歯止めがかからない児童虐待
先週厚生労働省は、全国の児童相談所が対応した2010年度における児童虐待の件数が5万5,152件に上ったことを発表しました(ただし、東日本大震災のため、宮城県、福島県及び仙台市の件数は未集計)。前年度よりも1万件以上の増加であり、児童虐待対応件数の全国集計を始めた1990年以来はじめて5万件を超える事態となりました。1990年に虐待件数が1,101件だった当時、18歳未満の児童人口は2010年より約500万人多いですから、これらのデータを児童人口における虐待件数に置き換えて比較すれば、さらに大きな増加傾向がみてとれるはずです。
全国児童相談所の児童虐待対応件数‐厚生労働省
このような事態を受け、児童虐待そのものが増加しているのか、それとも児童虐待に関する地域住民の意識の高まりによって通報が増えたことによるのかについて、未だにあれこれと言及する傾向が一部の報道や「識者コメント」にあるようですが、私はもはやこのようなところに論点があるとは考えていません。
一つは、児童虐待の対応件数が全国で1万件を恒常的に超えるようになった1999年以降の段階において、児童虐待はわが国における“普遍的で法則的な現象”になってしまったという理解が必要です。モータリゼーションの進展によって交通事故が普遍的な社会現象になったことと同様、わが国の生活と労働における構造変化は児童虐待を普遍的に産出するようになってしまったということです。
それは何も子どもだけが犠牲になっている問題ではありません。2000年に児童虐待防止法が施行されて以来、DV防止法、高齢者虐待防止法、そして障害者虐待防止法と相次いだ法制化が示すように、「揺り籠から墓場まで」のあらゆる人たちが、暮らしのただ中で人権と個人の尊厳を剥奪される事態に陥っています。
まさにこれは、「反福祉国家」的な状況です。
そこで、もう一つ指摘しなければならない点は、このように虐待・DVが構造的に産出されるようになった事態に、わが国の政策は何ら有効な対策を打つことができてこなかったという点です。それは、厚生労働省が何もしてこなかったという意味ではありません。度重なる児童相談所運営指針の改定、児童福祉司の増員、関連法制度の改正、司法関与の強化など、結果的にはとても十分とはいえませんが、改善が進められてきたことは間違いありません。
この政策の失敗の本質は、経済のグローバリゼーションの進展に伴う国民生活の解体に実効的な施策が立てられなかったことにあります。すなわち、あらゆる産業分野の衰退と海外移転、非正規雇用に代表される雇用と生活の不安定化、地域社会の解体等が攻め落とすべき問題の本丸です。ここに抜本的な国の政策が対応せず、虐待領域に限られた制度改善を積み上げることは「ザルに水を注ぐ」ようなあり様であり、児童虐待の増加基調は延々と続くことになるでしょう。
実際、厚生労働省『子ども虐待対応の手引き』(2009年改正版、10頁)は、「家族の構造的問題としての把握」の必要を次のように指摘しています。
「子ども虐待が生じる家族は、保護者の性格、経済、就労、夫婦関係、住居、近隣関係、医療的課題、子どもの特性等々、実に多様な問題が複合、連鎖的に作用し、構造的背景を伴っているという理解が大切である。したがって、単なる一時的な助言や注意、あるいは経過観察だけでは改善が望みにくいということを常に意識しておかなければならない。放置すれば循環的に事態が悪化・膠着化するのが常であり、積極的介入型の援助を展開していくことが重要との認識が必要である。また、家族全体としての問題や虐待が生じるメカニズムの把握の視点と、トータルな家族に対する援助が必要不可欠である。」
ここで、虐待対応にあたる支援関係者の率直な意見を代弁すれば、「積極的介入型の援助の展開」に資する法制度の改善は進んできたが、「トータルな家族に対する援助」を必要十分に満たすだけの法制度と社会資源の拡充は一向に進捗してこなかったということになるでしょうか。
児童虐待の構造的な性格、虐待対応の難しさ、法制度上の改善課題等の理解のためには、川崎二三彦著『児童虐待-現場からの提言』(2006年、岩波新書)をお薦めします。本書の内容と執筆の姿勢には共感を覚えるところ大です。とりわけ、児童相談所の職員としてくぐってきた虐待対応の現実を踏まえ、自らの子育て体験も一面でくぐりながら、まことに説得力のある虐待支援論を展開されている点は、多くの現場の人に学んでいただきたいと思います。
日々の実践を語ることもなく、自らの生活者としての現実を踏まえることもなく、施策のあり方にはあれこれと発言するような現場の人を散見しますが、これでは「正しいこと」を主張してもほとんど説得力はありません。
虐待は生活主体の側から考えてみると、暮らしの中から慈しみあいが消失し、身近な間柄にあって尊重しあうべき当たり前の人権や尊厳を見失った状態です。これが普遍的な状態になったからこそ、虐待が普遍的な現象となっているのです。ここで、私たちの日常をもう一度点検する視点と体験をくぐらない限り、虐待支援の領域は強迫的に「正しいこと」を主張するだけで、虐待の行為者をもっぱら責めることに終始します。それは、前回ブログで述べた「割り切れなさ」の重要性を理解しない「空疎な正義」に過ぎません。
子どもの姿から私たちの日常を考える
したがって、私たちは日々の子育てと暮らしの現実から、日常的な慈しみ合いと人権の尊重を考え直し再構築する展望を切り拓かなければならないという地点に生きています。ここから地域社会とわが国のあるべき姿の地平が開かれるようになったとき、したがってまた、日々の親密圏から新しい公共圏を私たちから見通すことができるようになったとき、はじめて児童虐待は減少に転じることになるでしょう。
コメント
わが国においては、高齢者や障害者、子どもなど、支援が必要な人ほど弱い立場に置かれて行ってしまう状況がある。私たちが普通と考えているもの、それに当てはまらないものは異常であり、なかなか認められず、排除されがちであるということだ。
家族と子どもという関係からみてもそうだ。
「家族」という言葉からほとんどの人が連想するのは、両親がいて子どもがいるという形であろう。そしてその「家族」の形が理想であり幸福であると考えている人も多い。しかし、母子家庭や父子家庭、ステップファミリー、里親家族など、家族にもさまざまな形がある。それにもかかわらず、このような形の、私たちが理想とする「家族」に当てはまらないものは、社会的にも認められず制度的に不利益を被ることが多い。その中でも特に子どもの権利が侵害されることが多いのではないか。
自分とは違う多様なものを認めるという、尊重の気持ちを私たちは再確認する必要があるだろう。
今晩は。
飲み屋での後コメントするのもどうかと思いますが、社会問題に接していらっしゃる様子、私も関心がありますので、何かの縁という事で、写真と共に社会を見つめていたいと思います。
良かったらたまにはヤマセミの写真も眺めてください。
http://komm1521.blog68.fc2.com/
データから見て、明らかにわかるように、児童虐待が増加しているのが現在の日本である。ここ5、6年は、6日に1人の子供が虐待死をしているというデータもあるそうだ。生き延びたとしても、サバイバーと言われる虐待から耐えて成長した大人になり、フラッシュバックして、気を失うこともあるそうなので、子供のころの問題では終わらないのが虐待だと考えられる。だから、そうしたサバイバーの支援もすることも児童虐待が増加している現代では必要であろう。
昨今の日本では連日のように虐待のニュースが流されています。
この問題を解決するには学校や地域での正しい人間関係を作り上げていくことが必要だと思います。正しい人間関係とは挨拶をすることでも、ちょっとした相談に乗ることでも作り上げることができます。現在の日本人はそうした少しのことができないためにストレスの矛先を子どもに向けているように感じます。
事実、昔からシングルマザーなどの問題は存在していたにもかかわらず現在のような大量の虐待はおこっていませんでした。
今最も大切にしていかなければならないのは地域間での関係を密にしていくことなのではないでしょうか。そうすればおのずと虐待の件数も減っていくのだと思います。
虐待を減らすために、私は信頼の構築を考える。その信頼を生むため、コミュニティを密にし、より安心できる環境づくりをしていくことが重要なのではないか。
虐待は連鎖するものである。この連鎖を止めるために、信頼があると考える。親から虐待を受ければ、その子は親を信頼することが困難になり、信頼することを知らなければ、周りも信頼できないだろう。その代わりとなる信頼をコミュニティが生み、当人が信頼の価値を知ることによって、次の虐待をなくせるのではないか。なぜなら信頼もまた連鎖するからだ。
年々増加する虐待を止めるためにも、信頼が連鎖する密なコミュニティが重要である。
増え続ける児童虐待への対策は今の日本の最優先課題の一つだと思います。虐待を受けた子が親になり自分の子を虐待するというケースが多いという話を聞いたことがありますが、もし今この5万5千件を超える虐待を放置していたら、いつになっても虐待に苦しむ子どもは減らないしむしろ酷くなる一方でしょう。この大きすぎる数を見た時、もっと有効な対策を考える事や虐待が起こらないような社会をつくり始めるべきは今なのだと感じました。
年々、児童虐待の件数は増えている。その中でも発見が遅かったことにより亡くなってしまった子、障害を持ってしまった子も多くいるかと思います。
虐待、差別、放置。彼らの権利を守る法律があるはずなのに、なぜこのようなことが起きるのだろうか。児童虐待は法律で許されたことではなく、子どもの権利というものも存在する。しかし、立場として弱い子どもが親権にねじ伏せられている。そういった立場に置かされても子どもは親を守りたいという気持ちから自分から白状することはなく、周りが気付かなければこのような状況はわからないことである。近隣の住民がお互いに目を見張っていかなければ気付かない。現在、人間関係が疎遠になっていることも虐待の発見を遅くするものとして一理あるのではないかと考えます。
グラフを参照すると、明らかに児童虐待は増えていることが分かります。宗澤先生の見解通り、これら児童虐待の増加の背景には社会的要因が含まれているのであると思います。
現在の社会的経済状況は決して良いとはいえません。親の経済的余裕がなくなれば生活も不安定になっていき、もちろん精神的な余裕も失われていきます。その矛先には児童虐待へ進んでいってしまうのではないかと思います。これだけが児童虐待の要因ではないとは思います。
しかしながら、これらの悪循環から脱出するためには、やはり現在の雇用状況から見直す必要もあるのではないかと思います。
虐待には2つの理由があると私は考える。
一つは経済力の差である。片親の家庭に児童虐待が多い事もそのためである。2001年の小泉内閣以降、民営化と競争を基調とする新自由主義経済が推し進められた。セーフティーネットは崩壊し、失業は即転落を意味するようになった。この経済的な転換は、従来の社会観を崩壊させたのではないだろうか。
2つ目に、世代間の虐待の連鎖が伺える。児童虐待をする親は自らも子ども時代に虐待を受けたケースが多いのである。なぜ、このようなことが起こるのだろうか。
それは、ネグレクトを含む暴力が常態化している家庭で育った親は、それ以外教育方法を知らないからではないだろうか。
こうした負の連鎖が続くことにより児童虐待が増えていくのではないだろうか。
「虐待」をニュースや新聞で見聞きすると、とても遠い世界の事のように感じられます。それは私自身、虐待を受けることなく育てられ、実際に虐待というものを見たことがないからだと思います。また、私は三人兄弟の末っ子であるために、両親が子育てに余裕を持っていたからかもしれません。しかし、調査の結果を見る限り、虐待は身近なところにあるということ、自分が加害者となる可能性があるということを誰もが意識する必要があるのではないかと思います。自動虐待をなくすということは、親と子という関係がある以上不可能だと思います。しかし、防げるものもあるはずです。既に起きた虐待に対応することはもちろん重要ですが、未然に防ぐための方法を真剣に考える必要があると思います。
今後自分には何ができるのか考えていきたいです。
児童虐待の件数が増えてしまった一因には、被害者側の声が世間に届きにくいからだと思う。
子供にとって親がすべてであり、絶対である。彼らから離れる、逃げ出すというのは選択肢の中には現れず、ずっと耐え続けるしかないと思ってしまう。だから、周りの人間が虐待のサインに気づかなくてはならない。家族というコミュニティは独立していても孤立してはいけないと考える。
まさに“「積極的介入型の援助の展開」に資する法制度の改善は進んできたが、「トータルな家族に対する援助」を必要十分に満たすだけの法制度と社会資源の拡充は一向に進捗してこなかったということ”であると思う。
虐待は以上なことであるし、注意深く対処していかなければならない、社会に生きる私達の問題であると思った。
児童虐待の件数が増加しているということを世界全体が、人間一人一人が認識してゆくことが必要であると感じた。
虐待が行われているという事実は近隣の住民からの摘発で虐待が明らかになることも少なくないという。虐待件数を少しでも減らすためには、虐待増加という現実を知った上でそれぞれが生活していかねばならないと思われる。
児童虐待はなぜ減らないのか?それは、各家庭の中に外部の人間が介入しづらい、虐待の事実を子どもが外部に漏らさない、この2点が大きな理由だと思います。各家庭にはそれぞれ各々の教育方針や家での決まりごとがあります。いわば、小さな社会がそこにあるのです。
そして子どもにとって親は絶対の存在です。これは子どもの年齢が低ければ低いほど言えることだと思いますが、親から虐待されていることを認めてしまったら、自分は愛されてない、と考えてしまうと思います。少なくても私はそう思ってしまうでしょう。
この現状を打破するために根本から見つめ直す必要があると思います。
