ホタルと原発
この間、ある地方への出張先で、出始めのゲンジボタルに巡り合いました。そこでは、宿泊先の従業員から「東京からホタル目当てにたくさんお客さんがいらっしゃいます」と伺いました。
出張から東京に戻ったのは、福島第一原発の事故からちょうど3ヶ月となる6月11日。照明を半分に落とした羽田空港ターミナルビルから都心に入ると、さまざまな街角では「反原発」の大規模な集会やデモンストレーションに出くわしました。
出始めのゲンジボタル-淡く写る情景は日没後の天文薄明によるもの
わが国のホタル類(コウチュウ目ホタル科)は、全滅の危機に瀕していると叫ばれ続けて久しいところです。埼玉県のレッドデータリスト(2008)によれば、ゲンジホタルとヒメボタルはともに絶滅危惧Ⅱ類、ヘイケボタルは準絶滅危惧にそれぞれ分類されています。
東京都や埼玉県では、丘陵地や山間部のごく一部に生息地が残っていますが、ゲンジボタルが「乱舞する」状況には程遠く、絶滅に向かう事態は一向に改善される兆しをみせていません。埼玉県の平地部の中で比較的自然が保たれてきた「見沼田圃」でもとっくに絶滅しているように、首都圏の平地部ではすでに全滅状態になっています。
ホタルは繊細な昆虫です。農薬や生活排水の流れ込まない清流、コンクリートで固めない護岸、餌となるカワニナの棲息、人工光源のないこと(光害の克服)など、ほとんど「手つかず」の自然と生態系の保全状態が、棲息の条件となります。人間の求める開発と快適な生活条件とは矛盾する点がまことに大きい。
天文薄明のなくなった暗闇に舞うホタル
10年あまり前に埼玉県桶川市の障害者計画の策定に取り組んでいた頃、地域のNPO
が桶川市内に残る清流を活かしてホタルの再生に取り組んでいました。その結果は無残な失敗に終わりました。
写真家で作家の宮嶋康彦さんは、「『ホタルで町おこし』の大きな間違い-“環境ブーム”が引き起こした取り返しのつかない自然破壊」(日経ビジネスオンライン、2008年7月29日、http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20080729/166518/)において、ホタルをめぐる各地の浅はかな取り組みへの警鐘を鳴らしています。
これによれば、料亭などの求めに応じてホタルが1頭(ホタルの数え方は「匹」ではなく「頭」)あたり150~200円で売買されるため棲息地のホタル乱獲が野放しであること、ホタル再生を目玉にした「町おこし」に必要なホタルさえ業者の乱獲による「ホタルビジネス」が展開されていることなど、耳を疑うような現実を知ることができます。
ゲンジボタルの遺伝的特質と餌となるカワニナをめぐる問題は、とりわけ深刻です。
ゲンジボタルは、地域ごとに異なる遺伝的特徴を持つために、他の地域から持ち込んだホタルを放っても、生き残ることはほとんどありません。たとえば、西日本のゲンジボタルは約2秒間隔で光るのに対し、東日本のそれは約4秒間隔であるそうです。
「20年前に作ったホタルの里に光はない」と宮嶋さんが指摘するように、それぞれの地域ごとの生物による取り組みを真剣に重ねた度合いに応じて、ホタル再生の未来にはじめて接近することができるのです。このあたりは、地域福祉の取り組みと全く同様ですね。
餌となるカワニナについては、かなり絶望的な問題が明らかになってきました。カワニナと区別できないほどよく似た外来の水棲巻貝であるコモチカワツボが、すさまじい勢いで全国に広がってしまったため、ゲンジボタルはカワニナと間違えてそれを食べてしまうのです。すると殆ど光らなくなって、繁殖に必要不可欠な光による雌雄間のコミュニケーションができなくなり、全滅への勢いを加速させているというのです。
光害によるホタルのコミュニケーション不全に加えて、ホタル自身が「光れない」のですから、「個体と環境の相互作用によって生起した生きていく上での困難」(ICFの障害概念と同様)を生み出した人間の責任ははかりしれないというべきです。
ホタルの名所で有名だった栃木県那須塩原の「蛍ケ谷」は、コモチカワツボによってホタルが絶滅しました。コモチカワツボは繁殖力が絶大で根絶することが不可能と考えられているため、日本のホタルの絶滅はもはや回避できないという見方さえあるほどです。
山奥の道路のいたるところに照明をつけ、「環境にやさしいオール電化」などと浅薄な「エコビジネス」を推進してきた背後には、「二酸化炭素を排出しない原発の推進」が据わってきました。
観光地の夜間照明に苦しむゲンジボタル
今回の私の出張では、今の時節の「ホタルを売り」に観光客を呼び込む宣伝をしておきながら、観光地の光害は野放しのままにする不見識な現実に出くわしました。
電気をジャブジャブ使いながら便利さと快適さを追い求める都市型生活を改めることなく、東京からは「ホタル目当て」の観光客が、遠路はるばる懐中電灯を手にしてホタルを見に訪れる。ホタルにとってこれほど迷惑な話はなく、ホタルの尊厳を根底から傷つける人間の無責任さは極限に達しています。
このようにみてくると、多くの子どもたちにとって、学校の卒業式で歌う「蛍の光」や童謡の「ホタルこい」がもはや見たこともない「幻の虫」の歌である深刻な事態に、先行世代は真剣に向かい合うべきでしょう。
