせず、子どもが食事などを求めて泣き喚く、といったものだと思う。しかし
悪意なき育児放棄は、目立つ問題が見られない。菓子パンといえど子どもの食欲は満たされ、親がかまわないかわりにアンパンマンにくぎづけにされているから、かまってほしいと泣き喚くこともない。
露見しづらい文、こちらの方が悪質な気がするのは私だけであろうか。
とりあえずは良いとしても、必ず近い将来、その子どもは成人病を発症したり、ビタミン不足になったり、運動不足になったりと問題がおこるだろう。
仲の良い親子、といえば聞こえはいいが、最低限のしつけをしない親は、いくら仲が良いといえど、良くない親であると私は思う。


投稿者: こむぎこ | 2012年01月25日 13:09

ブログを拝見して「不適切な養育」のとりまく現状を初めて知りました。
ところで、子どもの権利条約というものが1989年に国連で採択され、日本では1994年に批准し、各地域(大阪が「子ども条例」)で何らかの動きはしているみたいですが、先のような現状が増加していることに疑問を感じます。実際はブログにも書かれていたように ことばの表面的なやりとりだけで食事や遊びを片付けるように、葛藤を回避する
日常が親子の現状に浸透していると思いました。
そしてこのような教育を受けた子どもは自分の子供にも同じ教育を施す(なぜならその子がそのような教育が当たり前に思うから)といった負の連鎖が今の日本の教育の悩みを膨大化しているのだと私は考えます。


投稿者: frbk | 2012年01月25日 13:24

親は育児放棄しているつもりはなくても、実際に子どもの身体に異常が起きたり、子どもに不愉快な思いをさせていたらそれは育児放棄になってしまうと思います。たしかに、子どもの親というのは母親・父親としてだけではなく、夫・妻でもあり、職業人でもあるわけなので、自分のことで忙しいということも理解できます。しかし、だからといって子どもが後回しにされてしまってはいけないと思います。そうならないためにも、母親だけに家事や育児を任せたりするのではなく、父親と母親がしっかり協力しあい育児を共有するべきだと思います。


投稿者: kiki | 2012年01月25日 13:40

まずこれを読んで思ったことは、自分は恵まれた家庭に育てられたということだ。このような親が実際存在するのかと思ったほどである。しかし、題名に「悪意なき」とあるように彼らも意識的に育児放棄をしているつもりはないのだと思う。だがその無意識が一番問題なのである。そしてそのような親に育てられた子供は自分が親になったときもそのような育児をしてしまうだろう。そのような悪いサイクルに陥らないためにも、自分の育児方法を客観的に見ることが必要だと私は考える。


投稿者: gaki-kame | 2012年01月25日 14:00

親は親になっていくものであって、子どもが産まれたとたんに"親"になれるというわけではない。近年では親らしからぬ親が多く見られる。それは親の手本、一昔前では一緒に暮らしていた祖母や祖父、が近くにいないということも大きな要因の一つであることと思う。子どもを教育する親の教育をする。という制度が必要なのではないかと思う。家庭によって事情が違う、とはいっても許されない事情もあるはず。


投稿者: takari | 2012年01月25日 14:05

宗像先生のこのブログを、よんで悪意なき放置という言葉、その内容をはじめてしりました!!
やはり、親は子供のため、自分を犠牲にしてでも、子供を第一優先にしなければならないと思います。


投稿者: たつや | 2012年01月25日 14:18

親は親になっていくものであって、子どもが産まれたとたんに"親"になれるというわけではない。近年では親らしからぬ親が多く見られる。それは親の手本、一昔前では一緒に暮らしていた祖母や祖父、が近くにいないということも大きな要因の一つであることと思う。子どもを教育する親の教育をする。という制度が必要なのではないかと思う。家庭によって事情が違う、とはいっても許されない事情もあるはず。


投稿者: takari | 2012年01月25日 14:22

芹沢俊介の「現代こども暴力論」によればこどものイノセンスの表出を肯定することができず、自分側のイノセンスの表出に身を任せてしまったとき虐待がおきると言っている。これをもう少し拡大解釈をすると、子どものイノセンスの表出におとなが対応しきれなくなり、その葛藤を回避しようと防衛機能が消極的に働いてしまったとき、このような「悪意なき虐待」が起こるのではないだろうか。親になるものは親というものを自分が子どもであった経験からしかその人物像を想像できない。親になってからしか分からないこともある。しかし、その「親」というもの自体に定義がなければ「親」の善悪の判断基準もない。「親」なるための大学もなければ、子どもについて学べる機会も少ない。この「悪意なき虐待」を少しでも解消するには、やはり教育者を目指すもの、教育者、為政者がその社会認知を高め、支援を進めていくことが大事である。


投稿者: ジョニー | 2012年01月25日 14:49

 最近、子供が食べたがったら要求するものだけを食べさせる親が増えてきたとのことだが、非常に信じられないことである。まだ幼いのだから栄養面に関して考慮できないのは当たり前なのに、栄養面を無視してただ食べたがったものを与えるという神経が理解できない。たとえ嫌いなものを食べさせて嫌がったとしても無理に食べさせるくらいの姿勢でいたほうが良いはずだ。遠慮は必要ない。実際、私は野菜全般が嫌いで食べるのを嫌がっていたが、親に無理やり食べさせられていた。その当時は親の行為に腹が立って仕方がなかったが、今となってはとても感謝している。これから先、順調にいけば自分も子供を持つようになるだろう。正直、子供に全力で尽くし、全力で向き合える自信はない。しかし、先生が述べている通り、子供に遠慮していたり、表面的なやりとりで、葛藤を回避した育児を行っていたのでは絶対に立派な人間には成長しないはずだ。私の親が私に対してしてくれたように、私も子供と向き合い、悩んで葛藤しながら一緒に成長していきたいと思う。


投稿者: tanokin | 2012年06月22日 14:37

子供の要望をただ満たすことは本当の愛情ではないと思います。ぐずをこねるとめんどくさいからと、子供を大人しく都合のいいようにしておくためだけなのではないでしょうか。
本当の愛情とは、たとえ子供がわがままをいったり、ぐずったりしても間違っていたり子供の利益にならないことはしないことだと私は思います。私は母子家庭で母は3人の子供を女手一つで育てているため忙しいのにもかかわらず家族との交流は大切にしてくれています。こちらがうっとおしくなるほど話しかけ、気にかけてくれ、間違ったことは叱り、私の最大の利益になるように自分にできることは何でもしようとしてくれます。このブログの記事をよんでそういう親がいるということを知って、気にかけてくれる親がいる自分は幸せなんだと思うことができました。


投稿者: しゃもじ | 2012年06月23日 23:45

このブログを読んでまず思ったことは、「身に覚えがありすぎる」ということでした。
朝食は菓子パンで終わり、昼にお菓子を食べすぎて夜ご飯が食べられない。そんなことはしょっちゅうありました。自分の中ではそれは普通のことでした。母もご飯はきちんと作ってくれたし、食べなかったら相当叱られました。でも、私はどうしても食べられなくて、胃が受け付けなくて食べませんでした。自分の意思です。
これは、“悪意無き育児放棄”なのでしょうか。第三者の目線から見ると納得できるのですが、経験者という目線で見ると、私は放棄されていたとは思いません。
この線引きは難しいものだと思います。ぜひ、皆さんの意見を聞きたいものです。


投稿者: tama | 2012年06月26日 14:58

私は子供が「したい、欲しい」ということを叶えてあげたからと言って子育てをしていると思っている親がいることに驚きました。食事を与えているし、家族サービスしているということで、この問題が育児放棄になるのかと言われたら難しい問題だと思いますが、あまり良い現状ではないと思います。
ですから、このような親を少しでも減らすためにも「悪意なき育児放棄」を認識させ、本当の親になるということはどのようなことであるのか、そして家族の在り方を見直す必要があると思いました。


投稿者: 叶梨亜 | 2012年06月27日 01:24

「育児放棄」という言葉を聞いて思い浮かべる光景は、子供を命が危険になるまで衰弱させたりすることでした。
決まった時間に起きて三食バランスよく与えられ決まった時間に寝るということが今の子供たちは当たり前ではなくなっていますが、生活習慣は子供の成長や人格形成に影響を及ぼし、いずれは家庭内暴力につながってしまうと思います。
「子供の意思を尊重する」という名目で不適切な養育をしているということを親が気づくのは本人が問題意識がないのでなかなか難しいと思います。


投稿者: じぇにー | 2012年06月27日 18:52

私は子供が「したい、欲しい」ということを叶えてあげたからと言って子育てをしていると思っている親がいることに驚きました。食事を与えているし、家族サービスしているということで、この問題が育児放棄になるのかと言われたら難しい問題だと思いますが、あまり良い現状ではないと思います。
ですから、このような親を少しでも減らすためにも「悪意なき育児放棄」を認識させ、本当の親になるということはどのようなことであるのか、そして家族の在り方を見直す必要があると思いました。


投稿者: 叶梨亜 | 2012年06月27日 23:36

「束縛なしの絆はあり得ない」その通りだなと思いました。お互いに思いながらも、時には厳しく怒らなければいけないこともある。我慢しなければいけないこともある。そう思いました。悩むこと・つらいことがなければ人間は成長しない、わたしはこう思います。子どもがこうしたいと言ったからさせた、そんなの親が子どもから逃げているだけです。子どもは家族との関わりのなかで成長していくのです。自分の子どもと向き合って戦わなければならないのです。子育てとはそういうものだとわたしは考えています。将来自分の子どもが生まれてきてくれたら、心から真剣に戦い合いたいと思います。


投稿者: レモンティー | 2012年06月28日 01:16

私は子供のいうことを聞いているから育児ができているとは思えません。それならば親じゃなくてもほとんどの人が育児を行えてしまいます。
親というのは子供に生きるうえで大切なことを伝えるべき存在であり、もっと子供を守るという責任感を持つべきだと思います。ですが、このような親になろうとしても、簡単にはなれるものではありません。だから今よりも子供と向き合うことや、コミュニケーションを取り合うことで少しずつ「親になる」という自覚を持つことができるのではないかと思いました。


投稿者: 叶梨亜 | 2012年06月28日 13:19

 このような家族の関係がなんの不自然なことなく成立してしまっていたら、一体なぜ家族として生きていくのか全くわからなくなってしまうと考える。食事の例一つをとってもそうだが、食卓を皆で囲み、会話を弾ませる。そのちょっとした会話から、子供が悩んでいることであったり、最近の学校のことなどが垣間見えたりし、そういった中で家族の絆というものは出来ていくのではないかと考える。
 自分はこのような親の行動は育児の放棄であると言っても良い。子供の意思を尊重するというのは、記事のようなことではなく、子供を成長させるための道標を作る際に、いくつかの選択をさせてあげるということだと思う。 
 親はもっと子供に対して責任をもって育児をしていくべきである。


投稿者: 杉並区民 | 2012年07月03日 20:12

 このような家族の関係がなんの不自然なことなく成立してしまっていたら、一体なぜ家族として生きていくのか全くわからなくなってしまうと考える。食事の例一つをとってもそうだが、食卓を皆で囲み、会話を弾ませる。そのちょっとした会話から、子供が悩んでいることであったり、最近の学校のことなどが垣間見えたりし、そういった中で家族の絆というものは出来ていくのではないかと考える。
 自分はこのような親の行動は育児の放棄であると言っても良い。子供の意思を尊重するというのは、記事のようなことではなく、子供を成長させるための道標を作る際に、いくつかの選択をさせてあげるということだと思う。 
 親はもっと子供に対して責任をもって育児をしていくべきである。


投稿者: 杉並区民 | 2012年07月03日 20:15

 「悪意なき育児放棄」は,親に育児放棄をしているという自覚がなく,周囲から見てもわかりにくい,また,子ども自身も育児放棄をされているとは思っていないため解決が難しい問題であると思う.
 この記事に書かれているように,子どもの機嫌ばかり取って,幼い時から子どもと本当に向き合うことをしていないと,子どもが成長し,本当に重大な問題に直面したとき親子の関係は簡単に崩れてしまうと思う.
 そうならないためにも,親は子どもにとって,何が優しさなのか,本当に子どものためになることは何かを考えて育児をする必要があると思う.


投稿者: SW | 2012年07月03日 22:13

「悪意なき育児放棄」の記事を読み、大変共感できる点が多くありました。
子供に要求されるままスナック菓子や菓子パンを与えることは、虐待と十分に呼べると思います。子供には栄養バランスを考える能力がありません。親にはそんな子供の食事を管理し、健康的な食生活を送らせる義務があると思います。
私の親は食事に関して大変厳しく、幼少期から「好き嫌いをしない」「残さず食べる」と教えられてきました。幼少期の教訓のおかげで大病を患うことなく健康に生活しています。
現代社会に生きる親は自分のことにしか関心がないのではないでしょうか。多少反抗されたとしても、親は子供の将来を考えて育児をする必要があるとおもいます


投稿者: YKK | 2012年07月05日 01:32

私は授業のときにこの記事を読んで衝撃をうけました。最近の親は子供に甘いというか全く子供のことを思ってないのではないか?とさえ感じてしまいました
。親は子供の健康を管理する役を負うべきであるし、悪意なくとも子供のしたいようにさせるのは子供のためのようで実際は子供を泣きやませたいから、おとなしくさせたいから、という親のわがままであり、育児放棄と呼ばれても仕方ないと思います。本当に子供のことを思うなら多少の手間を惜しまずに時には嫌われえもいいという覚悟で接することが必要なのではないかと考えます。


投稿者: いきもの | 2012年07月05日 01:57

「悪意なき育児放棄」において親は無自覚に子供の将来を脅かしているということに大きな問題があります。親には責任を持って自分の子供を育てる義務があるはずです。子供の意思を尊重することも必要ですが、子供の願いを叶えてあげるだけが親の役目だとは思いません。しつけなのか甘やかしなのかという線引きは難しいですが、親も子と一緒に学んでいく姿勢が必要だと思います。


投稿者: tr | 2012年07月05日 17:16

親子関係に、必ずしも「きずな」があるとは限らないだろう。私は親になったことがないので、実際のところはわからないが、自分しか子供の世話をする人がいないからしなくてはならないという責任が、子育てをする理由として大きくなってしまっているという人もいるのではないだろうか。このような場合、子育ては作業となってしまい、葛藤などの感情的なことを避けるようになり、「ほだし」としての関係になってしまう。さらに、このことに気付かずにいる親も多いだろう。ほだしの関係にあっても、責任感を持って子育てをしていればよいが、その作業が面倒になってしまったときにネグレクトが起きたり、ストレスを抱えたときに一番身近にいる弱い存在の子供への暴力に走ったりすることが考えられる。親に愛情を強要することはできないので、これは難しい問題であるが、社会が子育てを支えることで余裕ができれば、こういったことが少なくなるのではないだろうか。


投稿者: nosu | 2012年07月07日 22:13

ネグレクトという言葉はテレビドラマなどでずっと前に聞いたことがありましたが、「悪意なき育児放棄」という状況があることに驚きました。
確かに、子どもの意志を尊重することはとても大切ではありますが、いくらなんでも限度がある。常識的に考えて、子どもの健康を守る義務が大人にはあると思うのです。子どもに対していけないものはいけないと言うのが親の役割だし、叱らなければ子どもはますます間違った道に進んでしまうと思います。
現代では、親と子どもで共有する時間が減ってきているようです。一緒にご飯を食べたり、出かけたりする時間をもっと増やすべきだし、それを意識せずに行えるのが本来の家族の在り方なのだと思います。


投稿者: SR | 2012年07月08日 12:01

虐待に関する記事を読むたびに、子供を育てることの難しさを思い知らされます。と同時に私をここまで育ててくれた両親に対する感謝の気持ちが込み上げてきます。私は最近、親の子に対する言葉づかいや、幼い子を連れての夜遅くの外出について、一言言いたくなることが多々あります。子供との会話で驚くほど乱暴な言葉を使っている親や、大勢の人がいる前で子供に罵声を浴びさせるように叱りつけている親を見ることがあります。また、閉店間際のスーパーやデパートで、まだ一人で歩くこともできないような幼い子供を連れている親を見ることもあります。そうした光景を目にする度に、子供たちは将来どのような大人になるのだろうと不安な気持ちになります。子供は、親の背中を見て育ちます。子供を産み育てると決めた以上、一つの命を預かっているという強い責任感を持ってほしいと切に願います。


投稿者: 八チ | 2012年07月08日 15:17

親が子どものいうことを何でも聞いてしまうのは、一見「なんでもしてくれるやさしい親」だと思ってしまうが、決してそうではないことがこの記事を読んでわかった。例えば食事について。私が育ってきた環境では、自分がお菓子を食べたいといっても、それが夕食の前だったりすればだめだと言われ、食べさせてもらえなかった。また、ご飯を食べていて野菜を食べなかったり、残したりしても怒られていた。食事というのは人間にとってとても大事な営みであって、その人が何を食べるかがその人の未来の健康を決めているといっても過言ではない。それほど重要な食事だからこそ、家庭での「食育」が必要になってくる。しかし、現代ではその「食育」が家庭で十分にできていない。家庭での「食育」が厳しい現状にあるいま、その「食育」を担うのに「学校」が重要な位置にあるのではないかと思った。


投稿者: ぽにょ | 2012年07月11日 00:12

この記事を読み、虐待、育児放棄にも様々なケースがあるのだと思いました。よくテレビのニュースやドラマのテーマに虐待、育児放棄が取り上げられていますが、悪意なき育児放棄というものはあまり取り上げられていないと思います。そのために、認知度が低くこの行為が育児放棄だとは考えない親が多いのではと思いました。子どもの要求を満たすことはいいことだと思いがちだが、それは、時によってはよくないことだと親は思わなければならないと思います。時には子を叱り、社会のルールを教えるのは親の義務です。悪意なき育児放棄という問題はなかなか外から発見するのは困難だと思います。親が親である自覚を持ち子を育てることがこの問題を解決する道だと思います。そのためにも社会全体で親とは何かを考えなくてはいけないと思います。


投稿者: KSY | 2012年07月11日 08:23

子供が食べたいものを食べたい時に与え、好きな映画や好きなことをさせる。しかし、親自身の時間も大切に確保している。そう表現すると子供の事を一番に考え、尚且つ自分の時間も大切にしている「できる親」の様に感じるが、実際は成長に必要な栄養や、人格形成など、人が生きていくのに必要な根底に対して一種の思考停止状態になっている。しかし、親自身はこれで満足してしまっているのだろう。私が「これが食べたい!」や「これをしたい!」というと「もうすぐ、ご飯だから今はたべちゃだめ!」や「この日にいこう!」と言ってくれた。この記事を読んで、母にどうしてそういう風に言えたのかと聞いたところ、姑(父の母)から教えられたと答えられた。
 私は、このような問題が起こるのは、核家族化が進んだことが原因の一つと考える。、結婚相手の両親と疎遠になり、育児の先輩でもある姑との交流が少なくなったことによるのではないだろうか。ママブロガーやモデルママの雑誌記事を読むのもいいが、先人の知恵を取り入れていく事の方が需要なのではないだろうか。


投稿者: オレンジ | 2012年07月11日 08:36

「悪意なき育児放棄」が一般化してきている現代の家庭環境は、今の社会が助長しているのではないかと思います。両親が共働きであったりして、子育てにまわすだけの余力や時間が減ってきているのは事実だと思います。しかし、その状況に甘えているのは親としての責任を放棄していること同じだと思います。「子どもが言わないから…」などと、あたかも子どもがすでに一人前になったかのように理由づけすることは、単に親の都合で育児を放棄することを、きれいごとを並べて正当化しようとしていることに過ぎません。
今の親は育児に対する覚悟と責任が足りていないと思います。今、自分がしようとしていることは本当に自分の子供のために良いことなのか、自分への甘えではないのか、ということを常に考えて自らの行動を選択しなければならないと思います。
また、社会全体も育児をする親への支援がまだまだ不十分だと思います。子どもを大人たちの都合で勝手に振り回されない社会の形成がこれからの課題になってくると思います。


投稿者: Chanta | 2012年07月12日 18:35

自分はこのブログを読むまでは育児放棄とは子供の世話をしない、
子供と最低限しか接しないと漠然に認識しており、このブログを読むことで
育児放棄にも様々な種類があることを知りました。はじめにこのブログ
のタイトルに「悪意なき」育児放棄とあり、悪意がない育児放棄があるのか、
親の勝手な理由で放置されている子供、そこに悪意がないことがあるのかと
疑問に思いました。しかし、このブログの例で、「息子が朝食はプリンと言っ
たから」「おやつを食べすぎた娘が夕飯は食べたがらなかったから」と子供の
言った通りにし、子供の欠食や食事の粗末化を引き起こす。確かに、まだ食に
関する知識も自己管理能力がばい子どもの言う通りにし、子供の食、健康の管理
を怠ること、そこに悪意はないが立派な育児放棄だと考えさせられた。確かに親
は仕事や人付き合い、家事など多忙であると思うが子供の管理を疎かにする、
これは、親と子の接する時間、コミュニケーションを少なくし両者の関係を
冷えきったものにしてしまいます。また、食の管理は子供の成長に著しく影響
を及ぼし、子供の将来に問題をきたす恐れがあります。例え、多忙であろうと
子供の管理は優先して行うものではないでしょうか。
 また、この悪意なき育児放棄の怖い所は親が認識せず行っているところです。
子供も親がしていることを育児放棄だとは思わないでしょう。そして、子供は
自分が親となったとき自分になされた育て方を自分の子供にも行い連鎖が続きます。
この連鎖は何代にも影響を及ぼしてしまう恐れがあり止める必要があると思います。
 止めるには親が子供にどのような影響を与えているかを見つめなおすことではない
でしょうか。ただ、漠然と子育てを行うのではなく親が子供に与える影響を一つ一つ
考えることで連鎖は止まると自分は考えます。


投稿者: さん | 2012年07月15日 19:41

 自分はこのブログを読むまでは育児放棄とは子供の世話をしない、子供と最低限しか接しないと漠然に認識しており、このブログを読むことで育児放棄にも様々な種類があることを知りました。はじめにこのブログのタイトルに「悪意なき」育児放棄とあり、悪意がない育児放棄があるのか、親の勝手な理由で放置されている子供、そこに悪意がないことがあるのかと疑問に思いました。しかし、このブログの例で、「息子が朝食はプリンと言ったから」「おやつを食べすぎた娘が夕飯は食べたがらなかったから」と子供の言った通りにし、子供の欠食や食事の粗末化を引き起こす。確かに、まだ食に関する知識も自己管理能力がばい子どもの言う通りにし、子供の食、健康の管理を怠ること、そこに悪意はないが立派な育児放棄だと考えさせられた。確かに親は仕事や人付き合い、家事など多忙であると思うが子供の管理を疎かにする、これは、親と子の接する時間、コミュニケーションを少なくし両者の関係を冷えきったものにしてしまいます。また、食の管理は子供の成長に著しく影響を及ぼし、子供の将来に問題をきたす恐れがあります。例え、多忙であろうと子供の管理は優先して行うものではないでしょうか。
 また、この悪意なき育児放棄の怖い所は親が認識せず行っているところです。子供も親がしていることを育児放棄だとは思わないでしょう。そして、子供は
自分が親となったとき自分になされた育て方を自分の子供にも行い連鎖が続きます。この連鎖は何代にも影響を及ぼしてしまう恐れがあり止める必要があると思います。止めるには親が子供にどのような影響を与えているかを見つめなおすことではないでしょうか。ただ、漠然と子育てを行うのではなく親が子供に与える影響を一つ一つ考えることで連鎖は止まると自分は考えます。


投稿者: さんかく印 | 2012年07月15日 19:43

 このブログを読んで、私はとてもびっくりした。子どもは子どもの都合、親は親の都合で子育てをしてよいものかと、疑問に思った。
 確かに、私も子どものころ、熱を出して何も食べたくないとき「栄養になるから」とご飯を食べさせられたのは嫌だったし、家族みんなで映画に行くのも、うれしかったが、同時に友達に見つかったら恥ずかしいと思っていた。大人になったら、自分の子どもには絶対自分と同じ思いはさせないぞ、とそう考えていた。
 しかし、今思い返してみると、熱を出しても何かしらご飯を食べないと免疫力がつかないと分かったし、家族みんなで映画を見に行ったのは良い思い出である。
 親は、親の都合で子育てをするのではなく、子供の将来を考えて子育てをすべきであると考える。


投稿者: Anne | 2012年07月16日 10:11

この記事を読んで本当にこのような親がいるのかと驚きました。私の場合、おやつを食べるときはご飯を食べられるように考えて食べなさいと親にいつも言われていました。
子どもの意思を尊重すると言うと聞こえは良いかもしれませんが、結局は子どもを放っておいているだけだと思います。親には子どもの教育をする義務があります。生きていくうえで大切なこと必要なことを教えなければならないと思います。
この悪意なき育児放棄をなくすためには、まずこのような事実があると世の中に拡めることが必要だと思いました。


投稿者: ふらんちぇる | 2012年07月17日 08:43

“悪意なき育児放棄”と岩村さんが呼んでいる状況は、している親にもされている子どもにもその意識が生まれにくく、次第に溝が深くなっていきます。子どもの意思を尊重しているように見えて、実はその場限りでの楽な方法や手のかからない方法でやり過ごしているだけで、自身の生活を何よりも優先し、子どもの生活の体系化がはかれていません。それなのに、食事を与えることなどを完全に放棄しているわけではないので、自分自身は子育てを全うしているつもりになってしまっている、ということも大きな問題であると感じます。


投稿者: MIKI | 2012年07月17日 12:31

朝食にプリンやおかしを与え、子供が病気の時には欲しがらない限りご飯を分け与えないという状況は、幼いころから食べ物の栄養バランスなどについて厳しくしつけられてきた僕からしたら信じられないものでした。これは「悪意なき」ではなく、親が手間をかけないで済む状況にただ甘えているだけです。子供の欲求に従うことは親の務めではありません。本当に子どものことを思うなら、多少子供が嫌がっても正しい道へ導くべきです。


投稿者: にんじん | 2012年07月17日 17:17

”悪意なき育児放棄”を読んで、私はこの問題の根底には現代の、養育者である親の自分と自分の子供との関係の捉え方の変質があると思いました。記事でそのことが一番解りやすく表れているのは、映画の話です。子供の精神的発達の観点から考えて、親子で同じものを見て感動を共有することはとても大事なことです。例えば、見終わったあとの「○○かわいそうだったね」というような簡単な一言でも、子供にとってはこの気持ちが”かわいそう”なんだ、という大切な経験になるからです。しかし、このことを全く意識しなかった結果、自分個人の願望に従って行動しその代わり(?)に子供にも願望通りにさせてしまうのです。この個人単位の考え方によって、親の子供に対する責任感はますます薄っぺらい物になってしまうのです。私はよく、公共の場で騒ぐ子供を見かけると、騒いでる子供にではなく注意しない親に大いに憤りを感じますが、それも子供は親の責任下にあると考えるからです。悪意がないにしろ、自分の子供に責任を持たないのは立派な育児放棄だと私は思います。


