手話通訳者の仕事とはどのような営みか
過去8年間、さいたま市障害者施策推進協議会の会長を務めてきた中で、手話通訳者を増やす課題は一筋縄ではいかないことを痛切に感じてきました。手話講習会の定員や回数を増やすことが、すぐさま手話通訳者の増大に結びつくわけではありせん。
聴覚障害のある人たちからは、地域生活のあらゆる場面に必要なコミュニケーション保障の課題として手話通訳者の拡充が切実で一貫した要望であるにも拘らず、なかなか自治体施策としての結果が出せないし、出しにくいのです。
「手話を学ぼう」とする人は多いのに、「手話通訳者」になる人は少ない。この間にある壁は一体どのような内容で、どうすれば突破できるのでしょうか?
条例づくりでの手話通訳者(中央)-手の動きが見やすいように、黒の服装に統一している
この一年半余り、さいたま市の条例づくり(「さいたま市誰もが共に暮らすための障害者の権利の擁護等に関する条例」、なお千葉県等他自治体条例との比較は、次を参照されたい。雑誌『障害者の福祉-ノーマライゼーション』2011年5月号、28‐33頁、日本障害者リハビリテーション協会)においても、この課題の重要性が改めて明らかにされてきましたし、この条例づくりへの聴覚障害のある人たちの参画には、手話通訳者の方々の条例づくりへの理解と献身的なご協力が、はかりしれない支援力(=聴覚障害のある人のエンパワメント)になっていると受け止めてきました。
手話通訳は、傍で見ているだけでも難しい世界だとつくづく思います。
講演の手話通訳では、たとえば私の方から予め講演レジュメと資料を手話通訳者に渡し、事前の打ち合わせで抽象的な語彙やキーワード等の共通理解を培っておくことができます。しかし、条例づくりのミーティングでは、発言者それぞれの思いや悔しさを伴う各人各様の発言を、タイムラグなく通訳しなければなりませんから大変な作業となります。
また、特定の人たちとの日常会話の手話ができることと、医療・保健・福祉・労働・教育・警察署・裁判所などのあらゆる場面で、各領域の専門用語を交えたり意訳しながら、不特定多数の人たちに手話通訳ができることとは、手話の遣い手としてのコミュニケーション力の水準がまるで違います。
人によって話の表現や運びが異なるのと同様に、手話表現のあり様も決して一様ではなく、相手と手話通訳者それぞれの語彙力や理解力に応じて、通訳の実際も多様であることは免れません。
「英会話を学んでみよう」との志を抱いて英会話学習をはじめた人が、英語の職業的「通訳者」になるまでには果てしない道のりがあるように、「手話を学んでみよう」と手話講習会に通った人が「手話通訳者」になるには山あり谷ありの連続であろうことは容易に想像できます。
そこで、条例づくりにご協力を頂いた手話通訳の方にお訊ねしてみました。
手話を学んだ人たちが手話通訳者にまでたどり着くまでの道程にある悩みや困難とはどのような内容なのか?-それを克服するための手立てを市の施策に反映させていきたいと。
すると、「私たちも悩みながら手話通訳をしているので」と、次の二冊の本を取り出し「ここらあたりにヒントがあるのでは」とご紹介いただいたのです。
(1)伊藤雋佑著『手話通訳』(全日本ろうあ連盟、1982年)
(2)小出新一著(豆塚猛写真)『手話知らんですんません』(全国手話通訳問題研究会、1987年)
2冊共にやや古い書物ですが、二人の著者はいずれもわが国における手話通訳のパイオニアです。聴覚障害のある人の言語として手話が社会的に認知されていなかった時代から、手話通訳につきまとう幾多の失敗経験を潜り抜けて著された「手話通訳論」であるため、今日でも論の琴線部分はいささかたりとも古さを感じさせません。
お二人の手話通訳論の核心を私なりにまとめると次のようになるでしょう。
手話通訳の営みとは、手話通訳者が手話の技術面の切磋琢磨を決しておろそかにすることなく、聴覚障害のある人と手話通訳者との信頼関係を紡ぐ不断の努力を通じて、障害のあるなしにかかわらず共有すべき人権と個人の尊厳を守る見地から、聴覚障害のある人の権利と暮らし・文化の向上・発展に寄与することである、と。
手話技術の向上について伊藤氏は、(a)書物のみでは学べない(書物のイラストなどで学んでも「ペーハードライバー」と同じ)、(b)熟達者をマークせよ(手話は人格の表現そのものであるから、技術的熟練にとどまらず、話しぶり・伝えぶりにゆたかさと奥行きのある人から学ぶこと)、(c)話の文脈を追え(日本語の抽象的単語や手話にない単語については、話の文脈全体を理解して通訳することが大切)、(d)手話は全力的に(手先だけで通訳するのではなく、強い足腰によって勢いのある手話に仕上げること)、(e)語源をたずねよ(手話単位の成り立ちにある契機や語源を学ぶことによって、文化としての手話を聴覚障害のある人たちとともに発展させていくこと)、と指摘しています(前掲書(1)、87-92頁)。
その上で、あらゆる専門領域の通訳に立ち会わなければならない必要に対しては、それぞれの領域の専門的学習をするというのではなく、聴覚障害のある人が抱える「問題を専門領域と連結させていくための基礎的、一般的知識の学習活動が大事だ」と指摘します(同書、87頁)。
読み進むうちに、手話のもつ奥行きの深さに「なるほど」とうなずいてしまいます。しかし、これらを学ぶ過程は、ただいばらの道の困難ではなく、二人の著者は、聴覚障害のある人とともに歩むからこそ、手話の魅力や楽しさがあると主張するのです。
小出氏の著書には、腎臓を患った聴覚障害のある妊婦の診察に手話通訳者として立ち会い、「塩分を控えてください」という医師の指示を「塩、色々、減らす」と手話通訳したところ、本人には「食塩は控えるが、醤油は大丈夫だ」と理解されていたことが後になって分かり、慌てて本人の自宅まですっ飛んで行って通訳しなおす体験談が出てきます(前掲書(2)、149-158頁)。
本の読み手としては、手話通訳者の失敗と狼狽ぶりをユーモラスに読めますが、聴覚障害のある妊婦にとっては、母体と赤ちゃんの生命の危機に直結する話ですから、小出氏がさぞや肝を冷やされた体験だったことは間違いありません。
私には、これまで手話通訳者と接する機会はしばしばありました。そのつど、私は多くの手話通訳者に共通して、「謙虚で、専門家として権威ぶらない」という共通するイメージを抱かざるを得ませんした。
コミュニケーション支援の担い手にふさわしい方法技術の基軸的性格をおろそかにすることなく、聴覚障害のある人たちと、人権擁護と生活文化の発展に向けてともに歩もうとする―この支援者としての営みの中に、手話通訳者の苦悩と清々しさ・楽しさがあると考えます。
手話の広がりを手話通訳者の拡充に結実させるためには、このような手話通訳者の世界にこれまで培われてきたかけがえのない魅力をすべての市民に広く知ってもらうことが、まずは大切なのではないでしょうか。
コメント
聴覚障害を抱えた人にとって手話は私たちでいう言葉を同じくらい重要な意味を持つのだろう。彼らは手話がなければ意思疎通は図れないのだ。しかし、現在私たちのまわりに手話通訳者の資格を持った方はそう多くはいない。自分も中学校の時に手話や点字などの体験をしたが、やはり理解するのが大変難しかったという印象がある。
宗澤先生のおっしゃる通り、手話を習い始めたからといってそう簡単に手話通訳者になれるわけではないと思う。だがそういった意識を変えていかなければ手話通訳者の人数は一向に増加しないと考える。よっていま聴覚障害の人権擁護と生活向上のために共に挑戦してもらえるような人材を育てていくことが大切なのだから、各市町村や自治体などで高校や大学、専門学校で学生向けに、あるいは公民館などで社会人向けに少しでも手話を理解し、興味を持っていただけるような講座を数多く開くことを提案する。
さいたま市の条例を作る際に「すべての市民に開かれた参画をすすめる」ことがとても難しいと仰っていましたが、この記事に書かれている手話通訳者のお話だけでもほんとうに難題だったのだと、けれどそれはとても大切なことなのだと感じました。
私は以前、手話を学んだことがありますが、それは“ペーパードライバー”状態だったのだと気が付きました。だた手話を知っていることと、実際に手話通訳者として聴覚障害のある方個人と向き合い通訳をすることとでは全く違います。
条例のために開催した100人委員会は煩悩の108つと同じでmanyの意味があると伺いましたが、それほど多くの方々の個人の意見を聞くことを私は体験したことはないですしあまり想像できません。しかし、老若男女、障害など問わず誰の意見も聞けることがどれほど大切かを教えて頂きました。