先述した宮嶋さんの論説には、「ある原発の排水溝にコモチカワツボが大繁殖している」との指摘がありました。この短い一文の中に、これまでの社会経済構造に関する反省課題の一切が含まれている気がしてなりません。
コメント
現在、各地で進む都市化の影響でホタルの生息域が狭まってしまい、多くの子どもたちにとってホタルが「幻の虫」になってしまっているのはその通りだと思います。実際、僕もホタルをみたことがありません。確かに便利さも必要だが、東京からわざわざ遠くまでホタルを見に行くくらいなら環境に気を配り、人工的に放たれたのではなく、天然のホタルを東京で見れるようにしてほしいです。いつか、都会で電灯ではなくホタルで光っているところができたらいいと思いました。
6月15日の講義を受け、ニュースで虐待が起きた家庭の隣人が「まさかあのお宅が…」とコメントすることについて考えました。
自分は児童相談センターが隣人の通報を呼びかけることの裏側には、互いのプライバシーを重視するあまり隣人であっても声を掛け合いづらく、他人として扱ってしまう事情があり、単身世帯の孤立はこういったことからも起こってしまうのではと考えました。
今までの授業を受けてきて、私は虐待に関する考えが変わった。今までは、単に虐待を受けている子どもたちだけが「被害者」なのだと考えていた。
今はしかし、実はそうではなく、親も「被害者」なのだと考える。虐待をする親の中には、自らの行為に罪意識を感じて苦しんでいる者もいる。苦しみ悩みながらもこういった行為にかりたたせるものは、そういった親たちを取り囲む環境であり、もっといえば、そういった親たちを救えずにいる今の世の中だと考える。
蛍が幻の虫、となること。
それは近い将来に実際に起こりそうで、人間の環境に対する無責任さに悲しくなります。
私自身、田んぼの中で20年弱生活してきましたが、小さいころ田んぼにはたくさんいたホタルやホウネンエビを今ではほとんど見かけることがなくなりました。
このような美しい環境が目の前で破壊されていっているのを黙って見過ごすような真似はできません。
自然破壊を食い止めるには、これまでのさまざまな環境に対する偽善活動を反省し、絶滅危惧種のような生物と共生していくためにひとりひとりがきちんと考えるべきなのではと強く感じています。
そうしなければ、きっと将来私たちも同じような目にあうのでしょう。
今回の記事を見て現在の蛍事情について初めて知りましたが、「ホタルビジネス」や日経ビジネスオンラインの記事に載っていた、ホタルを見るために何百人もの人が並ぶ写真には愕然とさせられました。すべて人の都合に合わせてホタルが使われているように感じたからです。
町おこしとしてホタルの住める環境を作ろうというのも、聞こえがはいいですが、なんだか人間の身勝手なような気がします。先生も書いていましたが、日経ビジネスオンラインによるとそういった町おこしが成功した例はほとんどないそうです。環境を作るのではなく、環境に手をつけず、放っておくことも大切だと考えます。ホタルを使った町おこしの成功の乏しさがそれを証明しているのではないでしょうか。
私は卒業式で「蛍の光」を歌いましたが、考えてみれば、私自身、蛍を実際に見たことはありません。一番の問題は、蛍がいなくなっていることではなく、蛍が棲息できないほど環境が悪化していることだと思います。
ほとんど手つかずの自然にしか生きられないということは、言い換えれば、蛍がいる土地は環境が良い状態で保全されているということになります。重要なのは「蛍を守る」ことではなく、「蛍が生息できるくらいに環境を良くする」ことなのだと思います。業者の乱獲によるホタルビジネスなど、もってのほかです。蛍が消えていくことから気づかされるのは、私たちがどれだけ自然環境を傷つけてきたのか、ということです。
人間が快適な生活を求める場所で蛍の再生を目指すことは難しいかもしれませんが、快適な生活と持続可能な生活が必ずしも一致しないことはすでにわかっています。私たちの次世代の生活の守る上でも、生物の絶滅の問題は私たちが真剣に向き合わなければならない問題だと思いました。
私の住む地域にはまだちらほらとホタルが飛んでいる姿を見ますが、その飛んでいる姿を見られる場所もかなり狭い範囲に限られているし、「乱舞している」といった状況を見たことはありません。
今の状況ではホタルが幻の虫となることはそんなに先のことではないのかもしれないと感じ、ホタルがいなくなってしまうという虚しさと私達人間の無責任さに憤りを感じました。
人間が考えている「美しい自然」とは、人間を中心に考えた人間に都合の良い「美しい自然」であって、その考えをもってホタルの絶滅を食い止めるということはできないのではないかと考えました。
またホタルと原発の関係もこの記事の中で知り、今日非常に問題となっている原発についてもっと積極的に1人1人が考えていかなければいけないと感じました。
