逡巡の中に「自立の契機」を見出す
虐待防止支援には、通常の生活支援にはみられない局面を伴うことがあります。それは、職権や司法関与という公権力による介入であり、通常の支援の原則とされる「自己決定の原則」としばしばバッティングする事態を意味します。
子ども虐待の領域では、従来から親・子どもの同意に反して施設入所による保護を行うための措置(いわゆる28条措置)や親権喪失宣告の請求等を、児童相談所長が家庭裁判所に行う手立てが設けられてきました。これらに加え、深刻化する子ども虐待への対応の必要から、この間、民法の改正を含む児童虐待防止法・児童福祉法の改正が進み、職権と司法関与がさらに強化されてきました。すなわち、出頭要求、立入調査の強化、臨検・捜索、面会・通信の制限、親権停止や管理権喪失に関する宣告の請求等が、虐待対応として新たに付け加えられてきたのです。
親権の絡まない成年の障害のある人や高齢者の虐待領域においても、深刻な家庭内虐待の事実が確認される一方で、当事者が家族と居所を分かつことを「躊躇する」または「望まない」ケースは数多く確認されます。その上、虐待対応に当たる支援者は、家族から「あなた方は本人の生活と人生に責任を持てるのですか? 私たちは障害のある身内のことに精一杯の努力をしてきたのです」と迫られると身動きの取れない状態に陥ってしまいます。
それでは、このような事態に直面する虐待対応の支援者はどのように方針を考えればよいのでしょうか。虐待防止法による法制度を盾に本人や家族の意向に反してでも本人をすぐに保護するのか、本人が「分離を望んでいない」のであるから家族との同居を支援の枠組として堅持するのか、あるいはまた、このような「あれかこれか」の対応とは異なる方針の採りようが考慮できるのか。
社会福祉基礎構造改革以降の支援のあり方にかかわって換言すれば、「利用者の自己選択権を尊重する」のか、「パターナリズムを時と場合に応じて肯定する」のかという問題と表現することもできるでしょう。
この課題に対する私のひとまずの見解は、「あれかこれか」の発想から解き放たれた地平に虐待防止支援の特質を見い出したいというものです。
ここでまず、このような見解を導く私の根拠となった文献をご紹介しておきます。いずれも、ソーシャルワークの事例集であり、わが国でもっともすぐれた事例集と私が受けとめるものです。福祉領域の支援論は、事例検討の積み重ねと開示(もちろん個人情報を除きます)に議論の出発点があることはいうまでもありません。
◇『児童相談事例集』(各年版)、日本児童福祉協会発行、これらは確か平成11年度に発行が廃止さめたため、現在、新品は入手不可能です。
◇川崎二三彦著、子どものためのソーシャルワーク全4巻、『(1)虐待』(1999年)、『(2)非行』(2000年)、『(3)家族危機』(2000年)、『(4)障害』(2001年)、明石書店、これらも在庫切れのため、インターネットを通じて残りの在庫または中古品を入手するほかありません。各巻とも虐待事例が含まれています。
これらは事例集ですから、事例の中身についてはそれぞれにお読みいただく以外に紹介する手立てがありません。ここでは、川崎氏の事例集の特徴について、私なりの指摘をしておきます。
一つは、虐待防止支援に関するソーシャルワークの枠組を明確に自覚した実践事例だという点です。
「専門性についての議論が盛んですが、心理職の場合は、どちらかというと臨床家としての個々の技量が強く問われるのに対し、児童福祉司は、行政機関である児童相談所のもつ権限や役割を適切に体現していく力が重要だと思います。したがって、いかに優秀な児童福祉司、ソーシャルワーカーであっても機関のもつ限界に制約されるのであり、逆に児童相談所の一員であることによって守られることも多いのです」(前掲書『障害』、3頁)
つまり、虐待防止支援にかかわるソーシャルワークの技術一般があるのではなく、法制度にもとづく虐待防止支援システムと支援者の所属機関による枠組のある支援だからこそ、有効な虐待対応ができるという氏の知見です。虐待対応にベテランの児童相談所の児童福祉司にどのような熟練の技術があろうとも、職を退けば児童福祉司と同様の支援はできなくなるように、資格を含む支援者の技術的水準だけが支援の質を確保するのではないという指摘が重要です。
もう一つは、虐待防止支援につきまとう支援者の逡巡を明らかにする事例集だという点です。全4巻に記された事例の随所に、自らをワーカーとして「優柔不断」とする記述がでてきますが、支援方針をにわかには即断できない事例の状況や運びを前に、川崎氏自身がどのように逡巡しているかの個別具体性が克明に描かれていることを見逃してはなりません。
