何を信じてよいのやら
すっかり秋めいてきました。私は「読みたい」「読む必要がある」と考える書物をつねに30冊以上は抱え込みながら読んでいますから、“読書の秋”といってもさほど日常が変わるわけではありません。
ところが、この秋は「読みたい」と考えて買い込んだものの中に、「当分の間、読むのを止めよう」と括ってしまった一群の書物があります。
すっかり秋めいてきた
それは、原発関連の書物です。3.11以降、地震・津波・原発に関するそれぞれ領域では、山のような出版がありました。大きな書店に行くと、これらの領域の本を平積みにするコーナーが今でも設けられています。
とりわけ「原発もの」は、これまでにない出版状況ではないでしょうか。
従来なら、大手出版社が二の足を踏んだ「反原発」の見地に立つ著者の書物が、大手からたくさん出るようになりましたし、「原子力村」の歴史的形成過程とその利権構造までを克明に記したものさえ出版されています。
このように原発にかかわる豊富な情報が書物という形で論じられる局面は「二度とないかも知れない」と考え、書店で一つひとつ手にとっては内容を吟味し、6冊ほどを「読みたい本」として買っておいたのです。
とはいえ、実際に読むのは、どうしても私の本業に関連する領域に優先順位がありますので、なかなか「原発もの」に眼を通せないまま今日に至りました。
この間、原発事故や放射能と食の安全に関する夥しい情報が流れてきました。それらを整理して、間違いのない情報を国民に説明する責任は、原子力保安院と原子力安全委員会辺りにあると思うのですが、これらがなぜか全くあてにならない。
たとえば、この間報道された福島原発の「冷温停止」には驚きました。「冷温停止」という専門用語は、重大事故など起こさずに原子炉に健全性が保たれている状態で使うことばです。圧力容器の中でメルトダウンし、さらに格納容器にまで落ち込んだメルトスルーが疑われている状況下で何をとぼけたことを発表するのかと、いい加減にしてほしい気持ちに襲われます。
さすがに、「冷温停止」の発言についてはさまざまなマス・メディアが当たり前の疑問を投げかけています。9月21日付毎日新聞朝刊の社説では「冷温停止目標-言葉より実態が大事だ」と題して、「燃料が原子炉のどこにあるのかが正確にはわからない状態で、圧力容器の温度だけで安心できるかどうかも不透明」と指摘しました。また、NHKの水野倫之解説委員は、時論公論「原発事故-現状把握を急げ」において、原発事故から半年たった現在においても「依然として事故収束の見通しはたっていない」とした上で、その原因はやはり原子炉内部がどのような状況になっているのかが明らかにされていない問題があることを詳細に指摘しています(http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/94624.html#more)。
放射能と食の安全に関する情報に至っては、さらに混乱しています。米の放射能汚染の問題では、さまざまな自治体が「安全宣言」を出していますが、どれだけのサンプルを集め、どの程度の汚染だったのかを必ずしも詳らかにしない事態が続いています。そもそも、国が提示する「500ベクレル」の安全基準にも、さまざまな異論があるようです(たとえば、中部大学の武田邦彦先生のhttp://takedanet.com/2011/08/500_fdbb.html)。
インターネットの世界では、今回の原発事故に関連して見解の分かれるさまざまな言説が飛び交っています。原発に関連する領域は、ただでさえ見解が分かれてきた領域なのですから、ましてやこのような非常事態に対しては、国が情報化社会にふさわしい対応をしなければ疑心暗鬼だけが国民に広がることは必定です。
このような折に、衆議院科学技術・イノベーション推進特別委員会が、東京電力に対して福島第1原発の「事故時の手順書」の開示請求をしたところ、東電は「ほとんど黒塗りして提出」し、原子力保安院もそれ以上の請求を東電にしていないという報道にまで接しました(毎日新聞、
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/news/20110923k0000m040150000c.html)。