私の実家の周辺にもホタルの里があるが、観光客が持ってくる懐中電灯やごみ等によって、環境が汚染されたり光害が起きることでホタルの数が減少しているそうだ。この状況では、近い将来本当にホタルは絶滅してしまうかもしれない。その土地の環境が美しい証拠として生息するホタルを、ホタルビジネスとして町おこしや金儲けに利用するのではなく、その環境を維持できるよう、人間は身勝手さ反省し、自分たちに何ができるかを真剣に考えるべきではないか。
私は、小学校の中学年のときに蛍の絶滅を防ごうとした活動(?)に参加したことがあります。その内容は蛍の幼虫を実際に成虫まで育てて野生に返そうとゆうものでした。蛍を育てるのに餌となるタニシやカワニナを探しに川へ行ったり、水をこまめに換えたりと、とても苦労した記憶があります。なので、とりわけブログに書かれているような蛍をビジネスにして乱獲していることや観光客が光に弱い蛍へ光害をもたらしていることなどの現状に落胆しました。
蛍が生息するスポットの近くには街灯を作らない、蛍の乱獲に対して条例などで規制を設ける、などの何らかの手をうって今後の子供たちのためにも蛍の絶滅を防いでほしいと思いました。
現在の日本では、何かにつけて「環境にやさしい」「省エネ」などの言葉を目にします。また、原子力発電は、「環境にやさしいクリーンエネルギー」と謳っています。私も実際そうだと思っていました。しかし、先生の記事を拝見してこの考えに疑問を抱くようになりました。環境にやさしいはずの原子力発電所の近くには、大量のコモチカワツボが生息していて、ホタルにとっては害となっています。結局は、人間の自分勝手な環境保護によってホタルが絶滅してしまうかもしれない、「幻の虫」となってしまうかもしれないというのは、あまりに無責任であると思いました。
本当の意味で環境に優しいとはなんなのかを一人一人が考えていかなくてはならないとこのホタルの例を読んで考えさせられました。
僕が生まれた地域にはホタルは生息していませんでした。なので生まれてから一度もホタルを見たことはありません。だからといって、ホタルの里に観に行こうと思ったこともありません。ホタルが絶滅寸前でありどこにでもいる虫ではないからこそ成立する「ホタルの里」ビジネスではありますが、このようなことをしている限りホタルにとって安心な生息地はどんどんと減っていくように思えます。観光で儲けようとするのも、単純にたくさんの人にホタルを見てもらおうとするのも、ホタルにとっては迷惑な行為にかわりはないでしょう。このことをよく考えてこれからの日本のホタル存続について考えていきたいと思います。
僕の育った故郷では、昔は夜になると蛍が川のほとりにたくさん集まっていて、とてもきれいな光景がありました。しかし、近年ほとんど蛍がとんでいるところを見なくなりました。便利さと快適さを追い求めるがゆえに蛍が住める環境がなくなってしまうことに、僕たちは真剣に考えなくてはならないと思います。これからの世代の子供たちにとって蛍が「幻の虫」とならないようにするために、自分たちに何ができるかを話し合い、自然と生物と人間がよりよく共存できるような暮らしを目指していかなければならないと思います。
ホタルビジネスで町おこしをしようとするのは悪くはない。実際、若者の地方離れが進んでいるからである。しかしそのせいで蛍を増やすどころか、観光客や主催者による生態系の破壊により、蛍の数が減少するのはまったく愚かである。その愚かな行為により、蛍が「幻の虫」となるのは近いのかもしれない。大切なのは蛍の生態系を守りつつも、蛍と触れ合うことである。また原発のことについて、最近は世間では収束ムードであるが、自体は3月のあの日からまったく変わってないことを忘れてはいけない。
ホタルが絶滅の危機に瀕しているというのは、都市化を推進する現代日本の悪影響によるものであり、大きな問題であると思います。人間が利便性を求め都市開発を行うのはわかるが、その一方で環境保護について改めてしっかりとした認識を持つ必要があると思います。また、ホタルを売りに町おこしをしておきながら、それ目当てで訪れた観光客を野放しにしておくというのは、本当に許しがたい事実だと思いました。
僕は今まで旅行先で一度しかほたるを見たことがありません。考えてみても僕の地元にほたるが住めるようなところはありません。この記事にほたるが住むのはほとんど手付かずの自然だと書いてあってすごく大変なことだと思いますが、ほたるの住めるような自然に戻せるようにすることがほたるのためだけでなく、地球全体のためになると思うので、まずはできるだけ多くの人がこの現実を知っていくことが大切だと思いました。ほたるの住む場所をまた作るにはすべての人の理解が必要不可欠だと思いました。
僕の地元は東京都なんですが、一度もホタルを見たことがありません。今回震災があって、人が住みやすい環境を作ろうとして発展させてきた技術などが、本当に正しいものなのか疑問に思いました。冷房を使うことによって涼しくはなるが、地球温暖化は進むし、電気をたくさん使うために発電所を作る。多くの動物が今、環境汚染という問題に悩まされてると思います。エコエコと世間は騒いでいますが、何でも節約すればいいという浅はかな考えではなく、もっと一人一人が環境などについての知識を得ることが必要だと思います。