児童虐待は、世代間の連鎖的なものから社会的不安まで、実に多角的で多面的な原因を抱えている。したがって、社会制度により児童虐待を、ましてやその原因を完全に根絶するのはいささか現実感に欠ける。なぜなら、そのためには日本が今現在抱えているすべての社会問題を、デメリットなしに解決でき、万人が不平不満を持たず充足することができるような、正に奇跡としか言いようのない神がかった社会制度が必要になるからだ。具体的な社会政策について、それに対するメリットやデメリットを議論することなく国の政策に原因を説くことに、正直疑問を禁じ得ない。
私は、他の社会問題と複雑に密接に関わっている児童虐待を限りなく零に近づけるためには、人のココロが重要なファクターになると思う。他のコミュニティとの密接なつながりや各々の児童虐待という問題に対する意識などが欠けている限り児童虐待を減らすことなど不可能であり、このように身近なことから考えることが児童虐待を減らす近道なのではないかと私は考える。
グラフを見ると、児童虐待は増え続けていることがわかる。なぜこのような状況になってしまったのか、それは地域社会の崩壊が大きく関係していると思う。ニュースや新聞での虐待に関する報道を見ても、もし周りの人が気づき通報すれば防げたのではないかと感じるものが多くある。児童虐待はその親と子だけの問題ではない。地域社会全体で子どもを見守っていく姿勢がこの状況を脱するために必要であると考える。
虐待が増え続けているというデータを見ると,減少させることがどれだけ困難なことなのか改めて感じる。「単なる一時的な助言や注意、あるいは経過観察だけでは改善が望みにくいということを常に意識しておかなければならない。放置すれば循環的に事態が悪化・膠着化するのが常」という部分からもそれが伝わった。虐待してしまう理由を明らかにすることも大切だと思う。
以前に虐待をしてしまっていたという母親の体験談を目にしたことがあるが,「やめようと思っていても,無意識のうちに」というものが多く,虐待する側も苦しんでいるのだと思うと,やりきれなくなる。やめるまでにも時間がかかることも学んだ。
また,虐待される側も他人には言えず,苦しんでいる。そのような現状を知っていても,何もできないことは悲しいことである。身近な人が気づいて,助け合っていき,虐待する側・される側の双方を救っていくことが減少に繋がっていくのではないかと今は思っている。
児童虐待の件数が増えたことは虐待そのものの増加と通報の増加、その両方にあると私は思います。
私は2回、虐待について身近なところで聞いたことがあります。1人は経済的にも厳しい家庭で、学校が終わるとすぐに帰って家事をし、妹の面倒を見て、時には理由もわからず暴力を振るわれる、と言っていました。私は相談を聞いてその子を児童相談所に連れて行こうとも考えましたが、本人が「お母さんに迷惑をかけたくない」といったので、私は困ったときはいつでも連絡して欲しいと伝えました。今にしてみると、とりあえずでも児童相談所に連れて行くべきだったのかと考えてしまいます。もう一人は友人から聞いた話で詳しくはわからないのですが、家庭で暴力を振るわれている、ということでした。しかし、本人は何事もないように学校に通い、「親がちょっと厳しいだけだから」と言っていました。
この2件は公にならなかった話ですが、学校で時々配られる相談室の連絡カードなど虐待を通報する方法は増えたと思います。見えない虐待は見えるようにしないと対処のしようもないので、まずは親子共に救われる方法があると広く伝えていくことが大事だと思います。
児童虐待が急増した理由の1つに、社会の変化による親の心理的負担の増加にあるだろう。他人との交流が希薄になった現在、子供の世話に慣れていない親が、育児による不安とストレスを溜め込み、ついにそれが我慢できなくなったときに子供に当たってしまうのだろう。また、夫婦で共働きをしている家庭では、育児と仕事のバランスがうまくとれずに虐待をしてしまうのだろう。虐待された子供のケアも大切だが、その前に親の心理的負担を取り除いてやるのが、児童虐待防止の一番の抑止力になるのだと思う。
近隣住民による虐待の通報件数は増加してきた、とはいえ未だに通報がされずに最悪のケースを迎えてしまうことがある。
授業中に取り扱ったアメリカでの啓発CMのように、テレビや車内広告などほとんどの人が見る機会があるスペースを用いて虐待の酷さや通報の大切さをアピールすることは有効な方法であると思う。
しかし、虐待児を救うことはもちろん大切であるが、虐待そのものの発生を防がなければならない、虐待の行なわれる家庭の状況をみると経済状況や就労環境など、個人の問題ではなく社会全体の問題からきているものが上位を占める。こういった問題を解決するには家族の周りの者の支援・政策の力が必要であると私も感じる。
データからも児童虐待の数が増え続けていることがわかる。これは今まで明るみにでてこなかった虐待が通報などにより明らかになっているものと考えたいが、虐待それ自体の件数も増えているのが実際だろう。現在の社会は経済状況が決していいとは言えず、ストレスなども虐待の原因となってしまうのだろう。
児童虐待は子どもが自ら虐待されていると明かすことはめったにないと思う。家族が閉鎖的な空間となってしまっている今は、地域住民との相談できるような信頼のある関係を持つことが重要だと思う。地域住民と普段から関わり合いを持つことで、虐待などの異変にすぐに気付く事ができる。児童虐待を家族内の問題とするのではなく、私たちが解決すべき地域ぐるみの問題として見なければならないと痛感した。
私は虐待の増加というものは、この記事の冒頭に示してあるように、児童虐待というものに地域住民を含め児童相談所が過敏になっていたからだと思っていましたが、そんな単純で簡単な問題ではないということを痛感しました。児童虐待を減らすためにはやはり地域の結びつきを強くするということが最も必要なのではないでしょうか。一つの家庭だけという孤立した集合体の中では、親は強者であり子どもは弱者であるという関係が既に構築されていて、さらに閉鎖した空間であることがその関係性に歯止めを効かせ無くしているのだと思います。そして経済の不況と重なり、他との交流がないことの不安が虐待を引き起こしていると考えます。これはもはや日本社会の全体の問題であり、現代人の心の病ともいえるのではないでしょうか。
虐待件数をすぐに減少に導くことは難しい。言葉で虐待をやめることを勧告しても、処罰の対象にしても未だ増加していることを見れば明白だろう。どうであれ虐待をするように育ってしまったのだから。私は、増加を抑えるには今育っている途中の子供や、これから親になる人に虐待に関する教育を施し、防止すべきだと教えることが必要だと思う。特に子供を産む両親には乳児期の育て方だけではなく、虐待に関する講習をすべきだと思う。
夫婦関係、家計の不安定化などが原因となって家族という関係が希薄化し、虐待が増加する、ということは間違いないと思う。児童の孤立化は深刻な問題だと思う。地域との密接な関係は児童の成長過程において重要だと思う。親しい人が身近に多くいることで信頼関係を築き心豊かな生活を送ることができるのではないか。雇用問題や経済状況の不安定さを改善するために政策の力も必要であるが、それがあまり効果を発揮していない。もっと政策に現場の声を取り入れる必要がるのではないかと感じた。
児童虐待が年々増加していく現状に残念な気持ちを抱くとともにこの問題が難易度の高い多角的な視点が必要な問題であることを痛感しました。産業分野の衰退から保護者の経済状況などとこの問題は実に多様な問題を含んでおりこれらは児童虐待の問題のみに関わらずこの国の抱えている多くの問題そのものでもあります。児童虐待における改善がこの国を、また自分自身を豊かにすることをより多くの国民が理解する必要があると思います。
児童虐待が年々増加していく現状に残念な気持ちを抱くとともにこの問題が難易度の高い多角的な視点が必要な問題であることを痛感しました。産業分野の衰退から保護者の経済状況などとこの問題は実に多様な問題を含んでおりこれらは児童虐待の問題のみに関わらずこの国の抱えている多くの問題そのものでもあります。児童虐待における改善がこの国を、また自分自身を豊かにすることをより多くの国民が理解する必要があると思います。
虐待件数の増加を止め、そして減少させていかなければならない。しかし、そのためには、法制度の整備も当然ながら、現場の人たちの働きは重要である。また、虐待の現状をより多くの人が知るべきであると思う。おそらく、多くの人は虐待の現場に直面しない限り、自分と虐待は遠いものだと考えていると思う。よって、自分と虐待は近いところにあるのだと認識し、正確な知識を身につける必要があると思う。
“普遍的で法則的な現象”になってしまった虐待。
まずこの事実を多くの人々に伝えることが問題解決の第一歩であると考える。それを周知することにより地域のコミュニティーとそれぞれの家庭のつながりができるはずである。
周りの人々と手を取り合い、尊敬し合って、初めて、正しい親子関係が形成されるはずである。
家族という繋がりも形式的なりつつある中で、やはり人々間の繋がりこそが問題解決に繋がっているはずである。
虐待に対する手立てとして、法や条例などだけでなく、多くのつながりをもつということが重要なのではないかと思います。母は私の育児にあたって、祖母や伯母からだけでなく、近所にすむ他の母親の方からも助言や支援をしてもらったと話していました。頼れるつながりは親族だけではありません。子育てをする親たちのコミュニティも存在しますし、近所の方々も大きな助けになってくれるのではないでしょうか。私が幼かった頃、両親が忙しいときにはご近所の方に面倒を見てもらった記憶があります。周囲に子供を気遣ってくれる人や「子育ての先輩」のような人がいるだけでも親の心理的負担は減るのではないでしょうか。虐待を阻止するためには、子育てをする親に限らないすべての人が、社会の中でのつながりを維持しようとする姿勢を保ち、子育てをする家族を孤立させないようにする必要があると考えます。
ニュースで子供に対する虐待の記事を見るたびに、とても悲しい気持ちになります。私は子どもが好きで、街中やスーパー、電車などで子どもたちを見ると思わず顔がほころんでしまいます。他の人の子どもたちでさえあんなにかわいいのに、自分の子供ならどれほどかわいいでしょうか。どのような理由があろうと虐待は許してはいけないことだと思います。それなのに日本では児童虐待が増え続けているという事実に私はとても胸を痛めています。何とかして食い止めなければいけない問題だと思います。
ニュースで子供に対する虐待の記事を見るたびに、とても悲しい気持ちになります。私は子どもが好きで、街中やスーパー、電車などで子どもたちを見ると思わず顔がほころんでしまいます。他の人の子どもたちでさえあんなにかわいいのに、自分の子供ならどれほどかわいいでしょうか。どのような理由があろうと虐待は許してはいけないことだと思います。それなのに日本では児童虐待が増え続けているという事実に私はとても胸を痛めています。何とかして食い止めなければいけない問題だと思います。
児童虐待が増え続ける理由として、近年の地域社会関係の希薄化というものが挙げら。と言うのも、もし近隣の家庭で児童虐待が起こっていたとしても地域のコミュニティができていないと近所であるのにその事実に気づかなかったり、気づいたとしてもあまり関係ない家庭においては見て見ぬふりをする人すらいるだろう。そもそも子供にとって親とは絶対的な存在であり、いくら虐待を受けたとしてもそれを簡単に他人に話すと言うことはできないだろう。だからこそそのような子供たちを助けるためには近隣の住民が虐待に気づき、その親を注意するなり、相談所に連れていくなりといったことをするべきなのである。そのためには地域関係が薄いとそれはできないと思う。よって私は地域コミュニティの重要さを訴えたい。
今日報道されている児童虐待の事件の多さには驚かされるばかりです。しかしテレビで流れるそれらは一つのニュースとして消費され、自分の中で問題として捉えているのかと言われるとそうでもないと思います。
理由は私にとってはやはり他人の問題なのだという意識があるからです。どんなに虐待について勉強しても虐待を受けた人、虐待をした人の気持ちはわかりません。ただ、勉強していれば近づくかもしれないと思います。そして近づくことによって虐待を防ぐ防止策を少しでも見つけたいです。
私は児童虐待に対する国の政策に対して強い違和感を感じている。確かに国は虐待問題に対して何も対策をしていないわけではないが、問題を表面しか見ずに、根本的な対策しかしていない。私は現代の財政不安、低所得が虐待の増加に関係していると考える。親の生活に対する不安の矛先が子供に向けられるのだと思う。また、人権の尊重や近隣の人たちとのふれあいが減っている現状にも財政の不安が関係していると思う。このような状況に対して国のすべきことは生活保護など家族に対する金銭面の援助だと思う。現状を表面的にみるだけでなく、裏に何があるのか考えることが必要である。
私も、経済・産業における構造変化が虐待を普遍的に生み出すようになった原因の一つと考える。「ストレス社会」と言われる現代社会において、人々の心は不安定な状態になりやすい環境にあると思う。
ストレスを抱えた状態で子育てをする親が増加する一方で、地域社会との関わりが減少し、子育てを一人でしなければならないという意識を持たざるを得ない現状があると思う。
虐待を減少・防止するためには、様々な原因を一つひとつ見直すことから始めるべきだと考える。
そもそも、私は、なぜ児童虐待があんなに多く発生するかについて倫理的に理解できません。自分と血の繋がりがある親族に対して、なぜひどく手を出せるのでしょうか。普通は、自分の子供に虐待をするどころか、いっぱい愛を注いで育てあげるでしょう。そうできなかったら、子供を生んでこなければより良い選択であるでしょう。特に、少子化が進み一方である日本において子供虐待が増加しつつあるのがどうも不思議で、深刻な状況だと思います。子供の数が減少している中、子供を生むことを決めた人々はもっと子供を愛するはずのではないしょうか。
先生が仰るように、原因として、やはり現在の社会においては、暮らしの中から慈しみあいが消失し、人々の間の関係がますます疎遠になっていることだと思います。虐待を減らすために、血の繋がり・親族への大切さという視点から主張して、人々の心の慈しみあい・身近な人への尊重あるいは愛を覚醒させることが重用だと私は思います。