投稿者: kyary | 2012年07月18日 00:08

朝食にプリンやおかしを与え、子供が病気の時には欲しがらない限りご飯を分け与えないという状況は、幼いころから食べ物の栄養バランスなどについて厳しくしつけられてきた僕からしたら信じられないものでした。これは「悪意なき」ではなく、親が手間をかけないで済む状況にただ甘えているだけです。子供の欲求に従うことは親の務めではありません。本当に子どものことを思うなら、多少子供が嫌がっても正しい道へ導くべきです。


投稿者: だいこん太郎 | 2012年07月18日 10:54

「悪意なき育児放棄」と書かれてはいるけれど、自分はその対応について異常だと思いました。我が家では基本家族がそろってご飯を食べ、ご飯が遅くなっても時間が来るまで親にお菓子も禁止され我慢しました。今思えば親に非常に感謝だなと思います。
家庭は愛の学校という言葉があります。親が子供のために自分を犠牲にせずに、どうして将来愛を持った子供が育つでしょうか。今の家庭問題をもっと深刻にとらえていくべきだと思います。


投稿者: たーこ | 2012年07月20日 18:21

私は、多くの人が言うように「親」にばかり原因がある問題だとは考えません。
育児にただひとつの正解はありません。現実の親は悩みながら失敗しながら、手探りで子供を育てています。親が育児で行き詰まったとき、または無自覚に失敗をしたとき、必要なのは周囲の人間の言葉ではないでしょうか。これを「親の責任」といって突き放し、「親」を孤立させることこそが、根本的な問題であると私は考えます。
そしてその周囲の人間とは、私たち自身のことなのです。


投稿者: めらんこり | 2012年07月22日 10:59

この記事を読んで、このような親がいることに驚いた。私が小学生の頃にインフルエンザにかかり高熱が続いたことがあった。当然食欲などあるはずも無く、「食べたくない」と言ったが無理矢理食べさせられた。当時は辛いと思っていたが、今となっては感謝の気持ちでいっぱいである。子供が嫌がっても、本当に子供のためになると思うことならば親は毅然とした態度で行動すべきだと私は考える。子供が望むことを叶えるだけが親の役目ではないことを改めて思い知らされた。


投稿者: ふかまる | 2012年07月22日 18:28

私には2歳半になる甥っ子がいる。最近非常に口が達者になり、意思表示も明確になった。
もともと食欲が非常に旺盛で、旺盛すぎて親を困らせるような子だったのだが、しゃべり始めると余計に注文が増え、あれを食べたい、これを食べたい、その他にもあのビデオを見たい、このシーンを見たいと言うようになり、四六時中しゃべっている。
それが私の姉、つまり甥の母親を困らせている。私の姉自身が二人目を身ごもっていることも影響してか、ずっとしゃべっている甥に対して、最近うんざりとしてしまっている。
ただ、甥の祖父母は母方、父方ともに近くに住んでいるため、私の姉は祖父母に少し面倒を任せて、息抜きに出かけるということができている。
しかし、これがもし祖父母が近くに住んでいなかったら、どれだけ大変なのだろうと思う。育児疲れや、育児に対する悩みは母親誰もが抱える問題であると思う。この子がいなければ・・・。あらぬことを思い浮かべたことがある人も、一人や二人ではないはずだ。
特に祖父母が育児を手伝えない人にとっては、地域社会が崩壊したことで、子の面倒はほぼその親に任せきられているという状況になり、結果この悪意なき育児放棄を生み出しているのではないだろうか。
地域社会を復活させ、お互いに助け合い、相談し、悩みを共有することで、親もリフレッシュして、子供に向き合えるようになり、ネグレクトや他の虐待も防ぐことが出来るのではないだろうか。


投稿者: 旅人零 | 2012年07月23日 01:42

 無自覚に親が子どもを無視するというケースが珍しくないことに驚きました。家族までもが表面上の関係になってしまっては、どこで子どもの情操は育つのでしょう。幼少期に育児放棄された経験があっては、教育の場では埋め合わせられなく感じます。子どもの心を育てる大人までもが麻痺していては、ひと同士がほぼ無関係になってしまいます。すぐに変えられる現状ではないですが、まずは自分の家族関係に敏感なり、この問題を共有できるひとを増やしたいです。


投稿者: はりぼて | 2012年07月24日 09:53

このブログの記事を読んで、このような育児の現状が日常にあふれているのを知り、とても悲しくなった。「悪意なきネグレクト」をしてしまう親は、子供との表面的ではない、中身のあるコミュニケーションや子供と共に苦痛を乗り越えることを避けてしまっていると私は思う。これは子供に本当に必要な教育ではないし、何より、家族の絆の希薄化につながってしまう。親になったからには、子供の目線に立った教育をしてほしい。


投稿者: ジェニファー | 2012年07月24日 17:48

私の親は3食ほぼ決まった時間に食事を用意してくれました。私は朝が弱かったため、朝ごはんを食べられるようにいろいろな工夫もしてくれました。当時はまだ幼かったためとくに何も感じませんでしたが、記事から親の育児の現状を知って感謝の気持ちが溢れてきました。このことに限らず、子供の頃に親に躾けられたことは今になって感謝しなければいけないと感じます。
私はスーパーでアルバイトをしています。夜の10時近くになっても小さな子供を連れて買い物にくる親や、子供が騒いだり走り回っていても何も言わない、さらには親自身が周囲への迷惑を考えずに行動している姿を見かけます。このような光景を目にする度に驚いてしまうとともに、親の教育とは本当に大事なことだと実感します。
私はこの記事を読んで、おかしい思うことができました。しかし、記事にのっているような教育を受けてきた人は何も感じないかもしれません。そうなれば誤った教育が止まることはないため、教育について親が正しく認識できるよう手を打たなければならないと考えます。


投稿者: sdk | 2012年07月25日 01:42

 私も、最近の親の子どもの言うことを聞きすぎる子育ての仕方には、疑問をもっていました。私は親になったことはありませんが、子育てとは様々なことを悩み考えながら日々奮闘し、子どもと一緒にいろんなことを経験し共に成長していくことだと思っています。悩み考えることを避けて、ただ子どもが言うとおりに動くだけというのは、親の役目を果たしていないと思います。このような子育ての結果、例えば子どもが学校に行きたがらなくても、「休んだらいい」というだけでその理由を知ろうとしない、子どもの心に寄り添わない親が増えていると思います。子どもの表面だけでなく、しっかり心を見つめることが今の親には必要だと思います。


投稿者: みく | 2012年07月25日 02:06

今日では、子供の人権が尊重され、子供を子供としてではなく、子供を一人の人間として扱う傾向がある。しかし、私はやはり子供は子供であると思う。
子供は大人に比べ、知識は乏しく、経験も足りず、そんな状態でまともな判断ができるはずがない。そこをカバーしてあげるのが親の役割である。意思の尊重は大切だとは思うが、だめなものはだめと言え、正しい方へと導いてあげることこそが大切なことだと思う。
葛藤を回避するだけではなく、ときにはぶつかりあい子供にとって本当に必要なことはなにかを考え行動する、それが『親』に求められるものだと思った。


投稿者: わいえす | 2012年07月25日 12:16

今日では、子供の人権が尊重され、子供を子供としてではなく、子供を一人の人間として扱う傾向がある。しかし、私はやはり子供は子供であると思う。
子供は大人に比べ、知識は乏しく、経験も足りず、そんな状態でまともな判断ができるはずがない。そこをカバーしてあげるのが親の役割である。意思の尊重は大切だとは思うが、だめなものはだめと言え、正しい方へと導いてあげることこそが大切なことだと思う。
葛藤を回避するだけではなく、ときにはぶつかりあい子供にとって本当に必要なことはなにかを考え行動する、それが『親』に求められるものだと思った。


投稿者: わいえす | 2012年07月25日 12:25

 先日、ある大学で宗澤先生の講義を受けた者です。「虐待発生の土壌」についてだったのですが、この講義では、悪意なきネグレクトについて解説されていました。そもそも、悪意のない虐待が存在することを私は知りませんでした。虐待というのは暴力を振るう、食事を与えないなどどこかに悪意が生じると思っていました。しかしそれだけではなく、親からすれば子どもを大切にして行動しているため、虐待とは思わないものもあります。ですが、一個人として子どもの意見を誤った形で尊重してしまい、先生のブログにあるように子どもが食べたいものを食べたい時に食べさせたり、食べたくないと子どもが言えば、食べさせないというのは、単に子どものわがままというにはあまりにも子どもの意見を尊重し過ぎだと思います。本来なら親が食事などを介して子どもの健康を管理・維持しなければいけないはずだと思うのですが。
 本当に子どもを大切に思っているのなら、子どもの自主性を重んじるだけでなく、正しい食生活を身に付けさせることも子どものことを思うと必要なことだと思います。
 


投稿者: ライオネル親方 | 2012年11月18日 15:52

『育児放棄』のなかでもこのような『悪意のない育児放棄』というのは今まで聞いたことがなかったので、たいへん衝撃的で興味深いものでした。親のなかで子どものためのことだと勘違いし、育児放棄という自覚が生まれないのは非常に深刻です。可愛い我が子のため、と自己管理能力が未熟な子どもの意思を尊重しても子どもは未熟のままです。親とは自分自身を犠牲にして、子どもにとっての最善のことをしっかり考え、たとえ子どもに嫌がられようともまっすぐ向き合って養育すべきだと思います。親子間のコミュニケーションが希薄化・表面化しているこの社会で、改めて親の在り方を親自身がしっかり考えていくことが必要ではないでしょうか。また、私が問題とする一つの点は、現代の人々のなかにある一般的感覚が子どもの意思だけを尊重する親の行為を虐待と認識するかです。ネグレクトが増加している社会であるために、このような『悪意なき育児放棄』をなかなか虐待と認識しづらいのではないでしょうか。親の自覚とともに社会全体がこのような親の行為をネグレクトだと認識し、問題視していくことも同時に重要だと思います。


投稿者: でゅう | 2012年11月18日 16:59

11/9の宗澤先生の講義を聞いて…。
先生の言った通り、今の虐待事件の報道は「いかに子を殺した親が残忍、冷酷」かだけを報道しているように聞こえます。虐待は万人が起こす可能性があり、とても特異な家族が起こすものだとは考えにくいものです。
<愛情の脅迫化><自立への脅迫化>においては、私も何度か言われたこと、きいたことのある言葉がちらほらありました。たとえば、習い事(水泳)をしていた時の先生に、小学校の先生に…当時はなんとも思わず頑張ろうとしていました。 言葉のセリフの最初に、権威を付与し、子供に言えば、小さな子は反論できないだろうと思います。きっと私も「自分はこんなにも思われているんだ、だからもっと頑張らないと」と思い込んだのでしょう。

ネグレクトに関しては、イオンやスーパーに行ったとき子供がカートで遊んでたり、走り回ったりしてほかの人に迷惑が掛かっている、そして親は見ているのにもかかわらず、叱ると思いきや、ほかのママと買い物をし談笑している。私はコンビニのバイトをしているのですが、子供がトイレのドアで遊んでいたので注意をしたところ、近くにいた親に嫌な顔をされたこともあります。これは、一種のネグレクトなのでしょうか?
「子供がこうやって遊びたいのだろうから…」という考えのもとならば本当におかしな事態だと思います。子供が朝ごはんにお菓子を食べたいから与えただとか、風邪をひいて何も食べたくないから食べ物を与えなかったという母親。しかし、これが異常だと気付かない。これが一番の大問題だと私は思います。
その母親も幼き頃、同じことをされていたのかもしれない、だとしたらこれを異常だとは思わないでしょう。これが異常だと気付く機会があるとしたら、近隣住民とのコミュニケーションの間で、同じような歳の子供を持つ母親と井戸端会議をする中で気づくかもしれない。
しかし、この近隣住民とのコミュニケーションも今も少なくなってきていると聞きます。母親の行動が異常だと気付かせることが虐待を避ける一つの方法だと私は思います。


投稿者: はみゅっと | 2012年11月19日 13:41

 悪意なきネグレクトという言葉を知ったのは最近のことです。子どもに、子どもが欲しがるものを与え、したいことをさせるなど間違った方向でわが子の意見を尊重する親が増えてきていると知ったときは驚きました。私の両親は、私が風邪をひいたときには私が嫌がっても消化の良いものを作って食べさせてくれたり、氷枕をこまめに取り替えてくれたりといつも真摯に看病してくれていました。今考えればこれらのことはとてもありがたいことだったのだと思います。また、このように私が風邪をひいたときは祖母から近所の家々にその情報が広まり、近所の人がお見舞いに来てくれたりもしました。私が住んでいたところはとても地域社会のつながりが強かったように感じます。ご近所同士で野菜やおかずを分けあったり、情報を共有し合ったりととても暖かい雰囲気でした。やはり、この地域間での支え合いが悪意なきネグレクトおよび虐待を食い止めるのに大きく関わってくるのだと思います。悪意なきネグレクトをしてしまっている親たちはおそらく無自覚であるから、周りの人々の助言が必要であると考えられます。現代では地域社会での関係の希薄化が問題となっているので、まずはそこから改善していかなければならないのではないかと思いました。


投稿者: マトリョシカ | 2012年11月20日 22:13

虐待はむごい扱いをするというイメージがあったので、愛情を注いでいるつもりの行為が虐待になりうるというのは興味深いものでした。親でもすべて押し付けていいとは思いませんが、自己管理能力が未熟な子供の意思と向き合うときは、自分をしっかり持たないといけないと思います。悪意なき育児放棄には、子供をかわいがっているつもりで実は自分がかわいいという面もあるのでしょうか。私が親なら、子供の言うとおりにするというのは、それこそが愛情だとは思わなくても、楽だろうなとは思うのです。好んで食べるものを出しておけば、「せっかく作ったのに」というイライラや落胆もなく、「いいお母さん」でいることもできます。子育てには、「嫌われてでも、報われなくても、それでもやる」という覚悟がいると思います。講義の中で、一所懸命の愛情が子供にやましさをもたらすというものがありました。栄養満点の食事を作っても、「あなたの体を思って作ったのにどうして残すの?私の愛情がわからないの?あなたは悪い子ね。」と言えば問題がありそうだなと思います。


投稿者: ベリー | 2012年11月22日 21:31

「悪意なき育児放棄」を知ったのはつい最近のことで、とても衝撃を受けました。この話を聞いたときは本当にこんなことが起こっているのか、という気持ちでしたが、意識して見てみると悪意なき育児放棄が想像以上に見られました。ファミレスでは、子どもたちが店内を走り回ったり、ドリンクバーで好き勝手しているにも関わらず、その子たちのお母さんは叱るどころか、自分たちのお喋りに夢中だったという場面にたびたび遭遇します。これも悪意なき育児放棄に当てはまるのではないでしょうか。この悪意なき育児放棄が増加したのには、本人たちに育児放棄だという自覚がないこと、また一般的にもこれが育児放棄だという考えに結びつきにくいことなどの要因が挙げられるのではないでしょうか。私自身も、悪意なき育児放棄という言葉を知るまでは、ただ迷惑だなぁとしか思っていませんでした。現代は地域間のコミュニケーションが希薄化しているという問題もありますが、そもそもこれがネグレクトとして認識されていなければ地域間のコミュニケーションも意味をなさないのではないかと思います。この悪意なき育児放棄が「当たり前」になっていることが、最大の問題だと思いました。


投稿者: ぴん | 2012年11月23日 20:57

この間は特別講義をしてくださりありがとうございました。
日本はもちろん世界で問題になっている虐待について、今までニュースなどで耳にはするものの詳しく知りませんでしたが、理解を深めることができました。
周りの環境がとても影響していて、よくも悪くもなるのだなと改めてわかりました。
なかでも一番怖いなと思ったのが、この記事でも書かれている『悪意なき虐待』です。この種の虐待は、している親本人が虐待と思っていないため、周りが言ってあげなければいつまでたっても虐待は無くなりません。周りから言われても、親が虐待と認識していないので、すぐに改善することができないこともわかりとても驚きました。今現在わかっているだけでも児童相談所に連絡がきている件数が多く、実際はもっと虐待数が多いと思うとぞっとしました。
一番大切な家庭で、生きるために必要な食事がまともに与えられていなかったり、親から愛情いっぱいの教育がなされていないということはとても悲しいことです。
この世から完璧に虐待をなくすというのは難しいかもしれませんが、なくなる日を願って私たちがよりよい社会を築いていかないといけないなとより強く感じました。
助けを必要とする人が助けをすぐに求められる環境づくりをすることが、まず大切なのではないかと私は考えます。


投稿者: ぴー | 2012年11月24日 00:01

私は、ブログのこの記事を読んだ時、現代の日本は今、病気の子どもが「食べたいと言わなかったから」何日も食事を与えず、ますます病状が悪化したという事例が例外ではなくなってきているという事実を知り、とても驚き、信じられなかった。
私が幼いころは、風邪をひいたときには無理にでも栄養のあるご飯を食べさせられたものだ。

また、子どもがお菓子を食べたいというから、お菓子を与え続けるという行為は、子どもに対する愛をはき違えていると考える。
本当に子どものことを愛しているのなら、栄養バランスを考え、適度な量のお菓子を与えるということが正しい行動なのではないだろうか。
しかし、母親は望んだことをかなえてやることが愛であると考えていることから、悪意はない。しかし、お菓子を与え続け、子どもの栄養状態が悪化するということも、立派なネグレクトなのである。
子どもは、食べ物に関する知識や自分で栄養状態を把握することが難しい。そのような子どもの意思を尊重して、好きなようにさせるというのはあまりにも無責任ではないだろうか。
親はそこまで考え行動し、昔は当たり前だったことが、出来るような社会になって欲しいと思った。


投稿者: ちゃろす | 2012年11月25日 19:42

私は宗澤先生の講義を受けるまでは、児童虐待というのは、暴力をふるうこと。育児放棄というのは、ろくに食事を与えなかったり、子供の世話をまったくしなくなることなど、そういうものだと思っていました。自分では知識として知っていると思っていたけど、実際は自分にはあまり関係のないことだと思って詳しく知ろうと思っていなかったのだと思います。しかし先日の講義で「悪意なき育児放棄」というものがあることを初めて知り、驚きました。この記事にあるように、子供がプリンを食べたいと言ったからプリンだけを与え続けた、熱を出した子供が何も食べたくないと言ったから何も与えなかったという事例は信じられないことだけど、これが実際に多く起こっており、「悪意なき育児放棄」というものがどんどん進行している現実は私にも関係ないことではないなと思いました。プリンだけを与え続けたという事例も、何もまだ知識のない子供だということを考えず、ただ子供の意思だけを尊重してしまうのは自分一人で解決してしまうからではないかと思います。そういったときに相談できる相手がいることが大切なのであり、。こうした「悪意なき育児放棄」をなくすには、定期的に話をすることができる場が必要なのではないかと思いました。


投稿者: ぽっぷこーん | 2012年11月26日 22:31

「悪意なき育児放棄」という言葉はつい最近知りました。ほとんどの幼稚園児などの幼い子どもは、お菓子やアイスなど甘いものが大好きだろうということは、私のような大学生でも容易にわかることだと思います。また、テレビなどでよくある、「○○ちゃんは、今日の晩御飯は何食べたい?」「私カレーがいい!」「じゃあカレーにしようか!」といった会話とも意味が違うこともわかるはずです。なのに、どうして食べたいと言ったからといって、そのまま与えてしまうのか、私には理解できません。私が病気になったとき、食欲はなかったけど「食べないと元気にならないよ」と言われ、なんだかんだ食べさせられたり飲まされたりしました。幼い子どもはまだ生まれて数年しかたってなく、当たり前だけど知識はないのです。だからこそ、そのようなことを教えてあげるのが親の役目なのではないか、それをしないのは立派な育児放棄ではないか、と講義とこの記事の両方で感じました。


投稿者: きいろ | 2012年11月27日 15:08

 私は今まで児童虐待というと、暴力やネグレクト、性的虐待を想像していました。しかし、実際にはこれらの虐待とはちがうものもあるのだと知りとても驚きました。
 この悪意なき育児放棄はとても厄介な問題だと思います。親は、子供の意見を尊重し好きなものを与える育児が間違っているという意識がなく、またその周りにいる人たちも虐待であるということに気づきにくいからです。
 自分の幼少期を思い返してみると、私は一人の人格として認められてはいましたが、100%私の意見が尊重されることはありませんでした。知識の乏しい子供に何が正しく何が間違っているのかを教えることは親の仕事の一つだと思います。
 また、父子で映画館に行っても別の映画を見てしまっては同じ時空間を共有していないことになります。たしかに子供は自分の見たい映画を見ることができますが、これではコミュニケーションがあまりとれないのではないでしょうか。子供は家族とのコミュニケーションを通して社会性を育てると聞いたことがあります。子供とのコミュニケーションを放棄するということはとても深刻な育児放棄です。
 すべての親は、子供に物事の善し悪しを教え、子供とコミュニケーションをとり信頼関係を気づく義務があると思います。今子育てをしている人たちや、これから親になる人たちが悪意なき育児放棄をしないよう、もしくはやめるよう、親の果たすべき義務についてしっかりと知る機会を作らなくてはいけないのではないかと感じました。


投稿者: じゃむおじ | 2012年11月28日 02:16

宗澤忠雄さんのブログを読んで親に悪気がなかったとしても、それが将来子どものためにならない、むしろ悪影響を与えるものであったらそれは育児放棄になってしまうと思いました。私の中での「育児放棄」とは子どもが自立するまでのあいだ、責任もって世話をしなければならない義務を放棄し、食べ物を与えなかったり、子どもの要求をきいてあげない(幼児期だとオムツをかえてあげないなど)ことだと思っていました。しかし、この記事を読んでみると、逆に子どもの要求を聞きすぎることも良くないということがわかりました。
ブログの中では病気のときに子どもが食べたがらないから何日も食事を与えなかったから病気が悪化するという結果になっていて、これは子どもが悪いのではなく、親に責任があると思います。食べたくないからと言って何日も食事を与えなかったら、病気が悪化するということは親も気づいていたはずです。ただ、「無理してご飯を食べる子どもの姿を見たくない」という親なりの優しさがこの悪意なき育児放棄につながってしまったと思います。
これを解決するには、親がしっかりする必要があると思います。子どもはやはりわがままを言ってしまうと思います。しかし、それを親がある程度制御することが出来たら、この問題は改善されていくと思いました。また、子どもも親がお菓子をあたえてくれなかったのは自分のことを考えての愛なんだと気づくことも大切だと思います。間違ってもお菓子をくれない(自分の要求を聞いてくれない)ことは愛情もって育ててくれていないと勘違いしないようにすることが大切だと思いました。
今回の講義でもう一度児童虐待・育児放棄についてしっかりと考えようと思いました。他人事ではなく自分にも起こりうる危機ととらえて考えていきます。


投稿者: 隣の山田くん。 | 2012年11月28日 12:26

 私が、「育児放棄」という言葉から連想するのは身体的、心理的な面からの暴力などだったので驚きました。
 私の姉には1歳の子供がいます。姉夫婦は、1歳の息子に絵本を読んであげます。食事は定時に済ませ、好き嫌いをしようとしても懸命に向き合っています。私や、母が世話をしているときを除いて、姉夫婦が子供の世話をしていないところを見たことはありません。自分の幼少時代を思い出してみても放置されたことや、好き嫌いをして叱られなかった記憶はありません。
 しかし、当たり前だと思っていた子育てが現代では成立しないのだと思いました。子供とコミュニケーションをとる事、叱る、ほめる事、規則的な生活習慣をつけさせる事。どれも当たり前だけれど、難しい事だと感じます。子供の意思を尊重してあげることは大切だと思います。しかし、成長期の子供たちはしっかり大人が導いてあげないといけないのだとわかりました。
「悪意のない育児放棄」に気付いていない親は沢山いるはずです。将来、親となる私たちが現代の育児についてしっかり認識を持っていないといけないと強く思います。


投稿者: さんかく | 2012年11月28日 22:16

私は、記事を読んで、『悪意なき育児放棄』が日常に潜む育児放棄だと感じました。記事の中に、子供が食べたいものだけを与える親、朝早く起きた子供にTVを見させ自分は寝る親などが例として挙げられていましたが、確かに親は自分が育児放棄というものに片足を踏込みかけていることに気づいていないのだと思いました。確かに、記事の様な生活を子供にさせてしまってはいけないのだと思います。ですが、この不景気な世の中ではこの様なことは珍しいことではないはずです。現に、私の子供の頃の生活も記事に近いものでした。だからこそ、私は、自分が親になったとき、子供との絆を大切にしていこうと思います。私は昔から、子供を育てると決心したならば、大学に行けるだけの経済力があるかどうかを見据えて、育てるべきだと思っています。生活していく為には、働くことが第一です。ですが、自分が授かった子供です。終日働いて疲れたから、休日は自分のための時間などという考えは捨てるべきだと思うのです。それならば、最初から子供を産むべきではないのです。悪意なき育児放棄は現代に溢れていますが、私は一つでも多くの『育児放棄』が無くなることを願います。


投稿者: mayumi | 2012年11月29日 13:03

 近年、児童虐待に関するニュースなどをよく聞き、実際虐待の発生件数は増えている。その中で、この「悪意なき育児放棄」は普段私たちはあまり気にしていなかった点に注目されていて意外だった。
 本文にあったように、子どもがごはんを食べたいと言わなかったから食べさせなかったり、子どもが待てないから、うるさいからという理由でごはんをすぐに出せる菓子パンや冷凍食品などにするというのは、親にとっては確かに悪意はなく、子どもが言ったとおりにしてやっているだけである。しかしこれも育児放棄となってしまう。
 最近多い親子関係の希薄化は親の子供に対する関心の無さが原因にもなっているのかなと思った。しかし、子どもを尊重しすぎるのも間違いであり、ただ「暴力」「強制」などだけが虐待ではないということも考えさせられた。
 また、宗澤先生の講義で聴いた「虐待は私たちみんなが当事者」という意味がとてもわかった気がした。虐待はまだ意外な注目点がたくさんあると思う。それらも含め、親と子どもの関係をもっと考えていかなければならないなと感じた。


投稿者: 1125 | 2012年11月29日 19:16

今回先生の講義を聞いて、今まで虐待とは子供時代に虐待されていた人がするものだという考えでいたので因果律では無いと知り驚きました。また悪意なき虐待や共依存など、子育ての問題点を改めて見直すことができました。さらにその背景には時代の変化とともに変化してきた家族関係があったと聞いて、虐待について理解が深まると同時に今までは単に加害者を非難するだけで終わってしまい、背景まで考えようとはしていなかったことに気がつくことが出来ました。また、共依存の内容は自分の家族にも似たような点が有ることから特に興味深く、改めて家族の関係とはどうあるべきなのか、これからどう変わって行かなければならないのかを考えるきっかけになりました。最後に、今回の講義を聞いて今まで自分が如何にマスコミの影響を受けていたか気づくことが出来ました。これからは虐待した人を非難するマスコミの報道や記事を、なぜその人は虐待するようになったのか、その背景は何なのか、それを無くすためには一体どうしたらいいのかという今までとは違った視点で見て考えていこうと思います。