人と人がコミュニケーションを取りたいと思ったとき、そこには時に物理的なものから精神的なものまで沢山の障害があると考えます。それらを出来る限り取り除いてコミュニケーションをしたいと思ったとき、必要になるのは手話通訳者の様な存在だったり、個人の持つ知識であったり様々で、その手段の一つでも、身に付けられる様になりたいと思いました。
私は中学性のとき学校のヤルベンチャーとしてある介護施設で一週間手伝いました。そのとき、私はある一人の聴覚障害の人と会いました。私は手話を多少学んでいたが、その人と手話だけでは上手くコミュニケーションをとることができませんでした。けれども、手話だけではなくジェスチャーも使うことである程度意思疎通ができました。
このことからわかるように、「手話を学ぶ人」が多いのに「手話通訳者」になる人が少ないのは、手話をある程度わかる人がジェスチャーなどの他の意思伝達手段も利用することでだいだい意思疎通が出来ると感じ、稀に会う聴覚障害者の人と困らない程度に利用できればそんなに奥深くまで手話を学ばなくていいと思っているからではないのか。この中途半端に終わる人たちにどうすれば手話の魅力を感じてもらえるかが手話通訳者の増加の鍵につながると私も思います。
その一つの手段として、やはり小さいときに興味を与えるのが一番いいとおもうので小学校と中学校で手話を使うような授業や行事を導入してみるのはどうでしょうか。
私も手話を少し学んだことがあったのですが、それは中学校の授業のときでした。このときは、ただ「手話を学ぼう」ということだったので、手話について深く考えることなく授業の一環とでしか考えていませんでした。しかし、このブログを見て、手話通訳者とは、聴覚障害者のある人とコミュニケーションをとるために欠かせない存在であり、人権や個人の尊厳を守るために大事なんだと思いました。
障害を持った方なら周りに支えてくれる人もいるだろうしただ生きるだけなら問題はないと思います。しかしより人間的な生き方(多くの人と接したり、人生において充実感、達成感を得るなど)をするためには言語(ここでいう手話)が不可欠だと思います。
手話通訳者のレベルまでいける人の少なさについては対策を講じるべきだと思います。本来は自主的に「本当に聴覚障害の方の役に立ちたい」という熱意ある人が増えればいいのですが現状の人手不足を考えるとそんな悠長なことは言っていられないと考えます。通訳者の報酬を増やしたり特典をつけたりするなど(そういう対策は必ずしも理想的ではないかもしれませんが)通訳者の肩書きが魅力的にすることが有効ではないかと思います。
確かに言われてみれば、手話を習いに行ったとしてもその延長で手話通訳者になろうとする人は限りなく少ないだろうと思う。趣味で手話を習うならまだしも、手話通訳者となるとそれなりの責任が伴ってくると思うので、軽い気持ちの参加者などにとっては、責任を負う覚悟がない人が多いと思われ、通訳者の増加が難しいのだろう。
自分の祖母は昔、書籍を点字に訳すというボランティアをしていた時期があった。点字も手話と同じように障害者にとってはコミュニケーションをとったりするうえで重要なものだと思うので、そのような仕事に興味があったり、就こうと考えてる人はそれなりの覚悟、責任を持つべきだろうと思った。
6月22日の講義を受け、恋人の間でデートDVが起こるのは互いの仲が悪いからなのではなく、むしろ慈しみ合うことでそこに親密圏ができているためになかなか離れられず、他人同士なら別れることで解決できる問題を抱えていなければいけないことがわかりました。
そのことに性別は関係ないので、世間はデートDVを単なる暴力の問題ではないと理解して、男性被害者への支援に力を入れるべきだと思いまた。
私は以前中学生の時の総合の時間に手話を学んだことがあったのですが、そのときの私の手話に対する印象は私たちが話す言葉とは全く違うもので、ただ挨拶の手話のやり方を覚えようとしていました。しかし、この先生の記事を拝見して自分の手話に対する姿勢は根本的に間違っていたんだと感じました。手話通訳者の世界にこれまで培われてきたかけがえのない魅力をすべての市民に広く知ってもらうことが大切であると先生が仰ったように、もし本当にそれが学校の授業などで可能であるならば、私のように手話に対する印象を間違えることなく理解できるだろうと思い、そうすることで手話通訳者を目指す人も増えていくのではないかと思いました。
どうして手話を学んだことがあるのに手話通訳者になる人は少ないのか。それは手話を仕事してまで使えるくらいに手話を奥深く学ぼうとする人がいないことが原因だと思います。というより普通の人は手話が必要な場面に出会うことは少ないはずです。なので自ら学ぼうとは思わないでしょう。実際に必要に迫られれば手話を深くまで学んで通訳者になる選択もできるのだと思います。僕も中学の時に手話を少し触りだけやりましたがその程度ではそれ以上のことを求めようとはおもいませんでした。よって、単に学校とかで授業しても小さい子供は通訳者になろうとは思わないのが普通ではないでしょうか。
手話は、聴覚障害者とのコミュニケーションをとるための唯一の手段といってもよいほど重要なコミュニケーションツールである。聴覚障害者と出会ったら、このツールなしには会話は成り立たないが、実際このような場面はあり得るし、聴覚障害者も不自由少なく過ごせるような社会を作らねばならない。そのため、聴覚障害の人の尊厳や、生活向上のためには、これを学ぶ機会を増やすべきだと思う。学校教育や、地域の公民館等で行い、手話を身近なものにしていく必要があるだろう。
手話を学ぶ人は多いが、手話通訳者になる人が少ない理由は、僕は、手話通訳者になるということは責任を背負うことになるからだと思います。聴覚障害者にとって手話は 1つの言語であり、コミュニケーションに欠かせない大事なものです。そのコミュニケーション手段を学び、仕事にするということは容易なことではなく、間違えて通訳してしまうと問題が生じてしまいます。
英語を学ぶ人は多くいますが、英語を中心とする職業に就く人はそれに比べるとあまり多くないのは、手話と同じような理由もあるからだとと思います。
1つの言語を学び、それを仕事とするにはたくさんの努力や知識、覚悟が必要であるのだと思います。
聴覚障害の人にとって、手話は外の人とコミュニケーションをとるのにかかせないものである。現在小学校や中学校でも手話を学ぼうと努力している。しかし、その重要さが認知されているにもかかわらず、手話通訳者が少ない現状はなぜだろうか。それはあくまで趣味や一つのレクレーションとしてしかみてないからである。手話を生きるための手段として理解してないからである。なので私は、手話の大切さを理解してもらうためにも、講演や講義をもっと増やすべきだと考える。
自分は今まで手話通訳者の方と接する機会もなかったので、この記事を読んで手話通訳者という人の重要さを深く感じました。聴覚障害者の方にとっては手話は我々の言葉のようなもので、決してなくてはならないものであり、発せられた言葉を理解するためには手話通訳者が必ず必要になります。人と人が関わる仕事なので手話通訳者になるのは大変だと思いますが、地方自治体や国が協力して手話通訳者になりやすい社会を作っていく必要があると思います。
手話通釈者を増加させるためには、やはりその仕事の大切さ、やりがい、仕事をしていて楽しいこと、うれしいこと、辛いことなどの詳細な話を、手話を学んでいる人たちに手話通訳者が教える機会を設けていくことが必要だと思います。
また、手話をする人の人口を増加させるために、小学校や中学校に手話通釈者を招き、講演をしてもらう、という活動も必要だと思います。
北九州市立大学での特別講義の中で、手話をするときに真っ黒な服を着て、指輪やブレスレッドなどの装飾品もすべて取ってから話すと聞いて、手話を使う人たちにとっての手話の重要さが伝わりました。
言葉で言うと、はっきりと声を大きくして言ったほうが聞こえやすいのと同じで、手話でしか話す手段のない人にとっては、真っ黒な服を着てもらうことで正確に理解することが出来、会話に参加できるんだと思います。また手話通訳者になるためには大変な努力が必要なんだとわかりました。
当たり前のことかもしれないけれど、実際にそれが出来ている聴覚障害者との大きな市での話し合いなどは、あまりないと思うので、宗澤先生の継続的な取り組みは素晴らしいと思いました。