児童虐待をゼロにすることは難しいかもしれませんが、ここまで件数が多くなっているということは何か社会的な原因となるものがあるのではないかと思います。本来愛するべきわが子を傷つけるという行為は普通のことではありません。しかし、そのように社会的な要因から子どもに虐待を行う親が増えているとなると、親が子どもというものをどういう存在としてとらえているのかが気になります。子どもは社会的ストレスを強く感じるから暴力をふるってしまうぐらいのものとしてしか認識されていないのでしょうか。子どもに関しても同じことが言えます。親というものがどれほど大切なものかということを実感していないから虐待をするのでしょう。それぞれが相手の存在を正しく理解し、感謝することが重要であり、そのような考えを学ぶことができる場所や機会が増えることが虐待の減少につながると考えます。
私は、近所付き合いの希薄さ、つまり育児の孤立が児童虐待の大きな原因であると考える。親の交流が図られており、子育ての悩みなどを共有できれば、虐待などおこらないだろうし、あってもすぐに他の親が気付くだろう。女性が社会進出をしている今、そんな環境が少なくなってきている。虐待を減らすには、育児が孤立しないよう、社会、企業の理解や、親の交流の場が必要なのではないだろうか。
私は、虐待というのは、経済的貧困や人権に対する認識が欠けた「問題ある人間」だけが起こすことだと思っていた。しかし、社会が経済的に豊かになり、人権に対する社会認識が成熟した現在、虐待は減少するどころか増えつつある。自分の考えは、社会の構成員の種類が多様になっていくことを看過した青臭いものだった。
私は、普通「問題ない」と言われる家庭で「問題なく」育てられ、暴力や虐待を経験したことが全然ない。したがって、虐待はテレビやニュースで見られるものであり、私とは関係ない問題だと思っていた。
今、考えてみれば、虐待に触れたこともなく、真剣に考えたこともない私こそ、いつか虐待の加害者になるかもしれないような気がする。「無知」だから自分の行動が虐待だということすら気づかないのだ。
したがって、虐待減少のためには、社会全体が虐待について考え直すのが大事ではないかと思う。私は、自分の家庭を「問題ない」家庭だと思っていたが、実は問題ない家庭ではなく「虐待がなかった」だけだ。私とは違う状況を認め、それらの状況に関心をもって考えてみるのが必要だろうと思う。
私は、児童虐待の急激な増加は児童虐待に関する地域住民の意識の高まりというよりも、児童虐待そのものが増加していると思う。その主な要因として、家族への愛の不足とともに家族と過ごす時間の減少というものが挙げられる。
この家族と過ごす時間の減少はその両親や会社が悪いといよりもそうなるように社会を作り上げてしまった、日本の現状自体が悪いと思う。法律や制度によるサポートや、刑罰を科すことも大切かもしれないが、根本的な虐待の要因を改善するほうにもっと重点をおくべきである。
児童虐待の件数が増加していることについて、私は児童虐待そのものの増加が原因だと思います。虐待をしてしまうのは、生活の不安定さだったりその人の性格だったり、いろいろな要因があると思います。それをサポートする制度というものが虐待件数を減らしていくためには必要だと思います。
そして虐待を受けた子どもたちは必ず何らかの心の傷を抱えているはずです。そういう子どもたちが傷を癒すためのケアを受けられる環境づくりもこれから必要になってくると思います。
児童虐待には様々なケースがあり理由も複雑だと思う。児童虐待を防止するには、子供を育てる親の心をいかに穏やかに、充実したものにできるかが重要だと思う。人間形成の過程において、いかに社会人としての自覚や自立できる精神力を培い、自分以外のものを思いやる気持ちを育めたか、そのためにそういったものを学べる環境にいることができたかがポイントとなると考える。自分が本当に子供を育てられる人間になっているか、自分のいる環境が子供を育てるのにふさわしいものか、この判断と自覚を親が持てば児童虐待は防げると思う。
今まで私は虐待とは珍しいことであると思っていました。ニュースなどで取り上げられることも少なく、周囲に虐待を受けていた人も知っている範囲ではいなかったからです。しかし、子どもが親に口止めをされていて、それに気づくことができなかっただけかもしれません。五万五千件というのはとても多い数です。今まで一人も虐待を受けている人と接しなかったということはありえないと思います。発覚しづらいという点から見ても、虐待は解決が難しい問題だと思います。
私は今まで虐待について考えるとき、虐待をする人を責めてばかりでその背景にある虐待発生の構造に目を向けたことはなかった。今回その背景、構造について学んで私が1番印象的だったのは「強迫的な愛情」である。一所懸命の愛情が子どもに劣等感ややましさをもたらし、その結果、相手のために必死で努力し続けるという関係に閉じ込められ、「共依存」の関係になり、虐待、DVと同時に並存する。また、現代の能力主義社会において、妻が夫や子どもに能力主義の下で勝ち抜ける人間であれという風に強迫的な愛情を注ぎ、その期待に応えることが出来なければ「見限り」をつける。そして、またもや虐待、DVに繋がっていく。
この瞬間にも自分の言動が虐待、DVに繋がるかもしれないとは思いもよらずに、無意識に相手を支配するような絶対的な前ふりで相手に言葉を投げかけている人は多数存在すると思う。実際、私も母親からそのような言葉を今まで聞いたことがある。世間が強迫的な愛情がもたらす結果をもっと知っていかないといけないと感じた。
児童虐待の問題
私はよく虐待のニュースを見たりするのですが、自分の近くで起こったこともなく、親が子どもを虐待するなど信じられなくて珍しいことだと思っていました。しかし、データから児童虐待が大幅に増加していることを知りとても驚きました。そして、この問題は珍しいことではないということを実感させられました。
私は、自分の子どもに暴力をふるうなど親が悪いと虐待の問題点を親だとしてしか見ていませんでした。しかし、虐待の問題には様々な社会要因があることを知りました。その最も大きな要因は、地域社会との疎遠化だと私は思います。
現代では人との関わりが少なくなり、育児が一人でしなければならないという人が増えていると思います。それはとてもストレスが溜まることだと思います。ある番組で子どもに虐待をしていた母親のインタビューを見ました。そこでその母親は虐待をしている親でしたくて暴力をふるう人はいないと話していました。自分の抱えるストレスを聞いてもらえる人がおらず、どうすればいいのか分からなくなってしまっい子どもに手をだしてしまったそうです。
私は、育児の孤立とはそういうことかと実感しました。地域社会の疎遠化を防ぐためには親の育児の相談所や親同士の交流の機会をつくるなどすることが必要となってくるのではないかと思います。
今この瞬間、私のすぐ近くで虐待を受けている子どもがいるかもしれません。仲の良さそうな家族に見えても、家の中では子どもに暴力を振るっている可能性だってあります。虐待・DVは事前に防ぐことはとても難しいことだと思います。それでも、増えていく児童虐待の件数を減らしていかなければなりません。しかし実際、虐待の法律や規則ができていくなかで、私はそれらについて知らないことのほうが多いです。法を作ることも大切ですが、もっとそういった情報を広げていくことが重要だと思います。児童虐待を減らすためには、減らそうとして活動している人たちだけでは限界があると思うので、地域が一団となって児童虐待の深刻さを理解していかなければならないなと思いました。そして、最初に『身近な間柄にあって尊重しあうべき当たり前の人権や尊厳を見失わない』というとても大切なことを私たちはもう一度考え直していく必要があります。私はこれから、この、『身近な間柄にあって尊重しあうべき当たり前の人権や尊厳を見失わない』という言葉を忘れず生活していきたいです。
近年の虐待件数の著しい増加には、かなり驚いた。
このように虐待が増加した原因は、周囲の人とのつながりの弱さや、地域住民とのかかわりの薄さにあると思う。
私は幼い頃から、近所の人の家に遊びに行き、その帰りに野菜やお菓子を頂いたりした。それを持ち帰ると、今度は数日後に母が私にお返しを持っていくように言い、それを持っていく。そんな関係が今でも続く。放課後には学童に通い、年齢に関係なく遊んだり、学童の先生と話をしたりしながら、勉強以外の大切なことを学び経験した。家庭では、学校であった出来事を聞いてくれる両親がいた。このような環境があったからこそ私は、人はたくさんの人とかかわりを持ちながら育つことで、人を思いやる気持ちや、自分を大事にしようという気持ちが持てるのだと思う。
現在では、マンション暮らしで隣の人と話も挨拶もしないという話をよく聞く。また子供が近所の人とかかわりをもつことに嫌悪感を抱く親もいると聞く。そのような環境は、成長していくうえで悪循環だと思う。
私は高齢化だからこそ、子供がお年寄りと触れ合うことのできる機会を持てるような授業を積極的にするような取組をする必要があると思う。他者とのかかわりが成長に大きなプラスになると思う。
児童虐待について
私は虐待をニュースで見たり、新聞で見たりしていますが、いつも思うことはかわいそうとか自分じゃなくてよかったとか他人事のように思っていました。しかし、この記事を読んでなぜ虐待は減少しないのか考えてみました。性格の問題とか生活の不安定さなどあると思いますが、まず第一に子供に対する愛情が欠けているからだと思います。現代の日本はストレス社会であり、親はストレスを抱えたまま子育てをするので虐待が生じていると思います。子育てには叱ることも必要です。しかし、叱った後には必ず褒めることも必要だと思います。叱ってばかりだと子供は親に対して反抗的になったり、親とコミュニケーションをとろうとしなくなります。そして、親は子供に強く当たってしまいます。このような家庭が増加しているので虐待も同じように増加していると思います。どうしたら虐待が減少するのか考えてみると、まず子供を産む前にしっかり親同士で責任を持って子育てをすると自覚することが大事だと思います。決して曖昧な考えで子供を産んではならないと思います。自覚を持つだけで虐待は減少すると思います。
先日先生の講義を受講させていただき、児童虐待について自分なりに考えた。私は、虐待が起こる原因は様々だが、その一つとして、核家族化や地域での孤立により、誰の助けもない中で育児をする母親の心の余裕が無くなることが原因で、家庭で互いに慈しみあい、人権を尊重することができなくなったことが考えられると思った。では、どうすれば心に余裕を持って育児をすることができるのか。私は地域社会のつながりを持つこと、中でも同じ地域に住む母親同士のつながりを持つことが大切だと思う。例えば、現代はケータイやスマートフォンの普及により、誰でも気軽に人とつながることのできる社会になったので、それを利用して、市が、同じ地域に住む母親同士で育児の悩みをつぶやき、共有できるサイトを運営するなどをして、母親同士がつながることのできるようにサポートするのはどうかと考えた。母親同士がつながることができれば、互いに助け合うことができ、また、たまに直接会って話をすることもでき、ストレス解消になることで少しは心に余裕を持って育児に取り組めるのではないかと思った。
児童虐待の件数の増加には驚きました。原因は多々あるようですが、やはり近隣住民との関係の希薄化の解決が虐待の減少や防止策になるのではないかと思います。私は住宅街に住んでいるのですが、私の地域では近隣関係が良く、虐待が起こっていたとしてもすぐに通報、注意が出来るような関係であると思います。このような関係が減っているようなので、少しずつでいいので増えて欲しい、そして虐待件数は減って欲しいと思いました。
また、一生懸命な愛情が子供達に劣等感などをもたせるパラドックスが起こるということを講義で聞いて、確かにそうだと思いました。一生懸命にすればするほど子供にはプレッシャーに感じられる場合もあるため、子育ての難しさを改めて知りました。一生懸命にならず協力して子育てをすることにより、お互いの生活を大切にしあえる関係になることができれば、虐待は減るのではないでしょうか。虐待が普遍的な現象である現在の状態が改善されるように意識していくことが大切になると思いました。
近年、虐待に関する痛ましいニュースがよく目につきます。私は以前まで虐待問題は一家族間だけの問題だと思い込み、まるで他人事のように思っていました。講義を受けて虐待は実際は実に多様な問題が複合的に絡み合って発生しているということに気付きました。
虐待問題に関連して個人的に感じたことは周辺住民への関心が薄れてしまっているということです。私が幼かった頃、周辺に住んでいる大人によく「おはよう、今日はどこに行くの」と話しかけられ、時にはものすごく叱られた記憶があります。ですが、今日周辺地域を見回してみると、挨拶やちょっとした会話をするどころか子どもが危険な遊びをしていても叱る人はほとんどいません。10年足らずして、すごく冷たい関係になってしまったなと思いました。ニュースを見ていても、周辺住人のコメントで虐待が起こっていることに気付かなかったというのを目にします。それは周りに住んでいる人に関心が向かなくなったからなのではないでしょうか。周辺住人に関心が無くなるのは虐待問題が深刻になるだけでなく、他者との関係を築くことさえも難しくなってしまうのではないかと思います。まして愛があふれた関係はますます遠のくと思います。虐待問題は当事者家族だけでなく周辺地域の環境、社会制度の見直しのなど包括的かつ総括的にあたっていかなければならないと感じました。
テレビや新聞などのメディアで児童虐待のニュースが報じられるとき論点になるのは、虐待を行った人の性格や幼少期の家庭環境等のどこに『問題』があったのか、その点ばかりを強調して報道しているように感じました。これは宗澤先生の講義を受けて注意してニュースを見て初めて気づいたことです。宗澤先生は講義中に、虐待は因果律で語るものではなく、虐待の発生関連要因を考えなければならないと仰いました。私にとってこの言葉が目から鱗でした。今までは虐待の背景にはなにか原因となるものがあると思いこんでいました。しかし虐待は「タテ」の関係が突出している現在の地域社会の状態と関係があるのだと分かりました。虐待を減少させていくため、地域社会の結びつきを強めるために、具体的にはどのようなことを行っていくのかを考え実行しなければならないと思います。そのとき、専門家や政治家に任せきりにするのではなく、地域社会で生きる私たち自身が行動に移していくことが必要だと思います。