ソーシャルワークは一般に、n人の無限に多様な支援ニーズを前にして、n個の無限に多様な支援方針がありうる領域です。ここに、一人の生活者でもある支援者が対するとき、支援者自身の専門性と生活者としての考え方から最善だと考える方針とは対立する要望をつきつけられると、葛藤や逡巡を回避できない場合があるものです。
これが虐待ケースとなると、「このまま事態が推移すると本人の命にかかわる危険性が高いから、緊急に保護すべきだ」という考え方と、「この家族なりの絆があって、本人も家族も分離を拒んでいる」という事態の狭間に立つことさえあるのですから、支援者の迷いや揺らぎは並大抵のものではありません。
したがって、このような支援者の逡巡を明らかにしていない虐待事例の報告は、まともな事例報告であるかどうか疑わしいし、ましてや虐待研修に資するものではありません。客観的な事実経過を記しただけの事例だけでは、虐待領域の研修にふさわしくないと考えます。
このように、虐待防止支援は、支援者が常に「割り切れない世界」に身を置くことを余儀なくされる領域であり、そのような支援のあり様を体現して明らかにするところに川崎氏の事例集の特質があります。
さらに、氏の事例集の『家族危機』(第IV章「子どもの意見」、149‐210頁)において、子どもの権利条約のいう「子どもの意見表明権」との兼ね合いで「児童相談所の職権」を検討している点に、私は注目します。
このケースは、父親のネグレクトに困り果てたきょうだいの子どもたちが「児童養護施設に入所したい」と明白な意見表明をするのに対して、父親には生い立ちに由来するただならない困難を抱えつつも子どもたちへの愛情を保持しています。そこで、児童福祉司である川崎氏は「ここで子どもたちの要望どおりにすると、親子の関係は完全に断ち切られてしまう」という逡巡に揺らぐのですが、最終的には、子どもたちの施設入所とともに父親は連絡の取れない行方知れずの状態になってしまう展開をたどります。
このケースを踏まえて振り返る氏の見解を要約すれば、一方では「子どもの意見表明権」を尊重し、他方では「児童福祉司が子どもの最善の利益」をつきつめて考え、それらをすりあわせながら子どもの意見が最善の利益に限りなく接近できるように、ワーカーと子どもたちのコミュニケーションを積み重ねるような支援のゆたかさを追求することが、ソーシャルワーカーの役割だということになるでしょう。
もちろん、「最善の利益」といってもケース・バイ・ケースですから、相反する二つの考え方の単純な「すりあわせ」でなく、二重三重の「割り切れなさ」を伴う支援になることもしばしばでしょう。
さて、「子どもの意見表明権」(子どもの権利条約第12条、以下同様)は、子どもの権利条約が提示する「参画の権利」の一つであり、「表現・情報の自由」(第13条)、「思想、良心、宗教の自由」(第14条)、「集会の自由」(第15条)、「情報へのアクセス」(第17条)、「障害児への特別なケア」(第23条)、「自己実現のため、および責任ある市民になれるための教育」(第29条)、および「遊びと文化的、芸術的生活への参画」(第31条)という包括的な参画権保障の中ではじめて、本来的な意義を有するものです(ロジャー・ハート著『子どもの参画』、萌文社、2000年)。
子どもの権利条約にいう「参画権の保障」とは、問題の解決をただちに保障するものではありません(ロジャー・ハート、前掲書、1-26頁)。それは、問題の解決に向けて協働する社会の一員として、自らの生活と人生の主人公となりゆく子どもの権利を保障する点に核心があり、障害者の権利条約が示す「障害のある人が人権主体」であるとの考え方と通底するものです。蛇足ながらつけ加えると、問題の根本的解決を性急に求める一群の人たちの中に、「参画権の保障」に関する無理解と軽視の傾向がみられると考えます。
このようにみてくると、虐待防止支援とは、支援者が逡巡のさなかにあって、当事者の「自立の契機」を決して見失うことなく、虐待を被る当事者が人権主体として育まれ、尊重される道筋に光を見出す営みだということができるのです。
コメント
私は虐待が判明した場合、子どもの意見を尊重すべきだと思います。それは、親の意見がどんなことであろうと、児童保護施設の職員の意見がどうであろうと、それは他人(自分以外)の意見であり、自分の人生なのでどんな結果になろうと、その本人が選択することが大切だと考えるからです。自分の人生を他人によって選択され、成長した場合、後悔してもやり直すことはできず、他人に責任を押し付けることさえできないのです。
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