それと、障害者についての話し合いなのに、障害者の意見がない話し合いではなくて、健常者も障害のある人も同じ土俵に立って話し合える環境があるのは、両方にとって、考え方の違いなどを知ることが出来る貴重な場になって日頃なかなかできない意見交換も出来る機会があるので、もっとこのような取り組みが増えればいいなと思います。
私は、記事を読んで、小学生のころに学校で授業の一環として手話を習い、その後しばらく友達同士で授業中にこっそり手話で会話をするのが流行したことを思い出しました。今考えるとその頃は、子供ながらに手話を純粋にコミュニケーションの手段のひとつとして受け入れ、楽しんでいたのだなと思います。
そして、その気持ちこそ、これから手話通訳者を増やしていくために伝えていくべき気持ちなのだと感じました。そのためには、問題点を知ってもらうだけでなく、時には遊び心をくすぐられるような”手話で遊ぶ”ことを目的とした活動も積極的に行っていくべきだと考えます。
しかし、気持ちだけではどうにもならないこともあるので、やはり手話通訳者という仕事の大変さ、大変だからこそのやりがいなどを経験者に講演会などで話してもらい、より多くの市民に知ってもらう活動も自治体に協力してもらい、活発に行っていく必要があると思いました。
手話の教育の意見になってしまうのですが、自分は小学生の時に、特別授業の1つとして手話とふれあい、学ぶという機会がありましたが幼い自分には、手話の奥深さや重要性を認識することはできなかったです。また手話に関して魅力を感じることはなく、ただ難しいものという印象だけが残り、それ以降、手話との関わりをもっていません。幼い時から手話の存在を知らせる教育はよいことであるが、中途半端な教育をしてしまうと大変さだけが伝わり、逆に手話との距離をとってしまう可能性があると思います。そうなってしまうと手話を学ぼうと思う人の数すら増えず、手話通訳者になる人が減ってしまうと思います。また、手話を学ぶ人が手話通訳者にならない理由である、手話通訳者という難度の高い仕事の責任を負う覚悟が生まれてこないと思います。幼少期に手話の魅力を理解させるような教育が重要であると思います。
街で、手話を通して会話をしている人々を見かける機会が、ときどきあるように思う。しかし、私自身、手話がわからず、また、耳の聞こえない人と接する機会もないのであまり深く考えたことがなかった。
小学生のころ、学校に耳の不自由な方が来て、総合学習として一日だけ手話を勉強したことはあった。しかし、それ以外に手話についての情報を入手した記憶がない。
それは、私自身が福祉のニュースについて情報を取り入れていなかっただけかもしれないが、日本が福祉に対してあまり注目をしていないことをも表していると思った。
手話は話すことができない人が相手に自分の意思を伝えるために欠かせないものであり、これからますます手話が重要なものになるのではないでしょうか。私はこの記事を読んでもっと身近に手話と触れ合える環境があればいいなと思いました。たとえば小学校の授業の一環としてやるなどそういう取り組みこそ今求められているのではないのでしょうか。
手話…聞きなれてはいるけれど慣れ親しんではいないものだと思います。自分も小さいころ学校の体験活動でやったぐらいでそれ以上は深く知ろうともやっていこうともしませんでした。それに周りに手話をする人がいないので実際にやっている姿も見たことはほとんどありません。
このような状況なのでこの記事を読んで自分はやはりもっと手話の世界に接する機会を増やすべきだと思います。そうしないとやはり手話の世界に入っていく人は増えないと思います。そのためにも自分自身も手話について興味を持っていきたいです。
最近よく駅や病院などで、[筆談具あります]と言う貼り紙を見るようになりました。そういう面では、聴覚に障害のある方への配慮も向上してきたのかなと思います。
しかし、やはりディベートなどではスピーディーであり皆に一度に伝わる手話のほうが筆談よりも必要とされます。手話通訳者の難しいところは自分の手話が筆談具と同等のコミュニケーションツールとならなければいけないところだと思います。
自らの文字で表現するところを他者が代わりに表現するわけですから、無論難しいでしょう。それを手助け出来るのは障害のない人の心遣いではないでしょうか?より分かりやすい言葉でいうことによって、通訳もしやすくなるのではと思います。
まず自発的に行動しなければ手話を学ぶことや手話を使うような機会がほとんどない社会を変えることが大切なのではないかと思う。よく歌の振り付けに手話が盛り込まれてることがあるがそういう小さなことなどでもやっていったほうが良い。実際私は手話についてはほとんど知識がないし、手話通訳者というのはこのブログを見るまで知らなかったので、やはりもっと手話をもっと知ってもらうことが重要なのではないかと思う。
この記事を読むまで、あまり手話通訳者についてよく知らなかったのですが、記事を読んで、手話通訳者の仕事の大変さを知りました。
まず、手話で会話をするレベルまで学習するのにもかなりの時間と勉強が必要だと思います。それから、微妙な表現の違いなどを手話で表現し、相手に伝えるのは本当に難しいことだと思いました。記事の中で手話通訳者の方達が、「聴覚障害のある人とともに歩むからこそ、手話の魅力や楽しさがある」と主張しているとありました。
この部分を読んで私は、聴覚障害のある人と交流する機会が欲しいなと思いました。例えば、学校で手話について学ぶ際にもただテキストで学ぶだけでなくそこに聴覚障害のある方と手話通訳者の方を呼んで学習ができたなら、手話の大変さもよく分かりながら、魅力や楽しさを感じる人も増えるのではないかと考えました。
私は小学生の時に、特別授業で手話についてのお話を聞き、挨拶など基本的な手話を教えてもらうという機会があったが、今では全く覚えていない。実際、日常の生活の中で手話に触れる機会はそれ以降全くなく、手話を使う人にも出会っていない。手話通訳者が増えない理由としては、接する機会の少なさが挙げられるのではないか。接することがないから関心を持つこともなく、その職業の存在すら、意識しなければ思い浮かばないのではないだろうか。
増やすためには、義務教育の期間中に学ぶ機会を現在よりも増やすなどして、関心をもってもらうことからコツコツとやっていくしかないと思う。
通訳という仕事は、どんな言語を対象にしたものでも大変だと思います。同じ意味を違う言語で伝えようと思っても、ただ辞書を引いて単語を並べればよいものでもありませんし、時として通訳者のセンスに基づいた意訳も必要となるでしょう。
もちろん、それは豊富な語彙に支えられたものでなくてはならないのは言うまでもありません。英語の授業でのWritingを思い返せば、その大変さが分かります。これをタイムラグなしに、しかも手話と言うフィールドで行うのは専門の教育を受けたプロフェッショナルでなければ難しいでしょう。
手話通訳者は、その数の少なさが今問題とされていますが、その背景を考えると今すぐに人数を増やすのは難しいと思います。手話に興味を持つ人は多くても、それを通訳できるまでに訓練しようと思う人はほんの一握りでしょう。
例えば、公民館などで行われるセミナーなどに参加すれば手話を用いた簡単なコミュニケーションはとれるようにはなるでしょうが、それは通訳と言うには程遠く、また実際に学び続ける人間もほとんどいないのが実情です。
こうしたことを踏まえ、手話通訳者という職に就く人間が少しでも多くなるには、まずこういう仕事がある、ということの認知が不可欠でしょう。実際、恥ずかしいことに今回記事を読ませていただくまで私はこういった仕事があることを知りませんし、それはきっと多くの人にも言えることでしょう。
セミナーなどを開講する時も、ただ手話に興味を持ってもらうだけでなく、それを活かした職業があるということを知ってもらう努力が必要だと、私は考えます。
「手話を学ぼう」という人は多いのに、「手話通訳者」になる人が少ない理由は、やはり通訳までいくと、とても険しい道のりになるというイメージを人々が持ってしまうからだと思います。それに、実際に聴覚障害者と出会ってみないと、手話が必要不可欠であることを感じにくいというのも理由の1つだと思います。だからもっと、手話を学んで実際に聴覚障害者と手話で会話をするような機会を増やすことが、手話通訳者不足の改善につながるのではないだろうかと思いました。