東電の姿勢はもはや論外ですが、それを事実上容認する国にしても、積極的な情報公開を進める気はなく、情報を整理して国民に説明することもしない姿勢ですから、かつての「大本営発表」と何ら変わらないでしょう。
原子物理学とは精緻な学問領域なのに、「原子力工学」となるとこんなにいい加減なのかと考え込んでしまいます。
そこで、職場の原子物理学の先生に訊ねてみました。「原子力安全委員会とは、一体何をする委員会なのですか?」と。
すると、「あの委員会は、原子力が安全な状態の時だけ機能する委員会のことで、今回のような非常事態に役に立つ委員会じゃありませんよ」とあっさりしたお答えを頂きました。
この答えを聞いた瞬間、私は今は亡き鶴田浩二になってしまいました。「右を向いても左を向いても、世の中、真っ暗闇じゃあござんせんか…」、嗚呼。
というわけで、原発関連本を読む気が遠のいてしまったのです。
コメント
私も 地震から数週間後に書店に行き、原発関連の本が山のように積まれていて、勉強がてら買ってみようと思った。タイトルから読者の気をひこうとしてる本がいっぱいでどれを手にとっていいか迷ってしまったことを覚えている。
テレビに頻繁に出ている人が書いてある本だったり、「電波学者の言うことは信じるな。私こそが正しい!」と受け取れる内容の本に出会ったりして混乱してしまい結局買わなかった。
本だけならまだ良いが、食べ物に関しても東北一帯の食物を食べていいかどうかというせめぎ合いが続いていた。
何が正しいかわからない状態の中で、命の惜しい私はしばらく東北の食べ物をたべないことに決めた。
原子力発電所の事故に関しての情報についてはマスメディアの騒ぎ立てる情報に始まり、識者による見解を記した著書など、その発信源は多岐にわたる。
関東地方の水質が汚染されたと報道されたと思ったらぱったりと報道されなくなり、また「基準値の○○倍」なんて表記で使われる放射線量の基準値は、どうやら事故の後に政府が都合の良いように変えられている次第である。
これは今回の事件に限ったことではないのだが、「真に正しい情報は自分で見て聞いたものだけ」というのが私の座右の銘である。
大手○○新聞が報道した記事であれ、その記事の真偽を判断するのは自分自身であり、まさに「信じるも信じないもあなた次第」なのである。
常に懐疑的な目線で、と言うとひねくれ者の烙印を押されるのかもしれないが、こんな時だからこそ、自分自身の認知し得る絶対的情報量を増やし、それらの情報を整理し洞察し、自分なりの答えを出すのが大切であると思う。
マスコミに真実を伝えてもらえると錯覚するのは、現代人が陥りがちな大きな甘えである。
東電や政府はどうして情報を伝えてくれないのだろうかと深く思ってしまいます。人々への信用がなくなってしまうなどのことがあるかもしれませんが、本当の状況を教えてくれないのはもっと信用をなくすことになるのではないかと思いました。
多くの人の命を左右する仕事なので失敗は本来許されませんが、失敗したことや取り返しのつかないことをしたのを隠すことはもっと取り返しのつかないことと思います。
私は東北出身です。同じ東北の福島が原発問題で非常に困惑しています。そんな中、幾名かの芸能人や専門家は原発除去を挙げています。
私は原発を急にすべて除去してしまうのはエネルギー不足に陥る可能性があるので必ずしもいい考えではないと思います。代替エネルギーの発見と確立こそが第一と考えています。
東日本大震災発生から半年以上たった今、エネルギーの節約への関心が薄れているのではないでしょうか。今一度、現在のエネルギーの状態について考えてみるのはいかがでしょうか。
原発問題の情報は本当に毎日のように飛び交っていますが、どれを信じていいのかよくわからないです。原子力安全委員会、政府、東電とそれぞれ記者会見などを行っていますが、それぞれ違う意見を述べているとおもいます。
特に放射能の基準値は日本の安全といわれるレベルと世界の安全といわれるレベルが異なっていたり、安全と保障されていた食べ物がやっぱり、基準値を超えていたなど、後から分かったりなど、準備不足ともいうべき点がたくさんあると思います。
ネットでは色々な情報があり、どれが正しいのか本当に混乱してしまいます。私はネットに詳しくないので、情報を仕入れるのはテレビが基本です。しかし、政府や東電が事実を知らせなかったりするせいであまりテレビも信用できません。