投稿者: 香 | 2012年11月29日 22:00

私は今まで《虐待》と聞くと、性的虐待、育児放棄、ネグレクト、暴力などの言葉が思い浮かびました。《悪意なき育児放棄》という言葉を聞くのは先生の講義が初めてでした。この悪意なき育児放棄は私が知っていた児童虐待とは全く違うものでした。
これは、他の虐待よりも厄介なものに感じました。なぜなら、親が育児放棄をしているという認識がないからです。食事を与えないわけでもなければ子どもの希望を無視しているわけでもない。これだけ聞くと育児放棄とはなかなか結びつけにくいものに感じます。しかし、子どもが「朝食はプリンがいい」と言えばプリンを与えて、風邪を引いているときに「お腹が空かない」と言えばろくに食事を与えない。これは育児と言えるのでしょうか。子どもを一人前の人間として扱っているというのはただの言い訳ではないでしょうか。まだ自分では栄養管理もできない子どもの言う通りに、病気のときにきちんとした栄養のある食事を与えないのは育児とは言えないと思います。私が子どものときは風邪を引くと無理にでも栄養のある食事をとらされたものです。先生の講義でこの話を聞いたときにはとても驚きました。
子どもの意見を尊重することは悪いこととは思いません。けれども、子どもの栄養管理や一緒に遊んでコミュニケーションをとることは親の役目だと思います。せっかくの休日に朝早起きして子どもと公園に行き遊ぶのは大変だと思います。しかし、一番親の愛情を必要とするときにテレビを見せて子どもと接しない、コミュニケーションをとらないのはとても深刻な問題です。子どもにとって一番大切な存在である親がその役目をおろそかにするということは育児放棄なのだとこの記事と先生の講義を通して考えるようになりました。この悪意なき育児放棄について、これから子をもつ人、既に子育てをしている人たちが学ぶ場がより増えることを強く望みます。


投稿者: マイティア | 2012年11月29日 22:11

 悪意なき育児放棄というものが存在することを初めて知りました。
 私には育児経験がないので言える立場ではないですが、悪意なき育児放棄は、親のもつ育児への不安から生まれるのではないかと思います。例えば、子供が駄々をこねたり泣かれたりすることに抵抗や不安を感じ、子供の要望をそのまま受け入れてしまうというようにして起こるのではないでしょうか。
 しかし、この記事に書いてあるように親子間の葛藤を回避していては本当の育児というものはできません。“「束縛なしの絆はあり得ない」、つまり葛藤を伴わない「やさしさ」は存在しない”と書いてあるように、何でも頷くことだけがやさしさではなく、子供のことを思って首を横に振ることがあっても、それもやさしさなのだということを忘れてはいけないと思いました。
 自分が良かれと思ってしたことが実は間違ったことであるというのは、本人にとって気づきにくいものであるので、育児をする上で周りの人の存在が欠かせないということを、この記事を読んで強く感じました。


投稿者: おはじき | 2012年11月29日 22:43

私も偶然岩本さんの新聞記事を拝見する機会があり、家庭の食卓事情の現状に衝撃を受けた。「朝食はお菓子、食事はおなかがすいたら作る」など私にとって考えられない現状が記事に書かれていたからである。
私の家庭では暗黙の了解ではないが一人でご飯を食べないこと、家族みんなで出来るだけ揃って食べること、出されたものはすべて食べることなど、食事=家族の団欒の場という認識が染み付いていた。食卓で今日の出来事や学校でのこと、家族の問題事は話し合われ、そこでコミュニケーションをとっていた。また、記事にあった家庭とは違い、三食きちんと出され、風邪を引いたときは早く治す為に栄養あるものを食べなさいと言われ、食事抜きダイエットをしたいと言ったり、量を減らしたいと言っても嫌でも食べさせられたものだ。友人が食事抜きダイエットや一食ダイエットをしてるのを聞きうらやましく思ったほどだった。当時はまさかその羨ましかったものが「悪意なき育児放棄」などと思っていなかった。
では友人の親は友人を意識的に虐待していたのだろうか、いや違う。子供を甘やかすこと=悪意なき虐待などとは言わないが、「子供が望むから、子供の希望を叶えてあげたい」という子供第一主義が悪意なき虐待を生み出していることは否めないだろう。また、この悪意なき虐待は葛藤と隣り合わせのように感じている。子供は反抗期をむかえ、親に文句を言ったりし、親の手におえない場面も出てくるだろう。そんなとき今まで良かれと思ってやっていたことや子供のいうとおりにしてきていた親にとって、イラつきを覚えるのも無理はない。そこから虐待につながる可能性も存在するのだ。
悪意なき虐待を行う親は無意識だ。私も新聞記事を読んだり、先生の講義やブログを読むまで気づかなかった。まずそういう親に認識を持たせる機会を作ること、ブロクや雑誌で取り上げこのことに触れさせることで自分の行動を省みることが出来ると思う。


投稿者: すぴすた | 2012年11月30日 00:46

この「悪意なき育児放棄」の記事を読んだとき、私は現代の社会が生み出す弊害について感じた。仕事に追われ、構ってあげることのできない父親や冷凍食品などできあいの料理で子供のお弁当を作る母親の姿は、現在ではよく見る光景である。父親、母親は日々の仕事や家事に追われ子供に十分にかまってあげる時間はない。父親、母親の苦労も十分に理解が出来る。しかし、特に幼少期の子供にとっては関係のないことである。両親にその気がなかったとしても子供が感じてしまえば、それは軽視できない問題となる。これを防ぐ手立ては「まわりとのつながり」にあると考える。親は周りの親との協力をもっと行うべきであると考える。周囲の協力があれば負担を分散することもできる。以前の日本ではこのようなことは自然と行われていたのではないだろうか。現代社会におけるつながりの希薄化はこのような場面でも感じることが出来るように思う。便利になった社会は私たちにとって、多大な利益をもたらしているが同時に、昔の子育ての仕方まで忘れさせてしまったように感じた。


投稿者: ゆう4869 | 2012年11月30日 02:12

 単に育児放棄という言葉はTV、ニュースなどで耳にすることはあったが、「悪意なき育児放棄」という言葉は宗澤先生の講義で知りました。
 この記事にも書いてあるように、子供が〇〇を食べたいから〇〇を与える、子どもが何もいらないと言うから何も与えないなど、ほんとに起きているのかと疑いたくなるような事例だが、実際にこういったことが多く起きている。
 親はまだ知識も少ない子どもの意思を尊重してやることが子どもに対する愛情だと思っているのではないか。そうだとしたらそれは間違いだと思う。中学生、高校生の子どもならばその考えに賛同できる部分はあるが、幼児に対してのそのような行動は自分自身は悪意はないと思っているだろうが、立派な育児放棄であると考える。栄養管理などは親がきちんと責任を持って行動しなければならないと思う。それが当たり前の行動ではないかと思う。
 当たり前のことが当たり前にできていないからこそ育児放棄が起こっているのではないか。自分だけで抱え込まない、近隣住民との関係、相談相手がいることなども必要だが、当たり前のことを当たり前にやるということが育児放棄をなくしていくことにつながるのではないかと考える。


投稿者: アディNEO | 2012年11月30日 09:06

今の日本の子供の育て方は間違っていると思う。この記事を読んで、映画館に行って別々の作品を見たりするという行為が親子間で行われている事実を知ってとても驚いた。また子供のご飯を栄養のことは気にせずに、子供の意思で決定することがあるという家庭があることはとてもおかしいことだと思う。私の家庭では食べたくないと言っても栄養のために食べさせられていたし、家族で出かける時も家族で同じことをして思い出を共有することができた。それが当たり前だと思っていたし、当たり前でなければならないことだと思う。
このようにしばしば親から放置されたり子供の自由にさせすぎることは結局子供のためにはならないし、仮にもしこれが子供のための最善策と思ってやっていることならば、親たちは考えを改める必要があると思う。子供は親を見て育つのである。そうするとこのような環境で育った子供達が家庭を持った時に、自分が育てられたように同じことを繰り返しかねない。そして人格が歪んでしまい、虐待や殺人を起こしてしまうのだ。優しさと甘やかしは別のものであり、乳幼児の意思の尊重と子供のための最善策はちがうのだ。この現代日本社会の親子関係を見直し、正していくべきだと思う。


投稿者: 虹 | 2012年11月30日 10:22

「悪意のない育児放棄」という題名に凄く興味をもちました。悪意がなく、無意識に育児放棄しているということに、ピンとこなかったのですが、この記事を読むと、思い当たる節がありすぎて、とても驚きました。
私はもう二十歳で、私のまわりに子供がいる友達もたくさんいます。そんな友達たちの話を聞くと、ご飯がお菓子だったり、子供を遊びに連れて行くこともほとんどなかったりします。それを聞いたときは何にも感じなかったのですが、この記事を読むと、何にも感じなかった自分がとても恥ずかしくなりました。私が子供のとき、私の両親は、毎日3食、ご飯を作ってくれました。休日は家族で遊びに行くこともたくさんありました。そして1年に1回は旅行に連れて行ってくれました。これが当たり前だと思っていました。もし私に子どもができたときは、両親が私にしてくれたように、子供との時間を大切にしようと思いました。
また、悪意のない育児放棄を、身近に感じることはとても怖いことで、親たちは、自分が育児放棄をしていることに気づいてないため、解決することもできないのです。こういうことをなくすためには、もっと、子育てについて知る機会を作らなくてはならないと思いました。


投稿者: しいたけ | 2012年11月30日 12:36

この記事は、私が今まで知っていた育児放棄とはぜんぜん違う、ぜんぜん聞いたことのないタイプの育児放棄についてかかれていました。子供に食事を与えたくない、与えるのが面倒だからと放置することと、子供が食べたいと言うから食事を適当な時間に与えることは同じ育児放棄だとは思いもしなかったです。この記事を読んで、育児とは、正しい知識をもって、子供の意見も尊重しつつ、子供が判断できないこと(健康面など)は親がしっかりと管理し、教育しないといけないんだなとおもいました。私も子供ができたとき、悪意のない育児放棄をしてしまっていただろうなと思うと、この記事を読んでいてよかったなと思います。自分が気づかないうちに育児放棄をしてしまっていたなんて、親にとってつらいことだと思います。なので、このようなことがおきないように育児とはどういうものなのか、親は子供にどう教育をするべきなのか知ることができる場をつくって、広めていくべきだと思います。そして、このような育児放棄がへってくれればと思います。


投稿者: np | 2012年11月30日 12:44

悪意なき育児放棄。
タイトルにものすごくひきつけられた。
読み進めていくにつれて、自分たち20代の親たちの「普通」が世間の常識の「普通」とはかけはなれてしまっていたり、年端もいかない子供たちの意見をそのまま鵜呑みにしてしまっていたりと、親の責任というものより、子供の自主性というものを尊重しすぎているのではないかと感じた。児放棄と聞くと、暴力的な親が子供に対して無関心であったりして起こるものだと思っていたが、この事例に関しては、無関心というより、ごく普通の親のように接しているように見えているだけであって、実際は親の接し方というより、他人のような接し方ではないかと感じた。
子供を育てていくにあたって、親の義務や責任ということをもう一度考えていく必要があると思う。少なくとも、年端のいかない子供たちの自主性を尊重するということも大切だと思うが、ある程度は子供たちにもわからないことがあるとしっかり頭の隅に入れておいて、接していくべきだと感じた。
そして、このような事態を招いている原因として両親の低年齢化がやはり原因になっているのではないかと思う。


投稿者: かいむ | 2012年11月30日 13:06

私は、今まで育児放棄とは、子供に全く関心がなく、育てていける経済力があるのに児童養護施設に預けたり、一緒に暮らしていてももちろん会話や世話をするわけでなく、子供は存在しないかのように暮らしていることかと考えていました。しかし、育児放棄がこんなにも日常的に潜んでいたことに驚きました。子供を愛しているからこそ、子供の気持ちを優先して食べ物を与えたりすることは、私も将来、子供を育てる時にそうしてしまいそうだと思いました。親は、子供の気持ちを優先しがちですが、それは全て子供のためになるとは限らず、気付かないうちに育児放棄にまで発展してしまう可能性があることに恐さを感じました。子供を育てるということは、本当に難しいことで、自分の気持ちや時間を我慢しなければならなかったり、子供のことを想えばどういった行動を取らなければならないか、一つ一つよく考えていかなければならないので、忍耐力や精神力が必要になり、相当な覚悟の上で生む決意をしなければならないと感じました。


投稿者: KTB | 2012年11月30日 14:56

 今回このブログを読んで初めて悪意なき育児放棄という言葉をしりました。自分の家庭では、ほとんど食事は家族みんなで食べていたのでブログで書いてあったようなことはありませんでしたが、今の家庭を考えてみるとこのこのように子供たちだけが先に食べたりするといったケースは多いように思いました。また子供の意思を尊重して子供が食べたいと言っているものを出すということは多いのではないかと思いました。その行為自体を虐待ととらえている親は私は少ないのではないのかと思いました。しかし、ブログにもありましたが、食に関する知識も自己管理能力もない幼い子供を一人前と考え親が考えてやらないといけないことを子供にまかせるというのは、育児放棄なのではないかと思いました。
 また休日の過ごし方でも、映画を見に行ってそれぞれが違う映画を見て過ごす、ということが書かれていましたが、これでは、親子のコミュニケーションをとるということは不可能ではないかと思いました。
 食事にしても休日の遊びにしても親子のコミュニケーションを深めることに重要なことだと思いました。このようなことがなくなってしまえば、ブログでもあったように子供が不登校になったりだとか様々な別の問題も発生するのではないかと思いました。


投稿者: アルカ | 2012年11月30日 15:39

「悪意なき育児放棄」の記事を読み、11月9日の講義を聴いた中で、身の回りに思い当たる節が多くありました。また、虐待の発生関連要因には過去のトラウマだけでなく、子供を尊重しすぎるという点があることを学びました。
最近居酒屋に飲みに行くことがあったのですが、どうやらママ友の集まりのようで、それぞれの母親がまだ幼い子どもを連れて騒いでいました。
この会は深夜まで続き、本来なら子どもはとうに寝ている時刻でした。このような酒や煙草の煙まみれの環境に夜遅くまで子どもを連れ出すことに、親は何とも思わないのか、これも一種の「悪意なきネグレクト」だと自分は思いました。
この「悪意なきネグレクト」が当たり前になってしまわないように、自分の子が親になったときに正しい育児が出来るように育ててあげることが親の責任だと私は思いました。


投稿者: ふぇでらー | 2012年11月30日 15:43

 先日、宗澤先生の講義によって「悪意なき虐待」の深刻さを知りました。講義で話して下さったその内容は、自分にとって「なぜそんなことをしてしまうのだろう」と驚きの多いことばかりでしたが、その親にとっては正しいと思っていることであることこそが、この問題を深刻にしているものだと感じました。その人にとって正しいと思う事と、事実際に正しいとされることの差異があるのは、程度の差はあれ誰にでも起こりうることで、この事態はそれを修正することができなかった結果が引き起こすものであり、修正できなかった理由は、本人の子育てに対する認識そのものの問題と、その周りの環境による不干渉が理由としてあげられると思います。
 「子供を育てる」という点において、親もまた、子供と同様最初は学ばなければならない点も多いでしょう。誰しも最初は知らないことが多いのは当然であり、それを理解せず、知っているつもりで行動して取り返しのつかない事になるのは避けるべきことのはずです。それを親自身が理解し、また周囲もその状況に答える環境づくりこそが、こういった事態を避けるために必要なことだと思います。
 口で言うほど簡単なことではないでしょうが、そうである社会がつくられることを望みます。


投稿者: KTQ | 2012年11月30日 16:11

今まで虐待とは、暴力をふるったり、ご飯を与えないなど子どもに何らかの負の影響を与えるものであると思っていました。しかし、悪意なきレグレクトのように子どもの意志を尊重することによって行われる虐待もあることを知り、私にもこのような点があると思い当たり、愕然としました。また今日では、家族が地域との関係を断っていることにより、家族が地域社会と孤立することで無縁社会となり、家の中でも子ども、養護者が孤立しているけとで、孤立の二重性が出来上がっている。これはコミュニケーションが不足している状況にあると考えられます。親は子どもへの関心が希薄になっていることが、このような悪意なきレグレクトが起こる原因ではないのかと思いました。もう少し両親が子どもに目を向けられることができれば、子どもの小さな反応や態度によってどのように接してあげることが適切であるかを判断できるのではと思いました。悪意なきレグレクトがどのような虐待であるかを世の中の人々に知ってもらい、地域が連結することによって、より広いコミュニケーションの中で、子育てをすることによって、地域で助け合える社会が今必要とされているんだと感じました。


投稿者: しょうなろ | 2012年11月30日 16:46

 子供の望むものを与え、望む通りに過ごさせることが育児だとは思いません。この議事で読んで育児とは、子供の成長を側で支えるものであるべきだと感じました。子供の好きな通りにさせるというのは、確かに悪意は無いように思う事も出来ますが自分の子供を愛しているはずの親の優しさも感じる事ができません。何をさせることが正しい育児か、誰にもわからないからこそ試行錯誤して子供と向き合って接するべきと思います。そのためにも、子供のために望むことをさせてあげたい気持ちと健康や成長のために望まないこともさせなければならないという気持ちの両方をもっていなければならないと思います。この記事のなかでのできごとは、まるで親と子供はお互い自己判断能力のある自立した人間同士であるかのような関係に見えます。子供が人間的に未熟であるという事をもっと理解して、愛する子供のために行動できる親が増えてほしいなと感じました。


投稿者: まな板 | 2012年11月30日 23:55

 この記事を読んで初めて「悪意なき育児放棄」という児童虐待の在り方を知りました。悪意のない、むしろ子どもが望むことをやっているのだから良いのではないかと「親」が思っているからこそ、育児放棄をしていることにすら気づいていない、気づかないことが問題なのではないかと感じました。


投稿者: ささみ | 2012年12月10日 08:21

このブログの中では、子供のためを思って親として行動したつもりのことが、実際にはそうはならず、結果としてネグレクトになってしまっているという例が「悪意なきネグレクト」として紹介されています。また、まだ自己管理能力や判断能力の乏しい幼児の意思を尊重しすぎることが、こういった事例の原因になることについても触れられています。私は「子供がうるさいから」、「子供が待てないから」といって、すぐに出せる簡易的な食事を与えることは、子供のやっかいな訴えから簡単に逃げ出したい、すぐに片づけてしまいたい、という親のエゴイズムなのではないかと思います。逃げ出すということは、放棄であり、少なくともそこに多少の悪意を感じてしまいます。問題は、親がそのわずかな悪意を自覚していないことなのではないかと感じました。また、子供の遊びや休日の過ごし方の例については、子供が一人きりでできる遊びを与え、その間に親は休息をとる、というある意味で合理的な方式であると捉えられるかもしれません。しかしそれでは、親は遊びの場を提供するだけの存在になってしまい、子供の心が本当の意味で満たされることはないでしょう。こういった人とのつながりを無視した遊びのみで、豊かな感性や人間性が育まれるかも疑問に思います。こういった事例を見てみると、無駄を省き能率的であることが正義である、というような時代の流れが影響しているのではないかと感じてしまいました。


投稿者: YU | 2012年12月10日 18:36

北九州市立大学での特別授業を受講させていただいた者です。虐待関係の記事の中で私が一番気になった「悪意なき育児放棄」といった記事を読んで、率直に感じた事は今の子育てはこんな事になっているのか!という驚きと、悲しい気持ちでいっぱいになりました。私はまだ学生で自分には子どもは居ないのですが、年の離れた妹がおり、自分の母親、父親が妹に対しての育児方法を見て過ごしてきましたが、記事にあったようなテレビを付けて放置や映画館での一面のような事はなかったと思いますし、もし自分に子どもが出来たとしてもそんな事はしたくないなと思いました。最近ニュースなどで、親が自分の子どもを虐待したり殺したりといった事件をよく目にします。それは「悪意のない」ものなのか、疑問ではありますが、子どもに対しての親の責任は日常生活における健康面や精神面でのサポートではないかと思っているので、幼児期の子どもには親とのコミュニケーション親密なものしないといけないのではないかなと思いました。今後もこの問題は取り上げられると思うので、この機会をキッカケにもう少し考えてみたいと思いました。


投稿者: miyabiiin | 2012年12月10日 22:20

私が考える「悪意なき育児放棄」の問題点は、親が育児放棄している行動をとっていることに気づかない、気づいていないということだと思います。文中にあった“「息子が朝食はプリンと言ったから」「おやつを食べすぎた娘が夕飯は食べたがらなかったから」その通りにした。さらには、おなかをこわしたり、熱を出したりした子どもが「食べたいと言わなかったから」何日も満足な食事を与えられず寝せておいた結果、病状が悪化した“というこの事例。判断能力もままならない子どもにそこまでの自己決定をさせるべきではないと思います。むしろ判断の能力がままならないからこそ「親」が良いことと悪いことの分別をつけさせたり、生きていくための術を教えていったりすることが「育児」なのではないでしょうか。子どもの欲求をみたしていくことを育児とは呼べないと思います。親に自覚がないからこそ、岩村暢子さんは育児放棄の前に「悪意なき」という言葉をつけたのではないだろうかと思います。無自覚な問題ほど解決することは難しく、またこの「悪意なき育児放棄」を発見することも、困難なのではないでしょうか。育児のほとんどの時間は家庭内でのことであり、第3者の目が届きにくいです。そのためこの問題を解決するためには、親自身が育児の在り方を客観的に見直すことと、第3者からの助言を得られるような場を作り子育てを支援していくことが大切なのではないかと考えます。


投稿者: ささみ | 2012年12月10日 23:17

 先日、宗澤先生の講義を聞かせていただきました。児童虐待相談対応件数が年々増加していること、対応に追われ防止しきれていないなど、様々な現状を知りました。私にとっては全く縁のない、虐待について深く考えさせられる時間でした。そして、このブログを拝見させていただく中で、この記事に目が止まりました。
 岩村さんの記事の参照部分より、このような「悪意なき育児放棄」が行われているという現状に、衝撃を受けました。本当に怖いのは、親が“無意識に”育児放棄をしていることです。面倒だからといって、すぐ出せるものを与えたり、ご飯のかわりにお菓子を与えたりする。これは、親が子どもに何かを食べさせるという行為だけに満足していると感じます。本当に子どものことを考えているのであれば、もっとやらなければならないことがあるのではないでしょうか。
 子どもの成長には、必ず親の愛情が必要です。親の愛情が足りなければ、成長過程で何かしら障害が生まれてしまうと思います。未来を担う子どもたちのために、親の意識が変わらなければいけません。子育てに関して、もう一度見つめ直す機会が必要だと思います。


投稿者: えがお | 2012年12月10日 23:49

 育児放棄という言葉を聞き、イメージするのは子育てに対するストレスや不安を原因とした虐待という考えでした。しかし、このブログを読んで、悪意のない育児放棄という、普遍化してしまった虐待ともいえる行為があることに驚きました。近年の子どもの欠食や食事の粗末化は、たしかに育児放棄とも言えるべき現象であると私は感じます。一般的に知られている虐待は、何か原因があると共に意識的に育児放棄しているが、この悪意のない育児放棄では、文字を見て分かるように親に悪意がないため、無意識的に育児放棄をしてしまっているように感じました。
 最近では、ライフスタイルの変化により、共働きで、子どもにお金だけを渡して食事を済まさせたり、iPadやゲームといったものを子どもに買い与え、遊ばせておくといった光景もよく見られるように思います。こういった行為も、言ってしまえば育児放棄であるように感じます。どのような社会であれ、親は子どもの意見を尊重しつつも、子育てに対してきちんと責任を持つこと必要であると思いました。


投稿者: はらへり | 2012年12月11日 01:12

 先日、先生の講義を聞きました。講義の内容は「障害者虐待」についてでした。わたしは、この講義から、障害者は社会的弱者とされ、社会から差別や虐待をうけていることを改めて考えさせられました。
 また、障害者の中でも男性より女性の方が虐待を受けていること、障害者虐待は家庭や職場、施設にいたるまで、社会の多くの場で行われていることを知りました。虐待は、障害者であること、女性であることよりもその前に対象者が「弱いもの」であればどのような場合でもおこるのだと思います。それは、親子でも言えます。このブログの内容にありますように、児童虐待もそのひとつです。しかし、この場合は「悪意なき」というところに問題があります。このように親が無意識に虐待を行ってしまっていることは、恐ろしいことだと思います。
 私は、良い親子関係を築くためにはやはり「共に行う」ことが大切であると感じます。またこれは親子だけに限らず人間関係を作るうえで大切なことであると思います。


投稿者: e-chan | 2012年12月11日 09:14

 今まで「育児放棄」という言葉を聞くと、子どもの訴えや問いかけに対し無視したり、食事を与えないという虐待に近いイメージがありました。しかし、宗澤さんのブログを拝見して、現代の間違った育児放棄の実態を目の当たりにし、驚きました。とくに、「息子が朝食はプリンと言ったから」「おやつを食べすぎた娘が夕飯は食べたがらなかったから」その通りにした。という事例には衝撃を受けました。一見、子どもの主張を尊重して好きなものを食べさせてあげたように思えるのですが、この場合ただ食べ物を与えるという行為だけのように感じます。「子どもを育てる」ということは、子どもの好き嫌いに捕らわれずきちんとした栄養バランスを考えた食事をさせてあげることが大切だと感じます。食事に限らず、映画館での事例にもあったように、それぞれが好きなことをするのではなく、互いに同じ時間を共有することが大切だと思います。好きなことばかりで葛藤のない「絆」はないのだと改めて感じました。現代社会において、「育児」とはどうあるべきなのかということを再認識し、悪意なき育児放棄など間違った育児を見直す必要があると強く感じました。先日の講義やブログを拝見して、自分自身育児や虐待について改めて深く考えさせられるいい機会となりました。


投稿者: こめ | 2012年12月11日 09:19

今まで私は虐待とは、身体的、精神的の暴力だけだと思っていました。しかし先生の講義と今回の記事を読んで、虐待に関する考え方が変わりました。「悪意なき虐待」という「お菓子が食べたいといったからご飯ではなくてお菓子を食べさせた」「疲れているからテレビを観させていた」というように子供の言ったとおりにする、自分が少しでも楽しようとする、このような行動も虐待に入るのだということがわかり、驚きました。これを知ったうえで小さいころの記憶を思い返してみると、私の母はすばらしかったと思いました。私には母とどこかに出かけた記憶はあるものの、父とどこかに出かけた記憶、楽しそうに話した記憶があまりありません。そのためか、今でも父と会ったり会話したりするのが苦手です。絆は子供ができたら親子間で自然と形成されるのではなく、生まれた後どう人生に関わっていくかで形成されるものだと思いました。また、子どもの言うとおりにすることだけが愛情ではないということもわかりました。子供の言うとおりにしたがために虐待になってしまうことはとても恐ろしいと思いました。子育ては夫婦や周りの協力が大切だと感じました。