ニュースなどでもよく児童虐待についての報道を目にします。そのため、虐待が増えていることは知っていましたが、これほどまでに虐待が増え続けていることには驚きました。虐待の要因として社会的状況なども挙げられるので、虐待の解決は本当に容易なことではありません。私は、対策として地域との関わりが重要になると思います。最近では、いわゆるご近所付き合いというものが少なくなっています。自分の隣にどのような人が住んでいるのか知らないという人も多いはずです。そのため、周りとの関わりをもっと深め、虐待に気付くことが大切だと思います。虐待を受けている当人はなかなか虐待という事実を周りに言うことができません。「他人のことだから」、「家族のことには介入できない」などと考えるのではなく、地域で協力して虐待という問題に立ち向かうことが必要であると私は思います。また、虐待についてまだまだ地域社会での意識が低いと思います。周りが気付いてあげられるようにするためにも意識を高めることが大切であると思います。
児童虐待が増えているという認識は前からあったが、改めてその数字を見ると、増加の速さに驚いた。その原因の一つとして、先生が講義でも仰っていたように、地域社会とそれを構成している各家庭どうしの関係が希薄化していることが大きいと考える。近隣住民との関係があれば、例え虐待があっても、それを注意し止めることができる。しかし、今日ではその関係を煩わしい、めんどくさいと考え、挨拶もしない関係である場合も出てきた。この状況が家庭を壁で囲いこみ、外から家庭内の状態が見えない状態にしている。虐待減少の第一歩は地域社会の関係性の回復だと考える。現在はツイッターやフェイスブックの流行により、気軽に他者とのコミュニケーションがとれるようになった。まずは近くに住む子供をもつ人たちが関係をもち、お互いの悩みを打ち明ける場ができれば、育児から来るストレスも緩和され、虐待が減るのではないかと考える。もちろん、外との交流ばかりではなく、家庭内の交流も考え、脅迫的な愛情を与えないように注意しなければならない。
近年、児童虐待のニュースをよく耳にするようになりました。データでも児童虐待の件数は増加傾向にあるようです。以前は、児童虐待と聞くと、親はどうしてそんな酷いことを自分の子どもにすることができるのだろうか?と疑問に感じていました。しかし、悪いのは親だけではないということが良く分かりました。地域でのかかわり合いが極端に少なくなっていることも、原因の一つだということに気づきました。私の両親は共働きですが、母方の祖父母と共に暮らしているので、私が小さい時は代わりに面倒を見てくれていました。母の育児の負担は軽かったと思います。また、近所付き合いも良く、祖父母が出掛けなければならない時は、近所の人に遊んでもらうこともありました。このような関係性が、現代社会では希薄になってきています。女性の社会進出が進み、母親の育児と仕事の両立が難しくなってきています。相談に乗るというのも一つの手段かも知れませんが、それだけでは何の解決にもならないと思います。母親が仕事に行く間、子どもを預かってもらえる、等といった環境をつくることが大切だと思います。そして、子供と向き合う余裕が生まれれば、互いを尊重しあえる関係性を築くことが出来ると思います。そうすることで児童虐待も減少していけばいいなと思います。
たびたびニュースでも流れる児童虐待の報道を見ていて、近年虐待が増えているように思っていましたが、ここまで増加しているとは思ってもいませんでした。また、その報道を見ていても、問題視するのは虐待をした本人であり、その背景には何があったのかなどを考えていなかった自分に気づき、この考え方も虐待を増加させる原因なのではないかと思いました。「教育」の場が家族と学校に限られるような、地域との関係が希薄化したことで、親が周りに助けを求めにくくなり、虐待が生まれ、そしてそれに気づかない環境になってしまうのではないでしょうか。虐待を個人の問題としてとらえるのではなく、地域社会の問題としてとらえていく姿勢が必要なのだと思います。
また、母親が子供の世話や家事に縛られている環境では、ストレスを感じても解消する手段がなく、結果として子供にストレスをぶつけてしまうということもあるように思います。それを避けるため、自由な時間を持つ事ができるように、家事を代行するサービスなどがあればいいのではないかと考えました。
宗澤先生の講義とこの記事などから、虐待は特別な事情があるから起きるものではないんだな、と思うとともに少し怖い気もしました。
『我が子が落ちこぼれないように、将来良い暮らしができるように。』と願い、子供自身、もしくはそれ以上に親が努力するのは、至極当然のように感じます。日常的な思考のプロセスの中に子どもの虐待につながるものが潜んでいるというのが、すごく重く、考えさせられました。
期待が一方的で、子供の心理的な負担になるなんて思いもよらないことだと思います。それを愛情だと信じて疑わない場合、子供への慈しみが必要だと言われても納得いかないのではないでしょうか。
朝から学校へ登校し、夕方には塾へ通う。夜遅く帰ってきて疲れてるからすぐに就寝。という子どもの生活リズムが当たり前となっている現代。もちろん共働きの家庭がほとんどで忙しいのは子供も親も同じである。その中で子供本人の意思と親の希望の食い違いに気づき、お互いの理解につなげるための会話を挟む十分な時間を取るのは、難しい。だが虐待の増加を食い止めるためにも、必要な課題であるだろうと感じました。
児童虐待の著しい増加は、社会の改革によりもたらされたとも言えるのではないでしょうか。
近年日本では個人情報保護法が制定され、プライバシーの保護も確立されてきました。それゆえに私たちには「必要以上に他人に立ち入ってはいけない」という考えが定着しつつあります。このことが自分のまわりの児童虐待に気づくのを遅らせているのかもしれませんし、もし気づいても立ち入ってはいけないと思い気が引けてしまうのではないでしょうか 。最近問題視されている孤独死も同じです。児童虐待や孤独死は社会発展の副産物といえます。
また、核家族化が進んでいるのも起因していると思います。行き過ぎた言動を互いに制止する人がいないために虐待が見過ごされている可能性があるのです。その上今日は結婚しても働く女性が多く、ストレスが溜まり子供に手をあげてしまったり他の大人への注意が行き届いていないことも考えられます。
児童虐待を減らすためには、日本社会の背景をしっかりと見据えた上での対策が必要だと改めて思いました。
先日先生の講義を聴いて、一番印象に残ったのは「悪意なき育児放棄」の話です。この悪意なき育児放棄をしている親が実は少なくないと聞いて、本当に驚きでした。まず私が思ったことは、自分が幼い頃、お話に出てきた例のように風邪をひいたとき、私が食べたくないと答えても親から「何なら食べれる?」とか、「一口だけでも食べてね」とか言われていたなあということです。そしていつもよりもかまってもらえているみたいで、なんだかすごく嬉しく思ったことを思い出しました。児童虐待の数は信じられないほど増えていますが、ほとんどの親が自分の子供の誕生を待ち望んだはずで、子どもと一緒に幸せになりたいと思ったのだろうと思います。それなのに様々な問題がからみあって虐待が起きてしまい、子どもに暴力をふるったり育てることを放棄してしまうほど、ストレスを感じて追いつめられてしまう、それはどんなに苦しいことだろうと思います。地域であったり制度であったり、親が安心して子育てできるよう守られ逃げ道があるような世の中にしたいと強く思いました。
先日、先生の講義を受講した者です。まず正直に言うと、これまで私にとって虐待は「どこか遠い場所で起きていて、言うなればテレビの向こうの非道な世界の出来事」でした。ですが講義を受講しこの記事を読むと、とても遠い場所のことなどではないなと、どこか危機感を持ちました。虐待を減らし、母子共に幸せに過ごしていくためには、やはり家族や近隣の方、友人などを含めた親密圏を形成し、誰か相談できる相手を母子共にそれぞれ見つけることが大切なのではないかと思います。虐待をするというのは、少なくとも心のゆとりが取れていないと思うからです。年の離れた姉が二人いる私には生まれながらにしてナナメの関係があり、母に叱られると言うよりも姉たちに怒られながら育ってきたという感じで、なんだかんだ言いつつ大切にされていたという印象を強く感じています。今考えると、私も母も、環境に恵まれていたのだろうと思います。姉たちや祖父母などの存在があったことで、一人悩みながら私を育てなくてよかったからです。私の場合はどちらかというと家族の親密さが強かったですが、それを家族だけではなく近隣の方や友人といったあたりまで広げることで、核家族世帯の母子にもサポートの範囲が広がると思います。虐待まで進んでしまわないためにも、一人で悩まずに誰かに聞いたり話したりできるような親密圏の形成が大切だと思います。
児童虐待の件数が五万件超えているという事実に驚きを隠せません。私自身も、その虐待が起きていると考えられる家庭に、警察が介入したり、近所の人々が通報したりできる環境が整ってきたため、今までは認知できなかった虐待が露わになったのが一番の原因と考えていましたが、このブログを読んで、認識の甘さを改めて感じました。実際近所の人々が怪しいと感じて通報してくれたため虐待の事実が発覚すると思うが、虐待の件数が年々上昇しているのは、虐待を認知したら、法律等によって裁かれたりするだけで、一番大切な心のケアをする環境が整っていないからではないかと思います。そのため同じ人が虐待を繰り返したり、幼少期に虐待を受けていた人が親になったときに自分の子供に同じように虐待をしてしまう、そのような負の連鎖をなくす取り組みを法律を制定する前に国はするべきだと感じました。心のケアというのは、ネット上で同じ境遇の人達と共有したり、講演会等でリアルな話を実際に聴くことで安心感が生まれ、落ち着いたりすると思うので、そういう機会を積極的に取り入れてもらいたいなと思いました。
先日の北九州市立大学での特別講義ありがとうございました。先生の講義によってある意味間違った方向へ行ってしまった愛情表現が虐待につながることもあるということがわかりました。私はただわが子が憎くて仕方がないから暴力などの虐待をするものだと考えていたので、愛あるからこそ上できないわが子に手を出してしまう気持ちなど考えていませんでした。親が子どもに対して間違った愛情を注ぐことも子どもにとってはある意味虐待となってしまうことと考えると、親から子への愛情表現は大変だなと感じました。レジュメにもある通り「愛情」の名の下に「支配する」関係性が発生するのだと思います。また、このブログを見て、ここ10年のうちに児童虐待の件数が大きく増加しており、さらに児童人口における虐待件数に置き換えて比較するとさらに増加しているところから、私は残念であると感じると同時になぜこのような事態になっているのか考える際、理由の1つとして社会の変化による親の心理的負担の増加が原因であると感じました。今日になって他人との交流が希薄になり、育児による不安とストレスを親は近所やその親の両親に相談できず、溜め込み、それが我慢できなくなったときに子供に対して発散してしまうものなのだと思います。虐待された子供のケアも大切だと思うが、その前に親の心理的負担を取り除いてやることが、児童虐待防止の抑止力につながると思いました。
近年、児童虐待のニュースをよく耳にします。データ上でも児童虐待の件数は増加傾向にあるようです。以前は、児童虐待と聞くと、親はどうしてそんな酷いことを自分の子供にすることができるのだろうか?と疑問に感じていました。しかし、悪いのは親だけではなく、地域との関係が希薄化など様々な要因が連鎖しているということが分かりました。私の両親は共働きですが、祖父母と共に暮らしていたので、私が小さい時は代わりに面倒を見てくれていました。母の育児の負担は幾分軽かったと思います。また、近所付き合いもよく、どうしても祖父母が出掛けなければならない時は、近所の人に遊んでもらうこともありました。現代社会ではこのような関係性が少なくなってきているように思います。女性の社会進出が進む中で、育児と仕事の両立か厳しく、ストレスを抱える母親が増えていると思います。相談に乗るというのも一つの手段かも知れませんが、それだけでは何の解決にもならないと思います。仕事に行く間、子供を預かってもらえる等といった地域社会を作り上げていく必要があると思います。母親が子どもと向き合う時間をつくることで、互いを尊重しあえる関係性が生まれると思います。そうすることで、児童虐待が少しでも減少していくといいなと思います。
先日、先生の講義を受講して今日の虐待の現状を知りました。授業で頂いたレジュメの1ページ目、右斜め上に伸びたグラフは児童虐待の増加がひと目でわかるものとなっていました。虐待が年々増え続けている現状にとても驚きました。そして子育て相談や支援による対応が増加し、その対応に追われ虐待防止に至っていないことを知りました。必要とされていることは虐待がおきてしまう前に対策を行う事だと感じました。虐待はそのひと1人の問題ではなく周りの様々な環境から引き起こってしまっていると考えられます。先生のブログを読んで感じたことは虐待が起きるのは社会にも問題があるからだということです。非正規雇用に代表される雇用と生活の不安定化、地域社会の解体はその例としてとても理解しやすかったです。このような不安定な社会の背景が人々の心を不安にさせる要因となり虐待を引き起こすひとつの原因ともなっているのです。また今日の社会では人間関係の希薄化が問題とされていますがそれも大きな要因の一つだと考えます。もしかしたらわたしの周りだけかもしれませんが、最近、公園で子供を連れているお母さんをまったく見なくなった気がします。わたしが子供だった頃かすかな記憶ではありますが公園に行ってお母さん同士が楽しそうに話していたのを覚えています。身近に子育てについて話すことができる仲間がいることだけでも虐待の現状は変わってくるのではないかと感じました。
