広末達也さんを偲ぶ
広末達也さんは、埼玉大学に私が赴任してはじめて指導を担当した学生でした。板橋区職員としてソーシャルワーカーをしてきた彼は、2008年8月にご家族との旅行中に、水難事故で逝去されました。享年38歳、まさに突然の訃報でした。
その時から丸3年を迎えるにあたり、ここに哀悼の意を込めて広末達也さんが私に残したものを記しておきたいと思います。
学生時代の広末達也さん-左から2人目
私の赴任当初に、大学で行われた在学生オリエンテーションのできごとです。
オリエンテーションが行われている教室の後方で私が全体の様子を眺めていると、周囲に響く大きな声のまま女子学生Iさんと無駄口をにこやかに続ける一人の男子学生が目立っていました。これが、彼との最初の出会いです。彼はほどなく、オリエンテーションをしている教授からこっぴどく叱られていました。
追悼集-このタイトルに天国で彼は苦笑しているのでは?
今、私の手元には板橋区の関係者が編纂した彼の『追悼集』があります。ここに、彼が大学を卒業した直後、板橋区志村福祉事務所に新人ワーカーとして赴任した時のエピソードが書かれています。当時の志村福祉事務所保護第二係長による記録です。
「(新人が集められた)控室は、初対面の者が多く室内はしーんと静まり返っていましたが、広末君は新人女性と盛んにおしゃべりをしていました」「早くも親心で『これこれ静かにしていなさい』と言葉にはださず話しかけていたことを今でもはっきりと思い出せます」とあります。
ここに記される入庁当時のおしゃべりのお相手は後の奥様でした。
広末さんは奥さんとの出会いについて、次のように私に話したことがあります。
「入庁した日に知り合いましてね。それ以来、彼女とはほとんど毎日話しているのですけれど、本当に飽きない、いろんなことをずっと話し合っていきたい人だと思っています。」
それにしても、「新卒の入庁職員が、通常ならいささか緊張するような場面でも、やはり無駄口を叩いていたか…」と私は感心します。
というのも、彼の「おしゃべり」は彼ならではの快活なテンポと不思議な魅力があり、周囲をなごませるには天下一品の代物だからです。それは「ヒーリング(癒し)」といった質のものではなく、もし彼のいる人の輪の中に疫病神や悪霊・悪魔の類が紛れ込んでいたら、彼の話を聞いているうちにみんな腹を抱えて笑いころげてしまい、疫病神は「これは取りつく隙はないわ」とすごすごと退散し、悪霊・悪魔の類も「俺たちひょっとしたら天使じゃなかったっけ?」といつのまにか心が入れ替わってしまうような力でした。
学生時代の彼は、授業は平気で遅刻する、ゼミでは無駄なおしゃべりを制止されない限り延々と続けるなど、なかなか「やんちゃ」な青年でした。彼が実習に必要な書類の提出を忘れていた時に私が自宅まで電話をしたら、お母様が「(彼が車の運転中に)渋滞に巻き込まれたそうで、帰宅にはまだしばらくかかると電話をしてきました」と20時半ころ申されたのです。そこで私は、「帰り次第必ずお電話くださるようお伝えください」と伝言を依頼しました。
結局、彼が私に電話をよこしたのは夜中の2時半です。
私「一体どんな渋滞だったんだ、え゛ーっ!?」(怒り狂っている)
広末「めったにない、すごい渋滞だったもので。アハハッ」
私「……」
広末「『帰り次第必ず電話を』という伝言でしたよね~」
広末さんはこのようなただならぬ「やんちゃ」をしましたが、彼にはそれらを容認して余りある魅力がありました。
その一つは、周囲の人望が厚く、必要とあればリーダー役割を進んで引き受けることを惜しまないところでした。このような人の中には、えてして上昇志向に陥りがちな弱点をもつことがままあるものですが、彼はそのようなところにほとんど全く執着をみせない人でした。
庁内の昇進試験や資格取得それ自体には、恐らく何の関心もなかったでしょう。客観状況に由来する要請や必要を理解し実感したときにはじめて、彼は「仕方ないからやるか」というような感じで取り組むのではなかったかと思います。
もう一つは、戦略的実務家であると同時に、みずからの生き方で貫こうとする価値軸を明確にしていた点です。お上の腰巾着よろしく世渡りをするか、70~80年代の国家対向型の自治体職員像に甘んじるのではなく、実務的な見通しを切り拓く中で現実を変革しようとする姿勢が鮮明でした。
それは生活面でも貫かれ、4人のお子さんの子育てにおいて3回もの育児休業を取得している事実に表れています。1回目の育児休業は、板橋区の男性職員で初めてのものだったと伺っています。
そういえば、2回目の育休に入るときには私にこんな台詞を吐いていましたね。「女房を働かせておいて、私は子育てに専念できるんですからね、もう最高っすよ」と。