私は、情報を上手に仕入れるためには本がいいと思います。本を購入するさいにネットを活用して、一般の人の意見を聞いて購入するのがいいと思います。
3.11からもう一年以上がたち、原子力発電は一基が再稼働を始めました。あの日福島第一原子力発電所に何があったのか、放射線はどうなっているのか、といった話はあまりされなくなったように思います。今のニュースは電気料金値上げと節電の話ばかり。正直なところもううんざりです。いくら隠してもなかったことにはならないのに、政府も東電もいつまでも逃げてばかりできちんと情報を提示しない。日本人として、非常に情けない。まだ選挙権も持たない身ではありますが、この姿勢は変えなければいけないと強く思います。
東日本大震災から1年以上たった今ですが、未だにスーパーや青果売り場に行くと「放射能○○ベクレル以下」や「放射能基準値以下」といった安全性を促すような掲示を目にする。
しかし、これが本当に周りの人に安心感を与えているのだろうか。
この一年間、食物や放射能に関する情報が目まぐるしく行きかっている。メディアでも取り上げられているが、ある局では「○○ベクレル以上のものは危険です。」と言っており、またある局では「○○ベクレルぐらいだったら安心。」と言っている。
そもそも同じ情報機関であるテレビが、情報の共有や意思疎通を図れていないのに、見ている国民が安心などするだろうか。少なくとも私は安心できない。
実際に私も、この宗澤先生の記事を読んで初めて知ったことや、あるメディアに対して矛盾を感じた部分がたくさんあった。
しかし、受け手である私たちも完全に受け身になってしまっているのでは、と感じたことがある。
震災直後に「本日降る雨には多量の放射能が含まれているため、外出する際には警戒してください。」といったメールが出回った。事実、自分のところにも来て信じてしまった自分がいる。もちろんこれはうそのチェーンメールで、政府のほうからも「偽物」だという発表があった。
国民全体が動揺しているときではあったが、今考えれば、軽率に疑いも無く信じた自分も自分だな、と感じる。
自分が受け取った情報を完全に信じることも、今の社会では危険性が高い。
自分で情報を正しく選択し、学び信じていくという積極的な姿勢も、この先は必要なのではないかと私は思う。
放射性物質・放射能・放射線、ベクレル・シーベルト。
原発事故が起きて以来、頻繁に耳にすることとなったこれらの単語の違いについて、地質学を専攻している友人から教えてもらったのはつい今月に入ってからのことでした。
勿論、広島・長崎に落とされた原子力爆弾の被害の恐ろしさは、私も含めた後世に語り継がれるべきことであると思います。しかし、本当に脅威を感じていた人がこれほど多くいたなら、建てる段階から今日のような反原発運動が展開されていたでしょう。
説明責任を果たせない上に、国民に更なる負担を強いる東電は責められて然るべきだとは思いますが、私たちも電力会社からの情報を鵜呑みにし、聞き流してきたという己の過ちを認め、今デモという形で具現化されている怒りを、もっと生産性のある方向への原動力とするべきではないかと感じます。その「生産性のある方向」の具体的な形を見出すのが、今もっともやるべきことなのではないかと思います。
「さようなら原発」をはじめとする脱原発、反原発を訴える人の活動が盛んになってきている。
原発問題に関しては、とあるラジオで頻繁に取り上げられているので良く知ることができている。
今、福島県のある幼稚園では子供たちが外の植物に触れることができず、他県から送られてきた笹などを室内で触ることでしか、自然と触れ合う機会がないという。
このニュースとこの記事を読み、日常の中で薄れて行っているこの原発事故で確実なのは、その影響で苦しんでいる人がいることである。その為にできることを政府には是非優先して取り組んで頂きたい。また、私もできることを考えてかなければと思わされた。
私も原発事故の後にたくさんの本が出版されましたが読む気にあまりなれません。最近でも、報告していた情報が少ない数値であったなど「嘘」や「偽装」と言い表せられるような話を耳にするとさまざまなことが「操作」され、誰かの都合の良い「情報」を聞かされているのではないかと疑ってしまい本に手が伸びません。正しい知識を学び、確かな意見・知見をもとうとこの記事を読んで改めて思いました。