障害を持つ人たちが社会と関わって生活するには依然として生活しにくい社会のままであることの原因には、健常者がほとんど障害者支援について知らないということも含まれているのだと思った。小学校で手話を教わったことがあるがその後の生活で手話を使ったことはなく、それだけ生活の中で障害者とのかかわりがなかったということなのだろう。学校では子供にそのような活動を1度だけ体験させるのではなくて、継続的に授業などで取り上げて障害者に対して関わり続けていく必要があると思う。
今回のブログを拝見して、恥ずかしながら私は初めて手話通訳者という職業の存在を知りました。また、このことから自分がいかに、あまり関わりのない分野に関して無知であるかも痛感しました。確かに文中にも書かれている通り、英語を学ぶことと通訳者という職業までそのスキルを高めることの間にはかなりの大きな壁があるように、「手話を読み取ることが出来る・自らも使える」=手話通訳者になれる、という簡単なものではないのだと知りました。きっと、私のように今までそういった話題に触れることなく生活してきたひと(学生)は多いと思います。だから、専門科目でなく全般的な学生が聴講できる講義(埼玉大学で言う“教養科目”)に、こういった問題(手話通訳者の拡充など)に踏み込んだ話題を取り扱うものを積極的に増やすことは、今まで知らなかった現場の状況を知ることに効果的だと思います。また、ブログの最後で先生が書かれているように、ネガティブな“問題”だけではなく、ポジティブな“魅力”を私たちは進んで知っていくべきだと思いました。
手話を学ぼうとするきっかけについては、聴覚障害者を扱ったテレビドラマの影響などもあり、学ぼうと試みる人は多い。しかし、日常的な生活を送っている限り、手話が必要な場面に出会うことは滅多にない。つまり、ドラマなどではなく、日常的な生活の中で手話が必要となる場面に出会うことが重要となる。したがって、そのような場面に出会う機会に溢れた社会を作っていく必要がある。
小学校の同級生に聴覚障害のある人がいて、私も学校で行われた手話教室に参加して、手話の奥深さや難しさを思い知らされた。五十音を覚えるだけでも一苦労した。月に1回の講座を2年間行ったが、結局今でも使えるのは簡単な自己紹介とあいさつぐらいである。しかし手話を学んで聴覚障害のある友達とは距離が縮まったように思うしもっと手話を覚えてコミュニケーションを取りたいと思い必至で練習した。
身近に聴覚障害のある人がいたりしないと、なかなか手話の必要性が感じられない。しかし、社会にとっては必要である、まずは手話の魅力を多くの人々に伝えるべきだ。
「聴覚障害のある方たちが、手話で会話をしている中に自分が飛び込んで行った場合、自分だけがコミュニケーションをとれなくなってしまう」と、講義の中で宗澤先生がおっしゃっていたのを聞いて、私ははっとしました。コミュニケーション手段というのは人によってさまざまだし、その手段を共有することができなければ、疎外されてしまうと思いました。
今少ない手話通訳者を増やしていくためにも、コミュニケーションの大切さをもっと知っていくべきだと思いました。そして、学校や地域全体で、交流を深める、知識を高めあうことを推奨していく必要があると思いました。
私は、耳の自由不自由にかかわらず、手話は身につけるべきものだと考える。
多くの人が、手話は耳が不自由な人のためのコミュニケーションツールであるととらえているだろう。このように考えを持つ人は、きっとこれから先、手話を学ぼうとは思わないはずだ。
では、手話はコトバを発さずともとれるコミュニケーションツールととらえてみるのはいかがであろう。
例えば、図書館などのコトバを発してはいけない空間で手話はとても有効ではないだろうか。
私は今回の記事を読んで、改めて手話の重大さを知った。手話は聴覚障害者の方々にとってコミュニケーションをとる重要なツールであるのだからそれは当然のことである。
しかし手話は大事ということがわかっても現代ではあまり手話と触れ合う機会が少ないし、手話通訳者という言葉もあまり耳にしない言葉である。
手話をもっと人々に触れ合う機会を増やし、その意味を伝えるために私は聴覚障害者にとっての手話の重要性を最も知っているであろう手話通訳者の方々に講演や講義を通して手話の大事さを話してほしいと思う。そのような活動の機会を増やすことが現代の社会に求められていることだと思う。
小学校の時に少しだけ手話を体験したことがありましたが、改めてこの記事を読んで手話は難しいと思いました。
言葉では伝わる微妙なニュアンスが伝わりにくいというのは、すごく難しい課題だと思いました。
バリアフリー社会の実現のためにも、自分も挨拶程度の手話は学びたいと思いました。
私は視覚障害を抱えた人が手話で会話をしているのを見かけたときに聴覚障害を抱えた人にとって手話は本当に言語であることを認識した。
英語、日本語といった言語と同じように彼らは普通に会話をしていた。その時私は手話に非常に関心を持ち、学びたいと感じた。
外国語の通訳者になりたいという人は多数いるにもかかわらず、手話通訳者の人数が増えないのは多くの人が少なからず手話より英語や日本語の方が優れているという考え方があるからではないだろうか。
そのため、先生の言うようにすべての市民が手話通訳者の世界にこれまで培われてきたかけがえのない魅力を広く知ってもらうことが、まずは大切なのではないだろうか。
私たちが言葉でコミュニケーションをとるように、聴覚障害のある方にとって手話は相手に気持ちを伝えるための重要な手段であるということを改めて感じました。
私は小学生の時に手話を交えて歌を歌う機会がありましたが、それ以来手話を使ったことはありません。手話を使う場面に出会う機会がなかったということもありますが、自分自身が手話に対してそれほど興味が持てなかったからだと思います。覚えるのがとても大変だったので、手話は難しいものだとも感じていました。
また、手話を身近に感じる機会ありませんでした。手話通訳をしているところは一部のニュースでしか見たことがありません。
学校で英語を学習するように、手話も会話のための一つの手段として少しでも学ぶ機会があれば、手話に対する関わり方や考え方も変わるのではないかと思います。
このブログを読んで、小学校の時に手話を授業で習ったことを思い出しました。あのときには子供ながら難しいなと感じました。今現在現代の若者、僕自身も含めて興味を持っている人は少ないと思います。しかし聴覚障害者の方にとって手話というものは日常生活に欠かせない道具だと思います。誰もが住みやすい町にしていくためにももっと手話というものに興味を持つことが大切だとこのブログをみて思いました。
手話通訳者を志す人が少ない原因の一つには、不安定な雇用体制があるのではないかと私は思います。あまり耳馴染みしない職種であることからわかるように、手話通訳者の求人はあまり多くないでしょう。高校時代、手話通訳者を目指していた友人も、「手話通訳者一本じゃ生活できないから、あきらめるしかない」とこぼしていました。今は小学校や中学校の総合の授業で手話に触れる機会があるので、先生のおっしゃる通り手話を学ぼうとする人は多く出てくるのだと思います。しかしそこから手話通訳者になろうと考える人が少ないのは、仕事として生計が立てられる見込みが少ないからではないでしょうか。はたしてボランティアとして、先生が指摘なさったようなやりがいはあるけれど苦労も伴う手話通訳をしようとする方がどれだけいるでしょう。手話通訳者の充実をはかるためには、まずひとつの安定した職業として地位を確立させることも大切だと思います。
手話通訳者が少ないのは「手話を学びたい」と思って学んでも、実際は難しく挫折をせざるをえないのではないかと書かれています。実際その通りだと思います。自分が健常者である以上、障害を持つ人の気持ちを考えていくのは非常に難しいことだと思います。今まで学校生活を送ってきたなかでよく教師から「障害のある人の気持ちを考えなさい」と言われてきましたが、口で言う以上に相手の気持ちを考えるのは困難です。
今回の震災でも我々が東北の人に対して声援を送ったつもりが相手には不快だったという例もあります。健常者同士でさえ難しいことを障害者とのやり取りで行うにはここで書いてあるような困難を乗り越える精神力が必要とされているのではないでしょうか。