私は夏になると自宅のすぐ裏の水路に飛ぶ蛍を見ていたので、割と蛍は身近な存在ではあった。しかし最近は地元の自治体で「蛍が少なくなっているから保護しよう。」という動きがあり、実際に蛍保護のための条例を作り、「蛍が舞う地区」として保護活動に動いているようだ。しかし、保護活動が活発になる前は地元、それも近所の人が眺めるものであった蛍が、若干言い過ぎかもしれないが観光資源の様相を示している。それに伴い、当該地区においてポイ捨てされるごみの増加や、これは観光客とは限らないと思うが、蛍の捕獲が問題になっているようだ。確かに今のご時世、積極的な保護活動なしでの蛍と人間の共存は難しいと思う。しかし、保護活動をしたことにより蛍の見物客が増え、新たな問題が浮かび上がってきた気もする。本当の意味での「保護」とはどういう言うものなのかというのを私たちも考えていく必要があると思う。
“エビで鯛を釣る”
ということわざは「少ない元手で多くの利益を得る」という意味ですが、この記事にあるホタルビジネスを企てた人たちはまさに
“ホタルで人間を釣る”
ことにしか頭が回ってない気がします。当然ホタルを売りにすればその地域にやってくる観光客は多いとは思いますが、ホタルがいなくなったら観光客が減っていくのもまた事実です。各地で行われるその繰り返しによって、ホタルの数は激減していったのでしょう。
やはり何事にも「持続可能な開発」というのは大切なことだと思います。ホタルの場合は、ホタルの棲息する環境をどれだけ元の状態のまま保ち続けられるか、そこに地域の住民がどれだけ時間と労働力と費用をかけられるか、にかかってくると思います。最初はエビで鯛を釣ったとしても、そこからはやはり毎日の地道な努力はかかせないものです。好き勝手電気を浪費しては、環境に悪影響を与えている人間たちが、ホタルの光までも奪っていくのは確かにホタルの尊厳を根底から傷つける行為だと思います。残り少なくなっているホタルだけでも各地で保護運動を続けていってほしいものです。
ここ数か月、福島第一原発の事故により節電が謳われている。不謹慎かもしれないがこの大震災は私たちの便利すぎる生活を見直す良いきっかけになったのではないかと思う。
しかし2008年に警鐘を鳴らしていた人がいた、この蛍の件をきっかけに本当はもっと早くからこの生活を見直さなくてはならなかったのではないかと思う。
蛍から見れば手遅れかもしれないがこの大震災をきっかけにもはや「節電」などという言葉が使われない位にまで、電気を使わない生活になればいいと思う。
私の住んでいた地域はとても自然が多く、家の前の川にホタルがたくさんいました。だから、このようにホタルが一匹150~200円で売られているという状況にとても驚きました。こんな状況ではすぐにホタルは乱獲され絶滅してしまいます。そして、ホタルを見たことがない子どもたちすら出てきてしまいます。
だから、こんなことがないように、一人ひとりができる、「保護」を考えていかなければいけないと思いました。
現代のエネルギー浪費社会は「環境にやさしい」や「クリーン」など聞こえの良い事を唱え、自分達の生活を向上させようとしています。
しかしそのような活動がホタルなど他の生物を絶滅に追いやろうとしている事実についてはふれようとしません。
本当の意味での「環境にやさしい」とは何なのか、恩恵を受けてきた自然とこれからどのように共存していくべきか。
この事について考え直さなければならない時が来たのではないかと感じました。
実物の蛍を見たことがない。そんな人が近頃増えているのではないでしょうか。私もその内のひとりです。そんな私には、「蛍の光」はすでに幻の虫の歌のように思われます。
今回の東日本大震災に伴う福島第一原発事故を機に、我々日本人は、ホタルを絶滅の淵に追い込んだかつての生活を見直さなければならないと感じました。
僕も6月の反原発デモを渋谷でみました。そこでは多くの人が反原発デモを行っていましたが、電力の大部分を原子力発電でまかなっている現状原発に頼らなければならないと思います。潮力発電などの新技術をもっと発展させれば環境にやさしい発電も可能になるとおもいます。
また蛍は都市開発の影響など環境の悪化により見ることが難しくなってきていますが、蛍の住める環境をとりもどすためにもやはり一人一人が環境にやさしいエコな生活をしていかなければいけないと思います。
ホタルビジネスには、どうも人間の浅はかさと浅ましさが見え隠れしてなりません。自分で自然環境を破壊しておいて、ホタルを「保護」するとは、あまりにも自分中心なものの考え方ではないでしょうか。しかも、そのホタルを町おこしの材料にするとは。
それはすなわち、人がたくさん訪れるということであり、自然環境がますます破壊されるということに他なりません。あるいはホタルの保護を目的にこう言った企画をしたのかもしれませんが、これでは本末転倒というものでしょう。
自然環境の破壊という点では、原発の開発もまた見逃せません。人類には決して使いこなせない力を無理やり自分達の利益のために使った、その報いをいま私たちは受けています。
これだけ自然保護が叫ばれているにも関わらず、私たちはあまりにも自然に対して傲慢でありすぎるのではないでしょうか。私たちは自然に対して無力であること、「生かせていただいている」という意識を今一度持ち、謙虚になることが今求められていると思います。