投稿者: amnos | 2012年12月11日 12:06

 この記事を読んで、私は親が親としての自覚をあまりにも持っていないことが問題であると考えた。特に、親自身が子どものために犠牲になるという気持ちがないということが問題であると考える。「おなかがすいたら作る」家庭が増加していることや、子と映画を見に行き別々のものを観るといった事例など、親の都合や自己中心的、自分勝手な考えが子育ての中に多く入ってきてしまっている。子どもを親の都合に合わせるのではなく、親が子どもに都合を合わせることが必要である。
 このように、親はその場だけを逃れるために子どもを一人前扱いするかのような子育てをしてはならない。もちろん一人前のように扱ったり意思を尊重したりすべきときもあるだろうが、必ず親が一度立ち止まって、その子の成長のなかで中長期的な視点でその意思を尊重すべきか考えて、子育てをすることが大切であると考える。


投稿者: 秀栄 | 2012年12月12日 16:57

特に、育児というものは各々の家族形態にもよるし、他人に干渉されないという点で、本当に複雑だと思います。きっと、悪意なき育児放棄というのも、一概に親だけの問題ではないはずです。それまでの、親の人格形成の過程や環境にも起因するものだと思うし、社会にはもっと外部から育児に関する情報を親に与える義務もあると思います。“悪意なき”という言葉だけで片付けるのではなく、上記の例なども育児放棄の一種であるということを全面的に発信するべきだと思います。


投稿者: ms | 2012年12月13日 22:17

虐待とは、暴力をふるって直接子供を傷つけることだと思っていましたが、このように子供の望み通りにさせることによって、悪意がないとはいえ、育児放棄という虐待があることを初めて知りました。
自分は子供の時は、決まった時間にご飯、またはお菓子を食べ、決まった時間に寝て、決まった時間に起きていました。これは、親が規則正しい生活をさせるためにそのようにさせていたそうです。
ですが、この記事にあるように、子供が冷食などでご飯をすませてしまったり、食べたいと言わないから食事をあたえなかったりしている親がいると知って、驚愕しましたし、それは子供の健康を損なう原因につながると思いました。
子供がわがままを言ったり、しつこく寄ってくるのは当たり前のことだと思います。だからと言って、そこで親が、うっとうしいからなどと言って子供の思い通りにさせるのではなく、きちんと子供のことを考え、その都度適切な対応を取るのが、親がすべきことであり、育児なのではないかと思います。
子供のしたいようにさせてあげたいと思うのは山々でしょうが、その気持ちを抑えて、子供のためを第一に思って過ごすからこそ、育児は大変なのではないでしょうか。


投稿者: JINRO25 | 2012年12月13日 23:26

育児放棄とはご飯を与えなかったり、子どもを無視したりするというイメージだったが、現代の親たちは、「息子が朝食はプリンと言ったから」「おやつを食べすぎた娘が夕飯は食べたがらなかったから」その通りにした。という事例にもあったように、子育てとはいえない子育てをしているという現状にとても驚いた。このようなことをする親たちは、自分が悪いことをしているとは自覚していないと思う。子どもの好きなことを、好きなようにさせてあげていると思っているからだ。それは決していい子育てではない。時間をかけて子どもと接したり、一緒に遊んであげたり、悪いことをしようとしたら叱ってあげる。子どもを育てるということは、とても大変なことなのだ。それを面倒だと思わずに、子どものことを考え、接することが子育てであるということを理解してほしいと思った。悪意なき育児放棄も、れっきとした育児放棄であるということを、現代の親たちに伝えたい。そして、その子どもたちが親になったときに、同じようなことを繰り返さないように、今のうちから改善していきたい。


投稿者: スヌーピー | 2012年12月19日 11:27

 私は、宗澤先生の講義を通じて初めて「悪意なき育児放棄」という言葉を知りました。これは、私が持っていた、「子どもの訴えを無視する」、「食事を与えないで放置する」、といった育児放棄のイメージとは異なっていたものの、現代の家庭における大きな虐待問題だと感じました。記事にもあるような事象が「例外」ではなくなってきている、という現実に大変驚きました。しかし、そのような行為を虐待だとは知らずに日常的に行っている親も少なくはないでしょう。このような「悪意なき」親に対して、何らかの対策をとり、子育てに対する意識を変えることが求められると思います。
 子どもの成長には親の愛情が必要不可欠です。しかし、子どもをわがままを受け入れることは「愛」なのでしょうか。子どもの身体的、精神的に健やかな成長をサポートすること、そしてそのために本当にすべきことが何なのかを考えることこそが本当の「愛」であり、親としての義務だと私は考えます。


投稿者: Rei | 2012年12月21日 20:09

子供の望むものを提供することで、結果として子供の健康や発育を阻害してしまう、まさに「悪意なきネグレクト」であると言える。子供の言うことはなんでも聞くという親のその間違った考え方で、親は自分は子供に愛情を注いでいると錯覚しているのではないだろうか。たしかに、そこには悪意は存在しないのかもしれないが、子供の心身の健康を阻害しているのは明白である。女性の社会進出などで、託児所の需要が増えている現代だからこそ、子供には“家庭の味”が必要なのであろう。


投稿者: Anonymous | 2012年12月22日 17:22

 「息子が朝食はプリンと言ったからプリンを与えた」「夕飯を食べたがらなかったから与えなかった」というようなことを親自身は何も悪いことだとは思っていなく、「ただ子供の希望通りにさせてあげただけである」とむしろいい方に感じているそうだ。岩村暢子さんの新聞記事や先生のブログを読んで、そのような現代の親たちの実態を知った。親本人がこれを育児放棄に当たるとは感じていないところが怖い。
 最近は共働きの夫婦も増え、子供を相手にする時間を減らすためになるべく葛藤を避けようとすぐ子供の言う通りにしてしまう親が多いようだ。これは本当の親ではないと思う。
 私と母はよくけんかをする。しかし、私は母にだけは何でも話せるし、だからこそ意見をぶつけあえるのだと思う。親は子にとって最も身近な存在である。お互いの感情をぶつけあえ、本音を話せる関係こそが真の親子関係なのではないかと私は考える。

 


投稿者: ぎおん | 2012年12月23日 22:12

親は果たして誰のために生活を営んでいるのか。と改めて考えさせられた。現在、育児放棄、共働きなどが問題となっている。親は自分のことだけで疲労感が溜まっている。そこに、育児が入ると何をどうすればよいのかわからなくなってしまい、自分のことを優先してしまうのではないか。「子供が欲しがるから与えた」、「お腹いっぱいのこどもが親との夕食に興味を示さない」など無意味なことはしてはならない。家族と食べることで子供は「自分はこの家族の一員だ」と気が付くであろう。バランスの良いご飯を食べて成長していく場でもある。親の甘い考えだけで育児をしてはいけないと考える。


投稿者: はな | 2012年12月28日 10:12

 私はこの記事で紹介されているような親は悪意がなければ責任もないと思いました。
 確かに大人同士の関係なら他人を尊重することは他人の好きなようにさせることと同義であるかもしれません。しかしそれは自己管理が出来る者に限ります。だから大人と自己管理の出来ない子どもとの関係においては上記の事柄は成り立たないのです。
 大人が子どもを尊重すること、つまり大人の子どもへの責任とは子ども1人が担えない責任を負ってあげることだと思います。よって子どもの好きなようにさせてしまうような親は責任逃れをしているように思われます。


投稿者: くるくる | 2012年12月31日 14:05

こどもがおなかが減っていないと言ったから、風邪をひいていて食べたがらなかったから食事を与えなかった。
これは親としての責任が云々ではなく、世の中の親たちは、基本的に子育てに必要な知識が欠如している状態であることを如実に表していると思います。彼ら、彼女らは自分の親から実体験を通して親が子どもにすべきことを学んではこなかったのでしょうか。育児放棄である事実に気が付かないなんて非常に恐ろしいことだと思いました。
また映画館に家族と行っても各々が自分の見たい映画をみる例を知り、家族の愛って一体何なのだろうと悲しくなりました。親子の絆は互いの利益を優先して成り立つものではないと思います。慈しみと相手を思いやる気持ちを忘れてはなりません。
しかしこのような例を聞くと、いずれは育児放棄や虐待よりも前に、「親子の絆とは何か」が問題になるのではないかという不安を捨てられません。
最後に、娘さんに5時半に起こされても叱らず公園に連れて行ってあげるとは、先生は素晴らしい親だな、と感心しました。


投稿者: rin017 | 2013年01月05日 21:27


色々なことが便利になり過ぎてきてしまった結果として、家族のあり方にも大きく影響を与えているのだと感じます。自身の過去を思い出してみると、幸い、毎日家族みんなで食事を取り、TVも同じものを観ることで、家の中にいる時の家族で過ごす時間というのは大切にされてきたのかなと思います。親の話によると、私が就学前は、毎朝8時頃から外に出て、サッカーをやっていたそうで、父親は仕事に行っているので、母親が家事を放り出してでも一緒にサッカーをやってくれたと聞きました。今思うと、やらなければいけないことがある中、子どものことを第一に考えて、行動してくれた親に感謝します。なるほど、そのようにして家族の絆は形成されてきたのだと思いました。ただ、私が親の立場に立った時に、サッカーをして外で子どもが遊んでいるなら、外の様子を気にしながらであれば、家事をすることを優先してしまわないかなと不安に感じました。ただ、これも悪意なき育児放棄のひとつになってしまう可能性は十分あるのかなと思います。改めて親子の関係の難しさを感じました。


投稿者: HTS | 2013年01月11日 16:18

親は子どもの意志を尊重し、その子の望みを叶えることで所謂”育児”をしたという気持ちになってしまう。しかし、ここで親が子どもにしてあげることは、その場しのぎのようなものであって、その子の将来にとっては有効でないようなものが多い気がする。そしてこれらの”悪意なき育児放棄”には、どのような解決策が考えられうるのか考えるところがあった。親としては、今子どもが喜ぶことを優先して、将来的な部分を考えていない、にもかかわらず親自身は自覚していない。これらのことからだけでも親の育児に対する知識不足が目に見える。解決策を考えていく上では、この親の知識不足に目を向けることをしていくべきではないのかと感じた。その例として、学校や自治体単位での育児に関しての講演会を行っていくこと等が挙げられる。ネグレクトなどが社会問題になってしまっている現代では、子どもの教育だけではなく、親の世代における教育も進めていかなければならないと思う。


投稿者: sinkuro | 2013年01月12日 11:28

今回のブログを読んで自分たちとは育児の方法が大きく異なってきていることを知りました。自分のときは我慢をすることが前提で、たまにお菓子を買ってくれたりすることが、うれしいことだったと記憶しています。今の、親の育児に対する無知さには驚きを隠すことができないです。育児には親が責任を持って行ってほしいと思います。


投稿者: N-T-T-W | 2013年01月12日 21:50

育児に関する問題は自分の学科の授業でいくつか扱われてきたが、この問題は深刻であると考える。子どもの意思を尊重させた育て方よりも、しつけ、きちんとした生活を送らせるということが親としての使命であると私は思う。そもそも、「親になる」ということがどういうことなのかを自覚できていない親が近頃多くいる。育児に関する教育を充実させることなどにより、親としての意識を変えていく必要があると思われる。


投稿者: mh | 2013年01月15日 11:22

ここに挙げられている「悪意なき育児放棄」という問題が数少ないものではなく、今や社会的な問題になってきているということを多くの若い親子が認識していないように感じた。認識していないからこそ、自分の行為を何とも思わずにいてしまうのだろう。子どもの意思を尊重して、正しいことをしているようにみせて、子どもにとって良くないことをしてしまうのだ。
また、「悪意なき育児放棄」などの問題を抱える様々な親子にとっては「絆」において「ほだし」の意味合いが強くなっているのではないかと思う。親子が互いに束縛しあうのではなく、もっとお互いに愛情をもった行動ができればよい。とはいっても、幼少期の子どもは自分勝手な行動をとりがちであるため、親側が寛容でなくてはならない。


投稿者: ジョルジュ | 2013年01月17日 03:31

「食べたがったので食べさせた」、「食べたがらなかったので食べさせなかった」。悪意なき虐待の一例として挙げられたこれらの言葉に驚きを通り過ぎて呆れを感じました。私は現在20歳、子供はいません。結婚経験も育児経験もありませんが、これが正しいことではないということはもちろんわかります。
自分は現在飲食店でアルバイトをしています。勤務中に『セットのおもちゃをねだる子供、言われるがままに買い物をする親』を見かけたことがあります。メインの品物、おもちゃ、アイス、ゼリー、プリン、そしてLサイズのコーラ、Lサイズの揚げ物。子供に言われるがままにすべて注文をする親に対して非常に疑問を感じています。カロリーを計算してみなさい、栄養バランスを考えなさい。そういった親に対して説教したくなることが多々あります。
子どもの言うことをはいはいと聞いて甘やかすのも立派な虐待であると思いました。そして、悲しいことですが、そういった親に「間違っている」と言うことができる存在が必要であると感じました。


投稿者: poco | 2013年01月19日 11:01

私が知っている家庭では、食事時間はその日の流れに任せ、買ってきたものやスナック菓子など、また、お風呂は子どもが用意するということで、子どもが準備しなければ夜の12時になっても皆お風呂に入っていないなど、しかも小学生もいるのですが、とてもびっくりしています。 親にはそれが問題であるという自覚はなく、大人というよりは好き勝手にしている高校生のような心を持った大人のようで、気が向いたら何かするといった。いわゆる「親」という概念はないのかと思います。
 「親」になるという教育は、以前は家庭の中で当たり前のように行われてきたにもかかわらず、両親の共働きなど社会変化によって家族の関係が希薄なってきたと感じています。また、「やさしさ」という偽物である愛情をもとに個人の欲求を満たすことを追求している現代にあって、家族という自然の営みの中で人間として大切なことを伝えていく場がなくなってきています。そいうことを考えるときに子どもが多くの時間を過ごす学校教育の現場が、人間として大切なこと伝える重要な場であると考えます。
 しかしながら、教育現場では様々な社会の問題が噴出してきていて、子どもにとって十分な支援をできる環境が、今までの教育体制ではできないと思います。より社会の諸問題を解決するためにも、十二分な教育体制、教育支援を考えていかなかればならないと思います。


投稿者: besttwoyears | 2013年01月19日 13:30

私が知っている家庭では、食事時間はその日の流れに任せ、買ってきたものやスナック菓子など、また、お風呂は子どもが用意するということで、子どもが準備しなければ夜の12時になっても皆お風呂に入っていないなど、しかも小学生もいるのですが、とてもびっくりしています。 親にはそれが問題であるという自覚はなく、大人というよりは好き勝手にしている高校生のような心を持った大人のようで、気が向いたら何かするといった。いわゆる「親」という概念はないのかと思います。
 「親」になるという教育は、以前は家庭の中で当たり前のように行われてきたにもかかわらず、両親の共働きなど社会変化によって家族の関係が希薄なってきたと感じています。また、「やさしさ」という偽物である愛情をもとに個人の欲求を満たすことを追求している現代にあって、家族という自然の営みの中で人間として大切なことを伝えていく場がなくなってきています。そいうことを考えるときに子どもが多くの時間を過ごす学校教育の現場が、人間として大切なこと伝える重要な場であると考えます。
 しかしながら、教育現場では様々な社会の問題が噴出してきていて、子どもにとって十分な支援をできる環境が、今までの教育体制ではできないと思います。より社会の諸問題を解決するためにも、十二分な教育体制、教育支援を考えていかなければならないと思います。


投稿者: besttwoyears | 2013年01月19日 13:31

私は今まで「悪意なき育児放棄」という問題を考えたこともありませんでしたが、これは実際、現実に起こっている問題なのだと思いました。この記事で挙げられている場面は日常でもよく遭遇するものばかりでした。
 私は子育てというものは決して楽なものではなく、むしろ難しいものなのだと思います。1日3食、子どもの食事をしっかり用意すること。自分自身の多忙なスケジュールの中で、子どもに正しい生活リズムを身につけさせ、子どもとしっかりコミュニケーションをとること。これらは誰でも簡単にできることではなく、努力が必要なことだと思います。
 そこで親は、子どもの意思を尊重するなどと言い訳をしますが、結局それは子育てをする上で親としてやるべきことをできていないだけなのだと思います。もしこのようなことが原因で将来子どもに何らかの害が及んだ場合、それは「悪意なき育児放棄」と言われても仕方ないと思います。
 親として育児をするという覚悟と責任をしっかり持つべきだと思います。


投稿者: Matsu | 2013年01月19日 17:12

 私の小中高校時代には、「塾で帰りが遅い」「親の仕事が忙しい」などの理由から、家族全員で食卓を囲まないのはよくあることで、当たり前に思っていました。この記事を読んで、「当たり前」になっていることが非常に恐ろしく感じました。特に「悪意なき…」の部分に、私は日本の福祉の在り方に対する鋭い問題提起(無意識であることの犯罪性のようなもの)を感じました。
 日本は諸外国と比べて労働時間が多いことが、親と子どもの生活リズムが著しく切り離される原因の一つだと考えます。これは、もはや親の問題というよりも社会の問題であり、高次の政治課題です。労働の仕組みを根本から変えていく必要があると思います。しかし、そうした困難な課題や状況にあるとしても、個別の家庭はある程度、創意工夫した生活のやり繰りや相互理解で対応できる部分もあります。親は、家族みんなで食事をしたり、遊んだりする一定の時間を設けてもいいはずなのに、なぜそうしないのかと思うと、その辺りに「悪意なき育児放棄」があるように思われます。親が「子どもの意思を尊重する」ことを建前にして、子どもとの葛藤を避け、子どもに教え育まなければいけないことをしていない状況にあるのです。この記事の中で葛藤を伴わないやさしさは存在しないとありましたが、非常に納得しました。私は、親子という関係は葛藤を乗り越えられると思いますが、最近の親は葛藤する前に子どもから逃げてしまっているのではないか、つまり、「みせかけのやさしさ」なのではないかと考えました。
 最近、子どもとの接し方が分からないという親がいることを耳にします。その原因は様々にあるのでしょうが、私は情報化社会で人と人との直接のコミュニケーションが減ったことも原因の一つではないだろうかと思います。一緒に部屋にいても、ゲームやパソコン、携帯電話などに夢中で会話が減ったり、傍にいるのにメールでやりとりする、という事が起きています。時には“原始回帰”で顔を見ながらのコミュニケーションも必要なのではないでしょうか。世間体など気にせずに親子が理屈抜きで裸の感情をぶつけ合い、泣き笑いする日常風景があってもいいと私は思います。


投稿者: aplicot | 2013年01月19日 23:20

私はこの記事を読んで「悪意なき育児放棄」の恐ろしさを学んだ。
育児放棄とは単に、子どもの世話をせずに、物事の決定権を全て子どもに任せている状況のことを呼ぶのだと勝手に解釈していたのだが、現実はそれだけではなかったからだ。
子どもの言うとおりにしてあげていれば、親も楽であるし、子も喜び、一石二鳥だと考えてしまうところが、この「悪意なき育児放棄」に陥る原因だと思う。これを繰り返して成長していくと、正常な人格は形成されないだろう。
しかし、だからといって親の言うことが「すべて」という考えは逆に子どもを萎縮させてしまう恐れがあるため、子どもを最大限に尊重しつつ、親が最善の方法に導いていく、という配慮が必要だと思う。
親は子の人格を形成するための最大の要因だと私は考えているため、育児の際は心して取り組みたい。


投稿者: fkd0426 | 2013年01月21日 01:46

この記事を読んで私の児童虐待に関する概念が全てではないのだと感じました。暴力、無視など以外にもこのような形の虐待があると知って正直信じられない。勿論、その時期の子供の世話というのは手がかかるものだとは思うが、それで記事のようなことをする親がいるのだとしたら、子供を産むことの責任の重さをわかっていないと思う。また、だからといって子供のいうことを全部聞いて「甘やかす」というのもまた間違っていると考えます。
家族というのは、子供が将来社会で生きていくために必要なことを学ぶ縮図のようなものだと思います。なので、親は子供との関係を慎重かつ適切に築く必要があると私は考えます。


投稿者: 緑茶9029 | 2013年01月21日 10:43

この記事を読んで、親と子の関係について深く考えさせられました。「子は親に似る」というように「悪意なき虐待」を受けた子供が大人になり、親となってもこのサイクルの繰り返しになってしまう可能性は大いにありうると思いました。これをなくすために、親とはどういうものなのか、子供にどのように接するべきなのかを考え直さなければなれないと思う。この記事を読んで、教育や子育ての大切さについていろいろと考えなければいけないと思いました。


投稿者: そら | 2013年01月21日 13:51

このブログを読んで自分の両親は小さい頃から決まった時間にちゃんとした食事を用意してくれたりと自分は両親に感謝しなければいけないと思いました。また、映画を親子別々に見て後で合流するといったことが当たり前になっていることが不思議だと思いました。このように自分が感じるということはやはり恵まれた教育を受けてきた証拠です。私はまだ結婚や育児経験がないのではっきりとしたことは言えませんが、こどもを育てる以上責任をしっかり持ち、こどもは親の言うこと、やることが正しいと思うのでこどもが社会に出ていくときに困らないような性格、人格を形成させるためにも親がこどもの面倒を最期までみるべきだと思います。こどもの相手をしないことを育児放棄とは言えないと思いますが、親としてこどもが喜んでくれそうなことを一生懸命できるような親に自分もなりたいと思いました。


投稿者: ぱい | 2013年01月21日 14:35

前半の食事に関する「悪意なき育児放棄」に関して、私はすんなりと、子どもの健やかな成長を妨げてしまうものであると考えることができました。すなわち、「悪意なき育児放棄」にあてはまると思いました。しかし、アンパンマンを朝見せて自分は寝てしまうという行為に関しては、少し思慮が必要なことのように思います。子どもの常識はずれな行動やわがままを受け入れてしまうことになりかねないと思ったからです。しかし、「感情の過飽和」と言われればそれも納得することができます。このように人それぞれ、一つの事象に対する受け取り方は異なり、それが結果的に「悪意なき育児放棄」を引き起こしてしまうのではないでしょうか。親になる人たちが自分らが取る行動が本当に子どものためになるかを考慮しながら、子育てをできるようになれば、もしかしたら「悪意なき育児放棄」による被害を防ぐことができるのかもしれません。


投稿者: simaziro | 2013年01月21日 20:26

私は母子家庭で育った。母は仕事でほとんど家を空けているため、当時小学生の私が料理や家事、妹の幼稚園の迎えをし、その後、塾に通っていた。つまり、母親が父親役で私が母親役をしていた。子供の期間が与えられなかったのである。いわゆるADHDである。しかし、私は家族がそれぞれの役割を担い、お互いが支え合って生活していたことは今となっては良かったことだと思える。あの頃に一通りの家事と育児を経験したことにより、同年代よりはそれらに精通していると思う。
それよりも、育児において怖いことは「ネグレクト」、それも大人から見たら「そのつもりはない」「命に関わるレベルではない」ものだ。形式的には「遊んであげている」「物を与えている」親、それを疑問ともせずに育つ子ども。そのような親子をよく見かける。
また、過保護という柵に閉じ込められて育ったため、成人をしても自分で物事を選択できないでいる「大人」も多い。そのような環境下で育つと、危機管理能力や、予測ができなくなるだろう。実際に、炊飯器やアイロンの使い方を知らない大学生がいるのだ。
先生のおっしゃる通り、「絆」が都合よく使われていることに危惧している。特に、「絆婚」と呼ばれる夫婦たちとその子どもたち。そこに果たしいて絆があるのだろうか。本来なら支え合って生きていく関係が、孤独の怖さをごまかすための都合のいい相手になっていないだろうか。
社会的な情勢は言い訳にできない。将来の日本の未来を担うのは、今の子どもたちだから。


投稿者: おかめるりこ | 2013年01月22日 12:28

表面的な言葉のやり取りによって葛藤を回避し、互いに「傷つけあわない」間柄を「 やさしさ」とする現象が身近で起こっている。それが過度になれば育児放棄、虐待へと変わっていく。何故親として深い愛情を持って子供と深く関われないのか、疑問符がわく。まだ親の立場を経験したことがないから子育ての苦悩を知らないから怖くもなるが、やはり自分の子供に愛情を持って接することは親として当たり前であると思う。しかし子供に愛情を見いだせない親がいることから、そのような理由を排除し子供へ愛情を注げる対策などが必要であると思う。


投稿者: Br | 2013年01月23日 02:33

今回のテーマである「悪意なき育児放棄」はこれまで私が思っていた育児放棄の形とはまるで違っていた。親が無意識のうちにしてしまっている育児放棄をなくす方法はあるのだろうか。
 子供が食べたい時に食べさせる、子供が喜ぶから何時間もテレビを見せる、このような親の行為は決して子供のためにはならない。親がこのことに気が付かない限り、この問題はさらに増加してしまう気がする。
 決まった時間に子供を起こす、一日三食食べさせる、決まった時間に子供を寝かせる、こうした行動は親にとっても大変であろう。しかし、子供が一人前の人間として成長するための最大の要因であるのは親である。このことをすべての親が自覚していかなければならないと強く感じた。


投稿者: YFM03 | 2013年01月23日 13:13

 この記事を読んで、「悪意なき育児放棄」という言葉に納得してしまいました。子どもの意思のままに食事を与える、子どもの見たいテレビややりたいゲームを与える、一見子どもを尊重しているように思える行為も、よく考えれば親の子どもに対する「無関心」が産み出した行為なのではないかと感じました。「束縛なしの絆はあり得ない」、その通りだと思います。親としてやるべきことは、子どものしたいようにさせることではなく、子どもの為になることをさせることだと強く思います。


投稿者: ぴーこ | 2013年01月23日 15:32

私はこれまで、自分は虐待問題とは関わりがないと思っていた。おそらく多くの人もそうであるに違いない。しかし、現在では「悪意なき育児放棄」が気付かぬうちに当たり前のように行われているというのが現状である。
この育児放棄の最大の問題は、悪意がない故に親も子供もそれが虐待であると認識していないことだ。

食事は親と子供の関係を築く過程において最も重要な過程であると思う。親が愛情を込めて作ったバランスの良い食事を、家族みんなで、たわいもない話をしながら食べる。昔はこれが当然だったはずである。
しかし現代では、子供が「食べない」と言ったから、「お菓子がいい」と言ったから、「野菜が嫌い」と言ったから、などの幼い子供の言うことを理由に食育が崩壊してしまっている。これは決して子供が悪い訳ではない。親子の絆の意味を、親がはき違えているのだ。好き嫌いは直させ、一日三回の規則正しい食生活を習慣づけさせることが本当の親の子供に対する愛情なのではないか。
虐待問題は、まずは食育から見直すべきである。


投稿者: ちぇり | 2013年01月23日 15:46

 先生のブログに記されていた子どもへの食事に関係した光景として、私はアルバイト先の飲食店で、夜の12時過ぎに、眠そうな幼い子どもを連れ来店する家族の姿をよく見かけます。幼い子は睡眠するべき時間であり、なぜ深夜に子どもを連れだすのか、身勝手な親であるな、といつも感じています。このような、子どものするべき生活を無視して親の生活リズムに付き合わせることも、「悪意なきネグレクト」といえるのではないか、と先生のブログを読んで感じました。
 このような親には、子どもを育てる親としての自覚がまず足りていないのではないかと思います。「悪意なき」点から、何が子どもの成長に悪影響かどうかも判断がつかないため行ってしまうのかもしれませんが、一人の人を育てていくことに関して、しっかりとした知識を親自身が身につけていくこと、そしてその支援をまわりが行っていくことが現代には求められているのではないか、と感じました。