手話を学ぶ人は多くても、実際に手話通訳者になる人は少ないのは、日常生活の手話でも覚えるのが大変であることと、世間的にその職業が知られていないことがあるのではないでしょうか。恥ずかしながら、私もこの記事を読むまでは手話通訳者という仕事を知りませんでしたが、実際このような人が大勢いるのが現状だと思います。この現状を打破して、聴覚障害をお持ちの方があまり支障を感じずに、健常者とコミュニケーションを図るためには、まずは存在をアピールしていくことが必要だと思います。例えば、小中学生向けに手話を教えるだけでなく、職業としても繋がっていくことを知ってもらったり、テレビでも取り上げてもらったりなどです。このようなことを実践に移すことができれば、今よりも手話通訳者を目指す人が多くなると考えます。
聴覚障害を抱えた人にとっては、手話はコミュニケーションをとるための大事な言葉と成るものである。だから、手話通訳者は聴覚障害者の権利を守る重要な存在である。違う言語を学ぶにあたって大切なことは小さい頃からそれに触れておくことである。なので、小学校で少しずつ導入しておくべきなのだと思う。
そして、実際に経験すること。中学校などで、老人ホームで働く体験をするなどはよく聞くが、同年代が通う聾学校などにも訪問してそこで生の手話を体験するのも良いと思う。実際にするにはいろいろと問題があるかもしれないが、それが未来への大事な経験になるかもしれないと私は考える。そこには障害者への理解をも手に入れられると考えるからである。
通訳という仕事は、どんな言語を対象にしたものでも大変だと思います。同じ意味を違う言語で伝えようと思っても、ただ辞書を引いて単語を並べればよいものでもありませんし、時として通訳者のセンスに基づいた意訳も必要となるでしょう。
もちろん、それは豊富な語彙に支えられたものでなくてはならないのは言うまでもありません。英語の授業でのWritingを思い返せば、その大変さが分かります。これをタイムラグなしに、しかも手話と言うフィールドで行うのは専門の教育を受けたプロフェッショナルでなければ難しいでしょう。
手話通訳者は、その数の少なさが今問題とされていますが、その背景を考えると今すぐに人数を増やすのは難しいと思います。手話に興味を持つ人は多くても、それを通訳できるまでに訓練しようと思う人はほんの一握りでしょう。
例えば、公民館などで行われるセミナーなどに参加すれば手話を用いた簡単なコミュニケーションはとれるようにはなるでしょうが、それは通訳と言うには程遠く、また実際に学び続ける人間もほとんどいないのが実情です。
こうしたことを踏まえ、手話通訳者という職に就く人間が少しでも多くなるには、まずこういう仕事がある、ということの認知が不可欠でしょう。実際、恥ずかしいことに今回記事を読ませていただくまで私はこういった仕事があることを知りませんし、それはきっと多くの人にも言えることでしょう。セミナーなどを開講する時も、ただ手話に興味を持ってもらうだけでなく、それを活かした職業があるということを知ってもらう努力が必要だと、私は考えます。
手話を学んでも実際に手話通訳者になる人は少ないという事実を始めて知りました。どうしてなのだろうと考えていたらよい例が提示してありました。英会話を習っても職業の通訳者になる人がどれだけ少ないかというものでした。確かに頷ける意見でした。英会話と同じならかじる程度なら楽しいのかも知れませんが本格的に学ぶとなると大変だろうということが目に浮かびます。
では、どうしたら手話通訳者が増えるか。英語を学ぶひとは英語圏の人と話せるようになりたいからと言う人が多いそうです。手話も同じく、聴覚障害の人と話せて新たな視点が拓けるという楽しみを持てるとよいと思いました。
手話通訳者はなぜ少ないのか。一つには私は実際に手話を活用する場面が少ないからだと思う。英語を例にとるとわかりやすい。英語は国際語として理解され、世界を相手に仕事をしようと思っている人にとって必須の言語である。その重要性は小中高大と英語が授業科目になっていることからもわかる。
一方で手話はやはり実生活で使用することがほとんどない。小学生や中学生のころに手話をやったことがあるといっても一度や二度程度だろう。
また、昔は覚えていたとしてもどうしても定期的に手話を使わないと忘れてしまう。さらに専門的な用語を通訳するとなると通訳者自身がその用語の意味を知っておかないといけないのではないかと思う。そのために自分でその分野に関することを勉強するというのは大きな負担となるだろう。
しかし、それだけ手話が重要だということを忘れてはならない。最近では電車の広告でも手話を使っているのを見るし、先日の大震災に関する政府の記者会見の時もそばには常に手話通訳者が立っていた。手話を必要とする人がいる。その事実を忘れてはならない。
私はテレビで手話ニュースを見るたびに、聴覚障害のある人はこの時間以外でどのように日々の出来事を知るのだろうと疑問に思っていました。
言い方は悪くなるかもしれませんが、確かに聴覚障害者は一部に限られます。しかし、手話講習会の定員や回数が増えてきている現在ならば、やるべきことがあると思います。それは、テレビの隅にでもいいから手話のコーナーを作ることです。このようなことから少しずつ配慮すべきだと思います。
私はこの記事を読んで、外国語と手話を学ぶことの違いについて考えました。どちらも意志を伝えるという点では共通ですが、外国語を学びたい、もしくは学んでいるという人は比べものにならないほどいます。その差はどこから生まれるのか、手話を普及させるにはどうすればよいか考えました。
外国語(日本では特に英語)は中学校、最近では小学校で義務教育として学びます。また、社会も英語力を要求しており、英語に興味がなくても勉強せざるを得ない社会になりつつあります。社会の要求から、日本人は英語力をある一つのスキルとして身につける傾向にあります。しかし、手話はどうでしょうか。私の経験から申しますと、一般的に手話と関わる機会はほとんどないと考えます。社会も手話の能力を要求しているか、と言うと、イエスとは言えない気がします。さらに、あくまで私の自論ですが、手話通訳のレベルまで達すると、ある一つのスキルというよりは、そのスキルを身につけて就職する、という敷居の高いイメージがあります。現に、手話通訳者は少ないのが現状です。
これらのことを前提においたとき、手話を普及させるにはどうすればよいか。先生のおっしゃる通り、手話通訳のかけがえのない魅力をすべての市民に広く知ってもらうことが、まずは大切だと思います。次に重要なことは、手話通訳者として活躍できる環境を整備することが重要だと思います。スキルのある人が安心して就職できる社会基盤ができれば、手話通訳者はさらに増えると思います。
総括すると、手話通訳は英語と違って、義務教育にとりくむほど、ニーズはない、一つのスキルとしては敷居が高すぎるというデメリットがあるので、手話通訳者自体の魅力を広く市民に知ってもらい、魅力と感じた人が手話通訳者として活躍できる環境を整備することが大切だと考えました。
ブログを読んで、手話という聴覚障害のある人とコミュニケーションをとる手段は非常に大切であると改めて思いました。そして、その手話を仕事として聴覚障害のある人の権利と暮らし・文化の向上・発展に寄与する営みをしている手話通訳者は、なくてはならない人だと思いました。その一方で、言葉を手先や足腰を使って表現することでさえ大変なことであるのに、専門領域の手話を行う難しさ、聴覚障害のある人と信頼関係を築き上げようと努力するなどの手話通訳者の大変さを改めて感じました。私もバイトで、聴覚障害のある客と接することがあるのですが、もし、手話ができたら良いと考えたことがあります。多くの人が現代に手話が必要だと感じ、手話を学ぼうとしているのだと思いますが、手話の難しさを感じ、手話通訳者になる人が増えないのだと思います。なので、これから、国や自治体の条例などの支援が後押しとなり、手話通訳者が増えてほしいと思いました。
私の友達の母親は難聴者でした。私は友達から簡単な手話を習いコミュニケーションのツールとして使っていました。それは声を使わずに意志疎通をするという点で新鮮であると同時に、とても難しいことでした。私は手話を学ぶ人には周りに難聴者がいるのだと思います。それは個人的な目的であり大衆のためではない。そうであるから手話通訳者になろうという人は少ないのではないのでしょうか。手話通訳者を目指す人を増やすには手話通訳者という職業を広めると共に、労働環境の整備が不可欠だと思います。また実際に難聴者の方々と触れ合う機会をもつことが人々の手話への関心を高めることにつながるのでしょう。
私も「手話を学んでみよう」と勉強を始めましたが、「手話通訳者になろう」という考えには至らなかった者の一人です。