私は昔、旅行のツアーのようなもので蛍を見ました。それはとても綺麗で、蛍が色々な場所で見られれば良いのにと思いました。しかし、環境のために今の便利な暮らしを止めて、昔のような暮らしをすることは難しいと思います。蛍も見たいし、今の暮らしも止められないといのは人間のとても勝手な考え方です。
今のような生活の仕方、考え方のままでは環境は良い方向にはいかないと思います。本当に環境のためを考えるのならばもっと人間が負担しなければならないではないと思います。
この話を聞いたときある話を思い出しました。これはある、介護福祉施設の方のお話です。
『ボランティアをしたいと言ってくれる学生は素直にうれしい。けど、継続的に行ってくれないボランティアは、ありがた迷惑になりかねない』
というものです。
現代の社会は目の前にあるものに一喜一憂しがちで本質を見失ってしている気がします。その社会のひずみとして表れてくるのが虐待であったり,この様な自然破壊であったりするのかもしれません。
もちろん、感情を大切にし、行動する事は大切だと思います。
しかし、その行動の方向性を定めるにあたって、説得と納得という2者の関係から、共鳴という他者に良い影響を及ぼす、より多角的な関係を築くことが求められているのだと感じました。
自分の地元の沼にもかつてはホタルが生息していたという話を聞いたことがありましたが、実際に自分の目では1度も見たことがありません。ビジネスのための乱獲など、人間の勝手な都合で自然界が破壊されるのはほんとにあってはならないことだと思います。
未来の子供たちがホタルのことを全く知らずただ語り継がれるだけの生物にならないように、自分に何ができるかわかりませんが微力でもやっていきたいです。
私自身、本物のホタルを見た記憶がありません。子ども達どころか、成人を迎えるような私たちの世代にとってすらホタルは「幻の虫」と呼んでも差し支えないでしょう。
これまで人類は、開拓を続け都市化を目指し、快適な生活を追い求めてきました。そしてそれは他方で環境破壊を引き起こしています。絶滅してしまった動物も少なくありません。そして今、夏の風物詩であるホタルが絶滅の危機に直面しています。
ホタルはほとんど手つかずの自然に生息する生き物ですから、そもそもホタルを町おこしに使うというのが無謀だと感じます。本当にホタルを再生させたいと思っているのなら、街灯を外し人を無闇に立ち入らせないようにするべきです。また外来種のコモチカワツボの繁殖の食い止めにももっと尽力するべきです。得てして外来種は繁殖力が強く、国産種を絶滅に追いやることが多いです。
これは環境科学や生態学の方面からもホタルの復興に力を入れていくべきだと考えます。
わたしは東京都の出身であるが、比較的田舎で育った。自分の住んでいる地域には蛍の姿は見られなかったが、少し山の方に入ると少ないながら優しい光を放ち飛んでいたものである。この記事の最終段落の「ある原発の排水溝にコモチカワツボが大繁殖している」という指摘の通り、蛍の減少は人間が本来無かったものを作ったことによるものである。新しいものを作ることで、前からあったものは消えていく。悪いものが消えてゆく場合もあるが、良きものが消えていく場合も多々あるのだ。しかし人間は目先の利益だけに捉われて、新技術を導入したりする。わたしたちの代は、まだ大丈夫かもしれない。しかし、原発にしろ、都会化にしろ、いつか代償を払わなければならない時が来るのだ。そのことを考えて、人類は生きてゆくべきだと思う。
私の地元では、毎年この時期になると少ないながらも近所の川辺でホタルがちらほら見られます。去年までは見にいってましたが、今年は帰れそうになく残念です。そこはホタルの観光地ではなく、ただ自然のままにホタルが飛んでいます。だからこそホタルは未だ変わらぬまま住み続けてくれているのでしょう。それを町おこしに利用してしまってはホタルはいずれ消えてしまいます。ホタルはありのままでいさせてあげるべきだと私は思います。
私も蛍という昆虫は昔から知っていますが実際に見たことは一度もありません。このように人間の活動のせいで絶滅しそうになっている生物がいることはとても悲しいことだと思います。そして自分たちの手で絶滅寸前まで追いやりながら、今度は保護しなければとあわてる―もちろん絶滅しないほうがいいのですが―私たち人間はとても自分勝手だと思いました。
私は小学生のころ、車で一時間半ほどの場所へホタルを見に行ったことがあります。そこではこの記事に書いてあるような商業目的を主催者側から感じることは一切ありませんでした。いま考えると、お金を取らずに環境を維持していたということが信じられません。このように商業目的でなく、本気でホタルを守ろうとしている人たちがいるのに、一部の心ない人間のためにホタルが生存可能な環境を失うことは絶対にあってはならないと思います。
また、普段ホタルを絶滅に追い込むような生活を送っている私たちが、ホタルを見て喜んでいるというのは、身勝手な行為だと思います。私たちは、原発に頼ることなく、自然を破壊しないという本当の意味での「環境に優しい」生活を送るように考えと行動を変えるべきだと考えます。