投稿者: うみ | 2013年01月23日 16:02

 私は幼い頃、一人でテレビにかじりついていることが多かったと記憶している。今思えば、そうしている時間、幼い私の脳内はテレビの映し出す世界に支配されていたように感じる。しかし、親と一緒にテレビを観ることも勿論あった。その時、私と親との間には会話というコミュニケーションがあった。幼い頃の私は、テレビは一人で観ている時より、親と一緒に観ている時のほうが充実した時間を過ごせているというふうに感じていたと思う。
 この記事を読んだ上で、さらに自分の幼い頃の経験を踏まえ、かつて私が感じた親とのコミュニケーションによる「充実感」は、やがて親子の絆の形成につながるものだったのではないかと思った。また、子とのコミュニケーションというのは、大変な思いをしながら子育てをしている親にとっては面倒なものだと感じることも多いかもしれないが、親子の絆を形成する上で重要なファクターであるとも思った。


投稿者: サトユ | 2013年01月23日 19:46

 この悪意なき育児放棄の記事を読んで私が思ったことは、この親たちも、実は子どものより良い成長にとって手抜きになってしまっていることに気づいていないのではないかと思った。また、食事も休日の子どもとの過ごし方も仕事を持つ親たちにとって、両立をするのは確かに体力のいることであると共感できる。私は、子どもを育てるための環境が整っていない日本の社会にも問題があるのではないかと思う。仕事の量が多すぎること、これが子育てへの手抜き、晩婚化、少子化など日本の様々な問題に繋がっているのではないかと考える。


投稿者: えんどう | 2013年01月23日 22:50

私は両親が共働きでしたが、母は私を大切に育ててくれました。しかしもし私の両親が間違った知識を持っていたり育児に対しての知識が少なかったりしたならば同じように大切に育てたとしても違った結果になっていたかもしれません。
私は悪意なき育児放棄を減らすためには、育児に関しての間違った知識や無知を減らしていくことが大切だと考えます。


投稿者: アリゲーター | 2013年01月23日 23:10

現代における「当たり前」の怖さを客観的に考えさせられた。これらの親は自覚が少なすぎると感じた。私はこの子のたった一人の父親、母親なんだと自覚し、意識を自分のやりたいことに向けるのではなく、わが子に向け、その子のために尽くしていくことがまずは第一である。忙しい現代だからこそ、家族との絆、親子の絆、夫婦の絆について、今ある現状を「当たり前」として捉えるのではなく、再確認すべき時代が現代であると思う。


投稿者: M,H | 2013年01月24日 00:33

この記事を読み、子どもを育てるとはどういうことなのかと考えさせられました。子供が望むこと、たとえそれがあまり良くないことであったとしてもその通りにしてあげるのが子どもに対して愛情を持つということなのか、記事に出てくる親の行動には、そのような疑問を持ってしまうものが多く見られました。悪意なき育児放棄、それは、子どものためといいながら本当に子どものためになるのかどうかを考えることをやめてしまった親が行き着くところなのではないでしょうか。子どもを育てるということは本当に大変なことだと思います。多くの時間や体力を使います。しかし、私は、お金や自由を与えることではなく、子どものためにそのようなことするところに本当の愛情は現れるのではないかと考えています。お金を与え、自由を与え、親子それぞれが自分の好きなことをして過ごす。そこに親子としての形はないのではないでしょうか。だからこそ、記事にあるように葛藤を回避することなく子どもと向き合い本当に子どものためになることをすることが現代の子育てには必要なのではないだろうか。 


投稿者: ベル | 2013年01月24日 02:54

「悪意なき育児放棄」の最大の問題は、その題の通り親に育児放棄をしているという自覚が全くないことだろう。テレビだけでなく、最近はスマホやiPadを子どもに遊び道具として渡している親の話もよく聞く。もちろんその親自身が改善するべきであると思うが、スマホなどの普及や、冷凍食品、女性の社会進出などの産業の発達や時代の変化がこのような事態を引き起こす原因の1つになっているのではないかと思った。育児や家族のつながりに関してもっと多くの人が関心を持ち、この事態に気付くことが必要であると思った。


投稿者: もちょ | 2013年01月24日 17:01

悪意なき育児放棄をしている親は子供を甘やかしておくことで、親子間で起こる様々な問題から逃れようとしているしよう思います。親は自分自身をを優先することで、子供への愛情が薄くなっている気がします。しかし、自分が子供と向き合いたくないからといって、子供を甘やかしてはいけないと思います。それが育児だと信じています。


投稿者: ドット | 2013年01月24日 17:51

この問題は深刻だと思いました。子供が望んだことをするのは最低限の愛情であり,それで育児をしていると考えるのは間違いであると思います。このブログに書かれているような,外出先で放っておいたりVTRを見せて寝てしまったりする親は近年増加していると思いますが,それで子供が愛情を感じられるとは思えません。子供の立場になって考えて行動することが,育児に必要だと思います。また,「悪意なき育児放棄」がもっと一般的にならないと対策するのも難しいと思いました。まずは,この事実をもっと多くの人に知らせる必要があると思います。


投稿者: キャンディー | 2013年01月24日 23:16

「悪意なき育児放棄」は育児放棄という言葉を聞いて私が思い浮かべた故意に食事を与えなかったりオムツを取り替えなかったりという行為よりも厄介なものなのではないかと思いました。なぜならこの「悪意なき育児放棄」は育児放棄をしている親の側もされている子供の側も自覚がないのでは、気づかないのではないかと感じたからです。とても些細なとこですが親が自身の行為を省みること、そして周囲で起きている育児放棄に気づける注意力が今の社会には必要だと思いました。


投稿者: RS | 2013年01月25日 06:20

子どもの言動のみに基づいて世話をしてやるというようないわば「悪意なき育児放棄」は大きな問題である。まだ幼い子どもたちに彼らの意思を完全に尊重させてしまうことは極めて危険な行為である。もちろん彼らが欲しているものを与えない意図的な育児放棄は言うまでもなく問題であり危険であるが、「悪意なき育児放棄」においては、子どもたちが自分の成長さらには生存に必要なことを自ら判断できることは到底言えないであろう。自己管理能力の未発達な子どもたちには親による管理、利己的なものを意味しているのでは決してなく子どもたちのためを想ったもの、が不可欠であり、何よりもまず人々がそのことに気づくことが必要であると考える。


投稿者: サティス | 2013年01月25日 10:53

悪意なき育児放棄がある事実に、やりきれない思いを感じました。これは親に知識がないことも原因があると思い、親への教育をしなければならないと感じました。以前、家庭科の授業を受けた時、いくつかの家庭の朝食を紹介していたのを見たことがあります。その中にお菓子と納豆の組み合わせの朝食がありました。これは納豆という健康に配慮した食品を混ぜることで、親はお栄養の面を満たしていると感じてしまっているとの事でした。でも実際、特に野菜などのビタミン類、カルシュウムなどのミネラル等が満たされていませんでした。栄養面が完全に満たされない食事を与えられる子どもは、たしかに育児放棄されていると言えます。また、親の思い込みだったり、知識がない事が原因だとすると親の悪意もないとも言えると思います。このような悪意なき育児放棄が子供の発育、発達に影響してしまう事、どうにかしたいなと思いました。人の教育は大切な事だと改めて思いました。


投稿者: きょうこ | 2013年01月25日 11:00

私は、子供に栄養のある食事を三食与えるというのは親の仕事というより義務だと思います。もちろん、たまにはお惣菜を買ったり、外食したりと手を抜くことも必要ですが、子供のころに、決まった時間に朝昼晩と三食ご飯を食べるという習慣を身につけさせることが重要なのではないでしょうか。
そのためには、親になる前に子育て(特に食事)についての知識を義務教育などでしっかり学ぶことが大切だと思います。
私の両親はいつもおいしいご飯を当然のように準備してくれていました。
自分も子供ができたら、両親が今まで当たり前にしてくれたことを、当たり前にしてあげたいと感じました。


投稿者: yk | 2013年01月25日 11:05

現在の親世代には社会的にさまざまなプレッシャーがかかっていると思います。サービス業などではあたりまえのようになった24時間営業はそ雇用条件の悪化の象徴だと思います。また、最近になっては近所関係も淡泊になり、まえでは子供にいろいろな教養をおしえてくれた近所のおばちゃん、おじちゃんはいなくなってしまったでしょう。子供のことは全て親の責任と一戦をひかれた親にかかる重圧は相当なものだといえます。また、子どものきまった生活リズムにあわせずらい労働時間、また子どもができたからといって、あがらない給料も親の息をつまらせているんではないでしょうか?
社会全体として子どもを育てるという視点と、子どもをもつ親のことも考えるかとが必要なのではないのでしょうか?


投稿者: まるお | 2013年01月25日 15:55

この記事を読ませていただき、私はまず、悪意のない育児放棄というものが存在することにびっくりしました。たしかに、子供のことが嫌いで寄せ付けないようにしたり、捨てたりするのとは違いますが、こういう形で育児に積極性を持たない親がいることを知りませんでした。当人たちはおそらく仕事の忙しさで育児に力がはいらなかったり、もしくは自分の好きなことをしていたいだけだったりするのでしょうが、そういった親は物心ついたかついてないような、日常のすべてをピュアに吸収してしまう幼い子供が、ご飯の時間におやつをたべたり、食事の時間がばらばらだったっり、映画は親と行っても別々のものを観ることを常識と思いながら成長していってしまうことや、しっかりしたリズムでしっかりした食事をとらない子供がちゃんと成長できるかなどの、その子の将来のことまで頭が回っていないのではないしょうか。子供の好きなことをさせてあげることはとても大切なことだと思いますが、幼い子供は好きなことの善悪や、自分や周りへの影響まで考えることは困難だと思います。その基準を判断して管理してあげるのが親の役目であり、そうやって制御する厳しさと、後押しするやさしさがあって親子の絆は生まれるのではないかと思いました。


投稿者: itaryo | 2013年01月31日 02:16

「悪意がない」というのは本当にやっかいだと思います。私は自分の母親にこの「悪意がない」ことを理由に振り回され、幼少期から思春期までの思想や考え方が歪んだと思っています。それっぽい言葉でそれっぽいことをしてそれっぽい形になって自己満足をしているに過ぎません。絆の例が分かりやすいです。絆という言葉で、表面上だけ家族ごっこをし、絆が深まったかのように見える形骸化した家族の姿です。中身がともなっていない家族ごっこは後々亀裂を深めていくだけだと思います。そこには共有・コミュニケーションが欠けています。社会でも度々見かけます。重大で深刻な問題が明るみにでないようにと、問題をなあなあにして、もみ消そうとします。そしてそのしわ寄せが力のなく位の低い者に及び、苦しめていきます。それまでに小さな問題の段階できちんと問題を共有し解決するようなコミュニケーションを取っていたらそのようなことにはなっていなかったはずです。こういった社会問題に家族問題は非常に似ていると思います。しかし、疑問を誰も持たず、大きな問題となってから気づいたということも大いにあると思います。だからこそ「悪意がない」というのはやっかいで、無意識のままに葛藤を回避することで一見家族が成り立っているという錯覚を見せてくれます。それが結局は家族に居心地のよい環境をつくってしまうのですが、形骸化した家族に大きな問題が起こったときは対処する方法がなく崩壊していくだけです。私の経験則になってしまいますが、共有やコミュニケーションが普段から取れていないと自然と家族関係が上手くいかなくなります。誰もが当たり前のように嘘や隠し事ができる環境をつくり、家族という共同体でありながら、相手のことが全く分からないということに陥ります。そこには家族の形骸化と崩壊という文字しか見えて来ません。そうなってからでは遅いです。いかに普段のコミュニケーションを取ることをできるか、そして互いを理解し乗り越えようとすることができるかが、家族を本当の家族として機能させる重要な鍵だと考えています。そしてそれを定期的に確認する必要があると私は思います。


投稿者: SST57 | 2013年06月18日 20:58

アンパンマンだめですか?

共働きで、夫は育児に全く協力しません。子供は反抗期で、細切れ睡眠しかしないので、毎日くたくたです。休日位少しは寝たいです。

アンパンマン見せて寝ている日あります。
確かに悪意なき育児放棄かもしれません。でもそうしなければ疲れきった私が悪意ある虐待に走ってしまうかもしれません。

これ以上追い詰めないでください。罪悪感で死にたくなります


投稿者: もう死にたい | 2013年06月22日 18:29

「悪意なき育児放棄」のことを初めて聞いたときも衝撃を受けましたが、先日母に話してみたところ、母の職場にもそういった人はいるみたいでこのことは横行しているのだなと改めて感じさせられました。

やはり「悪意がない」といったところが厄介なもので、それが彼らのなかで当然のことになってしまっている現代の家族に恐怖を覚えました。


産んだ以上、しっかりと育てきるのは親の義務であると思うので彼らの考え方を改めさせる必要が早急にあると思いました。


投稿者: tappun | 2013年06月27日 00:50

親子で一緒に映画館にいったのにお互いすきな映画を別々に見るというのも悲しい世の中だと思いました。
近年、モンスターペアレントの存在が世を騒がせていますが、一方で児童に対するDVや育児放棄が増加します。子供のことを好きだからこそ過保護になりすぎて、教師に文句をつけるのはわかりますが、同時に育児放棄も増加しているという事実には耳を疑いました。


投稿者: 元気っこ | 2013年07月03日 14:42

授業や今回のブログで、初めて「悪意なき育児放棄」というものを知った。この記事を読み、育児放棄になる境界線はとても曖昧なものに感じられた。子どもがお菓子を食べたいと言ったらお菓子を与えるという平然と行われそうな行動でも、度を過ぎると育児放棄になりかねない。親同士でコミュニケーションをとりあいながら何が大切で、何がいけない事なのかしっかりと理解したうえで、育児を行っていかなくてはいけないのだと思った。


投稿者: パフェ | 2013年07月03日 17:56

悪意のない育児放棄と聞いて、これは本当に厄介な問題だと思います。親は子供がしたいことをさせてあげていると勘違いしているのかもわかりませんが、問題意識を持っていないのだと思います。子供もやりたいことをさせてもらっていると勘違いしているのかもしれませんがこれでは将来どうなってしまうのかわかりません。親は子供を産んだ以上子供を育てる義務が生じます。一番に考えなければいけないのは子供の未来なのではないでしょうか。親は子供のことを最優先にしなにができるのか、なにをしてあげなければならないのかをもう一度考え直さなくてはいけないのだと思います。


投稿者: ベル | 2013年07月05日 15:25

 「悪意のなき育児放棄」は、科学技術の発達と呼応して深刻化してきたとの見方もあるのではないでしょうか。
 アンパンマンを見せるにしても、冷凍食品のたこ焼きを作るにしても、テレビや電子レンジの発明が前提にあります。科学技術の発達により、ほぼ全ての物事が合理化されていく社会の中で、本来は合理化出来ない筈の育児にまで合理化の波が打ち寄せてしまっている現状があるようです。こんな時代だからこそ、親が防波堤となり、社会と育児を意識的に区別して育児あたる必要があるのではないかと思います。


投稿者: Mr.Child | 2013年07月07日 12:40

悪意なき育児放棄、その名の通り、知らず知らずのうちに子供に悪影響を与える行為をしている親は少なくないのではないでしょうか。実際私がまだ小さい頃、友人の朝食が菓子パンやヨーグルトだけだと聞いて驚いた記憶があります。この友人たちの親は、食育に関する知識が乏しかったのではないかと思います。親になるということは、子供の命を守ることです。親としての責任を持ち、正しい知識を身に付けなければなりません。そのことに気づいてくれる親が増えることを願います。


投稿者: みすはる | 2013年07月10日 16:43

私は「悪意なき育児放棄」というものをこの人間形成と教育の授業で初めて知りました。
というよりも、児童虐待について今まで深く考えたことがありませんでした。
「悪意なき育児放棄」を受けて育ってきた人はそれが普通だと思って,自分の子供にもごく当たり前のように自分がされたことをしてしまう恐れがあるのではないでしょうか。
私のように、このような事実を知らない人は多いと思います。もっと多くの人に「悪意なき育児放棄」というものがあることを知ってもらえればいいなと思います。


投稿者: あいざわ | 2013年07月11日 19:54

このブログの記事を読んで、「悪意なき育児放棄」ということについて改めて考えてみると、休みの日に父親がなかなか起きてこなかったり、子供がお菓子を食べたいといったときにお菓子を与えたりするのは、日本の家庭ではまるで普通のことのように認識されてしまっていることが多く、問題だとすら思われていないことが多いと思います。もしもこの問題が多くの家庭でエスカレートしていき、それらがまた普通のことのように認識されるようになってしまえば、もう歯止めが利かなくなってしまうと思います。したがって、親たちがしっかりと子育てや虐待について学び、ときには親同士で監視しあうようなことも必要なのではないかと思います。


投稿者: キタ | 2013年07月13日 10:09

このブログを読んで「悪意なき育児放棄」ということを知った。親にしてみれば子供の尊重だというが、これは間違っていると思う。なぜならば、食事の問題でいえば親が時間や栄養バランスなどを考えることは、子供の将来を考えるうえで当然のことであるからだ。また、遊びにおいても早起きの話や映画の話を読む限り親の無責任さが読み取れる。子供ができれば、いろいろ大変なことがあるし、自立するまでは面倒を見る責任が親にはあるので、それを怠る親は親としての資格がないと思った。親のあるべき姿を考え実践することが必要であると思った。


投稿者: そら | 2013年07月15日 20:23

 この記事を読み“悪意なき”という部分に恐ろしさを感じた。
 育児放棄と聞くと子どもに十分な食事を与えなかったり、排泄物を処理しなかったりということを今までは想像していた。親に悪気はなく子どもにとって良かれと思ってやっていることが育児放棄へと繋がっている可能性があると考えると大変危険なことだと思った。表面的なやりとりだけで、葛藤を回避することによって親の負担が軽減するかもしれない。しかし、葛藤をくり返す中で親も子も成長していくものだと思う。
 親が子どもに関心を向け、愛情を伝えることで子どもの関心や愛情も親のほうへ向かうのではないだろうか。そして、そういった関係性の中から「絆」がうまれてくるのだと思う。


投稿者: maruko | 2013年07月16日 15:44

子どもの要求通りに、親が食事を与えたり与えなかったりすることは、望ましいことではないと考える。子どもが自分自身で栄養面・体調面を考慮した食事をすることは難しい。だからこそ、親の管理が必要なのである。親は、子どもが何をしたいかということだけを優先するのではなく、子どもにとっては何が必要なのかということを考える必要があると思う。その必要なことを子どもにさせるために、外部から働きかけをすることが、親に求められていることだと私は考える。


投稿者: ahiru | 2013年07月16日 22:41

悪意無き育児放棄は意図して行われる虐待よりもたちが悪いものであると思う。そのような親は「子どものためだから」という理由にかこつけて自分の行動を全て正当化しようとする様子が分かる。これは将来的に親離れができない子どもができたりする原因にもなるだろう。子どもの要求にただ応じるのではなく、時には子どもに我慢させることやつらい思いをさせることも育児の上で重要であるだろう。


投稿者: YsYs | 2013年07月16日 23:42

この記事を読んで、まず最近の親となる人の無責任さ、親となる自覚のなさが浮き彫りになっていると感じた。私自身はこういった経験はなく恵まれていた。たとえば、具合が悪く食欲がないときでも、食べやすいものを作ってくれたし、常に看病してもらえた。だが、食欲がないと、食べたいといわないから食事を用意しないという現実があることに驚きは隠せなかった。親と子のコミュニケーションがうまくいかず、将来その子もこのような親になってしまうのだろう。親になりたくないのになってしまい、悪意すらない無関心な親を再びどのように教育するかを考えていく必要があると思う。


投稿者: jeevas | 2013年07月17日 12:04

悪意のない育児放棄という言葉を聞いたとき、とても恐ろしい言葉だと思いました。私の両親はしつけに厳しく食事も決まった時間に家族で食べていました。そんなときにほかの友人の家では食生活が適当であるということを聞きました。子供のときは厳しい両親が疎ましく、その家族がうらやましく思っていたこともありました。しかし今思うとあれこそ悪意なき育児放棄なのだと気づきました。思い返せば、身の回りで頻繁に起こっている問題なのだと思います。育児放棄とまで言うのはひどいと思う人もいるかと思います。しかし子供にとっての一瞬はその後の人生に影響することの連続です。なに一つとして手抜きをしていいとはいえないと思います。悪意なき育児放棄は、自分では気づけないことであり、誰もがやってしまう危険性をはらんでいるのも事実です。この問題をなくすことは難しいと思いますが、各家庭で意識的に行っていけば、それが次の世代に受け継がれ、なくなっていく問題であるともいえると思います。


投稿者: 白米 | 2013年07月17日 18:26

この話は講義の時間にも聞いていたことでしたが、こういう育児放棄もあるんだなと思いました。自分では子どもの願いを聞いているつもりでもそれが子どもに悪影響を与えているんだということをもっとたくさんの人にしってもらいたい。これに限らず最近の日本では子どもをしかることのできない親が多いように感じる。公共の場で子どもが騒ごうと注意できない親を見ると、こんな親に育てられる子どもはかわいそうだなという思いがわいてきます。子どもの将来のためにも育児はしっかりしてほしい。


投稿者: sun | 2013年07月18日 16:47

確かに、この「悪意なき育児放棄」は、現代の家庭においてよく見られるようになってきました。「子供が食べたくないと言ったから」という理由で十分な食事を与えないのは、自分が養育者であるという親の自覚と責任の不足を意味しているように思います。本当に子供のことを想うならば、子供の間食を注意したり、栄養バランスの取れた食事作りに励んでみるなど、もっと子供の健康に気を遣うべきです。子供の意思とは、まだまだ自分の感情の多くを占めています。親は、食事がどんなに大切であるのかを子供自身のために教えていくべきではないかと思います。


投稿者: りんご | 2013年07月18日 18:52

 悪意が無いとはいえ、さすがにこれはやり過ぎだと思う。もし子供に愛情があり、しっかりと育てたいと思うなら、まず子育てに必要な知識を身に付けることが絶対だと思うし、子供のことをことを思ってやったことだと言われても、無責任としか言いようがない。知らなかっただけで済まされる問題ではない。これでは子供があんまりだし、すぐに無くさなくてはいけない問題だと思う。


投稿者: yottyanika | 2013年07月19日 18:23

先生は授業中にもこのお話をしていましたが、私は第一にそれを聞いて「それの何がいけないの?」と感じてしまいました。そのあとブログにもあるような説明を受けて初めてこれは虐待なんだと認識できるようになりました。
要は、今を生きる私たちは既に、知らぬ間に悪意なき虐待を受けている、もしくはしているのかもしれないと、私は考えました。子どもの言う通りにするのが子どものためだと、どこか間違った認識が自分の中に根付いているような気がします。現に今、いくつかの小学校では「順位をつけるのが可哀想だから」という理由で徒競走が行われなくなり、大人は常に子どもの葛藤を回避させようとしています。言うまでもなく、これは子供たちのためになりません。しかしそれを大人たちは自覚することもできない。根本的に、大人たちの子どもへの向き合い方を問い直すときが来ているように思えます。


投稿者: れぎゅらー | 2013年07月22日 16:53

 最初こそ、親の愛が時には間違った方向に進んでしまうのだなと思っていました。しかし、記事を読むにつれて、自分の理解力がない・経験したことがないということもあるのですが、何が正解で何が間違いなのか分からなくなってきました。
 言えば親も一人の人間です。愛する我が子に嫌われたくないと思うことは自然なことだと思います。そんな我が子が望むことをしてあげるということも理解できます。ただ、私の両親は比較的厳しいほうだったので、食事でいうと、朝食や夕食も家族で食卓を囲み、母親が毎回作る料理を完食する、ということが普通でした。私の親のように、嫌いなものであっても完食するまで食卓から離れさせてくれない場合や記事のように子どもが望む形で応えてあげる場合のどちらも親の愛はあると思うし、どちらかを否定するということは私にはできません。
 我が子の可愛さゆえに・親自身のものさしでしか物事を測れないがために・我が子の意思を尊重するということなどが、時には悪意なきとはつくものの育児放棄と見なされてしまうことがあるということ、こんなにも恐ろしいことがあるでしょうか。記事でいうところの、朝食にお菓子を与える等のことは、周りの人からしたら、「それは愛ではない」「優しさではない、甘えだ」と見えてしまうでしょう。でも本人からしたらそれが当たり前のことなのかもしれないし、間違ったことではないと思っているかもしれないです。逆に、先ほど書かせていただいた僕の親のような場合が間違いだという人もいると思います。それはやはり、その人たちのものさしでしか測れないからだと思います。こんなことを考え始めたため何が正解で間違いなのか分からなくなったのです。
 私自身子どもが好きですが、将来育児することになった時の不安さえ感じてきました。ただ、故意に他人に迷惑をかけることはしたらいけない、という両親の信念は子育てにおいても結構大事なことだとは思っていましたので、今回の機会を通してさらに将来の育児に関して考える時間が持てたことはよかったと思います。


投稿者: てる | 2013年07月22日 22:08

このブログを読んで、悪意のない育児放棄が身近に潜んでいる恐ろしい問題であるということを知ることができた。今まで虐待といえば、暴行や育児放棄、性的なものなど子どもを痛めつけることを目的として行われるものだと思っていた。しかし、この「悪意なきネグレクト」というものは、子どもを痛めつけようとする意志なく行われ、むしろ子どもの意志を尊重した結果引き起こされるものなのである。そのため、親も子どもも周りの人も虐待であることに気づいていないというから驚いた。私の家庭では、朝起きると朝ごはんが作ってあって、学校から帰ると母親が晩御飯の準備をしていて、みんなで揃って食べるということが普通だった。だから初めは「朝食がプリン」「おやつが晩御飯」ということが多くの家庭で例外なく起きているということが信じられなかった。子どもの意志を尊重することは悪いことではないとは思うが、子どものわがままをそのまま受け入れ好きなようにさせることが子どもの意志を尊重した良いことだとは思えない。これは、食事だけでなく遊びにも言えることだと思う。このブログをよんで一番気になったのは休日の過ごし方の例にあった親子で映画館に行くというもので、親子で映画館に行った意味とは何だったのか理解できなかった。子どもが嫌がることはしない、あえて関わらない、果たしてそれは本当に子どものためなのか、そんな都合のいいことだけで繋がっているものを家族の絆といえるのか、非常に考えさせられるテーマだった。形式的な名ばかりの家族にならないよう、本当の絆とはなんなのか、これからの育児のあり方をもっと学んでいきたいと思った。


