不遜な「神」とポスト福祉国家期
雷鳴とともに、突然、雲間から現れた神曰く、「アメリカと日本の国債の格付けを引き下げる」と。
民衆の生活はおろか、それぞれの国や国際社会の民主主義を一顧だにせず、格付会社は「神」のような特別の存在として突如現れては、一方的な宣託をして姿を消します。サブプライムローンやリーマン・ブラザーズが破たんするまで、その格付評価を下げなかった過去の傷があることなどはどこ吹く風で、居丈高な評価者としての存在を貫きます。
この不遜な現代の「神」こそ、ポスト福祉国家期の不透明さと民衆の暮らしにおけるはかりしれない不安をもたらしてきた諸悪の象徴であると考えます。罰当たりものめが…。
誰が日本を統治しているのか?
このような金融資本の利害を司る「神」のような存在は、事の善悪の問題をひとまず脇に置くと、飽くなき経済成長を餌としなければ死滅するほかない金融資本が、「経済の血流」という次元をはるかに超えて、国家と国際社会を暗然と支配下に収めている現実であると私は受け止めています。
実際、この間のEU経済危機の引き金となったギリシャ危機には、ゴールドマン・サックスのジョージ・ソロス氏が絡んでいたことが至る所で報道されました。例えば、経済記者の経験者である有馬めぐむ氏は、次のような記事を寄せています。
「食い物にされ続けるギリシャ―今日のギリシャのある大手新聞の記事。『ジョージ・ソロスとその仲間たちは数年前からギリシャに目をつけていた。やせ細った七面鳥をもっと太らせよう。ギリシャ政府にゴールドマン・サックスが接触。皆でギリシャの国家資金を汲み出した。さあ太りに太った七面鳥(ギリシャの財政赤字)、今が食べごろ!ことし2月、ニューヨークではジョージ・ソロスとその仲間たちが、美味しい七面鳥を目の前に、パーティの準備を始めたのだ』」(http://markethack.net/archives/51559821.html)
国債の主要な買手は、いうまでもなく金融資本です。金融資本はある国を支援するために国債を購入するのではなく、投資対象としているに過ぎません。生き馬の目を抜くような大競争が展開するグローバリズムの下では、より有利な投資対象を追求する資金の流れの変化が、24時間休むことなく、瞬時に、世界中を駆け巡っています。したがって、特定の国を見限ることも、骨の髄までしゃぶり尽くすことも含めて「何でもあり」がグローバリズムの実態です。
ここで、たとえ話を一つはさみましょう。
個人がサラ金から借金をして自力で返済できるうちは、サラ金会社に個人の生活のすべてが支配されることはありません。ところが、自力だけではなかなか返済できないステージに入ってしまうと、借金は雪だるま式に膨れ上がり、個人の尊厳は剥奪され、サラ金会社からは虫けらのように返済をせまられます。かつては、自殺に追い込まれるところまでの社会問題になっていました。
いうなら、このような状況が金融資本の国家に対する支配という形であからさまになってきたのです。それは、1980年代から目に見える形で現れ始め、当初はペルーを筆頭にした南米各国等の、世界経済における周辺国の問題として国家的デフォルト(債務不履行)の危機が訪れました。
それ以来、世界のどこかでバブルを作っては投資の餌食とし(1985年のプラザ合意にはじまるわが国のバブルもまさにこれに該当します)、巡りめぐって、いい餌食がついに見当たらなくなったところで生じた金融危機がリーマン・ショックです。
それ以降の国家的デフォルトの危機は、ギリシャ・スペイン・ポルトガルからイタリアなどのEU主要国に広がり、今やアメリカや日本のデフォルトまでが現実的問題となって国債格付の引き下げに至っています。つまり、国家的デフォルトの危機は、今や世界経済における主要先進国の問題として深刻化しているのです。
OECDの主要先進国は、第二次大戦の後、概ねケインズ型の政策による福祉国家をつくりあげてきました。この時代の経済成長の牽引役であり管理者であったのは国民国家であり、少なくとも「オイルショック」までは、国債を発行しても自力で返済できるステージにありました。