小学生の時、手話の勉強をされている担任の先生に教えていただいた時に、「声を出さずに人と話せるってすごいな。手の動き、ひとつひとつに意味があるなんておもしろいな。」と思ったのがきっかけで勉強するようになりました。手話について調べて行くうちに、手話通訳者という存在を知りました。その当時は興味がありましたが、仮に自分が通訳者になれたとしても、自分の訳が間違っているために、聴覚障害者のある方に上手く情報が伝わらず、意思疎通が図れなかったら…と考えると、自分には責任が重すぎるなと感じました。結局、「自分は聴覚障害者の方とコミュニケーションを取りたくて手話を勉強しているのであって、将来、手話を使った職業に就きたいわけではない。」という結論に至り、手話は趣味で勉強することにしました。私と同じ考えを持つ方は、他にも少なからずいらっしゃると思います。
そして、手話を学べる場が少ないのも問題があると考えます。講習会が行われていても、市民には認知されていません。また、身近に手話を使う人がいなければ、触れてみよう、学んでみようという気も起きません。このようなことから、手話の魅力について知ってもらうために、メディアを使って手話に関することを広報することから始めるのが良いのではないかと考えます。
手話に関しては中学生の時に少しだけ学びました。それは、一人ひとりが興味を持ったことに対して調べてくるという内容でした。少し勉強してみて、非常に難しく感じました。それが、手話通訳者が少なくなっている要因ではないかと思いました。だが、実際に手話を使う機会があまりなく、言い方が悪いかもしれませんが、みんながやりたがらないのではないかとも思いました。また、英語などは世界共通言語であり使う機会がありますが、手話は人間生活で関わることはほとんどないように思えてきました。
しかし、だからといって学ばないのはどうかと思います。人間個人個人の権利を理解して、ともに助け合いながら生活していけたらなと思いました。
私は小学校の時に総合学習で手話の勉強をしたのを覚えています。実際に私がした感想としてはとても難しかったのを覚えています。実際私たちに身近に感じられない部分が少し壁になっているとも思います。聴覚障害を持った人たちは手話が人とのコミュニケーションをとる手段であります。また逆に相手も手話ができなければ意思疎通はできないのであります。先生がおっしゃるように手話の広がりを通訳者の拡充を結実するために、講演や交流会を開くべきだと思います。そうすることで身近に感じることができ、手話に関して知ってもらうだけでなく興味を持つことができると思うからです。
私は中学生の時、手話通訳者および聴覚障害を持つ方と手話で対話する機会がありました。簡単な言葉でさえ手話で伝えるのは難しく時間がかかりました。しかし気持ちを伝えるのは手話だけでなく、口の動きや表情でも伝わることを知り、嬉しかったことを記憶しています。
実際に聴覚障害を持つ方や手話通訳者の方との対話を好奇心あふれる子供のうちから体験し、手話について考える機会を増やすことが手話通訳者という職に対する関心を促進すると考えます。
私の小学校では毎年年に1回人権のつどいのようなものが開かれていました。私のクラスでは、毎年手話をしながら歌を歌ったり、詩を朗読しながら手話をしたりしていました。私の小学校と中学校には養護学級があり、耳が聞こえない友人もいました。手話を覚えると会話がしやすくなると思い手話を覚えようとしましたが、手話にも方言のようにその人によって違う表現をする人もいると知り、諦めたのを覚えています。
言葉を話すとき同じ言葉でもいろいろな言い方があるように、手話にも1つの言葉に対していくつかの表現の方法がある場合もあります。そこが手話通訳をする上で大変なところでもあり、諦める人も出てくる原因にもなっているのではないでしょうか。
手話通訳は大変な職業で、手話通訳者が増えることは良いことです。手話を習いたい、手話通訳ができるようになりたいと考える人を増やすためには、まず聴覚障害者についてのことを一人でも多くの人に分かってもらうことが一番の近道だと思います。
聴覚障害者についての講演会や手話体験など、もっと一般の人も気軽に参加でき、知識を身につけることのできる環境をつくれば、今はまだ身近に感じられないことも自然と少しずつ身近に感じられるようになるのではないかと思いました。
私はこの記事を読むまで、手話通訳者についてあまり知らず、その実態について深く考えたことはありませんでした。
手話通訳者になることはそうそう簡単なことではないのだと分かるとともに、手話を学んだところでも、それが実際に通訳につながっていくのかとなると、話は別なのだと感じました。手話通訳者は出来て当たり前、うまく表現できたところでこれといって称賛はされず、間違えたときにはそれ相応の責任を負わなければならないと、とても難しいものに感じてしまいます。けれども、聴覚障害のある人たちと二人三脚となって、苦楽を供にし、社会の中で生きていくことに手話通訳者としてのやりがいがあるように思います。
手話というものをもっと世間に向けて発信し人々の関心を集めることが出来れば、手話通訳者の社会の中での位置づけも変わり、人々の身近なものに近づくことが出来るのではないかと考えます。
私は小学校の時に手話についての授業を受けたことがありました。そこでは、軽いあいさつを習ったりするだけで、手話の表面をさらりとなでた程度のものでした。あまり手話について理解もできないまま、ただ漠然と手話は聴覚障害者のものだと思いました。それ以来手話には触れる機会もなかったので、手話についてきちんと考えたこともなく、その思いも変わりませんでした。しかし、手話の存在、手話通訳者の必要性を感じ、改めて考えてみると、手話通訳者の少なさはもちろんそれ自体の難しさもあるが、私のように手話は自分にとって無縁の存在だと考えている人の存在も影響しているのではないかと思います。したがって、ただ単に学校や民間で手話についての授業や講演を増やすのではなく、より深く、真剣に考えられるように数ではなく内容の質の向上をすべきだと思いました。
今まで私は、手話を1つ覚えれば、手話を使用しているすべての方とまったく同じ認識のもとで話せると思っていました。しかし、私達の発する言葉がそれぞれ違うのと同じで、手話にも個性があることにこの記事を読んで初めて気づきました。自分の手話と手話通訳に関する理解不足を感じました。手話通訳者を増やすには、まず手話通訳という仕事があることと、その仕事内容を世間の人がきちんと理解することが必要だと思います。また、手話を教える講習会だけでなく、聴覚障害のある方との交流会や座談会など、実際に手話で会話する形式のイベントを実施することで、手話の「ペーパードライバー」化を防いだり、手話を少し習っただけという方にも手話通訳の仕事へ興味を持ってもらう機会となるのではないかと思います。
聴覚障害者の方々にとって手話は意思疎通の手段の一つであることは間違いないだろう。しかし、現在手話を使いこなせる人が多くいるかと言えば決して多くはない、むしろ少ないぐらいだ。手話を習得すること、つまり、手話通訳者の資格を取ることが、経済的な利益に直結しないことに原因がある。英語のように世界共通語としての地位を獲得したものなら、それを習得することによって将来の可能性を広げることが出来るが、手話ではそうはいかない。つまり、このような状況を改善すれば、手話を学ぶ人が増え、聴覚障害者の方々にとって住みやすい社会になる可能性が広がるということだ。
まず、私が先生の講義でも恥ずかしながら驚きを覚えたことは手話通訳者の人々が黒い服を着てより手話が伝わりやすくしているということでした。
さて、なぜ手話通訳の人手がたりないのか。それはまず前提としてただ単に手話を学ぶひとと手話通訳を生業として生きていこうとする個人レベルの意識の問題があると思います。
そのただ単に手話を学ぶ人を手話通訳者とする方法として、政府による待遇の改善があげられると思います。この方法は、単に金銭面でその数を増やすという目的の他に、より世間に世界が手話通訳者が必要だと認識付けることができると思います。
私を含め、一般的に生活する世間の人々は手話通訳者の数が足りないなんてあまり知りえていません。私たちは今、知ることによって手話通訳の人々が障害のある人々と喜びを分かち合うことのできる社会づくりをしていかなければならないと感じました。