投稿者: 東 | 2013年07月22日 23:58

私はスーパーでアルバイトをしているが、閉店間際に小さい子供を連れて惣菜を買っていく親をたまに見かける。このようなことや、授業で聞いた話は自分では考えられないことであり、にわかに信じがたい。子育ては授業などで習うものではなく、親を見ることや地域の環境などから身につくものであると思う。しかし、子育てが出来ない親が増加しているのは、そのつながりが崩れてきているためではないだろうか。私は人とのつながりをもう一度見直すべきだと考える。


投稿者: くじら | 2013年07月23日 01:13

この記事を読み、決して他人ごとではないと思った。実家に居たころ、朝食がケーキやプリンということもあったし、家族の食事も時間がバラバラだった。それが当たり前で、おかしいと感じたことはなかった。この話を聞いておおくの人が驚き、批判しているのを見て、ようやくおかしいことだったと気付くほど、習慣化していた。私自身、定時に食事をする習慣が現在ないので、そういう人が親になった時にこのような育児をしてしまうのだと思う。しかし、そのような環境でも、母は私をとても愛していたし、私もそれを幼いころから感じていた。なので絆がなかったなんてことは絶対ないと言い切ることができる。私の義姉も、食事の準備をしている間や手が離せない間、子どもにDVDをみせているが、それも育児放棄と言われてしまうのだろうか。実際はとても愛情をもって育てている。食事の準備の際にDVDを見せているのも、油や刃物のある危険な台所に立ち入らせないためだ。
私のように、このような育ちでも絆を感じている人もいれば、さみしい思いをした人もいるだろう。なので、一概に、この記事のような家庭に絆がないとは言えないし、それを他人が判断するべきでないと思う。しかし、子どもが食べたいと言わないから食事を与えなかったなどという事例はやはりいき過ぎている。悪意がないというところが難しいところで、正解はないが、倫理的な問題が現れている。この記事は現代の文化を良く表しているものだと思った。


投稿者: tesi | 2013年07月23日 04:04

初めまして。北九州市立大学で先生の講義を聞かせていただいた者です。先生のブログを読ませていただき、悪意のない育児放棄はとても怖いと思いました。悪意がないから自分が育児放棄をしているという自覚がないのではないでしょうか。子どもが食べたいと言わなかったから何日も満足な食事を与えないなどという行為は育児放棄に違いないです。子どもの発言をすべて聞き、決定を子どもに任せきるというのはあまりに無責任だと思います。また、子どもが空腹を訴えるとすぐに出せるものを与え、食事を家族で一緒にとらない家庭が増えているということに驚きました。家族で一緒に食事をとり、団欒する時間は家族との絆を深めるために重要なことだと私は考えます。表面だけのやり取りだけでなく、本気で向き合わなければそこに本当の絆は生まれないのではないでしょうか。それは食事だけでなく遊びにも同じことが言えると私は思っています。一緒にテレビを見ようといいながら親は寝てしまっている、一緒に映画に来たのに映画館に来たとたんに別々の行動をとるなど、食事にしても遊びにしても、親子で時間を共有することが明らかに少なくなってきています。そのせいで親子の絆が薄れてしまっています。育児放棄や児童虐待をなくすためにも親は子どもと本気で向き合い、絆を深めていくことが必要だと思いました。そのためにも食事は家族で一緒にとる、一緒にすごす時間を増やすなど、小さなことから習慣を変えていくべきだと私は考えます。
講義本当にありがとうございました。


投稿者: AM | 2013年07月23日 12:29

近頃は本当に毎日と言って良いほど虐待や自殺といったニュースを目にします。
そんな中でも、虐待の現状はどこか他人事で、自分には関係のないことと思っていました。
しかし宗澤先生のブログを見て、もう少しこの現状に世界が、そして私たちが危機感をもたなければならないと感じました。
私が育って来た家庭は毎日3食出ることが当たり前で、高校時代「ダイエットをするから」と夜ごはんを拒んだときもきちんといつも通りのごはんを出されました。
また、カップラーメンやインスタント食品も滅多に食べられず、年に数回食べるカップラーメン、インスタント食品が逆に楽しみでした。
そんな生活が当たり前、常識、と考えていましたが、そんな当たり前のようなことが当たり前にできていない家庭が増えていっていると知り、私はとても幸せな環境で育ったな、と改めて感じました。
この事例のように、まだ的確な自己判断が難しいと思われる幼児や、10代の子どもの健全な成長を手助けすることは、親の義務であると思います。
このような環境で育った子供の常識は自分が育った環境の中で形成されるので、そのまた子供、またその子供、、、とそれこそ無意識の虐待が増えていくのではないでしょうか?
子どもはたくさんの人たちとの交流、コミュニケーションで成長します。本来は絶対的に信頼できるはずの親子の絆を築き、それをより深いものにしていく、これがこれからの社会生活の中の課題です。
このような深い絆を築いていくためにも、数十年前まで行われていた、近所間の横の繋がりや、親せき付き合いを積極的に増やしていく必要があると私は思います。
また、私がここまで育ってきた環境を当たり前と思わず、親への感謝の気持ちを持ちたいと思いました。


投稿者: みるきー | 2013年07月23日 13:38

最近の親は子供の欲求通りに子育てをしていると思いました。子供のしたいようにさせ周りの人の迷惑を省みない。例えばカフェやファストショップで走り回り大声を出す子供を注意しないなどです。また子供の健康状態のことよりも自分の楽さのことを考えてしまうことは食事を与えているから虐待ではないと考えている人がいるかもしれませんが子供の健康状態をしっかり把握して十分な栄養のある食事を与えることが親の役目であると思うのでそれも虐待であると思いました。親は我が子をしっかり律して育てていくことが大切だと思います。


投稿者: 醤油 | 2013年07月23日 15:50

「悪意なき育児放棄」という事態は私たちが子供の頃から既に存在していたのだと思う。私の周りでも、親が共働きのためお金だけ貰って食事を済ませるという友人も少なからずいたが、特に誰も驚くことはなかった。これが虐待であると捉えるのは極めて難しい。子供の意思を尊重することが必ずしも良い育児に繋がるわけではない。この事態を社会全体が認識し、虐待の一部になってしまうことをもっと広めなければ改善は困難である。


投稿者: spring | 2013年07月23日 18:01

自分が親の立場になった時,仕事や育児は未経験で,両立の大変さを知らないながらも,育児放棄はしないという自信がありました。しかし悪意なき育児放棄の存在を知り,その自信をなくしてしまいました。核家族世帯で,親が共働きの場合は夕飯が遅くなったり,コンビニ弁当で済ませてしまうのも仕方ないと思ってしまったからです。また,平日の仕事で疲れをとるために休日は子供にアンパンマンを見せたり,ゲームをさせたりして自分は寝るのも仕方ないと思ってしまいました。しかし自分たちで望んで子供を産んだ以上,子供との楽しい時間だけを想像するのではなく,子育ての大変さやつらさを学び育児に励む努力も必要だと思います。悪意なき育児放棄を仕方ないと認めるわけではありませんが,自分が親になった時のことを考えると一概に否定することはできないと感じました。


投稿者: らいだー | 2013年07月23日 23:55

近年、児童虐待や育児放棄の問題が頻繁にメディアなどで取り上げられており、今回のブログの題名である「悪意なき育児放棄」についても、何度かテレビで放送されていたものを見たことがある。そのたび私が思うことは、親はもっと子どものために自分を犠牲にすべきだということだ。親にも人権があるが、それ以上に親には子どもを育てる義務がある。親は自分の欲求を我慢して子どもをよりよい環境で育てなければならないのではないか。また、良い環境で育てられなかった子どもは自分が親になった時、どのような環境で子どもを育てることがよいのかわからないため、「悪意なき育児放棄」は次から次へと連鎖してしまうのではないかと考える。


投稿者: ちゃん | 2013年07月24日 01:33

悪意無き育児放棄という言葉は講義で初めて知りました。その時は信じられない事だと驚く一方で、しかし今の世の親ならばやりかねないとも思いました。このような親は子供の言うことを尊重しているといって、周囲の人間から注意を受けても「○○ちゃんがこう言うから…」と言って子供に責任を押し付けようとするのではと思ってしまいます。また、今の時代では家庭はどんどん閉鎖的になっており、干渉が難しくなることも大きな課題になるでしょう。時間や人件費の面で厳しいかもしれませんが、すべての親がきちんと教育を学ぶ場を用意すべきだと思います。


投稿者: T.F. | 2013年07月24日 02:52

子供の要求(空腹や体調不良の訴え)を無視するのが育児放棄であるのはもちろん、逆にすべて聞いてしまって適切な食事・睡眠が与えられないのも育児放棄である、としっかり理解している大人があまりいないように感じる。
そういったことも含めて、親はまず、正しい子育ての方法というものを教わる必要があると思う。また、自分の母親世代とは社会が大きく変わっているため、「今の時代に合った」子育ての方法を知る必要があると感じた。


投稿者: N.A | 2013年07月24日 03:49

確かに現代では家族内の絆というものが希薄化してきているように思われる。それはブログ内で触れられているような幼児期の子どもとの関わり方のみならず、子どもが中高生になってくると反抗期を迎えることと、子どもが自らの意思を持ち始めることとが重なりあってつい放置しがちになる。子どもと関わる時間が少なくなる。そうして育った子どもは将来自分が親になったときに『同じこと』を繰り返しがちであり、ますます家族の絆が希薄化していく。これを打破するには、他人と関わらなくても生きていけるような社会の構造を見直していくべきなのではないかと感じた。


投稿者: めしむら | 2013年07月24日 09:10

悪意なき育児放棄」の原因は、親が自分の子供を尊重しすぎて生じる事ではないかと私は考える。「息子が朝食はプリンと言ったから」親は自分の子供にプリンをあげた。普通に考えれば親は何の悪いこともしてない。しかし、子供は成人とは違って自分の行動が正しいか正しくないのかを認識することが成人と比べて落ちる。自分の感情を素直で表現するのが子供である。子供からこそ自分の感情を素直で表現するのはいいことであるが、もしそれが正しくなければ親はそれが正しくないということを子供に認識させて直してあげる必要があるだろう。そうしてあげないと本文中で書いてあって不適切な養育に陥ってしまい、そこから「悪意泣き育児放棄」につながると私は考える。


投稿者: hryk89 | 2013年07月24日 09:41

親と子の問題と言えば、親が子どもを傷つける虐 待が一番に思い浮か、これは子どもの体に残る傷など、直接的に悲惨さが現れるため、強く印象に残るからではないでしょうか。
それに比べると、今回の「悪意なき育児放棄」は上記のような悲惨さはなりを潜めます。これがあまり取り沙汰にされなかった原因であるのでしょうけれど、親子の関係、子どもを大切にするという観点で見れば、この話も虐待の一つであること、将来的な面で考えるなら、直接的な虐待にひけを取らない問題を抱えているのが分かります。
今回のお話で思うのは「子どものため」とは何なのか短期、長期、様々な視点で考えることが第一であるということです。


投稿者: 紙魚 | 2013年07月24日 11:38

インターネットなど、今のような便利な電子機器やコンビニなどの24時間営業店が身の回りにありふれている現代、昔と違い家族の生活スタイルが変わったのはある意味仕方がないことであり、それが現代の問題であることは十分理解した。
私の家庭では、母親が専業主婦だったので割と食事等の時間の決まりはあったので育児放棄をされたと思っていないが、友達と交流の中、たびたびブログにあったような現代の育児放棄を受けていた子と遊ぶこともあったが、少しわがままな所があったので、そのことも含め、現代の育児は人間関係にも影響を与えてるのでは?と思う。


投稿者: カベ | 2013年07月24日 13:31

「悪意なきネグレクト」という言葉は講義でも聞き、興味を持ちました。「子どもが〜と言ったから/言わなかったから」というのは言い訳にすぎないと思います。幼い子どもは正しい判断ができないのだから、正しいことを教えてあげる、注意するというのが当たり前のしつけ・教育であると思います。そのような意思の尊重の仕方は子どものことを考えているようで全く考えていないと思います。親であるかぎりはしっかり責任を持ってく行動するべきだと思いました。


投稿者: クリスティーナ | 2013年07月24日 14:07

私はこの悪意なき育児放棄という言葉を知ってとても恐ろしい問題だと思った。なぜこのように思ったかというと、このような虐待は国などの公共機関や近隣住民が介入できないのではないかと思ったからである。確かに傍から見れば育児と言えないような行為の数々だが、この方法が我が家の育児だと言われてしまえばそれまでである。しかしながらこの虐待を放置することもできない。そのために我々はこのような虐待があるのだともっと世間に知らしめていき、あなたのやっている行為は虐待だと認知させていく必要があるのではないかと思った。


投稿者: hisah@eco | 2013年07月24日 14:30

さまざまな児童虐待がある中でもこの悪意なき育児放棄はとても問題であると感じました。私自身将来朝食にお菓子を与えるはまだしも、空腹を訴える子どもにとりあえず何か与えてしまう、などの行為はしてしまうかもしれません。しっかりとした子育ての知識を持ち本当に子どものことを考え行動する必要があると感じました。葛藤を伴わないやさしさは存在しない、という言葉がとても心に残りました。私がここで気づいたように、親の役割について考える機会をつくる、子育ての知識を広める、子育てしやすい職場環境をつくることでこの育児放棄は減らせるのではないかと思います。


投稿者: いびす | 2013年07月24日 18:04

岩村暢子さんの単著からの引用を読んでとても驚きました。私の家庭は、いくらお腹が空いていなくても家族皆で揃って食事をとることがきまりだったからです。朝寝坊しても、ダイエットをしたくても、体調が悪くて食べられないとき以外は食事抜きということは許されませんでした。そのときは不満もありましたが、逆をとると母はどんなに自分が忙しくても体調が悪くてもきちんとした食事を与えてくれていたのだな、と一人暮らしをする今はとても感謝しています。岩村さんの著書に書かれていたような家族では、親は子どもを育てるというよりあやしているのだと思います。たしかに、叱らず言うことをきいていた方が子どもは大人しい。大きくなってくると文句も言われるようになってくるのでなおさらです。しかしそこで親が子どもを恐れて正しいことを教えてやれないようでは、子どもの中身は育てられているとはいえず、ネグレクトと言われても仕方ないと思います。 実際に私も公共の場でその場にそぐわない行動をとっている子どもを何人も見てきました。そこで驚くのは、そのような子どもを見ても叱らず知らん顔をしたり携帯電話をいじっている親です。そのときはこちらも怒りの感情を抱きますが、後々考えると子どもがかわいそうだと思うのです。受けるべきしつけを受けずに成長してしまうと、大人になってからも影響します。虐待を受けた子供が大人になって自分の子供を虐待してしまうのと同じように、子供は親から学んだことをアウトプットします。もちろん子どもの意思をおもむろにしすぎるのはいけませんが、しつけを踏まえた上での尊重が必要だと思いました。このような悪なき育児放棄に少しでもはやく親自身が気づくことを祈ります。


投稿者: whr | 2013年07月24日 19:02

先日は、北九州市立大学での特別講義ありがとうございました。
非常にためになるお話でした。
虐待は身体的虐待・性的虐待・ネグレクト・心理的虐待の4つに分けられることが多いようですが、どれをとっても影響は大きく、特に子ども虐待の問題は深刻な状況にあると思います。

自分が、児童虐待についての報道などを耳にしたときに、言葉は悪いですが、「虐待を行った両親は親失格である」と思っていました。虐待の裏に隠れた家庭内の背景まで考えたことがなかったからです。
しかし、福祉の勉強を始めるにつれて、考え方は変わっていきました。ネグレクトなどの虐待は決して許されることではありませんが、なぜこのような事態に陥ってしまったか原因について考えることが重要であると知りました。

幼いころ、私は家で好き嫌いをせず食べるように言われていたし、おやつも量を決められていたりと厳しく、小さなころはそれが不服であったし、どうして?と思うこともありました。しかし、ネグレクトという虐待を知った今、わたしは愛情を持って育てられていたんだな、と感じました。

ほかにも深刻な問題として、しつけと体罰・虐待との区別がついていない大人が多いということが虐待が起こる要因の一つとなっていると分かりました。今の大人たちが子どもだったころにしつけとして普通に行われていたことが、今では体罰・虐待としてとらえられ、問題になるケースが多い。そのジェネレーションギャップとも呼べるべき大人たちのあり方の変遷について知ってもらうこと、昔と今は違うんだと警鐘を鳴らすことも必要だと感じました。

この度の講義本当にありがとうございました。


投稿者: むすたんぐ | 2013年07月25日 18:11

悪意なき育児放棄という言葉を初めて聞いてとても驚きました。何故かというと、子供を打ったり蹴ったりするものだけが虐待と思っていたからです。しかし、よく考えると確かに、まだ健康的な生活の仕方が分からない子供の意見のままにお菓子を食べさせる行為は、子供の意見を尊重しているのでは無くただ単に親が面倒臭がっているだけであると思います。子を持つ親として子供を育てるという責任をしっかりと自覚してほしいし、私も将来責任を持って子供を育てたいです。


投稿者: 猫大好き | 2013年07月25日 22:39

まだ自身で正しい選択ができない子どもにとっては親が手本であるので、子どもをもつ親は責任をもって行動すべきである。このことは当然のことであるが、子どもの意思を尊重して子どもに接するのは良くもあり悪くもある。現代ではその良い部分だけが見られる傾向にある。親は責任を持ってその悪い部分を考えていくべきだと思う。


投稿者: noodle | 2013年07月26日 06:33

先日は、北九州市立大学での特別講義ありがとうございました。
非常にためになるお話でした。
虐待は身体的虐待・性的虐待・ネグレクト・心理的虐待の4つに分けられることが多いようですが、どれをとっても影響は大きく、特に子ども虐待の問題は深刻な状況にあると思います

自分が、児童虐待についての報道などを耳にしたときに、言葉は悪いですが、「虐待を行った両親は親失格である」と思っていました。虐待の裏に隠れた家庭内の背景まで考えたことがなかったからです。
しかし、福祉の勉強を始めるにつれて、考え方は変わっていきました。ネグレクトなどの虐待は決して許されることではありませんが、なぜこのような事態に陥ってしまったか原因について考えることが重要であると知りました。

幼いころ、私は家で好き嫌いをせず食べるように言われていたし、おやつも量を決められていたりと厳しく、小さなころはそれが不服であったし、どうして?と思うこともありました。しかし、ネグレクトという虐待を知った今、わたしは愛情を持って育てられていたんだな、と感じました。

ほかにも深刻な問題として、しつけと体罰・虐待との区別がついていない大人が多いということが虐待が起こる要因の一つとなっていると分かりました。今の大人たちが子どもだったころにしつけとして普通に行われていたことが、今では体罰・虐待としてとらえられ、問題になるケースが多い。そのジェネレーションギャップとも呼べるべき大人たちのあり方の変遷について知ってもらうこと、昔と今は違うんだと警鐘を鳴らすことも必要だと感じた。

この度の講義本当にありがとうございました。


投稿者: むすたんぐ | 2013年07月26日 10:28

「悪意なき育児放棄」という言葉を最初に目にしたとき、何のことを言っているのかさっぱりわからなかった。それまで自分の知っていた育児放棄とは、すべて悪意から起こるものだったからだ。食に関する知識も自己管理能力もない幼い子どもを一人前扱いし「意思」を尊重して、親としてかけるべき手も目も放してしまう親たちを、私は親とは呼べない。親には、ときに子どもを束縛してでも良い方向へ導く義務がある。それを、忙しさを理由に放棄してしまうことは許されないことだろう。


投稿者: せいや | 2013年07月26日 13:37

この記事を読んで「悪意なき育児放棄」というものが、現代の日本に多く存在していることを知った。子どもが食べたいと言う物だけを食べさせる、食べたくないと言うから与えない、というような家庭が増えていることに私はとても驚いた。私の家庭では、小さいころから朝食・夕食はいつも家族揃って食べるという決まりがあり、食事中のテレビも厳禁で、いやいや家族と会話をしながら食べていたように思う。また、嫌いな食べ物でも残すことは許されず、友人宅に遊びに行った時はいつも、好きな物を好きなだけ、食べたい時に食べさせてくれる親を羨ましく思っていた。しかし、一人暮らしを始めて毎日一人で夕食をとるようになったいま、あの時間は家族とコミュニケーションをとる大切な時間であったこと、両親は私のことを思ってきつく言ってくれていたということに気づいた。私には考えられなかった「悪意のない育児放棄」が頻繁に起こっているという事実を、とても悲しく思う。子どもに嫌われたくない、子どもがしたいようにさせてあげたいと言いなりになって好き勝手させるのは、育児とは言えない。私のように、その時は親に不平や不満があっても、後から全て自分のためだったんだと、ほとんどの人は気づくはずだ。たとえ子どもに反抗されても、叱らなければならない時はしっかり叱り、また、全ての判断を子どもの意志に任せるのではなく親がきちんとした判断をして子どもを正しい方向へ導いてあげるのも大事なことである。子どもが将来社会に出たとき、正しい判断で、正しい道に進んでいけるようなしつけをすることが、親の役目だと思う。


投稿者: つぼ | 2013年07月28日 21:29

私は、このブログを読んで、「悪意なき育児放棄」の意味がわかった。育児とは、私のこれからの人生でも大事なものとなってきます。私の想像の育児放棄は、食べ物を与えなかったりするものと思っていましたが、おやつなど、子供が欲しがっているお菓子などを普通に与えたとしても育児放棄なのだと知り、ちょっと自分の浅い考え方に恐怖を覚えました。どんなことでも子供のことを優先的に考えて行動しなければならないと思い知らされました。
子供にとっては、親の休日なのは関係ないと書かれていましたが、今思うと、自分の親は仕事が休みの時、よく遊びに連れて行ってくれた記憶があり、自分の親に対して、感謝の気持ちを持つことができました。両親は子供の頃からしっかりと自分を育ててくれたのだなと思い、とても嬉しかったです。
子供が小さな頃からしっかりと子供に目を向けて何を訴えているのかを明確にして子供のために動ける親になりたいと思いました。
また、この記事には、「絆」という言葉が出てきました。育児で本当の「絆」はできてくると思います。確かに、この記事などのように子供に目を向けることができないと「絆」というものは生まれませんが、逆に先ほども行言ったように、親が子供にしっかりと目を向け、教育をすることができたならば、「絆」というのは簡単にできると思います。
私は、つくづく子供ために何でもできる親になりたいと思いました。


投稿者: きょーくん | 2013年07月29日 16:25

先日、大学で貴重なお話を聞かせていただきました。大変ためになる内容でとても勉強になりました。ありがとうございます。

講義で言われていた、障害者虐待は支援者と障害のある方が共依存の状態になっている場合がほとんどで、煮詰まりやすいということに初めて気がつきました。

一般的な児童虐待であれば、児童はわけもわからずに身体的や精神的に危害を加えられているため親に対して反感を多少たりとも持っていると思います。そして、親は「子供がうるさい」 や「子育てが面倒」という理由で虐待しているということをよく耳にします。その場合、各々を保護し、解決するという点では容易です。
しかし、障害者虐待の場合、二者に共依存の関係性が出来てしまっているので、第三者の支援が入らなければ、閉塞・孤立してしまい 、悪く言うと二人を引き離すということが難しくなります。
以上のことから、障害者虐待を予防・解決するためぬは支援を活用し、二者が適度な距離を保つことが重要であると感じました。

それから、この記事を読ませていただいて、「悪意なき虐待」という言葉を初めて知りました。子供の言うことをそのまま通すというのは、親の優しさではなく結果的に虐待になるのではないか、という視点には目からうろこでした。
しつけという意味での、子供に対しての強制はとても重要だと思います。そして、親として大人として子供を正しい方向へ導くのは、義務であるとも思います。

また、今は昔と違い、正しいと思っていたしつけが体罰と言われる時代です。それと同じで、よかれと思ってやったことが知らず知らずのうちに虐待になっているので、今の時代にあった正しい知識を学ぶということが、虐待予防のひとつになると思います。


投稿者: おやゆびひめ | 2013年07月30日 00:49

 冒頭の熱を出した子供に対する話で、逆に私は、子供のころ熱を出して食欲がないのに親が「少しでも食べないと元気にならない」といい、頑張って食べたら戻してしまったという経験があります。食欲がないのに無理に食べさせるのもどうかとは思いますが、確かに子供に食欲があるかどうか聞きもせずに、「子供がお腹が空いたといわないから」といって、はなから食事の用意をしようとしないというのは「悪意なき育児放棄」とよべるのかなと思います。また、子供にアニメをみさせることは私は構わないと思いますが、親が疲れているからという理由で、ずっとテレビやビデオばかり見させて、子供を一人にさせておくのはいけないことだなと思いました。この記事を読んで、朝ごはんをお菓子で済ませる、ビデオばかり見させる、などたまにならやってしまいそうなことですが、だからといってほぼ毎日そうだったり度を越していたら「悪意なき育児放棄」につながってしまうのだなと感じました。
 また、先日の講演会では、障がいがあって意思疎通が困難な人に対し、はなからコミュニケーションをとろうとすることをあきらめているのではないかという話が興味深かったです。今まであまり意識していませんでしたが、トイレや道路標識などの日常にあるピクトグラムがどれだけ役に立つかということがわかり、そしてそれを障がい者の虐待の事実を確認するために用いることで意思疎通をはかれるのではないかということは、画期的で、これからそのような方法が広まっていけばとても便利になるなと思いました。
 貴重なお話をありがとうございました。


投稿者: デール。 | 2013年07月30日 11:25

育児放棄に向かいつつある二児の母です。
産まれてきた時は大切に育てたいって思っていました。
でも主人の数回の転職のおかげで働かないとやっていけなくなり私も働き始めました。主人の帰りは遅く、育児・家事・仕事をこなして毎日クタクタ。子どもたちとコミュニケーションどころではない。だから子どもは荒れる。コミュニケーションを図り精神的に安定できるようにしたいと思います。でも私自身、肉体的にも精神的にも疲れ果てて思うようにいかない。
食べさせる、清潔にする、そんな最低限のことしかできません。
1人じゃ無理なんです。子どもたちを殺してしまう前に私が消えてしまいたいとさえ思います。
ある程度環境が整ってないと無理なんです。


投稿者: 最低ママ | 2013年08月29日 19:26

この記事を読み、悪意なき育児放棄をしている親は多いのではないかと思いました。両親が共働きという家庭が増えているいま、生活が不規則な仕事をしていた場合は子供との生活時間帯がずれてしまいます。金銭的に問題のある家庭であれば、仕事をやめることもできませんし、親は子供のためを思って働いています。本当に悪意がないとしても育児放棄とされてしまうのは腑に落ちません。この悪意なき育児放棄をなくすには、社会全体が変わる必要があると思います。共働きであってもしっかりと子育てをできるような仕組みや制度が必要だと感じました。


投稿者: ゆりね | 2013年12月19日 22:35

悪意なき育児放棄はとても複雑な問題だなと感じました。なぜなら、親は題名通り「悪意」なく行っているので周りが注意したとしてもそう簡単には治らないものではないかなと思います。私自身休日などご飯を食べずにお菓子で過ごすことがあります。また、自分のやるべきことを優先してしまい、食事を抜くことがあります。このブログを読み、将来私が子供を持ったとき自分のやるべきことを優先せずに育児をしっかりと行えるか少し不安になりました。しかし、親になるということは自分の身を削ってでも育児を行うものだと私自身の親を見てそう思います。