私の家庭では、二度里親となり虐待をうけ施設にあずけられた子供たちと共に生活をしたことがあります。最初は、「虐待をするぐらいならうまなければいいのに」と虐待をおこなう親の気持ちを考えようともしたことがありませんでした。それどころか、子供たちはこのような行為をする親とは一生住みたくないだろうな、と勝手に気持ちを感じとってしまっていました。しかし、子供たちは決して母親の悪口を言わないし褒めるのです。不思議で虐待について知りたいと思うようになりました。学びを深めるうちに、虐待のの背景の一つに見えてきたのは、地域におけるコミュニティースペースの減少や核家族化における閉鎖的な社会でした。
私の家庭では、二度里親として虐待をうけ施設にあずけられた子供たちを家に向かい入れ共に生活をしたことがあります。最初は、「虐待を行うぐららいなら、子供を産まなければいい、非常識すすぎる!」と怒りのみを感じていました。ですからら、当然子供たちもそのような親と住みたくないだろうなと思い込んで接していました。しかしし、子供たちは決して親の悪口は言わず、それどころか美化して親のことを話すのです。そんなに大親から愛を注いでもらっているならば、うちに来なくても良かっただろうとおもうぐらいに。不思議でした。それから私は、虐待の実態に目を向けるようになり、虐待の背景にある一つが地域におけるコミュニティースペースの減少が見えてきたように感じました。核家族や生活スペースの変化などにより母親が子育ての悩みをうちあけることができず不安を覚えている現状がありました。また、近所で子供の過度な泣き声が聞こえても周りの住民はとばっちりを受けるのは御免だと見てみぬふりをしていることも分かりました。虐待は、決して行ってはいけないことです。しかし、虐待を行った親でも子供たちにとっては、唯一の親であることには代わりありません。一方に親を責めるのではなく、もう一度社会全体で地域社会のあり方を再認識する必要があると思います。この取り組みは虐待問題だけに関わらず安全で住みやすい街づくりにも繋がることだと感じています。
これ虐待かな?って思った場面を一回見たことがある。それは、2歳の子がお母さんから怒られて太ももに手あとが残るくらい強く叩かれていた。他にも、布団を敷いてあるところにその子を投げてドアを閉めて出られないようにしていた。初めて、その場面を見たときとても怖くて、自然と涙が出てきて助けようにもその子の親が怖くて助けられることができなかった。しかし、母が落ち着くと今まででは考えられないくらい子供を可愛がっていた。それでこそ、虐待の要素だと実感した。やはり、母の心のケアが重要だと考えられるだろう。また、子どもの心のケアも重要視していくべきであると考えられる。現在は、高齢者虐待を始め、様々な虐待があるが病気と同じように早期発見というのを大事にしていくべきではないだろうか。
近年では頻繁にニュースなどで虐待のことが取り上げられたり、先生の講義で実際に虐待が増えているのを知って考えたことは、もはや虐待は自分に無関係なことではなくなり誰にでも起こりうることなんだと思いました。このようなことになったのは地域社会が以前より密着性がなくなったからだと思います。例えば私の家族は向かいの家の人と仲が良く私になにかがあったらすぐ声をかけたりしてくれ、仮にもし私が虐待を受けていたら気づいてくれます。しかし今の世の中では地域の密着性がなくなり近隣の人がどのように生活をしているのかがわかりにくくなり子供の虐待の防止などができないと思います。またもし地域の密着性が強ければ親が子育てにストレスを感じたりした時に近隣の人に相談したりすることができるのでそのことによって虐待が防止できると思います。私が思うことは虐待をなくすには地域社会から変えることをしなくてはいけないと思います。
私はこの記事を読んで、児童虐待の解決とは子どものみをケアするのではなく、家族全体をケアすることなのではないかと思いました。
やはり児童虐待には、親に悪気がないケースが多い、子どもは親が悪いと思わないという特徴があります。親に悪気がない場合はまだ改善の余地があり、また子どもも親のもとにいたいという気持ちを持っています。
よって、子どもが安心して暮らせる家庭を作り出すために児童虐待には家族全体のケアが大切であると思います。
私はこの記事を読んで、児童虐待の解決とは子どものみをケアするのではなく、家族全体をケアすることなのではないかと思いました。
やはり児童虐待には親に悪気がないケースが多い、子どもは親が悪いと思わないという特徴があります。親に悪気がないということは改善の余地があり、また子どもも親のもとにいたいという気持ちを持っています。
よって、子どもが安心して暮らせる家庭を作り出すために児童虐待には家族全体のケアが大切であると思います。また、家庭全体を変えていくことで虐待の再発を防ぐことも可能であると思います。
近年では頻繁にニュースなどで虐待のことが取り上げられたり、先生の講義で実際に虐待が増えているのを知って考えたことは、もはや虐待は自分に無関係なことではなくなり誰にでも起こりうることなんだと思いました。このようなことになったのは地域社会が以前より密着性がなくなったからだと思います。例えば私の家族は向かいの家の人と仲が良く私になにかがあったらすぐ声をかけたりしてくれ、仮にもし私が虐待を受けていたら気づいてくれます。しかし今の世の中では地域の密着性がなくなり近隣の人がどのように生活をしているのかがわかりにくくなり子供の虐待の防止などができないと思います。またもし地域の密着性が強ければ親が子育てにストレスを感じたりした時に近隣の人に相談したりすることができるのでそのことによって虐待が防止できると思います。私が思うことは虐待をなくすには地域社会から変えることをしなくてはいけないと思います。
児童虐待が減らない原因について、結婚に対する考え方が昔と変わったのではないかと僕は考えます。どういうことかというと、今は昔と比べ結婚する年齢がだいぶ早くなったと思います。その背景には、できちゃった結婚も含まれていると思いますし、結婚の意識が低い状態でできちゃった結婚をしてお互い上手くいかなくなり、子どもにも手がいってしまう。これが虐待が減らない一つの理由でもあると考えます。
児童虐待を完全にゼロになくすことはほぼ不可能に近いことであると思いますが、防ぐことのできる児童虐待も多くあると思います。それは、子育てによるストレスでそのストレスを解消することができず、自分の子に対してそのストレスの矛先が向いてしまって起こる虐待です。不満は誰にでもたまることですがそれが子供にぶつけられなければよいのですから、話を聞いてもらえる子育て相談所や同じような悩みを共有できる話し合いの場が設けられることが必要だと思います。まずは事前に防ぐことのできる虐待をいかに地域の中で解消していけるかだと思います。
増え続けている児童虐待への対応ですが、このことについて私は以前から問題を感じています。いまの状況では、児童相談所の職員1人が担当する虐待家庭の数は1つではなく、一度の複数の家庭を受け持たなければなりません。しかしこれでは、より重い状況の家庭から順番に対応していくことしかできず、ある家庭について対応している間に一方の家庭で児童が死に至ってしまうなどの問題が現に生じています。これらを防ぐためには、児童相談所の職員の数を増やすことや、また地域のネットワークを強化し隣人同士で子どもたちの面倒を見ていくというような仕組みにしていくことが必要であると考えます。本当は児相の職員数を増やす必要のない状況が訪れると一番よいのですが…。
私もここ数年の児童虐待件数の増加傾向の大きさ、そして件数が5万件を超えてしまったことから考えると、もはや児童虐待が普遍的な現象になってしまったと言っても過言ではないのだと思いました。これは本当に危機的な状況であると思います。
児童虐待は家族全体の問題であり、それは家族内あるいは家族外の様々な要因が重なり合わさって発生しているのだと思います。したがって、虐待を受けた子供を保護するだけでは当然解決しません。
私はこのような児童虐待を国の政策だけで解決していくのは正直難しいことなのではないかと思います。しかし、家族内の問題により積極的に介入していくような政策によって少しでも減らすことは可能だと思います。
そして何より、身近な存在であるお互いを尊重し合い、慈しみ合おうとする雰囲気を作り上げていかなければならないと思います。
私は人間関係の希薄化が児童虐待の増加に大きく加担しているように考える。近年、我が国では核家族化が進み、親とその子どものみが一緒に暮らすという家庭が増えた。それだけでなく、地域のコミュニティー意識は薄れ、近所の繋がりも以前に比べて弱くなった。そのため、仕事と家事そして子育てを2人、もしくは1人でこなさなくてはならない状況が当たり前のようになり、そこで生じるストレスや鬱憤を子どもに向けてしまっている状態なのだと思う。
私はある田舎で生まれそこで育ったが、私の住む家庭には祖父母もおり、共働きの両親に代わって私や姉弟の面倒を見てくれていた。さらに地域の住民とも日常でよく顔を合わせる機会があって、特に仲のよい家庭には学校の送り迎えや子守を一時的に頼むような時もあった。近所の情報網も存在し、家庭での問題が起こればそれに地域住民の目が行き届く体制であったように感じる。
よって私は、こうした地域での人と人との交流・協力を強めて、家庭の内情が完全に非公開になってしまうことを阻止することが、こうした児童虐待を少しでも減少に転じる手立てになるのではないかと考える。
この記事を読んで児童虐待が増え続けているという現状に私はとても驚きました。虐待の原因は様々あり、私たちはその背景を知らなければならないと感じました。そしてその虐待の対応にあたる法制度の改革はまだまだできていません。もちろんその家庭で子供を慈しみ、大切に育てる努力も必要ですが、外部も出来る限り積極的に介入し、援助していく必要がより一層あるのではないかと思いました。
増え続ける児童虐待について、被害を受けているのは子供であるということをもっと真剣に受け止めるべきではないか。虐待を受けた子供もいずれは大人になり、同じように虐待をしてしまうケースもある。こうなると、悪循環が生まれてしまい被害を受ける子供が減らないのが現状だ。また、虐待をする親の環境や(労働)地域のコミュニティづくり、子育支援などもっと周りの人たちが支えて助けてあげることができるようになればいいのではないか。虐待する人も悪いがそうさせてしまう周りの環境にも原因があるのではないか。これからの未来をになっていくわたしたちが真剣にこの現実を受け止め、子供と親を守って支えてあげなければいけないと思う。
このグラフを目にしたとき正直驚きました。この虐待件数の増加には社会的背景も考えられ、本当に増加しているのも事実だと思います。ですが虐待が広く知れわたり、関心を集めたことで異変に気付くことのできる周囲の目が増加した結果なのではないでしょうか。最悪なのは、虐待が発見されず継続されてしまうことだと思います。発見できたからといって問題を多く残しているのも事実ですが、この傾向は簡単に悪いとはいえないのではないでしょうか。虐待は世代間連鎖するといわれることもあり、予防や対策は本当に難しいところですが、先生のようにその問題を社会に伝える存在はとても大切だと思いました。
最近、ニュースでも児童虐待がよく報道されているように、児童虐待の件数はどんどん増加しているように思う。この問題の要因として、親としての自覚の欠如があげられるのではないか。最近は、10代でも妊娠して子供を産む人が増えていると思う。そういう人たちは、いきなり親の立場に立たされるため、精神的にも未熟であり、ストレスが溜まってしまうと、わが子に虐待という形で当たってしまうのではないだろうか。児童虐待を少しでも減らすには、親となるということはどういうことか、その重大さを若い年代の人たちが認識することがひつようだとおもう。
児童虐待が増加の一途をたどっている原因として、閉鎖的な社会の構造があげられると考えます。
親戚関係、近隣住民との関係どころか、親と子の関係すら希薄化している閉鎖的な現代社会においては、まず親が育児やその他に対するストレスを吐き出す人間関係を築くことが難しい。
さらに、それを原因として虐待が行われたとしても、それを察し防止に努めることのできる人間が存在しない。
虐待の増加を防ぐためには、まず社会の在り方の改変が必要ではないでしょうか。
児童虐待はわが国における“普遍的で法則的な現象”になってしまった
この言葉を見て本当にその通りだなと思いました。
増え続ける児童虐待の中ですべての原因が過程にあると考えている人があまりにも多いような気がします。ここ何年かで確実に社会の形は変わり、家族の形
も変わってきています。その中で昔と同じような仕組みの中で子育てをしていてはどこかで不具合が生じてもおかしなことではないと思います。それが今児童虐待として現れているのではないでしょうか。共働きの両親、片親等、様々な家族の形があることを踏まえそれを支えていく社会の仕組みを作っていくことが大切なのではないでしょうか。また、学校教育においても、このような現状を学ぶことが将来、児童虐待を起こさないための予防線になると思います。
最近ニュースでよく見る虐待事件も近年では5万件越えだというのには驚きです。法律ができたとはいえ、それは「防止法」ではなく「裁く法」であって結果からも分かるように防止には繋がっていないです。陰でのいじめなども多発してる今、そのような陰での犯罪を防止することは難しいかもしれなせんが、過去の件から対策はもっと打てるんじゃないかと思います。虐待をしてしまう人には陰険な人が多い、とか。偏見かも分かりませんが、特に小さい子達を相手にする職業の方にはそういう面に気を使うのも仕事なんだと思います。
最近ニュースでよく見る虐待事件も近年では5万件越えだというのには驚きです。法律ができたとはいえ、それは「防止法」ではなく「裁く法」であって結果からも分かるように防止には繋がっていないです。陰でのいじめなども多発してる今、そのような陰での犯罪を防止することは難しいかもしれなせんが、過去の件から対策はもっと打てるんじゃないかと思います。虐待をしてしまう人には陰険な人が多い、とか。偏見かも分かりませんが、特に小さい子達を相手にする職業の方にはそういう面に気を使うのも仕事なんだと思います。