僕の生まれ育った地元にはホタルがたくさん生息していました。しかし、最近その山に様々な建物が建ってしまい、ホタルがどんどん減ってしまってきています。人々が住みよく暮らしていくためにはしょうがないのかもしれないけど、僕はもう少し、そのような自然のこともしっかりと考えたうえで、行動に移してほしいと思いました。この地球に住んでいるのは人間だけではないのだから、もっと自然と共に生きるということを考えてほしいです。
実際、今まで自分は蛍をこの目で見たことがありません。 人間と同じ重さの命があるにもかかわらず、蛍は絶滅へ向かい、人は繁栄へ向かうことは間違っていると思います。
幸い、人間には他の生き物より優れ、考えることができる脳が備わっているのだから、私たちは人間以外の生命についてしっかり「考え」、時間はかかるかもしれないけど、地球上にたくさんいるであろう「人の手によって絶滅の危機に瀕している命」に関しては人間が責任を持って守り、助けていかなければならないと思う。 いつか、都会でも蛍が見れる、そんな日本になってほしいと思います。
私の地元は東京なのですが、ホタルが出現する、湧水からなる川があります。おそらくもうすでにホタルはいませんが、昔はちゃんといたらしいです。人間によって弱い生物が苦しんでいくというのはあまりにも不憫だと思います。過度に快適な生活を求めることは間違いだと思います。その例が現在の原発問題だと思います。
さまざまな節電が行われていますが、あまり気にならないことも多いです。今回を機に環境に配慮をした発展をしてほしいと思いました。
今、本当にホタルは絶滅しかけているのだと私も思います。子供の頃は町内行事で近くの田んぼにホタルを見に行ったりしたのですが、今ではその場所もホタルが見られなくなりその行事もなくなりました。それは寂しいことだと思うし、それだけ環境の悪化が顕著なのだと改めて理解ました。
ブログで見るまで知りませんでしたが、今ではホタルを乱獲し、高く売りつけるホタルビジネスがあるといいます。確実にホタル絶滅に拍車をかけているこのビジネス。ここからホタルを買い得て、ホタルを観光や町おこしや人集めの道具にしている所はホタル絶滅への一手を担ってしまっているのだと自覚して止めてほしいと思いました。
私は栃木県出身ですがホタルは身近な存在でした。この記事を見てホタルが「幻の虫」となってきていることを聞いて非常に無念な気持ちになりました。
しかしいわゆる「幻の」生き物になりつつあるのはホタルだけではないという事実もあります。このように「幻の」生き物を作り出しているのはすべて人間の活動といっても過言ではないといえるでしょう。このような現状を個人でどうとらえるかがこれからの課題ではないかと考えます。
ホタルビジネスには、どうも人間の浅はかさと浅ましさが見え隠れしてなりません。自分で自然環境を破壊しておいて、ホタルを「保護」するとは、あまりにも自分中心なものの考え方ではないでしょうか。しかも、そのホタルを町おこしの材料にするとは。それはすなわち、人がたくさん訪れるということであり、自然環境がますます破壊されるということに他なりません。あるいはホタルの保護を目的にこう言った企画をしたのかもしれませんが、これでは本末転倒というものでしょう。
自然環境の破壊という点では、原発の開発もまた見逃せません。人類には決して使いこなせない力を無理やり自分達の利益のために使った、その報いをいま私たちは受けています。
これだけ自然保護が叫ばれているにも関わらず、私たちはあまりにも自然に対して傲慢でありすぎるのではないでしょうか。私たちは自然に対して無力であること、「生かせていただいている」という意識を今一度持ち、謙虚になることが今求められていると思います。
現在料亭や町おこし事業などで「ホタルビジネス」が行われ、ホタルが乱獲されていることに衝撃を受けました。人間が「町おこし」などと銘打って、自分の利益のために貴重な自然を破壊し、取り返しのつかない状況にまで追い込んでしまいました。この責任を人間は一体どうやって取ろうというのでしょうか。
これは他人事ではなく、私たち一人一人が考えなければならない問題です。ホタルの絶滅という問題をきっかけに、自然保護と社会発展、この二つを並行しながら、自然との共生について私たちに何ができるか考え、努力していかなければならないと思います。
私は長野県出身です。私の生まれた長野県でも、小学生ころまでは毎年この時期になると蛍を見ることが出来ました。しかし、近年その蛍の数も減り、今ではめったに見ることができなくなりました。人間は「蛍を川に戻す」と言って様々な工事を施し、様々な策を講じていました。
しかし、私が思うにそれが蛍を川から遠ざけた理由だと思うのです。自然生態系の保護は必須の問題ではあります。しかし、確かな知識なく「保護」という環境破壊を続ける人間たちがいるのは事実です。生物多様性、生物の保護が叫ばれている近年、生態系を守っていくために必要なのは人間が自然のためを思い、自然との着かず離れずの距離感を測っていくことであろうと私は考えます。
蛍っていつぐらいに飛んでると思う?