当時、東北出身の私にとって、今地元がどのような状況下におかれているのか理解したい気持ちでいっぱいだった。そのため、本やニュースなどを様々な媒体から情報を得て少しでも多くのことを知りたいと思っていたが、調べれば調べるほど矛盾ばかりが出てくることが分かった。このような私の立場ですら情報の矛盾さに不安と憤りを感じるのに、現地の人々の不安は一体どれほどのものなのか検討もつかない。こんな時こそ、メディア、そして政府が国民に正しい情報を与えるべきではないのだろうか。国民を安心させる簡単な嘘の情報を与えるより、嘘偽りのない事実を教えてくれた方がよっぽど国民は安心すると思う。今こそ日本が一つになるべきだ。お互いを助け合おう。などと掲げていた目標は私たち国民よりもまず、国の上がするべきではなかったのだろうか。それほど情報の提供というものは大変なことなのだ。今回の事件で、情報の多様化の欠点が顕著に現れてしまったと感じた。
震災時には、様々な情報が流れてきました。たとえば、放射能の雨が降るから外に出るななど。震災時は、みんな不安でいっぱいだったしどの情報を信じていいかわかりませんでした。東電も「安全です」というばかりで、状況把握さえままならず、さらに不安は増していったと思います。
私たちは緊急のときこそ、情報をうのみにせずに自分で取捨選択し情報をえることが大切であると考えました。また、東電などのトップの人間は、責任をもって正しい情報を抵抗するべきだと思いました。
東日本大震災による影響は、日本という土地にも人々の心にもさまざまな影響を与えてきた。その中で、新しく出会った放射能に関するワードや知識は、正直どれもあいまいなもので、どの情報が正しいのかわからないままここまで過ごしてきてしまった。メディアは放射能について原子炉についてさまざまな報道を行ったが、私たちは正しい情報を自らつかみにいかなければいけないと考えた。そのためにはより多くの学習をしなければいけないうえに、日本国民としての自覚を持った行動をしなければならないと思う。
私も東北の出身で、当時は停電の中必死で情報を得ようとラジオにかじりついていたのを覚えている。
国が情報を開示しているか否か、ということの関してはそこまで神経質にならずともいいのではないかと思う。情報の影響力によっては、起こらずともよかった事態を招く可能性もあるからだ。
むしろ、私が重要だと思うのは情報の開示云々よりも政府の手が動いているか否かということである。私たちを第一に考えた政策が迅速に行われるなら、事後報告でも構わないと思う。
情報の開示も大事だが、実際に現地で苦しんでいる人々は具体的な支援を一刻も早く望んでいるのではないだろうか。
原子力発電所の事故から、もうすぐで早2年が経とうとしています。その中でいまや報道などでは、あの事故が起こった当時あれだけ騒いでいた放射能のことや食の被害のことに関して扱われることはほとんどなくなってしまっています。福島やその近隣の自治体などでは今もなお放射線の飛び交う生活空間の中にいるのに、どうしてもっとその現状を伝えようという姿勢がないのか。私には報道関係者の考えが理解できません。そして、詳細な説明をしない政府関係者、原発関係者の考えも。この問題、課題が解決する日は来るのでしょうか…。
3.11が起きてから早いものでもう2年が過ぎました。ここ最近、メディアなどでは3.11についての報道がめっきり減ったと思います。特に重大であった原発事故関連のものさえです。たまに報道されたと思えば、東電や原子力保安院、原子力安全委員会の"醜態"ばかりです。つい先日もニュースで原発作業員の甲状腺被爆の実態について取り上げられ、その際の東電側のデータの信頼性の低さが批判されているのを見ました。2年が経った現在でさえこの体たらく、まったくひどいものです。しかし、政府も政府で具体的な対応には至ってないし、残念なことに僕ら自身もこのことについて興味が薄れてきている気がします。当然のことながら現地の方々は今も苦しい状態が続いています。政府はもちろん僕ら国民一人一人がこのことについて今一度積極的に考え、取り組む必要があると思います。
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