過剰なまでの資本主義経済に伴う経済的格差に原因があるということにハッとしました。非正規、ニート、ストレス社会、生活保護。近年ではあちらこちらでこれらの言葉を耳にします。私は今の日本では一度失敗をしてしまうと這い上がりにくく、そのまま負の連鎖が続いてしまうような構造になっている気がします。「虐待」も負の連鎖の一部です。この負の連鎖をどこかで断ち切れるような施策がこの国には必要です。
児童虐待防止法を施行しているのにも関わらず、児童虐待が年々増え続けている事実に驚くとともにとても残念だと感じました。なぜこのような事態を招いたのかという疑問が生じました。これからも児童虐待がなくなることはないと思うので、まず国民全員が虐待問題について高い関心を持ち深く考えていくことが重要になってくると思いました。
今日の児童虐待件数の増加について、過去と現在の日本を比べとっさに思いつく原因に、労働環境が変わり両親共働きの世帯が増え、親子の触れ合う時間が減ったこと、地域の住人の繋がりが希薄になり、地域で子供を育てるという意識が低下したこと等が挙げられる。これらの問題は個人で解決できるようなものではなく、政府による何らかの解決策が望まれるが、政府の政策では十分な効果は得られなかった。
政府の言う「トータルな家族に対する援助」とはいったい何のことなのだろうか。何らかの問題を抱えた家庭に援助を施しても解決には至らないだろうと思う。問題を抱えた家庭ではなく、そのような家庭が生まれてしまう社会や地域を改善すべきであると私は考える。
授業で見た児童虐待の映像は非常に衝撃的だった。そして、虐待対応件数が増加していることも、考えさせられる事実だ。児童虐待の背景には様々な社会的要因がある。経済的な要因や複雑な家族構成など、当事者にとって多種多様だ。では、どうすれば虐待を減らし、慈しみあう社会を作ることができるのか。私は児童とその家族を孤立させないことが重要だと考える。虐待というのは内部的で、近隣の住民の通報でやっと発覚することが多い。そこで、例えば、まずは小規模な自治体から人と人との結びつきを強めていく。同じマンションの住民、路地の一角からでよい。常日頃から人と関わる環境を作ることによって、虐待を防ぐ一歩につながると思う。現在の核家族化する社会では実現はなかなか難しいかもしれないが、だからこそ必要だと思う。そして、地域の小さな変化に、さらに政府の大きな変化、例えば格差社会への対策が加われば、児童虐待を防ぐだけでなく社会福祉の向上にもつながっていく。こうして少しずつ、慈しみあう社会の輪を広げていけたら良いと考える。
現在日本政府で虐待の対策にあたっている人々の多くが、実際に虐待にあった経験や虐待を行った経験が無いために、虐待という当然許されない行為を行ってしまう人やその被害者の心理をほとんど理解できておらず、虐待の原因の複雑さを理解できず、虐待を行った人間を責め、正しいあり方を説くという方法以外に考えが至らないのでは無いか。
しかし、彼らの多くは何が正しいのかわからない、あるいは自分達のある状態が間違った状態では無いかと気づいてもどうすることもできない状態にあるため、正しいあり方を説いても効果は得られない。
1件1件の虐待にはそれぞれの理由とそれぞれの解決策があると考え、一元的な方法で解決しようとする考えは捨てるべきである。
児童虐待対応件数のグラフを見て児童虐待がとても深刻な問題になってることを改めて思い知らされた。また、国が虐待に関する政策を行ってきたにも関わらず児童虐待が増加していることからもわかるように虐待を減らすことはとても難しい問題であり、この問題を解決するためには、より多くの人が虐待に関心を持つことがとても大切なことではないかと私は思う。
児童虐待は年々増えていることはグラフを見れば一目瞭然である。なぜ虐待は生まれてくるのか。ここで注目すべきは虐待が虐待を生むという点である。虐待を受けて育った子供たちの多くは親になった時に自分の子供に同じように虐待をしてしまう。暴力をふるうのが普通だと勘違いをしてしまっているからだ。この虐待の連鎖を止めないことには虐待は減ることはないだろう。解決策として、やはり虐待された子供たちが大人になるまでの間、しっかりと心のケアをしていくことが大切であろう。カウンセリングをし、子供たちと真摯に向き合っていくことこそ、虐待を減らしていくためへの第一歩であると考える。
先生の講義を受けて、虐待というのは特別なことではなく、誰にでも起こり得るものだということがわかりました。
ただ、政府がこれまで政策を行ってきたにもかかわらず、虐待の件数は減らず、虐待が我が国の"普遍現象"になってしまったことは本当に残念なことに感じます。児童虐待を防ぐためには、現代社会の仕組みをもっと根本的に改善していかなければならいのではないかと思いました。恐らく多くの人が、虐待は虐待をする人が一方的に悪いと考え、どのような状況、或いは原因で虐待が起こるのかに関して実に複雑な背景があるのかについて着目していないと思われるので、一人一人が虐待の複雑な構造を把握し、それぞれのコミュニティでお互いをもっと気にし合えるような関係をつくることが大切であると考えました。
児童虐待がマスコミに多数報道され続ける昨今、どうして虐待は増え続けているのか、私は両親の虐待に関する理解不足にあるのではないかと思った。
わたしは宗澤先生の講義を聴くまで、「子供を虐待するなら初めから子供なんて生まなければいい。」と考えていた。しかし現実は全く違うものだった。初めから子供を虐待したがる親などいない。親は子育ての理想と現実の差に苦しみ、そのストレスの中で、子供に手を挙げてしまうのだ。虐待に関するビデオを見せられて、自分は間違った意見を抱いていたのだということを切実に感じた。
程度の差こそあれ、かつての私と似たような考えを持っている若者はたくさんいると思う。虐待は遺伝のものだから自分は大丈夫。自分は虐待なぞするはずがないと考えている人たちがあまりにも多い。彼らのような虐待に理解のない人たちが虐待を起こしてしまうという現実を知らないのだ。
私が思うに、このままでは児童虐待はなくならないと思う。マスコミがいくら報道しても、自分には関係のない出来事だとスルーしてしまう人がとても多いからだ。虐待に関する理解を変える必要があるのではないか。私は、小学校などで、やれグローバル化だ、やれ英語だと、教育改革を行うよりも、取り上げるべき課題が残されているのではないかと思う。
マスコミで多数報道されているにもかかわらず児童虐待の件数はなくなるどころか年々増え続けている。今も自分の周りで誰か子供が虐待されていると考えるとぞっとする。
私は宗澤先生の講義を受けるまで、「虐待なぞするくらいなら、子どもなんか生まなければいい。」という間違った考えを抱いていた。しかし虐待に関するビデオを見る中で、虐待をしてしまう親たちが、子育ての理想と現実の差に悩まされ、そのストレスで虐待をしてしまうのだということが分かった。
今の時代の虐待は昔とは異なるということもわかった。かつて虐待は親から子へ、子が親になった時に遺伝すると考えられていたが、今となってはそうではないらしい。虐待は誰にでもありうることなのだ。「私は虐待なんてしない。」という虐待に関する十分な理解がない人が、虐待を起こしてしまう可能性があるのだ。
こうなってしまったのには、虐待に関して学ぶ機会が子供の時に与えられることがないのが原因だと思う。子供たちは虐待がどのような状況で発生し、誰にでもありうる罪なのだということを学校や家で学ぶべきなのだ。
虐待に関する理解は虐待の予防となる。近所や地域での連帯意識も生まれるはずである。私はやれグローバル化だ、やれ英語だと、教育改革を推し進めるよりも、まずほかにやらなければならない課題が残されているのではないかと思った。
今まで虐待を自分の身近なこととして受け止めたことがなかったように思う。虐待をする人が特別なのではなく誰しもがその可能性を持っているのだと授業の中で気付かされた。
児童虐待が増加している原因はストレス社会と言われる現代社会にあるのではないかと考える。生活が不安定であることからなどのストレスにより疲れてしまっている親が多く、そこに育児ストレスが重なり虐待をしてしまう。また、地域とのつながりの希薄化も重要な原因の一つだろう。子どもを狭い家庭という枠の中で育てるのは難しい。地域全体で子どもを見守っていくということが必要である。授業内でも言われていたが閉ざされた空間である家庭内で起こる虐待は気付くのは難しくそれをできる可能性が最もあるのは近隣住民である。
根本的に虐待をなくすためには親への社会的なストレスを軽減させることが必要だ。心にゆとりを持ち、人と人とのつながりを大切に出来る社会にしていかないといけないと思う。認識を新たに自分には何が出来るのか考えていきたい。
現代の日本に生きる私たちはどこか「虐待は悪いことである。しかし決して社会から根絶やしにすることはできないのでは…」と考えている節があるように思います。記事の中でおっしゃられていたように虐待が“普遍的で法則的な現象”として人々に考えられてしまっているのは確かなことです。それは人々がどこか他人事のように思ってしまっているからではないでしょうか。いくら国がよい政策を打ち出しても、いくらメディアが大々的に報道したとしてもわれ関せず、自分には無関係だからと思ってしまう、これは日本人の悪い傾向の一つだと思います。ですから我々に必要なことは虐待を改めて重要な問題であるととらえなおすこと、それは決して他人事ではないのだと認識しなおすことであると思います。
自分は正直、児童虐待の被害がこんなにもあるということをつい最近まで全く知りませんでした。それは身近でそのような話を聞いたこともなく、児童虐待が起きていなかったからだと思います。しかし、今は事の大きさを痛感しています。
宗澤先生の講義で観た映像の中に、虐待を受け多重人格になってしまった女の子がいましたが、彼女のように虐待は外傷だけではなく精神的に大きな傷を負ってしまうんだなと、児童虐待の残酷さを感じました。虐待を受けた子供はその心の傷が一生残るだろうし、ましてその子供たちが大人になり、親になったときに同じことを繰り返してしまわないかとても心配です。
マスコミが今でもこのことについて騒いでるにもかかわらず、件数が全然減らないというこの現状に、児童虐待という存在を世間に知らせるなど、国としてもっと対処を考え、盛り立てていくべきだと思いました。
児童虐待により子供が死亡したというような事件を耳にして、どうして最悪の事態になってしまうのかと考えたときに、理由の一つに他人との交流が希薄になっていることがあると思いました。近所の人と交流があればお互いに気に掛け合ったりすることもあると思いますが、それがないことで、親も子育てによるストレスを家庭内という閉ざされた場所で子供にぶつけてしまうこともあるのではないかと思いました。お互いに助け合ったりできるような関係を近所の人と築けていけたらいいと考えました。
増え続ける我が国日本での虐待は、まさに歯止めがかからない状態にある。中でも顕著的増加が見られる、児童虐待が生じる原因として、保護者の性格、経済、就労、夫婦関係、住居、近隣関係、医療的課題、子どもの特性等々が挙げられているが、その原因一つだけをとって見て、対処するのでは解決に繋がらないと私は感じる。文章中にもあるように、それらの原因が連鎖的に作用し、児童虐待は起きているのであり、多面的かつ継続的な支援が必要であると私は思うのだ。
そもそも児童虐待を未然に防ぐにはまず、子育てを一人に押し付けない、任せないということが鉄則であると私は思う。両親がいて子供がいるというような一般的な家庭や、ひとり親世帯、経済的に苦しい家庭、里親家族等、どんな家族の形態であるとしても、子育てをたった一人で担うのは、非常に不安で大変なことだ。そのような子育てに対する不安やストレスによって、児童虐待は起こるのだと私は思う。そこで悩みを相談して、一緒に頭を抱えてくれる存在、手助けをしてくれる存在がそばにいれば、児童虐待など起こりえないと思うのだ。子育てには、まさに‘慈しみ合い’が必要不可欠なのだと、私は思う。家庭内での慈しみ合い、近隣同士での慈しみ合いがあれば、児童虐待は未然防げるのではないかと考える。
児童虐待の問題は、虐待が存在する家庭のみに何か働きかけるのでは、解決しえないと私は思う。児童虐待を虐待が起きている家庭のみの問題として捉えるのではなく、誰もが地域の問題、社会の問題として捉え、意識化することがカギになると思う。かつての日本で見られていたように、よその子でも悪いことをしている子供を見かけたら、大人が遠慮なく注意できるような社会であれば、今のような現状はないと私は考える。
このブログの中のグラフ見ると明らかに児童虐待の数が年々増え続けていることがわかります。僕は児童虐待が増えている原因は大きく2つあると思います。1つ目は児童虐待をしている親自身が過去に虐待に苦しめられていたという場合が考えられます。過去に自分が受けていた苦しみを自らの子供に与えてしまうという負の連鎖が起きてしまうと考えます。2つ目は経済的な問題からだと思います。日本経済はここ数年悪化していて就職難など中々稼ぐことが難しいのが現状だと思います。そこでお金や手のかかる子供がいたとしたら今の自分にとっては邪魔な存在だと思い虐待に走ってしまうという場合もあると思います。まだ他にも理由はあると思いますが僕はこの2つが大きな要因ではないかと思います。
児童虐待が増加しつつある背景には、社会で働くことによるストレス、自分も子供のころに虐待を受けたという過去、子供を一人の人間として認めていないことがあるのではないかと思う。家族という社会集団の中で日々薄れていく個人の人権を気にしていないのが問題だと思う。やはり家族によって虐待の原因は違うと思うし、だからこそ政府も手を焼いているのだと思う。家族による会話・ぬくもりというものをもう一度考えるべきではないか。私たちは家族というものを再認識し、日本の将来を明るいものにしなければいけないと思う。人権を意識した人間の「つながり」を今こそ大事にすべきだと思う。