ところが、経済成長を続けるためには国家が借金を増大し続けなければならない段階に入ると、国債の買手である金融資本に国家が翻弄される方向へと事態は変質していきます。それ以来、民衆に必要な社会保障のあり方を国民主権によって形成する道がいばらに覆われるようになり、金融資本の投資対象としての国家に対する評価基準から、格付会社が「国の借金を減らせ」や「公務員の賃金を下げろ」等と「神」のようなご宣託をたれるようになっていくのです。
要するに、国債の引き受け手である金融資本が国家の巨大なステークホルダーとして影響力を行使し、さまざまな金融資本の投資指南役としての格付会社は「神」のように振る舞っているのです。
1990年代以降、「エコノミスト」と称する輩が国の経済政策や社会保障のあり方に居丈高な発言をするようになったのも同様の文脈によるものです。
たとえば、日銀や財務省のある政策に対して、株式市場や為替市場がマイナスの反応を示すと、「エコノミスト」は「マーケットの審判」を根拠に政策の誤りを指摘します。そう、ここで「審判を下す神」は「マーケット」なのです。
バブルの崩壊以降、わが国の歴代内閣を鳥瞰すると、金融資本のニーズによりそった内閣ほど長期政権となった印象をぬぐうことはできません。
誰が首相になろうとも、経済も暮らしも一向に良くならない構造がまさにここにあるのです。先日のラジオのある報道番組では、今回の首相選びは「くじ引きが一番」で、「どうせくじ引きで決めたのだから期待も生まれない」とクールにリフレインしていました。
この館の主はくじ引きで決めるのがいい?
この大問題の課題性は、近代以降の飽くなき経済成長による開発主義の破たんにほかなりません。20世紀の福祉国家は、経済成長の継続を前提にして成立する仕組みであったことは明らかです。
この課題にオールターナティヴを提示する先鞭役の一人は、アマルティア・センでしょうし、最近のベストセラーになっている『経済成長なき社会発展は可能か?―〈脱成長〉と〈ポスト開発〉の経済学』の著者セルジュ・ラトゥーシュ(中野佳裕訳、作品社、2010年)の議論にも、私は大きな期待を寄せています。
今後の社会福祉原論は、ポスト近代のパラダイムを柱に、金融資本の利害を基軸に据える「強欲資本主義」を明確に排除して(ただし、効果や効率に関するマネジメントの概念と手法等について排除するものではない)、新しい型の公共をリアルに形作ることのできる指針と内容を持たない限り、無内容で無意味な議論として片づけられてしまうでしょう。
それにしても、直近でお辞めになったある方が「やるべきことをやった」とおっしゃった真意はどこにあったのでしょうか。
大学では、電力使用制限令による不自由に加え、補正予算等がなかなか成立しない「政治空白」によって、被災地出身学生の授業料免除ははかどらない、文部科学省の科学研究費は7割支給のまま今年度どうなるか分からない等、政治の無責任を痛感せざるを得ない状況が続いてきました。科研費の7割支給には、私も予定がはっきり立てられずに困っていますが、高額な実験機器の購入を必要不可欠とする理系の先生方は、頭を抱えて困り果てている始末です。
ひょっとすると、直近辞任のお方は政策の内容よりも、この間の短命が続いた内閣の中で唯一、445日という一年以上の在任期間を記録できた満足から、「やるべきことをやった」という達成感に耽っているのかも知れません。
コメント
経済政策ばかり優先する今の政治は、資本主義ゆえにしかたないことなのか。政府はすでに利益を上げて大きくなった会社ばかりに税金を投入し、社会福祉費などの増額は後回しになっている。本当に大切なものはなんなのか。企業に目を向け経済を回すことも大切だということはわかるが、人にももっと目を向けるべきだと思った。
そもそも、本当の意味での福祉国家がどんなものなのか。今でこそ福祉国家の代名詞、北欧は「スウェーデン」だが、この国も、80~90年代には、若者がスウェーデンから出ていく(国を捨てる)風潮があった。これは、今の中国のように若者の雇用不安が大きな要因だった。若者の少ない国では、誰が国を支えるのだろうか。私は、社会主義市場の国でも「平等」という言葉はありえないと思う。理論・理屈と現実は違うのだ。それゆえに、資本(第一)主義国において福祉国家になるというのはほど遠い話だと考える。
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