ただ手話を、私的なコミュニケーションのために使えるようになるのと、通訳として人と人の間に立って使えるようになるのとでは、明らかに必要となるレベルが違ってくるというのは、英会話の例を実際に味わっているのでよくわかります。手話を使う人は、人々の関心の向上に伴って増えているのではないかと思います。しかし、その多くが、聴覚障害を持つ人たちとのコミュニケーションができれば十分と思っているだろうし、私が手話を学ぶとすれば、間違いなくそのレベルで満足してしまいます。手話の通訳者を増やしていくためには、ただの講習会ではなく、通訳者のための専門のセミナーや、実際に職業にすることを目指す養成所の数を増やすことが必要になってくるのではないでしょうか。
私たちにとって手話とは便利なコミュニケーションツールとは言い難く、日常生活で言語として使われることはまずない。しかし、聴覚障害を持つ人からしてみれば、それは他者と会話するための貴重な言語であり、いわば必要不可欠なものである。私たちが手話というものに興味関心を持ちつつも、実際には手話通訳者が少ないというのは、やはり、私たちが健常者であり、手話なんか生活には必要ないと考えてしまいがちだからだと思う。手話に対する必要性が小さいなかで、通訳者ほどの知識・技能を獲得したいと思うためには、障害に関して理解を持ち、障害を持った人を支援したいと感じなくてはならない。そこで、聾学校を見学したり、聴覚障害を持った人とかかわったりすることを、言語学習の分野の学習として学校で取り入れてはどうだろうか。できるだけ早い段階から障害に関しての理解を持つことで、障害というものに対して、今よりもっとポジティブに関わっていきたいと感じられると思う。また、障害と関わっていきたいと感じた人がいた時、手話に関する充実した教育を行い、手話の知識・技能の獲得のため、支援をしていくことが必要である。
手話通訳者の仕事はとても大変だという印象が現在の日本では根強いと思う。しかしながら、日本をはじめ世界各国で聴覚障害を抱えた人が多くいる中で、そんな人々とのコミュニケーションを補助する手話通訳者を育てていくことが大切だと思う。地域共同体レベルで少しでも手話通訳者の仕事内容やその育成について関心を持ってもらえるような行動を起こすべきではないだろうかと考える。
私は、小学生のときに授業の一環で手話を少しだけ学びましたが、ひとつのことを伝えるのでさえ、とても難しかったことを覚えています。今回先生のブログを読み、手話通訳者が足りない厳しい現実を、初めて知りました。手話通訳者を増やすために、子どものうちから色々な人が手話の世界にふれることができる機会を増やし、手話への関心を高める必要があると思います。
手話とはよく耳にする言葉でありながら、実際学ぶのは難しいものだと思います。昔、手話に触れ合う機会がありましたが、自分の名前と簡単な挨拶を覚えることで精いっぱいでした。普通に会話をするのと同じように手話を使いこなすには、手話を使って何かをしたいという目的と根気が必要なのだと思います。身近に手話を使って話したい人がいるなどが、その目的としてあげられると思います。
手話通訳者を増やすためには、手話を実際に使っている人と触れあい関心を持つことが重要なのではないでしょうか。交流をもち続ける機会を設ければ、普通の会話のツールとして、手話を遣って話したいと考える人が増えると思います。難聴者がより、生活しやすい環境にするためにも、関わる機会が増えればいいなと思いました。
手話通訳者という仕事が世間一般的にあまり知られていないことが、手話通訳者になろうとする人が少ないことに影響を与えていると思います。
聴覚障害を持っている方にとって、テレビや講演会、日常会話を楽しむために、手話は言葉と同等の価値があり、なくてはならない存在だと思います。
ただ、日本人が日本語を話せるように、みんなが手話を出来るわけではないので、手話が出来ない人と手話がないと困る人を繋ぐためにも、手話通訳者は大切な存在だと思いました。私もこの記事を読んで初めて手話通訳者が不足していることを知ったので、もっと多くの人にこの状況を知ってもらうことが、手話通訳者を増やす近道だと思います。
このバックナンバーを読んで、いくつか思ったことがある。
一つ目は上層組織の障害者への配慮のなさだ。
確かに討論のような場では、前もって内容を知ることも字で内容を見ることもできない。
せいぜい、案がホワイトボードに書かれているのを読んで、必死に内容を想像することぐらいしかできないのだ。
国会を思い出してみる。(私は小学生のころ社会科見学で国会を見学させていただいた)
赤い絨毯にいくつかの通路と階段、非常口の案内が思い浮かぶ。
スロープはあっただろうか? 障害者用トイレは?
数年前の記憶なので断定はできないが、当時の国会にはそのような部分はなかったように思う。
討論に話を戻そう。
企業や行政関係者が一般の人々と話すときの聴覚障害者と 健常者のギャップを埋めるにはどうすればよいのだろう。
手話通訳者がいればいいのだろうが、少数の聴覚障害者が相手ではコスト高だ。
ここで考えられるのが、「社会を変える」もしくは「技術が変える」という方法だ。
「社会を変える」とは、討論内容をそのまま文章化できるような仕組みを取り入れることを指す。
最近ニュースでよく取り上げられる"ツイッター"を使った討論を実験的に行っているテレビ番組を見たことがある。
機器に慣れていなければならない必要があるが、文章化することによって得られるメリットはいくつもあるだろう。
「技術が変える」とは、音を文字に変換する技術が日常社会で使われることを指す。
現在、いくつかの携帯電話には音声の波形を変換、解析して文字にする機能がある。
この技術にはまだ粗が目立ち、日常のさまざまなシーンで役立つにはまだ時間がかかりそうだが、技術の世界は日進月歩である。
そう遠くないうちに聴覚障害者用の補助ユニットとしてこの技術が使われるかもしれない。
二つ目は手話と英語(外国語)の意外な共通点だ。
――― 「英会話を学んでみよう」との志を抱いて英会話学習をはじめた人が、英語の職業的「通訳者」になるまでには果てしない道のりがあるように、「手話を学んでみよう」と手話講習会に通った人が「手話通訳者」になるには山あり谷ありの連続であろうことは容易に想像できます。―――(本文より抜粋)
この箇所を読んで、外国語と手話の近似性に興味がわいたのでその後の文章中の「手話」を「外国語」として捉えて読んでみた。
>>(a)書物のみでは学べない(書物のイラストなどで学んでも「ペーハードライバー」と同じ)
実際に英語圏に行かなければ生きた英語は学べない。
>>(b)熟達者をマークせよ(手話は人格の表現そのものであるから、技術的熟練にとどまらず、話しぶり・伝えぶりにゆたかさと奥行きのある人から学ぶこと)
ネイティヴを注視せよ。
>>(c)話の文脈を追え(日本語の抽象的単語や手話にない単語については、話の文脈全体を理解して通訳することが大切)
直訳だけではわからない、適宜意訳して日本語として取り込め。
>>(d)手話は全力的に(手先だけで通訳するのではなく、強い足腰によって勢いのある手話に仕上げること)
(日本以外の国ではそうであるように)感情や意思は身体全体で伝えろ。
>>(e)語源をたずねよ(手話単位の成り立ちにある契機や語源を学ぶことによって、文化としての手話を聴覚障害のある人たちとともに発展させていくこと)
言葉を知ることにより、その国の文化を知り、理解しろ。
ここまで同じなのか!、と驚いた。
と同時に、これが意識の違いなのか!、と驚いた。
いままで手話を言語として考えていなかったからこんなにも驚いたのだろうと思う。
そしてそれは心のどこかで《手話と言語は根本的に違う》と思っていたことによるのだろう。
もちろん、聴覚障害者にとってみれば手話とは立派な言語であるのだ。違うわけがない。
手話通訳者が少ないのはこの影響でもあるのではないかと思う。
手話は聴覚障害者のために開発されたものではあるが、「手話=健常者にとって関係のないもの」ではないのだ。
そういう点では、わが国の手話への関心度を図書分類法でいうところの第八類における手話関係書籍の量に見ることができるのではないだろうか。
聴覚障害者にとって手話は生活する上でなくてはならない大切なもの。しかし、学校などで手話を学習しても、手話通訳者になる人が少ないのは、私たちが手話を「生きる手段」だと思っていないからだと思う。聴覚障害者の方と普段コミュニケーションをとることはなかなかないので、手話の必要性をあまり感じられないのではないか。
しかし、私たちから言葉を奪われてしまったら、と考えると手話の大切さがよく分かってくる。