私は、児童虐待はわが国における”普遍的で法則的な現象”になってしまったという言葉に強い印象を持ちました。社会の変化が、児童虐待を普遍的に産出してしまうということを理解しました。児童虐待には、家庭の経済問題や、親あるいは子における心身的な問題など多くの要因から引き起こされます。そして、社会が進展していく中で、虐待という問題は置いていかれ、解決が困難な状況になっていくばかりであると感じました。しかし、私も宗澤さんの文章を読むまでは、なぜ虐待をするのかわからない、虐待をすることはありえないことだと、虐待の行為者ばかりを責めていました。虐待の裏に含まれているさまざまな要因を知りもせず、行為者を責めることは間違っていました。児童虐待は社会の変化・状況によっても、もたらされると知った今、虐待を防ぐ方法を私たちは変えていかなければならないと思います。現代の社会に沿った方法で援助しなければ、虐待を受けている者、虐待の行為者を救うことはできません。なぜ虐待は引き起こされてしまうのか、その原因を私たちは見つけ、その原因から逃れる援助をしていかなければなりません。そして、家族や人間関係に対する尊重や人権という当たり前にあるべきものが見失っている状況を見直し、望まれていないのに普遍的になってしまったものを、再構築していくことが、これからの私たちに求められていると感じました。
昨日は、貴重なお話を聞かせていただきありがとうございました。
今日、たびたび目や耳にする虐待報道。しかしどの報道も事は起きた後であり、「もっとこうすべきだった、こうしていればこんなに大事にならずにすんだのに」などといった手遅れな報道です。その度になぜ国や役所はもっと迅速に対応できないのか、と思っていました。ですが宗澤先生のお話を聞き、虐待対応の迅速性と精度は上がってきているという事実を知ったと共に、その虐待対応に追われ虐待防止に至っていないことが問題だということに気付かされました。年々増える虐待件数。増加を抑えるには、起こった後に対応するのではなく、〝起こる前に防ぐ″ことの重要性がいま問われているのだと感じました。
「障害者・児童・高齢者」への虐待。どれも虐待をされる側ではなく、虐待をする側の救済が防止へ繋がるのだと思います。どの虐待問題もやはり家族間で起きているものが大半だと思います。なぜなら、障害者も児童も高齢者も家族が犠牲になってお世話をすることが、我が国日本において当たり前のことだからです。しかし、社会的弱者は弱者へなりたくてなっているのではありません。あるひとりの貧困な母子家庭の少女がいたとして、その子の生まれた国が福祉制度の整った貧困であることを感じさせない北欧のような国か、我が国日本なのかでは虐待の発生確率は全く違うと思います。結局のところ、社会的弱者をつくりだす社会に問題があるのです。確かに家族で助け合い家族で解決できる問題は家族で解決することは当たり前です。でも、それでも解決できないことを助けるために社会だったり政府だったりがあるのだと思います。もっと簡単に誰かの手を借りられる社会と言うとなんだか変ですが、もっと容易に?もっと気軽に?助け合い、誰かに手を借りることが恥ずかしいことではなく、誰かと助け合い生きていくことが素晴らしいことだと言える社会づくりをしていくべきなのだと思いました。
なぜ今の日本では虐待が増え続けてしまうのか。そもそも、虐待があるという世界が当たり前のように考えられていることが問題であると思う。虐待防止のための法律などを考えるよりも、私のように、虐待を受けた経験が無いため虐待をあまり身近に感じられないような人々が、虐待の件数が増え続けているなどという現実を知り、虐待に対する意識をもっと変えていかなければならないと思う。
児童虐待が年々増えてきている原因として、児童虐待そのものが増加しているのか、それとも児童虐待に関する地域住民の意識の高まりによって通報が増えたことによるものなのか。私はその両方だと感じる。
不安定な生活、就労、子供の夜泣き、しつけなどたくさんのストレス要因が原因となって引き起こされるとされるネグレクトや、DVを原因とした心理手虐待などは、最近ではニュースなどで報道され関心がもたれるようになりました。しかしこれらの行為は最近多く報道されたことで関心が高まり、児童虐待として表面化したに過ぎないと感じる。これらの行為は昔から家庭内で行われてきたことだろうし、中にはしつけとして行われてきたこともあったかもしれません。これらの行為が表面化したのには、児童虐待防止法の制定により虐待を受けていると思われる児童の家庭に積極的にかかわっていくことができるようになったことと、先に述べたように、社会での児童虐待の関心が高まったことにより地域住民の通報による情報提供が増えたからだろう。
また、今日の日本の経済状況や、就職難などで生活が苦しくなり、不安やストレスを感じてしまう事が増えていることも感じられる。こうして生じたストレスなどを子どもに向けてしまうケースが増えているのも確かでだ。
児童虐待が報告される数が増えているのは、社会の関心が高まって虐待が表面化したことと、社会の状態が原因だと考える。これらの虐待に対して迅速性と確実性を高めた対応と、事前に虐待を防止する活動を考えていかなくてはならないと考える。
私はこのブログを読ませていただいて、まず、児童虐待の制度改善のあり方を見直さなければならないと感じました。そうしなければ、今現在起こっている児童虐待だけでなく、現在増加傾向にある児童虐待が更に増加を続けていってしまうからです。児童虐待は家族それぞれの問題であるとこのブログには記載されていました。私はこのブログを読ませていただくまでは児童虐待というものを、一つのまとまりとして見てしまっていて、個々の家族の問題として捉えることができていませんでした。しかし、ブログを読ませていただいて、児童虐待はそれぞれのケースがあり、トータルな家族に対する援助が必要だと私も思いました。このような法制度と社会資源の拡充が進んでいないのは本当に大きな問題だと思います。虐待をしている人はそれが普通のこととなってしまっていて、その人たちに私たちからみた正しいことを押し付けてももっぱら責めるだけだと書いてありました。確かに私たちの正論を押し付けるだけでは、虐待をしている人は、虐待が生活の一部となってしまっているので、 まず、逆方向がいけないことだと一方的に押し付けるだけでなく、その人がなぜ虐待をしてしまうのかカウンセリング等も受けてもらいながら理解していく必要があると感じました。そこでその人のことを十分理解した上でなぜ虐待がいけないことなのか、ということを本人としっかり向き合いながら話していく必要があると感じました。まず私たちが虐待してしまう人たちのことを理解することがとても重要だと感じました。児童虐待が早く減少に転じて児童虐待がない世の中になればいいと思いました。
虐待が起こる原因として現代社会の不安定さや家庭環境のあり方が問題だと思う。現代の社会では父親はもちろん、母親も働いている家庭も増えている。両者が日々ストレスを感じる中で子育てもしなければならない環境が、家族は支えあい愛し合うという当たり前の考えを見えなくさせていると思う。そうして愛されずに育ってしまった子は、以前授業でのビデオでも言っていた通り、次の虐待をしてしまうだろう。これでは負のスパイラルである。今こそ私たちは家族の本来のあり方を考えるべきである。そして、家族が本来持っている「支えあい」によって、世の中に正のスパイラルを起こしていかなくてはならない。一人ひとりの認識が大切なのだ。
私は、年々増加の一途をたどる児童虐待、及び障害者虐待について、グラフに示されている件数はあくまでも氷山の一角に過ぎないと思います。「虐待」という行為は閉じられた環境、関係(家庭内、家族間など)で行われることが多いので、なかなか第三者が介入できずに、事態の把握、事態への対応がとりにくい特性があるのではないかと思います。
また、ある日いきなり虐待が発生する訳ではなく、日々の生活の中で、子供と保護者、または障害者とその養護者の関係性が構築されていくため、行為者自身も、自分が虐待を行っていることに気づけないという問題もあると私は思います。
この問題を解決するためには、表面化した事態に対応するだけではなく、なぜそのような状況(関係性)に陥ってしまったのか、その原因を明確にし、それに適した解決策・サービスを提供しなければならないと思います。
以前、大学にて先生の講義を受講した際に、虐待対応の迅速性と精度は上昇しているものの、虐待対応に追われ、虐待防止には至っていないとお聞きしたので、社会全体でより深部に着目しなければ、根本的な対策にはなり得ないと感じました。
また、ブログにも書かれているように、雇用・生活の不安定化、地域社会の解体、世帯構成の変化など、様々な要素が絡み合い、そのどれもが虐待の原因となり得るため、何か一つの要素に向けて対策をとるだけではもはや解決出来ないということは非常に重要な事実として受け止めなければならないと思います。
年間の児童虐待対応件数が5万件を超え、児童相談所も200ヶ所を超えた今、「虐待」は決して特殊なケースではなく、私たちの身の周りの日常に潜む問題であるということ、将来的に、自分自身が加害者、もしくは被害者になり得る問題であるということを一人ひとりが自覚し、主体的に考えなければいけないと思います。
親による児童虐待が増加する昨今、親となる人々の意識を今一度確認するべきではないか、と思います。
私は所謂できちゃった婚や、比較的年齢の若い夫婦が子を授かったということに対してあまり良いイメージを抱くことができません。というのも、こういった場合において、親となる二人に果たして親としての自覚や心構え、子育てに関する知識、子を養っていくための経済力が備わっているのか、疑問に思うからです。
子育てについて、私も充分な知識を有しているわけではありませんが、大きな労力、根気、お金が必要なのは誰でも理解できると思います。私は、先に述べた様な夫婦はこういったことを充分に考え、自分たちの現状から子育てを行っていくことができるのかを考慮せずに子をもうけているのではないか、と考えるのです。軽々しい考えと安直な見通しで子育てを行うことは、幼い子どもがおままごとをするのと大差ないのではないか、と私は彼らに訴えたいのです。
私は虐待というものは完全に不必要悪と考えています。(みなさんもそう考えていらっしゃるでしょうが…)
問題は虐待が起こった時の対処法です。例えば、児童虐待が起こった時に虐待した側を責め立てるだけでは解決にはつながらないですし、先生もおっしゃるように、もっと広い視野で虐待というものを考えなければいけないと思います。
虐待をした側と受けた側、この二種類の観点だけでなく、なぜ虐待が発生する環境を生んでしまったのか、社会的ストレスがあったのではないか、など社会全体に目を向けなければいけないと考えます。
親の虐待を受けて育った子どもはさらに自分の子にも虐待をする傾向が強いと聞きますし、広い視野で長いスパンで対策していくことが不可欠であると感じました。
虐待はなくなりませんよね。
子供を望んでいるのにできないという人もたくさんいるのに、子供手当のためだったり、見栄のために子供を産む親…残念ながらいなくなりません。
児童相談所に近所の人が訴えても、証拠がなければ引き下がる…これも大きな問題だと思います。そういった機関がもっと積極的になったほうが良いと思います。
子供が好きだと言っている人でも、産んでからは人が変わったように虐待をしてしまうことがあります。誰が虐待をするようになってしまうかわからないのです。子供を産んだ人に対しては親がお節介だと思うくらい周りのサポートが必要だと思います。
先日は講義をしてくださってありがとうございました。
障がい者の虐待について、苦しいのは虐待を受けている障がい者本人で虐待をしている家族はどうして、そういうひどいことができるのだろうと、思っていましたが、虐待をしてしまう家族の人たちも、介護や支援をしていく中で、徐々にせまい世界へと追いつめられていってしまい、虐待という結果になってしまったのだなと思いました。そして、その追いつめた原因は、日本の支援制度にあるのだと思いました。障がい者の兄弟についての話もありましたが、わたしの知っている自閉症の家族のことを思い出しました。その子の家は、今回の抗議で話されていたように、その子のお兄さんが完全にお母さんの配下となっていて、お母さんが普段から家を出ていてその間ずっとお兄さんが面倒をみており、お兄さんは高校三年生の時も受験期であるにもかかわらず、その子の面倒を毎日見ていたので、結局浪人し、浪人している間も、その子の面倒を見ているという状態でした。そういった、障がい者の”兄弟”という立場にたって考えられた支援も充実させていかなければならないのではと思いました。
また、ブログを拝見させていただいて、日本の福祉はもっと、国民に寄り添ったものでないといけないとより強く思いました。やはり、障がい者を持つ家族や、養育が何らかの事情により困難な家庭の実際の苦労であったり、辛さというの理解し、それを軽減するための福祉であるべきなのに、日本の福祉はそういった家庭の実態を考慮したものではないと思います。虐待から子どもを守るためには、いま、まさに、虐待に合っている子ども、家族への対応もとても重要ですが、子育てについて追いつめられてつつある、家族に対して支援をもっと密に行っていく必要があるのではないかと感じました。
近年問題視されている児童虐待の大きな増加傾向を、私は一部の報道や「識者コメント」を鵜呑みにして、児童虐待そのものの増加や児童虐待に関する地域住民の意識の高まりによって通報が増えたことが大きな原因であると思っていた。児童虐待がわが国における“普遍的で法則的な現象”になってしまったということは、思いもよらないことであった。これでは虐待に関する制度だけを改正しても意味がない。児童虐待の増加を止めるには家族というものの全体を支援していかなければならないのだろう。
私の姉も障害を持っています。母がどのように姉を育ててきたのかは分からないですが、一度も手を出したことはないと言っていました。虐待は身近な間柄の尊重しあうべき当たり前の人権や尊厳を見失った状態であると私も考えます。母が身の回りのことをすべて補助している状態できっと短度も苛立ちを感じることはあったと思いますが、それでも手を出さなかった母を誇りに思います。先日の講義で障害のある子のきょうだいの立場がどんなものにあるのかを学びました。小さいころから母が姉に付きっきりであり、父も仕事でいそがしかったため、妹の面倒や家事全般をしてきました。今考えるとそれは父の役割を担っていたのだと思います。そのことに不満を感じていたわけではありません。しかし、私は大学で実家を離れました。県外の大学に行きたいという思いでしたが、もしかしたら無意識に将来姉の面倒をみることや父の役割を担っているという責任から逃げたのかもしれないと少しショックを受けました。将来的には実家に戻り、姉の面倒をみる立場であることも母が年を重ねるにつれ、考えています。家族内虐待の加害者が母親から兄弟へとシフトしていっている状況も講義で学びました。おそらく人の世話をするということは想像以上に大変なことで、姉と一緒に私も年を取るので体力的にもきついことは分かっていますが、「尊重しあうべき、人権や尊厳を失わないように」という言葉を胸にこれからを考えていきたいと思いました。貴重なお話ありがとうございます。