投稿者: ck | 2013年12月20日 12:09

このブログを読んで、外山紀子さん外山美樹さん著『やさしい発達と学習』(有斐閣、2010年)の一章の『「子ども」の誕生』を思い出しました。中世ヨーロッパでは子どもは小さな大人であって教育という概念も子ども時代という概念もなく、一人格としてみなされていた。愛され、教育される対象として子どもが生まれたのは17世紀の産業の発達後であるという内容です。これに対して、ブログ内では本来愛され、教育される対象の子どもに対して、子どもの意思を尊重するあまり悪意なき育児放棄が生じていると問題提起されています。私は子どもという概念は後付のもので、親への地域社会や家族による子ども観の教育の賜物であると考えます。この教育が希薄になったため、子どもの概念が曖昧になり、曖昧なものへの接し方がわからなくなった親は悪意なき育児放棄へと向かうのではないでしょうか。


投稿者: mori | 2013年12月21日 02:13

自分は一人っ子で、比較的に豊かな家庭で育たれてきたので、子供は親に愛されることは当たり前のことだと思いました。先生の授業を受けて、ブログを読んでいただいて、自分のすぐ身近いな所に児童虐待が存在するということを始めて知りました。先生の授業でおっしゃったグレーゾーンのことは一番印象が残りました。児童に対する虐待は深刻化になる前にそれを止まることは何よりも有意義だと思っていますが、虐待はまだ未発な時だから虐待に入れるかどうかは問題点だと思います。私は中国人なので、自分は賛成していないが、私の国は親から適当な暴力を振るのは家庭教育の一環と見なされています。こういう文化を背景に、中国では何年前は娘をもっと勉強に専念するために、娘を殴って死に至る父親があるそうです。その父親に聞いては、自分は児童を虐待するとは全然思わないらしいです。当事者自身が気づきない虐待は、教育方式として子供に引き続き、もっと恐ろしいことになり得ると思っています。
後は、いくら親子としても、親として子供の感情を完全に察すことができないと思います。子供側として自分の考えと感情をはっきり大人に話さないと、大人に理解してもらうこともなかなか難しいです。普通の家庭でもコミュニケーションが大切だと思っています。
むかしラーメン屋さんでバイトしていた時に、確かにすごく礼儀が悪い子がいます。そういう子を見ると、躾がないなと思うが、その親は全然気づかない様子で、多分一家は同じだと思うが、やば家庭における教育が緩いならそれなりにまずいことになるの気がします。そのバランスをどう取るかは問題点だと思っています。


投稿者: キキ | 2013年12月23日 13:42

この記事を読むとともに、自身の子供時代について振り返った。自分の要求に関して、ダメなものはダメだと叱られたことも多々あるが不満に思うのはその時だけで、決して親をそんなことで嫌うことなどない。子供への優しさとは、甘やかすことではないと強く主張したい。大切なことは、親が子供の行動に積極的な関心を寄せ、よきことは褒め、いけないことは叱り、積極的なコミュニケーションをすることだと考える。それこそが、親の子供に対する『優しさ、愛』なのではないか。きっと、『悪意なき虐待』をしてしまう親は叱ることでこどもに嫌われることを恐れているように思える。しかし、親であるからこそわが子の行動を厳しく、暖かく見守る義務があるはずだ。


投稿者: ちゃんえり | 2013年12月23日 15:24

“子供がお腹を空かしているから菓子パンや冷凍たこ焼きを与える親”というのは私の母親にも少なからず当てはまることかもしれません。私が小学生の時、母はパートの仕事を始めそれにより夕食が遅くなると母は夕方の4時頃に私に菓子パンを買ってくるようになりました。菓子パン1つで夕食を食べなかったということはありませんでしたがこれもある意味で“悪意なきネグレクト”だったのかもしれません。
近年、親がパートやアルバイトにいく影響で親は子に早すぎる段階で自立を無意識ながらも求めているのではないでしょうか。確かに子育てというものは大変なことだと思いますが、親は子がちゃんと自立できるまで責任を持つ必要があると思います。親は改めて子供と真摯に向き合い、しっかりした子育てをしていくべきであると考えます。


投稿者: すどぅ | 2013年12月24日 15:15

子供にはテレビを見させて親は寝るというのは親は子供を愛していても子供にとっては愛されていると感じることができないという結果につながる一つの要因になりうると思います。このようなことが起こるのは子供のためにはどうすることが良いのかを考えることを放棄する親がいるからではないかと思います。本当に子供のことを考えていれば同じテレビを見させることでも一緒に見るといったことができるのではないかと思います。
 子供は親が思っているよりも敏感で、親の愛情に反応するので子供の健康的な発達のためにもまっすぐに子供と向き合うことが必要だと思います。


投稿者: めんぼう | 2013年12月25日 16:48

この記事を読んで、僕も悪意なきネグレクトと家族の食卓に観点を当てた論説に興味をひかれた。僕が今まで学校で習ってきたことを踏まえると、「ネグレクト」は親が面倒くさいからといった理由で子供の育児を放棄する、所謂、悪意のこもったものという認識があった。しかし、この記事に書いてあるように、たとえ親に悪意や自分が育児放棄を行っているという意識がなくとも、社会的にみるとその行為はネグレクトであったり、あるいは、第三者の目にはネグレクトに映ったりすることがあるのだ。これには衝撃を受けた。なるほど、子供が我慢できないからといって、おかしなどの軽食をすぐに与えて、結果、食事の粗末化につながったり、アメリカなどでは、逆に食事を与えすぎて子供が肥満になることは虐待だといわれるという話を聞いたことがある。僕は親には子供を健康的に育てる義務があると思っている。だから、粗末な食事を与えたり、逆に、食事を与えすぎて子供を肥満にしたりするのは、ネグレクトもしくは虐待であると言われてしまうというのは、改めて考えてみると、その通りだと思った。近所のコンビニやスーパーなどで、簡単に食事をとれるようになった現代だからこそ、しっかりと家庭で料理をし、家族で食卓を囲むことが重視されるべきだと思う。そうすることで、単に食事の粗末化を防ぐだけでなく、家族同士のコミュニケーションも増え、絆も深まるのではないだろうか。


投稿者: こしあんぱん | 2013年12月27日 15:14

悪意なき育児放棄というのは深刻な問題であり、また解決するのが難しい問題であると思った。
何よりも問題視しなければならないのは、悪意がないため親が自分が育児放棄しているという自覚がないと共に子どもも育児放棄されていると感じにくいということだろう。また現代社会においては親の生活が多様化している中で、育児のやり方も親の生活と共に多様化しているように思われる。そのために一概に良い育児と悪い育児との判別ができなくなってきているのも悪意なき育児放棄が発生する要因となっているように思える。
この問題を解決していくには、周りの人々が親自身に気付かせることが重要になってくると思った。


投稿者: アルベルト | 2013年12月28日 14:03

 虐待という言葉を聞くと、親が食事を与えなかったり、育児放棄をしたりというように意、それらの行為が意図的に行われるものであると思っていました。しかし「悪意なき育児放棄」という存在知ってからは、虐待に対する認識が少し変わりました。
 たとえば「子供が望むから食事はお菓子にする」子供の意思を尊重するとはいえ、親としては少し無責任な行為であると思います。本当に子供のことを思うならば、栄養バランスのよい食事を用意し、子供の健康を一番に考えるべきだと思います。こうした虐待は悪意がないからこそ、親自身が「子供に虐待をしている」とは気づきにくいものであると思います。悪意なき虐待とは、核家族化や地域のつながりの希薄化が進んだ現代が生んだ問題であると思いました。


投稿者: りんご | 2013年12月30日 10:40

幼い子どもの意思尊重ですが、わたしが小さかったときにはあまり考えられないことです。(もっとも、わたしは長女で、下に二人妹がいるのですが、末っ子が小さいときにはだいぶ自由が増えてましたが(笑))何歳までだったかはわかりませんが炭酸のジュースなんて飲ませてもらえませんでしたし、もうすぐ夕飯という夕方の4時や5時になるとものを食べるのは禁止されていました。寝る時間も小学生は9時、中学生は10時と決められていて、おかげで休日も朝だらだら寝ていることはありませんでした。やはり子どもが小さい間はある程度親がいろんなことを強制することが、結果的にいい方向へ向かうのだとわたしは確信しています。年齢によってどこまで強制するかがまた難しい問題でもありますが。


投稿者: ちゃむ | 2013年12月30日 11:57

この記事を読んで現代には子供への「愛情」というものを誤って捉えている親が多くいると思った。「子どものためを思って」と考えても、それが必ずしもよい方向に進むとは限らない。朝食にお菓子を与えている例からも明らかだが、そのように自分の思うままに行動して育った子供は将来どうなってしまうだろうか。そもそも親というものには子供が将来「自立」した人間になるように育てる義務があると私は考える。そのためには正しいことは「正しい」と教え、間違っていることは「間違っている」と教えなければいけない。真の「愛情」というものはそのようなことなのではないだろうか。その過程で子供は自ら物事の善悪を判断するようになり世の中で生きていくための力をつけていくものだと思う。子供を持つということにはこのような大きな責任を伴うし、自分の都合でそれを軽視してはいけない。現代の親に必要なのは子育てに対する「意識改革」と自立できるように育てあげるという「覚悟」なのではないだろうか。


投稿者: TMCN | 2014年01月01日 13:56

宗沢先生のブログを読んで不安に思ったことがあります。それは、わたしも「悪意なき育児放棄」をしてしまいそうと感じたことです。子供のためを思って子供の意見を尊重し、自分は子供のために親として子供のしたいようにさせたという自己満足をしてしまうのではないかと、不安に思いました。しかし、子供のしたいことをすべて聞き入れることがいいことではないと改めて実感しました。わたしの育ってきた環境を思い返すと、お腹がすいていないのにほぼ時間通りにご飯になり、お菓子を食べたいといっても、もうすぐご飯だからと止められていました。それは決してわたしのペースを無視していたのではなく、正しい生活習慣を身につけさせようとしてくれたのだと思います。子供の欲求のままに葛藤をさけ、優しい親を演じるのではなく、だからといって自分のペースに無理に合わせるのではなく、時折ぶつかり合いながらも、成長させていくことが大事だと考えます。


投稿者: CONY | 2014年01月03日 21:57

大学の講義で児童虐待の深刻さについて改めて思い知らされました。
その講義の中で、虐待にもいくつかの段階があるとレジュメに記載されていたのをこの記事を読んで思い出しました。

この記事の虐待はあまり極度に危険ではないように思われます。虐待と認識されないのかもしれません。しかし、食事を市販のパンやお菓子にすることが初めは「たまにだから大丈夫」と思っていても、その頻度は週に1回、3回、1日おきに、といった具合で増えていくことも考えられます。子育てによる親の体力的、精神的負担はたしかに大きいものであると予想できますが、子供は大人がこなす当たり前のことがまったく分からないのです。自分で育んだ子供は責任をもって育てていくべきであるとわたしは考えます。コミュニケーションを大切にし、しっかりとした人間性をもった大人に育てる責任が親にはあります。しっかしとした人間性というのが何なのか、その認識ははっきり定義することはできませんが。

しかしわたしは子育てに疲れる親の気持ちも分かるような気がします。1日3食つくり、洗濯し、掃除もし、他にも家事はたくさんあるのに仕事もこなさなければなりません。その辛さを知らずに子供はどんどんぶつかってきます。疲労がたまるのも無理ないです。
わたしは自分が子育てに疲れ、嫌になるのがこわいです。自分がきちんと子育てできる自信がないです。しかし、この講義を聴いて、映像を見て、たくさんの苦しんでいる子供たちを知りました。それを忘れずに生活していけたらと思います。

ありがとうございました。


投稿者: チロルチョコ | 2014年01月03日 22:20

私は今大学で教職の勉強をしている者ですが、最近の家庭における家族間の関係の希薄化にはただ驚くばかりです。
私の家庭では家族のそれぞれの事情が異なるため帰宅の時間がかなり違うのですが、後から帰宅した者(とりわけ自分ですが…)はあらかじめ母親が作った夕食を温めて食べます。もちろん自分だけが違うメニューというわけではなく、家族が食べた夕食と同じメニューです。「家族」なのですから、全員が同じメニューを食べるのは当たり前であると思います。
保護者は子供の思考力が未発達であることを十分に理解し、誤った判断をした場合はそれを修正し、時には叱ることで正してやる必要があると思います。そして子供は自分の考えを否定されることで自分が成長する必要を理解し、一人前の思考力を身に付けるのであると思います(理解できず苦しむのが思春期であると思います)。
子供の言うとおりにせず正しい選択に導く、言わば「道しるべ」となっていくことが今の保護者には必要です。これは国民に課せられた「教育」の義務であると私は考えます。ただ小中学校に通わせるだけが義務ではない。「道しるべ」は子供の選択を否定するわけですから、子供に嫌われるのは当たり前です。しかし社会の人々は嫌われたくないですから、心から「道しるべ」役を買って出る人は少ないでしょう(その買って出る物好きな人が教員であると思います)。「道しるべ」のない社会という迷宮で子供が迷わないわけがありません。だからこそ、保護者は20年かけて道案内をしてやる必要があるのです。それを子供に嫌われるのを恐れて道を譲る(子供の選択通りに行動する)ようでは、保護者としての正しい選択が出来ていないのですから、保護者である以前に道に迷った子供と同じであると思います。


投稿者: さとマン | 2014年01月05日 11:58

  日本に来てから悪意なき育児放棄という言葉が初めて聞いてました。この文章を読んでいろいろ思い出してしまいました。子供のとき、私の母親はほかの子の親より厳しいです。例えば、私が好きなお菓子や洋服がほしいと言っても買ってくれたことがめったにありました。もっと理解できないのは、大学に入る前に、长い髪を生えさせないです。そのとき私は本当に悔しかったです。髪が長かったら勉強に悪影響があるなんて全然理解できないでした。でも今の私はそう思いません。そのときの母親は私が勉強に集中してほしいだけです。中国は学歴が何よりも重要な国です。今の私はもう母親の意味がわかってました。そして感謝の気持ちを持って母親がいてくれるということが人生でいちばん幸せです。人生は、自分の好きにやってはいけない場合が多いです。それは母親から教わった大切な筋道です
  


投稿者: かてん | 2014年01月06日 00:12

子どもの要求通りに親が従うことは教育、育児とは言えないと思います。我慢を覚えさせることも大切なことです。ここで出てきたように好きな時間に好きな分を食べさせてしまうような生活を許してしまっては、食事は生きていくための作業になってしまいます。家族そろって食事をすることでコミュニケーションが生まれ、食べることの楽しみや、おいしさを共有することができるのです。そして、これは共同生活の中では当たり前の事のように感じます。
食事ひとつでも家族の絆は確認できると思います。家族の絆、つながりを考えて生活していくことも教育、育児につながるように感じました。


投稿者: ペン | 2014年01月06日 21:17

幼い頃、「朝ご飯にどうしてケーキを食べちゃいけないの?」と駄々をこねてよく母親に叱られていた自分にとって、今回の記事にはとても驚愕し、またそういった「朝ごはん」の概念が自分の同世代の中にも当たり前と思う人が多くいるという事実にさらに驚きました。共働き家庭が大部分を占める現代において、日々の忙しさ故にそういった習慣が形成されてしまいがちです。それを「悪意なき育児放棄」と言われるように、親がそれを間違っていると認識しないため、それに対する対策や改善しようと考えるプロセスまでたどりつかず、結果それが日々の当り前の出来事として固定化されてしまうのでしょう。これは親と子とのコミュニケーションの機会が減少し、親子間の関係が希薄化することで、「子供の意見を尊重する」という尤もらしい言い訳を盾に親が子供にどう接すればいいか、手持無沙汰になってしまい、楽な方へと逃避しようとしてしまっていることが背景にあるのだと思います。
今回の記事を読んで、本当の子育てとは一体何なのかを考えさせられると共に、母の偉大さを改めて感じることができました。


投稿者: Johnny | 2014年01月07日 21:35

「悪意なき育児放棄」という言葉は、今まで聞いたことがなく、そのようなことが虐待にあたることに驚いた。もし、このことを知らなかったら将来自分も「悪意なき育児放棄」をしていたかもしれないと思うと、とても恐ろしいと思う。
「悪意なき育児放棄」は、その名の通り親に悪意がなく、育児放棄だと認識していない点に問題があると思う。この認識がない限り、改善されることはまずない。また、このような家庭で育てられた子供は、将来親と同様の過ちを繰り返すことが懸念される。「悪意なき育児放棄」が起きてしまうのは、このことに関して、認知されていないためだと思う。実際、自分は今までこの言葉を聞いたことがなかった。そのため、この現状を知らない人はまだいるはずである。育児放棄にあたるとしっていながら、その現状を改善しない親はいないと信じたい。認知が進み、親がしっかりと子供と向き合い子育てを進めることで「悪意なき育児放棄」を減少することができると思う。


投稿者: ゴア | 2014年01月07日 23:34

 食事というものは家族関係のなかで非常に重要な役割を果たしている。食習慣を養うことはもちろん、家族全員で食卓を囲むことは子供の人間形成に欠かせないものである。なぜなら家族みんなでコミュニケ―ションを取り合い家族関係を構築する場は不可欠であるが、そんな場は食事の場を除いてほとんどないといってもいいからである。それさえも「悪意のない育児放棄」によってなくなってしまっては家族関係はますます希薄なものとなってしまうのではないだろうか。
 また、わたしは「悪意のない育児放棄」という言葉を聞いて、危機感を覚えた。親は悪意がないため、他人から指摘されなければ自分の過ちに気づかない。しかし、現代社会で他人の生活事情にたいして口を出してでも注意できるひとがどれほどいるだろうか?こうして「悪意のない育児放棄」が当たり前になっていってしまうようで恐ろしい。


投稿者: スラィリー | 2014年01月08日 01:49

悪意なき育児放棄という言葉が存在することを知りませんでした。育児放棄といえば意図的に行われることであるという認識を持っていたからです。子どもの意志や意見を尊重することは必要であるとは思いますが、子どもの身体や健康に悪影響を及ぼす場合には制限をすべきではないでしょうか。判断能力がまだ完全ではない子どもに適切な対応をするのが親であり、親としての責任であると思います。悪意がないからこそ親自身が子どもに虐待を加えていることに気づけず、問題が深刻化しているのだと思います。そういった意味でも子育てをサポートする環境を整える必要子あるのではないでしょうか。


投稿者: モカ | 2014年01月08日 14:35

この記事を読んで、私はとても他人事には思えませんでした。子どもの頃から、私の朝食は菓子パンであり、夕飯のおかずはスーパーの惣菜でした。母親が味噌汁を作っている姿など見たこともありませんでした。両親は共働きであり、母親は仕事で疲れていて、料理をする元気もなかったのでしょう。私もそれを知っていたので、母親に不満を言うことはありませんでしたが、たまに「お母さんの手料理が食べたいな」と思い、寂しくなったこともありました。しかし、「親に愛情を注がれてない」と思ったことはありません。
この「悪意なき育児放棄」は、子ども自身が虐待されていると自覚しにくいことが、より問題を複雑にしていると思います。暴力などと違って、子どもは親に愛情を注がれていない感じることは少ないと思うのです。だから、子どもの様子などから「悪意なき育児放棄」を見破ることは難しく、どんどん「悪意なき育児放棄」が進行してしまうのではないかと思います。


投稿者: でーひー | 2014年01月09日 00:31

現代の家族のあり方は非常に多様である。かつての家族の構成や形式、生活スタイルとは変わっているものの、「家族はこうあるべき」と決めつけることは適切でないとも感じる。しかしどのような形式であっても、親には子どもを愛し、育てる責任がある。子どもにとって最善となるように常に導く責任がある。教師が心から子どものためを思って叱るように、子どもがたとえ好きなものを食べたがって泣いたとしても、子どもの成長にとって必要な栄養のある食事を与える方が、長期的に考えて子どものためになることだと思う。また、子どもと共に時間を過ごすことなしに、愛情や信頼は形成されない。家族関係が人格にもたらす影響が大きいということは昔も今も変わらないと思う。「子どもにとって最善を行う」、それはときに難しく、判断を誤ることもあるかもしれない。しかしたとえ間違ったとしても、愛情を注ごうとするその姿勢は、子どもの人格形成を良い方向に導くだろう。


投稿者: ぱんぷきん | 2014年01月09日 17:13

この記事を読んで、僕も悪意なきネグレクトと家族の食卓に観点を当てた論説に興味をひかれた。僕が今まで学校で習ってきたことを踏まえると、「ネグレクト」は親が面倒くさいからといった理由で子供の育児を放棄する、所謂、悪意のこもったものという認識があった。しかし、この記事に書いてあるように、たとえ親に悪意や自分が育児放棄を行っているという意識がなくとも、社会的にみるとその行為はネグレクトであったり、あるいは、第三者の目にはネグレクトに映ったりすることがあるのだ。これには衝撃を受けた。なるほど、子供が我慢できないからといって、おかしなどの軽食をすぐに与えて、結果、食事の粗末化につながったり、アメリカなどでは、逆に食事を与えすぎて子供が肥満になることは虐待だといわれるという話を聞いたことがある。僕は親には子供を健康的に育てる義務があると思っている。だから、粗末な食事を与えたり、逆に、食事を与えすぎて子供を肥満にしたりするのは、ネグレクトもしくは虐待であると言われてしまうというのは、改めて考えてみると、その通りだと思った。近所のコンビニやスーパーなどで、簡単に食事をとれるようになった現代だからこそ、しっかりと家庭で料理をし、家族で食卓を囲むことが重視されるべきだと思う。そうすることで、単に食事の粗末化を防ぐだけでなく、家族同士のコミュニケーションも増え、絆も深まるのではないだろうか。


投稿者: こしあんぱん | 2014年01月09日 17:38

宗澤教授の記事、読ませていただきました。
私は親の無意識、悪意なき虐待がこのような形で表れていると知り、とても驚きました。そもそも私は本記事を読ましていただくまで悪意なき虐待に対して無知であったため、自分も将来子供を持った際に、自分の都合を子供に押し付けて無意識に虐待をしてしまう可能性があったと思うと恐ろしいと感じました。

何よりも問題視しなければならない感じたことは、親が自分が育児放棄しているという自覚が現れづらいということ。そして子どもも育児放棄されているとは感じずらいことだと思います。
この問題を解決していくには、周りの人々が親に気付かせることが重要だと思いました。


投稿者: ハルトマン | 2014年01月15日 23:54

まず自分がこの記事を読んで一番印象に残った言葉がタイトルにある「悪意なき」という言葉である。なぜなら記事にあるように、子供の欲求に迅速に対応するためにレトルト食品をだすことや好みの違いから違う映画を見ることといった状況は日常的に存在することだからである。このようなちょっとしたことではあるがそれが日々積み重なることで子供に身体的、精神的あるいは生活環境に悪影響を与えてしまうのではないでしょうか。親には子供を産んだ以上は親として子供が自立するまでしっかり育てなければならないという義務あるいは責任があります。昔とは違い時代が変わった今は(例えば女性の社会進出など)子育てに関していい加減になっている部分があるのかもしれません。もう一度本当の子育てとはなんであるのか問う必要があるのではないでしょうか。


投稿者: Maryは次期カノ~一夜限りの物語~ | 2014年01月16日 00:06

 このブログを読んで、表では見えないが、普通に起こっている様子であるかもしれないと思った。子供が望んだからと言い訳しながら食事の代わりにお菓子をあげたり、早く起きた子供にTVを見せたり、映画を別々に見たりするなどの行動に私は非常に驚いた。もちろん映画を別々に見ることは子供に自立心を育ててくれる一つの方法であるかもしれないが、それに合う時期があり、そうでなく親との関係をより持つべき時期がある。その時期にしっかり合わせたかどうかが問題である。
 親になるのは簡単であるがいい親になるのは難しい。愛情を与えなくても、与えすぎてもダメである。このように育児は難しいことであるが、親としての責任を持ってしっかり育てるべきである。特に子供が幼稚園に入る前には親としか交わらず、その時期の交わりが人格形成に影響を与えるため、親の役割がもっとも重要である。子供のねだることが嫌だとか、子供が望んだからでなく、それらを分かって、めんどくさくても、我慢しながら正しい道へ導いてくれることが親の役割であるのではないか。


投稿者: SARANG | 2014年01月16日 19:56

 講義を受講しているものです。
 この回の講義は自分の中でも最も興味の持った内容でした。私自身幼い時好きなお菓子があり、それを毎日のようにせびっていました。親はそんな私に「1週間に1回だけ」、「宿題が終わったなら」など今考えると子供の心理を突きうまくコントロールしていたのだなぁと感じました。
 「子供が苦しむ・傷つくだけがネグレクトではない」、これは多様に利便性が発展した現代だからこそ起こり得る問題であると私は考えます。その他円にも親は子と真摯に向き合い、考え、子にとって最良の選択を生み出すことを怠ってはならないと思います。


投稿者: アーテル | 2014年01月18日 00:26

私は、親は常に子どもの最善を考えていく必要があると考えます。子どもが成長して一人前の大人になるには、それにふさわしい環境が必要です。その一つが親だと思います。親が子どもを育てていくには、子どもの年齢、発達段階に応じた関わり方が必要です。自分の健康管理がまだできる年齢ではない子どもたちに食事内容を決めさせるのは親としての役割を投げ出しているようにも思えます。この事例は「子どもの育ちを見守っている」のでもなく「子どもの意思を尊重している」のでもないと、思います。子どもに精神的・身体的苦痛を与えるものだけが育児放棄なのではなく、この事例のような「悪意なき育児放棄」が存在することを実感しました。親と子が豊かにかかわりあう中で愛情に満ちた親子関係を築くことができたなら、あたたかな人が育つと私は思います。


投稿者: コアラ | 2014年01月18日 14:17

親は何をもって子どもを愛していると言えるのか。子どもの要求をすべて受け入れることが子どもへの愛なのか。
虐待や暴行が表立って報道される中、それらよりも軽いと思われるネグレクトはそれらの影に隠れてしまっているようです。
まるで子どもが不満を言わないようにする、それが愛していることの証明であると信じて疑わず、子どもの将来を考えない、それが現代の親の姿と見られてしまっているようです。
表立って問題として取り上げられない分、より社会に浸透して厄介な問題として存在しています。もっとネグレクトが大きな問題として取り上げられ、しっかりと理解してもらえる社会になることを願っています。


投稿者: CTK124a | 2014年01月19日 16:00

 先生のブログを読んで、育児放棄についてとても考えさせられた。親が子どもがねだったように、ごはんでなくお菓子を与えたりしてしまうのは悪意なき育児放棄になってしまうのか、と思った。やはり、悪意なき育児放棄をしている親は子どもがかわいくてしてしまうことだからほんとに悪意がないからこそこの育児放棄を止めるのは難しいのではないかと感じた。その日ちゃんとした栄養のある食事を与えなくても次の日こそは、と考えそれが続いてしまいそうにも思う。
 私は飲食店でバイトをしている。そこで気づいたことがある。家族数組で来店し、幼い子どもをもつ親たちが子どもを放っておいて夜遅くまで酒を飲んで帰るということである。幼い子どもは多くの睡眠を必要としているのに親の都合で睡眠が削られることは避けなければならない。以前、睡眠の短さはその子どもの記憶力に直結すると聞いたことがあるので学歴社会の今、子どもの学力まで親が奪ってしまうことも悪意なき育児放棄であると感じた。
 親の知らない間に子どもが不利益を被らないように学校や地域での話し合いでこの話題を取り上げるべきだと思う。