そしてもう一つは、彼には他者の心の運びの琴線部分を、直感的に射抜くような力がありました。これが広末さんの真骨頂であり、ソーシャルワーカーになった彼の「個別化」に秀でていた土台をなす特質だったのではないかと考えます。
彼のお母様は敬虔なクリスチャンで上尾のある教会に通っておられました。この教会には信者さんたちからこの上なく人望の厚いA牧師がおられたのですが、突然、この教会を去られることとなり、信者さんたちの間に動揺の広がったことがあったそうです。
彼自身はクリスチャンではなかったのですが、お母様とのつながりでA牧師のことを知っていました。A牧師が教会を去ろうとする真実は、「牧師である自分に信者さんたちから人望がこれ以上集まることは、私に対する依存を強めるだけで信仰の邪魔となるから身を引こうと考えているのではないか」と彼はみているのだと私に話してくれました。
後にA牧師に直接伺ったところ、「私が誰にも語らず、むしろ知らせようとさえしなかった私の気持ちを、彼だけが気づいていたのです。正直言って驚きました」と語っておられました。
このように彼は他者の本質をよく見ていましたから、学生時代から入庁数年間は、彼の大衆性とは裏腹に、自分が容認できないと考える人物には、ときとして鋭い批判の矛先を向けることがありました。自分の頭で実務の進め方を考え抜こうとせずすぐに彼に依存してくるようなタイプや、口先では正義漢ぶっていても実際の言動がいい加減な上司に対しては、舌鋒するどく批判しました。
ところが、広末さんが結婚をし、志村福祉事務所の生活保護ワーカーから板橋区保健福祉お年寄りセンターに移動する頃になると、日常的な広末さんのあり方はどんどん変化していったように思います。
それは、虐待や著しい処遇困難ケースへの支援の積み重ねの中で、この地域社会の中で「一人たりとも見捨てられる人をつくらない」戦略的実務性とそれを裏打ちする彼なりの哲学の深化があったのでしょう。
板橋区のソーシャルワーカー時代の広末さんの奮闘振りを『追悼集』から読み解くと、〈光と影〉、〈聖と俗〉、〈ハレとケ〉、〈理想と現実〉という多彩なコントラストが交錯する地域社会の現実の中で、あるいはこれらの世界を行き来し、あるいはこれらの間にある越えがたい溝を乗り越えてはつなぎながら、縦横無尽のソーシャルワークを展開していたように思えてなりません。私には、ほとんどセキュラー・プリースト(secular priest、ボンフェッファーのいう「恰も神がいないかのように生きる」世俗の聖職者)としか言いようがありません。
さて、教師という仕事は本質的に罪深いものだと、私は考えてきました。間違いを教えたこともなく、間違った指導をした経験を一度たりとてもたない教師などというのは、この世に存在しないからです。自分の間違いに気づくときは数年後だったりして、そのときには当の学生はすでに卒業していることもしばしば経験しました。
教師としての資質にもともと自信のない私は、大学に赴任当初の数年間を今から振り返ってみると、広末さんたちに対する申し訳なさや反省だけが頭に浮上します。それでも、もし今、彼と会話できるとしたら次のようなやりとりになるのではないでしょうか。
私「あなたの学生時代には、行き届かない指導でまことに申し訳なかったと反省しています。まっ、相手にしていた学生の水準に合わせていたという面もないではないけれどね」
広末「そうそうお互い様ってところですよ。私も新任の指導教官の水準にあわせてやんちゃしてましたから」
彼亡き後も、多くの人たちがこのような会話を彼と交わしているのではないでしょうか。多くの人と魂の交わりをつくることができる人―広末達也さんはそのような人でした。それがまさしくソーシャルワーカーのスピリットであることを、彼は指し示したのです。
心から広末達也さんのご冥福をお祈り申し上げます。
志村福祉事務所時代の広末達也さん-追悼集より
コメント
彼が亡くなってから三年ですね。なんと無く彼の名前を検索してみたくなり、この記事に偶然たどり着きました。人望のある彼の葬儀には、300人もの人がいらっしゃいました。死とは対極にある彼の明るいイメージから、今だに彼の死は冗談で、ひょっこりと姿を現すのではないかと思ってしまいます。いつも冗談をいう彼ですが、悩み事には、真剣に相談に乗ってくれました。彼の生きかたは、僕らの手本でした。毎年夏になると、彼の家に旧友が集まります。自然と恒例行事になっています。皆なんと無く、彼と、彼の家族と繋がっていたい、彼を忘れたく無いのだと思います。
※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。