私と弟は幼い頃父に殴られていました。宗澤先生の講義で観た、多重人格の女の子ほどひどい虐待を受けたわけではありませんが、父への恐怖心は未だ消えません。殴ったことを私がまだ怒っている、と父は思っているようですが、私はもう怒ってはいません。しかし、父を一生許せないと思います。
虐待は決してなくならない、とは思いたくありません。虐待が起こる前に家族のケアを行い、社会の仕組みを変えていけたら、虐待はなくなるのではないかと思います。
先生のブログを読んで、児童虐待の激増の原因は、確かに一部は地域住民の意識が高まり、昔は通報していないことを通報するようになることにあったと思いますが、児童虐待そのものも増加しているのではないかと考えています。近年長引いている経済不況で、仕事のストレスが増加し、共働きの家庭も増加しています。このような状況で、仕事上のストレスを家に持ち帰り、子供に発散することはあると思います。そして、子供の存在だけは無形なストレスの一種だと思います。育児の辛さになれる前に、よく今後のことに不安を感じるでしょう。莫大な教育費用などの経済的な原因のほか、私の場合なら子供は新たな生命として自分ではコントロールできない存在であります。特にその存在は自分にとってすごく大きな意味があって、もし子供はうまく成長できないなら、教育方法を間違えなら、万が一なことがもしあったらどうすればいいかとずっと悩み続ける傾向があると思います。共働きの家庭は特にそうと思います。各方面のストレスが溜まると、ネガティブな方向に落ちて、取り返しがつかないことになる可能性があると思います。
育児の悩みを誰かに話してほしい、しかし一人でも見つからないという場合は多いでしょう。仕事が忙しくストレスを発散する時間がないなどの問題の解決は、地域の力が必要だと思います。同じ悩みを抱えている人を集めて、お互いに癒し合うことは可能だと思っています。
データのように児童虐待は年々増加している。近年児童虐待が大きく取り上げられるようになり発見数自体が増えていると考えることもできるが、それでも大きく増加しているように思う。
これだけ児童虐待が増加している要因の一つには親の精神的負担が大きくなったことがあると思われる。社会の変化と共に夫婦共働きになるなど親が家の外でストレスや悩みを抱えるようになったことで、そういったストレスや悩みを家の中で発散する傾向があるように感じる。その中で児童虐待が発生しているように思う。
児童虐待を無くしていくには、各家庭への支援や援助はもちろん必要であると思うが、親の精神的な負担を軽減していくことも有効な手段なように思う。
先生の記事に「このように虐待・DVが構造的に産出されるようになった事態に、わが国の政策は何ら有効な対策を打つことができてこなかった」とあるが、私も現在も対策は不徹底なのではないかと考える。2013年12月30日発行の読売新聞、1頁の記事『所在不明児 4176人』を読んだことでその思いが一層深まった。記事の見出しにある記事は12年度の健康診断未受診の子供の人数だそうだ。そして47都道府県ごとの人数も掲載されていて、埼玉県が東京都(757人)に次いで638人で全国第二位の多さだった。
この人数の多さにも驚かされるが、もっともこの記事で目を引いた部分は『国は昨秋、自治体に所在確認の徹底を求めたが、電話や手紙で済ませる自治体もある』など、確認が不十分な実態が浮き彫りになった』という所だった。この健康診断を未受診の子供たちは虐待のリスクが高いと厚生労働省の専門委員会は指摘したそうである。それならばどうにかして子供の所在を突き止めれば、虐待を止めることができかもしれない。それにもかかわらず、手紙を送ったなどの一方通行通行で不徹底な方法で済ませている自治体があることに、私は憤りを覚えた。この所在確認には個人情報の壁や人員不足という課題があるという。容易でないことは予想されるが、それならばその課題を少しでも早く解決し、所在不明の子供たちを探し出すべきではないだろうか、と私は考える。虐待の可能性が高い子供が分かっているのであれば、一刻も早く事実を確認し、虐待の事実があれば救い出すべきである。手遅れになってからでは遅いのではないか。
児童虐待は今の社会では改善できないのは当然のことであると思う。政府は対策を立ててこなかったわけではないが、虐待問題だから虐待領域だけに法改正などを施していくことは今後やめていってほしいと思う。児童虐待は雇用問題、地域住民との関わり合いの減少などに原因があるという本質を見抜き、対策してほしいと思う。今の時代、女性も社会に出でくることが当たり前になっている。その中で結婚して子供を授かり、子育てに専念するか、社会復帰するのかという二択に追いこまれているような気がする。社会復帰したいのに会社の規則や人事などの問題により、満足に働けず、挫折を味わったり、一方で子育てに専念すれば、地域の子育てに対するサポートが十分ではなかったりして、ストレスを感じやすくなってきていると思う。その反動が子どもに向けられ、子どもがつらい思いをしてしまうのはあまりにも理不尽なことであると思う。女性の社会復帰のための環境整備並びに地域レベルの子育て支援サポートを設けることが児童虐待の減少に少なからずともつながると思う。
最近、父親とその息子が無理心中したというニュースを見ました。理由はわかりませんが、父親は現状に耐えることができなくなったのであろうと想像できます。
わたしはこのような何もわからない子供の未来を奪うことは信じられないと感じています。現状、このブログの記事に書いてある通り、虐待の件数は増加しています。しかし、その事実を知る人は少ないのではないでしょうか。知っていたとしても、自分には関係ないと見て見ぬふりをする人が多いのではないでしょうか。
虐待を減らしていくには、まず虐待の実態を知り、行動を起こさなければならないと思います。しかしこの記事に書いてあるような政策に頼っているだけでは対策が虐待の増加に追い付かず、虐待は増えていくでしょう。ゆえに、その政策をテレビや新聞で公にし、ひとりひとりの意識を高め、細かい地域ごとに対策を練っていくべきです。小さい単位に分けて活動したほうがより効率的に問題を解決できます。
ひとりひとりに虐待に関する知識を学んでもらうことが一番の解決策なのではないでしょうか。
虐待に至る要因には,家庭の経済状況,両親の夫婦関係,生活環境などさまざまな側面が絡み合っているということを踏まえたうえで,各方面から虐待というものを検討することが大切だとわかった。また,「虐待に対処する」必要がなくなるように,その前段階の虐待の発生をいかに防ぐことができるかという点が今後の虐待件数の変化に大いに関わると思う。1人でも多くの人が虐待について考え,気にすること,気づくことが大切だと思った。
講義を受講している者です。
宗澤先生の講義を受ける以前にも、日本で虐待数が年々増加しているということは耳にしていました。かつては、親や教師からの体罰が当たり前のように存在し、それを問題視する人はいなかった。しかし、近年では、そのような体罰を問題だとして報告する。したがって虐待数が増加しているのだと思っていました。
しかしながら、家族構成の変化、両親の共働き、隣人関係の希薄化など、親や子を取り巻く環境が変化していること、さらに不景気による生活の不安定化など、様々な要因が親子関係に影響を及ぼしていることを、講義を通じて改めて知りました。
このような事態を乗り越えるのは容易ではないことは確かです。しかし、私たちが、互いに慈しみ合う心を持つことで、虐待数を減少させることができると私は信じています。
ビデオで見た家庭ほど、酷いものではありませんが、私は、小学生の時、母親にちょっとした体罰を受けたことがありました。
ピアノの練習の時、当時ピアノの先生だった母に、「言うとおりにできないから」と髪の毛を引っ張られてピアノの蓋に叩き付けられたり、椅子か突き落とされたり、酷いときはピアノの部屋に軟禁されてしまったこともありました。
それらを虐待と呼ぶのか、それとも躾や教育と呼ぶのか、私は未だにわかりませんが、恐怖によっての教育は子どもは恐怖しか学習しないということは確かなことだと思います。
虐待する側は、いつも自分は子どもに接するべきかを悩んでいるように思います。実際、私の母はそのようで「どうして~できないの」、「私が悪いのか」ととても追い詰められているように思いました。私の父親は、会社勤めで家に居ないことが多く、母が心を許して相談できる相手は(特に世間体をとても気にする人だったので)いなかったように思います。
そして街の相談室にも相談する気はなかったように思います。
ここでは私の家庭を例にあげましたが、つまり、多くの家庭はこのような事情や、他の理由で「相談できない」人が多いように思うのです。
だから「今現在の周りの人が気付いて報告するしかない」というのは当然の流れなのですが、それしかできない現状にとても歯痒さを感じます。
今、私が思うのは、テレビやインターネットなどの媒体や学校を通して、家庭で悩む母親や子ども達自身
に、虐待の認識を共有することが重要だと思います。
私はかつて、自分が悪いのだと思っていましたが、それは全く違いました。もっと早く気付いてお互いきちんと話し合うか、もっと周りに客観的に判断してもらうべきだったと思います。(実際の体罰を録画したり、見てもらうことなどして)
これからは、自分が子どもを育てる側になったとき、誰にどう相談するかを今のうちから考えていきたいと思います。
私は、児童虐待ということに対してあまりイメージがわかなかった。しかし、先生の講義で実際に虐待を受けてきた児童の写真や話を聞き、児童虐待そのもの、そして増え続けていることが改めて問題として実感できた。
同時に、報道で言われている児童虐待の実態、その予防・防止策の見当違いなことに気が付いた。対応策として「母親らしさの回復」や「地域でのつながりの復活」など小さい範囲での対応が声高に取り上げられていた。私はこれらの対応策に疑問を感じた。
児童虐待に対し「地域のつながり」は打開できる可能性は秘めているかもしれない。しかし、私には虐待は虐待が起こった家庭・その地域の問題として考えようとしているように思える。全国的に増えている問題なら身近な問題として捉え、考えていくべきではないだろうか。
児童虐待は無くならない、どんなに完璧な制度があろうと、またどんなに裕福な環境にあろうと虐待だけはなくなることはない。という事を本か何かで(テレビだったかも知れないが・・)見たことがある。
私が高校1年生の時、つまり3年前のことであるが近所の一家で夫による家庭内暴力、並びに児童虐待があったと母から聞いた。虐待というものは意外にもこんなに自分の近くでおこる物なのかとその時実感した。
その一家がその後どうなったかは、今となっては知る由もないが恐らく子供はとても幸せとは言えない人生を送っているのではなかろうか。
虐待は無くならない、しかし減らすことは出来る。不幸になる人が一人でもすくなくなるために私たちが出来ることは何か。真剣に考える必要がある。
我が国はこの数十年間で大規模な成長を遂げた。経済面もとても豊かになり社会的秩序が生活基盤としてきちんと据えられ福祉面も充実しました。しかし、それと同時に不安要素も生み出しました。その一つが児童虐待だと自分も考えます。暮らしの変化というものが児童虐待に比例していると思わざるを得ません。おそらく昔の生活に比べたら今の生活は子供に愛情を注ぎづらい環境になりつつあると思います。たとえば長年にわたり続いた不況の影響で会社を辞めさせられたり、仕事が忙しくて子供の世話に手がまわらなくなったり…。そういったストレスが子供に暴力という形で表れていくのでしょう。この現状を打開するには行政が形式ばった政策ではなく親の目線で真摯に児童虐待を見据えた政策をとることが必要です。「もし自分だったら」という概念もとても重要です。虐待という過ちを犯す親にしても、形式ばった政策しか手立てをしない行政にしても。
データを見て、近年、虐待が増加し続けていることを知り驚きました。ここまで増えてしまうと、もう虐待が生み出される構造が確立してしまっているのでしょう。この構造を取り除くためにはやはり、子育てをする側のストレスを排除できるような社会づくりが必要になってくると思います。
最近は地域ごとの一体感や、人と人とのつながりが希薄になってきているように感じます。
これも、近年虐待が増加している原因の一つであると言えるでしょう。
これらのことから、これからはあらゆる産業分野の衰退と海外移転や地域社会の解体などの経済のグローバル化に伴って現れた様々な問題に、より有効な対策をとっていくことが重要であると思いました。
このブログのデータをみれば、児童虐待が増加しているのが現在の日本の現状である。この問題を解決するためには地域ぐるみの深い関わりや小さいころからの教育で正しい人間関係を作り上げていくことが必要だと思います。また、いまのストレス社会の中で、やり場のないストレスを子どもに向けているように思います。私はそういった事例をすこしでもなくすために、もっと周りの人間とのコミュニケーションを密接にし、より安らげるような環境をつくっていくことが重要なのではないかと思う。
このブログに書いてあるとおり、児童虐待を減少させるためには日々の普遍的な状況を見直す必要があると思う。この普遍的な状況が負の連鎖のようにたくさんの問題を引き起こすため、一時的な注意などでは児童虐待がなくなることはないだろう。宗澤先生がおっしゃる通り、積極的介入型の支援をもっと展開する必要があると私も思う。
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