講演を行ったり手話の重要さをもっと伝えていけば、手話にもっと関心をもつ人が増えていくだろう。
このブログの記事を読んで、私なりに少し手話通訳士の仕事について調べてみたのですが、この仕事の資格取得者の9割が女性の方でこの仕事を本業とするよりも、副業とする人が圧倒的に多いとのことでした。
社会的にとても重要な仕事なのに手話通訳士をやる人が少ないのは、ボランティアをするにしても技術が必要とされ、収入があまり多くないというのが要因となっているのではないでしょうか。
私はこの記事を読んで初めて「手話通訳者」という職業があるんだということを知りました。よく考えてみれば手話も言語の一つであるのだし、その通訳者がいるということも当たり前のことですが、私はそもそも手話について考えたことがなかったのでそういった職業があるということにも思い至りませんでした。
私は幼い頃幼稚園で童謡にあわせて手話を習ったことがあります。歌いながら手話をするのは手遊び歌のようでとても楽しかったのを覚えています。今でも少し覚えている部分もあります。しかしそれ以来手話を見たこともしたことも学んだこともほぼ皆無です。
「手話を学ぶ」ということと「手話通訳者になる」ということの間には先生がおっしゃるように大きな壁があるかと思いますが、一つはそもそも手話に慣れ親しむ機会が少ないことがあるのではないでしょうか。手話に触れる機会がもっと増え、手話通訳者という素晴らしい職業について知る人が増えれば、それを志す人も増えると思います。
たしかに、日常的なコミュニケーションをとる場合と専門的用語やニュアンスを上手く伝えることが必要な手話通訳者とでは必要な技術や経験に大きな差があると思う。もともとは、きっと特定の誰かや、近くの人とのコミュニケーションを目的として手話を始める人にとってそれを職業とするのは考えもしないことなのかもしれないが、それでも実際に必要としている人がいるので、より多くの人に存在を知ってもらい、関心を持ってもらうこと機会が必要だなと感じました。
聴覚障害者にとって手話は、聴覚障害のない人たちでいう言語です。他者とコミュニケーションをとるときに必要不可欠なものです。筆談という手段もありますが、どこかに座ってゆっくり会話するとき以外、筆談では少し不便なように思います。わたしたちは聴覚障害者ともそれなりのコミュニケーションがとれるように、みんな手話を日常会話程度でいいので覚えるべきだと思います。小学校などで教えるのがいいと思います。手話通訳者になれるほど上達しなくてもいいので、日常会話程度の手話をたくさんの人が理解できる世の中になるといいと思います。
「手話を学ぼう」とする人は多いのに、「手話通訳者」になる人は少ない、というこの記事の一文を読んで、確かにそうだなと思った。本屋に行けば手話についての本が売っているのをよく見かけるし、自分の周りに手話が少しできる、または手話をやったことがある、という人もよく耳にする。そこまで手話というものは知られていないわけでもないのに、それを手話通訳者という職業を念頭に置いて学んでいるという人は聞いたことがない。私は、聴覚障がい者が公共の場にいても、その人が聴覚障害を持っているということがほかの障がいに比べてわかりづらいということも少なからず関係しているのではないかと思う。聴覚障がいを持つ人たちが日常生活の中でどのようなことを不便に感じ、どのような場面でまわりの人からの手助けを必要としているのかを私たちはもっと知るべきだと思う。
私は今まで生きていて、学校や町など公の場で手話に触れる機会がありませんでした。聴覚障害を持つ人に関することは、テレビドラマや本からの情報しかなく、実際に手話に触れてみる機会というものがあまりないのが現状だと思います。聴覚障害者の人達がコミュニケーションを取る際、筆談という手もありますが、やはり手話ができれば便利なのだろうと思います。しかし、この記事にあったような塩分の話のような出来事が起こる可能性も十分にあるのだと思うと、手話は奥深く、やはり少し難しいもののように考えてしまうところがあります。
しかし、たとえ通訳者になるほどの技術が得られなくとも、まずは手話に触れてみることが大切なのだと思う。私たちも簡単なあいさつや日常会話ができるくらいに教育の現場でそういった機会を設けるべきなのではないかと思いました。
講義中の、「多数の聴覚障害者の中に、健聴者がいる場合、手話通訳者は、聴覚障害を持つ人のためではなく、健聴者のために存在する」というのがとても印象に残っている。わたしは、手話は耳が聞こえない人のためにあるものと思っていたからだ。そもそも、手話通訳という行為があることすら考えに及ばなかった。日常で手話を目にする機会と言えば、手話ニュースくらいで、あれは、単に一方向の情報提供であり、手話を双方向的なコミュニケーションのツールとして明確に認識していなかった。今、手話をコミュニケーションの道具として、捉えなおしたとき、手話通訳者の育成は、なにも聴覚障害を持つ人だけに重要であるのではなく、健聴者にとっても必要であるという主張は最もであると思う。外国語として言語を習得しようとする場合、最も難しいのは、実践する機会の獲得であると思う。手話もコミュニケーションツールなのだから、実際に運用する中で学ぶことが必要不可欠であるのだが、外国語の取得と同様にして、その機会の獲得が難しい、という困難があるのでないかと推測できる。だから、手話学習者のレベルに応じた交流会などを開催したり、運用メインの講習会などを行ったりしたらよいのではないかと考える。
私の母は手話通訳者の資格を持っています。通訳の仕事に行く前は記事にも書いてあったように話し手の方が話す内容に辞書を片手にひととおり目を通しています。手話通訳というのは非常に難しいものだと思います。手話では確立されていない表現もあるだろうからそれらをどのように表現するか、言われたことを手話しながらもまた言われたことを頭に入れておかなければならないということなどできればすごいことだけれどとても難しいことだと思います。難しい仕事であり、人数も少ない仕事ではあるけれどやりがいはすごいものがあると思います。なんといっても人の役に立っているという実感はものすごいと思うし、素晴らしいことだと思います。私はそんな仕事をしている母を誇りに思います。そして将来は私も手話通訳者の資格を取得したいと思っています。
テレビ等で手話を見ることはありましたが、実際に手話について深く考えたことはありませんでした。聴覚障害者の方々にとって手話は自分の意思を伝える数少ない手段であるが故に、手話通訳者の減少が障害者の生活に大きな支障をきたすことになってしまいます。この問題の解決は非常に難しいかもしれませんが、ひとまずこの状況を世間の人に知ってもらうことが重要だと思います。そして手話通訳者を目指す人を何等かの形で支援する制度を設けるべきだ、と感じました。
手話通訳者という仕事についていままであまり考えたことはありませんでしたが、健聴者と聴覚障害者の会話をつなぐことのできるとてもやりがいのある職業なのだなと感じました。私は手話通訳者は聴覚障害者のために存在するものだという考えしか持っておりませんでしたが、講義で「聴覚障害者の輪の中に健聴者が交ったとき、手話通訳者は健聴者のために必要となる」と学びあっと驚かされました。手話がわからない健聴者側が障害者となってしまうのですね。手話通訳者になる人が少ないという問題が聴覚障害者のみにかかわる問題でないということを、まずは多くの人にわかってもらいたいです。
通訳の重要性は、単なるコミュニケーションがとれるという範囲を超え、お互いの世界を広げる役割があることでしょう。私は手話通訳者、という言葉を聞いたこともありませんでした。素晴らしい役目を担う人達であると思います。やはり世間への認知は一つの課題となると思います。また習得の難しさも、文章を読んだだけで伝わってくるほどですので、大変困難な道であると思います。このような話を耳にするたび、何らかの形での支援を行っていかなければ、と思います。認知度の向上や習得制度の整理など、課題は多くあり、これらの解決は非常に困難だと思います。条例の設置は効果的な方法であると思います。
やはり知名度がなければ活動は難しいと思います。このような活動を一人でも多くの人に知ってもらうにはどうしたらよいか。将来手話通訳者の存在が当然になるためにやはり存在を知ってもらうことは大切だと思います。
※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。