と、先日幾人かの友人に聞いてみたのですが一番多かった答えが
「夏っていうイメージがあるから8月とかお盆くらい?」
といった答えでした。
蛍が飛び回るのは6月位の時期で、これは初夏に当たります。今多くの人が「蛍=夏の虫」程度の認識であり、実際に見たことのない人口の割合が非常に高いという事を改めて実感しました
私は小学校低学年まで祖母の家に――岐阜県を流れる長良川の上流地域に住んでいたことがあるのですが、その頃は初夏になるとぼんやりとした薄緑色の光が、さらさらと夜風になびく稲の上をゆらゆらと彷徨う光景を当たり前のように見ることができました。
しかし、今は蛍たちが生息場所を移してしまって前ほど簡単に見ることはできないそうです。
理由は河川の護岸工事。
その工事によって川辺で繁殖していた蛍が定着しなくなり河のすぐ近くにある祖母の家の方にも飛んでこなくなったのだと祖母は言いました。
「蛍が飛んでこんようになるといかんから、農薬もあんまきついの使わんようにしとったのになぁ」
そういう祖母の顔はひどく残念そうでした。
だからと言って、護岸工事を責めればよいかというとそうではありません。
そもそもその護岸工事が行われたのは1959年(昭和34年)9月26日に日本を襲った伊勢湾台風がきっかけで、その際浸水した過去から40年近くかけて徐々に河川の護岸工事を順繰りに進めてきたという事らしいです。
つまり、住民の生活の為という事になります。
特に祖母の家のエリアの河の流れは河川がカーブしていることもあり大水の時の浸食が非常に大きい地域だそうなので、護岸工事も厳重にやらざるを得なかった。
……ヒトの生活の維持と変わらない景観を維持するという2つの立場はお互いに非常に両立しがたい考えであると感じました。
ホタルは自分が小さいときによく近所や親せきの家のすぐ近くでよく見ました。それだけに最近あまり見えなくなるのは少しさびしいです。自然生態系に対する保護やそれに対する知識を身につけてホタルのような生物が生息しやすくなるような環境づくりが大切だと思います。
人間が住みやすくなるような環境作りが正しくないということではないが、そういう開発がいろいろな生物を住みにくくし追いやる形でわれわれ人間の生活が発展していってると思います。人間の生活の発展とホタルの生息は反比例していると思うので、そこら辺を考えて開発などをしていってほしいと思います。人間が保護などという言葉を使って自分勝手に開発していき、ホタルを追いやっているとも思いました。いつの日かまたホタルが飛び交っている光景が見れたらいいなと思います。
私の実家の近くにある公園も「ホタルの里公園」という名前の通り、かつてはホタルがたくさん見れる場所でした。しかしここ数年はその姿を全く見れなくなってしまいました。その公園の沼には湧水が出る場所があって、水がきれいだったからホタルが生きれたけど、ここ数年の水質汚濁でホタルが住み着けなくなってしまったのかもしれません。
私は家の周りのほとんどを、田んぼや畑、山などの豊かな自然に囲まれていたため、幸運にも幼少のころより変わらず、夏にはホタルを見ることができました。そのため蛍には人一倍思い入れがあります。
最近よくこのような蛍が危機に瀕しているといった内容の記事を見かけますが、その時は悲しくなると同時に、環境破壊を続ける人間に怒りさえ覚えます。
蛍が幻の虫、となることがないよう何らかの対策を一人一人考えて行っていくべきだと思います。
私は生まれてこのかた蛍を見たことがなく、蛍についての知識もほとんどなかったので、今回の記事を読んで驚くことばかりでした。特に、蛍が人間の利益を得るための手段に使われていることに衝撃を受けました。
蛍に限らず人間は、様々な生物を絶滅の危機に陥れています。人間の生活が豊かになっていく一方で、他の生物に影響が出ることは忘れてはならないことだと思います。日々の生活の中で、少しでも環境に害のない行いを心がけていきたいです。そして、私がおばあちゃんになっても”蛍の光”が見れることを願います。
私は今までに1度だけホタルを見たことがあり、当時感じた感動はなんともいえないものでした。現在ホタルの数は各地で減る一方で、ホタルビジネスなるものが展開されているということに、驚くとともに、人間がやることはいつも自分勝手な、その瞬間のことしか考えていないのだとつくづく感じます。ホタルを守り、また自然環境を保護していくために、今まで人間が行ってきたことを踏まえ、本当にするべきことは何なのかを考えさせられた気がしました。
これまでに人間が環境に対してしてきた、取り返しのつかない数々の行いを完全に払しょくすることはできないけれども、将来の人たちに、少しでもこの負の遺産を残さないよういかに対策をとっていけるのかが、今生きる人々に課せられたテーマだと思います。
ホタルという生き物を考えるところから人間の矛盾、傲慢さにつながっていく考え方がすごいと思いました。確かに、以前に比べて豊かな自然に触れ合うことができる子供は減ったと思います。そのことを、各々がどう考えていくかというのは大きな問題だと思いました。
今回の原発事故がきっかけとなってまた考え直すことができれば、悪いことの中からでも良いことを見つけられるそんな強い社会になるのではないかと思います。
ホタルは幻の虫として扱われているかもしれませんが自分の地元には夏になるとよくやってきて、観光客も多く訪れるような場所です。しかしそんな中でもやはりホタルの減少は食い止められず、地元組合がなんとか防ごうとしています。
ホタルの住める環境を奪っているのは間違いなく人間の生活です。また、ホタルが本当の幻の虫になってしまうのを防ぐのも人間の役目です。われわれ一人ひとりが環境を守るためにどう生きていくか考えて生活しなければならない。