投稿者: たすほん | 2014年01月20日 13:24

岩村暢子さんの「悪意なき育児放棄」という記事を読むまで、自分の中で育児放棄とは自分の子供への無視(食事提供や衣服の管理や教育を行わないこと)であると考えていたため、それは衝撃的でした。もしかすると、将来、仕事の忙しさや疲れを盾にして同じことをするかもしれないと思いました。実際は「悪意なき育児放棄」をしているのに、この記事を読んでも自分は大丈夫と思っている人も、もしかしたらいるのではないでしょうか。また、子供自身がそのことに気が付くのは難しく、その子が大人になって同じことを自分の子供にしてしまうという負の連鎖も考えられると思います。「悪意なき育児放棄」は重大な問題であり、もっと周知徹底し、早急に改善していくべきことであると感じました。


投稿者: トモ | 2014年01月20日 14:25

育児放棄と聞いて、最近話題になっていた児童の車内放置事故を思い出した。この事故も、ブログ記事にある事例と、根底にある原因は同じであると思う。つまり、自分の子どもに対する親の関心が希薄化していることである。関係が薄れていくうちに、子どもと向き合うのではなく、同じ向きで物事を考えてしまい、子どものためを思い朝食にお菓子を与えてしまうのだろう。車内放置事故は、もはや子どもと全く別のものを見てしまっていることから起きるのだと思う。どれだけ仕事で疲れていようとも、子どもと向き合う時間を確保できなければ、親密な親子関係が生まれるはずはない。その時間を確保することが子育ての前提条件であると思う。ゆえにそれができなければ子どもを産まないのも一つの選択肢であると思う。希薄な関係で育った子供が大人になり、子育てをする立場になった時に、親密な本来の親子関係を築くことは不可能であるのだから。


投稿者: senka | 2014年01月21日 18:51

冒頭部に子供の欲求に従うだけの養育が悪意なきネグレクトとあったのが印象的であった。同様に、何でもかんでも常に子供に最善の環境を用意することが必ずしもいいことではないのではないかと感じた。過保護という言葉があるように、過剰な子供への干渉は、子供の自立の観点からよくない。程よく「放置」することもまた、養育としては必要なことではないかと考えた。
さらに、悪意なきネグレクトについても、子供の意思を尊重するという点からは、バランスが重要だと感じた。親が考える最善と、子供が最もやりたいこと、実際の最善は必ずしも一致しないことを改めて認識した。
何事においても、程よいところでバランスを保つことが重要と考えた。


投稿者: おでん | 2014年01月21日 22:33

『親子』とは何か?について考えさせられた。ただ、親が子供のやりたい事、したい事に付き合ってやるのが親が子供にすべき事なのだろうか。そこに『絆』がなければ血縁上の関係があったとしても『親子』とは言えないんじゃあないのか。そう感じさせられる文章だった。悪意のない育児放棄というのは、当の親たち本人に育児放棄しているという自覚が生まれにくいため、ただの育児放棄よりもずっとたちが悪いのかもしれない。これから大人になり、ゆくゆくは家庭を持つであろう私たちは子供の育児に関してもっと深く考える必要がある。今一時の思慕が日本の将来の不安を取り除く種と成りうるであろう。


投稿者: 日野光風 | 2014年01月22日 00:11

子どもの意思を尊重するからといって、親が朝食にお菓子やプリンといったものを与えるのはおかしいと思わないのだろうか。子どもにとっては自分の求めた物を食べられるという利点があるし、親にとってもお菓子やプリンといったものなら調理する手間を省く事ができるという利点があり、win-winの関係である。しかし栄養バランスなどを考えると子どもが病気になる可能性も高くなるし、後々苦労するのは親と子どもである。
親もそれではいけないと思っているがついついお菓子を朝食にしてしまうのか、それとも朝食がお菓子であっても問題無いと考えているのか、どういった考えを持っているのかが問題だと思う。


投稿者: スンバラリア | 2014年01月22日 00:46

「悪意なき育児放棄」と言う言葉はこの記事で初めて知った。
“朝食はプリン”“おやつを食べすぎたから夕食なし”…
いくら子ども本人が望んだからと言って、その通りにしていては、子供の成長に書かすことのできないバランスの良い食事からかけ離れたものになってしまう。

このようなことが起こってしまうのは、親に知識がないからだと考える。核家族化が進んで自分の親から子育て知識を得ることができないからではないのか。行政は母親学級などを通して、子育ての知識を広める努力をするべきだと思った。


投稿者: ささかまぼこ | 2014年01月22日 00:57

記事にある通り、子どものためだと言いながら、ただ子どもの言うことを実行する、親としてかけるべき手も目も放してしまう親は、栄養面、生活面において子どもについて考えたり、だだをこねたときやなだめたりする時に時間を取られるのがいやだったり、面倒くさいという気持ちがあるのだと思いました。
悪意なき育児放棄の“悪意なき”というのは真にそのままの意味ではなく、親が子どもの要求に答えることで、子どもとのコミュニケーションをないがしろにして子育てしているのを正当化している。この正当化を “悪意なき”と表現しているのだと思いました。
このような形態の虐待を防ぐには親が責任をもって積極的に子どもを育てるという意志が必要不可欠だと思います。


投稿者: tom | 2014年01月22日 03:19

「ネグレクト」には、悪意がなく自分では育児を行っているものと思っていても、記事に書かれているように「ネグレクト」とみなされてしまうものがあるということを学んだ。この現象の問題点は、親には罪の意識がないことだと思う。自分のしている行為が「ネグレクト」であることに気づかず、そのまま放置し続けてしまうことが一番こわい。乳幼児期の子どもがコミュニケーションをとる相手の大部分は親なので、放置されて愛情を充分に受けないまま育った子どもは、虐待や育児放棄を行ってしまう可能性が高いと思う。


投稿者: マスカット | 2014年01月22日 09:50

先生のブログの岩村さんの記事の冒頭が非常に気になりました。朝食をプリンにする親や、おやつを食べすぎた娘が夕食を食べなかったのでその通りにした親の話です。自分が当たり前と思っていた食卓の様子とはあまりに違うので驚きました。子供のわがまま、親の共働きでまともな朝食を用意できないということが理由ではなく、この食の粗末化が進んでいるのは、子供に一人前の「意思」を尊重したというよりも、親が子供に対して無関心であるからだと思いました。そのような親達は自分達の親がしてくれたように食事を与えたりできないのでしょうか。各人が育児を振り返ることが必要だと思います。


投稿者: バリ | 2014年01月22日 11:48

今回このブログを読んで、今まで知らなかった育児の現状を知り、とても驚かされました。それと同時に子育てとは何だろうかと深く考えされました。親にとって子供はかけがいのない存在であり、大切にしたいのは確かです。しかし、本当のやさしさというものは子供の望むものを全て与えて、いつも不足なく育てることだろうか。親たちは子育てをはき違えていると感じました。こういった親たちは全体的に見れば少ないがこれから、増えていかないこと祈ります。


投稿者: 三ツ矢サイダー | 2014年01月22日 12:10

育児放棄をしているつもりはなくとも、実際は育児放棄のような状態なのではないかという場面を、自分も何回か目にしている。私は某アミューズメント施設でアルバイトをしているのだが、とある母親が1歳にも満たないような子供をベビーカーに乗せ、大音量のメダルコーナーで遊戯しているのを見て、複雑な気分になった。母親本人からすれば、ちゃんとそばに置いているからいいだろうという気なのかもしれないが、明らかに子供にとっては悪影響であろう。好きなものだけ与えるのはよくない、やさしさは時として悪い結果となる、このことを心に刻み、将来自分の子供の育児に育児に活かしたいと思う。


投稿者: ひゅー | 2014年01月22日 12:13

現代は手に入れたいものが簡単に手に入ってしまう時代になってしまった。その影響もあってか、家庭で食事を作るのが面倒くさいとなってしまえば、ファーストフードなどの外食で済ましてしまう風潮が蔓延している。外食を全て否定するわけではない。外食に行けば、家庭とは違う環境で食事をするということで会話も弾む。外食を月に一回といった回数で行えば良いが、数十回も行っているようでは愛情やコミュニケーション、絆が無いと捉えられてしまう。子供がほしいものを何でも購入してしまうのは良いものではないと考える。欲しいといえば何でも手に入ってしまえば、忍耐する力を持つことが出来ない人間に成長してしまう。そんな子供を作ってしまうのは虐待ではないかと考える。便利になった現代だからこそ、欲しいものをただ与えるのではなく、本当に欲しいもの・不必要に与えるべきではないものを見極めて与えていくことも子供に対する親の愛情なのではないかと考える。


投稿者: チビヒョロ | 2014年01月22日 12:31

「悪意がない」という言葉は「未必の故意」よりもたちが悪いと私は確信する。現代社会の家族のあり方が語られるときに「三丁目の夕日」「サザエさん」「ちびまる子ちゃん」のようなかつての家族のあり方を前提にして話が進む感じが否めないが、そのような共同体や親密圏は崩壊した。遠い過去のノスタルジアと化したのだ。その現実を直視し、「アンシャン・レジーム」からの脱却を図り、今こそ新しい親密圏や共同体のあり方を模索、確立せねばならない。

 その上で私は、以下のような寓話を提示する。「ヤマアラシのジレンマ」である。有名な話ではあるだろうが、ヤマアラシは一匹だと寒いから、他のヤマアラシとくっつこうとする。しかし、くっつくと針が刺さって痛いから離れようとする。(くっつけない)くっつきたいのにくっつけない、離れたいのに離れられない。というジレンマが人間関係に似ているというものだ。要は、ヤマアラシと同じように、人間関係も、相手によって「針の長さ(痛いと感じる距離)」が違う中で、それぞれの距離感を覚えていって、適度な距離感を保って付き合うことが求められているということだ。親密圏に於いて我々はヤマアラシにならなくてはならない。

 そして先生の投稿内で提示された現代の親子像はチンチラそのものである。高級ネズミであるチンチラの毛皮は最高であり、お互いに寄り添えばそれはそれは気持ちいいものであろう。しかしそこには痛みが伴わない。痛みを伴わない。結局それはいつまで経っても相互理解へとはつながらない。今こそ我々はヤマアラシとなり、痛みを感じる時ではないだろうか。


投稿者: 跳び王まんじろう | 2014年01月22日 14:07

「悪意なきネグレクト」は、とても印象的なワードでした。幼児であっても、一人前の「意思」を尊重されるがゆえの育児放棄が起こっている現代社会は非常に問題であると考えます。親は子育てにおける知識を身につけ、子どもの″衣食住″における指導を責任を持って行うべきだと思います。理想は父親は週休2日制、母親は専業主婦という家庭の中で家族間の交流が盛んであることだと思いますが、このご時世、そうもいきません。では、どのように″絆″を深められるのでしょうか。ワンパターンではないと思います。「愛している」ということをあらゆる方法、あらゆる形で伝えるよう、努力していかなければいけないと思います。


投稿者: tomatoに | 2014年01月22日 14:35

「悪意なきネグレクト」は、とても印象的なワードでした。幼児であっても、一人前の「意思」を尊重されるがゆえの育児放棄が起こっている現代社会は非常に問題であると考えます。親は子育てにおける知識を身につけ、子どもの″衣食住″における指導を責任を持って行うべきだと思います。理想は父親は週休2日制、母親は専業主婦という家庭の中で家族間の交流が盛んであることだと思いますが、このご時世、そうもいきません。では、どのように″絆″を深められるのでしょうか。ワンパターンではないと思います。「愛している」ということをあらゆる方法、あらゆる形で伝えるよう、努力していかなければいけないと思います。


投稿者: tomato | 2014年01月22日 14:37

「親の愛は一生の片思い」という言葉があるように、子どもの教育は難しいです。
本ブログでも述べているように、19世紀の産業革命では子どもは「小さな大人」として
存在していました。
子どもが「現代のこども」の立ち位置に立つようになったのはつい最近のことであり、
保育制度、教育制度ができたのもその後です。
子どもを愛することに重点を置かれるようになったのは現代に入ってからであり、その
現代の産物である愛情を親は男女の愛も満足に語れないのにわが子を愛していると断言
することは実はとても難しいことではないのでしょうか。
親はいつからこどもを愛せなくなったのか。また、親はいつからこどもを愛するように
なったのか。
二つの議題は相反することのように思えて、実は一つのことではないかと私は思います。


投稿者: CTK124a | 2014年01月22日 23:01

独りよがりな愛情をこどもに与え続け、なぜそれが愛だと言い張れるのか。
これには現代の産物である教育制度、保育制度が原因であると思われる。高度に進化した文明により生じたゆとりは皮肉にもすべて仕事に費やされ、子どもを育てる時間には回されない。そのような現代ではこどもの世話に時間を割けるわけでもなく、社会との連携が大切になる。しかし、社会や学校は子どもの教育を親に押し付けて、親もまたこどもの教育を社会や学校に押し付けている。その現実の中で果たしてそれは成り立っているのだろうか。
中途半端な保育制度、教育制度が相互に責任を押し付け合う。だから親に子どもを愛しているという錯覚を起こさせているのだと思われる。


投稿者: CTK124a | 2014年01月22日 23:02

僕は、この講義で「悪意なき育児放棄」のことを聞いていたのでこの現状を知っていました。また、その時はただこの現状を聞いて、ただ漠然と理解するだけでした。しかし、今回、この記事を読み、深く考えていくことで、この問題の実態を知ることができました。子供たちの健康管理は親に任されています。だから、親が子供に何を食べさせるかが子供の健康にとって非常に重要であり、親の意思がしっかりしていなければならないと思います。例えば、どんなに仕事で疲れていても子供の世話だけは手を抜かずにしっかりとやるというような覚悟が必要だと思います。だからこそ、この問題の解決は非常に困難だと思います。それは、親であることの覚悟は生半可なものであることは許されないからです。「悪意なき育児放棄」が今後悪化しないことを願うばかりです。


投稿者: はら | 2014年01月25日 06:08

悪意なき育児放棄は通常言われるネグレクトと違い、親も子供も育児放棄という認識なしに行われてしまうことが多いことに恐怖を感じた。悪意なき育児放棄の最初は、「仕事で朝が早いから朝食は菓子パンでいいかな」「今日は帰るのが遅くなるから冷凍食品でいいや」といった日常のささいな手抜きがきっかけで起こってしまうのだと思う。こういったことは、どの家庭にも起こりうる可能性があり、なおかつ問題意識はほとんどないだろう。そして悪意なき育児放棄は現代の家庭環境の多様化、複雑化とともに進行していくので改善が難しい問題であると思った。また、本当の愛情とはなんだろうか。子どもの好きなようにさせることであろうか。いや、それを尊重として捉えることは間違いであると私は思う。私は自己判断できるようになるまでは、親がある程度規制をかけて教えて行くことが必要であると考える。悪意なき育児放棄の改善の第一歩として世間の多くの人が知ることが重要であると思った。


投稿者: ポッカ | 2014年01月26日 23:11

 「悪意なき育児放棄」というタイトルに目がいってこのブログ記事を読みました。育児放棄に悪意がないことなどあるはずがない、と考えていたのです。記事を読んで、なるほどと思いました。子どもの意見を尊重しただけだというが、それは、自分が楽をしたいという感情も入っているのではないかと思います。
 食に関する知識も自己管理能力もない幼い子どもに食をすべてまかせっきりにすることはよいことではありません。はじめのころは、親が栄養のバランスを考え、健康に成長できるような食事を与えなければならないのです。食事を与えないのはもちろん、子どもをスーパーやコンビニエンスストア等に連れて行き、ただ好きなものを食べさせるような生活をしているだけでも体調はすぐれなくなることでしょう。親は、その場の子どもの意思を尊重するのではなく、将来を考え、本当に子どものためになることをしなければなりません。それがきちんと「育児」をしているといえるのではないかとこのブログを読んで思いました。


投稿者: M | 2014年01月27日 01:19

最初に、悪意なき育児放棄というものが存在していること、こんなにも親子間の絆が希薄になっていることに驚きました。子供のころは、自分の我儘が通らないことが嫌で、親が厳しいことに反感を覚えていましたが、成長してから、これが親の愛情だったということがよく理解できました。この記事を読んで、子供の我儘に応えるだけでいるのは、確かに育児放棄にあたると思いました。共働きの両親が増え、子供に早く自立をしてほしいために、子供の意志、意見を尊重しているという勘違いを起こし、それが悪意なき育児放棄につながっていくのではないかと思いました。両親はたとえ忙しかったとしても、食事などにもしっかりと目をかけ、日常的に子供とコミュニケーションをとることが大事だと思いました。


投稿者: オチョ | 2014年01月27日 22:59

悪意なき育児放棄やネグレクトというのは本当に子供のためを思っている親なら絶対に起こらないことだと思います。しかし、どんなに子供のことを思っている親であっても一人の人間なので体調が悪い、どうしてもはずせない用事ができてしまうなどして、毎日ちゃんとした食事を決まった時間に作るというのは大変なことです。
しかし親である以上、子供を健康的に育てることは当たり前のことであり義務です。
そのうえでちゃんとした食事をつくることは欠かせません。また、料理を作る際や食卓を囲む際に子供とコミュニケーションを取るいい機会になるのではないでしょうか。
子供のことを考えられる親なら忙しくても出来る限り料理を作り、また子供と積極的にコミュニケーションを取ろうとするのではないでしょうか。
悪意なき育児放棄とは親自身の都合と子供の育児とのバランスが崩れたことだと思います。


投稿者: ちーふぁむ | 2014年01月28日 00:36

子供が「プリンを食べたい」と言えばプリンを与えるという育児は間違いなく育児放棄であると思います。まだ食に関する知識が乏しい子供は、自分で食べ物を取捨選択するという行為を十分に行うことができません。したがって、その子供にとって食べたいものとは、たいていの場合、単に「おいしいから」という理由であることが多いように思います。しかし、それでは健康を保つために必要な栄養素を体内に取り入れることができないだけでなく、肥満を引き起こす原因にもつながっていきます。子供のことを思ってしたつもりが、かえって子供の健康を損なうことになるという現象はまさに「悪意なき育児放棄」という言葉がぴったりだと思いました。
 また、この記事を読んで学校の先生も同じようなことをしている人がいるのではないかとふと思いました。近年では、生徒の言うことを素直に聞き入れて授業をしたりする先生が多いようなイメージがあります。もちろん、時には耳を傾けることも必要だとは思いますが、時には厳しく指導をしないと生徒のためにもなりません。そのバランスは難しいですが、理想の教育とは何かということを改めて考えさせられる記事でした。


投稿者: MA | 2014年01月28日 13:15

食事だけでなく何事に関しても、「子どもの意思を尊重する」ことが「良い親」というような認識が一定数あるように感じます。それは「私が子どものとき親は全然私の意思を尊重してくれなかったから、私は私の子どもの意思を尊重する」という考えのもとに生まれてくる認識だと思っています。しかし、意思を尊重するというのはただ相手の意見を鵜呑みにすることではないと思います。葛藤や争いの道を通ってはじめて意思を尊重するということになるのではないのでしょうか。「意思を尊重する」ことの意味をはき違えてしまっていることも、「悪意なき育児放棄」につながる要因の一つなのだと思います。


投稿者: naka | 2014年01月28日 21:28

このブログを読んで思ったことが多くあった。食事を決まってない時にとる、親のしたいタイミングで子どもと別々の行動をするということなどは率直にありえないと感じた。自分の子どものことを考えずに親であるにもかかわらず自分の欲のまま子どもを自由にし行動してしまうということは育児放棄に近いと感じる。少なくとも自分の子どもの時を振り返ってみると食事は家族と決まった時間帯、外出の際は一緒に行動していることが当たり前だった。今回の記事を読んで悪意なき育児放棄がこのような形で存在するということがとても印象的で、考えさせられた部分が多くあったためこの記事を読んでよかったと感じた。


投稿者: ma | 2014年01月29日 01:27

「悪意なき育児放棄」についての記事を拝見いたしまして、親の子育てへの無責任さを強く感じました。私の思う「親」とは厳しくとも常にこのことを考えられる人であります。「子供がこうしたいといったから」といって言われるがままに与え、遊びに付き合おうともせず、しつけもしないような親もどきが増えてきて、その子供たちが親になったとき、やはりその次世代の親たちは子供との接し方がわからず「悪意なき育児放棄」が発生してしまうのだと思います。
そのような負のスパイラルに陥ってしまった親の子供の意思の尊重にも見える育児は実は親として考えることを放棄した育児ではないかと思います。


投稿者: kb | 2014年01月29日 01:38

 この文章を読んで思ったのが、親としての義務と権利はどのようなものであるのかということ。例えばその映画の例をたとえるなら、親も一人間であり子供に合わせるのではなく観たい映画を観る権利があると考えるべきなのか。問題はそもそも親に権利があるないではなく、親としてできること、やるべきことは何かという事を考え直さねばいけないと思う。親は子どもより長く生きている分何をするとこうなる、何をしてはいけない、と考えて行動することが出来る。だから、親は時間をどうにか見つけて自分の見たい映画は別で観て、どうしてもとお願いする子どもと一緒に映画を観て、その後の親子のコミュニケ―ションの一つにつなげるべきである。これは、親に自由な権利がないという事ではなく、まだ社会で生きていくには力のない子供のことを考え、そちらを優先し、まだどうにかできる自身の事は後に回すというだけの事で、それが親の責任であると私は思う。


投稿者: ゆきち | 2014年01月29日 10:31

「悪意なき育児放棄」というのは、「悪意がない」という言葉で責任を逃れているだけで、立派な育児放棄ではないかと思いました。ここでは食事に関して取り上げられていますが、他の場面でも同じように子どもの言うとおりにしてしまうのでしょうか。そう考えると、この「悪意なき育児放棄」はとても恐ろしいものです。未熟でなにも分からない子どもを正しい方向に導き、生活や暮らし、生きていく世話やその知識を与え、愛情を持って子どもの健康、幸福のために尽くすのが親の義務であると思います。子どもがこうしたいと言ったからそうさせた、というのはあまりにも幼稚で、親の役割や子どもの未熟さを理解していないように思えます。また、表面的なやりとりだけで食事や遊びを片付けるような。「悪意なき葛藤の回避」については、少なからずは仕方のないことだと感じます。私はまだ子どもも家庭も持っていませんから好きなことが言えますが、実際の子育ての疲労や仕事と家庭との両立を考えると、そうなってしまうこともありえるかもしれません。しかし、何事にも程度というものがあり、程度と頻度を考えて子育ての葛藤と向き合うべきであると思います。重大な問題(DVやネグレクト、不登校など)に結びつく恐怖についても意識しながら、親がよく考えて子育てをすべきです。
教育学部で勉強をしていく中で、家族関係の希薄化や家庭内の問題は、どうしても取り上げられます。都市化や社会制度などの時代背景ももちろんありますが、親の価値観や常識、知識のなさが大きな要因のように思えます。子どもと親の両方を支援するしくみがもっと必要なのだなと、この記事を読み深く感じました。


投稿者: えみ | 2014年01月29日 12:09

悪意なき育児放棄の話を講義で聞いたとき、私自身とても驚きました。もちろん育児放棄(ネグレクト)の存在は以前から知っていたし最近では身体的虐待と同じくらいニュース等で耳にするようになりましたが、悪意なき、つまり親自身が虐待だと思わずしてしまっている虐待が存在するとは思わず耳を疑いました。
ブログにもあったように「子どもが食べたいといわなかったから。」などの理由でその通りにし、食事を十分に与えない。これは2,3歳の幼児であっても一人前の「意思」を尊重しているとあったが、それはただ単に勝手な大人の都合であると感じました。確かに子どもと接する際、私自身も子どもを子どもととらえず私と同じ1人の人間であると考えて接するようにしています。子どもであると同時に彼らは1人の人間であって自分の意思もしっかりもっているはずだからです。しかしだからといって全て子どもの言った通りにするのは間違っていると思います。意思を尊重したと言いつつも実際は子ども扱いし大人の都合ですましていると感じました。子ども時代の食事や生活習慣はその人の一生のものになります。それは体をつくる面でもそうだし心をつくる面でもそうです。本当に子どものことを考えたら、悪意なき育児放棄など存在しないはずです。人を育てるということがどれだけ大変で重要なことか、1人1人がしっかり考えていかなければならないと思いました。


投稿者: MK | 2014年01月29日 12:12

 講義を受講している者です。
 子育てをしていく上で、こどもを叱ることも必要になってくるはずですが、その時こどもがどう感じるかは親子の絆がどれほど深いかに関係してくると思います。甘やかしすぎるのも、叱りすぎるのもよくはないですが、まずはこどもと一緒に過ごす時間を大切にしコミュニケーションをとっていくことが第一条件だと私は思います。子育ては難しく、失敗することもあるとは思いますが、愛情をもって懸命に接すればこどもは自然とついてきてくれるのではないかと思いました。


投稿者: KN | 2014年01月29日 13:08

 記事にある出来事に目を通し、そんな親がいるのかと思う反面、仕事で疲れた親に干渉を求めるわが子にあのような接し方をした親の状態に共感にも似た感情を抱いた。そこには確かに「悪意」はないのだろう。それが一番の問題である。自身の意識の中に子どもの育児を放棄しているという認識がなければ、そのやり方を永続的に続けることになるだろう。そのような育児は自己管理能力の欠如や、人との接し方に困難を見せるなど、多くの危険性をはらんでいるだろう。子どもを育てることは体力的にも、精神的にもものすごい労力を費やす必要があるのだと、楽な方へとその場しのぎで穏和に済ませる悪意なき優しさは虐待ともいえると認識させられた。


投稿者: バルーン | 2014年01月29日 13:46

この記事をよんで、少し記事とは違いますが同じ学校の友達を連想しました。

その子は三人兄弟の真ん中です。親は末っ子が生まれる前は二つ上の姉に、末っ子が生まれてからは末っ子にかまってばかりで、友達については何かすれば叱るだけで放置していました。そのせいで友達は中一の時点でちょうちょ結びの結び方を知りませんでした。それを知った親は友達を怒鳴ったそうです。放置していた側が何を言っているんでしょうかね。

子供に教育をしないことは、悪意があろうがなかろうがネグレクトだと思います。
記事に書かれているような親に伝えたいです。忙しいからなんて言葉が通用するなんて大間違いですよ。まともに教育ができないなら生むべきではないし、親の教育で子供の人生がむちゃくちゃになったらどう責任取るんですか?


投稿者: SS | 2014年02月22日 11:49

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プロフィール
宗澤忠雄
(むねさわ ただお)
大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

【宗澤忠雄さんご執筆の書籍が刊行されました】
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