僕は、蛍が飛んだあとに残る光の筋がとても好きで、祖父の家に行った時は、必ず蛍を見に行きます。最後に見に行ったのは2年ほど前でしたが、何十頭もの蛍がきれいに飛んでいるのを見たことを、まだ覚えています。
その祖父方の家が宮城県の気仙沼の近くにあり、津波の被害はなかったそうなのですが、今年もきれいな蛍が見れるのか、とても心配です。
蛍の住める環境というのは、自然環境だけではなく、それを維持する人と、蛍を守ろうとする人々のモラルのある環境も必要なのだと、この記事を読んで思った。
私は小学校のときに、学年の活動として、校庭の隅に用水路のようなものをつくり、そこにホタルを呼ぼうという活動をしていたのでこのブログに興味をもちました。
結局私たちはホタルを呼ぶことができずに、卒業し、その後もホタルが来ることはなく、ホタルの住む環境づくりがどんなに大変かを知っているので、ブログに書いてあることが現実に起こっていると思うと大変つらいです。この震災により、人々が結束する一方、我先にと自分のことを優先する人が増えているのも事実だと思います。
ホタル、久しく見ておりません。
便利な生活を求めながら自然を再生させるということはやはりできないですね。
宗澤先生のこのコラムを拝読して改めてそう思いました。
町おこしと業者の乱獲、この二つが密接に結びついているとは私もにわかに信じられません。しかし、視点を変えてみれば善とされる活動の数々にこういった裏があるのかもしれません。メディア、情報が善とする事柄に対して我々も常に真実を見ようとする目を日ごろから養っておかなければならないと思います。
この記事を読んで、人間の行動の矛盾というものをひしひしと感じた。今日様々な地域で「町おこし」が行われていて、数少ないホタルの生息地がホタルを「町おこし」に利用しようとする気持ちは分かる。
しかし、この人間の自分勝手な行動が、ホタルを絶滅の危機に追いやっているということをもっと深刻に受け止めるべきだと思った。人間の利益だけを追求すると、環境に影響を与えてしまうことは当然である。環境破壊防止を目指す現代社会において、環境の変化に敏感なホタルと、人間の共存という難しい問題に日本は向き合っていくべきだと思う。
私の住んでいる場所は父の育った場所でもあるのですが、父によると「小さい頃はよくここでも蛍が見れた」そうです。今は住宅ばっかり並ぶ私の家の周りで、私自身は一度も蛍を見たことがなく、羨ましい気持ちと、どこか切ない気持ちになりました。
いつから人間は、他の生物の住処を奪うほど偉くなったのでしょうか。いろんな視点から物事を捉える力が重要なのだと思いました。蛍を増やそうとする運動の裏で、また自分の住処が奪われている種があるかもしれません。
田舎に住んでいたころ蛍が大好きだった。小さな体から発せられる不思議な色は本当にきれいだ。しかしダムの建設が近くで始まると蛍の姿は見ることができなくなってしまった。人の集まるところにはどうしても他の生物には居づらい環境となってしまうかと悲しくなる。
それでもできるだけ人と自然が共存できるような環境づくりを考えていかなければならないと思った。身近な環境の変化に注意していくことも現状を知る一歩となると思ので視野を広げていきたいと思う。
今日本には様々な所に街灯が設置されており、設置の必要性のなさそうなところにも設置してあります。原発事故によって電力供給のことが問題になっていますが、その問題はほぼ昼間のピーク時によるもので夜間では電力が余っています。その電力を使うために国や会社は街灯などを増設しているのだと思います。
今回の事故を機に原発の必要性や生態系・環境保全についても考えていく必要があると思います。
私は地方出身で、蛍は子供のころから身近で見ていました。しかし、私の地元も最近では都市化が進み、蛍を見る機会が減ってきています。こどものころから親しみが深かった地元の自然が失われてきていると思うと、さびしい感じがします。大切な自然のためにも、保護には力を入れるべきだと思います。
日本は戦後、急速な勢いで発展を遂げ、都市化は進み、遂には、世界経済をけん引するほどの経済国家となった。しかし、その反面、失ったものも多い。その代表的な例が自然である。今や、環境問題は世界単位で重要視されているが、まずは、自分の国から改善していかなければ、世界単位での回復は見込めない。「人間に都合の良い自然」ではなく、「本来あるべき自然」を大切にしていかなければならない。ホタルを見たことが無い私のような若者にとって、ホタルが幻の虫とならないよう努力することが、日本国民にとっての義務であると思う。
私はまだ、ホタルを見たことがありません。今は東京に下宿しているので、東京でホタルを見るなんて絶対に不可能だと思っていました。正直なところ、そもそもホタルは、戦時中によく見られて、もはや過去のものだとさえ認識していました。こういった認識が生まれたのも、元をたどればすべて人間に原因があります。ホタルを目的とした観光ビジネスが生まれてから、ホタルの格式高さがさらに失われてきたと感じました。非常に寂しい気もします。絶滅危惧種であり、日本国民のだれもが知っている「蛍の光」の歌で歌われている以上、より一層ホタルの保護に力を入れなければなりません。
ホタルが「幻の虫」となる。
それは、わたしたちの今の生活から考えられなくはない未来であるし、現実的にそうなっている地域もある。
人間がホタルを見るために人工的にホタルの住みやすい環境を作る。
これは根本的にホタルの保護にはなっていないと思う。
一人ひとりが自然や環境のことをより理解し、本当にホタルが住めるようになれば、と思う。
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